ムラ社会、なめんな!

「ムラ社会」という言葉がある。閉鎖的や排他的な社会・組織の象徴のように使われているこの言葉。まず基本、「悪いもの」として扱われる。……君たち、そんなに日本のムラが嫌いか?ならば、どこまで日本のムラを知っているというのだ?今回は、「本当のムラ社会」について考えていこう。


ムラ社会のイメージ

そもそも、「ムラ社会」という言葉は、普段どんなイメージで使われているのだろう。考えてみると、だいたい次のような感じだと思う。

・閉鎖的……自分たちの中だけで何事も完結し、外の世界を見ようともしない。

・排他的……外から来たものをやたらと拒む。

・差別的……自分たちと異質なものや、自分たちのルールに従わないものを排除しようとする。 例:らい病患者の扱い、村八分

・地元の権力者が強い……代々の有力者が強い力を持っていて、権力構造がなかなか変わらない。

・全体主義……個人の意志よりも、ムラの存続が尊重される

・空気を重視……空気を読むことが何よりも重要視され、古い慣習を壊すことを拒む。

こんな感じだろうか。みんな、よほどムラで嫌な思いをしてきたに違いない。「封建的」も似たような意味合いで使われるのだろう。

今回、僕はこれに一個一個反論したいわけではない。特に、「差別的」は否定のしようがない。らい病(ハンセン病)の患者はムラから不当な扱いを受けてきたし、村八分にされたものが裁判を起こして勝訴したという事例もある。

今回言いたいのは、この「ムラ社会」のイメージだけが日本のムラではない、ということだ。

宮本常一が見た日本のムラ

宮本常一。戦前から戦後にかけて日本中をくまなく歩き、その土地の習俗を研究してきた民俗学者だ。戦前から戦後、高度経済成長期と変わっていった日本のムラを見続けてきた男だ。彼ほどムラを知り尽くした人はいない。今回は彼の著作集の12巻をもとに話を進めていきたい。

第12巻のタイトルは『村の崩壊』。戦前の日本のムラの様子から、戦争が終わり衛材の発展、都市の膨張に伴い、日本のムラの姿が崩壊していく様を記してある。

では、宮本常一が見てきた日本のムラはどのような姿だったのだろう。

ムラは、決して一枚岩ではなかった。一つの事柄に対し、村人それぞれが様々な意見を持っていた。

一方で、彼らは常に助け合って生活していた。田植えや屋根の修理などは「ユイ」と呼ばれ、村人が共同で行った。また、「道普請」と言って、道路の補修も共同で行った。

助け合いはそれだけではない。新しい田畑の開墾などは、貧しいものに優先的に与えられたのだ。ムラは、そこに暮らす民を見捨てようとはしなかった。貧しいものがいたら優先的にチャンスを与えるような仕組みだった。今の日本の社会制度よりも福利厚生はしっかりしているかもしれない。

「隣家に蔵が建つと腹が立つ」という言葉がある。ただのジェラシーのようにも取れるが、よその家に蔵が建つということは、よその家が土地を大きくしたということであり、それは誰かの土地が小さくなったことを意味するからなのだそうだ。

村が出る杭を打つのは嫉妬からではない、それによって弱いものが不利益をこうむることを恐れたのだ。

ムラは決して古い存在ではなかった。栄えた村はいつも若者がその中心にいた。もちろん、長老だの村長だのといった存在はいた。しかし、それ以外の階級はほとんどなかったようだ。

村長がどれほどの権力を持っていたかは村によって違う。豪族が中心になって開いた村ならば、その豪族が権力を握っていただろう。また、同族で構成された村ならば、本家がやはり強かっただろう。

一方で、何かあったらすぐに寄合を開くムラも存在した。一人の権力者ではなく、みなでの話し合いを重視したのだ。ここでは、参加者の意見は対等に扱われていた。

そして、ムラは外との交流も盛んだった。親は子供がある程度の年になると、外へ旅に出すようにしていたムラもある。また、よその村と盛んに交易していたムラもあった。

一方で、外から来たものも受け入れている。嫁入りなどはその典型だろう。ありていな言い方をすれば、嫁入りとはよそのムラとの労働力の交換である。よく姑の嫁いびりが問題になっているが、むしろ昔は嫁が姑をいびっていたそうだ。

