日本人が政治に無関心な理由は、「お前ら」のせいだ!

「日本人は政治に無関心だ」と言われて久しい。投票率も平成に入ってガクッと落ちている。どうしてこんなに日本人は政治に無関心なのか。偶然見かけたある光景から「もしかして“この人たち”が原因なのでは?」と考えて、筆を執ってみた。なぜ、日本人は政治に無関心なのか。

偶然、首相演説を見たお話

2018年9月19日、私用で秋葉原を訪れた。

夕方、大通り沿いを警察官が警備している。「あれ、歩行者天国は日曜のはず……?」と首をかしげていると、なんだか大きな声が聞こえる。

どうやら、駅前でだれかが演説をしているらしい。そういえば、ニュースでも連日、来たるべき選挙の話をしている。

警察官が警備しているが、別に通行禁止になっているわけではないので近づいてみると、100m先に、総理大臣の名前の書かれたたれ幕があった。どうやら、総理大臣が演説をしているようだ。そういえば、総理大臣は秋葉原では特に人気があるらしく、選挙前の最後の演説はいつも秋葉原に来る、なんて聞いたこともある。

総理大臣の名前を発見した時、最初に思ったのが「え、なんでいるの?」

なぜなら、連日ニュースでやっている来るべき選挙というのは、自民党総裁選だったからだ。

もちろん、僕に選挙権はないし、道ゆく人々の大半が選挙権を持っていない。

わざわざ警察官を動員して街頭演説するよりも、自民党本部で演説をした方が効果的ではないだろうか。

さて、選挙カーの周りには日の丸の旗をもって振っている一団が見える。彼らにも選挙権はないと信じたい。選挙権のある人、つまりは自民党員が選挙カーの周りを囲んでいて旗を振っているのだとしたら、それは「サクラ」である。

この話はニュースにもなっていて、総理に反対する人たちも大勢集まってヤジを飛ばしていたそうだ。

僕はこの日、秋葉原で総理大臣の演説があるなんて全く知らなかった。この日わざわざ日の丸やプラカードを持って行った人は、どう考えても「演説があることを知って秋葉原にやってきた人たち」だろう。つまり、日ごろから総理大臣の動向を気にしている、かなり政治参加への意識の高い層だ。

そして、その100m先には「総理大臣が来ていて、演説している」とわかっていて、「来てるみたいだねー」と話しているにもかかわらず、スルーして歩く大勢の人々。

一国の総理が来ているというのに、みんな関心がなさそうだ。確かに、自民党総裁選の選挙権はないとはいえ、生の総理大臣がいるのだから、もっと集客力があってもよさそうだ。

これが福士蒼汰とか広瀬すずとか、SEXY ZONEとかだったら、もっとパニック状態になっていたのではないか。そういえば、この前テレビで福士蒼汰が秋葉原でロケをしているのを見たが、あの時はどうだったのだろう。

秋葉原という場所柄、もしかしたら水瀬いのりとか上坂すみれとか宮野真守の方が集客力があるかもしれない。しかし、全員一発変換できるとは、人気声優パネェ。

少なくとも、この時は「選挙カーに書かれた文字が見える位置まで、難なく近づけた」程度の混雑だった。めんどくさかったから行かなかったけど、あと半分くらい距離は余裕で詰められたと思う。「一部の熱心な人たち」しか集まっていなかったのが現実だ。

「一強」などと言われているけど、総理は意外と人気がなかった。いや、選挙カーの周りにいた人が「総理をすごく好きな人」と「総理をすごく嫌いな人」だとすると、「みんな意外と総理に興味なかった」の方が正しいのかもしれない。

総理大臣を無視してアニメイトやソフマップに吸い込まれる人たちを見ながら、ふと思った。

今、選挙カーの前で日の丸を振っている人たち、選挙カーの前でプラカードをもって「やめろー!」と声をからしている人たち、

彼らは総理大臣ではなく、その反対側、興味なさそうに演説をスルーする人たちを見るべきなのではないか、と。そうすれば、自分たちがいかに「異常な存在」なのか気づけたのかもしれない。

そう、タイトルにもなった、日本人の政治のへの無関心の理由となった「お前ら」、それは、「政治への関心が強い人たち」のことだ。

そう、お前らのせいだよ。

「政治への無関心は悪」という発想を変えてみよう

おいおい、ひどい言い草ではないか。政治に関心があることが「異常」? ケンカ売ってるのか!

……と握った拳をひとまず開いて、話を聞いてもらいたい。

「政治に関心を持たないのはいけないことだ!」、そう思って「みんな政治に関心を持とう!」とか、「みんな選挙に行こう!」と声高に叫び続けて、

……効果があっただろうか。

ない。ないから、みんな総理大臣の生演説をスルーするのだ。

ここは発想の転換が必要だと思う。「政治には関心を持たなければいけない! 関心がないのは悪いことだ!」という今までの考え方をいったんやめて、「政治に関心を持たないのが普通。関心をもって、演説を見に行く方が異常」という発想に変えてみるのだ。

「政治に関心を持つのは当たり前だ! それを『異常』だと!?  ふざけるな!」、と怒りたくなる気持ちをぐっとこらえて、目を閉じて大きく深呼吸して、口に出してみよう、「私は異常」と。

逆に、これくらいの発想の転換もできないような頭の固さでは、何も変わらないぞ。「当たり前だと思っている大前提を疑う」ことが知性への第一歩だ。

日本人が政治に無関心な理由① ハードルが高すぎる

「政治に関心を持たないのが普通。関心を持つのは異常」としたうえで、話を進めていこう。

「選挙カーの前で日の丸を振る」という行為や、「選挙カーの前で批判に声をからす」という行為を客観的に見てみると、これは結構異常な行動だ。

「そんなことはない! 選挙を応援するのは、国民に認められた当然の権利だ!」

「政治家を声高に批判しちゃいけないのか! 言論弾圧だ!」

と言いたくなる気持ちを抑えて話を聞いてもらいたい。

政治家を応援するのも批判するのも、国民に認められた権利である。とくに、「批判」を封じ込めたら、民主主義が成り立たない。それはわかっている。

と、同時に、「こういったことを積極的にやる人は、異常である」ということも理解するべきだ。

「異常」という言葉が納得できないなら、「政治に積極的にかかわる行動はハードルが高いので、普通の人はやらない」という言い方もできる。

本人は気づかないのかもしれないが、「日の丸の旗をもって総理大臣を応援する」も、「プラカードをもって総理大臣を批判する」も、実は人前でやるには意外とハードルの高い行動なのだ。

そして、「本人は気づかない」というのが問題だ。

選挙演説のさなか、「がんばれー!」とか「とっととやめろー!」と声を張り上げるさなか、もし一度でも後ろを振り返って、自分たちを遠巻きに見ながらスルーしていく人たちの姿を見ればきづくはずなのだ。「あれ、僕たち、周りから浮いてる?」「変な目で見られてる?」と。

別に、周りから浮いているからやめろとか、そういうことを言いたいのではない。自分の信念に基づいて、周りに何を言われようと、信じたことを貫く。結構なことだ。

と同時に、「自分が周りからどう見られているか」を把握する俯瞰した視点も必要である。

そして、「自分たちの行動が新規参入を阻んでいるのではないか」と、自分を疑ってみることも大切だ。

人は、いきなりハードルの高いことはしない。

そして、「政治に関心を持つ=選挙カーの前で日の丸を振ったり、声を張り上げて非難すること」というイメージを持たれたら、それはもう「ハードルの高いこと」なのだ。「ふつうの人」は「あの一団の中には入りたくないな……」と敬遠する。

人間は、あまりにも熱心な人を見ると、ちょっとヒクのだ。

こういう経験はないだろうか。自分の好きなものを熱心に進めたけど、相手は「ああ……」と微妙な表情をされたこと。これと同じことが選挙カーの遠くの方で起こっている。

結果、「政治に関心を持つことはハードルが高い」というイメージを持たれ、敬遠される。

より分かりやすく言えば、政治に関心の強い人たちを指さして「ああはなりなくないな」「あれと一緒にされたくないな」と、一緒にされることを避けるようになるのだ。

だからこそ、政治に関心の強い人たち、お前らが日本人が政治に関心を持つのを阻んでいる、となるのだ。

政治に関心を持つこと自体は悪いことではない。立派なことだ。選挙カーの前で応援しようが批判しようが、それは国民に認められた権利で、誰に邪魔されるいわれもない。

一方で、「自分たちが周りからどう見られているか」を考える余裕を持つことも大事だ。「もしかしたら自分たちの存在が、ほかの人が政治に関心を持つのを阻んでいるのではないか」と、自分を疑ってみる頭の柔軟さが必要なのだ。

「政治に関心を持つのは当たり前のことだ! 政治に関心を持たないなんて、日本がどうなってもいいのか!」という脅迫・恫喝では、人間は動かない。

日本人が政治に無関心な理由② 右と左の罵りあいが口汚すぎる

ネットを見ると、SNSを見ると、右寄りの人は左寄りの人を口汚くののしり、左寄りの人は右寄りの人を口汚くののしる光景をよく見る。

左寄りの人は右寄りの人を「ネトウヨと呼び、右寄りの人は左寄りの人を「パヨク」と呼び、お互いがあいつらは馬鹿だ、あいつらはクズだ、あいつらは悪だと口汚くののしっている。

心当たりがある人は、ここで一歩引いて、さっきと同じように「自分たちを俯瞰して」考えてみてほしい。

この光景を見せつけられて、あの中に加わりたいなどと思う人がいるだろうか、ということに。

たとえば、駅で見知らぬ人がケンカしている。取っ組み合いとまではいかなくても、口汚くののしりあっているとしよう。

普通の人はこんな光景に遭遇したら、関わらないようにと距離を取って、避ける。「なんかアタマのオカシイ人たちがわめいてるぞ」と。よほど義憤にかられた人でないと、見かけた口喧嘩を止めるなんてことはしない。

