年末特番は見ない

今年もまた年末が近づいてきた。

年末になると、どのテレビ局も年末特番をやり始める。今年の紅白に誰が出場するとか、NHK以外のテレビでも話題に挙げている。

でも僕は、この数年、紅白を見ていない。

苦手なのだ、あの「特別感」が。

いかにも「特別なことやってます」という雰囲気。特別な演出。特別な脚本。すべてが苦手だ。

紅白に限らず、年末特番というのもほとんど見ない。

特に意味が分からないのが「今年を振り返る」系の番組。

歴史は好きなのだが、単にちょっと昔を懐かしがるだけの番組は全然興味がない。そういえば、平成が終わる頃には「平成の30年を振り返る番組」がいくつか放送されていたが、一つもみなかった。

どうにも、「懐かしい」という感情にも、それほど興味がないらしい。そういえば、僕は自分の昔の写真は一切見返さない性格だ。

さて、そういった年末番組のいくつかをやり過ごすと、大みそかがやってくる。紅白は見ないのだが、じゃあ何を見てるのかというと、何も見ていない。

そう、大みそかは基本、テレビをつけない。

なぜなら、大みそかはどこのテレビ局もたいてい「特別感満載の番組」をやっているからだ。

見るとしたら、大みそかにやってるくせに全く特別感のない「孤独のグルメ」とか、BSの番組とか、とにかく「特別感のないモノ」。

もちろん、カウントダウン番組なども見ない。むしろ、たかだか日付が変わるだけでどうしてあんなに盛り上がれるのか、不思議でしょうがない。

そのまま、お正月もテレビを見ない。お正月特番の特別感も苦手だからだ。

テレビ局の人たちも、大みそかやお正月はむしろ働ないで、家でのんびりすればいいじゃないか。何も気張って、ヘンな番組を作る必要などないはずである。

どうしてお正月の特別感が苦手なのだろうか。

お正月になるとみな「あけましておめでとうございます」という。

実は、この挨拶を僕はほとんど言ったことがない。

だって、おめでたいことなんて別に何も起きていないじゃないか。「日付が変わった」ただそれだけのことだ。

おめでたいことなど何も起きていないのに、「おめでとう」と言い、さもおめでたい事かのように振る舞うのは、明らかにおかしい。

この「おめでたいことなど何も起きてない現実」と「なにかおめでたいことが起きたかのように振る舞う虚飾」の間のギャップ、これがものすごく疲れるのだ。

僕は大みそかも、お正月も、三が日も「いつもと変わらない日常」として過ごしたいのだ。

お雑煮もおせち料理も食べたくなどないのだ。普通にいつもと同じようなカップ麺でいいのだ。どうして、お正月だけ何か特別なものを食べなければいけないのだろうか。

こういう「特別な日」というのを「ハレの日」というのだけれど、どうやら僕はこのハレの日にとことん興味がないらしい。お正月や年末年始に求めるのは、とにかく「いつもと変わらない、穏やかな日常」なのである。

北岳なんて知らない

びっくりするくらい、「流行りもの」に縁がない。

アニメはちょくちょく見るのだが、実は「エヴァンゲリオン」も「ガンダムシリーズ」も「まどか☆マギカ」もほとんど見たことがない。

「ファイナルファンタジー」も「モンスターハンター」も「どうぶつの森」もやったことがない。そもそも、これらをプレイできるゲーム機を持っていない。

「ドクターX」も「半沢直樹」もほとんど見たことがない。

「スターウォーズ」もよく知らない。

ラジオを聞くので音楽だけはいろいろ知っているのだが、流行の歌はそこまで好きではない。

そんな僕でも、「ワンピース」にはがっつりはまっている。もちろん洋服ではなく、マンガの方だ。自他ともに認めるワンピキッズだ。

僕の感覚だと、それまでもずっとワンピは人気があったけど、10年前の「頂上戦争編」あたりから爆発的な人気になった、そんな印象だ。

不思議なことに、ワンピのことは大好きなのだけれど、「ワンピ人気」に関してはちょっと距離を置きたいのである。「そんなにワーキャー言うほどかなぁ」と。

たしかに、ワンピはほかの漫画と比べると、1ランク2ランクおもしろい。

だけど、ほかの漫画が3ランク4ランクも劣っているとも思えない。ワンピはめちゃくちゃ面白いけど、世の中にはほかにも面白いマンガがいっぱいあるのだ。

音楽でも同じことが言える。確かに、「ヒット曲」と呼ばれる曲は、ほかの楽曲に比べて1ランク2ランク優れている。

だからと言って、ほかの楽曲が3ランク4ランクも劣っているとは思えない。オリコン30位くらいの曲だって、とても素晴らしい。

たしかに、「流行りもの」には流行るだけの素晴らしさがある。「他のもの」と比べても頭一つ抜き出ているのは間違いない。

だけど、「流行りもの」と「他のもの」に、決定的な溝があるほど実力が離れているとも思えない。

ところが、注目度においては、「流行りもの」と「他のもの」の間には、決定的な溝があるのだ。

そう考えると、「流行りもの」というのはいつだって、実力以上の過大評価を受けているのではないか。

ひとたび何かが流行りだすと、人の目が「他のもの」には向けられなくなり、「流行りもの」しか目に入らなくなる。結果、「流行りもの」はさらに流行る。これが熱狂の正体なのではないのか。

