新宿の歓楽街も上野のアメ横も、はぐくんだのは戦後の闇市だった

新宿と上野も、アジアンタウンと風俗店街が隣接している。なぜ、アジアンタウンと風俗店街は隣り合うのか。そして、なぜ、新宿と上野なのか。その理由を戦後の闇市という観点から紐解いていきたいと思う。新宿と上野は、いや、東京という町は、戦後の闇市から生まれた街なのだ。


これまで、このブログでは新宿と上野を歩きながら、以下のことを見てきた。

・風俗店街と外国人街が隣接、混在している。

・どちらの町も、江戸において中と外の境界、異界との入り口にあった。

風俗店街と外国人街の奇妙な関係 新宿編

風俗店街と外国人街の奇妙な関係 上野編

なぜ、外国人街と風俗店街が隣り合うのか。それを紐解くには、新宿と上野の歴史を見ていかなければならない。

その始まり、「戦後の闇市」の時代を。

戦後の闇市の姿

「東京の歴史を探る」という話をしたら、江戸時代から始まるのがふつうな気もする。

だが、残念ながら現代の東京に江戸の町並みはほとんど残っていない。江戸時代を彷彿とさせる建物が残っていたら、東京ももっと違った街になったろうに。

江戸時代はおろか、明治・大正の町並みすら残っていない。なぜだろうか。

いろんな要因があるだろうが、その一つが「第二次世界大戦」である。

東京大空襲をはじめとする空襲で、ほとんどの建物が焼けてしまったのだ。

新宿だ上野だといったターミナル駅の周辺も、終戦直後は建物なんてほとんどなかった。

もっとも、こういったターミナル駅の周辺は、火事になるのを防ぐために住民を疎開させて、先に建物をぶっ壊して更地にしておくという「交通疎開空地」と呼ばれる場所も多かった。

まあとにかく、終戦直後の東京は今の東京からは想像もつかない焼野原、「ほぼ更地」だったのだ。

さて、戦争が終わり、一抹の開放感はあったものの、何よりも大事なのは自分や家族の命、今日のご飯と明日のパンツである。なんとしても食糧を手に入れなければいけない。

そういった事情から、東京の駅という駅の周りには闇市が立った。露店やバラック小屋で、食料品や日用品を売っていたのだ。

しかし、なぜ「闇市」というのだろう。

「闇市」の夜「闇」とは、「非合法」という意味だ。

露天商にしてもバラック小屋にしても、不法占拠だった。法的にそこで商売する権利は何もない人たちが、勝手に居座って商売をしていた。

さらに、政府による食料統制もあったため、勝手に食料を売ってはいけないことになっていた。

闇市を取り仕切っていたのも、テキヤというアウトローな集団だった。

闇市は違法行為なんだけれど、それを取り締まっていたら、食糧が手に入らない。東京高校の教授だった亀尾英四郎や、東京地裁の判事だった山口良忠は、闇市での食料購入を拒み、餓死した。山口は日記の中で「食料統制は悪法だ」と断言しつつも、それでも法の順守を貫いた。

逆に言うと、法律を守っていたら食べ物が手に入らずに死んでしまう時代だったのだ。

警察も取り締まりを行っていたが、終戦直後の混乱期ではやはり警察機能の弱体化は否めない。

さらに言えば、警察は黙認どころか、裏で闇市を推奨していた。新宿西口の安田マーケットは、テキヤの「安田組」が取り仕切っていたが、安田組にマーケットを仕切るように依頼したのは、なんと警察署長だった。闇市は違法だが、このままでは第三国人に新宿を乗っ取られかねないと危惧した警察署長が、そうなる前にと安田組の親分に西口のマーケットを仕切るように依頼したのだ。もちろん、西口のマーケットも不法占拠だ。

