「やりたいことができない人」はダメ人間なのか?

「やりたいことがあったら、できない言い訳などせずに、やろう!」みたいな論調をよく自己啓発本とかで見る。まるで、やりたいことができない人間はダメ人間である、とでも言いたげである。しかし、本当にそうなのだろうか。「やりたいけどできない」の裏には、その人にとって何か大切なものが隠れているんじゃないだろうか。それを無視して、簡単に排除していいのだろうか。

やりたいことをやろう!

人生は、やりたいことをやるべきである。

なるべくやりたくないことを排除し、やりたいことをやる。

「やりたくないこと」を排除していくと、ストレスがなくなる。

ストレスがなくなるとストレスに対する許容量が増える。余裕が生まれる。

その結果、ちょっとくらいのストレスが気にならなくなる。

たとえば、駅に行ったら人身事故で電車が止まってる。いつ帰れるかわからない。これは結構なストレスだ。ほかの客の舌打ちなんかも聞こえてくる。日ごろからストレスの多い生活を送っていると、もうストレスの許容量がなくなり、結果「電車が止まってる」というストレスに耐えきれずに、いらいらする。ひどい人は駅員にあたる。

だが、ストレスの少ない生活をしていると、ストレスを受け入れる容量がまだたくさんあるので、「まあ、これくらいいいか」で済ますことができる。

こういったことは自分の身で実証済みだ。

人生は、やりたくないことを減らして、やりたいことをバンバンやるべきである。

だから、「やりたいけどできない」というのはよくない。「できない言い訳」は勇気を出してつぶし、やりたいことをばんばんやるべきだ!

……という論調が世の中多い。

実際、「やりたいこと できない」で検索をかけると、そういった論調が多い。

「世の中には、やりたいことをやる人と、やりたいことができない人がいる。お金がない、時間がない、自信がない、そういった理由でやりたいことにブレーキをかけている。でも、それはよくない! やりたいことをやって、人生を豊かにしよう!」

今回は、こういった論調に疑問を呈していきたい。

「くだらない理由」の裏にある大切なもの

以前、こんなことがあった。

友達に地球一周の旅の話をしていた。

一応言っておくと、自分から「オレの旅の話を聞きたいだろ?」と切り出したのではない。むこうから話してくれと言われて話しているのだ。

話し終えるとみんな「いいなぁ」と言う。

なので僕が「だったら行けばいいじゃん。何なら、スタッフとか紹介するよ」というと、友人の人がこう言った。

「履歴書に穴が開くと、社会にカムバックできなくなる」

なんだそのくだらねぇ理由、と正直その時は思った(口に出してはいない)。そんなくだらないことを気にしているのか、と。そういうくだらねぇ理由を考えなくて済む世の中になればいい、そう思った。

それから3年たった今、僕はこう考えている。

あの時「くだらねぇ」と思った理由の中に、友人の大切にしている何かがあったのではないか、と。

それを「くだらねぇ」の一言で斬り捨ててしまうことが、一番くだらないことだったのではないか、と。

「履歴書に穴が開くと、社会にカムバックできなくなる」ということは、その友人は「社会参加」、もっと言えば「働いてお金を稼ぐこと」に対しても価値を見出している、大切に思っている、ということではないだろうか。

それを理解しようともせず、「くだらねぇ」の一言で斬り捨てることが一番くだらないことではなかったのか。

大切だから、失うのが怖い

2017年に放送されていた「宇宙戦隊キュウレンジャー」にこんなシーンがあった。

主題歌の中で「考えてわかんないことは速攻近づこう Space jurney やらない理由など探さずに」という歌詞があるのだが、一方で、最終回直前にこう言ったやり取りがあった。

最終決戦前、ヘビツカイシルバーことナーガ・レイというキャラクターが、「怖い」という感情を口にする。

このナーガというキャラがけっこう変わったキャラで、彼は感情を持たない一族の出身だ。はるか昔、争いの絶えなかったその一族は争わないようにするために感情を捨てたのだ。

