日本人が政治に無関心な理由は、「お前ら」のせいだ!

「日本人は政治に無関心だ」と言われて久しい。投票率も平成に入ってガクッと落ちている。どうしてこんなに日本人は政治に無関心なのか。偶然見かけたある光景から「もしかして“この人たち”が原因なのでは?」と考えて、筆を執ってみた。なぜ、日本人は政治に無関心なのか。

偶然、首相演説を見たお話

2018年9月19日、私用で秋葉原を訪れた。

夕方、大通り沿いを警察官が警備している。「あれ、歩行者天国は日曜のはず……?」と首をかしげていると、なんだか大きな声が聞こえる。

どうやら、駅前でだれかが演説をしているらしい。そういえば、ニュースでも連日、来たるべき選挙の話をしている。

警察官が警備しているが、別に通行禁止になっているわけではないので近づいてみると、100m先に、総理大臣の名前の書かれたたれ幕があった。どうやら、総理大臣が演説をしているようだ。そういえば、総理大臣は秋葉原では特に人気があるらしく、選挙前の最後の演説はいつも秋葉原に来る、なんて聞いたこともある。

総理大臣の名前を発見した時、最初に思ったのが「え、なんでいるの?」

なぜなら、連日ニュースでやっている来るべき選挙というのは、自民党総裁選だったからだ。

もちろん、僕に選挙権はないし、道ゆく人々の大半が選挙権を持っていない。

わざわざ警察官を動員して街頭演説するよりも、自民党本部で演説をした方が効果的ではないだろうか。

さて、選挙カーの周りには日の丸の旗をもって振っている一団が見える。彼らにも選挙権はないと信じたい。選挙権のある人、つまりは自民党員が選挙カーの周りを囲んでいて旗を振っているのだとしたら、それは「サクラ」である。

この話はニュースにもなっていて、総理に反対する人たちも大勢集まってヤジを飛ばしていたそうだ。

僕はこの日、秋葉原で総理大臣の演説があるなんて全く知らなかった。この日わざわざ日の丸やプラカードを持って行った人は、どう考えても「演説があることを知って秋葉原にやってきた人たち」だろう。つまり、日ごろから総理大臣の動向を気にしている、かなり政治参加への意識の高い層だ。

そして、その100m先には「総理大臣が来ていて、演説している」とわかっていて、「来てるみたいだねー」と話しているにもかかわらず、スルーして歩く大勢の人々。

一国の総理が来ているというのに、みんな関心がなさそうだ。確かに、自民党総裁選の選挙権はないとはいえ、生の総理大臣がいるのだから、もっと集客力があってもよさそうだ。

これが福士蒼汰とか広瀬すずとか、SEXY ZONEとかだったら、もっとパニック状態になっていたのではないか。そういえば、この前テレビで福士蒼汰が秋葉原でロケをしているのを見たが、あの時はどうだったのだろう。

秋葉原という場所柄、もしかしたら水瀬いのりとか上坂すみれとか宮野真守の方が集客力があるかもしれない。しかし、全員一発変換できるとは、人気声優パネェ。

少なくとも、この時は「選挙カーに書かれた文字が見える位置まで、難なく近づけた」程度の混雑だった。めんどくさかったから行かなかったけど、あと半分くらい距離は余裕で詰められたと思う。「一部の熱心な人たち」しか集まっていなかったのが現実だ。

「一強」などと言われているけど、総理は意外と人気がなかった。いや、選挙カーの周りにいた人が「総理をすごく好きな人」と「総理をすごく嫌いな人」だとすると、「みんな意外と総理に興味なかった」の方が正しいのかもしれない。

総理大臣を無視してアニメイトやソフマップに吸い込まれる人たちを見ながら、ふと思った。

今、選挙カーの前で日の丸を振っている人たち、選挙カーの前でプラカードをもって「やめろー!」と声をからしている人たち、

彼らは総理大臣ではなく、その反対側、興味なさそうに演説をスルーする人たちを見るべきなのではないか、と。そうすれば、自分たちがいかに「異常な存在」なのか気づけたのかもしれない。

そう、タイトルにもなった、日本人の政治のへの無関心の理由となった「お前ら」、それは、「政治への関心が強い人たち」のことだ。

そう、お前らのせいだよ。

「政治への無関心は悪」という発想を変えてみよう

おいおい、ひどい言い草ではないか。政治に関心があることが「異常」? ケンカ売ってるのか!

