サンカ備忘録

ここ最近、日本のいわゆる「常民」の外にいた人たちに関心があり、特に「サンカ」にまつわる本をいろいろと読んだ。しかし、ネット上にはまだまだ、虚実織り交ぜのサンカ像が書かれている。そこで、今回は自分の備忘録も兼ねて、サンカに関して「確実に言えること」を残しておこうと思う。

サンカとは何ぞや

サンカとは何か。それを今から書こうというわけだが、まずざっくりと書くとこうなる。

日本人は一つのところに住んでいる人が大多数だ。お金がなくてホームレスになる人もいれば、お金がありすぎて別荘を持つ人もいるが、基本は一つの家に住んでいる。「定住」というやつだ。

一方で、一つのところに定住せず、あちこち移動する「漂泊の民」と呼ばれる人がいる。有名なのがモンゴルの遊牧民だろう。ヨーロッパだとジプシー、アラブだとベドウィンと、漂泊の民は世界中にいる。

そして、日本にもいた。それが「サンカ」である。

「山窩」という字を当てられることもあるが、埼玉県中部のような一体どこに山があるのだろうと思われるところにも彼らはいた。

サンカの語源は諸説あるが、僕は「さかのもの」が変化して「さかんもん」、さらには「さんかもん」へと転じていったという説が一番有力かな、と思う。平地に住む者に対して「坂に住むもの」という意味だと考えれば、すごく自然だと思う。

ちなみにサンカは「ミナオシ」や「テンバ」、「ポン」とも呼ばれるらしい。

サンカと三角寛

サンカに関しての研究は小説家の三角寛の研究が一番詳しいとされてきた。割と最近までは。

しかし、彼の研究は複数の研究者から「ほぼすべてが捏造」だと批判されている。ためしに、ウィキペディアの「サンカ」のページの三角にまつわる項目を見てみると、

サンカに関する一般的な知識は、三角寛の創作によるところが大きい。

そのほとんどが三角による完全な創作と言うべきものだったことが、現在では確定している。

さらにウィキペディアの「三角寛」のページを見ても

三角による山窩(サンカ)に関する研究は、現在でも多くの研究者が資料とするところだが、実は彼の創作である部分がほとんどであり、小説家としての評価は別として、学問的価値は低い。これはその後、多くの研究者により虚偽であることが証明された。よって、三角によるサンカ資料は、三角自身による創作小説と見るのが適当である。

とまあ、「ほぼすべてが捏造」と書かれている。三角の親族ですらそれを認めるほどだ。

厄介なのが、サンカについて調べれば、必ず三角の捏造にぶち当たらざるを得ない、ということだ。

ネット上を調べても、三角の著作が捏造だということを知らないのか、それとも三角は捏造をしていないと信じているのか、三角の提唱するサンカ観を疑いなく乗っけているページがある。ネイ○ーとか。せめて「彼の研究には批判の声も多い」ぐらい書いておいてほしいものだ。

これまでのサンカのイメージ

というわけで、まずは三角の捏造が明らかになる以前のサンカのイメージについて簡単に記しておこうと思う。もしあなたが抱いているサンカのイメージがこれと合致していたら、ちょっと調べ直した方がいい。

・全国規模の組織を持ち、日本中のサンカを傘下に収める大親分が存在する。

・独自の掟を持ち、逆らったものには処刑をも辞さない

・独自の隠語があり、さらに「サンカ文字」という独自の文字を持つ

・犯罪者集団である。

これらは、現在では「三角による創作の可能性が限りなく高すぎて泣きたいレベル」と言われている。要は、捏造されたイメージだとして扱われている。

最後の「犯罪集団」というのは三角の創作ではなく、戦前の警察機構がサンカに抱いていたイメージだと言われている。

確かに、定住者の世界で犯罪を犯して追われたものがサンカに受け入れられるということはあったと思われる。

ただ、「サンカが犯罪性の高い集団」と断定することはできないだろう。僕は、サンカと定住者の数少ない接点の一つが泥棒や博打などの犯罪行為だったために、そういったイメージがついただけではないかと思う。

