小説 あしたてんきになぁれ 第23話「あたりまえ、ときどき、あたりまえ。ところにより、あたりまえ」

田代と一緒に映画を見に行く志保。3人はばらばらの行動をとることに。行く当てもなくいつもの公園を訪れたたまきだったが、あるミスを犯したことに気づいてしまう……。そんなあしなれ第23話、スタート!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「じゃ、行ってくるね」

いつもより少しばかりおしゃれした志保が玄関で、玄関と言ってもマットが敷かれ、靴が置いてあるだけの玄関で、靴を履き始めた。

「なあ、その映画、おもしろいの?」

ソファで寝ころびながら亜美が尋ねた。

「まだ見てないんだから、おもしろいかどうかなんてわからないでしょ?」

志保はちょっと高めのおしゃれな靴を履くのに苦戦していた。

「どういう映画?」

「えっとね、高校生の女の子5人組が、学校に、部活に、恋に、青春に駆け抜けてくってお話」

「フツ―!!」

亜美はソファの上で両手両足を大きく伸ばした。

「ふつう……ですね……」

たまきもソファの上で体育すわりをしながら、ぼそっとつぶやく。

「普通が一番だって」

志保はようやく靴をかけたようで、ドアノブに手をかけた。

「というわけで、今日は遅くなります。お夕飯は各自で、ってことで」

「今日帰ってこない、ってこともあるかもな」

亜美は起きやがるとにやにやと白い歯を見せた。

志保はドアを半分開けたが、亜美の言葉にくるりと踵を返すと、靴のまま亜美のもとへと詰め寄った。

「だから、何度も言うけど、私と田代さんはまだそういう関係じゃないんだから!」

「まだ、ねぇ」

亜美は相変わらずにやにやしている。

「よしんば、そういう関係だったとしても、あたしはそんな簡単に外泊したりとかしないから! 亜美ちゃんと一緒にしないで!」

「よしんば」

亜美は「よしんば」という言葉が面白かったのか、口元を抑えて笑った。

「よしんば、よしんばだよ、よしんばそういう関係だったとしても、デートするたびにエッチするとか、あたしはそういう……」

「よしんば!」

「よしんば」がよっぽど面白かったのか、亜美はソファの上で笑い転げた。

「……とにかく、行ってくるから!」

志保は亜美に勢いよく背中を向けると、「城(キャッスル)」を出て行った。

「よしんばがんばって来いよー!」

志保の背中に向けて亜美が元気に手を振った。

ドアがバタンと閉まる。亜美はよいしょっと立ち上がった。

「オトコと映画なんか見に行って、なにが楽しいんだろ?」

「……楽しいんじゃないですか、たぶん」

たまきが体育座りのまま答えた。

「どのへんが? だって、映画館って真っ暗じゃん。二人で行ったって、相手の顔、見れないじゃん」

「映画館って、真っ暗なんですか?」

たまきはまっすぐに亜美を見上げた。一瞬、会話が途切れる。

「そこ!?」

「……どこですか?」

「いや、そこ引っかかるところか? 映画館は真っ暗に決まってんだろ?」

「そうなんですか?」

「そうなんですかってお前、映画館行ったことねぇの?」

たまきは無言でうなづいた。

「でも、真っ暗だったら、なか、歩けないですよね。トイレとかどうするんですか?」

「ぜんぶ真っ暗じゃねぇよ! 映画始まったら真っ暗にするんだよ!」

「なんでですか?」

「なんでって……」

「だって、テレビ暗くして見てたら、怒られるじゃないですか。なんで映画は真っ暗で見るんですか?」

「……なんでだろう?」

亜美は首をかしげたが、やがて、もうこの話題に飽きてしまったのか、衣裳部屋の方を見ると、

「ウチも出かけてくるわ。お前はどうする?」

とたまきに尋ねた。

