2012年に発表された六車由実さんの『驚きの介護民俗学』。民俗学者から介護士に転職した著者が、介護の現場で老人たちから民俗を聞き取ることをまとめた本だ。発表当時から民俗学界隈で話題となったこの本を読んでみると、これからの民俗学について考えさせられる驚きがあった。
『驚きの介護民俗学』の内容
著者の六車さんは民俗学者。大学で学生たちに民俗学を教える立場だった。
それがどういうわけか、大学を辞めて介護施設で介護士として働くようになる。
そこで出会った老人たちは、ふとした瞬間にそれまでの人生やバックボーンをにじませていた。
例えば、認知症の老人にありがちな「同じ話を繰り返す」。
介護する側からすれば迷惑な話だが、よくよく聞いてみると、人によって繰り返す話が違う。
そこで丹念に聞いてみると、「繰り返す話」の中には、その人が何に重きを置いて生きてきたかが現れていた。
そこで、著者は施設の許可を取って老人たちの話を聞き書きすることにした。それが「介護民俗学」の始まりだ。
通常、民俗学のフィールドワークというと、農村や漁村に入ってそこで生活する人たちにテーマに沿って話を聞く。
だが、介護民俗学では大きく二つの点が異なる。
まず、フィールドが違う。
介護民俗学の舞台は農村でも漁村でもなく、介護施設。文章から察するに、おそらく静岡の地方都市にあるようだ。
だが、そこに通う老人たちは、かつての村で生まれ育った人たちだ。彼らにはかつての村の暮らしの記憶が残っている。
むしろ、「農村から都市に出てきた人たち」というこれまで見逃されがちだった人たちの記憶を持っているのだ。
そしてもう一つが「聞き書きにテーマがない」。
通常はフィールドに入る民俗学者には知りたいテーマがある。農具についてだったり、祭りについてだったり、昔話についてだったり。そういうのに詳しい人を探して、話を聞くわけだ。
ところが、介護民俗学では著者は聞きたいテーマを持っていない。相手が話したいことを話してもらうわけだ。
だが、それゆえに著者の想定していなかった話が聞けて、「驚き」をもたらす。この「驚き」が著者にも話す老人側にもいい効果をもたらすのだ。
実は、僕も大学で「自分の聞きたいことではなく、相手の話したいことを話させる」という風に教わった。
僕が教わった先生たちの世代の教訓なのだそうだ。
フィールドに入って話を聞くと、戦争の話をしたがる人が多かった。
しかし、こっちは民俗学の話を聞きに来たのだからと、先生たちの世代は戦争の話をさえぎって、「自分たちが聞きたいテーマ」を話させた。
だが、今になって思うと、当時の話者たちが話したがっていた「戦争の話」をちゃんと聞いてまとめれば、かなり重要な史料になったのではないか。
そんな後悔から、「相手の話したいことを話させなさい」と教えてくれたわけだ。
民俗学とは生きることと見つけたり
さて、「介護民俗学」の本の評判は前から聞いていたが、なかなか読もうとしなかった。
理由は二つ。
まず、「介護」という言葉がよくない。
「介護の本」と聞いて面白そうと思う人がどれだけいるだろうか。介護に携わっていない人じゃないと、まず面白そうとは思わない。
そしてもう一つ、決定的に面白くない単語が入っていた。
その単語とは「民俗学」。
大学で民俗学を専攻していた僕すら、「民俗学の本は面白くない!」と認識しているのだ。
何と言うか、無味乾燥なのだ。
そう思ってほとんど期待することなく「驚きの介護民俗学」を読んでみた。
すると、驚いたことに面白かったのだ。
「テーマのない聞き書き」を行っている著者は、細かい「民俗」にとらわれることなく、話者の人生を聞き取り、生き生きと描いている。
これは、僕にとっても発見だった。
祭りだの農具だの信仰だの、個々の民俗自称にフォーカスして書いてしまうとちっとも面白くない。「無味乾燥な学術書」で終わってしまうのだ。
だが、この本では個々の民俗事象にとらわれることなく、相手の人生を描いている。
言い換えれば、個人の人生自体が一つの「民俗」である。
民俗学とは「生きること」、「その人がどうやって生きてきたか」を描くことだともいえるわけだ。
民俗学は文学だ!
個々の老人たちの「生きること」を、著者も実に生き生きと描いている。
この「驚きの介護民俗学」が民俗学の雑誌ではなく、介護・看護に関する雑誌で連載された、というのもこの本を堅苦しいものにしなかった理由の一つだろう。
もしかしたら、民俗学は「学問」という堅苦しいスタイルよりも「文学」というスタイルの方が似合うのかもしれない。
それぞれの「生きること」を文学として描く。
例えば、宮本常一の代表作「忘れられた日本人」は、そこに登場する人たちがどのようにして生きてきたかを文学的に描いている。「土佐源氏」に至っては文学的に高く評価されている。
柳田國男もかつては文学を志していた。
民俗学にとって、「文学のスキル」は重要なことなのかもしれない。
そう思わせるこんな話がある。
大学のころ、口承文芸、すなわち、昔話に関する講義をとっていた。
これが評判だった。
どういう評判かというと、「つまらない」という評判なのだ。
ある先輩が、そのつまらない講義に対してこんな解説をしてくれた。
「あの先生は口承文芸を研究している割には、話し方が下手なんだ」
民俗学の知識を文学的に語るスキルが、その先生にはなかったわけだ。
民俗学とは人の「生きること」を描くことである。それが無味乾燥な学術用語で描けるわけがない。
民俗学はもっと文学的に、「生きること」に向き合い、「生きること」を描くべきなんじゃないだろうか。
そんな驚きの発見を、この本はもたらしてくれた。