たとえば、「日本一高い山は富士山である」、これは誰でも知っている。

ところが、「日本で二番目に高い山は、北岳である」、これを知っている人は決して多くはない。

たしかに、富士山は標高が高いだけでなく、見た目も美しい。それに比べて、北岳は武骨だ。それでも、北岳だって3000mを超える山である。日本にこれだけ山がある中で、第2位にランクインする山である。もうちょっと知名度があったって良いではないか。

昔、「2位じゃダメなんですか?」という言葉に対して「2位じゃダメなんだよ!」という声が多く上がったけど、2位のなにがダメなのかというと、「実力以上に、注目度が劣る」という点ではないだろうか。

ひとたび「今、これが人気です」「今、これが流行ってます」「今、これが一番です」と言われると、人の目はもうそれにしか向かなくなり、他のものには目がいかなくなってしまうのだ。

これをきっと「全集中」と呼ぶのだろう。

もちろん僕は「鬼滅の刃」なんて、映画のCMでしか見たことがない。

ラジオは人気者になれない

雨の降る午後にラジオを聴きながら読書する。雨の日の最高に贅沢な過ごし方だ。

高校生のころから、1日に数時間はラジオを聴いている。これを書いている今も、ラジオを聴いている。

このyou tubeが人気だとか、このドラマが話題だとか、ネットやSNSを騒がせている中で、そういったものには目もくれずに、ひっそりとラジオを聞く。なんだか路地裏の隠れ家的なバーに通っている気分だ。

特に雨の日、雨の日の午後に聞くラジオは、最高だ。そして、傍らには本がいい。雨の日にラジオを聴きながら本を読む。これこそ、至高の時間である。

どうして雨の日にラジオが合うのだろうか。テレビでもダメだ。動画でもダメだ。映画も何か違う。ラジオだ。ラジオでなければだめなのだ。

テレビや動画、映画は映像と音で表現する。一方、ラジオは音、もっと言えば言葉だけで表現する。言葉だけで表現するのは、本も同じだ。

ラジオは音と言葉だけの世界だから、ラジオを聞くといろいろと想像を巡らせる。このDJの表情とか、番組で読まれているリスナーからのお便りの情景とか、さらには、今しゃべっている人はどんな人なんだろうという事に思いを巡らせる。顔も、その表情も、服装もわからない。声色としゃべり方、言葉の選び方だけで、DJの人物像を心の中に描いていく。

いわばラジオの楽しみとは、自分の内側に世界を作り上げていくことなのかもしれない。それは読書もまた同じ。

まるで一つの飴玉をコロロころと舌の上で転がし、ゆっくりと溶かして味わうかのようだ。

雨の日の午後という、どこにも出かけられない時間に、さらに自分の内側へ内側へと世界を作っていく。だから、雨の日にはラジオと読書が楽しいのだ。

そういえば子供のころに、漫画は小説と違って絵があるから想像力を養わない、なんて言われた。マンガも小説も好きだった僕は、そんなことあるもんかと思っていたけれど、最近はドラマの感想を見ても、アニメの感想を見ても、なんだか表層的なものばかりで、その作品の奥深さを感じない。ただの大喜利ネタのように消費されていることも多い。

なんだか、せっかくの料理を味わわないで、写真を撮ってネットに挙げることばかりに熱心で、肝心の料理の方はちょっとしか食べてない、そんな感じだ。もっと一人でゆっくり味わえばいいのに、テレビもマンガもアニメも動画も音楽も、みんなでシェアすることにばかり熱中しているような気がする。

飴玉をゆっくりと味わうのではなく、ポテトチップスの袋を開けて、みんなでちょっとずつつまんでいるような感覚。

まあ、それはそれでおいしいのだけれど、ラジオのように想像力でその世界を内側に築き上げ、一人でゆっくり味わうようなタイプのモノとは、ちょっと相性が悪い。ポテチを一枚一枚かみしめて、「ああ、北海道の味がする」とか、「やっぱりアイダホはちがうなぁ」とか、じっくり味わう人はあまり見かけない。

現代はポテチの時代である。テレビも、音楽も、動画も、マンガも、一人でじっくり味わうというよりは、ネットを使ってみんなでシェアして、サクサク食べていく感じだ。

そう、現代はポテチの時代なのだ。なんか語感が気に入ったから、もう一回言おう。現代はポテチの時代である。

ポテチの時代にラジオは馬が合わない。音と言葉のみで映像がないうえ、音楽ほどコンパクトにまとまっていない(そもそも、最近の音楽はMVとセットである)。ラジオはなかなか拡散しない。ポテチの時代にラジオは人気者にはなれない。

だからこそ、ラジオには路地裏のバー的な、奇妙な魅力があるのだ。大通りの喧騒をしり目に、一人でじっくりと味わう、それがラジオの魅力である。