それと同じだ。右と左が口汚くののしりあっていたら、「あいつらにかかわりたくない」と距離を取られ、避けられるのが「ふつう」なのだ。

だから、日本人が政治に無関心な理由は「お前らだ」ということなのだ。

「あんな連中にかかわりたくない」、そう思われているのだ。

日本人が政治に無関心な理由③ 文章が難しい

政治について語った文章、特にネットにある文章を読むと、難しく感じる。

なぜ、難しく感じるのか。

内容が難しいのではない。

ただ単に「漢字が多い」から難しく感じるのだ。

一般的に、文章のなかで漢字の割合は3割程度がのぞましいとされ、それより漢字の量が多いと読みづらく、それより漢字の量が少なくても読みづらい、とされている。

ところが、「政治に関心の強い人の文章」は漢字が多いのだ。

漢字が多いほうが頭がよいと思っているのだろうか。だが、残念ながら今や、変換キーを押せば「薔薇」みたいな難しい漢字も、書けないのに書けてしまう。漢字が多いのはもはや、全然賢くない。

むしろ、かしこい人の文章とは、漢字と仮名の配分に気をつかう文章だ。本を読んでいると、そのことを痛切に感じる。

たとえば、「たとえば」と書くときに「例えば」ではなく「たとえば」と書く。大学教授が文章でこういう工夫をする。「例」という漢字を知らないはずがない。知っていて、あえて読みやすいようにひらがな表記を選択しているのだ。

ここが、「本当に頭が良い人の文章」と、「頭をよく見せたい人の文章」の違いだ。「頭をよく見せたい人の文章」は、なんでもかんでも漢字変換して、結果読みづらくなる。

読みづらい文章は、当然敬遠される。最後まで読んでもらえない。読み飛ばされる。結果、主張がつたわらない。

こうして、「政治に関心の強い人の文章」は「読みづらい」と敬遠される。そして「政治そのもの」が「難しいもの」として敬遠される。

だから、日本人が政治に無関心な理由は「お前ら」だということなのだ。頭の良いアピールをしようと漢字を多用した結果、読みづらい文章を作っているのだ。

日本人が政治に無関心な理由④ バカは関わるな

先日、女優の吉永小百合がI-CANとともに核廃絶に向けたコメントをした、というニュースが流れた。

このニュースに対して賛否いろいろな意見があった。賛否があること自体は普通のことだ。

気になったのは「女優は政治に口出すな」というコメントがあったことだ。

まったくもって不可解なコメントである。職業にかかわらず、誰にだって政治に参加し、声を上げる権利はあるはずなのに。

それにしても、なぜ女優が政治に参加してはいけないのか。

女優になるのに学歴は必要ない。「バカは政治に参加するな」「声を上げるな」ということなのだろうか。吉永小百合は早稲田大学第二文学部を女優業をしながら次席で卒業しているのだが。

この「バカは政治に参加するな」という姿勢が、人を政治への関心から遠ざけている。

テレビでタレントが政治に関してコメントし、その知識が間違っていると、「政治クラスタ」が一斉に叩く。「こいつは馬鹿だ」「バカが政治を語るな」と。

もちろん、「知識が間違っている」のは問題だ。

だが、「間違っている人を見つけて、叩く」というのもまた問題なのだ。

本当に頭がいい人は、間違った知識の人を見つけたら、「教える」という方法を選ぶはずだ。

一方、実は頭がよくない人、頭が良いと見せかけたい人、頭がよくないことにコンプレックスを持っている人たちは、ため込んだ知識をだれかに教えてあげるなどということはせず、自分の頭の良さをアピールするために、他人を批判するために使う。知識が泣いている。

そうして「バカをたたく」ことによって、「政治にあまり詳しくない層」が関心を持つことを妨げているのだ。「半端な知識で関心を持ったら叩かれる」と。

「バカは政治を語るな」「バカは政治にかかわるな」という姿勢を見せる、こうすることで人は政治にかかわることを委縮してしまう。結果、政治から遠ざかる。

だから、日本人が政治に無関心な理由は「お前ら」だというのだ。「バカは政治にかかわるな」という態度をとることで、人々の関心を遠ざけ、結果、政治の話題は「自称頭のいい人たち」が「頭のいいアピール」をするためのおもちゃに成り下がっているのだ。

「お前ら」に告ぐ!

以上、長々と書いたが、要はこういうことだ。

「自分が周りからどう思われているか、俯瞰してみる視点を身に着けよう」

自分の行動が周りから「異常」と思われているかもしれない。

自分の行動が周りから「関わりたくない」と思われているかもしれない。

自分の書いた「ためになる」文章が人が読むと「読みづらい」文章かもしれない。

自分の言動が人を遠ざけているのかもしれない。

日本人の政治への無関心が問題となっている。だが、視点を変えてみると、「政治が『政治クラスタ』だけのおもちゃとなっている」こと、「『政治クラスタ』が、新規参入を阻んでいる」の方が本当の問題かもしれない。

自分を疑おう。自分は異常である。自分は変に思われている。自分は間違っている。

僕は自分で自分をそう疑いながら、この記事を書いている。

平和や多様性の重要性について考えさせられる平成仮面ライダー5選

平成仮面ライダー20作目を記念する「仮面ライダージオウ」の放送が始まった。そこで、今回は趣向を変えて、「平和」とか「多様性」といったテーマにフォーカスした仮面ライダーについて5作品を紹介していこうと思う。「仮面ライダーって子供番組でしょ?」と思っている人も、この5作品のうち一つでも見れば、きっと考えが変わるはずだ。


仮面ライダークウガ(2000年)

「こんな奴らのために、誰かの流す涙は見たくない! みんなに笑顔でいてほしいんです! だから、見ててください! 俺の、変身!」

作品概要

2000年に放送された、記念すべき平成仮面ライダー第1作。主演はオダギリジョー。昭和のテイストを残しつつも、「改造人間ではない仮面ライダー」、「二話完結のエピソード」、「強化フォームの登場」などの新たな試みに挑み、のちの平成仮面ライダーシリーズの礎となった。

あらすじ

長野県の遺跡からグロンギ族と呼ばれる殺戮集団が蘇った。次々と人々を虐殺し、恐怖に陥れるグロンギを警察は「未確認生命体」と呼び対抗するが、その力の前に歯が立たない。しかし、遺跡から蘇ったのはグロンギだけではなかった。未確認生命体第1号が暴れる現場に遭遇した冒険家の青年、五代雄介は遺跡から発掘されたベルトを手にした瞬間、戦士のイメージが頭の中に流れ込む。イメージに従いベルトを身に巻いた雄介は、仮面ライダークウガに変身し、グロンギに立ち向かう。

チェックポイント

この作品で見てほしいのは「暴力への向き合い方」である。仮面ライダーに限らず、ヒーロー番組は「暴力」をもって悪を排除することが前提である(たまにまず保護から入ろうとするウルトラマンコスモスみたいなのもいるけど)。

御多分に漏れず、クウガもグロンギを暴力をもって排除するのだけれど、クウガに変身する五代雄介自体は、実は暴力をふるうことが嫌いな人間であり、第2話ではヒロインの桜子に変身して戦った感想を求められて「あまりい気分のものじゃない」と答えている。

そんな雄介だったが、グロンギのボスであるン・ダグバ・ゼバによって殺された人の葬式に居合わせ、遺族の女の子の涙を見て、グロンギと戦う決意を固める。

それでも、雄介はやっぱり暴力を好きになれない。物語の終盤には「俺は、いつもこれ(暴力)で嫌な思いをしている」と吐露している。

一方で、グロンギ族が人々を虐殺する理由も明らかになる。

それは、ゲーム。彼らは「誰が一番人間を狩れるか」を競って、遊んでいたのだ。

あまりにも身勝手な理由に、雄介の相棒である一条刑事は「彼らとは価値観が違いすぎて、対話は不可能」と結論付ける。

暴力をふるいたくないのに、暴力をふるうことでしか平和を守れないジレンマを抱えたヒーロー、それが仮面ライダークウガなのだ。

そのスタンスは最後まで変わることはなかった。ダグバとの最終決戦で、互いに変身が解け人間の姿のまま殴り合う。暴力をふるって相手を壊すことを楽しむように笑みを浮かべるダグバに対し、泣きそうな顔で拳をふるう雄介。いや、すでに泣いていたのかもしれない。「ああ、雄介は本当に暴力をふるいたくないんだな」ということがよく伝わってくるシーンだ。

正義のために暴力をふるっていいのか。暴力でしか正義は守れないのか。

たとえ暴力でしか正義を守れないのだとしても、それでも暴力を否定する。否定しながら、泣きながら拳をふるう。それが仮面ライダークウガである。

その他の見どころ

クウガは徹底したリアル志向である。実在の地名を使い、「もしも、現実社会に怪人が現れたら」「もしも、現実社会に仮面ライダーがいたら」どうなるかを詳細に描いている。クウガは警察と協力してグロンギと戦う。警察は毎週のようにグロンギ対策の会議を行い、クウガである雄介は一条刑事から情報をもらってグロンギと戦う。一方で、警察も初めからクウガに協力的だったわけではなく、クウガを「未確認生命体第4号」と呼び、一条刑事以外はクウガの正体を知らず、「未確認同士の仲間割れ」ではないかと議論する。

そして、クウガは被害が平成仮面ライダーの中でもひときわ重いのも特徴だ。毎回の犠牲者は数十人規模。ラスボスのダグバに至っては3万人近くが殺されている。もはや大災害である。

