自営業の方必読!ピースボートのポスターを貼る6つのメリットと3つのデメリット

自営業をしている人の中には、ピースボートのボランティアがポスターを貼らせてほしいと頼みに来た、という経験を持つ方も多いのではないだろうか。貼らせてあげた方がいいのか。でも、お店に特にメリットないし。そこで今回は、ピースボートのポスターを貼ることのメリットとデメリットを紹介したい。


ピースボートのポスターを貼る6つのメリット

出典:「素材三昧」 URL:http://sozaizanmai.com/

まず最初に、「マレビト信仰」という風習の話をしたい。

古来より日本には「マレビト信仰」という風習がある。よその土地からやってきた神様が、イエやムラに福をもたらす、という考え方だ。そのため、どこのイエでも、よそから来たカミサマを手厚くもてなした。

もてなしたのはカミサマだけではない。旅人もそうだ。

四国には「善根宿」というものがあった。お遍路さんを無料で家に泊め、手厚くもてなすことにより、自分もお遍路さんととな寺ご利益が得られると信じられていたのだ。

なにも「今すぐお金を落とす人」だけが客ではない。今はポスターとチラシしか置いていかなくても、巡り巡って福をもたらすこともあるのだ。

メリット① 新たな出会いがある

ピースボートのボランティアスタッフ(通称:ボラスタ)たちは、だいたい3か月に1回ぐらいのペースで、再び同じ町を訪れる。前回と同じボラスタが来ることもあるし、前回と違うボラスタが来ることもある。だけど、お店側の視点で見れば、3か月に1回のペースで誰かしらピースボートのボラスタがやってくる。

ポスターを貼るのを断っても、ボラスタは毎回店を訪ねるだろう。怒鳴って追い返せば二度と来ないはずだ。ただ、「純粋な客」としてもピースボート関係者が訪れることは二度となくなる。「あの店に行ったら理不尽に怒られた」という話は後世まで残る。ポスターを貼らせられないのなら、やんわりとお断りして、次は客としてきてもらうようにしよう。丁寧に断られれば、ボラスタ側もすがすがしく店を後にすることができ、次は客として訪れることもある。

むしろこれは、「昼日中から仕事もしないで、ただでポスター貼って、『地球一周』という夢を叶えようとしている奇特な人たち」と出会う絶好のチャンスである。彼らはそんなに急いでいないので(急いでる時もあるけど)、話しかけてみれば、彼らの夢の話、先に船に乗った彼らの仲間の話、彼らのそれまでの人生の話など、いろいろと面白い話を聞かせてくれるはずだ。

メリット② 常連客が増える

ピースボートに携わる者は、ポスターを貼ってある店と貼ってない店が並んでいた場合、まず間違いなく貼ってある方に入る。これは船を降りてピースボートに携わらなくなってからも続く。ポスターが貼ってあると、無条件にうれしくなるものだ。

また、ボラスタがその町を訪れるのが2回目だった場合、前にポスターを貼ったお店で食事をとることもある。食事ついでにポスターの張り替えもできるわけだが、前回、その店でポスターを貼った時の「あの店、おいしそうだったなぁ」という記憶に基づくことの方が大きい。

船を降りた後で、ポスターを貼ったお店に友達と食事に行った、なんて話も聞く。

大宮に「楽釜製麺所といううどん屋がある。

大宮ボラセンのメンバーで言ったところ、値段が安く味も良い。

さらに、目立つ場所にポスターが貼ってあったのだ。

それ以来、僕らはことあるごとに楽釜製麺所に足しげく通った。「安くて、うまくて、ポスターが貼れる」と評判の店だったのだ。船に乗っていた時、唯一食べたくなった日本食が「楽釜製麺所」のうどんだった。

「純粋な客として訪れる」というのは、ボラスタにできる唯一の恩返しであり、財布に余裕がある限り、その恩返しを続けていきたくなるものだ。

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楽釜製麺所の釜玉うどん。これに、揚げ玉をたっぷりかけるのがお気に入り。くぅ、たまらん!

メリット③ 勝手に宣伝してくれる

さらに、気前よくポスターを貼らせてくれたなど、印象に残る店はボラスタが勝手に宣伝までしてくれる。

例えば、「一代元」というラーメン屋がある。埼玉県を中心に展開しているラーメン屋だ。

もともと個々のラーメンが大好きで、足しげく通っていたのだが、

なんとこの店、ポスターにも寛大。今まで、5店舗を訪れて、貼ったポスターは11枚。なんと、一度も断られたことがない。

以来、僕はあちこちで一代元を宣伝して回っている。こんな風に。めちゃくちゃうまいうえにポスターも貼れるのだ。あ~、書いてたらまた行きたくなってきた。

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一代元の韓国ラーメン。くぅ、たまらん!

メリット④ お客さんとの会話も増える

お店にピースボートのポスターを貼っておくと、たまにお客さんがポスターのことを聞いてくるらしい。

もちろん、お店の人に詳しい説明などできるはずもない。

だが、ポスターにはチラシが張り付けてあったり、URLや電話番号が書いてある。説明する代わりに、チラシを渡したり、連絡先を教えればいい。

ついでに、ポスターを貼りに来たおかしな若者たちの話でもしてみるといいだろう。お客さんとの会話が増えるはずだ。

メリット⑤ インテリアとして使える

以前、とあるエジプト料理屋さんに貼った時、こんなことを言われた。

「これ、前はピラミッドの写真とかありましたよね?」

「あ~、ありましたよね。僕も、そのバージョン見たことありますよ」

「ね~。ピラミッドが写ってたら、もっとよかったんだけどねぇ」

とまあこんな感じで、お店によってはポスターの写真が店の雰囲気を高める場合もある。3か月ぐらいしたら、全然違うデザインのに変わってしまうのだが。

メリット⑥ 夢への投資

ポスター1枚貼ることで、そのボラスタに約300円寄付した計算になる。もちろん、お店側は1円もお金を払わない。本来、ピースボートがボラスタに請求するはずだった乗船費用が、300円マイナスになる、というシステムである。

こちらは1円も損しない募金と言えば分りやすいだろうか。

募金の場合「金の使い道」というのがよく問われる。日本はNGOやNPOへの警戒心が強いので、募金の透明化はどこの団体にも求められている。

だが、このシステムは純粋に「ボラスタの乗船費用の割引」にしかならない。他の使い道はありえない。なぜなら、ポスターをお店に貼ったところで、ピースボート側には1円もお金が入ってこないからだ。むしろ、ポスターの印刷代がかかっている分、赤字である。