以下、三角の研究(捏造?)によらず、他の研究者の研究をもとに、ほぼ確実に事実だと言えるサンカの実態について書いていく。

サンカとは何者か

サンカには大きく2パターンがある。

親の代からサンカだったものと、定住の世界からサンカへと移ったもの。

そう、親がサンカではなく、一般的な定住家庭に育った者でも、サンカに参加できたのだ。

彼らはいわゆる被差別民である。サンカの研究がなかなか難しいのは、彼ら自身がサンカであること、サンカの子孫であることを隠すためである。フィールドワークを行うには、話者との信頼関係が不可欠である。

サンカの家

サンカの家は「セブリ」と呼ばれる布製のテントのようなものだったり、「ワラホウデン」と呼ばれる掘立小屋だったりする。

どうも集団で住んでいたらしい。大阪の天王寺にはサンカと思われる集団がいたと言われているし、そのほかにもサンカのテント集落は存在していた。

サンカの行動範囲

漂泊の民、というと全国を転々としていたようにイメージするかもしれない。

しかし、さすがにそこまで行動範囲は広くないようだ。

おそらく、今の行政区分で言う市町村をいくつか周回する程度だったのではないかと思われる。

というのも、彼らにはそれぞれ仕事のお得意様がいて、そのお得意様のいるところを回って生計を立てていたらしいからである。見知らぬ土地に行くことはあまりなかったのではないだろうか。

行動範囲が全国規模でない以上、全国規模の組織があったとか、全国規模の親分がいたという三角の主張はちょっと考えづらい。

サンカの生業

では、サンカはどのような仕事をしていたのだろうか。

サンカが「ミナオシ」とも呼ばれているように、その多くは蓑や竹細工、箒などを作っていた。「ミナオシ」とは「蓑直し」の意味で、新しく蓑や竹細工を作って売るほかにも、古くなった道具を修理して生計を立てていた。

この技術というのは一朝一夕にできるものではない。定住者が蓑が壊れたからと自分で修理するのは難しい。また、定住者もサンカになれるとは書いたが、ミナオシの技術は元からサンカであるものとあとからサンカになるものではかなり差があったらしい。

こういった工芸のほかには、川で漁をするサンカもいる。また、芸を覚えて見せる者もいる。

さらに、サンカを「乞食」と呼ぶ地域があったことを考えると、いわゆる乞食のようなこともしていたのだろう。

サンカのまとめ

現在、サンカについて断定できることは次の通りだ。

・村には定住せず、移動生活を行っていた。

・いわゆる技術職であるものが多い。川での漁や、芸で生計を立てる者もいる。

・被差別民であった。

現段階で僕に断定できるのはこのくらいである。僕自身もまだまだ勉強中であり、この記事は僕の備忘録の意味合いもある。もし、「これは違うよ」というのがあったら修正したいので遠慮なくいってほしい。

僕の専門は集落や野仏である。そのため、サンカについて本格的に研究するつもりは今のところないが、日本の集落の成り立ちを研究するためにはサンカの存在は考慮しなければいけないだろう。これからもサンカに関する勉強は続けていきたいと思うし、可能ならばサンカの研究に参加していきたいと思う。

参考文献

礫川全次『サンカと説教強盗 闇と漂泊の民俗史』 批評社、1992年

筒井功『サンカの真実 三角寛の虚構』文春新書、2006年

筒井功『日本のアジールを探して -漂泊民の場所-』河出書房新社、2016年

ピースボートのポスター貼り3000枚達成した俺がコツを伝授しよう

ピースボートのポスターは、約3000枚貼れば100万円割引される。僕はポスターを約3000枚貼った結果、ピースボートの船代が全額割引となった(もともとの船代は99万円)。船代に関しては1円もピースボートに払っていない。そんな僕が、今回、ポスター貼りのコツを伝授しようと思う。


ピースボートのポスター貼りにはいろんなタイプがいる

僕がポスター貼りをしていたのは約8か月ほど。僕が所属していたのは今はなき「ボランティアセンターおおみや」という、マンションの一室を借りて運営していた、ピースボートの事務所の中でもひときわ小さなところだった。

そこにはいつも通ってくるメンバーが何人かいて(本当に、「何人か」という規模だ)、家族よりも長い時間を共に過ごす。一緒にポスター貼りに行ったことも何回もあるし、ポスター貼りが終わって事務所でのんべんだらりとしたり、週に一度連絡会を行ったりして、他の人がどういうポスター貼りをしているのかもなんとなく聞いていた。