殺し方も朝からグロく、空から脳天めがけて針を打ち込んだり、トラックで壁際に追い込んでつぶしたり、すれ違いざまに首を斬り落としたり、飛行機という逃げ場のない空間で虐殺したり、犠牲になるのはその場に居合わせただけの罪もない人々。まるでテロだ。いや、グロンギにはテロリストのような「信じる正義」などなく、ただ虐殺を楽しむだけ。当時も番組に苦情が来たという。

ちなみに、僕が一番怖かったのはハリネズミ怪人、ゴ・ジャラジ・ダだ。標的の脳に小さな針を打ち込み、相手にタイムリミットを予告。そのリミットが来ると……、ああ、思い出しただけで背筋が寒くなる。標的の選び方も含めて、本当に怖い。

徹底したリアルな描写は、なにもグロ描写だけではない。被害者遺族の感情、雄介の周りの人たちの想い、そして、雄介の想いなど、人間の描写もリアルで繊細だ。

このリアルさがクウガの魅力であり、「平成仮面ライダーシリーズ」の根幹をなすものである。

仮面ライダー龍騎(2002年)

「そこに正義などない。あるのはただ純粋な“願い”である」

作品概要

名前の通り、ドラゴンと騎士をデザインのモチーフにした仮面ライダー。仮面ライダー同士が戦いあう「ライダーバトル」を主軸とした作劇や、10人近くの仮面ライダーが登場する作風など、その後の平成仮面ライダーシリーズに与えた影響は大きい。特に、トレーディングカードのようにカードをを使って戦うというスタイルは、のちに仮面ライダー剣、仮面ライダーディケイド、さらには仮面ライダーだけでなく天装戦隊ゴセイジャーに受け継がれた。さらに、収集系の変身アイテムを使って変身する仮面ライダーへと繋がっていく。まさに、平成仮面ライダー初期の、伝説の作品だ。

あらすじ

OLEジャーナルの新米記者、城戸真司はある日、鏡の向こうから現れるモンスターと、鏡の中で戦う戦士、仮面ライダーの存在を知る。最後の一人になるまで戦いあう仮面ライダーたち。仮面ライダー龍騎の力を手に入れた真司は、ライダー同士の戦いを止めるため自らも戦いの中へ、鏡の世界へと身を投じていく。

チェックポイント

この作品で見てほしいのは「人によって正義は変わる」ということ、さらに、「戦いを止めることは本当に正義なのか」という点だ。

龍騎が放送されたのは2002年。企画段階だった2001年9月にニューヨークで同時多発テロが起きた。企画会議では「こんな時代だからこそ、子供たちが最初に正義に触れる仮面ライダーだからこそ、『真の正義』を示すべきだ」という意見と、「こんな時代だからこそ、子供たちが最初に正義に触れる仮面ライダーだからこそ、『正義は一つじゃない』ということを伝えるべきだ」と二つの意見に分かれた。

結果、仮面ライダー龍騎は「正義は一つじゃない」を描く。

仮面ライダー同士が最後の一人になるため戦いあうということを知った城戸真司は、ライダー同士の戦いを止めるために仮面ライダー龍騎に変身する。

だが、ほかのライダーからは「余計なことをするな!」と邪見にされ、時には殴られる。それでも真司は「戦いあうなんて間違ってる! 戦いを止める!」と自ら信じた正義のために龍騎に変身する。

ところが、物語の中盤で真司は、ほかのライダーが「なぜ戦うのか」を知って愕然とする。

最後の一人になった仮面ライダーには、どんな願いもかなえられる力が授けられる。

仮面ライダーナイトに変身する秋山蓮は、事故で眠り続ける恋人を目覚めさせるために戦っていた。

仮面ライダーゾルダに変身する北岡秀一は、不治の病で余命いくばくもなく、永遠の命を手に入れるために戦っていた。

それぞれにそれぞれの戦う理由があった、ということを知った真司は、「戦いを止めることが正義」と言い切れなくなって、考え込んでしまうのだ。

これはまだ中盤の展開であり、その後、さらに真司を悩ませる事態が待ち受けるのだが、それは是非本編を見てほしい。平成仮面ライダーを見るなら絶対に抑えてほしい作品の一つだ。

最終回ではライダーバトルをこんな言葉で締めくくる。

「そこに正義なんてない。あるのはただ純粋な”願い”である」

その他の見どころ

「カードを使って戦う」というのは前述の通り、その後の作品に大きな影響を与えた。カードからモンスターを召喚したり、武器を取り出したり、トレカをモチーフとしたアニメが実写化されたらこんな感じなのかな、などと考えると興奮する。

さらに、鏡の中で人知れず戦いあうライダーたち、というのも従来の作風と異なり、なんだか深夜アニメの異能力ものを見ているかのようだ。

当時も、そして今も、異色の作風であると同時に、もう一度言うが絶対に抑えておかなくてはいけない作品の一つだ。

そして、仮面ライダー王蛇に変身する浅倉威。「脱獄した連続殺人犯」という、ガチの悪者である。「悪のライダー」のほぼ元祖にしていまだに最高峰に君臨する。悪にして今なお多くのファンを持つそのいかれっぷりもぜひ見てほしい。

仮面ライダー555(2003年)

「たっくん、オルフェノクがぁ!」

作品概要

「555」と書いて「ファイズ」と読む。携帯電話が一般に普及し始めた2003年に登場した、携帯電話を変身アイテムとして使う仮面ライダーだ。ファイズのベルトはそれまでのベルトと比べると変身へのハードルが割と低いほうで、そのため変身者がコロコロ入れ替わる。もちろん、メインで変身するのは主人公の乾巧なのだが、ここまで変身者が入れ替わる作品は他にはない。前50話の脚本は井上敏樹一人で書かれており(平成仮面ライダーで一人の脚本が全話を執筆したのは、555、エグゼイド、ビルドの3作品だけ)、緻密に伏線が張り巡らせ、謎が謎を呼ぶ、平成1期王道の展開が人気だ。

あらすじ

九州を旅していた青年、乾巧はある日、オルフェノクという怪物に襲われるが、その場に居合わせた少女、園田真理から渡されたベルトで仮面ライダー555に変身してこれを撃破する。真理とともに旅をしながらオルフェノクと戦う巧。一方、2年前に事故で眠り続けていた青年、木場勇治は死後に蘇り、オルフェノクとして覚醒してしまう。彼は、同じく死後にオルフェノクとなった仲間たちとともに共同生活を送るようになる。そして、巧と木場が邂逅する。

チェックポイント

この作品で見てほしいのは「異なるものとの共生」という点だ。このテーマを描いた作品は平成仮面ライダーシリーズに多いが、一番最初にそれを描き、なおかつ深く描いた、という意味では555を紹介しようと思う。

これより前の平成仮面ライダーシリーズの怪人はみな人間とは違う存在であり、言葉も通じない。クウガに出てくるグロンギは元は人間なのかもしれないけれど、価値観が違いすぎて対話ができない。

ところが、555の怪人、オルフェノクは死んだ人間が蘇生し、「進化した人間」として覚醒したもの。つまりは、元は普通の人間だったのである。

オルフェノクたちはあるものはその超人的な力で生前の復讐を果たして、あるものは人間からの迫害を受けて、人の道を踏み外していく。また、オルフェノクに殺された人間もまれにオルフェノクに覚醒することがあるので、オルフェノクの中には仲間を増やすために積極的に人間を襲う者たちもいる。

オルフェノクは「元人間」でありながら「人外の存在」でもある、非常に微妙な立場なのだ。

人間側にもオルフェノクは敵だ、悪だというスタンスを崩さないものもいる。オルフェノク側にも人間として生きようとして、人間を信じようとして、人間に裏切られてと、事態は一筋縄ではいかない。

555では主人公、乾巧とその仲間たちのほかにもう一つ、木場勇治を中心としたオルフェノク側からの視点で話が描かれている。「人間ではなくなってしまった悲しみ」を抱えながら、それでも人間らしく生きることはできないのかと模索する勇治。そして、互いが555とオルフェノクだと知らずに出会ってしまう巧と勇治。「異なるアイデンティティのものと共存できるのか」というテーマにおいて、やはり555が一番適任だろう。

その他の見どころ

作劇面に関してはもう十分語った気がするので、ここではCGの観点から。

実は、僕が平成仮面ライダーを見始めたきっかけは555である。たまたま見た555のライダーキック「クリムゾンスマッシュ」がかっこよすぎて、それがきっかけで平成仮面ライダーを見るようになった。

さらにバイクもかっこいい。555には3人のライダーが出てくるのだが、彼らのバイクがロボットに変形して、ミサイルをバカスカ打ち込む。まるで、戦争映画を見ているかのようだ。

仮面ライダーオーズ(2010~2011年)

「いけますって! ちょっとの小銭と、明日のパンツがあれば!」

作品概要

動物の力を宿した3枚のメダルで変身する仮面ライダーオーズ。タカの視力、トラの爪、バッタの跳躍力を持つタカ・トラ・バッタのタトバコンボを基本フォームとし、クワガタの頭部、カマキリの刃、バッタの跳躍力を持つ昆虫系のガタキリバコンボ、サイの角、ゴリラの剛腕、象の脚を持つ重量系のサゴーゾコンボ、タカの視力、クジャクの羽、コンドルの爪をもつ鳥系のタジャドルコンボと、様々な動物の力を組み合わせて戦う。それぞれの変身時には、クシダアキラによる謎の歌が流れ、耳から離れない。

あらすじ

ちょっとの小銭と明日のパンツしか持っていない無欲な青年、火野映司。今風に言うとミニマリストといったところか。ある日彼は800年の封印から解き放たれたグリードという怪人と、彼らグリードが生み出す怪物ヤミーの起こした事件に巻き込まれる。絶体絶命の状況に陥る映司を救ったのは、グリードの一人であるアンクだった。右腕だけしか復活できなかったアンクは、自身の体を取り戻すために必要なアイテム・コアメダルを集めさせるために、映司に仮面ライダーオーズの力を授ける。映司は人々を守るため、アンクは自分の欲望をかなえるため、時に利用し、時に協力し合う奇妙なコンビが誕生する。

