宇宙民俗学の幕開け ~民俗学は宇宙を舞台としうるか~

宇宙。それは人類に残された最後の秘境。あらゆる科学の分野が宇宙開発や宇宙の研究に通じている。あらゆる科学が、宇宙をフィールドとしうるならば、日本民俗学も宇宙に飛び出してもいいのではないだろうか。ここに、宇宙民俗学の幕開けを宣言しよう。果たして、日本民俗学は宇宙をフィールドとしうるのか。

民俗学が宇宙を舞台にする

そもそも、民俗学とはどういった学問だろうか。

日本民俗学の父、柳田國男によれば、農村をフィールドとして調査をし、文字に残らなかった常民の歴史を明らかにすることである。今日ではこの「常民」の定義も議論の余地があるが、要は、農村や漁村に行って、ごく普通の人々の歴史や文化を調べる学問である。

ということは、民俗学が宇宙をフィールドにするということは、宇宙に行って、ごく普通の宇宙人の歴史や文化を調べるということであろうか。

無理だ!

そこで、視点を変えよう。

日本に住むごく普通の人々は、宇宙をどのようにとらえているのか。どのような宇宙観を持っているのか。

今より科学が未発達な時代、人々は宇宙に対してどのようなイメージを抱いていたのか。

これを明らかにする、それが宇宙民俗学である。そう考えたら、宇宙民俗学もできそうではないか。

例えば、宇宙を「他界」と考えてみたら、その研究は民俗学の領域ではないだろうか。

最後の他界、宇宙

他界、というと現在では死んでしまうことを意味するが、民俗学における「他界」とは、文字通り他の世界、つまり、別世界を意味する。

と言っても、異次元とか異世界転生とかそういった「他界」ではない。

今よりも交通の便がずっと悪く、インターネットなんてない時代、一人の人間が把握できる世界というのはとてもとても狭かった。その外はもう「別の世界」なのだ。

民俗学では、具体的に次の4つの他界がある。

天上他界……空の上に違う世界がある、という考え方だ。空まで行かなくても、木の上という考え方がもある。「天女の羽衣」なんて話がまさにそれだ。現代風に言えば、「天空の城ラピュタ」である。

海上他界……海の向こうには別世界が広がっている、という考え方だ。「常世の国」とか「ニライカナイ」などと呼ばれている。かの有名な竜宮城や鬼が島も海上他界の一種だ。

地下世界……地面の下には別の世界がある、という考え方だ。地底人である。「おむすびころりん」などが地下世界の代表例だろう。

山上世界……山の上、さらに言えば山の向こうには異世界があるという考え方だ。例えば、「遠野物語」を読むと山にまつわる怪異の話はとても多い。

さらに、国家レベルで考えても、国境の向こう側は別世界だった。「別の国」ではない、「別世界」だ。鬼が跋扈するバケモノの世界と考えられていた。

例えば、かつての平安京の貴族たちにとって、遠く東北の地やその先の北海道などは、鬼の住むところと恐れられていた。

もちろん、現代の世で「東北や北海道は人の住むところではない!」などと言ったら、訴えられてもおかしくない。交通が発達し、情報が発達し、「あそこに住むのは、鬼ではなく人である」とわかったからである。

科学の発達でどんどん他界はなくなっていった。空を飛べるようになったが、天女はいなかった。海の向こうにはいろんな国があったが、ニライカナイはなかった。

人類の活動領域が増えるにつれ、どんどん「他界」はなくなっていった。人間が夢を見ていい場所はどんどん奪われていった。

しかし、科学は人類に新たな、そしてとても広大な他界の存在を教えてくれた。それこそが宇宙である。

日本人と宇宙

人類が宇宙に行けるようになったのは、歴史上ごく最近のことだ。

しかし、宇宙に行けなくても、ずっと人類は宇宙を見てきた。

88ある星座のほとんどはギリシャ神話に基づいたものだ。古代ギリシャの遊牧民たちが、夜空の星に神々の物語を重ねた。これは何もギリシャ人だけがやっていたわけではなく、どこの国にも星にまつわる神話はある。

さて、日本人は宇宙をどのようにとらえていたのだろうか。

一番大切な星はやっぱり太陽だろう。日本国旗「日の丸」も名前の通り太陽をデザインした旗だ。また、天皇家も太陽の神である天照大神の子孫だと言われている。

農業国である太陽は日本人にとって、生活とは切り離せないものだった。

一方、月も大事な星だ。日本は幕末まで太陰暦、月の満ち欠けを暦に使っていた。そのため、月の欠け具合30パターン全てにちゃんと名前がある。

もちろん、ちゃんと月の神様もいる。ツクヨミノミコトである。セーラームーンではない。

月を舞台にした有名な物語と言えば、やはりかぐや姫だろう。正確には舞台はどこかの竹林で、月はヒロインの出身地なのだが、それは逆に「月に誰か住んでいるのかも」と日本人は昔から考えていたことを意味する。ウサギは月に住む霊獣だと考えられていた。