すると、あることに気づく。

人によってポスター貼りのスタイルが違う。

もっとわかりやすく言えば、人によって得意不得意がある、ということだ。

例えば、抜群のコミュニケーション力を武器に交渉を進める人がいる。

一方で、とにかく長距離を歩き、店の数を稼ぐ人もいる。

短期間で信じられない枚数を貼る人もいる。

一方で、枚数よりも、貼らせてもらったお店の人から直接「ピースボートの資料欲しいんだけど」と声をかけてもらうことが得意な人もいる。

また、人によって「この店が得意」とか「こういう時間帯が得意」という人もいる。

人によってポスター貼りのスタイルは千差万別である。

つまり、「ポスター貼りのコツ」というのも、聞く人によって変わってくる、ということだ。

これから話すのはあくまでも「僕が使っていたコツ」である。これを読んだあなたが僕のやり方を試してみたところで、必ずうまくいく、なんて保証は残念ながらできない。ポスター貼りのスタイルが違えば、うまくいかない可能性もある。

それでも、なるべくどんなタイプの人でも通用するであろうやり方を書くつもりだ。

ポスター貼りのコツ① とにかく、多くの店に入る

これは僕の意見、というよりも、一般論に近い。とにかく多くの店に入ること。店の前で「どうしようかな……」と躊躇するくらいだったら、入ってしまえとさんざん言われた。

とはいえ、何でもかんでも入ればいい、というわけではない。例えば、飲食店だったらランチタイムは避け、もっと好いている時間に行く。明らかに今忙しそうにしている店も後回しだ。「いま忙しいんだよ!」と怒られたら元も子もない。

それでも、店に入るのはいつだって勇気がいる。

一番勇気がいるのは多分、「その日最初の店」だと思う。こっちのスイッチがまだ入りきっていないときに店に入る、というのは一番勇気がいる。

逆に言うと、こっちのスイッチが入ってれば、トライしやすくなる。

とにかく、大事なのは「リズム」なのかもしれない。断られても「次だ次!」と前向きに問えらえられるようになれば、リズムよくいろんな店にトライできる。アドレナリンが関係しているのかもしれない。

ポスター貼りのコツ②交渉編 相手の顔を、目線を見て判断する

一般論から言うと、ダメもとで交渉をするべきである。相手が「ウチはちょっと……」と断ろうとしても、「そこを何とか」と食い下がることが大切だ。その結果、交渉に成功した例もいくつかある。

とはいえ、これはコミュニケーション力がある人が成功しやすい、と僕は思う。

しつこく食い下がるとかえってクレームに発展しやすいし、食い下がった結果ダメだったら、時間の無駄になってしまう。

これは「そこを何とか」と言って、嫌われることなく話を勧められるスキルがあってこそ、ともいえる。

僕はそんなスキルないので、あまり食い下がらなかった。

正確に言うと、「食い下がっていい時」と「食い下がっても無駄な時」を見極めていた。

まず、あいさつのときは相手の不信感を一気に取り除くことを心掛けた。

「すいませ~ん、私、NGOピースボートでポスター貼りのボランティアをしているものでして……」

最初に、自分は客ではなく、こういう身分のものだと一気に説明する。お店側の「こいつは何者だ?」という不安を取り除くことが大切だ。

そして交渉に入る。

「こちらのお店のポスター貼らせてもらうことはできないかなぁと思ってきたんですけど……」

僕はここでいったん、話を区切る。この後、「貼らせてもらえませんでしょうか?」的なセリフが続くわけだが、とりあえずいったんここで話を止める。

話しを止めて相手の顔を見る。

慣れているお店なら、この時点でOKをくれる。

そして、「絶対ダメ」な場合は、難色を示す。

難色を示すというのはどういう状態かというと、「そういう顔をしている」ということだ。だいたい、苦笑している。

コミュニケーション力がある人はここで食い下がれるのだろうが、僕は食い下がらなかった。一件に食い下がるよりも、より多くの店に行くために時間を使いたいので、「ダメですか?」と聞き、「ダメです」と言われたら、「あ~、すいません。お邪魔しましたぁ」と引き下がる。