「私も……出かけます……。ここに残っても、お夕飯ないし……」

「別に無理して出かけなくても、下のコンビニでなんか買って食えばいいじゃん」

「……そういう気分じゃないんで。ちょっと出かけたいかも……」

「へぇ。お前にしては珍しい」

亜美は笑顔を見せると、衣裳部屋の方に歩き出した。

一方、たまきは、言ってはみたものの出かけるあてもない。

「あ、あの、亜美さんについて行っちゃだめですか?」

衣裳部屋のドアノブに手をかけたまま、亜美の動きが止まった。

亜美が答えたのはしばらくたってからだった。

「……隣町のヘアサロン行くからさ、お前来ても、おもしろくないと思うぞ」

亜美はたまきの方には振り返らなかった。

「ヘアサロン……」

志保に「いつもと同じでお願いします」とだけ言って髪を切ってもらっているたまきにとって、美容室というだけでも十分に敷居が高いのに、「ヘアサロン」だなんてどこかの宮殿みたいな名前を出されたら、それだけで委縮してしまう。高い入場料でも取られるんじゃないだろうか。

おまけに、うわさに聞く美容師という職業の人たちは、黙って髪を切ればいいものを、どういうわけか話しかけてくるという。知らない人に髪を触られたり、顔を見られたりする時点ですでに嫌なのに、おまけに話しかけてくるだなんて。

だが、そんなことを言ってたら、また亜美から「何うじうじしてるんだよ」とか「どうでもいいじゃん、そんなの」とか言われてしまいそうだ。たまきももう十六歳なのだし、いいかげん人並みに美容院くらい行けるようにならないといけないのではないか。

そうだ。美容院に行ったら、ずっと目をつぶっていればいいのだ。そしたら無理に話しかけられることもないだろう。

「あ、あの、私も行きます、ヘアサロン」

そう言ってしまってから、たまきは亜美の反応が怖かった。驚かれるんじゃないか。もしかしたら、笑い飛ばされるかも。

そう思ってドキドキしていたが、しばらくたっても、亜美は何も言わない。

「……その、私も少しおしゃれしたほうがいいかなって……」

心から思っているわけではないセリフを言うと、どうしても言い訳がましく聞こえてしまう。

「あ、あのさ……」

亜美がようやく口を開いた。振り返らないままだが。

「その美容院、予約制なんだよね」

「よやく……ですか……」

「……そ。かなり人気のところでさ、今から予約しても、無理だと思うぞ」

「……わかりました」

たまきの返事を聞くと、亜美はまるで魔法が解けたかのように動きだし、衣裳部屋の中へと入っていった。

「ヘアサロン」に行かなくていいということで、どこかほっとしている自分がいることに、たまきは気づいていた。

あと二つ、たまきが気付いたことがある。

一つは、亜美が「隣町のヘアサロン」から帰ってきても、きっと髪型は変わってないということ。

そして、亜美はきっと今、ほっといてほしいんじゃないかということ。なんとなくだけど。

 

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志保は映画館の前で一人、田代を待っていた。ベージュのコート、赤いマフラーに身を包み、街路樹のように立っている。

歓楽街の中にある映画館。真冬の風の中を多くの人が行きかう。

自分の吐いた息が白い靄のように立ち込め、消えていくさまを志保は見つめていた。

待つ、という行為を、志保は決して嫌いではない。

時に、恋愛の本質とは相手と一緒にいる時間よりも、相手のことを想いながら待つ時間にあるのではないか、と思えるほどだ。

緊張からか自分の鼓動が少し早いのを感じる。今日の服やメイクはこれでよかったのかと少し不安になる。田代が来たらなんて話しかければいいのか考え始めると答えは尽きない。

