ミュージカル「コモンビート」を見て思う、「本当に争いはおろかなのか」

友人らが携わる「コモンビート」というミュージカルを見てきた。友人らの生き生きとした姿が見れて、とてもよかった。コモンビートを見るのはこれで3回目である。同じミュージカルでも3回も見ると、いろんな視点から新たな発見をすることができる。果たして、みんな本当に「争いはおろかだ」と思っているのだろうか。


ミュージカル「コモンビート」とは?

コモンビート。正式名称は「A COMMON BEAT」。通称「コモビ」。ミュージカル作品の名前であり、それを主催するNPO法人の名前でもある。

アメリカのNPO団体「Up with people」が2000年に制作したこのミュージカルは、「個性が響きあう社会へ~Hamony of Uniqueness~」というコンセプトのもと、日本でも公演されている。

このミュージカルの面白い特徴は、実は出演者はみなプロの劇団員ではない、ということだ。さまざまな職業の人々約100人が100日間練習して講演する。「なんだ、素人のミュージカルか」と決めつけるのは早計で、チケット代3500円に見合うクオリティはあると思うし、「素人が100日間でここまでやる」というリアル感、ライブ感もこのミュージカルの売りの一つだと思う。

ミュージカルの面白いところが、「エキストラがいない」という点ではないだろうか。広い舞台の上では高らかと歌い上げる役者がいる一方で、舞台の端や後ろでそれぞれの演技をする役者たちもいる。他にもダンスしたりコーラスをしたり、誰一人「とりあえずそこにいる」という役者はいない。歌う人、踊る人、歩く人、止まっている人、それぞれに大事な役割があり、それぞれがその役割を全うしている。特に今回の公演では舞台上にセットは置かれなかった。そうなると、なお一層、一人一人の演技が物語の世界を紡ぐうえで重要になってくる。メインの役どころだけが歌い、セリフをしゃべっても、ミュージカルは成立しないのだ。

コモンビートのネタバレ?

コモンビートの出演者たちは、大きく4つのグループに分けられる。赤、緑、黄色、青と戦隊モノよろしく色分けされた、四つの大陸である。

情熱の赤大陸はアフリカやアラビアをモチーフにしている(ちなみに、アフリカの国旗は赤・黄色・緑で構成されることが多く、アラビアの国旗は赤・白・黒・緑で構成されることが多い)。

気品の緑大陸はヨーロッパをモチーフにしている(ちなみに、ヨーロッパの国旗で緑を使っているのは、アイルランド、イタリア、ハンガリー、ブルガリア、ベラルーシ、ポルトガル、リトアニアの7か国のみ)。

調和の黄色大陸は日本や朝鮮、中国、インドなどの東アジア・東南アジアのあたりをモチーフにしている(ちなみに、この地域の国旗は赤を基調としたものが多く、黄色を基調としたのはブルネイの国旗のみ)。

自由の青大陸は南北のアメリカ大陸をモチーフとしている(ちなみに、中南米には青を基調とした国旗が多い)。

このように、国旗マニアとしては、赤と黄色は入れ替えた方がいいんじゃないかと思っている。いや、そういうことを言いたいんじゃない。

それぞれの大陸は音楽、ダンス、衣装でこれらのモチーフを表している。音楽・ダンス・ファッションに興味がある人たちは、これらに注目しながら見るのもまた面白いと思う。

さて、これら4つの大陸は、それぞれ互いの存在を知ることはなく、「国境警備隊」という誰に雇われたかよくわからない人たちによって守られている。

しかし、あるとき、彼らは互いの存在を知る。自分たちとは違う言葉、衣装、文化に興味を抱く人がいる一方、「権力者」と呼ばれる人たちは自分たちの仲間を、文化を、伝統を守るため、他の大陸のものたちを排除しようとし、やがて大きな戦いに発展し、多くの命が失われてしまう……。そこて初めて気づく。言葉や衣装、文化が違っても、僕らは同じ心臓の鼓動を、「コモンビート」を持っているのだと……。