一方で、宇宙のあらゆる現象は「凶事の前触れ」とか「天帝がいまの政治に怒っている」という風にとらえられていた。これは中国の思想の影響もある。そのため、陰陽寮という役所には天文博士という役職があり、毎晩夜空を観測しては、その夜空が何を意味するのかを占っていた。この天文博士の代表格が、ファンタジーでおなじみの安倍晴明である。

人類が宇宙に行くようになったのはごく最近だ。しかし、人はずっと昔から、宇宙を見てきたのだ。

他界としての宇宙

さて、科学の発展で「他界」はどんどん失われてきた。その一方、科学は宇宙という新たな他界を生み出した。

宇宙には、この地球と同じような星がいくつもある。地球のように水と空気と気温に恵まれた星はまだ見つかっていないが、星という大地が宇宙に無数にあることはわかっている。

かつて、海の向こうにニライカナイや竜宮城を夢見たように、「宇宙の向こうにも、別の世界、未知の文明があるのではないか」と考えるようになった。

そして、「怪異」も宇宙を由来とするようになった。

「山で妖怪にあった!」なんて話はその数を減らし、そのかわり「UFOを見た!」とか「宇宙人にさらわれた!」なんて話を聞くようになった。昔だったら人をさらうのは山から来た天狗と決まっていたが、今では宇宙人によるアブダクションだ。

日本のいたるところにかっぱのミイラがある。しかし、いまどきかっぱのミイラを見つけても流行らない。今のはやりは宇宙人やUFOの写真である。

宇宙という新たな他界は、今やオカルト界の一番人気だ。

例えば、何年か前、イギリスが「英国政府は宇宙人を確認していない」と正式発表した。するととあるオカルト評論家がこんなコメントを出した。

「この発表の何が恐ろしいかというと、宇宙人がいないというのなら、今まで我々が宇宙人の写真だと思ってきた、あそこに映っていた奴らは宇宙人でないとしたらいったい何なのでしょうか」

なるほど。今まで宇宙人だと思ってきたものが実は宇宙人ではなかった、そう言われるとなんだかぞっとする。だが、同時に僕はこうも思った。

「……宇宙人でなければ妖怪じゃないの?」

そう、今我々が「宇宙人」だと思っているものを昔の人に見せたら、おそらく「妖怪」というはずだ。思えば、よくオカルト番組に出てくる「宇宙人の写真」も、別に本人が「ワレワレハウチュウジンダ」と名乗ったわけではない。写真を見せる側が「これは宇宙人の写真です!」「宇宙人を捕まえました!」と言っているにすぎない。

今まで「妖怪」だと思われていたものが、「宇宙」という他界の存在を知ったために、単に「宇宙人」と呼ばれるようになっただけではないのか。

さらにこんな話もある。とある雑誌でかっぱの特集をしていた。

その雑誌では「かっぱは妖怪ではなく、実は宇宙人だった!」という斬新な説を紹介していた。それを読んで僕はこう思った。

「……妖怪と宇宙人はどう違うんだろう? っていうか、どっちでもいいや」

そう、妖怪と宇宙人は本質的には一緒なのだ。「川底という他界からやってきて、妖術を操るかっぱ」と、「宇宙という他界からやってきて、超科学を操る宇宙人」は、実は本質的には一緒なのだ。

それまで「妖怪」と呼ばれてきたものが、「UFO」とか「宇宙人」と言いかえられているだけなのではないだろうか。だとしたら、民俗学がでしゃばる余地はある。

現代の他界 ~宇宙・デジタル・幻想郷~

繰り返しになるが、科学の発達でこれまで「他界」とされてきたものは急速に減っていった。

しかし、現代は他界のないつまらない世界なのかと聞かれればそうではない。

例えば、海底はまだまだ他界である。かつては海の底は竜宮城があると考えられていたが、今では海の底にはゴジラが棲んでいると考えられている。地球上で体長50mを越えるバケモノを隠せる場所と言ったら、もうそこしか残っていない、実際、海底はまだまだ未知の生物の多い場所だ。

そして、科学や情報の発達は、それまで存在していなかった新たな他界を生み出した。

例えば、デジタル世界がそうだろう。1978年のインベーダーゲーム、1983年のファミリーコンピューター発売。スーパーマリオやドラクエ、ポケモン、モンハンと様々なゲームを生み出してきた。

昔のゲームは白黒の上8ビットと画質は粗く、おまけに移動は縦と横しかなかった。僕が子供のころにはさすがにゲームもカラーになっていたが、まだまだ画質は粗かった。

だからこそ、96年の任天堂64と「スーパーマリオ64」の登場は衝撃的だった。立体的なマリオが立体の世界を冒険するという、今では当たり前となった光景がCMで流されたとき、当時小学生だった僕はぽかんと口を開けてみていた。あの衝撃は今でも忘れない。「ゲームの向こうに世界がある」、本気でそう思ったものだ。