それにしても、どうしてこうもホイホイ不法占拠ができるのだろうか。

いまの新宿でどこか空地があったとして、そこで勝手に商売を始めれば、必ず地権者がやってきてけんかになるだろう。

つまりは、地権者にばれなければ、不法占拠は継続できるのだ。

終戦直後、地権者はどこへ行ってしまったのかというと、たいていが疎開していた。

終戦直後の東京は誰もかれもが今日を生きるのに精いっぱい。更地になってしまった土地なんてどうでもよかった。そんなことよりも必要なのは今日のご飯、明日のパンツである。実際、新橋でマーケットを仕切っていた中国人が、新橋の土地の地権者に土地を譲ってもらえないかと頼みに地方へ出向いたところ、実にあっさりと譲ってもらえたという。土地を守るよりも、土地を売って食費に変えた方がいい、そういう時代だったのだ。服を売って、家財道具を売って、そうしてあるもの全部売って食費に替えることを「タケノコ」と呼んだ。

だいたい、東京の闇市で売られている食糧は地方から運ばれてきたものである。食事のことを考えると、わざわざ東京へ戻るくらいなら疎開先の地方にとどまったほうが、食糧が手に入りやすい。

そういった事情があるから、東京の地権者たちは戦争が終わってもすぐには帰ってこなかった。そこをこれ幸いとテキヤだの第三国人だの浮浪者だのが占領し、闇市を開いていた。

だが、それは戦後、警察機能が弱体し、地権者が帰ってこれなかった間、それまでの秩序が崩壊したつかの間にしか成立しない。闇市は昭和22年にはほとんど姿を消してしまう。このころになると警察は力を取り戻し、地権者たちも地方から帰ってくる。地権者が帰ってきて闇市を見れば、当然「出てけー!」という話になる。

そこで出ていく者もいれば、土地を買うなり借りるなり、ちょっと場所を移すなりしてそのまま残る者もいた。今の東京の繁華街の多くは、こうした闇市が残り、発展したものだ。

闇市とアメ横

上野のアメ横もそんな街の一つだ。

アメ横には終戦当時、関西からやってきた朝鮮人が多く集まっていた。また、「パンパン」と呼ばれる売春婦も多くいて、彼女たちは桜のマークに「Ueno」と書かれたバッヂを作り、連帯を深めていた。

朝鮮人たちを中心とする第三国人は、仲御徒町の線路沿いで石鹸を売っていて、その一帯は石鹸町と呼ばれていた。

この第三国人は日本人とのいざこざが多かった。上野一帯の第三国人は7割が学生だったという。

やがて、復員軍人や中国からの引揚者からなる近藤マーケットが第三国人をアメ横から追い出す。この近藤マーケットが、今のアメ横へと発展していった。

追い出された第三国人はどこに行ったのかというと、アメ横から大通りを挟んだ反対側にキムチ横丁という街を作った。

ここで重要なのは、終戦後の上野には外国人、特に朝鮮人が多かったこと、そして、彼らはアメ横から追い出されても、上野にとどまり続けたことである。

すなわち、上野は闇市の時代から、朝鮮人をはじめとするアジア人の集まる街になったのである。

闇市と新宿、歌舞伎町の始まり

「光は新宿から」。新宿の尾津マーケットを取り仕切ったテキヤの親分、尾津喜之助が掲げたスローガンだ。

新宿駅前では尾津組や安田組と言ったテキヤ集団が闇市を取り仕切っていた。

だが、戦後1~2年もすると、地権者たちが帰ってきて、闇市の時代は終わりを告げる。

さらに、小田急電鉄が新宿の開発に乗り出す。新宿は小田急の始発駅。始発駅のブランド価値を高めることによって、新宿発の小田急のブランド価値も高まる。こうした開発の波に小さな店は飲み込まれていった。

新宿西口線路沿いの思い出横丁は、レトロな雰囲気を残す場所として、連日多くの人が狭い路地に集まる。ここは、闇市の店が戦後、地権者から正式に土地を購入して残ったという、新宿でも非常にレアなケースだ。

