矛盾を愛せ! ~矛盾と葛藤に意味をもとめよう~

矛盾することはよくない。言っていることとやっていることが違う、思っていることに行動がともなわない。とくもかくにも矛盾は嫌われる。だが、人とはそもそも、矛盾をはらんだ生き物なのではないのか。矛盾を抱えてこその人間なのではないだろうか。


村上春樹の矛盾を許せない人々

先日、こんな記事を読んだ。

村上春樹氏、オウム13人死刑執行に「『反対です』とは公言できない」

この記事の内容をまとめると、「村上春樹は死刑に反対しているが、オウム事件の被害者や遺族に会った経験から、オウム事件の死刑執行について、『反対です』とは簡単には言えない」とのことだった。

この記事に探するコメントで特に「いいね」を集めていたのはこんな感じ。

死刑執行の政治的な利用は困るけど、今回の件だけは死刑反対派でも容認するってこと?ダブルスタンダードだね。

 

ちょっとなに言ってるかわからない

 

それがダブルスタンダードって言うんです。
自分が関係を持った件では反対と公言できず、関係が無いところでは反対をする。
常に遺族の立場で考えられないなら、反対すべきでは無い。

要は、「村上春樹の言っていることには、一貫性がない!」ということだ。

こういった意見を読んで、僕は「あれあれ?」と思った。

死刑に対して、理屈としては反対だけれど、感情的には反対と言い切れない。確かに、村上春樹のこの発言は大いに矛盾している。

だが、こういった矛盾は人間としてはむしろよくあるもの、いたって普通のことなのではないだろうか。

理屈としては理解できる。だが、感情としては納得できない。

理屈としては理解できない。だが、感情としては納得できる。

当然である。人間は右脳と左脳があり、それぞれがある程度の独立性を持っているのだから。理屈と感情で違う答えが出てしまうのは、人としていたって自然なことであり、その矛盾に悩むのも実に人間らしい行為である。

村上春樹の「理屈の上では反対だけれど、感情的には反対しきれない」というのは、大いに人間的なことではないだろうか。

それを村上春樹は隠すことなく吐露している。「死刑反対なんて言ってませーん」などとごまかしたりせず、「自分は死刑に対しては反対なんだけど」と明かしたうえで、その矛盾とジレンマを正直に話している。

逆に、こういった人間の矛盾を認めず批判する人というのはいったいなんなんだろうか。確かに、言動は一貫している方が良い。しかし、人間はやはり矛盾を内包してしまう存在なのだと思う。そして、そのジレンマを村上春樹は正直に告白しているのだ。むしろ、じゃあ彼ら自身は矛盾をすることはないのだろうか、と首をかしげてしまう。

こういった「人間的な矛盾」を理解せず、許せない人たちはきっと、村上春樹の作品なんて読んだことないのだろう。

……と偉そうに語ってみる。僕も読んだことないのだけれど(ないんかい)。

人は矛盾する生きものである

人は矛盾する生きものである。思い返してみるだけでも、矛盾した人間の言動はたくさんある。

好きな女の子についつい嫌がらせをしてしまう。

かわいさ余って憎さ百倍

いやよいやよも好きのうち

心にもないことを言う

好きだと言いたいのに言えない

行きたくないのに会社や学校に行く

永遠の愛をを誓って離婚(日本の離婚率は約3割)

結婚してるのに不倫する

かわいい子に限って自分に自信がない

「全然勉強してな~い」と言って高得点を取る

ダイエット中なのに焼肉

暑い日にあえてのラーメン

「つまらない」と言いながらテレビを見ている

「韓国も中国も嫌いだ!」というくせに、やけに韓国や中国に詳しい。嫌いなものの情報ばっかり集めてストレスにならないのか?

好きでもない奴とエッチをする

……途中から大喜利やマル決みたいになってしまった。

人間の感情を描き出す歌の世界には、もっと激しい矛盾が描かれている。

 

別れても好きな人/ロス・インディオス&シルビア「別れても好きな人」

好きだったら別れなければいいじゃないか、などというのは野暮というものだ。「別れても好きな人」「好きなのに別れる」という矛盾に情緒があるのだ。

 

わかっちゃいるけどやめられない/植木等「スーダラ節」

ハイ!スース―スーダララッタスラスラスースース―!アソーレ!スース―スーダララッタスラスラスースース―!

「わかっているからやめました」でもなければ、「わかってないからやめられない」でもない。「わかっちゃいるけどやめられない」という矛盾に人々は人間性を感じた。だからこそこの歌は後世にまで残るのだろう。

「天下一の適当男」として知られた植木等だが、お寺で生まれ育った彼の素顔はとてもまじめで、テレビで演じているタレントとしてのイメージとのギャップに悩んでいたという。この「矛盾」もまた、大いに人間味のあるエピソードだ。

 

会いたくて会いたくて震える/西野カナ「会いたくて会いたくて」

震えるくらいなら会いに行け! っていうか、病院に行って検査して来い!