一方で、次のような反応が見られた場合、僕は食い下がる。

それは、「店内をきょろきょろと見渡す」。

これは「どこか貼らせてあげられる場所はないかな~?」と探してくれているのだ。

その結果、「ごめんね。スペースがなくて……」と断られても、これは「最初からダメ! 何が何でもダメ!」のダメではなく、「貼らせてあげたいけど、スペースがない」のダメである。

ここで食い下がる。

「あ、ほんとに、こういうちょっとしか見えない端っことか、トイレとかバックヤードでも全然かまわないので……」

そう言うと、「何だ、そんなところでいいのか」と言って貼らせてくれるケースは結構ある。

ポスター貼りのコツ③技術編 Pカットテープの貼り方

ポスターを貼る道具は次の三つが一般的だ。

①両面テープ

②画鋲

③Pカットテープ

基本は両面テープだ。ガラスなどにつけやすく、剥がしやすい。

両面テープがくっつきそうにない壁には、画鋲で刺して止める。

厄介なのがPカットテープだ。

これは「つるつるした壁には貼ってはいけない」というルールがある。ガラスのようにつるつるしたものに貼りつけると、剥がすときに跡がついて、クレームになってしまうらしい。

Pカットテープをどういうときに使うのかというと、両面テープや画鋲では貼ることができず、なおかつつるつるしていないもの。すなわち、ブロック塀やコンクリートの壁など、ざらざらした壁やでこぼこした壁だ。まかり間違ってもガラス窓焼きの壁に貼ってはいけないし、コンクリートでもつるつるしているのなら両面テープで張っていいと思う。

あくまでも「ざらざら、でこぼこした壁」に貼るのだ。

そして、そういった壁は、Pカットテープといえども簡単には貼りつかない。

こういう時は、親指をテープにぐりぐりと押し付ける。

テープと壁の間の空気をすべて抜き、テープを壁に密着させ、スキマなく貼りつける。そんなイメージでぐりぐりと押し付ける。指圧のイメージに近いかもしれない。

実際、このやり方で、お店の人から「貼ってもいいけど、つかないと思うよ」と言われた壁に見事貼りつけ、「大したもんだ」と褒められたことがある。また、「いつも貼ってもらうんだけれど、壁がざらざらしてて3日も持たない」と言われた壁に僕が貼った結果、1年以上にわたり残ったということもある。

「どんなにざらざら、でこぼこした壁にもポスターを貼りつけられる」というのは、僕が唯一自慢できるポスター貼りの技術だ。

ポスター貼りのコツ④ 3つの強さ

徳にポスター貼り終盤の話なのだが、僕は『3つの強さ』を意識してやっていた。

その「3つの強さ」とは

①打たれ強さ

②粘り強さ

③勝負強さ

である。

打たれ強さとは、断られてもすぐ次の店に飛び込む、という打たれ強さだ。

ポスター貼りとは、まず断られる方が普通だ。

何度も何度も断られるとと心が折れてくる。ポスター貼りをやっていたら、「心が折れる」というのはよく聞く言葉だ。

しかし、夜が更けてくると「帰りの時間」というのも意識しなければならない。それは、自分自身の帰りの時間ももちろんだし、事務所で待ってくれているスタッフの帰りの時間も考慮しなければいけない。

つまり、夜が深くなるほどに、断られて「はぁ……」とため息をついている時間はなくなるのだ。「次だ次!」と切り替えて別の店に行き、なるべく早く全ての店を回ることが大切だ。「どうして断られるんだろ……」という反省会は帰りの電車ですればいい。

次に粘り強さだが、これは「一つの店に粘ること」ではない。さっきも書いたように、僕は相手の顔色を見て、粘れるときに粘るタイプだ。

そうではなく、「その町に店がある限り、アタックする」という粘りだ。

丸一日歩き続けていると足が痛くなり、体力がなくなる。

そんな状況で遠くの方に赤ちょうちんが見える。居酒屋はポスターが貼れる可能性が高い。

「粘り強さ」とは、ここで「なんか遠くに飲み屋が見えるけど、あそこまで行くの面倒くさいな……」と思っても、足を伸ばす、つまり、その町で体力の限りどこまで粘れるか、ということだ。