というのがミュージカル「コモンビート」のあらすじである。そのまま、人類の歴史と言いかえてもいいかもしれない。

コモンビートの3つ目の視点

コモンビートは「個性が響きあう社会へ」をスローガンに掲げており、ミュージカルを通して「文化や歴史の違いから争いあうのはおろかなことであり、違いを乗り越えて共生することが大切だ」と訴えかけている。

一方で、だからといって戦いを煽った権力者が完全な悪者なのかというとそうではなく、それぞれの民族、文化、歴史、伝統を守るためだったという彼らの正義もきちんと描かれている。

実は僕はコモンビートを見るのは3回目である。1回目は2年前に同じ場所で、2回めはピースボートの船の中だった。

そして3回目にして今回、こういう見方もあるのではないかということを考えた。

「そもそも出会わなければ、交わらなければ、争うこともなかったのに」

コモンビートは4つの大陸が登場し、それぞれに権力者がいる、世界の歴史を描くスケールの大きなミュージカルだ。

一方で、実はこの物語は、それぞれの大陸を一人の人間として見ることもできるのではないだろうか。

人は幼いころは保護者という国境警備隊に守られていた。しかし、やがて学校や社会に出て、他者に触れ、他者と交わるようになる。その中では自身のアイデンティティや自尊心といったものが傷つくこともあり、自身を防衛するために、「敵」とみなしたものを排除しようとすることもある。

悪口、批判、無視、そして暴力など、手段は様々だ。

そうやって人は傷つけ、傷つけられ、傷つけあう。そんな思いをするのなら最初から他者とは交わらない方が賢明ではないだろうか。

なんて問いかけをすると、おそらく多くの人が「それは違う」と答えるだろう。人と交われば傷つくことも多い。しかし、そこを乗り越えてこそ人は成長しあい、信頼し合えるのだ、と。争いはむしろ、成長のために必要な通過儀礼なのだ。

一方で、これが国レベル、民族レベルの話になると途端に、人々は争っていてはだめだ、争いはおろかだという。

矛盾していないか。

もちろん、国と国同士の争いは多くの死者を生む。個人レベルの話と単純に比較することはできない。

だが、個人レベルの争いは、命までは取らないい代わりに心が死んでいくのだと思う。人を信じられなくなったり、他人に心が開けなくなったり、自信を失ったり。そうして、自らの人生に自ら影を落としていく。人によっては、自ら命を絶つこともあるだろう。

そんな目にあうなら、最初から人と出会わなければいい。そういって殻にこもることをなぜか社会は許さない。外に出て学校へ行け、働け、そして人とふれあって、傷ついて来いと言う。

不思議なことに、傷つかない方法を教えてくれたり一緒に考えてくれるのは一部の専門家だけで、多くの人は他者に触れ、傷つけあうのは当たり前ののことだ、仕方ないことだ、避けられないことだ、さあどんどん傷ついて来いと言う。

そう思って街を見渡すと、漫画も映画も小説も歌も、「ケンカも失恋も、青春の1ページだ! どんどん傷つけ!」みたいなことを言って、若いうちはどんどん傷ついて来いと、むしろ争いを煽っている。

それでいて「乗り越え方は自分で見つけなさい! 大丈夫、君ならできる!」というのだから無責任なことだ。これを国レベルで考えると、「戦争も差別の歴史の1ページだ!どんどん争え! だけど、 乗り越え方は自分で見つけなさい! 大丈夫、この国ならできる!」といった感じだろうか。そんな無責任な煽り方があるだろうか。

個人レベルで見ると、「争いは成長するための通過儀礼だ」という声が多い。だが、国レベルで同じことが言えるだろうか。確かに、歴史を対極的に見れば戦争はもしかしたら通過儀礼だったのかもしれないが、だからといって戦没者や戦争経験者、いま戦火の真っただ中にいるものに「あなたたちは歴史の通過儀礼なのだから我慢しなさい」なんて言えるわけがない。

ジョン・キム氏は著書『時間に支配されない人生』の中で、「何かを選択した時点では正解不正解などなく、その後の行動でその時の選択を正解だったと言えるようにするのだ」と書いている。