また、「マレビト信仰」といって、昔の村では外から来たものをカミとして扱い、盛大にもてなすという習俗があった。善根宿と言って、旅人を積極的に宿泊させる村も家もあった。もちろん、宿代などとらない。

今では数えるほどだそうだが、かつては四国にお遍路さんを積極的に無償で止める家が多かった。そうすることで、その家もお遍路さんと同じご利益に授かれると信じられていたのだ。

ムラとは、弱いものへの意識が強く、階級の意識が弱く、それぞれの意見を尊重して話し合い、外との交流を活発に行っていた場所だったのだ。

ムラは、「全員で生き残る」というのが前提の場所だった。だから、ルールを乱す者は村八分にすることもあったのだ。

一方で、栄えたムラというのはその時その時の状況に合わせて、さまざまな生業にチャレンジし、しなやかにその姿を変えていった。決して旧態依然とした存在ではなかったし、逆に言えば旧態依然としたムラはすたれて残らなかっただろう。

ムラってなんだろう

そもそも、ムラとはいったいどういう存在なんだろうか。なぜ、人はムラを作るのだろうか。

そんなことを考えるようになたのは、意外にも地中海でだった。

ギリシャのサントリーニ島は火山の島が沈み、火口に海水が入り込んでて来た島だ。かつて火口の淵だった断崖の上に白い家々が並ぶ美しい件間で多くの観光客が訪れる。

崖の上の白いのが集落

しかし、サスペンスドラマじゃあるまいし、なんだってわざわざ崖の上に集落をつくったのだろう。

その答えが知りたくて、島の反対側に出て愕然とした。

なだらかな丘が海まで続いていたのだ。しかし、集落はほとんどない。

島の反対側はだだっ広い空き地だった。これが海まで続いている。

日本だったら、このなだらかな丘の海岸線上に集落を築いていただろう。漁村になっていたはずだ。だが、サントリーニの人たちは、わざわざ断崖絶壁の上に街を作った。

サントリーニの後に訪れた「アドリア海の真珠」と呼ばれるクロアチアのドブロブニク旧市街は美しい城壁に囲まれている。城壁からは町が見下ろせる。つまり、城壁は建物よりもはるかに高いのだ。こんな壁、日本ではさっぱり見られない。

灰色の城壁が見える

なぜ、わざわざ崖の上に住むのか。なぜ、わざわざ高い壁を作るのか。

おそらく、戦争や海賊を恐れてのことだったのだろう。

地中海の歴史は戦いの歴史である。また、古くから海賊も横行していた。だから和わざわざ崖に上ったり壁を作ったりしていたのだ。簡単には攻め込まれないように。

その点、日本のムラはのんきだ。まず壁は作らないし、がけにも上らない。

日本のムラが重要視しているのは水源だと思う。以前、奥多摩の村を訪れたことがある。山の斜面にぽつぽつと集落が存在するのだが、見事に水源に沿って村が広がっていた。

敵が攻めてくるかどうかより、水が飲めるか、作物が育てられるかのほうが大事だったわけだ。

そう考えると、ムラの本質が見えてくる。

「ここで生き抜こう」という強い意志、それがムラの本質だ。

この場所で、みんなで生きていこうと腹をくくる。だから崖にも登るし壁も作る。山の中の水源に這いつくばって生きていく。

みんなで生きていくと決めたからには、誰ひとり見捨てない。一方で和を乱す者には容赦しない。それが行き過ぎて差別的なことにまで反転してしまったのだろう。

生きぬくためには知識が必要だ。だから、外の世界と積極的にかかわりを持つ。孤立して生きていくのも難しいだろう。

よそとのかかわりを積極的に持って、生きていくためにしなやかに姿を変えていく。それがムラなのだ。

ムラ社会のイメージはどこから来たのだろうか

さて、そう考えると、一つ疑問が残る。

僕らが思い描いてきた、閉塞感漂うムラ社会のイメージはいったいどこからやってきたのだろうか。

あれだけムラ社会が悪者のように扱われるということは、ムラでひどい目にあった人が少なからずいたはずなのである。この文章を読んでいて「いやいや、ムラってもっとひどいよ?」と思う人もいるだろう。その村のイメージはいったいどこから来たのだろう。