「こんなもんでいいか」と思わずに、時間の許す限りその町で粘る。それが「粘り強さ」である。

そして最後に勝負強さ。それは、ここぞという時に結果を出す、ということだ。

それは思うようにいかなかった日の翌日とか、「このエリアでこの枚数いかなかったらまずいよ」と言われたときとか、ポスター貼りの残り日数が減ってきて、「今日、50枚貼れなかったら、あとが厳しい」なんていう状況で結果を出す、ということである。

これはどちらかというと精神論に近いのかもしれない。大事なのは、「自分はここぞという時に結果を出せる」と信じることだ。もちろん、実際にそういう経験があって、それを思い出せれば、より強く信じられる。

かなりストイックな話をしたかもしれないが、この『3つの強さ』は、僕が出航1か月前、毎日自己ベストに近い枚数を貼りつづけなければいけない状況に追い込まれたときに考えたことだ。日ごろからこんなこと考えてやっていたわけではない。しかし、追い込まれたときは、「3つの強さ」を思い出してほしい。

ポスター貼りにおいて一番重要なこと

ポスター貼りにおいて一番重要なこと、それは、「あきらめても足を止めないこと」。

用意した枚数の半分も貼れず、「今日はもうだめだ」と思うことはポスター貼りをやっている間、何度も訪れる。

一方で、そう思いながらも店を探して歩き続けたら、結構貼れた、ということも何回かある。

心は諦めてしまっても構わない。それでも足を止めることなく、店を回り続けることが大切だ。

むしろ、とっとと諦めろ、と僕は言いたい。

「絶対あきらめない!」と踏み出した一歩と、「たぶん、もう無理だ」と諦めて踏み出した一歩、どっちも一歩だ。歩幅は大して変わりやしない。「前に向かって歩いている」ということが大切なのであって、どんな気持ちなのかはさほど大した問題ではない。

むしろ、「絶対に諦めない!」と意気込んで歩く方が、体力を使う。疲れる。結果、足が止まる。だったら「どうせ無理だ」と諦めて、なおかつ足を動かした方が気が楽だし、体も楽だ。結果、長時間・長距離を歩ける。

今回書いたのは、あくまでも僕のやり方だ。最初に書いた通り、一人ひとりスタイルが違う。僕の話は参考程度にとどめておいてあまりこだわらずに、どんどんポスター貼りを経験して、自分のスタイルを見つけることが大切だ。

宇宙民俗学の幕開け ~民俗学は宇宙を舞台としうるか~

宇宙。それは人類に残された最後の秘境。あらゆる科学の分野が宇宙開発や宇宙の研究に通じている。あらゆる科学が、宇宙をフィールドとしうるならば、日本民俗学も宇宙に飛び出してもいいのではないだろうか。ここに、宇宙民俗学の幕開けを宣言しよう。果たして、日本民俗学は宇宙をフィールドとしうるのか。

民俗学が宇宙を舞台にする

そもそも、民俗学とはどういった学問だろうか。

日本民俗学の父、柳田國男によれば、農村をフィールドとして調査をし、文字に残らなかった常民の歴史を明らかにすることである。今日ではこの「常民」の定義も議論の余地があるが、要は、農村や漁村に行って、ごく普通の人々の歴史や文化を調べる学問である。

ということは、民俗学が宇宙をフィールドにするということは、宇宙に行って、ごく普通の宇宙人の歴史や文化を調べるということであろうか。

無理だ!

そこで、視点を変えよう。

日本に住むごく普通の人々は、宇宙をどのようにとらえているのか。どのような宇宙観を持っているのか。

今より科学が未発達な時代、人々は宇宙に対してどのようなイメージを抱いていたのか。

これを明らかにする、それが宇宙民俗学である。そう考えたら、宇宙民俗学もできそうではないか。

例えば、宇宙を「他界」と考えてみたら、その研究は民俗学の領域ではないだろうか。

最後の他界、宇宙

他界、というと現在では死んでしまうことを意味するが、民俗学における「他界」とは、文字通り他の世界、つまり、別世界を意味する。

と言っても、異次元とか異世界転生とかそういった「他界」ではない。

今よりも交通の便がずっと悪く、インターネットなんてない時代、一人の人間が把握できる世界というのはとてもとても狭かった。その外はもう「別の世界」なのだ。

民俗学では、具体的に次の4つの他界がある。

天上他界……空の上に違う世界がある、という考え方だ。空まで行かなくても、木の上という考え方がもある。「天女の羽衣」なんて話がまさにそれだ。現代風に言えば、「天空の城ラピュタ」である。