さて、新宿、いや、東京最大の歓楽街と言えば歌舞伎町である。歌舞伎町もそうして闇市が発展したものだ。

……と言いたいところだが、実は違う。

もともと、今の歌舞伎町の一帯は武家屋敷の跡地、「大村の森」と言われる森だった。今の大久保病院の前には、池があり、花道通りは川だったという。なるほど、確かに花道通りは、まるで川のように蛇行しているし、歌舞伎町内には水の神様である弁天様が祭られている。

大久保病院自体がそもそも、コレラや伝染病を専門とする、隔離病院だった。歌舞伎町は、そういう病院を作るような、町はずれの場所だったのだ。

終戦後、この「大村の森」は駅から遠すぎて、闇市は立たなかった。一方、町会長だった鈴木喜兵衛は劇場や映画館を中心とした、浅草のような演劇の街をこの地に作ることを構想する。その中心となるのが、歌舞伎座の誘致だった。ゆえにこの地は歌舞伎町と名付けられ、開発が行われた。

だが、この計画は思うようにはいかなかった。歌舞伎座の誘致に失敗したのもあるが、やはり駅から遠すぎたというのが一番の難点だった。

一方、新宿駅前では地権者たちや警察の力がよみがえり、闇市の時代が終わった。そこであぶれた商売人たちが、新宿の北に新しい街ができたと聞きつけ、歌舞伎町で商売を始めるようになった。

やがて、1950年になると朝鮮戦争がはじまり、日本は戦争特需といって朝鮮半島で戦うアメリカ軍に物資やサービスを提供することで、景気が向上する。歌舞伎町もその影響でにぎわいを見せ始めた。

1951年には歌舞伎町内に東京スケートリンクが開業し、これがヒットする。

1952年には歌舞伎町のすぐわきに西武新宿駅が開業。さらに都電の停留所も二つ作られ、最大のネックだった「交通量のなさ」が解消された。

そして1956年には歌舞伎町の中心となる新宿コマ劇場(現在の東方の映画館)がオープン。

こうして、歌舞伎町は発展していくが、昭和30年代はまだ、今のような歌舞伎町とは違い、風俗店だやくざの事務所だといったものはなく、むしろとんかつ屋だ、お茶屋さんだ、パーマやさんだ、工務店だ、パン屋だ不動産だと、どこの町の商店街にもあるような店が並ぶ、庶民的な街だった。「ロボットレストラン」がある桜通など、職人街だったという。今でも歌舞伎町にはこういった店がまだ残っている。

このころは喫茶店ブームで、歌舞伎町にも多くの喫茶店があった。

この喫茶店の経営者には台湾人をはじめとする第三国人が多かった。彼らはもともと、西口の安田マーケットで店を構えていた人たちだ。

歌舞伎町の中では特に台湾人の果たした役割が大きく、花道通りには今でも「台湾同郷協同組合」のビルが建つ。

さて、昭和40年代になると、歌舞伎町の北側にホテルが建つようになったこの一帯は今でもラブホ街となっている。

どうしてホテルなのかというと、商品や技術がなくても、建物さえあれば商売できるから、らしい。

このころになると暴力団が歌舞伎町に増え、犯罪も増加する。ソープランドやストリップ劇場と言った、いわゆるいかがわしいお店も増えてきた。

1980年ごろになるとノーパン喫茶だののぞき劇場だのといった、もはやいかがわしさしかないお店が増える。こうして今の歌舞伎町になっていった。

歌舞伎町は鈴木喜平の想像を超える規模に発展したと思うが、たぶん、方向性は彼の想像とは全然違うと思う。

関東最大のコリアンタウン・新大久保

その歌舞伎町のすぐ来たのは新大久保のコリアンタウンがある。平日でも韓流大好き女子が集まり、遊園地のような賑わいを見せている。チーズダッカルビをはじめとした最新の韓国グルメがウリだ。