募金とは、身もふたもない言い方をすれば、わずかなお金で「今日はいいことをした」というすがすがしい気持ちを買う行為である。そういう意味では、ポスターは最良の募金だと思う。

ピースボートのポスターを貼る3つのデメリット

ここまではポスターを貼るメリットについて書いてきた。過去にポスターを3000枚貼ってきた者としては、ポスターが貼れる店が一つでも増えてほしいのだが、デメリットを書かないのはアンフェアだ。ここから先は、ポスターを貼ることのデメリットを書こうと思う。

デメリット① ズバリ、邪魔

ポスターを貼ることの最大のデメリット。それはずばり、邪魔だということだろう。

縦は約50㎝、横は約40㎝。結構な大きさである。これが50枚、60枚となると結構な重さで、もって歩くのもなかなかに大変だ。

お店によっては、自分たちの店や商品に関するポスターを貼らなければいけない場合もある。そういう場合、このサイズのポスターは純粋に邪魔である。これが、ポスターをお店にはることの最大のデメリットだろう。

デメリット② 他のポスターも貼らなければいけなくなる

たまに、このような理由でポスターを断られることがある。もっともな意見だ。

街に出てお店を回り、ポスターを貼ってもらえるよう交渉しているのは、ピースボートだけではない。探偵事務所だったり、ペット美容室だったり、さまざまな企業が「ポスターを店に貼る」という宣伝方法をとっている。また、地元の学校の文化祭のポスターや、選挙ポスターなどもある。ピースボートに限らず、ポスターという宣伝の仕方はやはりバカにできないのだろう。

1回こういうのを許してしまうと、他のポスターも断れなくなってしまう。「なんでピースボートはよくて、うちはダメなんだ?」といった具合に。人が良いのか、いろんなポスターに埋め尽くされたお店を何度も見たことがある。

「ポスターを貼ったことにより店の外観を損ねた」のか、「ポスターを貼ったら殺風景なガラス窓がカラフルになった」のか、受け取り方はその人次第だろう。

デメリット③ 店の雰囲気に合わない

ポスターが店の雰囲気に合う場合があれば、もちろん、雰囲気に合わない場合もある。蕎麦屋やすし屋など、和風なお店がそれである。

こういう店ではあまり貼らせてもらえない。理由はやはり「店の雰囲気に合わない」ことだろう。

「地球一周の船旅」である以上、写ってる写真はヨーロッパの街並みやピラミッドやモアイ像が多い。やはり、和風なお店には合わないようだ。

以前、僕が貼っていたポスターにはでかでかと、サンバを踊るブラジル人美女の写真が載っていた。

これが和風な店での成功率がすこぶる悪い。もっとも、僕も店に入る前から「あきらかに店の景観と会わないけど、念のために行ってみるか」という感じだったので、断られても「ですよねー。お時間とらせました~」といった感じで大してダメージを受けることはなかった。

ピースボートのポスターってどこに貼ればいいの?

さて、いざポスターを貼るとなって、一体どこに貼ればいいのか。

実は、決して店の目立つところに貼らなければいけない、というわけではない。貼らせていただけるのであれば、どこだろうとありがたい。

例えば、物がごちゃごちゃ置いてあって、そこに貼っても全体の4分の1しま見えないような場合。

問題ない。4分の1も見えていれば、十分だ。

人目に付くのであればトイレでも構わない。お店側は「そんなトイレなんかに貼っちゃって悪い」と遠慮することがあるのだが、トイレのポスターから地球一周の扉をたたいた人は結構多い。

さらに言えば、別に客の目に触れなくてもいい。ポスターを見る人はお店の従業員でも構わないのだ。つまり、店のバックヤードの殺風景な場所でも構わない。

あるお店なんか、壁に穴が開いちゃた所にポスターを貼っていた。だから、逆にポスターをはがせないのだとか。そんな使い方で全然かまわないない。

ポスターを途中で剥がしたくなった時はどうすればいいの?

一度ピースボートのポスターを貼ったが、お店の都合で別のポスターを貼らなければいけないなど、ポスターをはがさなければならない場面もあるだろう。そんな時はどうすればいいのか。ピースボートに連絡すればいいのか。

連絡する必要はない。

お店に貼った時点で、もう、ポスターは店の所有物だ。お店の判断で自由にはがして、捨ててしまってかまわない。

「一週間たったらはがす」という条件のもと貼った店もいくつもある。そういう店でもやはり人がいいのか、半年ぐらい貼っていてくれた場合もあったが。

はがすときは、ちょっと引っ張れば簡単にはがせる。ガラスにテープがついてしまうこともあるが、爪でひっかけば簡単に取れる。

まとめ ピースボートのポスターは貼った方がいいの?

貼ることのメリットは簡単に言えば「善意の輪が広がる」という点だろう。それが客を増やすことにつながることもある。

一方、やはりデメリットは「景観を損ねる」ことだろう。

善意をとるか、景観をとるか。

僕は、ひいき目なしに、商売上手な店というのは、こういう場面で「善意」を選べる店だと思う。根拠は、1万以上の店をポスター背負って回った経験でしかないのだが。

ピースボートのボラスタがどんな生活をしてるかはこちらの記事で!

ピースボートのボランティアスタッフになったらこんな毎日だった

経験者にしか実態はわからない!ピースボートのポスター貼り喜怒哀楽!