不安。

焦燥。

緊張。

それすらも、それすらも心地よい。

古い短歌なんかには、こういう相手を待つ時間のじれったさを歌ったものがいくつかあったはずだ。今も昔も、「相手を待つ」というのは恋の醍醐味なんだと思う。

もっとも、以前にそんなことを亜美に話したら、「ウチは5分待たせるオトコはコロス」と物騒なことを言っていた。

ふと、視線を感じて志保は背後を振り返った。

初詣の時みたいに、またトクラがどこからか見ているんじゃないだろうか。

志保はキョロキョロと周りを見渡す。周囲の建物の窓、さらには屋上にまで目線を送る。屋上からトクラが双眼鏡で覗いているんじゃないだろうか。

結局トクラの姿は見つからなかったが、それでもどこからか感じる視線はぬぐえなかった。

待ち合わせ時間の4分前となった。白い吐息が晴れてくると、そこに田代の姿があった。

黒のジャケットを着こみ、両の手をポケットに突っ込んでいたが、志保と目線が合うと、ポケットから手を出した。

「待った?」

「ううん、今来たとこ」

本当は六分前からここにいた、なんて言うのは野暮というものだ。

「チケットはもう買ったの?」

「ううん、これから」

「じゃ、行こうか。席、どの辺がいいかな」

「うーん、前の方かな」

志保は笑顔で答えていたが、内心では困っていた。事前に用意していた、いくつかの気の利いたセリフが、田代の顔を見たとたんにどこかに飛んで行ってしまったことに。

 

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赤い薄手のセーターに黒の革ジャンを着て、亜美は駅へと向かって歩いていく。途中、デパートに立ち寄って12個入りのお饅頭の箱を購入した。

デパートを出て再び真冬の街の中を駅に向かって歩いていく。

お饅頭の入った手提げ袋を亜美はぶんぶんと大きく振りながら歩いていた。しかし、ふと立ち止まり、手提げ袋に目をやる。あまり振り回すと中身のお菓子によくないのではないか、そう思い直したのか、手提げ袋を持った右腕をだらんと下げ、なるべく動かさないように歩き出した。

歓楽街から駅までの間は、真ん中に街路樹があるせいか、ほとんど車が通らない。大通りと大通りに挟まれたこの一角は道いっぱいに歩行者が広がっている。

亜美は左に曲がった。このまままっすぐ行けば駅だ。

その時、カップルとすれ違った。

男の方も女の方も割と背が高い。二人ともサングラスをしていたが、すれ違っただけでも美男美女であることは分かった。

今のやつら、どっかで見たことあるぞ。亜美は直感的にそう思って振り返った。別に急いでるわけではないので、後をつけて誰だったか確かめようかとも思ったが、振り返った時には二人はもう雑踏の中に消えていた。二人とも黒っぽい服装をしていた気がするが、冬の大都会にはそんな服装の人は多すぎて、逆に見つけられない。

ま、いっか、と亜美は駅へと向かうスクランブル交差点を渡り始めた。とはいえ、あれが一体誰だったのかちょっと気にはなる。

女の方を思い出したのは、交差点を渡ってすぐだった。

確か、志保と同じ施設に通っている女だ。名前は知らないが、亜美は確か二回会っているはずだ。

一回目は十月に行われた大収穫祭の時。確か、クレープを焼いていた女だ。

まあ、それくらいなら亜美もいちいち覚えちゃいない。

亜美がその女の顔を覚えていたのは、十日ほど前にも見ていたからだ。初詣に行った神社で志保と偶然に会ったらしく、何やら話していた。そう言えば、服装もさっきとほぼ一緒だった気がする。

女の方を思い出せてちょっとすっきりしたが、男の方は思い出せない。

まあ、どうでもいいや。たぶん、志保と同じ施設の人で、大収穫祭の時に見たのをたまたま覚えてたんだろ、と亜美は気にせず、改札を抜けた。

駅構内はまるでゲームに出てくる洞窟やお城のように、広大で、入り組んでいる。その中を溢れんばかりの人が縦横無尽に行きかう。

初めてこの駅を降りたときに、あまりの人の多さに亜美は、その日は何かのお祭りをやっているんだと思った。駅を出ても人の波は収まらず、やっぱりどこかで大きな祭りをやっているんだと思った。それが何でもない木曜日の午後の日常の風景にすぎないと知って、亜美は思わず「ウソだろ」と口にしていた。

あれから一年ぐらいが経った。いつの間にか、この町にもこの駅にも慣れてしまった。

大人になるというのは、そういう風に特別だと思っていたことが当たり前になっていくことなのかもしれない。亜美にだって小学校の頃は男子とちょっと手を握ったくらいでドキドキした時代もあった。今となっては信じられないが。それが今では、手をつなぐどころか、男と夜にベッドを共にすることすら、何でもないことだ。