チェックポイント

実は映司は「世界放浪中に内戦に巻き込まれた」という過去の持ち主。そんな映司だからか、オーズには戦争と平和、そして正義について考えさせられるエピソードが多い。

オーズの敵であるヤミーは人間の欲望から生まれてくる。ある回で登場したバッタヤミー(これが見た目がクソ気持ち悪い)は、「悪いやつを懲らしめたい」という欲望から生まれたヤミーだ。その欲望に従い、ひったくり犯を懲らしめて奪われたかばんを被害者の返してあげるヤミー。果たして、こいつは倒さなければいけないのか? 何も悪いことしていないじゃないか。っていうか、むしろ良いことをしているじゃないか。と悩む仲間に対し映司は「倒さなきゃ」と口にする。その理由を問われた映司はこう返している。

「正義のためなら、人間はどこまでも残酷になれるんだ」

その映司の言葉通り、ヤミーの行動はエスカレート。やくざの事務所や悪徳政治家のところに乗り込むまではよいものの、悪人とはいえ悲鳴を上げて逃げ惑う無抵抗な人間を捕まえて、ボコボコにぶちのめしていく。

「正義のためなら、人間はどこまでも残酷になれるんだ」

なるほど。だからきっと、世界から戦争がなくならないのだろう。

こんなエピソードもある。ある青年の「人の役に立つことをしたい」という欲望から生まれたクロアゲハヤミー。こいつが何をしたかというと、空から大量のお金をばらまくという行為。

そのお金がどこから来たのかというと、何のことはない、直前に銀行を襲って手に入れただけだった。

ただ、人の役に立ちたかっただけなのに、どうしてこんなことに……、と落ち込む青年に映司は自分の体験談を語る。

実は、映司は政治家の家に生まれ、親も兄弟も政治家というおぼっちゃま育ち。望めば何でも買ってもらえるというお金持ちだった。

そして、映司は「自分の力で世界をよくしたい」という大きな欲望を抱き、海外の貧しい国に多額の寄付を送った。

ところが、そのお金は映司の知らないところで戦争の資金に使われていたのだという。

この経験から映司は青年に向かって両手を広げて見せ、「正義感だとしてもこれくらい。これくらいなら、悪いやつに利用されることもなくなります」と語った。

要は、自分の手の届かないところにまで、目の届かないところにまで正義感を伸ばそうとすると、それがどう転ぶかわからず、責任が取れないから危険だよ、ということである。

世の中には、行ったことのない国のために一生懸命になる人、一生いかなそうな辺境の島のために声をからす人、あったこともない人を執拗にたたく人など、手の届かないところにまで正義感をふるおうとする人が結構いる。

その志自体は決して悪いことなのではないのだろうが、問題はやっぱり「手の届かないところに正義漢を伸ばそうとする」というところ、そして、「人間は正義のためならどこまでも残酷になれる」というところなのだろう。

その他の見どころ

オーズの敵は欲望から生まれた怪人グリードと、彼らが使役する怪物ヤミーだ。

しかし、欲望そのものを否定しない、むしろ「欲望は人間が生きるために必要なエネルギーだ! 素晴らしい!」と肯定するのがこの作品の大きな特徴だろう。

欲望そのものは決して悪くない。むしろ、必要な存在だ。問題は、それとどう向き合っていくか、である。

そして、先ほど触れた映司の「金持ちの家に生まれた」「内戦に巻き込まれた」という過去は、実はオーズの物語に大きくかかわってくる。

「世界を自分の手でよくしたい」という大きな欲望を抱いた映司は、旅先で内戦に巻き込まれる。そして、この時起きたある出来事が原因で、彼は「世界を変えたい」という欲望を失くし、無欲な人間になってしまう。

欲望がない。何も欲しがらない。何も持たない。聖人君子のようにも思えるがとんでもない、それは「生きるエネルギーを持っていない」ということで、終盤では映司の欲望を持たないが故の危うさがどんどんと浮き彫りにのなっていく。

映司と対照的なのがアンクの存在だ。まさに欲望の塊、自分の目的のためなら他人がどうなろうと「知ったことか!」と気にしない。オーズの相棒でありながら、実はかなりの悪党である。

しかし、アンクは腕しか復活できず、オーズの力がないと完全復活に必要なメダルを集められない。映司はアンクからメダルをもらわないと変身できない。これが、真逆な二人がコンビを組む理由だ。

欲望を失った映司はどこへ流れつくのか、映司の欲望はかなうのか、そして、映司とアンクのコンビはどんな結末を迎えるのか。ぜひ、本編を見て確認してほしい。

仮面ライダードライブ(2014~2015年)

「どうにも怒りが収まんねぇ! ひとっ走り付き合えよ!!」

作品概要

「仮面ライダードライブ」というタイトルを聞いた時、誰もが目を疑った。「ドライブって、ライダーなのに車乗るの? まさかぁ。CDドライブとかの『ドライブ』じゃないの?」と。だが、実際お披露目たなったドライブは真っ赤なスーパーカーとともに登場し、胸には駅伝のたすきのようにタイヤが収まっていたという、バイクに乗らずに車に乗る仮面ライダーである。ドライブは一度もバイクに乗ったことがない。一方で、主人公に刑事を据えた刑事ドラマでもあり、主人公である泊進ノ介は、仮面ライダーである前に警察官としての誇りを胸に戦う。また、主演の竹内涼真、ヒロインの内田理央、敵幹部役の馬場ふみかと、人気の俳優・女優を多く輩出した作品でもある。

あらすじ

機械生命体ロイミュードによる世界一斉蜂起が起きた。周囲の物の動きを極端に遅くすることができる「重加速現象」を引き起こせるロイミュードによって世界は崩壊の危機に陥ったが、ある戦士の活躍で世界は救われた。この事件は「グローバルフリーズ」と呼ばれた。

それから半年後、グローバルフリーズの時に相棒を誤射し、重傷を負わせてしまった刑事・泊進ノ介は、ロイミュード犯罪の専門部署「特殊状況犯罪捜査課」、通称「特状課」に異動になった。相棒を再起不能に追い込んでしまった事件以降やる気を失ってサボり魔となっていた進ノ介だったが、そんな彼のもとに謎のしゃべるベルトが現れ、彼に仮面ライダードライブの力を授ける。重加速の中唯一動くことのできる戦士、仮面ライダードライブとして、そして、刑事として、進ノ介は再起をかけて、ロイミュードによる犯罪に立ち向かっていく。

チェックポイント

ドライブで見てほしいのも555と同様、「違うものとの共生」だ。このテーマを描いた作品にはほかにも仮面ライダー剣、カブト、キバなど良作が多いが、平成2期からもう一つ挙げたかったので、今回はドライブを紹介する。

555のオルフェノクと違い、ドライブの敵ロイミュードは機械生命体。人間とは完全な別物である。しかし、人間の容姿をコピーし、知能も感情も人間と変わらない。

彼らの目的は人間の支配だ。ロイミュードを作った人間を支配することで、ロイミュードが人間よりも優れた種であることを認めさせる。

その中心となるのが「ハート」と呼ばれる彼らのリーダーなのだが、このハートがとにかく仲間思いなのだ。

仲間のロイミュードを「友達」と呼び、何よりも大切にする。ハートの知らないところでほかのロイミュードを捨て駒のように扱う作戦が実行されたときは、そのことを知ったハートは激高し、作戦を実行した幹部に制裁を加えた。仲間を捨て駒に使うなど絶対に許さないのだ。

極めつけは、ドライブに仲間の命を救われた時だ。ハートは宿敵であるドライブに頭を下げ、素直に感謝の礼の述べた。

ハート以外にも人間との静かな暮らしを望むロイミュードや、人間に協力するロイミュードなどが登場する。

「こいつらは本当に倒すべき悪なのか?」、回を重ねるごとに、見る者の胸にそんな思いが込み上げる。

そう思ったのは主人公・泊進ノ介も同じだったらしく、ある時、彼はハートに対して「お前ら本当に悪者なのかよ」とこぼす。

それに対してハートは「だろうな。もともとこっちは悪であるつもりがない」と返す。ほかにも、ロイミュード側の戦士を「悪の戦士」と呼ぶ人間に対して、「その考えこそが人間の驕りだよ」と鋭く指摘している。ハートとしてみれば悪事を働いているつもりはなく、ロイミュード側の正義に基づいて行動しているだけなのだ。

やがて、視聴者の「こいつらと戦わなくてもいいんじゃないか?」という思いがはち切れそうなタイミングで、進ノ介は再びハートに問いかける。「戦わずに済む方法はないのか?」と。

だが、これもハートは「ないね」と一蹴する。人間と戦って勝ち、支配し、ロイミュードを地球の新たな種であることを認めさせる。そのプロセスで「戦い」は必然なのだ、と。

どうしてハートはここまで戦って勝つことにこだわるのか。実は、ハートはロイミュード開発時期に実験と称して開発者から虐待されていた過去があった。「絶対に人間を見返してやる」という強い思いが彼の胸にはあったのだ。

やがて、終盤に人間・ロイミュード共通の敵が現れ、ドライブはハートと手を組み、これを撃破する。そして最終回で、ハートはともに戦ったドライブに、人類とロイミュードの運命を決める最終決戦を挑んでくる。

仮面ライダーの最終回というと、普通は「戦え! そして、勝て! 仮面ライダー!」とテレビの前で応援するものだが、仮面ライダードライブの最終回、僕はテレビの前でこう祈った。

「変身しないでくれ! 戦わないでくれ! 仮面ライダードライブ!」と。

進ノ介、お前だってハートと戦うことを望んでなんかいないはずだ! 戦い以外の決着を見せてくれ!と。

しかし、変身せずに一方的に殴られたら、進ノ介が死んでしまう。

果たして、進ノ介はドライブに変身してしまうのか? 戦ってしまうのか? 人間とロイミュードはどのような決着を見せるのか……?