「ピースボートでポスター貼ってた」というと大半が「すごい」と言ってくれる。だが、その実態は、あなたの想像よりはるかに面白く、はるかに大変だ。ピースボートの乗船を目指す者たちは、いったいどんな思いでポスターを貼っているのだろうか。ネットには様々な風評が渦巻いているが、こればっかりは、経験者でないと語れない。


ピースボートのポスター貼り「楽」

まず最初に、「ラクな話」ではなく「楽しい話」である。

ラクなはずがない。

だが、ポスター貼りは楽しい。

まず、いろんな町に行けるという楽しみがある。

これまで行った中で最も都会だったのは、聖地・秋葉原だろう。あんまり枚数は稼げなかったが。

一方、一番田舎だったのは東武東上線で行った寄居町だろう。季節は春先だったと思う。緑のトンネルの中を電車が駆け抜けていく様は、ピクニック気分にさせる。町並みも古く、人柄もよく、ポスターもよく貼れた。

埼玉は街道沿いの街が多く、川越をはじめ意外と古い町並みが残っているので、そういうのが好きな人には、結構たまらない。

そしてお楽しみはポスター貼りが終わった後にもある。仲間たちと食卓を囲み、地球一周の夢を語り合う。

たまに勢い余ってカラオケに行ったり。休日にみんなでどこかへ遊びに行ったり。世代やそれまでのバックボーンを越えた交流が何よりも楽しい。

ピースボートの魅力の一つは、旅の前から仲間たちとともに楽しいひと時を過ごせる、というところでもあるだろう。もちろん、その絆は旅の後にも続いていく。

また、自分の頑張りが数字という形でわかりやすく表れるのもまた楽しい。

とまあ、これだけ「ピースボート楽しいよ」って話をしとけば、これからさきの話にも耐えられるだろう。ついてこれるかな、フッフッフ。

ピースボートのポスター貼り「哀」

ポスター貼り経験者は口をそろえてこういうだろう。「あのころは楽しかった」と。

また、口をそろえてこうも言うはずだ。「よくあんなことやってたよね」と。

ポスター貼りは決してラクではなく、とにかく、体はきつく、心は折れる。

最大の敵は何といっても天気だ。

まず、冬。

冬に関しては埼玉は、雪が降らないだけましだろう。

しかし、冷たいからっ風が吹く。これがかなり体力を削り取る。まるで、体の芯から熱を奪っていかれたかのようだ。

さらに、屋外でポスターを貼るときは、風にあおられてポスターが飛ばされる、なんてことも。東京のど真ん中で風に飛ばされたポスターを追っかけたこともある。

冬が過ぎて春がやってくると、つかの間の春が訪れる。春はいい。気候は暖かく、花は咲き乱れ、絶好のお弁当日和だ。

それが過ぎると、梅雨がやってくる。雨もまたきつい。

雨は体力を奪うだけでなく、雨に濡れた壁はポスターが貼りずらい。

雨の中、整備工場のトタンの塀にポスターを貼ろうとしたことがある。普段なら10秒もあれば終わるのだが、濡れた壁に両面テープがくっつかず、しこたま時間がかかった(それでも貼るのを断念したことは一度もない)。

そして、梅雨が明けたら夏が来る。埼玉の夏は、暑すぎて太陽から人類への殺意を感じるほどである。こまめな水分補給が欠かせない。

汗をかき、さらに暑さのあまり汗が渇く。すると、皮膚に乾いてできた塩がざらざらとついているのだ。

僕は夏の時期はバンダナをしてポスターを貼っていた。公衆トイレなどでこのバンダナを濡らして暑さをしのいでいた。

今までで一番きつかったのは、埼玉大学近辺で貼った時だろう。

雨と風が同時に来たのだ。

かなりのどしゃ降りだったのだが、傘をさすと強風で煽られて歩けない。結局、ぼくは傘をさすのを諦め、濡れながら歩いた。

さらに、それから3か月後、再びこの場所にポスターを貼りに行ったところ、まったく同じ天候だった。この時僕は、神様っているのかも、と思った。もちろん、悪い意味で。

そして、つらいのは天気だけではない。

ポスター貼りは、毎日何百というお店を尋ねる。

これは、断られる確率の方がはるかに高い。当然だ。見知らぬやつがいきなり店に来て、営業中にもかかわらず(営業中じゃないと入れないんだけど)ポスターを貼らせてくださいと頼むのだから。貼らせない方が普通だろう。

10軒以上断られ続けると、心が折れることもしばしばだ。

体力い的な意味では悪天候がきついが、精神的な意味では断られるというのがきつい。

それでも、ほとんどがやんわりとお断りをしてくれるので、心は折れるが傷つきはしない。

ピースボートのポスター貼り「怒」

しかし、中には、腹が立つとき、心が傷つくときもある。そんな時は自分にこう言い聞かせる。

「ケンカしたら負けだ」

ボランティアスタッフとはいえ、ポスター貼りの現場ではピースボートの代表である。自分の評判がそのままピースボートの評判へと変わる。

もし、自分がトラブルを起こしてしまったら、自分だけではなく、仲間や、自分より後に船に乗る者たちに迷惑をかけてしまう。

誰かの選択肢を奪うような真似だけは、絶対にしてはいけない。

ピースボートのポスター貼り「喜」

体力を削り、心折れて傷つき、そうまでしてポスターを貼るのはなぜなんだろう。

もちろん、夢のため、お金のためだ。

だが、決してそれだけでもない。

実は、腹が立つ場面なんて数か月に1回あるかないかで、それ以上にはるかに協力的な人の方が多いのだ。

そんな優しい人たちに出会えるから、僕らはポスター貼りを続けられる。

「若いうちに世界を見た方がいい」と言っていた自転車屋のおじさん。

「私はあんたたちのことを応援してるんだよ」と言ってくれた居酒屋のおばちゃん。

「孫に乗ってほしい」と言って貼らせてくれた美容院のおばさん。

暑いさなか道を歩いていて、ふと目があった瞬間に「兄ちゃん、休んでけ!」といった雑貨屋のおじさん。

快く3枚も貼らせてくれただけでなく、他の店に入ろうとしたら通りの向こう側から大声出して、「兄ちゃん、その店はだめだぁ! 隣の店いきな!」と言ってくれた八百屋のおばちゃん。

かつて船に乗っていたらしく、「いくらでも貼っていきなよ」と言ってくれた美容師さん。

「ピースボートだから貼らせるんだよ」と言ってくれたお花屋さん。

「貼らせてあげられないのが申し訳ない」と言っておやつをくれたラーメン屋さん。

夏の暑いさなか、コーラをごちそうしてくれたスナック。

決して、忘れるものか。

ポスター貼りをやって気づいたのが、

なんだかんだ、日本人は優しい、ということだ。

ピースボートのボランティアで出会った、心の温かい日本人たち

僕らはそんな人たちの善意におんぶにだっこで旅をする。優しい人の力で旅に出るわけだ。

たまに、よく知らずに上辺だけの知識で「ピースボートは反日だ」という人がいるが、冷静に考えてほしい。

日本が嫌いな人間に、日本の街で頭を下げてポスターを貼り続ける、なんて芸当ができるわけがない。

僕たちは、この国に住む人々の優しさを肌で知っている。ネットのうわさなど、単なる0と1のデジタル信号でしかない。『世界』は、自分の目で見たものしか、自分の肌で感じた者しか、存在しないのだ。