そのうち、結婚とか出産とか子育てとか、今の亜美には想像もつかないようなことが、日常になり、当たり前になり、何でもないことになるのだろう。

誰かと結婚するなんて想像もつかないし、今の亜美は結婚なんてするつもりはさらさらないのだが、それでもいつか、なにかの手違いで結婚しているかもしれない。だが、エプロンをつけて赤ん坊を抱えて「あなた、行ってらっしゃい」なんて微笑む奥さんに自分がなるとは想像つかない。ダンナに金渡して「めんどくせぇから勝手に外で食え!」ってタイプの鬼嫁にはなれるだろうが。

今の亜美は迷子にならずに人ごみの中をかき分けて、迷路のような駅構内を当たり前のように歩いている。それと同じように、当たり前のように結婚して、子供産んで、孫ができて、「結婚とか想像つかねー」とか言ってた自分が嘘みたいに色あせていくのだろう。

それが大人になる、ということなのであれば、なんかヤだな。

だって、大人になって、いろんなことが当たり前になって、行きつく先はどうせ死である。棺桶である。墓場である。

特別だと思っていたことが一つずつ当たり前になっていく。そして最後には、死ぬことすらも当たり前のことになっていく。周りで家族や友達が死んでいくことが当たり前になっていき、最後には自分が死ぬことも当たり前になるのだ。

亜美は「普通」が嫌いだ。亜美にとって普通は退屈そのものである。だが、このまま生きていれば自分はどんどん大人になっていく。特別だと思っていたことがどんどん普通のことになっていく。どんどん退屈になっていく。

明日のことなんてどうでもいい。今日が楽しければそれでいい。亜美はそう思っているのだが、それでも大人になっていけば今日がどんどん退屈なものになっていく。

だったらたまきみたいに美容院に行くか行かないかでおろおろしたり、志保みたいに映画館に着ていく服を一時間もかけて選ぶ、何でもないようなことを人一倍気にしてしまう、そういう人生の方が案外退屈しなくていいかもしれない。

発車メロディが鳴り、電車のドアが閉まる。亜美を乗せた電車がガタゴトと北へ向かって走り出す。

亜美はドアにもたれかかって、目線をあげた。その途端、「あ」と声を漏らした。

電車の上部に掲げられたビールの広告のポスター。ビール缶を片手に、若い男性が笑みを見せていた。

さっきすれ違ったカップルの男の方だった。名前は知らないが、最近テレビで顔を見る。どこかで見たことがあると思ったら、そういうことだったらしい。

 

「そうやってさ、すごく特別だったことがさ、少しずつ当たり前になっていくんだよ。手をつなぐこととか、キスとか、デートとかさ。そうやって、みんな少しずつ大人になってくんだよ」

「でも、それって、ドキドキすることが一つずつ減ってくってことじゃない? だったら私、大人になんかなりたくない」

「でも、そんなこと言ったってさ、どっかで大人にならなきゃいけないし。それに、周りのみんなはどんどん大人になっていくんだよ?」

スクリーンに映し出された二人のセーラー服の少女が、海岸線の道路を歩きながら話している。一人は青空をバックに堤防の上を歩いている。

志保はそのシーンを、ポップコーンを口に運びながら見ていた。手にしたポップコーンがちょっと多すぎたのか、2つばかり手からこぼれてひざの上に落ちる。志保はその二つを手に取ると、隣の田代を見た。暗いながらも、田代がまっすぐスクリーンの方を見ているのを確認すると、ひざの上の二つを自分の口へと放り込んだ。

映画館が暗くて本当に良かった。こんな、ちょっとはしたないところも見られずに済むのだから。

映画が始まって一時間。Lサイズのコーラはもう空になってしまった。にもかかわらず、のどが渇く。志保はもう一度、田代がこちらを見ていないことを確認すると、紙コップにつけられたプラスチック製のふたを、音をたてないように取り外した。氷を一個つまむと、素早く口の中に放り込む。映画館が暗くて本当に良かった。