その一族の出身であるナーガは「感情を学びたい、手に入れたい」と旅に出て、やがてキュウレンジャーに加入する。そして、物語の中で少しずつ感情を学んでいく。

そのナーガが口にした「怖い」という言葉に、ナーガとずっと一緒に旅をしてきた相棒のバランスというキャラクターがこう答える。

「おめでとう。君は『怖い』という感情を手に入れたんだ。それは『今を失いたくない』という思いなんだよ」

最終決戦で勝てる保証などない。もしかしたら死んでしまうかもしれない。自分は生き残っても、大切な仲間を失ってしまうかもしれない。

それが、怖い。

「できない」という理由の裏にはこの「怖い」という感情が隠れていることが多い。

たとえば好きな人がいるとしよう。

面と向かって「君が好きだ」と叫んだら、振られてしまうかもしれない。

どうして振られるのが怖いのかというと、「今の関係」を失うのが怖いからだ。

「君が好きだ」という思いと同じくらい、「今の関係性を失いたくない、壊したくない」という思いも大切なのである。

それを「勇気を出して告白しよう!」とか、「思いを伝えないと先に進まないよ」と言ってしまうのは簡単。

でも、「君が好きだと言いたいけど、今の関係を失いたくないからできない」、ここまでがワンセットでその人の個性、その人の価値観である。

それを「後半部分だけ斬り捨てろ」というのは、道理が通らないのではないか。

それを「個性の尊重」と言えるのだろうか。「できる自分の価値観」を「できない人」に押し付けているだけではないだろうか。

それでもやりたいことをやりたい人へ

「やりたいけど、お金がないからできない」のは、その人にとってお金が大切だからである。

「やりたいけど、時間がないからできない」のは、その人が別の大切なことに時間を費やしているからである。

「やりたいけど、自信がないからできない」のは、その人が失敗を恐れているからである。失敗したって死にはしない。が、何かを失う。その「何か」がその人が大切にしているものである。

「やりたいけど、家族が反対しているからできない」のは、その人にとって家族も大切だからである。

「できない理由」の裏には、その人が大切にしている何かがある。

そもそも、大切でないものなんか、最初から天秤にかけたりしない。

自分の例になるが、僕が地球一周の船旅を決断できたのは、決して人より行動力があるからでも決断力があるからでもない。

当時僕は仕事をしていなかった。しかし、前の仕事でためたお金がけっこうあった。

天秤にかけるものがな~にもなかった。ただそれだけである。

仕事はしてなかったし、お金も「ある程度は使えるな」と大して重視していなかった。

たいして大切じゃなかったから、天秤にかけなかった。それだけだ。

「やりたい、でも……」と天秤にかけている時点で、それはとても大切なものなのだ。

それを「勇気がない」「行動力がない」「決断力がない」と捨てさせようとする。

それは、その人のことを考えているように見えて、

ただ、自分の「やりたいことができる人」の価値観を押し付けているだけである。

それは、優しさとは言えない。

もちろん、やりたいことはやるべきである。その方が人生は楽しい。

でも、「できない理由」もその人にとっては、失いたくない大切な「何か」である。

「やりたいこと」だけを優先して「できない理由」を「臆病だ!」「勇気を出せ!」と切り捨てさせようとするのは、その人の尊厳を踏みにじっていることに等しい。

しかし、「できない理由」だけを尊重して、「やりたいこと」を我慢するのも、やはり人生を無駄にしている。

ならば、道は一つだ。

本当にその人のことを考えるのであれば、「やりたいこと」と「できない理由」の両方を尊重するべきである。

つまり、「両方が実現できる方法を探す」べきなのではないか。

「好きだといいたいけど、今の関係を失いたくない」というのなら、かけるべき言葉は「勇気を出して告白しろ!」ではなく、「今の関係を維持したまま、好意を伝える方法」なのではないだろうか。

「やりたいけど、お金がないからできない」というのなら、言うべきは「お金を言い訳にするな!」ではなく、お金を稼ぎながらやりたいことを実現する方法ではないだろうか。

「やりたいけど、時間がないからできない」というのなら、言うべきは「仕事なんかやめちゃえ!」ではなく、「仕事をしながら短時間でやりたいことをする方法」か、「仕事の時間を減らす方法」ではないだろうか。」

「やりたいけど、家族が反対しているからできない」というのなら、言うべきは「家族のことなんか忘れろ!」ではなく、家族との関係を崩すことなく、やりたいことを実現する方法なのではないだろうか。

「やりたいこと」と「失いたくないもの」、両方を実現すること、それが一番「その人らしい生き方」のはずだ。

「やりたいことをやりたいなら、『失いたくないもの』を捨てろ!」と言えるのは、所詮は他人であり、その人にとっては相手の「失いたくないもの」なんてどうでもいいからである。むしろ「やりたいことをやれてる自分」に酔っているから相手に押し付けたいだけかもしれない。

やりたいことがあるけどできない人へ

できない理由はいろいろあると思うが、やっぱり何かを恐れているからだろう。

何を恐れているのかと言えば、リスク、つまりは、何かを失うことを恐れているのだ。

あなたが失うことを恐れているそれは、あなたにとってとても大切なもののはずだ。

でなければ、最初から天秤にかけて悩んだりしない。

「リスクを恐れずに!」「勇気を出せ!」「後先考えるな!」と他人に口で言うのは簡単。

でも、『失いたくないもの』を失って、傷つくのは自分である。

やりたいことをかなえたい。

でも、大切なものを失いたくない。

ならば、道は一つだ。

失いたくないものを守りつつ、やりたいことをかなえる。

両方を取りに行く。それしか道はない。

そして、それが一番「自分らしい生き方」である。

欲張り? 何を言っているのか。

天秤にかけている時点で、最初から欲張りなのである。

本当は両方手に入れたいのである。

やりたいけれどできない。そんなことを言うと、「自分の気持ちに素直になって」と「やりたいこと」だけを取らせようとする人が多い。

でも、自分の気持ちに素直になるのなら、

両方取りに行け。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。