だから、僕の言いたいことはただ一つ。

こんなブログなんて信じないで、自分の目で、自分の肌で、世界を、日本を確かめてくれ。

寄せ鍋の夜、銃口の朝~ピースボート乗船から1年~

2016年12月10日。かつて、「ボランティアセンターおおみや」(通称「大宮ボラセン」)というピースボートの事務所でポスターを共に貼った仲間たちが再び集まった。あのころ、ピースボートの船旅に夢を見た仲間たちは、いつのまにかみな地球一周を終えていた。再び集まった仲間たち。でも、帰るべきボラセンは、もう、ない。


メロウ

十日市は大宮最大にして伝統のある祭りだ。ちなみに、「十日市」と書いて「とおかまち」と読む。

この祭りに再び集まろう、そういう話が出たのは2か月ほど前だった。

今から2年前、僕はピースボートの事務所の一つである大宮ボラセンのドアを叩き、ピースボートのボランティアスタッフとして、ポスター貼りを始めた。

「ピースボート地球一周の船旅」との出会い

ポスターを貼るときは一人だ。夜空に浮かぶ月を見て、エレカシの歌を歌いながら、重たいリュックを背負って歩いていた。

でも、ボラセンに帰れば、いつも仲間がいた。同じ釜の飯を食べながら、「地球一周」という夢を語り合う仲間が。年齢もばらばら、歩いてきた畑も違う。場所柄、埼玉出身の人が多いんだけど、東京から通っている子や、東北から来てシェアハウスに住んでるやつもいた。

僕らの共通項は2つだけだった。その一つが、「地球一周に夢を見た」。

そして、もうひとつが、「みんな、何かしらの闇を抱えていた」。

僕らはこの闇を「メロウ」と呼んでいた。仕事のこと、恋愛のこと、学校のこと、人生への言いようのない閉塞感。消えてしまいたいほどの絶望感。

みんな何かしら一ネタ持っていて(スタッフを含め)、みんなでそのメロウを分け合っていた。

僕たちは、ここではないどこかに行きたかった。見たことない世界が見たかった。ここがすべてじゃないんだって証明したかった。

きっと、僕らを海へ駆り立てた理由というのはそういうことなんだと思う。

大宮ボラセンはセンターとしての規模はかなり小さく、マンションのワンルームを借りて運営されていた。ボランティアスタッフ(通称「ボラスタ」)の数もよそのセンターと比べると少ない分、お互いの距離が近かった。

だからなのか、大宮ボラセンはよそからよく、「仲がいい」「アットホーム」と言われていた。

ボラスタ経験者はみな、自分の育ったセンターこそが一番だと思っていると思う。それでいいと思うし、僕も大宮が一番だと胸を張って言える。

そして、去年の10月、大宮ボラセンは4年半の歴史に幕を下ろした。

今宵の月のように

夕方五時。といっても、もうすっかり暗くなっている。最初に大宮駅に集まったのは、僕を含めて4人だった。僕以外はみんな女の子。皆、半年近くあっていなかった。でも、すっかり冷え込んだ12月の空気だけど、あって少ししゃべれば、半年の時間の隔たりなんてとけていった。

後からみんなちらほら来るとのことで、先に氷川神社へ行くことに。あの頃歩いた大宮の街を神社に向けて進んでいく。

一歩一歩、そこにある思い出をかみしめながら。

10分ほどあれば氷川神社にたどり着く。関東地方にいっぱいある氷川神社の総本山。2kmある参道は空から見れば街中に伸びる一本の緑の線に見える。

といっても、2kmも歩くわけはなくて、神社から500m位のところから僕たちは入った。

紅の鳥居をくぐると、普段は緑に囲まれた賛同も今日ばかりは屋台が並び、冬空の下でお月様のように明るい。その中を流れる川のように多くの人が行きかっている。

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十日市の様子

僕たちはステーキ串を買って4人で分け合った。正確に言うと、恵んでもらったんだけど。

途中で大宮のスタッフだった人と合流し、5人で最後の鳥居をくぐり、神社の境内へと入っていく。

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氷川神社の鳥居
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本殿の入り口

いつもだったら開けた砂利の境内も、右も左も上も熊手で囲まれている。そこを抜けて本堂でお参りを済ませ、屋台で味を楽しみながら待っていると、一人、また一人とやってきて、いつのまにか8人に膨れ上がった。

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熊手を売っているところ。
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高い熊手を買うと、三本締めの声が響き渡る。

この時になると、もうすっかりあのころの空気だ。十日市の雰囲気を楽しみつつも、僕らはエレカシのあの歌みたいな、あのころの雰囲気を懐かしむように味わっていた。

「俺たちが集まれば、そこがボラセンだから」

集まれれば、別に十日市でも、クリスマスでも、初詣でも、何でもいいのだ。旅はどこに行くかではなく誰と行くか。ピースボートに乗る人が口をそろえて言う言葉だ。

僕が88回クルーズに乗ることを決めたのは、大宮の仲間がたくさん乗るからだった。だから、地球をぐるっと回ってさえくれれば、行先はどこでもよかったんだ。

人間交差点

夜8時。僕らは大宮から電車に乗って蕨という町に向かった。仲間が働いているホテルで、みんなで鍋パーティ&お泊り会をするのだ。

電車に乗ると、みんなで八景島や秩父に行ったことを思い出した。あのころは、月に1回みんなでどこかへ出かけていた。

電車に乗って15分くらいで蕨駅に着く。日本一小さい市として知られる蕨の駅前は、大きな建物がいっぱい建っている。いつだったか、ここから15分近く歩いてポスターを貼りに行ったっけ。

みんなで駅前のスーパーで買い出しをする。「一番好き嫌いがなさそう」という理由で、鍋のスープは寄せ鍋に決まった。みんなで割って620円。

スーパーを出て8分歩くと、今日の宴のお宿に着く。町中のマンションを改装したと思われるお宿を2部屋借りた。一部屋12000円なのだが、みんなで割って3000円。締めて3620円。