当り前じゃなかったことが一個ずつ当たり前になっていく。そうやって、みんな大人になっていく。氷を口の中で溶かしながら、志保は映画の中の言葉を反芻する。

人生とはおおむねそういうものだ。小学生の時は中学生になることにドキドキした。町でかわいい制服や部活のジャージに身を包む、自分よりも背の高い女子中学生に会ったときはあこがれを抱いた。と同時に、自分もあと何年かしたら彼女たちと同じ中学生になる、ということが信じられなかった。

あんなにも信じられなかったのに、いざ中学生になってみると、いつの間にか中学生であることが当たり前になっていった。

あの時、ふと怖さを感じたことを志保は覚えている。

そのうち当たり前のように高校生になり、当たり前のように大学生になり、当たり前のように就職する。当たり前のように彼氏ができて、当たり前のように結婚して、当たり前のように母親になる。

なんだか、自分の人生がすでにゴールまで決まっているような気がした。漫画っぽく言えば「ネタバレ」というヤツだろうか。読んだことはないけれど、要所要所の展開はすでにネタバレされている漫画を、「ああ、ネタバレ通りの展開だな」と確認していく作業。

それは志保にとって、退屈を通り越して、ある種の恐怖だった。

社会のどこかに「理想の人生」っていうのがあって、そのために必要な進学とか就職とか結婚っていうアイテムを一個一個回収していくだけの作業が人生なのだとしたら、自分はいったい何のために生まれて来たのだろう。

志保は人生がそういった作業であることを受け入れることが、たまらなく怖かった。かといって、だったら自分は学校なんか行かない、結婚もしないなどと言い切れるわけでもなかった。現に、今もこうやってデートに来ている。人並みの幸せってやつをただただ回収していくだけの人生に違和感を覚えながらも、人並みの幸せってやつを欲し、満喫しようとしている。クスリの快楽と引き換えに捨てたはずの「人並みの人生」に、どうにかして戻る道はないのかと考えている。

一度過ちを犯した人間が、困難を乗り越えて、人並みの幸せを手に入れる道に戻ってくる。世間的にはそれを「立ち直る」というのだろう。きっと今、志保に関わってくれるほぼすべての人が、志保がそうやって「立ち直る」ことを望んでいるはずだし、志保自身もそれを望んでいるはずだ。いや、立ち直れなければ堕落するだけ。「立ち直る」以外に選択肢なんてないはずだ。

スクリーンの中ではシーンが切り替わる。テニス部に所属する主人公の少女が、コートで練習に励んでいる。演じている女優はこの前まで別の映画で主演していた。その時は確か病気で余命宣告をされたはかなげな少女の役だったが、今はユニフォーム姿で青空のもとでラケットを振っている。

ホイッスルが鳴り、コーチが少女にフォームの指導をする。少女はこのコーチに片想いをしているらしい。コーチ役の俳優は最近出てきた人で、この前電車に乗った時は缶ビールのポスターに映っていた。

スクリーンの中の少女が恋焦がれるコーチに向ってほほ笑む。志保と同年代の女優さんは、誰よりも美しく、誰よりもまぶしく、誰よりも輝いているように見える一方、ただ決められたセリフを読み、求められている演技をこなしているだけのようにも見えた。あの子が急に「やってらんねぇよ!」と叫んで、コーチに馬乗りになってぼこぼこに殴りだしたらもっと面白いのに。

 

いざ外に出たはいいものの、どこか行きたい場所があるわけでもなく、たまきは当てもなく北に向かって歩き出した。

病院と交番のわきを通り過ぎ、公園を抜けて舞のマンションのそばを通る。

舞の家に行こうかとも考えたが、たしか今、舞は正月休みを兼ねて、友人とどこかに旅行に出かけてしまった。「あたしがいない間、絶対にトラブルを起こすな」という脅迫めいた言葉を置き土産に。

さらに北へと進む。韓国料理のお店が立ち並ぶ大通りに出た。これ以上向こうに入ったことがないので、たまきは引き返した。

とぼとぼと来た道を引き返し、再び太田ビルの前に戻ってきたが、カギは亜美が持っているので夜にならないと「城」にも入れない。仕方がないので、今度は南へ、駅へと向かってとぼとぼと歩き出した。