さて、どうして新大久保がコリアタウンになったのかについては、諸説ある。

そう、諸説あるのだ。東京のど真ん中、しかもここ数十年のことなのに、どうして諸説あってしまうのかわからないが、とりあえず諸説ある。

諸説その①

新大久保駅のすぐ北には1950年から2017年までロッテの工場があった。今では住宅展示場になっている。

ロッテの創業者は韓国人でロッテの工場にも多くの韓国人が集まっていた。彼らは工場の近くに住み、それがコリアンタウンのもととなった。

諸説その②

歌舞伎町には多くの韓国人が住んでいた。闇市からの流れを考えれば、歌舞伎町に多くの第三国人がいたことは不思議ではない。彼らが90年代になって新大久保に店を出すようになった。

さて、どっちの説が本当だろうか。

たぶん、どっちも本当なのだと思う。新大久保にロッテの工場があったのは事実だし、ロッテの創業者は韓国人だ。韓国人が始めた工場に韓国人が集まるのも自然なことだろう。

そして、彼らが工場の周りに住むのも自然なことだ。これが1950年代の話。

この時点で多くの韓国人が新大久保に住んでいたはずだが、今のようなコリアンタウンの姿とは程遠かったはずだ。

何せ彼らは工場の労働者であり、韓国料理屋をやっていたわけではないのだ。

そこに90年代になって、歌舞伎町内にいた韓国人たちが合流した。90年代の歌舞伎町と言えばすでに一大歓楽街となっていた。そこにいた韓国人たちは接客のプロだった可能性が高い。

彼らは新大久保に移り住み、そこに住む韓国人を呼び込むために、韓国料理の店を始めた。こうしてコリアンタウン・新大久保が完成したのだろう。

第三国人とは何か

さて、ここまで、わざと解説しなかったのだが、さかんに「第三国人」という言葉を使ってきた。

今日では耳慣れない言葉だが、これは終戦直後の在日朝鮮人・在日中国人・在日台湾人のことを指す。

彼らの大部分は強制連行で連れてこられた者たちだ。日本兵として出征した者もいる。

だが、必ずしも全員が無理やり連れてこられたのではなく、中には自分の意志で日本の学校に留学している学生もいた。アメ横の第三国人の7割は学生だったという。

さて、戦争が終わって日本人たちは、戦争は終わったけれど食べモノがない、と途方に暮れたわけだが、同じように途方にくれたのは第三国人も同じだ。

植民地支配が終わり、「祖国に帰る」という選択肢も出てきたが、そんなに話は簡単ではない。

何せ、羽田からソウルや北京に直行便が出ているような時代ではないのだ。国に帰るには船に乗らなければならない。船に乗るには汽車に乗って港に行かなかければいけない。そこまでの交通費や船代も、決してタダではない。

そうまでして祖国に帰っても、そこで楽に暮らせるという保証は何もない。終戦直後の韓国や中国も混乱していたのだ。そもそも、植民地が裕福だったら、日本はこんなに困っていない。日本が疲弊すれば、植民地も疲弊する。

加えて、第三国民は当時、日本で特権的な立ち位置にいた。GHQは第三国人を解放国民として扱った。これは、日本の法の外に置く、すなわち、「まあ、ある程度の無茶は目をつぶりますよ」ということだ。

無理して祖国に帰っても、まともに生活できる保障はない。ならばこのまま東京にとどまって、せっかく得た特権をフルに使おうじゃないか。

こうして、第三国人は一気に勢力を強めた。GHQの横流し品も優先的に手に入れられたので、商売でも日本人より有利な立場になった。特に数が多かったのが朝鮮人で、闇市の時代、日本には90万人もの朝鮮人がいたという(それでも、140万人は帰国している)。

