予想通りの1年だった話

前にも書いたけど、僕は「10年後の自分はどうなってると思いますか?」という、就活でよく聞かれる質問が苦手だ。

本音で答えれば「死んでるかもしれないからわかりません」なんだけど、そんなネガティブかつ投げやりなことを言うと確実に面接に落ちるので、「10年後は御社でキャリアアップして……」などと心にもないことを言う。もちろん本心は「さあ、10年後なんて死んでるかもしれないからなぁ」。

心にもないことを言っているので、当然、簡単にメッキがはがれて、面接は落ちる。

そうして、「10年後の、キャリアアップした自分」をすらすらよどみなく言えた人が正解とされ、面接に受かるのだ。

ところが、僕が就活をしてた時から10年たたないうちにコロナ禍がやってきてしまった。飲食業や観光業、それ以外にもいろんな業界が苦境に立たされている。

面接で答えた10年後とは、大きくかけ離れた人も多いはずだ。

……それ見たことか!

やっぱり、「10年後なんて知るかよ、バーカ」が正解だったじゃないか!

「10年前の面接」では、「10年後の自分」をよどみなく答えることが正解だったけど、実際の10年後では「知らねーよバーカ!」が正解だったじゃないか!

そもそも、「10年後の自分」とはなかなかに厄介な質問である。

現代史を振り返ってみると、90年ごろのバブル崩壊、2001年の同時多発テロ、2011年の東日本大震災、そして2020年のコロナ禍と、10年周期で、「10年前の計画」がおじゃんになるような大事件が起こっている。ちなみに、80年代は詳しくないのでわからない。

10年周期で大事件が起きるという事は、「10年後の自分」を思い描いた時、その10年の間のどこかでとんでもない横槍が入る可能性が高い、という事だ。

再起不能になるほどの横槍が飛んでくるかもしれないのに、それを無視して「御社でキャリアアップして……」などとのんきなことを言うやつのどの辺が正解なのか。「御社」なんて10年後にはなくなっているかもしれない。

10年後まであるとおもうな、親と金と御社。

のんきと言えば、今年(2020年)はよく「まさかこんなことになるなんて思ってなかった」なんて言葉を聞いたけど、これまたずいぶんのんきな言葉である。

僕もさすがに「未知の感染症が蔓延する」とは思ってなかったけど、それでも「まさかこんなことになるなんて」とのんきなことは考えていなかった。

何かの災害で、今の生活や社会が再起不能になることはあるかもしれない、頭の片隅では必ず考えていることだ。

恐れるべきは災害だけではない。車に轢かれるとか、癌が見つかるとか、生活や人生を狂わせる一大事がいつ起こるとも限らない。今、このブログを腱鞘炎の真っ最中に書いているのだけれど、腱鞘炎だけでも十分に日々の生活を狂わせる。

だから、「まさかこんなことになるなんて」だなんて、ずいぶんのんきなことを言うものだな、とあきれ返っているわけだ。

確かに、さすがに感染症が広がるとは予想してなかった。何か生活を狂わせる一大事が起きたとして、災害だと地震、個人的なことだと交通事故の可能性が高いと思っていたけど、まさかウイルスが蔓延するなんて。

それでも、原因が何であれ「社会がひっくり返るほどの大事件が起きる」ことは頭のどこかで常に予想していたので、「まさかこんなことになるなんて」とは思わない。そういう意味では予想通りの1年だった。

人と距離を取りたい話

「ソーシャル・ディスタンス」という言葉にずっと違和感がある。

「社会的距離」というけど、実際には「2m間隔をあけましょう」というわけだから、どう考えても「物理的距離」だ

いや、もはや「物理」ですら余計である。単に「距離」「間隔」で十分通用するじゃないか。

「感染を広げないために、ソーシャルディスタンスを保ちましょう」

「感染を広げないために、人と間隔をとりましょう」

ほら、ちゃんと伝わる。

やはり物書きとしては、無駄な文字数は使いたくない。簡潔であるべきだ。

「社会的距離」とはたぶん、ふだん一緒に遊んでるけど社会的な立場が全然違う、ハマちゃんとスーさんみたいな人のことを言うのではないか。ハマちゃんとスーさんは、物理的にも心理的にも密接だけど、社会的な立場だけはかなり離れている。