東京のど真ん中、こんなにも人がいっぱいいて、こんなにも建物が、お店がいっぱいあるのに、行きたい場所がどこにもない。

この町で暮らすようになって半年がたったが、やっぱりたまきはこの町にもなじめていないようだ。

道路を渡り、線路をくぐり、地下道に入る。いつも公園に向かう道だ。別に公園に何か用事があるわけでもないし、今日は絵を描く道具など持っていないのだが、ほかに行くところもないので、たまきは公園へと足を向ける。ここでいつもと違う道に入ってみたり、いつもと違うお店に行ってみたり、そういう冒険をたまきはしない。

公園に入るとたまきは仙人の暮らす「庵」へと向かった。赤茶色の落ち葉の向こうにベニヤ板のお化けが、木々に隠れるように立っていた。

少し近づいて覗き込んでみたが、仙人はいないようだ。そう言えば、仙人たちホームレスは空き缶を片手に町中駆けずり回ってお金をもらっていると、前に言っていた。今頃、町中を駆けずり回っているのかもしれない。

たまきはいつもの階段に足を向けると、一番下の段に腰掛けた。

こんなことなら、亜美の言うとおり、「城」でごろごろして、コンビニでおにぎりでも買って食べてればよかった。

それでも何となく一人ぼっちになりたくなくて外に出てきたが、外に出てもやっぱりたまきは一人ぼっちだった。

一人になると余計なことをいろいろと考えてしまう。

志保はデートに出かけてしまった。

亜美はどこに行ったか知らないが、どうせ男がらみだろう。

たまきだけ、ひとりぼっち。デートをすることもなければ、会いに行く友達もいない。そういったこととさっぱり縁がないし、どうしたらみんなと同じことができるようになるのかもわからない。やっぱりたまきは、かわいそうな子なのだ。

周りのみんなは学校に行って、友達を作って、恋をして、仕事をして、階段の上の方へどんどん上がっていく。まるで、それが当たり前のように。そうやってみんな、当たり前のように大人になっていく。

たまきだけ階段の一番下の段にうずくまって、ただ上を見上げているだけ。階段の昇り方なんてわからないし、誰も教えてくれない。みんながたまきのいる段を通り過ぎて、どんどん上に昇っていくのを、恨めしげに見上げるだけだ。

階段なんて昇れるのが当たり前。だから、誰もたまきに昇り方なんて教えてくれない。当たり前のようにできることをどうやって教えろというのだ。

別にたまきはカレシが欲しいわけでも、恋をしたいわけでもない。

ただただ、人並みになりたいだけなのだ。

みんなと同じように階段を昇れるようになりたいだけなのだ。

他の人が当たり前のようにしていることを、当たり前にできるようになりたいだけなのだ。

 

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「よっ」

たまきが腰かけている階段の上の方で声がした。振り返って見上げると、ギターケースを抱えたミチがいた。グレーのジャンパーを羽織り、手には飲みかけのコーラの缶を持っている。

たまきは、無言で軽くお辞儀をした。

「なんか今日、いつもより下の方にいない?」

ミチは階段の中ほどまでは降りてきたが、そこで足を止めた。

「そんな下の方にいないで、こっちあがって来れば?」

ミチは階段の中ほどに腰掛けると、横にギターケースを置いた。

たまきは背中を丸めて、深く深くため息をつく。白い息がもやもやと怪しげに揺れる。

ミチこそ、たまきから見れば階段の上の方にいる人間である。トラブルになったものの、ついこの前まではカノジョがいた。

それに、ミチには夢がある。プロのミュージシャンになるという夢が。たまきにはない夢がある。

今のたまきにとって、ミチはあまりにもまぶしすぎた。

ミチはギターを弾きながら歌い始めた。まだ歌詞はついていないらしく、ラララと歌っている。軽やかにギターをかき鳴らし、ハイトーンでありながらもちょっとハスキーな声で、のびやかに歌っている。