宮本常一は、戦後の発展の中で年が膨張していくにしたがい、ムラから人が出ていき、農業人口が減り、ムラというものが崩壊していったと指摘している。

ムラの性格が変わるターニングポイントがあったのだとすれば、ここしか考えられない。

手元に本がないので正確なことは言えないが(なんで捨てちゃったんだだろう)、戦後の発展の中で東京をはじめとした都市が肥大化し、労働力は都市に吸収されていった。農政の問題などの様々な理由から農業で生計を立てるものが難しくなり、農業は兼業化し、やがて廃業していった。ますます肥大する都市は、ついには近郊の農村を吸収して新興住宅地を作るようになった。工業を支えるため田畑の中に工場が建つようになり、労働力はそこへ吸収される。異常なほどの東京一極集中のため就職先は東京が当たり前になっていった。村に残っても耕す田畑もなければ、他の仕事もない。こうしてムラから労働力が失われ、ムラは疲弊していった。

たまにテレビ東京なんかで「限界集落のおばあちゃんの民宿でのんびり過ごそう」みたいな番組をやっている。とんでもない。限界集落とは陽気な田舎を指す言葉ではない。「限界集落」とは、人口の半分が65歳以上で、田畑の多くが放置されて荒れ地となり、寄合や祭りのような村人の結束を強める機能が停止した集落を指す。

名前からして、限界を迎えている集落のように聞こえるが、これも違う。何年も前に若者たちが「ここで生きていくのは限界だ!」とムラを捨て、年寄りだけが残った集落だ。「だいぶ前に限界を迎えていた集落」であり、失礼を承知で言えば、座して死を待つような状態である。限界点はもっと何十年も前だったはずだ。

つまり、「ここで生き抜いてやろう」というあのギラギラ感がなくなってしまったのだ。もう、何をやっても無駄という諦めなのかもしれない。

僕らが抱く「ムラ社会」のイメージは、この「限界集落」のイメージなのではなかろうか。

何をやっても無駄なら、外の世界から学ぶ意味もない。むしろ、異質なものがやってきてこれ以上ムラを壊されたら、ムラの死期を早められたら大変だ。

何をやっても無駄だから、権威構造も変わらない。むしろ、権威が死に体の村に金を運び、つかの間の夢を見せてくれるかもしれない。

かつての助け合いの精神も何をやっても無駄だとわかればただの「出る杭は打たれる」だ。

なにをや手も無駄だから空気を読むことを強いる。これ以上かき回されたくないわけだ。

ムラの延命をしようとする一方で変化を好まない。下手に手を打って死期が早まったら一大事だからだ。

これじゃ、「ムラ社会」じゃなくて、「限界社会」だ。そっちの方がしっくりくるんじゃなかろうか。

本当の「ムラ社会」には、「ここで生きていこう」という意思があった。だから、ムラを今よりもっと暮らしやすくしようと必死だった。その時代その時代でしなやかに形を変え、全員で生き抜こうという思いがあった。

一方、現代はどうだろう。もう何をやっても無駄だから余計なことはしたくない。だらだらとムラの延命措置を測るだけだ。「生き抜く」と「延命」は似ているようで違う。「延命」は結局もう終わりが見えているのだ。

そして、成長だか再生だか再興だかはお上がやってくれると思っている。もう、自力で生き抜こうとする体力などないのだ。

そんな限界社会では、「ムラ社会」にこそ学ぶべきことがあるのかもしれない。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。