webライターはもう夢を見れる仕事じゃない

webライターという仕事はもはや泥船。沈むのも時間の問題だ。

そう判断してwebライターをやめて1年ほどが経った。そんなある日まとめサイトの大手「NAVER」が終了するとのニュースが入った。

こういうまとめサイトというのもwebライターの巣窟の一つであり、その中でも大きなサイトであったNAVERが終わるとなると、いよいよもってwebライターの仕事が危なくなったなぁと感じる。

いずれはAIによってwebライターなんて淘汰されるのだろうか。だが、当のwebライター達はそのことには楽観的だ。「量をこなす」という点で人間はAIにかなわないが、「質の領域」ではまだまだ人間に分があるという論調が目立つ。

だけど、残念なことに、webライターに質など求められてはいない。求められているのは量だ。

僕がwebライターの仕事が泥船だと見切った理由もそこにある。僕は幸いにも取材や執筆にじっくりと時間・お金をかけられる環境にいたが、そんな仕事があるのはほんの一握りの幸運なものだけだ。

webライターが携わる案件のうちのほとんどが、求められているのは質よりも量である。流行りにのっかった記事を、手軽に、大量に作ること。それがwebライターに求められている。

そういう仕事しかないのは末端だけで、トップのライターは質の高い記事を求められている、というのならまだ救いがある。だけど以前、年収ウン百万を自称するwebライターの記事を読んでみたのだが、驚くべきことにそこで語られていたのは、「とにかくスピード勝負。集中して記事をたくさん書く」という、「質より量」の権化みたいな話だった。

トップから末端に至るまで、求められているのは質より量なのだ。

たとえば、「新橋の居酒屋を10件紹介する記事」という案件が、報酬わずか400円で募集されている。当たり前だが、わずか400円の予算で10件の居酒屋を食べ比べしたら、大赤字だ。下手したら、交通費にもならない。取材などせず、ネットで調べて書くしかないのだ。

さらに、400円の記事を1時間かけて書いていたのでは、時給400円となり、ライターの利益にならない。これを時給800円、1200円とするには、このようなお手軽記事を効率よく量産していかなければならない。

手っ取り早く記事を書くにはどうすればいいかとなると、すでにネット上にあるブログなどのサイトをコピペして組み合わせるしかない。

どこのクライアントも一応「コピペは厳禁です」と言っているのだけれども、コピペするしかないような金額しか渡さないのであれば、コピペするしかない。

良識あるライターはここで「こんな仕事できるか」と離れていくのだが、それでもこういった案件がなくならないのは、400円の記事をコピペで短時間で仕上げ、それを大量に作って利益とする悪質なライターが後を絶たないからだ。

それにしてもどうして、ネットでは質よりも量が求められるのだろうか。

ウェブサイトは記事を読んでもらって、広告をクリックしてもらって、初めて収益が発生する。それでも、8割近くが月数万円にしかならないという。

個人ならそれでも良いかもしれないが、webライターなんぞを雇うのはたいていは事業として行われる。事業として考えると、月数万円は到底足りない。

事業の収益を上げるにはどうすればいいのか。

記事の質を上げるのははっきり言ってムダである。どれだけ文学的な記事を書こうとも、どれだけ入念な取材に基づいた記事を書こうとも、広告をクリックしてもらわなければ1円にもならない。サイトの記事の質が向上したからと言って、収益が増えるわけではないのだ。

とにもかくにも量である。流行りに乗っかって検索されやすそうな記事を量産するしかないのだ。

こういう戦略は、ビジネスとしてはまっとうな考え方なのだろう。「こだわりの記事を、じっくり、数を厳選して」なんてことをやっていては、ネットで収益は上げられない。

だけど、ビジネス的な効率だけを優先して、粗悪品を大量生産するようなビジネスは、いずれ行き詰まる。特に「クリエイティブ」や「エンタメ」などと呼ばれる業界は、よその業界よりもそれが顕著に表れる。NAVERやWELQがその証明だ。

「商業主義」と「芸術家肌/職人気質」はビジネスの両輪である。どちらに傾きすぎてもいけない。職人気質に偏りすぎたビジネスは売れないし、商業主義に偏りすぎたビジネスは粗悪品をばらまくようになる。

今のwebライティング業界は商業主義に偏りすぎている。

つまるところ、もうwebライターは夢を見れるような仕事ではなくなったのだ。ここでいう夢とは「お金を稼ぐ」という夢ではない。「良い作品を作る」という夢だ。

数年前、クラウドソーシングという働き方が脚光を浴びたときは、確かにそこに夢はあった。だけど、もはやそこに夢は残っていない。沈むのを待つだけの泥船なのである。