スマートフォンに時間を渡さない

長年ガラケーを使い続けてきたが、2020年問題に引っ掛かった。通話ができなくなってしまったのだ。

携帯電話なのに電話できなくなってしまったら、さすがに携帯電話ではない。とうとう買い替えることにした。

買い替えるからには、何か一つ機能をアップデートさせようと思い、前からやろうと思っていたウーバーイーツを始めることにした。

ところが、ウーバーイーツのようなアプリは、ガラケーやガラホではダウンロードできないのだという。

ということで、やむを得なく、初めてスマートフォンを購入した。

さて、初めてスマートフォンを手にしてわかったのだが、

これはさほど便利なものではない。

というのも、30年近くスマートフォンを使わない生活を、より正確に言えば「スマ―トフォンがなくても困らない生活」を送っていたので、いまさらスマートフォンにしたところで、ウーバーイーツ以外に頼らざるを得ない機能がほとんどない。

ウーバーイーツのほかには、LINEでの待ち合わせができるようになったのと、外で地図が見れるようになったくらい。

そのLINEでさえ、待ち合わせのような連絡以外では外では使わない。基本的には家のパソコンで見ている。

SNSは家でやればいい。

動画は家で見ればいい。

テレビは家でのんびり見ればいい。

ニュースは家で見ればいい。

ゲームは家でゆっくりやればいい。

このあとの天気がどうなるかなんて、空模様見ればだいたい見当がつく。

地図なんて目的までに3回見れば十分だ。

ガラケーを使っているときは、みんな何をそんなに夢中になってスマートフォンを見ているのだろう、と不思議でしょうがなかったが、いざスマートフォンを手にしても、やっぱり何をそんなに夢中になっているのか、さっぱりわからない。

みな、スマートフォンに時間を奪われすぎだと思う。

そもそも、そんなに情報を取得して、一体どうするつもりなのだろうか。

ネットにある情報のうちのいったい何割が、自分の行動に影響を与えうるのか。

配信されるニュースのうちのいったい何割が、自分の行動に影響を与えうるのか。

そう考えると、四六時中情報を取得する必要などなく、適度な時間に適度な情報をとればそれでいいということになる。

政治とか、芸能とか、スポーツとか、おもしろいけど実は自分にはほとんど無関係、という情報はたくさんあって、そういうのに時間を費やすのは、時間の無駄である。

SNSでそれらの話題に時間を割くなど、愚の骨頂だ。

しかも、こういった話題に対するコメントは大抵が「こいつ嫌い」だの「こいつはバカだ」だの「こいつをクビにしろ」だのと、みんなだいたい同じ意見で、実はたいしたことは言っていない。

わざわざ1万分の1でしかない意見を書くのに時間を費やすのは、実にもったいないと思う。

そうやって、みんなスマートフォンに夢中になっている。腕を伸ばしてスマートフォンを持つのは疲れるので、みんな、顔のすぐ前にスマートフォンをかざす。

そうすると、視界の大半が覆われて周りが見えなくなる。そのまま歩くと、何かにぶつかったり、躓いて転んだりする。

それでケガをしたり、けがをさせたりしたら、その元凶たるスマートフォンで救急車を呼んだり、病院を調べたりしなければならない。

こういうのを「端末転倒」、じゃなかった、「本末転倒」というのだ。

別に長生きしたくない

とある宗教学者の本にこんなことが書いてあった。

その本の著者は無理に長生きするのではなく、五穀断ちなどをしてなだらかに、命を終わらせる準備をしていきたいと語っていた。著者はもともとお寺の生まれらしいので、仏教的な考えが根底にあるのかもしれない。

そんな文章を読んで、「ああ、そういうのもいいなぁ」と思ったのである。

50歳か60歳くらいになったら無理に長生きしようとするのではなく、少しずつ自分の命を終わらせる準備に入るのも悪くない、と。

とはいえ、別に還暦になったら自殺したい、と言いうわけではない。もちろん、命の価値を軽んじているわけでもない。

還暦になるころまでには、自我を軽くし、生への執着のない、そんな人間になりたいということだ。

人はいつか必ず死ぬ。年をとればとるほど、死に近くなる。

ならば年をとればとるほど、生への執着も減らしていくべきだ。

だって、100歳にもなっていよいよ大往生というときに「やだ! やだ! 死にたくない!」と子供みたいに泣きわめくのは、みっともないじゃないか。100歳にもなったら自分の死すらも泰然と受け入れて、孫やひ孫や看護師さんを「見事な臨終だ」と感心させたいものだ。

どこまで長生きしても死から逃れられない以上、年と共にそれを受けいられる人間になっていかなければいけないのだ。

ところが、僕に言わせれば近頃のクソジジイクソババア、失礼、人生の諸先輩方は、年に反して自我が強いように思える。

昨今、高齢者ドライバーによる事故が問題となり、免許返納が話題となっている。

ところがテレビを見ていたら、「高齢者に頭ごなしに『免許を返納しろ』というと自尊心を傷つけてしまうので、高齢者の方の自尊心を傷つけずに免許を返納できるよう、言い方に工夫をしましょう」と言っていて、それを聞いて僕はひっくり返った。

60歳70歳にもなって、自分の老いを受け入れられないほど自尊心が高い、というのがそもそもの問題じゃないのか。なぜ、それまでの数十年間で自尊心を減らす努力をしてこなかったのか。

僕の世代は年配の方から「さとり世代」などと呼ばれているが、この言葉には「まだ若いのに何悟ったようなこと言ってるんだ」という揶揄が込められているように思う。

それは裏を返せば、人間、60歳70歳くらいにもなったら、いい加減悟ってくれないと困る、ということではないだろうか。

だのに近頃の高齢者は、もう年だから免許を返納したらどうかと諭しても、自分の老いや衰えを受け入れられず、逆ギレするという。

そのような状態で、自分の死を受け入れられるのだろうか。それこそ100歳の大往生で「いやだいやだ」とみっともなく泣きわめくのではないだろうか。

まったく、近頃の年取った奴らときたら。

僕が「別に長生きしたくない」というのは、今から「残りの人生はあと20~30年くらい」と、死ぬことを意識して生きていかないと、自我を減らすことができず、自尊心の高いクソジジイになってしまうのではないかという焦りと恐れからくるものなのだ。