ドライブの中でロイミュードは従来の怪人たちよりもより人間的に描かれている。だからこそ、期待してしまう。姿形が異なれど、価値観が異なれど、心を通わせることはできるのではないかと。戦う以外の道があるのではないかと。

その他の見どころ

ハートがらみでもう一つ。

ロイミュードの幹部の一人が、ドライブの変身者が特状課にいることを割り出す。変身者を特定しようとハートに持ち掛けるのだが、ハートはこう答える。

「変身前を暴いて叩くような、無粋な真似はしたくない」

仮面ライダーは人間の守護者であると同時に、人間の科学の叡智、強さの結晶。その仮面ライダーに変身した状態で戦って、勝つことに意味がある。だから、変身する前に倒してしまえなんてことはしたくないのだ。

このプライドの高さこそがハートの魅力である。

仮面ライダー側の魅力としては、自らの意思を持ちしゃべるベルト、ドライブドライバー、通称「ベルトさん」であろう。

なぜ「ベルトさん」と呼ぶのかというと、第1話でロイミュードに遭遇し「どうすりゃいいんだ、ベルト!」と問いかける進ノ介に対しベルトから帰ってきた答えがただ一言、

「呼び捨ては失礼だねぇ」

以後、「ベルトさん」である。

このベルトさんの声を担当していたのが、J-WAVEを、いや、日本のラジオを代表するラジオDJ、クリス・ペプラーである。あの渋く、セクシーな低音ボイスでベルトさんに声を当てていた。

ベルトさんはドライブの相棒として、作戦を指示したり、ドライブの能力を解説したり、ロイミュードの能力を分析したりと、よくしゃべる。開発者の意識をデータ化してダウンロードしたものであり、人間的な感情を持っているので、時に進ノ介の行動を心配したり、叱責したりする。

さらに、変身するときもベルトさんの「ドライブ! タイプ・スピード!」という音声が流れ、ライダーキックを放つときも「ヒッサーツ! フルスロットル!」の音声が流れる。

ドライブは胸部のタイヤを換装することで様々な能力が使えるのだが、このタイヤを換装するときの音声が「タイヤコウカーン!」。もちろん、クリス・ペプラーの声だ。

オープニングもクリス・ペプラーの「Start your engine!」の声で始まり、番組終わりもクリス・ペプラーのナレーション。さらに、玩具のCMのナレーションもクリスペプラーと、とにかくクリス・ペプラーづくしの30分だ。

さあ、平成仮面ライダーを見よう

今回は紹介しきれなかったが(この調子で全作品紹介していたら、1日あっても終わらない)、残り15作品もよい作品ばかりだ。

たとえば、仮面ライダービルドでは作中に戦争が勃発する。平和や多様性といったテーマで見てみるのも面白いだろう。

この記事を読んでもらえれば、平成仮面ライダー番組が単なる子供向け番組ではないことをわかってもらえたと思う。

それでもまだわからないというのであれば……、

もうひとっ走り付き合えよ!

西川口駅周辺に中華料理店が増えたのはなぜだ‼?

埼玉県の西川口駅というと、かつては県内有数の風俗店街として有名だった。ところが最近、西川口駅周辺は中華料理店が増え、テレビにも取り上げられている。そういえば、西川口は家から近いのに、中華料理店が増えた西川口に行ったことがない。どうして西川口は中華料理店が増えたのだろう。なぜだ? なぜだ!? なぜなんだ!!?

西川口の歴史

埼玉県の玄関口、川口駅。その北に西川口がある。北にあるのに何で西川口? その答えは、「川口駅自体がそもそも、川口市内の中で割と西のほうにあるから」である。

川口市は東京のベッドタウンとして発展した。夜の京浜東北線(下りに乗っていると、ターミナル駅でもない川口駅でたくさんの人がおりていくのがわかる。加えて、古くから鋳物の街として知られ、今でも線路沿いには鋳物工場が並ぶ。僕は鋳物工場のわきで鉄くずを拾ったことがある。本当に溶けた鉄が適当な形で固まっただけの、使い道のない純粋な鉄くず。

通勤通学に便利で、市内の産業も発展し、その上オートレース場があり、浦和の競馬場や戸田の競艇場も近い。

そんな人が集まる街だからだろうか、西川口は埼玉県有数の風俗街が発展した街でもある。埼玉県内では「西川口に行く=風俗店に行く」で通じてしまうくらいの知名度だった。

とはいえ、住んでいる人からすれば迷惑な話だ。

そんな声が増えていったからなのか、はたまた、全国的にそんな流れだったのか、2000年代半ばに西川口の風俗店は次々と摘発されていき、西川口駅前はゴーストタウンのようになってしまった。

その西川口駅前の風俗店の跡地に、中華料理店が入るようになったのは、それから10年ほどしてからだ。

西川口はおいしかった

というわけで、時は2018年。新興の中華街として注目を集める西川口の西口に降り立った。

駅を降りていきなりすれ違う中国人(たぶん)。明らかに日本語ではない言葉をしゃべっている。

さっそく中華料理店の看板が見える。

ほかにも、駅前にはいろんな看板がある。

外国人向けの電話屋さん。

 

中国料理屋と、よくわからない漢字の店。

 

街の南側をぶらりと歩いてい見ると、確かに中華料理店の看板が多い。

 

軒を連ねるのは中華料理店だけではない。中国人向けの食料品店、雑貨店なども多い。

こういう、「その町で暮らす外国人向けのお店」があると、いよいよもって本物だ。

他にもこんな看板があった。

中国語カラオケである。僕だったら何を歌おうか。女子十二楽坊ぐらいしか知らないなぁ。

……歌詞ねぇよ、女子十二楽坊。

さらにはこんな看板も。

何の看板かはわからないが、とりあえず見たことない漢字だ。

こうやって歩いてみると、なんだか日本じゃないみたいだ。

見てるだけではもったいないので、実際に中華料理店に入ってみた。

入ってさっそく驚く。客がみな中国人だ。本当にこの店入っていいのかな、とちょっと不安になる。

店員さんもおそらく中国人なのだろうが、そこは日本で商売しているだけあって、日本語での接客もばっちりだ。

ところが、席に座ってまたまた驚く。

なんと、店員さんは、カラのコップを置いたのだ。

テーブルの上には水の入ったポットがあるので、自分で注げということなのだろう。

日本ではなかなかないシステムだが、思えばヨーロッパに行ったときは、カラのコップと水の入ったボトルを渡された。案外、こっちのほうがワールドスタンダードなのかもしれない。

カニチャーハンを注文してみた。

なるほど。日本のラーメン屋や定食屋で食べるチャーハンとは違う。

具体的にどう違うのかというと、油が多い。

断わっておくけど、決して「無駄に油っこい」わけではないぞ。

僕史上一番おいしかったチャーハンは、中国・北京で食べたやつなのだが、日本で食べた中ではあれに一番近かったと思う。

つまり、この油多めのチャーハンのほうが、本場の味というわけだ。

ボリュームも結構ある。これでカニがついて700円以下ならば安い。

え、どこの店かって。

すでに紹介した写真の中に答えはあるぜ。

探してみな。チャーハンのすべてをそこに置いてきた!

風俗街・西川口は死すとも、スケベは死なず

さて、そんな西川口だが、風俗店はどこへ行ってしまったのだろうか。すべてなくなってしまったのだろうか。

男子諸君、ご安心を(?)。

風俗店は、生きている!

とはいえ、駅前の1ブロックを中心にわずかに残っているにすぎない。県内のよその町に比べれば確かに数は多いのかもしれないが、「風俗街」と呼ぶにはちょっと物足りない。

とはいえ、「風俗の街、西川口」はまだかすかではあるが生きている。

しかし、ネットの中ではもはや風前の灯火なのかもしれない。yahooで検索をかけると、トップで「中華料理屋」がサジェストに上がる。だが、風俗店に関するサジェストは出てこない。

もはや、「西川口に行く=中華を食べに行く」、そういう時代なのだ。

中華料理と風俗店

なぜ、西川口に中華料理店が多いのだろうか。

もともと、西川口の隣町、蕨駅周辺は外国人が多い場所として知られていた。チャイナタウンとなりつつある団地もあるという。そういったところにあった風俗街が摘発を受けてゴーストタウンとなった。空いた場所で在日外国人たちが商売を始めた。