普段は好きなミチの歌も、こんな時に聞くとなんだか後ろから幾千もの針で心を貫かれたかのようだ。

どっか行ってくれないかな。たまきはそんなことを思った。

思っただけで、それを言葉や態度には表さない。たまきはそこまで子どもではない。ミチのことを嫌いと口にしたり、本人に言ったりすることはあっても、嫌いだ嫌いだと醜く顔を歪めて喚いたり、あからさまな態度に表すようなことはしないのだ。

一曲歌い終わるとミチは「ありがとうございました」と世の中に対してあいさつした。そうして、たまきの方に顔を向ける。

「いつまでもそんな下の方いないで、こっちあがって来ればいいじゃん。何? 下の方、好きなの?」

「……私の勝手です」

こういうミチの妙になれなれしいところが嫌いだ。初めて会った時から、ミチはなれなれしかった。なれなれしいという意味では亜美も同じなのだが、亜美とミチで決定的に違うところが一つある。

亜美はたまきがほっといてほしい時、不思議とほっといてくれるのだ。

一方、ミチはたまきがほっといてほしい時も、ずかずか入り込んでくる。今、まさにそうであるように。

クリスマスの一件で少しはミチも変わったかと思ったが、三つ子の魂百まで、そんなに簡単に人は変わらないようだ。

「そういやさ、今日、絵描いてないじゃん。正月休み?」

「別に……」

ミチの問いかけにたまきは振り向くことなく答える。

「ひきこもりにも正月休みってあんの?」

「知りません」

「そういや、お正月に実家とか帰ったりしたの?」

「……帰ってません」

「なんで?」

ミチの無神経な言葉に、たまきは初めて振り返った。ミチは階段の何段か上の方で、ギターを抱えてたまきを見下ろしている。

「実家帰ったら家族とかいるんでしょ? 会いたいとか思わないの?」

「思いません……!」

「なんで? 家族なんでしょ? 家族と離れてたら会いたいって思うのは当たり前なんじゃないの?」

ミチは、わからない、といった顔でたまきを見る。

「……家族のことが好きだったら、そうなんじゃないですか……?」

「たまきちゃん、家族のこと、嫌いなの?」

「……はい、たぶん」

もうたまきはミチを見ていなかった。ミチに背を向け、背中を丸め、自分のスカートのすそをじっと見ていた。

「なんで? だって、家族でしょ?」

気が付けば時計は午後四時半を回り、すでに日が沈み、西のビルの輪郭線から夜が空を侵食し始めていた。空は薄い藍色に染まり、そこから降りてきた影がたまきの背中をべったりと濡らしたかのようだった。

「ミチ君みたいな人にはわかんないですよ……きっと……」

感情を押し殺した声でそう答えるのが、たまきには精いっぱいだった。

「……かもね」

ミチはどこか寂しそうにその言葉を受け止めた。

「でも、普通はみんな、家族好きなんじゃない?」

「私は……ミチ君みたいに、普通じゃないんです……」

家族が好きだと、普通に言える家庭だったらどんなに良かったか。

わかってる。普通じゃないのは自分の方なんだ、ということを。世間的にはたまきより両親の方がよっぽど普通なんだろう。別に虐待を受けたわけでもないし、意地悪な両親だったわけでもない。

ごく普通の両親と、ごく普通の長女がいる家に、普通じゃない次女が生まれてしまったことが間違いなのだ。両親はたまきを普通の子どもとして、お姉ちゃんと同じように、当たり前のことが当たり前のようにできる子どもとして育てたかったけど、たまきはその期待に応えられなかった。やっぱりたまきが悪いのだ。たまきみたいなかわいそうな子が生まれて来てしまったことが、そもそもの間違いなんだ。

今日は絵をかいていないからか、そんなネガティブな思考がたまきの脳をつかんで離さない。

今日はリュックを持ってきていない。たまきのお守りのカッターナイフもリュックの中に入ったままだ。こんな時こそ、お守りが必要だったのに。

 

