ラジオは人気者になれない

雨の降る午後にラジオを聴きながら読書する。雨の日の最高に贅沢な過ごし方だ。

高校生のころから、1日に数時間はラジオを聴いている。これを書いている今も、ラジオを聴いている。

このyou tubeが人気だとか、このドラマが話題だとか、ネットやSNSを騒がせている中で、そういったものには目もくれずに、ひっそりとラジオを聞く。なんだか路地裏の隠れ家的なバーに通っている気分だ。

特に雨の日、雨の日の午後に聞くラジオは、最高だ。そして、傍らには本がいい。雨の日にラジオを聴きながら本を読む。これこそ、至高の時間である。

どうして雨の日にラジオが合うのだろうか。テレビでもダメだ。動画でもダメだ。映画も何か違う。ラジオだ。ラジオでなければだめなのだ。

テレビや動画、映画は映像と音で表現する。一方、ラジオは音、もっと言えば言葉だけで表現する。言葉だけで表現するのは、本も同じだ。

ラジオは音と言葉だけの世界だから、ラジオを聞くといろいろと想像を巡らせる。このDJの表情とか、番組で読まれているリスナーからのお便りの情景とか、さらには、今しゃべっている人はどんな人なんだろうという事に思いを巡らせる。顔も、その表情も、服装もわからない。声色としゃべり方、言葉の選び方だけで、DJの人物像を心の中に描いていく。

いわばラジオの楽しみとは、自分の内側に世界を作り上げていくことなのかもしれない。それは読書もまた同じ。

まるで一つの飴玉をコロロころと舌の上で転がし、ゆっくりと溶かして味わうかのようだ。

雨の日の午後という、どこにも出かけられない時間に、さらに自分の内側へ内側へと世界を作っていく。だから、雨の日にはラジオと読書が楽しいのだ。

そういえば子供のころに、漫画は小説と違って絵があるから想像力を養わない、なんて言われた。マンガも小説も好きだった僕は、そんなことあるもんかと思っていたけれど、最近はドラマの感想を見ても、アニメの感想を見ても、なんだか表層的なものばかりで、その作品の奥深さを感じない。ただの大喜利ネタのように消費されていることも多い。

なんだか、せっかくの料理を味わわないで、写真を撮ってネットに挙げることばかりに熱心で、肝心の料理の方はちょっとしか食べてない、そんな感じだ。もっと一人でゆっくり味わえばいいのに、テレビもマンガもアニメも動画も音楽も、みんなでシェアすることにばかり熱中しているような気がする。

飴玉をゆっくりと味わうのではなく、ポテトチップスの袋を開けて、みんなでちょっとずつつまんでいるような感覚。

まあ、それはそれでおいしいのだけれど、ラジオのように想像力でその世界を内側に築き上げ、一人でゆっくり味わうようなタイプのモノとは、ちょっと相性が悪い。ポテチを一枚一枚かみしめて、「ああ、北海道の味がする」とか、「やっぱりアイダホはちがうなぁ」とか、じっくり味わう人はあまり見かけない。

現代はポテチの時代である。テレビも、音楽も、動画も、マンガも、一人でじっくり味わうというよりは、ネットを使ってみんなでシェアして、サクサク食べていく感じだ。

そう、現代はポテチの時代なのだ。なんか語感が気に入ったから、もう一回言おう。現代はポテチの時代である。

ポテチの時代にラジオは馬が合わない。音と言葉のみで映像がないうえ、音楽ほどコンパクトにまとまっていない(そもそも、最近の音楽はMVとセットである)。ラジオはなかなか拡散しない。ポテチの時代にラジオは人気者にはなれない。

だからこそ、ラジオには路地裏のバー的な、奇妙な魅力があるのだ。大通りの喧騒をしり目に、一人でじっくりと味わう、それがラジオの魅力である。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。

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