こうして西川口は中華料理の街になりましたとさ。おしまい。

……と、ここで面白いことに気付いた。

「外国人街」と「風俗店街」の組み合わせが関東地方には多い、ということに。

たとえば、関東最大の風俗店街と言ったらやはり新宿歌舞伎町だろう。特に歌舞伎町の北側はホテル街となっている。

そこから職安通りを挟んだすぐむこう側は、新大久保のコリアンタウンだ。

コリアンタウンというと、東京の北東部、三河島近辺も有名だ。

三河島のすぐ南に行けば、鶯谷がある。ここは都内でも特にラブホテルが密集する場所だ。

鶯谷の隣は上野だ。上野のアメ横は近年、アジア系のお店が並び、異国情緒があふれている。

外国人街と風俗街がセットになっているのは、東京だけではない。

中華街といえばやっぱり横浜中華街が有名だ。ここから徒歩30分ぐらいのところにある黄金町は、かつての風俗街として知られている。

このように、外国人街と風俗店街は、距離の近いところにある。

もちろん、例外はある。例えば、インド人が多いことで知られる西葛西周辺に風俗店街はない。最近、西葛西ばっかり歩いてる僕が言うのだから間違いない。

西葛西に行ったら30人に一人がインド人だった

さて、今のところ、僕は「周辺」が関係しているのだと思う。

街の、都市の中心ではなく周辺。

西川口はベッドタウンだ。つまりは、「東京」という大きな経済圏の中心ではなく、周辺部に位置している。

新宿は今でこそ東京の中心の一つだが、戦後ぐらいまでは東京の「周辺部」だった。

上野は新宿よりも都心には近いが、あの町もまた「周辺」に位置している。これについては日を改めて詳しく書きたい。

そして横浜中華街と黄金町。ここもまた横浜の中心地ではない。周辺部だ。

こういった周辺部というのは、誤解を恐れずに言うと、昔から異質なものが集まりやすい場所なのではないか。

とはいえ、僕も日本国籍じゃない友人が何人かいるので、「外国人=異質なもの」と書いてしまうと、後で川にでも放り込まれそうな気がするが、決して差別的な意図で言っているわけではなく、「日本という枠組みの外から来た者、異なるアイデンティティを持つ者」という意味合いで使っている。

一方、風俗嬢の知り合いはいないので、そちらに関しては川に放り込まれる心配は全くしていない(実は隠れて……ってい人もいるかもしれないけど)。

さて、今のところ、外国人街と風俗店街が近いのがわかったのは関東だけだ。よその地域ではどうなのかはこれから調べていきたい。

この「周辺」という概念については、今後さらに研究していきたいテーマの一つだ。

それでも、やっぱりラジオが大好きだ!

テレビ全盛の時代が終わりをつげ、you tubeの動画が何億回も再生される、そんな時代がやって来た。さらに、showroomやVtuberといった、新たなメディアやコンテンツが次々と登場し、時代はどんどん変わっていっている。

それでも、やっぱりラジオが大好きだ!


ラジオの公開収録を見てきた

8月24日に池袋で行われた、FM NACK5「Nutty Radio Show THE魂(ソウル)」の公開収録に行ってきた。

THE魂 公式ブログ

当日は乃木ヲタ(乃木坂46のファンの皆さん)やスラッシャー(DISH//のファンの皆さん)が大勢訪れるのは想像に難くない。だって、レギュラー出演しているのだから。

そんな中、純粋なラジオファンの底力を見せてやるぜ! 妙に意気込んでいた私。

事前に優先観覧スペースの抽選をやるというので、ダメもとで応募してみたところなんと当選! これで、場所取りをする必要はなくなったと、余裕をもってサンシャイン60へと向かった。

さて、集合場所に行ってみると、どうやら抽選に当選した人は210人いるらしい。その中で僕の整理番号は43番。どうやら、相当今回は運がいいみたいだ。

整理番号順に並んで優先観覧スペースへと向かう。番号順に場所が決まってるのかなと思いきや、順番を守らなければいけないのは優先観覧スペースに入るまで。スペースに入ってからは自由に場所を選んでいい、というので、なるべく真ん中に行くことに。

2列目、というかほとんど1.5列目のど真ん中に陣取り、後ろを振り返った。

優先観覧スペースの後ろに、普通の観覧スペースがある。そこにも優先観覧スペースと同じくらいの数の人がひしめいていた。

優先観覧スペースと普通の観覧スペース、合わせて400人ほどがサンシャイン60の地下1階、噴水広場にひしめいている。

それだけではない。噴水広場は吹き抜けになっていて、1階、2階、3階からも観覧できる。そこも人で埋め尽くされていた。

数百人がイベントに集まったわけだ。一応言っておくが、「THE魂」は埼玉県のラジオ局、FM NACK5の番組だ。radikoを使えば全国で聞けるが、基本は関東地方、埼玉県を中心としたローカルな番組だ。

そのイベントに数百人が集まったわけだ。

テレビやyou tubeなど、様々なメディアが登場し、ラジオはすっかりレトロな存在となった。

にもかかわらず、ラジオのイベントにこれだけの人が集まったのだ。

さて、公開収録が始まる前に、優先観覧スペースをもう少し広げよう、ということになり、観覧スペースとステージの間にあった仕切りがちょっとだけ前に動かされた。それに伴い人も動く。

その動きの中で、なんと僕は、最前列のど真ん中に躍り出ることに成功したのだ!

ステージまでほんの数メートル。視界を遮るものが一切ない中で、間近でイベントを堪能できた。イベントは撮影禁止だったので、写真でこの近さをお伝え出来ないのが残念だ。

とりあえず、間近で見た月曜日担当・乃木坂46のゆったんこと斉藤優里は、異次元の可愛さだった、とだけ書いておく。

2時間のイベントを最前列で堪能して帰路に就いた。そして、こう思った。

やっぱり、やっぱりラジオが大好きだ!

ラジオ、最近どうだい?

イギリスが生んだ伝説のロックバンド、QUEEN。QUEENが1984年に発表した曲に「RADIO GAGA」という曲がある。ベーシストのロジャー・テイラーが作詞作曲を担当した珍しい曲だ。

タイトルの通り、ラジオのことについて歌った曲だ。

歌詞の内容は次のような感じだ。

テレビが全盛の時代となり、ラジオの時代はとうに終わってしまった。

それでも、やっぱりラジオが大好きだ!

そんな歌だ。

Radio what’s new?(ラジオ、最近どうだい?)

Someone still love you(まだ君を、ラジオを愛している奴がいるんだ)

ちなみに、この「RADIO GAGA」をもじって芸名にしたのが、かの有名なLADY GAGAだ。ウソのようなホントの話。

この歌が発表された80年代、ラジオは全盛期を終え、時代の中心はテレビだった。ラジオは廃れていくけど、それでも、やっぱりラジオが大好きだ! そういう歌だ。

それから30年以上の時が流れた。今度はテレビが全盛期を終え、時代はyou tubeだ。人気の動画は世界中で再生され、いつでも好きな時に見れる。

それに比べてラジオなんて、音しか出ないし、FMは一つの地域でしか聞けないし、放送時間決まってるし。最近はradikoプレミアムやタイムフリー機能があるが、radikoプレミアムは有料だし、タイムフリーは1週間しか持たない。you tubeに比べるとだいぶ不利だ。

だが、ラジオはなくならなかった。テレビ放送が始まって半世紀近くが過ぎ、ネット動画の時代になってもラジオはなくならず、ローカル番組のイベントに数百人が集まる。

なぜだろう。

その理由は“Someone still love you”、この一言に尽きるのではないだろうか。

ラジオとリスナー

ラジオはなぜ生き残っているのか。それは、ほかのメディアにはない「リスナーとともに番組を作る」という点にあるのではないだろうか。

もちろん、テレビでも視聴者の投稿を募集することはあるし、you tubeだって視聴者のコメントなどを反映させることはできるだろう。

だが、ラジオの「まずリスナーありき」「リスナー依存度」は半端ではない。

たいていの番組が毎回テーマを決めてリスナーからメールを募集する。リスナーのメールを読んで、DJがその話を膨らませていく、というやり取りがラジオの基本だ。DJが一方的にしゃべるだけ、という番組はないわけではないが(情報番組とか)、基本は「番組がテーマを決めてメールを募集する」⇒「リスナーがメールを送る」⇒「DJがメールを読む」⇒「リスナーのメールをもとに話が膨らんでいく」というのが、ラジオ番組の基本である。

そのため、どこのラジオ番組も「リスナーがいないと、まったく番組の進行ができない」というくらいリスナーありきの放送をしている。

さらに、番組からリスナーに電話してお話をしたり、クイズを出したりすることもある。これを「逆電」という。

そして時に、リスナーの人生まで垣間見える。恋の話、家族の話、病気の話などなど。

どこかの誰かの人生とほんの一瞬つながる瞬間。これこそが、ラジオの醍醐味だろう。

ラジオと音楽

ラジオは音楽との相性がいい。そりゃそうだ。音だけのメディアなのだから。逆に、写真とか絵画との相性は最悪だ。

いろんなラジオ番組があるが、特に音楽番組は多い。

最新のヒットチャートを紹介する番組、レコードをかける番組、アニソンに特化した番組、V系に特化した番組、リクエストをかける番組、いろんなタイプの番組がある。

何がいいって、リスナーはどんな曲がかかるかわからない、ということだ。

だからこそ、好きな曲や懐かしい曲のイントロが流れるとテンションが上がる。自分でウォークマンやiPODを操作して流すのとは、全然違う。

ラジオと投稿

ラジオの醍醐味の一つが、番組に投稿することだ。もちろん、サイレンとリスナーでも十分にラジオは楽しめるが、投稿が読まれた時の喜びはひとしおだ。

ただ、これが全然読まれない(笑)。

渾身のネタが読まれず、楽しい放送なのに一人がっかりする、なんてことはよくある話だ。

だからこそ、読まれた時の喜びはひとしおだ。自分のラジオネームが読まれ(ちなみに、僕の場合、ラジオネームも「自由堂ノック」だ)、自分の送ったメールが読まれる。僕のメールをもとにDJが話をする。

いつも聞いているラジオのど真ん中にいきなり自分が放り込まれるような感覚だ。

さらに、自分のメールから話がどんどん広がったり、DJの思い出話なんかを引き出せたり、ツイッターでほかのリスナーが自分のメールに反応をしてくれたりすると、さらにうれしくなる。

特に面白いメールにはノベルティが贈られる。こうなると喜びはMAXだ。町中を走り回って「皆さん、私の投稿がラジオで読まれ、ノベルティが当たりました!」と大声で叫んで回りたい気分だ(もちろん、投稿はすれど、そんな奇行をしたことはない)。