午後四時四十五分になった。たまきのおなかがぐうぅと鳴る。

もう、帰ろう。

たまきは立ち上がると、

「私、帰ります……」

とミチの方を見ることなく言った。

「うん、じゃあね」

とミチ。

たまきは公園の出口に向かってとぼとぼと歩きはじめる。

何かを食べたい気分ではないが、空腹感には抗えない。今日は志保がいないから、自分で夕ご飯を調達しないと。

歓楽街の中にハンバーガーやポテトのお店がある。そこへ行こう。そう言えば、この前志保から、そのお店の割引券を分けてもらった。あれはたしか、財布に入ってたはず。なんの割引券だっけ……。

そこでたまきは、自分がとんでもないミスを犯していることに、ようやく気付いた。

たまきは普段、外出するときはリュックを背負っている。誕生日に亜美たちに買ってもらったやつだ。

外出(そのほとんどが公園で絵を描くことなのだが)に必要な道具は全部、リュックの中に入れてある。画用紙。色鉛筆。駅前でもらったティッシュ。

そして、財布も。

たまきは、自分の背中に手をまわした。自分が今、リュックを背負っていないことを再確認する。

今日は絵を描くつもりがなかったので、リュックを「城」に置いてきてしまったのだ。そのリュックの中には画用紙や色鉛筆と一緒に、財布も入っているのだ。

そして今、「城」は鍵がかかっていて入れない。鍵を持っているのは亜美だが、いつ帰ってくるかわからない。

いつ帰ってくるかわからないけど、亜美も夕飯を外で済ませてくるはずなので、つまりは、すぐには帰ってこない。

もしも亜美が帰ってくるのが九時とか十時とかもっと遅かったら。それまでぐうぐうとなるおなかの空腹感を抱えたまま、寒い1月の街に、無一文で立ち尽くすことになってしまう。

たまきは幼き日に読んだ絵本「マッチ売りの少女」のはかなげな絵を思い出していた。

再びおなかがぐうとなった。胃の底から悪魔のような飢餓感が、早く何か口に入れろとたまきに急かす。東京には山ほど食べ物があるのに、お金をもっていないとチョコの1枚だって手に入らない。

たまきはくるりと向きを変えると、「庵」に向って歩き出した。歩きながら考える。

志保は……ダメだ。デート中だ。ジャマしてはいけない。

亜美に連絡を取って、もし可能なら亜美と合流して……。

そこでたまきは、自分が携帯電話などという文明の利器をそもそも持っていないことを思い出す。

亜美に電話するには公衆電話を使わなければいけないが、公衆電話に払うお金がない。そもそも、亜美の携帯電話の番号が書かれたメモも、財布と一緒にリュックの中だ。志保の番号だったら覚えてるのに。

「庵」の前についた。黄昏時の薄い闇が靄のようにかかっていたが、それでも、誰もいないことを確かめるには十分だった。

舞の家は……ダメだ。今、旅行中だった。

たまきは深く深呼吸をすると、さっきまでいた階段の方に、少し早足で歩き始めた。

階段の下の方に戻ると、帰り支度を始めていたミチが目に入った。たまきは、たまきなりの速度で駆け出した。

たまきが声をかける前に、ミチの方が気づいた。

「あれ? 帰ったんじゃなかったの?」

「あ、あの……ミチ君ってこの後、バイトですか?」

「いや、今日休みだけど」

「……これからお夕飯ですか?」

「まあ、家に帰ったら」

ミチはギターをケースにしまい終えると、ギターケースを担ぎ、コーラが入っていた空き缶を片手に立ち上がった。

「あ、あの……」

たまきはミチから目線を外し、恥ずかしそうに下を見た後、ミチに目線を戻すと、再び目線を外し、なんとも申し訳なさそうに言った。

「その……ずうずうしいお願いがあるんですけど……」

たぶん、いつの日か美容院で「髪を切ってくれませんか」という時も、きっとたまきはこんな感じなのだろう。

つづく


次回 第24話「お姉ちゃん、ときどき黒猫(仮)」

ミチの家で夕飯をごちそうしてもらうことになったたまき。そこで、たまきは初めて、ミチの家族のことを知り、ある後悔の念に駆られる。続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。