……と握った拳をひとまず開いて、話を聞いてもらいたい。

「政治に関心を持たないのはいけないことだ!」、そう思って「みんな政治に関心を持とう!」とか、「みんな選挙に行こう!」と声高に叫び続けて、

……効果があっただろうか。

ない。ないから、みんな総理大臣の生演説をスルーするのだ。

ここは発想の転換が必要だと思う。「政治には関心を持たなければいけない! 関心がないのは悪いことだ!」という今までの考え方をいったんやめて、「政治に関心を持たないのが普通。関心をもって、演説を見に行く方が異常」という発想に変えてみるのだ。

「政治に関心を持つのは当たり前だ! それを『異常』だと!?  ふざけるな!」、と怒りたくなる気持ちをぐっとこらえて、目を閉じて大きく深呼吸して、口に出してみよう、「私は異常」と。

逆に、これくらいの発想の転換もできないような頭の固さでは、何も変わらないぞ。「当たり前だと思っている大前提を疑う」ことが知性への第一歩だ。

日本人が政治に無関心な理由① ハードルが高すぎる

「政治に関心を持たないのが普通。関心を持つのは異常」としたうえで、話を進めていこう。

「選挙カーの前で日の丸を振る」という行為や、「選挙カーの前で批判に声をからす」という行為を客観的に見てみると、これは結構異常な行動だ。

「そんなことはない! 選挙を応援するのは、国民に認められた当然の権利だ!」

「政治家を声高に批判しちゃいけないのか! 言論弾圧だ!」

と言いたくなる気持ちを抑えて話を聞いてもらいたい。

政治家を応援するのも批判するのも、国民に認められた権利である。とくに、「批判」を封じ込めたら、民主主義が成り立たない。それはわかっている。

と、同時に、「こういったことを積極的にやる人は、異常である」ということも理解するべきだ。

「異常」という言葉が納得できないなら、「政治に積極的にかかわる行動はハードルが高いので、普通の人はやらない」という言い方もできる。

本人は気づかないのかもしれないが、「日の丸の旗をもって総理大臣を応援する」も、「プラカードをもって総理大臣を批判する」も、実は人前でやるには意外とハードルの高い行動なのだ。

そして、「本人は気づかない」というのが問題だ。

選挙演説のさなか、「がんばれー!」とか「とっととやめろー!」と声を張り上げるさなか、もし一度でも後ろを振り返って、自分たちを遠巻きに見ながらスルーしていく人たちの姿を見ればきづくはずなのだ。「あれ、僕たち、周りから浮いてる?」「変な目で見られてる?」と。

別に、周りから浮いているからやめろとか、そういうことを言いたいのではない。自分の信念に基づいて、周りに何を言われようと、信じたことを貫く。結構なことだ。

と同時に、「自分が周りからどう見られているか」を把握する俯瞰した視点も必要である。

そして、「自分たちの行動が新規参入を阻んでいるのではないか」と、自分を疑ってみることも大切だ。

人は、いきなりハードルの高いことはしない。

そして、「政治に関心を持つ=選挙カーの前で日の丸を振ったり、声を張り上げて非難すること」というイメージを持たれたら、それはもう「ハードルの高いこと」なのだ。「ふつうの人」は「あの一団の中には入りたくないな……」と敬遠する。

人間は、あまりにも熱心な人を見ると、ちょっとヒクのだ。

こういう経験はないだろうか。自分の好きなものを熱心に進めたけど、相手は「ああ……」と微妙な表情をされたこと。これと同じことが選挙カーの遠くの方で起こっている。

結果、「政治に関心を持つことはハードルが高い」というイメージを持たれ、敬遠される。

より分かりやすく言えば、政治に関心の強い人たちを指さして「ああはなりなくないな」「あれと一緒にされたくないな」と、一緒にされることを避けるようになるのだ。

だからこそ、政治に関心の強い人たち、お前らが日本人が政治に関心を持つのを阻んでいる、となるのだ。

政治に関心を持つこと自体は悪いことではない。立派なことだ。選挙カーの前で応援しようが批判しようが、それは国民に認められた権利で、誰に邪魔されるいわれもない。

一方で、「自分たちが周りからどう見られているか」を考える余裕を持つことも大事だ。「もしかしたら自分たちの存在が、ほかの人が政治に関心を持つのを阻んでいるのではないか」と、自分を疑ってみる頭の柔軟さが必要なのだ。

「政治に関心を持つのは当たり前のことだ! 政治に関心を持たないなんて、日本がどうなってもいいのか!」という脅迫・恫喝では、人間は動かない。

日本人が政治に無関心な理由② 右と左の罵りあいが口汚すぎる

ネットを見ると、SNSを見ると、右寄りの人は左寄りの人を口汚くののしり、左寄りの人は右寄りの人を口汚くののしる光景をよく見る。

左寄りの人は右寄りの人を「ネトウヨと呼び、右寄りの人は左寄りの人を「パヨク」と呼び、お互いがあいつらは馬鹿だ、あいつらはクズだ、あいつらは悪だと口汚くののしっている。

心当たりがある人は、ここで一歩引いて、さっきと同じように「自分たちを俯瞰して」考えてみてほしい。

この光景を見せつけられて、あの中に加わりたいなどと思う人がいるだろうか、ということに。

たとえば、駅で見知らぬ人がケンカしている。取っ組み合いとまではいかなくても、口汚くののしりあっているとしよう。

普通の人はこんな光景に遭遇したら、関わらないようにと距離を取って、避ける。「なんかアタマのオカシイ人たちがわめいてるぞ」と。よほど義憤にかられた人でないと、見かけた口喧嘩を止めるなんてことはしない。