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ホテルのパンフレット

居酒屋で飲むのと同じような値段だ。でも、これでお泊りがつくうえ、プライベートが確保できる。

鍋パは女子部屋で行われることに。部屋の間取りといい、なんだか大宮ボラセンに似ていた。

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ホテルの部屋。大宮ボラセンもこのような感じの部屋だった。こんなオシャレじゃないが。

「本当にいい場所を選んだねー」などと言いあう。

ホテルといっても部屋の中にキッチンも洗濯機もある。お鍋の準備をしたり、足りない食器やいすを男子部屋からとってきたり。

段取りができない僕は、ブログ用に写真を撮るばかり。そういえば「ADHDの段取り」みたいな本があったが、そろそろ本気で読まないといけないのかもしれない。

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鍋の準備をしているところ

9時過ぎになって、船を降りてピースボートスタッフになった仲間が仕事を終えてやってきた。これで予定していた仲間は全員来た。大宮恒例の「海賊乾杯」をする。

「野郎どもー!! 船が出るぞー!!」

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大宮の仲間で東京ONE PIECEタワーへ行ったこともある

といっても、近所迷惑を考えてささやき声である。

鍋を囲みながら、各自の近況が報告される。

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ピザと鍋がターンテーブルとミキサーのように並んでいる
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寄せ鍋。締めはおうどん。

新たな仕事を始めたやつ。

仕事を辞め、旅に出ることを決めた人。

新天地へ向かうことになったやつ。

人生の大きな決断を下した子。

別々の場所からこの大宮に来て、船に乗って、また別々の場所に旅立っていく。まさに人間交差点。

そして、夢の入り口に立った子がいる。ここから少し、その子の話をしたい。

「空は青く澄み渡り、海を目指して歩く」(「RPG」より)

その子は僕より7個年下の女の子だ。

小柄で幼く見え、明るく人懐っこい子だけど、その笑顔の裏には、中学のころ、周りになじむことができず不登校だったという過去を抱えている。

大学へ進学するも、そこでも周囲に、特に同世代の学生たちに溶け込むことができなかった。

近所の人に大学に通っていると告げると、「今が一番楽しい時でしょう」と言われた。

それが、つらかった。

ずっと「普通になりたい」と願っていた。

そんな彼女も地球一周にロマンを感じ、大宮ボラセンに通い、埼玉でポスターを貼るようになった。

そこで、彼女は初めて心を許せる仲間に出会えた。表面上の馴れ合いではなく、それぞれがメロウを抱えた仲間たち。

僕は、彼女のちょっと後輩にあたる。一緒にポスターを貼りに行ったり、大阪の キャンプに参加したり、ずいぶん同じ時間を一緒に過ごした。

僕とその子は同じ船に乗った。船に乗って1週間ほどたったフィリピンでの港の夜、そのこともう一人、当時18歳だった大宮の仲間の男の子に、話があると僕は呼び出された。

その話は、二人が参加している「グローバルスクール」という船内のプログラムに参加しないか、というものだった。

グローバルスクール、通称GSについてはまた日を改めるが、簡単に言えば引きこもりや不登校経験者、今もそのさなかにいる人たちを支援するプログラムだ。実は、僕も船に乗る前に母に参加を促されたが、引きこもりでも不登校でもなかったので参加しなかった。

もちろん、僕は二人にそのことを告げた。どっちの経験もないのに入っていいの?と。

それに対して二人は、決してそういう経験がなければ入れないわけではない、ノックみたいな人がいっぱいいるから入ろうよ、と答えた。

引きこもりは決して僕とは無縁の存在ではない。引きこもりと社会人の境目みたいなところを歩いてきたという自覚があった。

何より、二人のことを信頼していた。

自己評価よりも、二人の意見を信用することにした。

そうして、僕はGSの15人目のメンバーになった。

その時、GS担当のスタッフから聞かされたのが、二人のうち特に女の子の方が僕の加入をプッシュしていたらしい、とのことだった。

「ノックが入ればノックとGS両方に効果があると思う」と言っていたのだとか。

二人が誘ってくれたおかげで、かけがえのない友達が増え、かけがえのない日々が送れた。感謝しても感謝しきれない。

さて、そんな彼女であるが、船の中で大きな変化が見られた。そのきっかけはシンガポールだったと思う。

日本軍によるシンガポール占領の歴史を学ぶ「昭南島ツアー」に僕も彼女も参加していた。

そこで、彼女は血みどろの歴史にショックを受けていた。感受性が豊かなんだ。

その後、昭南島ツアーの報告会の準備をみんなで進めていた。

彼女は発表者の一人だったが、本番前に50人ほどの聴衆を前にガチガチになっていたのを覚えている。

この後あたりから、彼女は今まで関心がなかった「平和」を中心とした国際問題に興味を覚えるようになっていった。アウシュビッツに関する本を借りて読んだり、国際問題に関する企画に積極的に参加していったり。

彼女が今の大学になじめずに悩んでいることを知っている僕は、「やりたいことが見つかったのなら、今の大学なんてやめてそっちに行けばいいのに」と思っていた。

しかし、僕に学校を辞めた経験はない。相談されてもいないのに無責任なことなど言えない。

やがて、彼女は人気のアウシュビッツ見学ツアーの空きを確保し、1週間ほど船を離れ、ポーランドへと向かった。

アウシュビッツで何を見たのか、何を学んだのか、詳しくは知らない。もちろん、アウシュビッツでの話は聞いたが、わかったことは2つ、「現地へ行かないと何もわからない」と、「アウシュビッツに行ったことが彼女に大きな影響を及ぼした」ということ。

帰ってきた彼女は、GSのみんなの前で堂々と宣言した。

「生まれて初めて、夢ができました!」

今の大学を辞めて、平和について学べる大学、学部に入り直す。それが彼女の決断だった。

彼女が自分の意志で答えを出したことで、僕もようやく、ずっと思っていた「大学を辞めて、入り直した方がいいのではないか」という思いを伝えることができた。

でも、日本にいる両親に彼女がその意志を伝えると、両親はとても驚き、帰ったら一回話し合おうと返事をした。

そのことには僕も驚いたが、よくよく考えれば、両親は彼女の船での変化を知らないのだ。当然と言えば当然の反応だった。

それと同時に、家族ですら見ていない彼女の変化を、一人の人間が人生の大きな転機を迎えるのを、こんなにも間近で見させてもらえたことを光栄に思った。普通は学校の先生などの仕事をしないとこんな経験はさせてもらえないと思う。