ところで、コロナ禍で離婚が増えたという。いつも一緒にいたくて結婚したはずなのに、本当にいつも一緒にいるのは耐えられないというのだから不思議だ。「健やかな時も、病めるときも」じゃなかったんかい。

家族、恋人、友人、仕事仲間と、いろんな意味で密接であることが素晴らしいように言われているけど、一方で、「距離をとる」という事もやはり大事なのではないか。物理的にも、心理的にも。「ちょうどいい距離を保つこと」こそが人間関係をうまくするコツなのではないか。

一緒にいてほしいて時に一緒にいる。

放っておいてほしいときに放っておいてくれる。

一人でいたいときに一人にしてくれる。

助けてほしいときに助けてくれる。

そんな、ちょうどいい距離。

同じ部屋にいながら、互いに干渉せず、それでいて険悪なわけでも倦怠期でもない、そんな「ちょうどいい距離感」。

一方で、遠く離れた町に住んで、何年もあっておらず、電話だけのやり取りだけどお互いがお互いのことをわかっている、そんな「ちょうどいい距離感」。

なんか都合の良い理想を言ってるような気もするけど、人間関係の失敗における多くは、この「ちょうどいい距離」を保てなかったことにあるんじゃないか。

そもそも、地球に生命が生まれて高度な知性を持つにいたるまで進化したのだって、太陽から見て熱すぎず寒すぎない「ちょうどいい距離」を保っていたからだ。そんな距離感の申し子たる我ら人類は、やはり「ちょうどいい距離」を模索しながら人生を歩むことが運命づけられているのかもしれない。

地球と太陽もまた、絶妙なバランスで「ちょうどいい距離」を保っている。地球と太陽にはお互い引力があるけれど、太陽の方が何倍もでかいから、放っておくと太陽に引っ張られて、人類は簡単に滅亡してしまう。

だから、地球は太陽の周りをぐるぐると周り(公転というやつ)、遠心力を生み出して、その遠心力が太陽の重力と釣り合い、地球は「ちょうどいい距離」を保っていられるのだ。

公転が遅いと遠心力が弱く、地球は太陽に引っ張られ、気温はどんどん上昇する。逆に公転が速いと、地球は太陽から遠ざかり、どんどん寒くなる。

「ちょうどいい距離」を保つには、絶妙なバランスが大切なのだ。

人間も同じだ。放っておくとどんどん引っ張られて密になっちゃうから、時に自分からわざと距離をとることも大切だ。そうやって絶妙なバランス感覚で、「ちょうどいい距離」を模索するのだ。

あなたと私のちょうどいい距離を探していく、それこそが人生の醍醐味かもしれない。

オンライン会議に限らず、電話、手紙、メールにLINEと、現代は人と人との物理的距離を保ちながら、心理的距離を縮める手段がたくさんある。いろんなやり方で、「ちょうどいい距離」を探すことができる。なかなかにいい時代ではないか。

ブログの挨拶の書き方が気になる

はいどーも、こんにちわ。ノックです!