などと思ってしまうが、これもまた野暮というものだろう。

 

わかってる、きっと会うことないって だから言います「マタアイマショウ」 僕なりのサヨナラの言葉よ/SEAMO「マタアイマショウ」

会うことないとわかっていて、別れのあいさつに「マタアイマショウ」。これまた大いに矛盾した歌だ。だが、これがそのまま「サヨナラ」だったら、なんてことない歌になってしまう。二度と会わないと覚悟しての「マタアイマショウ」という矛盾がより一層失恋の悲しみを感じさせる。

 

もう恋なんてしないなんて言わないよ絶対/牧原敬之「もう恋なんてしない」

これはちょっと解釈が難しい。「もう、恋なんてしないなんて言わない」のか「もう恋なんてしない、なんて言わない」なのか。前者の場合、一度は「恋なんてしない!」と言った、ということになる。

ただどちらにせよ、僕はこの歌の主人公は実は心の中で「もう恋なんてしない」と思っているんじゃないか、と思う。半分くらいはそう思ってるんじゃないだろうか。歌詞の中にも「もし君に一つだけ強がりを言えるのなら」と書かれている。

そう、「強がり」なのだ。矛盾なのだ。「もう恋なんてしないなんて言わない」と言いつつ、心の中では半分くらい「もう恋なんてしない!」と思っちゃってるのだ。

それでいて、残り半分は「もう一度恋をしたい」なんて思っている。だからこそこの歌は奥が深い。

これらの歌が人々を引き付けるのは、単に矛盾をはらんでいるだけではない。そのジレンマ、葛藤までもが透けて見えてくるからだろう。

例えば西野カナの「会いたくて会いたくて」。「会いたくて会いたくて会いに行った」だと、「あーそうなの、それで?」となってしまう。これじゃただの報告だ。「会いたくて会いたかって、でも会わなかった」だけだと、「いや、会いに行けよ!」となってしまう。

そうではなく、会いたくて会いたくて、でも会いに行かず、震えている」のである。「会いたい」と「会いたくない」の葛藤として震えているわけだ。ちょっと怖いけど。

二回も「会いたくて」というからにはよっぽど会いたいのだろう。

でも、会ってしまったら、何かが決定的に終わってしまうかもしれない。だから会いたくない。

でも、会いたい。

結果、震えているわけである。この「矛盾」と「葛藤」が人を惹きつけるのだ。

矛盾と葛藤に意味がある

映画の中で何か例はないかと考え、真っ先に思い浮かんだのが、「ルパン三世 カリオストロの城」のラストである。

「奴はとんでもないものを盗んでいきました。……あなたの心です!」

という日本アニメ映画師屈指のセリフのちょっと前のシーン。

ルパンの大活躍でカリオストロ公国のお姫様、クラリスは自由の身となった。クラリスはルパンに、そばに置いてほしい、泥棒の仕事もきっと覚えると懇願する。しかし、ルパンは「バカ言っちゃいけねぇよ」と、優しくクラリスの申し出を断る。クラリスは未来ある純粋なお姫様。一方、ルパンは泥棒、日陰の身だ。可憐な少女を闇の道に引きずり込むわけにはいかない。

ルパンとの別れを悟ったクラリスはルパンに抱き着く。ルパンもクラリスを抱きしめようとするが、苦悶の表情を浮かべながらそれをこらえ、クラリスのおでこに優しくキスをするのだった。

なんだよ! 男ならドンと行け! ドンと! チューくらいやっちゃえよ!

……などと言うのは野暮というものだ。

クラリスを抱きしめようとするルパンと、抱きしめてはいけないとこらえるルパン。矛盾する二人のルパン。その葛藤で苦悶の表情を浮かべる。この時のルパンが何を思っていたのかは見る側の想像に任されているが、矛盾と葛藤を見る側が推測することで、印象的なラストシーンになるのだ。

しかも、このシーにはもう一つ矛盾が隠されている。

クラリスのおでこに優しくキスをする紳士が、ルパン三世である、ということだ。

ハードボイルドな次元大介でもなければ、不器用な石川五ェ門でもない。ましてや、まじめな銭形のとっつぁんですらない。

かわいい女の子を見るとすぐ鼻の下を伸ばし、「不二子ちゃあん」と峰不二子の色香にやられていつも出し抜かれている、生まれついての女ったらし、あのルパン三世がとった行動なのだ。

あの女ったらしのルパン三世が、クラリスを抱きしめるのをこらえ、おでこにキスをした。

大いなる矛盾である。だからこそ、余計にこのシーンは印象深い。

そして、ルパンの矛盾と葛藤は相棒の次元にあっさりと見抜かれ、「お前、残ってもいいんだぜ」とルパンをからかっている。

そもそも、「ルパン三世」という物語自体、「泥棒なのにカッコいい」と、大いに矛盾した存在なのだ。

 

人は矛盾する生きものだ。仕方がない。頭の中に右脳と左脳があるのだから。

人は矛盾し、それゆえに葛藤する。矛盾と葛藤こそが人間らしさと言える。

矛盾し、葛藤し、それを吐露する。それを「一貫性がない」などと鬼の首を取ったかのようにあげつらうのは、野暮というものだ。人の性ってやつをわかっていない。人間はそんな完璧な存在ではない。

矛盾と葛藤には意味がある。

矛盾と葛藤は人生のスパイスなのだ。

だからもっと、矛盾を愛せ。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。