以前、大宮のスタッフが、「仕事が大変でも、人が変わっていく過程を特等席で見させてもらえる。こんなに楽しい仕事はない」と語っていた。その気持ちが、少しわかった気がした。

それから、彼女は、寄港地の度にスマートフォンで大学を調べたりと、生まれて初めてできた夢に向けてわくわくが止まらない感じだった。船の中でも企画に参加するだけでなく、自ら積極的に企画運営にかかわるようになっていった。

シンガポールの発表会でガチガチに震えていた時の姿は、もうどこにもなかった。

彼女は船を降りて家族と話し合った結果、もう一年今の大学に3年生として通った後、別の大学に2年生として編入することに決めた。

そして、8か月間、彼女は受験勉強をした。

頑張ることに関しては何の心配もしていなかった。むしろ、頑張りすぎてやしないかと心配するくらいだ。

編入試験は一般入試よりも早く終わるため、勉強期間は短い。さらに、一次試験を40人が受けて二次試験に進めるのはたったの4人、その後には教授の面接が待ち受けているという難関だ。

そして迎えた12月10日。彼女の口から、本命の大学への編入が決まったことが告げられた。4月からは親元を離れ、寮生活も始めるそうだ。

もっとも、合格発表の日のLINEが既にうきうきしていたことから、うまくいったんだろうなとなんとなくわかっていたのだが。

約8か月ぶりにあった彼女は、嬉しそうに社会学について語っていた。彼女がかつて不登校だった経験を踏まえて、「不登校が個人にとってリスクになりかねない社会」というものを突き詰めて行きたいと考えていた。

「平和」と聞くと、ついついどこか遠い異国の戦場や、空爆されている市民を思い浮かべる。

だが、憲法9条があるはずのこの日本も実は平和とは言い切れない。今日もどこかで誰かが、閉塞感にあえぎ生きづらさを感じている。

彼女にとっての平和とは、誰しも平等に制度や社会構造の救いの手が差し伸べられること。決して、爆撃機飛び交う砂の街だけが戦場ではない。70年も平和なはずのこの国でも、子供がたった一人で見えないなにかと戦い、爆撃を受けた廃墟のように心が崩れていく。PKOのような応援部隊など誰も来ない。

そういう意味では、戦場で母をなくして泣き叫ぶ子供も、学校に行けず一人部屋にこもって時間をつぶす子供も、彼女にとっては何も違わない。

社会学を学ぶことで、この国を追う「見えない戦争」「かりそめの平和」に光りがさせるのではないか。今、社会学が彼女の希望だ。

彼女がレアケースとは思わない。船に乗って人生を変える大きな出会いがある人を、僕はほかにもたくさん見てきた。

それでも、彼女は僕ら大宮ボラセンの、自慢の妹だ。

わかもののすべて

夜は更ける。

あの頃毎日聞いていた声が隣で響いている。

あの頃毎日見ていた顔に囲まれている。

誰かの話に腹がよじれるほど笑う。

部屋の雰囲気がボラセンに似ていたのもあってか「俺らが集まればそこがボラセン」なのだと実感させられる夜だった。

全員が泊まるわけではなく、明日も仕事だと3人ほどが帰って行った。

が、そのうち一人から電話が。どうやら、道に迷って終電を逃したみたい。

結局、男子3人、女子4人が残った。

船を降りてからこれまでのことを語り合う。本当にあのころに戻ったようだった。

夜もさらにふけ、僕らは男子部屋へと戻って寝ることにした。

時刻は深夜2時。思うと、5時に集合してからここまでびっくりするほど長かった。

「これがずっと続いたらねぇ」

「でも、あのころはこれがずっと続いていたんだなぁ」

本当にあのころに戻ったみたいだ。

でも、本当はもう、あのころには戻れない。淋しいが、わかっている。みんなもう、それぞれの道を歩き出しているのだ。

そして、一人思う。

僕は果たして、歩き出しているのか? この1年、同じところに留まり続けていただけではないのか?

だって、僕には「おめでとう」とか「頑張ってね」って言ってもらえるような報告が何一つない。

 「また会う日までそれぞれの道で」(「琥珀色に染まるこの街は」より)

朝を迎え、9時に女子部屋へと向かいみんなで朝ご飯を食べる。ドラゴンボールはなぜか野球に興じ、ONE PIECEは12ページを30分かけてやっていた。

ホテルから駅へと向かう帰り道、冷たい冬の空気をかき分けながら、「よくこんな寒空の下、みんなポスター貼ってたな」と笑いあう。それぞれがそれぞれの道へと向かい、次に会えるのはいつなんだろう、そんな話をする。

「みんな、埼玉から旅立っちゃうんだねぇ」

やっぱり、僕らの本質は旅人なんだ。ひとところにはとどまらない。つくづくそんなことを考えさせられる。あのころ、埼玉に集った仲間たちの多くは埼玉で暮らしていた。でも、大宮ボラセンが閉鎖して1年。シェアハウスは2か月ぐらい前に閉鎖した。

そして、みんな埼玉から旅立っていく。

でも、僕は埼玉に残る。

新天地へ行く予定もなければ、そもそも引っ越すお金も、部屋を借りるお金もない。

だが、僕の仲間は、お前の感じてる劣等感なんて気のせいだとでも言いたげに笑った。

「ノックは埼玉を守ってよ」

ハシリツヅケル

最寄駅までは電車で10分もかからない。電車を降りて一人になった僕は、どこかもやもやした気持ちと、どこかすがすがしい気持ちを両方抱えて、駅前のスクランブル交差点で信号を待つ。

みんなと久しぶりにあって思ったこと。みんな、前に進んでいる。自分の道を歩き出している。

僕も歩いているつもりでいたが、僕の歩みはどうも遅い。

どうやら、僕は人よりだいぶ不器用らしい。

多くの人はいくつか武器を持っていて、状況に応じて使い分ける。

 