時は流れ、ライトノベルや深夜アニメなんかを見ると、「ゲームの世界」を舞台にした作品は多い。ソードアート・オンラインやアクセル・ワールド、あ、どっちも川原礫だ。他にも「現実世界の人間がゲームの世界を冒険する」という話は多い。

一方で、ゲームをモチーフとした「仮面ライダーエグゼイド」は、ゲームの中から出てきたウイルスと戦う話だ。こちらはゲームの世界が現実の世界を侵食していく。

他にも「リング」や「着信アリ」など、デジタルの他界をモチーフとした話は多い。

また、近年、ラノベで「異世界転生もの」がふえている。本屋のラノベのコーナーに行けば、右も左も「異世界に転生して、変な職業につくんだけれども、チートの強さを誇る話」だ。

どうしてみんな異世界転生ものばっかり書くのか。ラーメン激戦区にわざわざラーメン屋を出店するようなものではないか。

という「異世界転生もの」の是非は置いといて、ここでいう「異世界」とは、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーに出てくるような、中世ヨーロッパ的な世界観を土台にしいた、いわゆる「剣と魔法の世界」である。

日本人として生まれてしまった以上、中世ヨーロッパのような世界観で暮らすことはなかなか難しい。お金の問題、言語の問題、文化の問題、クリアすべき問題は実にたくさんある。

おまけに「魔法がある世界」に至っては完全に無理である。

しかし、ゲームの台頭により、そういった世界観は身近なものになった。かつて、人類が行くあてもない宇宙を眺めて憧れたように、今の子供たちは「剣と魔法の幻想郷」という「絶対に行けない世界」を画面越しに眺めて暮らしてきたのだ。

デジタル世界と剣と魔法の幻想郷、そして宇宙。この三つが、現代になって現れた「他界」と言えよう。

民俗学における他界の条件

こうやって見ていくと、「他界」として認識されるのは大きく二つの条件があることがわかる。

一つは「簡単にはいけないこと」。

山の向こうも海の向こうも、かつては簡単にはいけないところだった。そして現代、宇宙には簡単にはいけないし、ゲームの世界にも、剣と魔法の世界にも行けない。

他界には簡単にはいけない。しかし、他界は常に人間のそばに、見えるところになくてはいけない。これが二つ目の条件だ。

例えば、遠野物語にはニライカナイの話は登場しない、はず。遠野の人たちにとって、海の向こう以前にまず、海が身近ではなかったからだ。その代わり、山の不思議な話は山ほど出てくる。

デジタルの他界も、ゲームやパソコン、携帯電話が身近だから成立するのだろう。

「剣と魔法の世界」という、ヨーロッパの人からすれば今更感のある場所がいま、日本で高いとして注目されているもの、ゲームによってこれらの世界観が日本人の身近なものとなったからに他ならない。

そして、宇宙。僕らはまいにち宇宙を見ている。宇宙に行った人は数少ないが、宇宙を見た人ならたくさんいる。窓を開けて、月を見ればいい。一番近い宇宙だ。

一方、漠然とした「異世界」や「異次元」は他界とはなりえない。なぜなら、漠然と「異次元」と言われてもさっぱりイメージがつかないからだ。見えるところにあるからこそ、他界としてイメージしやすいのだ。

見えるところにあるけれども、簡単にはいけない場所。それが他界の条件だ。

だとすれば、「デジタル」と「幻想郷」は、近いうち他界ではなくなってしまうかもしれない。VRの登場でゲームの世界に入り込めるようにもなったし、ということは剣と魔法の世界にも行ける、ということだ。

しかし、宇宙は別格だ。

宇宙に行きたい人に宇宙のVRを見せたところで満足しないだろう。むしろ、本物の宇宙への欲求をさらに高めるだろう。

もちろん、宇宙に行くことは不可能ではない。実際に人類はもう宇宙に行っている。

ただし、宇宙に行ける人間は限られている。宇宙飛行士は選ばれた人のみの職業だし、民間の宇宙旅行もまだまだ億万長者のものだ。

よしんば、海外旅行の間隔で月に行ける時代が来たとして、宇宙は広い。広すぎる。宇宙全てをくまなく探検することは、不可能だ。

だから、宇宙は他界であり続ける。

 

いろいろと書いたが、そもそもの話は「民俗学は宇宙を舞台にできるか」である。

宇宙も竜宮城も「身近だけれど簡単にはいけない他界」という意味では本質的一緒だ。宇宙人といじめられているしゃべるカメも本質的には同じものだし、玉手箱と半重力発生装置も本質的には同じものである。

だとしたら、宇宙だって民俗学の領域である。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。