だとすると、争いそのものも、争っている時点で正解不正解などない。「人と触れ合い、傷つけあい、乗り越えることで人は成長する」というのは、たまたま乗り越えられたやつが語る結果論であり、この国は乗り越えることができず命を落とした人が年間で3万人もいるというのが現状だ。

人と人が交われば争いあい、傷つけあうこともある。この時点では「それを乗り越えれば成長できる」かどうかなんて誰にもわからないはずなのである。

ピースボートの船の中でフリーランサーの安藤美冬さんにお会いした時、人生には春夏秋冬があるということを話してくれたことがある。人にはそれぞれ春の時期もあれば冬の時期もある。そして、その冬がいつやってくるかは人によって違う。子供のころの人もいれば学生時代の人も、社会に出てからの人も、結婚や親になった後の人もいる。冬が長引いてしまうひともいる。

そんな冬の時期に無理して人と交わり、傷つけば、たぶん乗り越えられない。だから、他者との接触を避け、殻にこもる。春になるのをじっと待っているカエルのようなものだ。

だが、社会はどういうわけかそれを許さない。「温かく見守る」なんて選択肢は存在せず、周りはみんな頑張っているのだから、こっち来て一緒に働けと言う。

じゃあ、「外で頑張っている人たち」がみな強い人たちなのかというとそうではなく、彼らの心もまたぼろぼろだ。「外は怖くないよ。こんなに楽しい所だよ。さあ、出ておいで」と言いたいのではない。「お前も俺たちと一緒に地獄でぼろぼろになるんだよ!」というわけだ。まるでカンダタのぬけがけを許さない罪人たちのようである。

「争いはおろかだ」、これはコモンビートが90分のミュージカルをかけて訴えていることである。90分の公演を見れば、いかに争いがおろかなことなのかが身にしみてわかる。

一方で争いは通過儀礼であり、それを乗り越えることで人も国も成長していく。これまた残酷なこの世の真理なのだろう。

大切なのは、だからといって争いを美化していい、というわけではないということだ。

争いは通過儀礼であり、それを乗り越えることで成長していく。

それでも、争いはおろかなことなのだ。美しいのは、それを乗り越えた後の時代の話であり、争いそのものはどこまでいってもおろかなのだ。

そう考えると乗り越えられるかどうかもわからない争いや差別を助長するなど決して許されることではない。

それはまた個人レベルでも同じであって、乗り越えられるかどうかもわからない人生の壁とやらにぶつかってこいというのもまた許されないことなのではないだろうか。

それでも人は悲しいことを避けて成長することなんてできない。なんて残酷な真理であろうか。

問題なのは、そんな悲しみを乗り越える気などさらさらない奴らが、寄り添う気などさらさらない奴らが、争いによる痛みを引き受ける気などさらさらない奴らが、人を戦場へと駆り立てることなのだと思う。

戦場というのは本当の銃弾が飛び交う戦場のことでもあるし、空襲警報が鳴り響く街のことでもある。

一方で、戦場とは平和な国のごく普通の学校の教室のことでもあるし、都心のオフィスのことでもある。もしかしたら、ネットの世界ですら戦場になりうるかもしれない。

「争いは仕方ないことだ。争いを乗り越えて、人は成長するんだ。さあ、どんどん争って、傷ついて来い! 大丈夫。君なら乗り越えられるさ。根拠はないけど」

「そして、僕は君のそばにいるわけでも、君の痛みに寄り添うわけでもないけど。さあ、争って来い! 戦って来い! 傷ついて来い! 結果だけ教えてくれ」

これを読んでいる人の中で、「人は傷ついて初めて成長するんだ」と誰かに言ったことがあったら、また、誰かにこれから言おうとすることがあったら、

どうか責任を持って、その人が傷つき、乗り越えていく姿を最後まで見届けてほしい。可能なら、そばにいてあげてくれ。一緒に傷ついてくれ。

争いというのはいつだって愚かであり、一人でぶつかって勝手に乗り越えていいけるほど甘いものではない。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。