でも僕は、相手が空を飛ぼうが守りに入ろうが、何人いようが愚直に剣を振り回すだけ。相性の良し悪しは関係ない。剣しか持っていないんだから。

思えば、船に乗っている時からそんな生き方だった。立ち止まってうまく立ち回った方がいいんじゃないかと思ったこともあったが、思ったところで立ち回れない。

自分ができること、やりたいことをやるしかなかったし、うまく立ち回っている自分を好きになってもらったところで、たぶん長続きしない。

だから、走りつづけることしかできなかったけど、そうやって数えきれないほどの人と出会えた。

突っ走ったんじゃない。突っ走ることしかできなかった。

地球一周を選んだんじゃない。地球一周しか行くところがなかった。

フリーライターを選んだんじゃない。フリーライターしかできるバイトがなかった。

人一倍、不器用なのだ。臆病でプライドが高くて、かまってちゃんなのだ。

だから、相手が鎧を着ていようが、戦車に乗っていようが、要塞に立てこもっていようが、斬れるまで刀を振り回す。それしか僕にはできない。

人よりは時間がかかるだろうが、それしかできないならそうするしかない。そうやって走りつづければ、ちょっとした奇跡がその先で待っているかもしれない。

だから、僕は僕なりに一歩一歩歩くしかない。僕がほかの誰の真似もできないように、誰も僕の真似はできないはずだ。

そんなポジティブな僕を背後から、ネガティブな僕が銃を突き付け、あざけるように笑う。

「お前さ、おれのこと忘れてない? 人一倍ねたみやすく、人付き合いが苦手で、消えてしまいたい願望を抱えてる俺のことを。船に乗って地球一周してさ、ちょっと成長した気になって、俺のことなんか忘れてんだろ? でも、逃げらんねぇよ。俺はお前だから。俺のことを忘れたら、俺はお前を撃ち殺すよ」

僕は彼の銃口を握り返す。

お前のことを忘れるもんか。この先、どこへ行こうとも、お前と一緒だ。お前は俺だ。

「はっ、どうだか。忘れるなよ。俺はいつでもお前を見てる。お前がこの先どんな幸せを手にしようとも、どんな称賛を浴びようとも、ずっと俺はお前に狙いを定めてる」

信号が変わる。僕は、「僕ら」は、一歩一歩、自分のペースで歩き出した。このまま歩き続ければ、いつかまた「約束のあの場所」でみんなに会えると信じて。

 

この記事を、仲間であり、同志であり、友人であり、家族であり、兄弟であり、帰るべき場所である大宮ボラセンに捧げる。

ピースボートのボランティアスタッフになったらこんな毎日だった

ピースボート地球一周の船旅の特徴。その一つがボランティア割引制度だろう。僕はこの割引をためるボランティアスタッフ(通称「ボラスタ」)として8か月活動した。外からはなかなか見えてこないであろう、ピースボートのボラスタがどんな毎日を送っているのか、どんな思いでポスターを貼っているのかを書いていこう。


ピースボートのボランティア割引制度とは?

「ボランティア」といっても、ゴミ拾いなどをしているわけではない。

感覚としては、アルバイトに近い。

NGOピースボートの活動を手伝うことにより、バイト代が支給されない代わりに、働いた分だけ乗船費が安くなるという制度だ。ボランティア割引、通称ボラ割という。

30歳未満なら、最大で全額割引き、タダで乗ることができる。これを「全クリ」といい、全クリした人を「全クリスト」という。

僕も全クリストだ。だから、ピースボートに乗船費は1円も払っていない。

30歳以上の場合、割引きは半額までしか適用されない。これは、ピースボートが若い世代に世界を見てもらいたいという理念を持っていて、なるべく若い人に乗ってもらいたいからだ。

ボラスタには比較的若い世代が多く、学生やフリーターが多い。

ボランティア割引① ポスター貼り

ここからはボラスタの日常について見ていこう。

まず最初に書かなければいけないのが、僕は「ボランティアセンターおおみや」しか知らない。大宮ボラセンは今はないので、他のピースボートセンターに行くと、「あれ、話と違う」ということがあるかもしれない。そこをわかったうえで読んでほしい。

ボラスタが行う活動のメインがポスター貼り、通称ポス貼りだ。

ピースボートのポスターを街中で見たことがある人は多いだろう。このポスターは、ボラスタたちがせっせと貼っている。

3枚で1000円分の割引がたまる。1日で1万円分、うまくいけば2万、それ以上ためることができる。1件1件を店を回り、頭を下げ、ピースボートの活動を説明し、交渉し、時に怒られ、時に励まされながらポスターを貼っている。

朝の10時に事務所が開き、まずは今日のエリアを決める。自分で選べるところもあるらしいが、大宮は規模が小さい分、ピースボート職員とボラスタの距離が近く、職員がボラスタの力量を把握していたので、職員がそれぞれの力量にあった場所を選んでくれていた。

エリアが決まったら電車に乗ってその町に行く。そしてひたすら歩き、お店に入り、交渉して、ポスターを貼る。場所によっては夜遅くまでかかることもある。

ただ、人によって得意不得意がある。やはり、営業経験のある人が優位のようだ。ただ、ポス貼りを続けていく中で交渉の技術を鍛えた人もいる。

また、体力も必要不可欠だ。毎回約2万歩近くを歩く。

さらに、冬は寒いからっ風にさらされ、梅雨時には雨に打たれ、夏には(特に僕の活動していた埼玉ではより一層)暑い日差しに汗も乾き、体に噴き出た塩がこびりついている、なんてことも。

雨にも負けず、風にも負けず、雪にも、夏の熱さにも負けない丈夫な体が必要だ。ん? どこかで見たことのある文章だ。

その上、精神力も必要だ。営業中のお店にって「ポスターを貼らせてください」などといっても、断られるのが普通だ。何軒も連続で断られたり、心無い人に罵声を浴びせられたり。「心が折れた」なんて日常的に使う言葉だ。

そんな思いをしてまでなぜポスターを貼るのか。

そこに、どうしても叶えたい夢があるからだ。

どうしても見たい景色がある。どうしても行きたい場所がある。

だから、僕らはポスターを貼る。

ボラスタの活動をしていれば、船に乗る前から仲間ができる。一人ぼっちで船に乗ることがなくなるのだ。

また、悪い人がいれば同じくらい、いや、悪い人なんかよりもずっと多く、励ましてくれる人たちがいる。そんな人に出会えるのが、何よりの喜びだ。

「今日もまたどこへ行く。愛を探しに行こう」

 