混沌の時代、ヤミイチ

いまここで第三国人の話を詳しくしているのは、こういうことを言いたいからだ。

アジア系の外国人が日本で土地を持ち、店を構え、街を形成できる唯一タイミング、それが、あらゆる秩序が崩壊した闇市の時代である。

闇市の時代でなければ、こんなことはあり得ない。どの町にも古くからの住民がいる。そこに割って入って、あれだけの規模のコリアンタウンを造るのは不可能だ。

終戦直後、警察の力が衰え、違法である闇市が公然と開かれていた。すりやかっぱらい、強盗が横行し、町角にはパンパンと呼ばれる街娼が立っていた。そこでは、それまで虐げられていた第三国人が力を持っていた。

法律、国籍、常識、道徳、そういったあらゆる秩序が崩壊した、「生きるためなら何でもあり」のカオスな時代。

こういった時代だからこそ、本来ならよそ者であるはずの外国人たちが異国の地である東京で力を持つことができ、その後の「外国人街の形成」につながっていったのではないだろうか。

それはいわゆるアウトローたちも同様である。本来ならば警察に取り締まられるべき立場のはずが、この時代に力を持った。闇市のマーケットはテキヤの親分たちが取り仕切った。何せ、警察署長がテキヤの親分に「不法占拠で違法な品を売るマーケットをやらないか」と持ち掛けるような時代である。法律も警察も何もあったもんじゃない、しっちゃかめっちゃかだ。

こういったアウトローたちは、上野に根付き、歌舞伎町に流れ込み、やがて町が発展していくにつれて人が集まると、やくざの事務所や風俗店の経営などに乗り出していったのではないだろうか。

もともと、この記事は「なぜ、西川口に中華料理屋が増えているのか」から始まった。

西川口駅周辺に中華料理店が増えたのはなぜだ‼?

西川口に中華料理屋が増えたのも、「そこにカオスがあったから」という叙事的なセリフで説明がつく。

もともと、西葛西は風俗街として有名だった。だが、一斉摘発で多くの店が廃業に追い込まれた。その跡地に中華街ができた。

人口が多い街なら、駅周辺もにぎわうのが自然というものだ。人口が多いにもかかわらず、駅前に空き店舗、ゴーストタウンが生まれるというカオスな状況。このカオスがあったからこそ、西川口はチャイナタウンになったのだ。

……とまあ、まるでまとめみたいに話をシメにかかっているが、実はまだ、大きな謎が残っている。

それは、「なぜ、上野と新宿だけなのか」という謎だ。

何せ、闇市はそこら中にあったのだ。新橋にも、秋葉原にも、錦糸町にも、池袋にも渋谷にも、中野にも、高円寺にも、何ならとんで埼玉にも。

そして、第三国人がいたのも、アウトローだのパンパンだのがいたのも、どこも同じである。新橋のマーケットは中国人が仕切っていたし、有楽町はパンパンガ多くいた。

だが、アジアンタウンや風俗街で有名なのは、新宿を中心とする一帯と、上野を中心とする一帯ぐらいである。

数ある闇市の中で、この二つが最もカオスを色濃く残したまま現在に至っている。

なぜ、新宿と上野なのか。秋葉原や錦糸町じゃダメだったのか。

これには、「境界」が絡んでくるのだが、その答えはまた次回。

参考文献

猪野健治編『東京闇市興亡史』

戦後の闇市に関する資料として現存し広く流通した者の中には、もうこれ以上の資料は存在しないのではないかという代物。今回、なんと神保町で昭和53年に出版された初版本を発見するというミラクルに恵まれた。

七尾和晃『闇市の帝王』

新橋のマーケットを取り仕切ったある中国人を取材したもの。新橋に限らず東京全域の闇市の様子が描かれている。

石榑督和『戦後東京都闇市』

新宿・池袋・渋谷の闇市の攻防が描かれている。論文なので内容は堅め。

稲葉佳子・青池憲司「台湾人の歌舞伎町-新宿、もう一つの戦後史』

歌舞伎町の歴史と、街を支えてきた台湾人たちを取材した本。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。