……というあいさつを、僕はブログではやっていない。

なので、あいさつで始まるブログをたまに読むと、「僕ってブログであいさつなんてしてないぞ?」と引っかかる。

礼儀としてはあいさつがある方がいいけど、文章だとあいさつがある方がまれだ。本を読んでいても、1ページ目で「はいどーもみなさん」とか「みなさんはじめまして」なんてあいさつで始まる本はめったに見かけない。

僕は、酒井順子さんのエッセイが大好きなのだけど、「こんにちわ、酒井です」なんて書き出しで始まるエッセイは読んだことがない。エッセイは雑誌連載が多く、読者は著者の熱心なファンとは限らないから、あいさつがあってもいい気もするけど、エッセイはあいさつからは入らない。少なくとも、酒井さんのエッセイにあいさつはない。

そもそも、文章における「あいさつ」はどんな効果を生むのか。

あいさつがないエッセイを「無礼だ!」と断じる人はいない。文章でのあいさつに「礼儀」としての意味は、たぶん、ない。

それよりも、読者との距離をぐっと縮める効果があるんじゃないか。

「誰やねん」と思いながら読むよりも、「はいどーも、ノックです!」から始まった方が距離が近くなった、ような気がする。軽く名乗った程度では、結局「誰やねん」の疑問はさっぱり解決していないんだけど、それでもかなり距離が縮まる気がする。

一方、名乗らない場合はどうだろう。

たとえば「たぬき」というタイトルのエッセイがあったとしよう。これだけではどんな内容なのかさっぱりわからない。

あいさつはなく、いきなり「僕の地元は野生動物に出くわすことなどほとんどありません。ところがある日、学校の先生が『学校の近くでタヌキを見た』と言い出したのです」みたいな感じで始まる。

この時点で、まだどんな話なのかはわからない。面白い話かも、泣ける話かもしれない。もしかしたら怪談話かもしれない。

著者との距離はけっして近くはないし、話の行く末もわからないまま読み始める。

エッセイで大事なのはこの「どんな話かまだわからない」というミステリアス感であり、それを醸し出すには、あいさつはむしろ邪魔なのではないか。

これが「はいどーも、ノックです。たぬきと言えば、先生がある日『タヌキを見た』と言い出したことがありました」だと、なんかミステリアス感が薄れた気がする。

言ってる内容は同じだけど、あいさつ一つで書き手の距離が縮まり、ミステリアス感が薄れてしまうのではないか。

ブログは「〇〇が簡単にできる3つのコツを紹介!」みたいなわかりやすいものが多いから、ミステリアス感などいらないのかもしれない。

一方で、エッセイとか文学とかは、話の内容がすぐには見通せず、霧の向こうから何かが少しずつ近づいてくる感じがいい。作者の内面だったり、思い出だったり。それは時として、どろどろにゆがんだものかもしれない。そういったものは、少しずつ近づき、溶かして、消化していきたいのだ。

それがいきなり「はいどーも」と来られたんじゃ、どうにも風情に欠ける。甘酸っぱい青春恋愛映画だと思って借りてきたビデオが、いざ再生してみたら実は直球のアダルトビデオでした、ぐらいの風情のなさだ(どうやったら間違えるんだろう)。

近頃やたらと「距離」に注目されるようになった。人とは距離をとりましょう、と。すっかり嫌われている「距離」だけど、僕はあえて言いたい。「人とは距離をとりましょう」

文学も、芸術も、友情も、恋愛も、実は「距離がある」のが、距離が離れたり近づいたりするのが、一番面白いんじゃないか。あんがい距離って悪くないものよ。

たいしてヒットしていないアニメを応援する奴

たいしてヒットもしていないアニメをずっと追いかけている。

たいしてヒットしていないのだから、残念だけど、爆発的な人気はない。

でも、「根強い人気」というものはある。

たいしてヒットもしてないけど、大コケしたわけでもないので、ファンの数はそれなりにいて、その一人一人が作品に、結婚指輪を送りかねないくらい熱い思い入れを持っている。