ボランティア割引② 内勤

このポスターを準備することでもボラ割をためることができる。ポス貼りと比べれば額は少ないが。

ポス貼りと違い室内で行うので、「内勤」と呼ばれている。

全国の事務所によってやり方は変わるが、大宮では次のようなことをやっていた。

まず、ポスター貼りに使う両面テープを準備する。5㎝ほどに切りそろえるのだ。

準備が終わったら、それをポスターに貼っていく。全部で9か所。こうすれば、現場ではテープの紙をはがすだけだ。

10枚ポスターができたら、丸めて輪ゴムで止める。その繰り返し。ポスター以外に、ポスターに張り付けるチラシも準備する。

単純作業だが、仲間たちとおしゃべりをしながら作業できる。ポス貼りと比べて肉体的疲労もない。時間も自分の都合に合わせて作業できる。

こちらは、年配の人がやることが多いが、若いボラスタも内勤をする。

ボランティア割引③ 船内見学会

ピースボートでは年に3回くらい、全国の港でオーシャンドリーム号の見学会を行っている。その受付を手伝うこともボランティア割引の適用内だ。

しかも、休憩時間に船内を見学することができる。いつか「我が家」となる船を見学するのはとてもテンションが上がる。

また、船が帰ってきたときにもボラスタの出番はある。船から降りてくる人たちは、歩いて持ち帰るのが無理なレベルの荷物を抱えて降りてくる。そういった荷物は宅配で自宅へと送られるのだが、その際に佐川急便さんのお手伝いをするのだ。

こういったピースボート全体を上げたイベントは、普段はあまり接点のないよそのピースボートセンター所属のボラスタと交流できる貴重な機会の一つだ。

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オーシャンドリーム号 in タヒチ

ボランティアスタッフの日常① 定例会

どこのピーセンでも、週に1回定例会を行っている。大宮ボラセンでは「さいた丸」という名前で毎週水曜日に行われていた。

定例会開催の名目上は連絡事項の伝達だが、親睦を深めるという意味が大きい。

職員がせっせと作ってくれたこだわりの料理をみんなで食べ、連絡事項が終わったら、楽しいイベントの時間。さいころトークのようなレクレーションをやったり、時にはゲストが来たりする。

乗船を控えたメンバーがいるときはいってらっしゃいパーティ、略して「いってらっぱ」が開かれる。いわば、ボラスタの卒業式だ。

このような定例会以外でも、ポス貼りが終わったらすぐ帰るボラスタというのはあまりいない(終電の都合などで早く帰る人ももちろんいるが)。事務所に残り、地球一周という夢を語り合う。そんな毎日だった。

ボランティアスタッフの日常② P-1グランプリ

数か月に一度、p-1グランプリという大会が開催される。全国のピーセンごとに、1週間のポス貼りの成果を競い合うのだ。

とはいえ、「枚数」では日本一の商業都市である東京と埼玉では勝負にならない。それぞれのピーセンごとに目標枚数が設定され、その枚数に対する「伸び率」を競い合う。

P-1の週になると、ボラスタも職員も7日間身をすり減らしてポスターを貼りまくる。その分、目標を達成した時の達成感は半端ない。

普段は一人で貼るもの、自分との戦いだが、P-1になると「自分が手を抜いたら目標を達成できないかもしれない」というチームへの責任感を感じるようになる。

いつもよりも枚数を稼げるエリアに行くことができるので、ポス貼りの腕をレベルアップさせる絶好の機会でもある。

ボランティアスタッフの日常③ アルバイト

ボラスタとして活動しても、1円ももらえない。だから、多くのボラスタはアルバイトで生計を立てている。

正社員の仕事をしながらボラスタとして活動することもできる。ボラスタとしての活動は、完全に自分のペースで進めることができるのだ。都合のいい時だけピーセンに顔を出せばよい。

ただ、全クリを目指すのであれば、バイト生活の方が多くの時間を割ける。

僕の経験上、このようなバイトがおすすめだ。

週末のバイト ポス貼りは日曜が休みなので、僕は平日はボラスタをメインに、週末はバイトをメインに活動していた。ボラスタの方が融通が利くので、バイトのシフトと自身の体力に合わせて週に3~4日ほどポス貼りをしていた。

夜勤のバイト 夜勤をメインにバイトをしていれば、日中は内勤をして、夜はバイトという風に1日を使うことができる。バイトではかなり体力を使ったが、内勤は体力を使わないので両立できた。ただし、深夜の夜勤だと生活リズムがくるってしまうのでお勧めできない。

すぐやめれるバイト どうせ、船に乗るときにやめるのだ。すぐやめられるようなバイトがいい。

ボラスタの日常④ 休日

大宮ボラセンでは、月に1度みんなでどこかへ出かけていた。

鴨川シーワールドやディズニーランドをはじめとした遊園地や、電車に乗って秩父に行ったり。

印象に残っているのが、みんなで日野に行ったことだ。

大宮ボラセンには幕末好きが多く、新選組ゆかりの地、日野に行き、資料館をはじめ、新選組にまつわる場所を回って歩いた。資料館では新撰組の浅葱色の服や、土方歳三の洋装のコスプレをして記念写真を撮って楽しんだ。

このほかにも、乗船を間近に控えた仲間がいる場合は、お別れ会を兼ねてどこかに出かけたりする。

また、平日に堂々と休めるのもボラセンの特権である。平日に堂々とディズニーランドに行ったこともある。

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こんなコスプレをして楽しんだ。 出典:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/a2/38e86c360372d82c1f397c07f9e9972b.png

ボラスタとは不思議な縁だ。年代も経歴も将来の夢すらも違う人たちが、一つの場所に集まり、夢を語らいあう。彼らをつなぐ絆はただ一つ「地球一周にロマンを見た」

夢を追いかけ、仲間たちと語り、笑いあったかけがえのない日々。「俺たちのドラマは今、最高に視聴率が熱いところなんだ!」が合言葉だった。

「閉塞感」という言葉が恐怖の大魔王のように支配している昨今、ピースボートの事務所のように、「勇者の酒場」となるべき場所が必要なんだと僕は思っている。

ポスター貼りのもっと細かい実態についての記事はこちら!

経験者にしか絶対にわからない!ピースボートのポスター貼り喜怒哀楽!