海上他界……海の向こうには別世界が広がっている、という考え方だ。「常世の国」とか「ニライカナイ」などと呼ばれている。かの有名な竜宮城や鬼が島も海上他界の一種だ。

地下世界……地面の下には別の世界がある、という考え方だ。地底人である。「おむすびころりん」などが地下世界の代表例だろう。

山上世界……山の上、さらに言えば山の向こうには異世界があるという考え方だ。例えば、「遠野物語」を読むと山にまつわる怪異の話はとても多い。

さらに、国家レベルで考えても、国境の向こう側は別世界だった。「別の国」ではない、「別世界」だ。鬼が跋扈するバケモノの世界と考えられていた。

例えば、かつての平安京の貴族たちにとって、遠く東北の地やその先の北海道などは、鬼の住むところと恐れられていた。

もちろん、現代の世で「東北や北海道は人の住むところではない!」などと言ったら、訴えられてもおかしくない。交通が発達し、情報が発達し、「あそこに住むのは、鬼ではなく人である」とわかったからである。

科学の発達でどんどん他界はなくなっていった。空を飛べるようになったが、天女はいなかった。海の向こうにはいろんな国があったが、ニライカナイはなかった。

人類の活動領域が増えるにつれ、どんどん「他界」はなくなっていった。人間が夢を見ていい場所はどんどん奪われていった。

しかし、科学は人類に新たな、そしてとても広大な他界の存在を教えてくれた。それこそが宇宙である。

日本人と宇宙

人類が宇宙に行けるようになったのは、歴史上ごく最近のことだ。

しかし、宇宙に行けなくても、ずっと人類は宇宙を見てきた。

88ある星座のほとんどはギリシャ神話に基づいたものだ。古代ギリシャの遊牧民たちが、夜空の星に神々の物語を重ねた。これは何もギリシャ人だけがやっていたわけではなく、どこの国にも星にまつわる神話はある。

さて、日本人は宇宙をどのようにとらえていたのだろうか。

一番大切な星はやっぱり太陽だろう。日本国旗「日の丸」も名前の通り太陽をデザインした旗だ。また、天皇家も太陽の神である天照大神の子孫だと言われている。

農業国である太陽は日本人にとって、生活とは切り離せないものだった。

一方、月も大事な星だ。日本は幕末まで太陰暦、月の満ち欠けを暦に使っていた。そのため、月の欠け具合30パターン全てにちゃんと名前がある。

もちろん、ちゃんと月の神様もいる。ツクヨミノミコトである。セーラームーンではない。

月を舞台にした有名な物語と言えば、やはりかぐや姫だろう。正確には舞台はどこかの竹林で、月はヒロインの出身地なのだが、それは逆に「月に誰か住んでいるのかも」と日本人は昔から考えていたことを意味する。ウサギは月に住む霊獣だと考えられていた。

一方で、宇宙のあらゆる現象は「凶事の前触れ」とか「天帝がいまの政治に怒っている」という風にとらえられていた。これは中国の思想の影響もある。そのため、陰陽寮という役所には天文博士という役職があり、毎晩夜空を観測しては、その夜空が何を意味するのかを占っていた。この天文博士の代表格が、ファンタジーでおなじみの安倍晴明である。

人類が宇宙に行くようになったのはごく最近だ。しかし、人はずっと昔から、宇宙を見てきたのだ。

他界としての宇宙

さて、科学の発展で「他界」はどんどん失われてきた。その一方、科学は宇宙という新たな他界を生み出した。

宇宙には、この地球と同じような星がいくつもある。地球のように水と空気と気温に恵まれた星はまだ見つかっていないが、星という大地が宇宙に無数にあることはわかっている。

