何年か前、民事裁判を傍聴して記事にまとめる、という仕事をしていた。
お金の貸し借りとか、交通事故の損害賠償とか、不倫とか、そういった類の話だ。
民事裁判というのは判決だけ聞いても何が何だかさっぱりわからない。当事者同士では「どういう裁判なのか」「何を争っているのか」「何が争点なのか」はわかりきったことであり、そこをすっ飛ばしていきなり「判決。被告は原告に〇万円払いなさい」みたいなことしか言わないので、傍聴人からすれば、何が何だかわからないうちに終わってしまう。
民事裁判で見ごたえがあるのは、尋問である。原告や被告やその関係者が証言台に立って、いろいろと証言する。
さて、そうやって証言を聞いていると、例えば原告が、「被告がいかに悪いやつか」という話をしている。
借りた金を返さない、約束を守らない、など。交通事故だったら「あっちが信号無視してきた」「あっちが車線をはみ出してきた」などのことを言う。
それを聞いて「うんうん、被告はとんでもないやつだなぁ」と思うのだが、ここで「被告は悪いやつだ」と決めつけるのは危険である。
なぜなら、そのあと今度は被告が証言すると今度は、「原告がいかに悪いやつか」という話を滔々と語るのだ。
借りた金を返さない、約束を守らない、信号無視する、車線をはみ出す、などなど。
お互いが「あっちが悪いんです」と言って、どっちが正しいのかわからない。
「原告が信号無視をした」という証言と「被告が信号無視をした」という証言が、同じ裁判で飛び出すのだ。
もちろん、どこぞの名探偵が言うように、真実はいつも一つ。証言が食い違うのであれば、どっちかが嘘をついていたり、勘違いしていたりするわけだ。
そして、どちらかが明らかにつじつまが合わなかったりすれば、どっちが嘘をついているかわかるのだけれど、そんなにわかりやすいことはほとんどなく、どっちの話も筋道が通っているので、余計にわからなくなる。
そうなると何か物的な証拠が欲しくなるのだけれど、傍聴人に証拠は見せてもらえない。
結局、どっちが正しいのかわからないというもやもやを抱えたまんま、裁判所を後にすることとなる。
何が言いたいのかというと、どちらか一方の話を聞いただけでは、どっちが正しいのかわからない、ということなのだ。
「虐待の通報をした」という記事を書いて以降、コメントがよく来るようになった。
そのうち半分は「私も通報したことがあります」的なコメント。そしてもう半分が「虐待してないのに、通報されたことがあります」というコメントだ。
「私は虐待なんかしてないのに通報されて、それがトラウマで……」という形なのだが、
申し訳ないんだけど、「私は虐待なんかしてないのに通報されて」の部分を、僕は全く信用していない。コメントは必ず返すようにしてるんだけど、基本的に、全く信用していない状態で返している。
理由は上に書いた通り。どちらか一方だけの話を聞いて判断するのは、あまりにも危険だからだ。
もちろん、「疑っている」といっても、「こいつは虐待したに違いない! だから通報されたんだろ!」と思っているわけではない。
「頭から信用はできない」「判断に困る」という意味での「信用できない」だ。
どれだけ具体的なことを書き込まれても信用できない。筋の通った具体的な証言が、あとで180度ひっくり返されることなんて、何度も何度も見てきたからだ。
声で説明する裁判の証言が信用できないのに、文章だけのブログのコメントなど、絶対に信用できない。
こういうことは裁判だのブログのコメントだのに限らず、日常のいろんな場面にあると思う。誰かの愚痴とか、誰かの悪口とか、誰かの噂話とか、当事者から一方的に言われたときは、話半分に聞いて、決して頭から信じ込まないことだ。