10年後なんてわからない

面接の質問でよくあるものの一つに、「10年後の自分はどうなっていると思いますか」というのがある。

これの模範解答が未だによくわからない

調べてみると、いかにキャリアプランをしっかりと考えているかを聞くための質問らしい。ということは、10年のキャリアプランを具体的に語ると、高評価を得るのだろう。

この質問に対する僕の答えは決まっている。

「死んでるかもしれないのでわかりません」

10年もあったら、途中で重い病気になるかもしれない。事故に遭うかもしれない。事件に巻き込まれるかもしれない。災害に遭うかもしれない。何もかもいやになって自殺してしまうかもしれない。政治情勢が変わって戦争が起きるかもしれない。

死んでるかもしれない。だから、10年後のことはわかりません。

ネガティブな考え方だろうか。

だが、僕にとってこれはネガティブな発想ではない。

死に敬意を払っているのだ。

死は誰も避けることができないうえ、いつ死ぬかをコントロールできない。どれだけ健康に気を使って長生きを試みても、明日トラックが突っ込んでくるかもしれない。

人類は「死なない」も「死んでから生き返る」も達成できていない。死は絶対的なものであり、明らかに人間の手に余るものである。

だから、死ぬ可能性を無視して10年後をお気楽に語ることなど、人の傲慢さ以外の何物でもない。だから僕は、死という絶対者に敬意を払い、こう言うのだ。「10年後は死んでるかもしれません」と。

思えば、これまでほとんど「人生の目標」ってやつを立てたことがないし、計画を立てる人の感覚もよくわからない。

それでもたった一度だけ、「何歳までに」という目標を持ったことがある。

それは、24歳で会社を辞めたときに思った「30歳までは好きなことをする」という目標。

もちろん、「30歳までに死んでしまうかもしれない」は織り込み済みだ。

もし、「30歳までに店を持ちたい」「30歳までに結婚したい」というタイプの目標だと、それを果たすことなく30歳前に死んでしまうとすごい残念な感じだ。

だが、「30歳までは好きなことをする」だと、例えば28歳ぐらいで死んでしまっても、それまでの間は好きなことができていればそれで充分である。

さて、30歳を越えてしまったので、新たな目標を立てなければいけない。

僕にはあこがれている大人がいるので、40歳くらいになるときは、その人たちみたいな生き方をしてたらいいな、と思う。

もちろん、そういった生き方に向かって歩み続けているのであれば、35ぐらいで死んでしまっても、それはそれで構わない。

どこかの偉い人も言っている。明日死ぬように生き、永遠を生きるように学べ、と。

この「永遠を生きるように学べ」というのがミソだ。

要は、人の成長や学習に「完成はない」ということだ。「理想の自分」や「理想の生き方」に近づくためには、生涯かけて学習と成長を続けなければいけない。そこにゴールはない。

ゴールがないのならば、近道も存在しない。

こればっかりは、死をいったん棚に上げて、永遠に生きるつもりで、永遠にに完成しないものをそれでも完成させるつもりで成長し続けるしかない。

その途中で死んでしまったとしても、成長を止めなかったのであればそれはそれでいいと思う。そもそも、はじめから永遠に完成しないのだから、「成長途中で死ぬ」以外のエンディングはあり得ないのだ。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。