それと同じだ。右と左が口汚くののしりあっていたら、「あいつらにかかわりたくない」と距離を取られ、避けられるのが「ふつう」なのだ。

だから、日本人が政治に無関心な理由は「お前らだ」ということなのだ。

「あんな連中にかかわりたくない」、そう思われているのだ。

日本人が政治に無関心な理由③ 文章が難しい

政治について語った文章、特にネットにある文章を読むと、難しく感じる。

なぜ、難しく感じるのか。

内容が難しいのではない。

ただ単に「漢字が多い」から難しく感じるのだ。

一般的に、文章のなかで漢字の割合は3割程度がのぞましいとされ、それより漢字の量が多いと読みづらく、それより漢字の量が少なくても読みづらい、とされている。

ところが、「政治に関心の強い人の文章」は漢字が多いのだ。

漢字が多いほうが頭がよいと思っているのだろうか。だが、残念ながら今や、変換キーを押せば「薔薇」みたいな難しい漢字も、書けないのに書けてしまう。漢字が多いのはもはや、全然賢くない。

むしろ、かしこい人の文章とは、漢字と仮名の配分に気をつかう文章だ。本を読んでいると、そのことを痛切に感じる。

たとえば、「たとえば」と書くときに「例えば」ではなく「たとえば」と書く。大学教授が文章でこういう工夫をする。「例」という漢字を知らないはずがない。知っていて、あえて読みやすいようにひらがな表記を選択しているのだ。

ここが、「本当に頭が良い人の文章」と、「頭をよく見せたい人の文章」の違いだ。「頭をよく見せたい人の文章」は、なんでもかんでも漢字変換して、結果読みづらくなる。

読みづらい文章は、当然敬遠される。最後まで読んでもらえない。読み飛ばされる。結果、主張がつたわらない。

こうして、「政治に関心の強い人の文章」は「読みづらい」と敬遠される。そして「政治そのもの」が「難しいもの」として敬遠される。

だから、日本人が政治に無関心な理由は「お前ら」だということなのだ。頭の良いアピールをしようと漢字を多用した結果、読みづらい文章を作っているのだ。

日本人が政治に無関心な理由④ バカは関わるな

先日、女優の吉永小百合がI-CANとともに核廃絶に向けたコメントをした、というニュースが流れた。

このニュースに対して賛否いろいろな意見があった。賛否があること自体は普通のことだ。

気になったのは「女優は政治に口出すな」というコメントがあったことだ。

まったくもって不可解なコメントである。職業にかかわらず、誰にだって政治に参加し、声を上げる権利はあるはずなのに。

それにしても、なぜ女優が政治に参加してはいけないのか。

女優になるのに学歴は必要ない。「バカは政治に参加するな」「声を上げるな」ということなのだろうか。吉永小百合は早稲田大学第二文学部を女優業をしながら次席で卒業しているのだが。

この「バカは政治に参加するな」という姿勢が、人を政治への関心から遠ざけている。

テレビでタレントが政治に関してコメントし、その知識が間違っていると、「政治クラスタ」が一斉に叩く。「こいつは馬鹿だ」「バカが政治を語るな」と。

もちろん、「知識が間違っている」のは問題だ。

だが、「間違っている人を見つけて、叩く」というのもまた問題なのだ。

本当に頭がいい人は、間違った知識の人を見つけたら、「教える」という方法を選ぶはずだ。

一方、実は頭がよくない人、頭が良いと見せかけたい人、頭がよくないことにコンプレックスを持っている人たちは、ため込んだ知識をだれかに教えてあげるなどということはせず、自分の頭の良さをアピールするために、他人を批判するために使う。知識が泣いている。

そうして「バカをたたく」ことによって、「政治にあまり詳しくない層」が関心を持つことを妨げているのだ。「半端な知識で関心を持ったら叩かれる」と。

「バカは政治を語るな」「バカは政治にかかわるな」という姿勢を見せる、こうすることで人は政治にかかわることを委縮してしまう。結果、政治から遠ざかる。

だから、日本人が政治に無関心な理由は「お前ら」だというのだ。「バカは政治にかかわるな」という態度をとることで、人々の関心を遠ざけ、結果、政治の話題は「自称頭のいい人たち」が「頭のいいアピール」をするためのおもちゃに成り下がっているのだ。

「お前ら」に告ぐ!

以上、長々と書いたが、要はこういうことだ。

「自分が周りからどう思われているか、俯瞰してみる視点を身に着けよう」

自分の行動が周りから「異常」と思われているかもしれない。

自分の行動が周りから「関わりたくない」と思われているかもしれない。

自分の書いた「ためになる」文章が人が読むと「読みづらい」文章かもしれない。

自分の言動が人を遠ざけているのかもしれない。

日本人の政治への無関心が問題となっている。だが、視点を変えてみると、「政治が『政治クラスタ』だけのおもちゃとなっている」こと、「『政治クラスタ』が、新規参入を阻んでいる」の方が本当の問題かもしれない。

自分を疑おう。自分は異常である。自分は変に思われている。自分は間違っている。

僕は自分で自分をそう疑いながら、この記事を書いている。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。