「どうせお前にはわからない」

「どうせお前にはわからない」

「あんたなんかに私の何がわかる」

拒絶の常套句としてしばしばこのフレーズが使われる。

お前に私の苦しみなどわかるわけがない。

お前のような人間に俺のような境遇が理解できるわけがない。

自分の苦しみを知らないような奴が、自分と境遇の違うやつが、えらそうにアドバイスするんじゃない。

そうやって、他人のアドバイスなどを拒絶するわけだ。

だが、冷静に考えると、このフレーズは変である。

「おまえに何がわかる!」という言葉の裏には、「私の苦しみや境遇をわからない・経験していないやつに、何か言われたところで、私の悩みは解決できないんだから、黙っとれ!」という考えがあるはずだ。

ならば、同じ苦しみを経験していれば悩みを解決できるというのか。同じ境遇の人間なら悩みを解決できるというのか。

もしそうならば、その人の悩みを最も適切に解決できる人間は「その人と全く同じ苦しみを味わったことがある人」や、「その人と全く同じ境遇・経験がある人」ということになる。

だが、自分の苦しみはしょせん他人にはわからない。他人の苦しむさまを見て「苦しそうだなぁ」と思うことはあっても、他人の苦しみは他人にはわからない。

つまり、自分の苦しみを感じ取れるのは自分だけ。自分の苦しみを最もよくわかっている人間は「自分」だけなのだ。

境遇や経験についても同じことが言える。似た境遇や似た経験ならあるだろうが、「まったく同じ境遇」「まったく同じ経験」の人間は存在しない。

兄弟姉妹だったら同じ境遇や経験をしているかもしれないが、人は同じ境遇・経験でもそのとらえ方や考え方で解釈が大きく異なるので、「まったく同じ」ではない。

つまり、自分の境遇や経験を誰よりもよくわかっている人間は「自分」だけなのだ。

さて、話を「おまえに何がわかる!」というフレーズに戻そう。

「おまえに何がわかる!」という言葉の裏には、「自分の苦しみがわからない人間、自分と同じ経験・境遇ではない人間には、自分の悩みが解決できるわけがない」という考えがあるのだった。

ということは、自分の苦しみをよくわかっている人や、自分と同じ経験・境遇の人なら、自分の悩みを解決できるかもしれないということだった。

だが、自分の苦しみを最もわかっているはずの自分が、自分の経験・境遇を最もわかっているはずの自分が、自分の悩みの解決策がわからないから、人は悩む。

ということは、「おまえに何がわかる!」というお決まりのフレーズは、見当違いだった、ということになる。

その人があなたの境遇が違ったり、同じ経験を持たないからと言って、あなたの悩みを解決できない、とは限らないのだ。

僕は、悩みを相談するときは基本的に「真剣に答えてくれる人」を選ぶ。たとえその人が、その悩みを経験していなかったとしても。

逆に、経験豊富でも真剣に答えてくれない人には相談できない。

例えば恋愛相談をするとして、とてつもなく恋愛経験が豊富な人がいたとしても、面白半分で答えたり、相談者の人生を真剣に考えない人間では意味がない。ならば、恋愛経験がなくても、ちゃんと真剣に答えてくれる人に相談したいのだ。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。