かつて、海の向こうにニライカナイや竜宮城を夢見たように、「宇宙の向こうにも、別の世界、未知の文明があるのではないか」と考えるようになった。

そして、「怪異」も宇宙を由来とするようになった。

「山で妖怪にあった!」なんて話はその数を減らし、そのかわり「UFOを見た!」とか「宇宙人にさらわれた!」なんて話を聞くようになった。昔だったら人をさらうのは山から来た天狗と決まっていたが、今では宇宙人によるアブダクションだ。

日本のいたるところにかっぱのミイラがある。しかし、いまどきかっぱのミイラを見つけても流行らない。今のはやりは宇宙人やUFOの写真である。

宇宙という新たな他界は、今やオカルト界の一番人気だ。

例えば、何年か前、イギリスが「英国政府は宇宙人を確認していない」と正式発表した。するととあるオカルト評論家がこんなコメントを出した。

「この発表の何が恐ろしいかというと、宇宙人がいないというのなら、今まで我々が宇宙人の写真だと思ってきた、あそこに映っていた奴らは宇宙人でないとしたらいったい何なのでしょうか」

なるほど。今まで宇宙人だと思ってきたものが実は宇宙人ではなかった、そう言われるとなんだかぞっとする。だが、同時に僕はこうも思った。

「……宇宙人でなければ妖怪じゃないの?」

そう、今我々が「宇宙人」だと思っているものを昔の人に見せたら、おそらく「妖怪」というはずだ。思えば、よくオカルト番組に出てくる「宇宙人の写真」も、別に本人が「ワレワレハウチュウジンダ」と名乗ったわけではない。写真を見せる側が「これは宇宙人の写真です!」「宇宙人を捕まえました!」と言っているにすぎない。

今まで「妖怪」だと思われていたものが、「宇宙」という他界の存在を知ったために、単に「宇宙人」と呼ばれるようになっただけではないのか。

さらにこんな話もある。とある雑誌でかっぱの特集をしていた。

その雑誌では「かっぱは妖怪ではなく、実は宇宙人だった!」という斬新な説を紹介していた。それを読んで僕はこう思った。

「……妖怪と宇宙人はどう違うんだろう? っていうか、どっちでもいいや」

そう、妖怪と宇宙人は本質的には一緒なのだ。「川底という他界からやってきて、妖術を操るかっぱ」と、「宇宙という他界からやってきて、超科学を操る宇宙人」は、実は本質的には一緒なのだ。

それまで「妖怪」と呼ばれてきたものが、「UFO」とか「宇宙人」と言いかえられているだけなのではないだろうか。だとしたら、民俗学がでしゃばる余地はある。

現代の他界 ~宇宙・デジタル・幻想郷~

繰り返しになるが、科学の発達でこれまで「他界」とされてきたものは急速に減っていった。

しかし、現代は他界のないつまらない世界なのかと聞かれればそうではない。

例えば、海底はまだまだ他界である。かつては海の底は竜宮城があると考えられていたが、今では海の底にはゴジラが棲んでいると考えられている。地球上で体長50mを越えるバケモノを隠せる場所と言ったら、もうそこしか残っていない、実際、海底はまだまだ未知の生物の多い場所だ。

そして、科学や情報の発達は、それまで存在していなかった新たな他界を生み出した。

例えば、デジタル世界がそうだろう。1978年のインベーダーゲーム、1983年のファミリーコンピューター発売。スーパーマリオやドラクエ、ポケモン、モンハンと様々なゲームを生み出してきた。

昔のゲームは白黒の上8ビットと画質は粗く、おまけに移動は縦と横しかなかった。僕が子供のころにはさすがにゲームもカラーになっていたが、まだまだ画質は粗かった。

だからこそ、96年の任天堂64と「スーパーマリオ64」の登場は衝撃的だった。立体的なマリオが立体の世界を冒険するという、今では当たり前となった光景がCMで流されたとき、当時小学生だった僕はぽかんと口を開けてみていた。あの衝撃は今でも忘れない。「ゲームの向こうに世界がある」、本気でそう思ったものだ。

時は流れ、ライトノベルや深夜アニメなんかを見ると、「ゲームの世界」を舞台にした作品は多い。ソードアート・オンラインやアクセル・ワールド、あ、どっちも川原礫だ。他にも「現実世界の人間がゲームの世界を冒険する」という話は多い。

