知識をむさぼらない

「知的メタボリック」という言葉がある。評論家の外山滋比古の言葉だ。

知識をため込むことは一見、良いことのように思われる。というか、社会では「良いこと」とされ、疑われることがまずない。

ところが、知識をため込みすぎると、知識に頼るようになり、その分自分で考えたりする知性がおろそかになってしまうのだという。

僕はもっと辛らつに「知識デブ」と呼んでいる。

そもそも、検索すればすぐに知識が手に入るような世の中で、知識の量を自慢することなんてもはや意味がない。

それよりも、「どうやったらほしい情報が見つかるか」をしっかりと考えられる力の方が大切だ。

だが、こういう考えには反発する人も多い。気持ちはわかる。学校で知識を詰め込み、知識の量を採点され、知識の量をステータスとして生きてきた人からすれば、いきなり「もはや知識は不要の時代です」と言われても納得できないと思う。ある意味「神は死んだ」と言われるに等しいのかもしれない。

ところが、「知識は重要だ!」と主張する人間に限って、文章が賢くない。語彙力はあるから一見難しい文章に見えるんだけど、よくよく読んでみると全然賢くない。

ある人は僕の質問に対して、ただの知識自慢で終わっていた。あるだけの知識を並べていたが、どれも僕の質問の答えにはかすりもしない。いくら知識を並べ立てたところで、答えにかすりもしないのであれば、なんの意味もない。

ある人は僕の話に対して「知識を軽視するお前の意見は間違っている!」と言ってきた。正鵠を射た意見なら耳を傾ける価値もある、とその意見を読んでみると、まず、論点が違っていた。論点の違う「反論もどき」を読まされた側としては、「そもそもそんな話してない……」と青ざめるしかない。

知識の重要性を説く人間に限って、論点がそもそもずれていたり、答えが出せなかったり。そういう人間に出くわすたびに「ああ、知識デブ、ここに極まれり……」と頭を抱えざるを得ない。

「考える」ということをしないんだろうなぁ。知識を並べるだけ並べても、それがどんな答えにつながるのかを考えない。相手の話の論点が何で、結論が何かを考えない。

以前、ネット上で「辞書を引かない人」が話題になっていた。文章中で知らない単語に出くわしても辞書を引かない人がいて、ネット上で「知らない単語が出てきたらすぐに辞書を引かないと、いつまでたっても知識が増えないだろ、バカ!」と批判されていた。

それを見たとき、「ああ、また知識デブがいる……」と思った。

実は、僕も、辞書をあまりひかない。

高校の時、英語の先生からこう教わったからだ。

「どんなに勉強していても、『知らない単語』は一定量存在する。そういう単語に出くわしても、入試だと辞書を引くわけにはいかない。だから、前後の文脈から『知らない単語』の意味を類推する力が重要だ」。

つまり、『知らない単語に出くわしても、頭を働かせれば、辞書を見なくても意味は類推できる。それだけの知性を身につけなさい」ということだ。これは英語のみならず、日本語でも同じことが言える。

それ以降、知らない単語が出てくると、辞書を見てしまいたい気持ちをぐっと抑えて、前後の文脈から類推している。頭を働かせれば、たいていの単語は類推できる。

そして、「すぐに辞書を引かなきゃ知識が増えないだろバカ!」と罵る意見を見たとき、「ああ、やっぱり知識デブの人って、『考える』ってことをしないんだな」と妙に納得したのだった。

たしかに、辞書を見なかったらずっと「知らないまま」なのかもしれない。

だが、辞書を見てしまったら「考えないまま」で終わってしまう。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。