ラジオと災害

この記事を書いている2日前、北海道を震度7の地震が襲った。

翌日のニュースで札幌に住んでいる人がインタビューに答えていて、「ラジオを聴いている」と話していた。

ラジオは、あらゆるメディアの中でも特に、災害に強い。

それは、災害が起きても放送をしている、というだけではない。

例えば、東日本大震災の時の話だ。

地震直後、テレビをつけるとどこの局も、東北を襲う津波の映像を流していた。多くの人の命を奪った痛ましい津波だ。

だが、この時僕が欲していたのは、自分がいる埼玉県は安全なのか、という情報だった。

ところが、どこのテレビも東北の津波ばかりで、埼玉で何が起きているかは全くやってくれない。どこかで火災は起きていないのか。避難したほうがいいのか、しなくていいのか、遠くの津波の話ばっかりで、自分の身の回りの情報が全くない。

そこで、ラジオをつけた。地元埼玉のFM NACK5の人気番組、小林克也の「ファンキーフライデー」だ。

そこでは、「栗橋の交差点で信号が止まっています」といった、超ローカルな情報がリスナーたちによって寄せられていた。おかげで、自分の身の回りの情報を手に入れることができた。

ラジオは投稿してから読まれる前に、放送作家によるチェックが入る。「動物園からライオンが逃げ出した!」みたいな、SNSでよく見るトンデモデマ情報はまず読まれないだろう。

ほかにも、ラジオは緊急地震速報を流してくれる。気象警報を教えてくれる。

災害に限らず、電車の遅延や運転再開まで教えてくれる。

いつもはおどけたことを言っているDJが、こういうお知らせの時はまじめな口調になるのが、ちょっとおもしろい。

そして何より、災害時に笑顔を届けることができる。

「おに魂」の最終回で読まれた、「3.11の時、福島から避難する車の中で、おに魂を聞いて3時間笑いっぱなしでした」というメールがいまだに印象に残っている。

 

ラジオ、最近はどうだい?

テレビ全盛の時代を迎え、それすら過ぎ去り、時代はyou tubeだ。

さらに、showroomやVtubeなど、新しいメディア・コンテンツが次々と生まれていく。

音しか出ないラジオなんて、時代遅れなコンテンツなのだろう。

それでも、悪いけど、どのメディアも、ラジオの楽しさには及ばない。

Someone still love you.

Someone love radio from now on.

それでも、やっぱりラジオが大好きだ!

初心者のためのラジオ用語集

ラジオをあんまり聞いたことがないよ、という人のために、初心者向けのラジオ用語集を作ってみた。さあ、ラジオを聞こう!

AM・FM

電波の違いらしいのだが、まあ、一般的にはAMが全国放送、FMが地域放送、といった感じか。

AMは広範囲、それこそ日本全国規模で届くが、音質があまりよくない、と言われている。

一方、FMはAMに比べると届く範囲が狭く、例えば関東のFMだったら関東しか聞こえない。埼玉県入間市に基地があるFM NACK5だったら、神奈川県西部はちょっと厳しい。静岡ではかなり厳しい。

だが、東京湾では意外とばっちり聞こえる。東京湾を行く船の上で、NACK5を聞いた本人が言っているのだから間違いない。

FMは範囲が狭い分音質が良いとされ、音楽番組向きだといわれている。

改変

番組のDJが変わったり、番組そのものが入れ替わる時期。1月、4月、7月、10月に改編が行われるが、特に4月と10月に集中している。

改変の1か月前くらいに、「番組の最後に大事なお知らせが……」みたいなことを言い出したら、大好きな番組の終了を覚悟したほうがいい。

たまに、「大事なお知らせが……」といって、「何年何月に放送が始まった今番組ですが……」と神妙な面持ちで切り出しておいて、「来月から放送時間が変わります!」と発表するパターンがある。「びっくりした。終わるのかと思った。あ~、よかった」という安堵感と、「おい! 番組終わるかと思っただろ! 紛らわしいことするな!」という怒りが同時に胸中に押し寄せる。

カフ

DJの手元にあるマイクのスイッチ。このスイッチを入れることを「カフを上げる」という。カフを上げ忘れると、しゃべっても声が放送に乗らず、その後もカフを上げ忘れたことでしこたまいじられる。

逆電

番組からリスナーに電話をかけ、お話をしたり、クイズやゲームを楽しむ企画。大体が番号非通知でかかってくるので、非通知拒否設定を解除しないと、番組から電話がかかってこない。

公録

公開収録の略。

サイレントリスナー

投稿をあまりしないリスナー。

周波数

電波の周波を表した数字。単位は「MHz(メガヘルツ)」。埼玉県には、周波数が79.5MHzだから、「ナックファイブ」という社名をつけたふざけたラジオ局が存在する。

ジングル

CMに入る前後に挿入される音楽。音楽にのせて番組名を言う場合が多い。

たまに、ゲストのミュージシャンがお土産に番組のジングルを作ってきたり、遅刻のお詫びにジングルを作ったりする。

聴衆率調査週間

2か月に一回、偶数の月に行われる、番組聴衆率を調査する週間。この週になると、どこもスペシャル感を出し、プレゼントが豪華になったり、特別な企画を行ったり、動画配信を行ったり、ノベルティが当たりやすくなったりする。

トークバック

ディレクターが放送中にDJに出す指示。放送ブースの外からマイクを使って指示を出し、DJはヘッドフォンやイヤホンでこの指示を聞く。そのため、トークバックが放送に乗ることはない。

ハガキ職人

番組にせっせと投稿したり、面白い投稿を連発したりする人のこと。時代は流れ、ラジオへの投稿はハガキからFAX、そしてメールが主流となったが、「メール職人」という言い方はあまりしない。

ふつおた

「ふつうのお便り」の略称。番組が募集しているテーマとは関係ない内容のメールのことを指す。番組や放送局によって名称が変わることもあるが、「ふつおた」が一般的である。ふつおたを特に集中して紹介するときは「ふつおたまつり」と呼ばれる。

radiko

インターネットを通じてFMラジオを聴くアプリ。電波による放送に比べると、数秒から30秒近く遅れる。有料プログラム「radikoプレミアム」を使うと、電波が届かない地域のFMラジオを聴くことができる。さらに、タイムフリー機能があり、聞き逃した放送も1週間以内なら再生することができる。

ここがヘンだよ旅人たち

ピースボートなんぞに乗っていると、いろんな旅人と知り合う。世界のあちこちをめぐり、旅に生き、旅を愛し、自由を謳歌する旅人たち。最高である。最高なんだけれど、どうも違和感を感じてしまう時がある。今回はそんなお話。外国に行くのがえらいんですか? 何か国も行くのがえらいんですか?


今年は旅祭に行かなかった

去年、旅祭2017に参加した。2年続けての参加である。

旅祭2017 ~最果ての地、幕張~

この時もそれなりに楽しんだのだが、一方で「祭りになじめない」という思いを切実に感じていた。その当時の記事から抜粋してみた。

さもここまで旅祭を楽しんだかのように書いたが、僕には一つの違和感が付きまとっていた。

どうも、この場になじめない。

CREEPY NUTSの『どっち』という曲がある。「ドン・キホーテにも、ヴィレッジ・バンガードにも、俺たちの居場所はなかった」という出だしで始まる曲で、ドンキをヤンキーのたまり場、ヴィレバンをオシャレな人たちのたまり場とし、サビで「やっぱね やっぱね 俺はどこにもなじめないんだってね」と連呼する。

旅祭の雰囲気はまさにこの歌に出てくる「ヴィレバン」だった。やたらとエスニックで、やたらとカラフルで、やたらとダンサブル。

突然アフリカの太鼓をたたく集団が現れたり、おしゃれな小物を売るテントがあったり、やたらとノリのいい店員さんがいたり、なぜか青空カラオケがあったり。

なんだか、「リア充の確かめ合い」を見せられている気分だ。「私たち、やっぱり旅好きのリア充だったんだね~♡ よかったね~♡」という確かめ合い。

会場で何回かピースボートで一緒だった友人たちに会い、その都度話し込んだが、彼らがいなかったら、とっくに帰っていたような気がする。

とまあ、ひがみ根性丸出しの文章を書いている。

とはいえ、締めの文章では

旅祭2017を振り返って、「来年も旅祭に行きたいか」と問われれば、答えはイエスである。

僕みたいな「旅ボッチ」は旅祭に群がる「旅パリピ」が苦手なだけであって、旅祭そのものは刺激に溢れた祭だ。

と書いているから、この時点では旅祭2018も参加する気満々だったらしい。

そうして1年が過ぎ、5月ぐらいになると「今年も旅祭やるよ!」という告知が回ってくる。

なぜ、今年の旅祭は行かなかったのか。

この5月のときに前回の旅祭を思い返してみても、「全然なじめなかった」という記憶しか出てこなかったからだ。

正直、今回、この記事を書くかどうかは悩んだ。友人の中には旅祭を楽しみにしている人や、旅祭の運営に1枚かんでいる人までいる。「なじめなかったから今年は行かない」なんて書いたら、彼らを傷つけてしまうのではないだろうか、と。

だが、僕に限らず、お祭りやイベントごとになじめない人間というのは一定数必ず存在する。それは、僕自身ピースボートに乗っているときにイベントを運営する側に回ったことで痛切に感じたことだ。

そして、「なじめない人間」というのはあまり自分から声を発することはない。そういうのが苦手な人が多い。

そのため、イベントを運営する側にしてみればそういった「なじめない人たち」は「いないもの」、「存在しないもの」として扱わざるを得ない。

なので、「なじめない!」と声を上げることも必要なんじゃないか、と思って筆を執る次第だ。

旅ボッチと旅パリピ

去年の旅祭に参加して切に思ったのは、「旅人の中には『旅ボッチ』『旅パリピ』がいる」ということである。

旅ボッチと旅パリピ

旅ボッチと旅パリピはどういうことかというと、「旅の好きなボッチ」と「旅の好きなパリピ」である。読んで字のごとくだ。

よく、ピースボートなんかもそうなのだが、旅人の話を聞くと、「世界を旅すると、世界じゅうに友達がいっぱいできます」と語る人を見る。ぼくの身近にもいた気がする。

はっきり言わしてもらうと、

そんなのは嘘だ!