一方で、ゲームをモチーフとした「仮面ライダーエグゼイド」は、ゲームの中から出てきたウイルスと戦う話だ。こちらはゲームの世界が現実の世界を侵食していく。

他にも「リング」や「着信アリ」など、デジタルの他界をモチーフとした話は多い。

また、近年、ラノベで「異世界転生もの」がふえている。本屋のラノベのコーナーに行けば、右も左も「異世界に転生して、変な職業につくんだけれども、チートの強さを誇る話」だ。

どうしてみんな異世界転生ものばっかり書くのか。ラーメン激戦区にわざわざラーメン屋を出店するようなものではないか。

という「異世界転生もの」の是非は置いといて、ここでいう「異世界」とは、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーに出てくるような、中世ヨーロッパ的な世界観を土台にしいた、いわゆる「剣と魔法の世界」である。

日本人として生まれてしまった以上、中世ヨーロッパのような世界観で暮らすことはなかなか難しい。お金の問題、言語の問題、文化の問題、クリアすべき問題は実にたくさんある。

おまけに「魔法がある世界」に至っては完全に無理である。

しかし、ゲームの台頭により、そういった世界観は身近なものになった。かつて、人類が行くあてもない宇宙を眺めて憧れたように、今の子供たちは「剣と魔法の幻想郷」という「絶対に行けない世界」を画面越しに眺めて暮らしてきたのだ。

デジタル世界と剣と魔法の幻想郷、そして宇宙。この三つが、現代になって現れた「他界」と言えよう。

民俗学における他界の条件

こうやって見ていくと、「他界」として認識されるのは大きく二つの条件があることがわかる。

一つは「簡単にはいけないこと」。

山の向こうも海の向こうも、かつては簡単にはいけないところだった。そして現代、宇宙には簡単にはいけないし、ゲームの世界にも、剣と魔法の世界にも行けない。

他界には簡単にはいけない。しかし、他界は常に人間のそばに、見えるところになくてはいけない。これが二つ目の条件だ。

例えば、遠野物語にはニライカナイの話は登場しない、はず。遠野の人たちにとって、海の向こう以前にまず、海が身近ではなかったからだ。その代わり、山の不思議な話は山ほど出てくる。

デジタルの他界も、ゲームやパソコン、携帯電話が身近だから成立するのだろう。

「剣と魔法の世界」という、ヨーロッパの人からすれば今更感のある場所がいま、日本で高いとして注目されているもの、ゲームによってこれらの世界観が日本人の身近なものとなったからに他ならない。

そして、宇宙。僕らはまいにち宇宙を見ている。宇宙に行った人は数少ないが、宇宙を見た人ならたくさんいる。窓を開けて、月を見ればいい。一番近い宇宙だ。

一方、漠然とした「異世界」や「異次元」は他界とはなりえない。なぜなら、漠然と「異次元」と言われてもさっぱりイメージがつかないからだ。見えるところにあるからこそ、他界としてイメージしやすいのだ。

見えるところにあるけれども、簡単にはいけない場所。それが他界の条件だ。

だとすれば、「デジタル」と「幻想郷」は、近いうち他界ではなくなってしまうかもしれない。VRの登場でゲームの世界に入り込めるようにもなったし、ということは剣と魔法の世界にも行ける、ということだ。

しかし、宇宙は別格だ。

宇宙に行きたい人に宇宙のVRを見せたところで満足しないだろう。むしろ、本物の宇宙への欲求をさらに高めるだろう。

もちろん、宇宙に行くことは不可能ではない。実際に人類はもう宇宙に行っている。

ただし、宇宙に行ける人間は限られている。宇宙飛行士は選ばれた人のみの職業だし、民間の宇宙旅行もまだまだ億万長者のものだ。

よしんば、海外旅行の間隔で月に行ける時代が来たとして、宇宙は広い。広すぎる。宇宙全てをくまなく探検することは、不可能だ。

だから、宇宙は他界であり続ける。

 

いろいろと書いたが、そもそもの話は「民俗学は宇宙を舞台にできるか」である。

宇宙も竜宮城も「身近だけれど簡単にはいけない他界」という意味では本質的一緒だ。宇宙人といじめられているしゃべるカメも本質的には同じものだし、玉手箱と半重力発生装置も本質的には同じものである。

だとしたら、宇宙だって民俗学の領域である。