それは、「旅パリピ」に限った話である。

日本で友達が作れない奴が、旅先で、言葉も文化も宗教も違う奴と友達になれるわけがない。

私がその証明だ(笑)。

 

旅パリピというのは、テンションが高く、声がデカい。

その結果、常に注目を集め、いかにも旅パリピが多数派であるかのような錯覚を周囲に引き起こす。

 

確かに、誰かと行く旅は楽しい。

だが、それが旅のすべてではない。

時には、一人の方が気楽で楽しい。そんな旅だってある。

僕の実感では、やっぱり旅祭は旅パリピを対象にしたイベントであって、旅ボッチにはどうにも居心地が悪い。

いや、もしかしたら日本の「旅業界」全体が、旅パリピ向けなのかもしれない。

それは単にJTBみたいな「旅行業界」だけではない。例えば本屋やこじゃれたカフェにある「旅の本」なんかを見ると、大体カラフルな写真が並び、「絶景」というワードが入っている。

これは旅パリピ向けである。旅ボッチにとってはこういうのはちょっと手を伸ばしにくい。

今のところ、旅ボッチ向けの、白黒写真の「旅の本」はまだ見たことがない。

不思議である。旅パリピは大体口をそろえてこう言う。「世界を回るといろんな価値観に触れ、世界観が広がります。多様性が大事なんです」

ところが、現状「旅人業界」は旅パリピのことしか見ていない。旅パリピは自分たちの価値観が旅人代表であるかのように語り、旅ボッチのことは存在すら知らないらしい。

何が「世界観が広がる」だ。多様性が大事だというのなら、もっと旅ボッチの存在に目を向けるべきである。

ここがヘンだよ旅人たち① 旅人はフレンドリーじゃなきゃいけない?

旅パリピはよく「旅に出ると世界中に友達ができる」と口にする。

それは、旅パリピだけの話だ。

また、旅祭のようなイベントに行くと、顔見知りでも何でもないのにやたらフレンドリーに話しかけてくる関係者の人がいる。

なんだろう。「旅人はみなフレンドリーである。いや、フレンドリーでなければいけない」という不文律でもあるのだろうか。

旅ボッチの視点から言えば、知らない人がなれなれしく話しかけてくるのは、

迷惑である。なるべくやめていただきたい。

断言しよう。別に現地の人と話さなくても、旅は楽しい。旅人はフレンドリーでなければいけない、なんてことはない。

むしろ、人と接触しすぎるとかえってトラブルに巻き込まれる可能性だってある。

ここがヘンだよ旅人たち② みんな高橋歩が好きなのか?

旅好きで高橋歩の名前を知らない人はいないだろう。世界のあちこちを放浪し、若者たちに強く訴えかけるメッセージを発し続ける、旅人のカリスマである。僕の周りにも高橋歩が大好き、影響を受けた、尊敬している、そんな人が多い気がする。

僕自身も旅祭で何度か高橋歩を見ている。「おもろいおっさん」というイメージで、決して嫌いなわけではない。

だが、これだけは言わしてほしい。

全ての旅好きが、高橋歩の著書を後生大事に読んでいる、というわけではないことを。

高橋歩が苦手な旅人だっている、ということを。

どの辺が苦手なのかというと、「距離感が近すぎる」という点である。

旅パリピにとってはそこが魅力に映るのかもしれない。本を読んでいると、まるですぐそばで励ましてくれているような気がする、と。

ところが、同じ本でも旅ボッチが読むと、「距離が近い近い近い近い! 無理無理無理無理! 離れて離れて!」と感じてしまう。あの距離感が苦手なのだ。

だから、僕の本棚には、高橋歩と仲の良い四角大輔さんの本はいっぱいあるのだけれど、高橋歩の本は一冊もない。

ところが、旅人仲間の中では「高橋歩大好き!」「歩さんマジ神!」といった人が結構多い。

そしてそういう人たちはどういうわけか、「ノックも旅が好きなら、当然、高橋歩好きだよね⁉」という前提で話しかけてくることがある。

旅が好きなら当然、高橋歩も好き。

決して、そんなことはない。

そんなことはないんだけれど、話の腰を折るのが嫌で、「いや、俺、あんまり高橋歩好きじゃない」とかいうとなんか相手の尊厳を傷つけてしまう気がして、「ああ、うん……」と適当に話をごまかす。実際に著書に目を通したことはあるけど、それで感動したことは一度もない。だって、距離感が近すぎるんだもん。

多様性が大事だというのであれば、「誰だって本の好き嫌いぐらいある」ということも理解するべきだ。

ここがヘンだよ旅人たち③ 遠くへ行くほうがえらいのか?

この夏、南関東を制覇してきた。

静岡では伊豆に行き、天城山を歩いてきた。

神奈川では鎌倉に行った。帰りにちょこっとだけ横浜に立ち寄った。

東京では高尾山に登った。葛西臨海公園で海も見た。

埼玉では飯能に行き、アニメ『ヤマノススメ』の聖地を巡ってきた。

千葉では館山に行き、海のそばでバーベキューをした。帰りには海ほたるにも立ち寄った。

東京湾に浮かぶ海ほたるまで行ったのだから、「南関東完全制覇」を宣言しても差し支えないのではないか。

そして、思う。

旅をするのに、別に何も「遠くでなければいけない」ということはないんだな、と。

伊豆で見たのどかな田園風景、高尾山から見下ろす東京の街並み、館山の海岸、価値観を揺さぶるには十分だ。

だが、ピースボートなんぞに乗っていると、どうも、「より遠くに行くことが正義」という風潮があるように感じてしまう。

旅祭に関しても、「世界」にばかり目が行って、すぐ足元の「日本」の旅にあまり目を向けていない気がする。

だが、昔の人はいい言葉を残した。「灯台下暗し」。世界ばかり見ていないで、自分の足元にも目を向けるべきだ、ということだ。

大体、近所の景色のすばらしさに気づけないやつが、世界を旅したところで得るものなんて大してない。

ここがヘンだよ旅人たち④ 何か国も行くやつがえらいのか

旅祭2017に参加したとき、こんなイベントがあった。

100か国以上を巡った人たちが、ステージに上がってお話します、というものだった。その時、こう思った。

……何か国も行くやつがえらいのか?

そもそも、行った国の数を自慢している時点で、アウトなのではないだろうか、と。何かを学んだとはちょっと思えない。

プロフィールにはなるべく数字を入れないほうがいい。数字が語るのはその人の自尊心の強さだ。入れていい数字は生年月日ともう一個何かぐらい。だから僕はプロフィールに入れる数字は「地球一周」のみと決めている。これ以上数字を入れてしまうと、ただの自尊心の強い人になってしまうからだ。

そもそも、僕の感覚では世界を10か国ほど旅すれば、そこから先は何か国旅してもそんなに変わらない、と思っている。10か国行っても、20か国行っても、50か国行っても、100か国行っても、300か国行っても、そこまで価値観とか経験値の差は出ないと思っている(ちなみに、世界に300も国はありません)。

量ではない。大事なのは質だ。

僕が尊敬してやまない人物に民俗学者の宮本常一がいる。宮本常一は日本の各地をつぶさに歩いて回ったが、海外に行ったことはあまりなく、初めての海外旅行は還暦を過ぎてからだといわれている。

たぶん、行った国の数だけを比べたら、僕のほうが宮本常一の4倍の数、国を訪れている。さらに、宮本常一は東アフリカと東アジアにしか行っていない。地域にも大きな偏りがある。

じゃあ、僕のほうが宮本常一よりも、行った国の数が多い分見識が深いのかというと、断じてそんなことはない。「僕のほうが4倍多くの国を訪れているから、4倍見識が深い」なんて言ったら、全宮本常一ファンにぼこぼこにされるだろう。ちなみに、その「全宮本常一ファン」の中には当然僕本人もいる。自分で自分をぼこぼこににしたいくらいの、分不相応な問題発言である。

量より質なのだ。「100か国以上旅した」という旅人を46人くらい集めても、ほぼ日本1か国だけを旅し続けた宮本常一1人の見識の深さにはかなわないと思う。

ここがヘンだよ旅人たち

「世界を回ると、様々な価値観に触れ、世界観が広がります。多様性が大事なんです」

旅人は口をそろえてこう言う。

だが、その実態は旅ボッチの存在に目を向けることなく、自分の好きな本はみんな好きだろうと勝手に思い込み、世界ばかりに目を向け日本を、近所を旅する楽しさを知らず、行った国の数を自慢する。

要は、ほとんど何も学んでいないに近い人が多い。

人の価値は何を経験したかでは決まらない。その経験から何を学んだか、どれだけの経験値を得たかで決まる。

どこを旅したとか、何か国行ったとか、地球何周したとか、そんなことはどうでもいい。そこから何を学んだかである。

「地球一周した」とか「100か国以上行った」とかいうと、たいてい「へぇ~、すご~い!」といわれる。

勘違いしてはいけないのが、この場合すごいのは「経験」そのものであって、「経験した本人」がすごいのではない。

もっと言えば、「それだけすごい経験をしているのだから、お前がどんなに馬鹿でも、何かしらのことを学んでいるよね?」という期待値が込められた「へぇ~、すご~い!」である。

何を経験したかではない。そこから何を学んだか、それが人間の、旅人の価値を決めるのだ。