かくいう僕も、その一人。

たいしてヒットもしてないけど、ファン一人一人のマグマのような熱意を集めて、細々と新作がつくられている。

爆発的にヒットしたアニメだったら、ほっといても新作がつくられるだろうけど、たいしてヒットしてないアニメで、細々とでも新作がつくられ続けているのは奇跡である。

そして、ほっとくともう新作がつくられないかもしれないから、必死になって応援するわけだ。

もしかしたらこの「たいしてヒットしていない」「ファンの数はそこまで多くない」というのが重要なのかもしれない。

たとえばすごく面白いアニメがあって、実際に「面白い」という感想を抱いたとして、

そのアニメが爆発的な人気で、誰もかれもが面白いと言ってるのを見ると、僕はかえって興ざめしてしまう。

「なんだよ、僕だけの『面白い』じゃなかったんかい」と。

ラブレターだと思って大切に読んでた手紙が、実はダイレクトメールでした、みたいながっかり感。

むしろ、「みんなに知られている」「みんなが好き」という時点で、なんだか価値が少し下がってしまったような気がするのだ。

もしかしたら、「みんなに人気があるもの」というのは、「ずば抜けて質が高い」というよりは、「とりあえず、ハズさない」ぐらいのものでしかないのかもしれない。

たとえば、ファミレスの料理。みんなに人気のファミレスの料理は、メチャクチャおいしいわけではないけれども、「クソまずい!」という事もない。とりあえず、ハズさない。

一方、「マイナーな名店」探しは骨が折れる。もしかしたら、大ハズレの店に行ってしまい、「これだったらファミレスに行けばよかった」と後悔するかもしれない。

コンビニのお弁当も、チェーンの居酒屋も、駅前のマックも、人気のアニメも、流行の音楽も、高視聴率のドラマも、ずば抜けて優れているのではない。「とりあえず、ハズさない」。

もちろん、「とりあえず、ハズさない」というのも、すごいことだ。「誰にとっても70点の面白さ」というのは、簡単にできることではない。

だけど、それよりもさらに30点面白いものがどこかにまだあるのだ。ほかの人にとっては20点でも、自分にとっては100点の何かが。

そして、それは不思議なことに、本屋の「おすすめです!」と書いてある棚や、CDショップの「今、人気です!」と書かれている棚には、置いていないのである。

自分だけの名作に出会うのは、ほとんど運任せだ。放送されているアニメを全部チェックして、そんなオタク生活を何年も続けてようやく巡り合うこともあれば、何も知らずに深夜にたまたま見たアニメがものすごく面白くて、なんてこともある。いつ、なぜ、どうやって巡り合えるかを私たちは誰も知らない。まるで縦の糸と横の糸が織りなすように……、あ、これ、中島みゆきの「糸」だ。

一つわかることがあるといえば、人気や他人の評価に頼らず、自分で探さなければいけないってことだろう。

願わくば、僕がつくる作品も、誰かにとっての「隠れた名作」でありたい。

FOMOの意味を考えてみる

ついこの前、FOMOという言葉を知った。

ガソリンスタンドの名前ではない。「FOMO」とは「Fear Of Missing Out」の略で、「自分だけ見逃してしまう事への恐怖」という意味だ。

要は、流行や話題に自分だけ乗り遅れてしまう事への恐怖、というわけだ。

2004年ごろに生まれた言葉らしいが、僕がこの言葉を知ったのは2020年の暮れである。だいぶ乗り遅れてしまった。

いや、そもそも、ネットで調べてみても「FOMO」という言葉を解説している記事はあまり多くない。どうやら、「FOMO」というワードそのものが世の中から見逃されているらしい。

一方で、研究者にとっては大きく関心のある現象らしく、ウィキペディアを見ただけでも、いろいろな研究成果が見つかる。

それによると、FOMOというのは要するに「仲間外れは嫌だ」という感情らしい。常に人とのつながりを欲し、仲間外れを恐れるゆえに、「話題の○○」「流行りの○○」というのを常にチェックしておかないと気が済まない、というのだ。

そうして、話題や流行りをチェックしておくことで、周囲と話を合わせることができ、結果、自分が周りに承認される、という事らしい。

特に、人とのつながりに満足できないとき、人はこのFOMOに陥りやすいという。

何のことはない。FOMOとは、話題のスイーツが好きな人でもない。流行のアイドルが好きな人でもない。

結局は自分が好きな人に過ぎないのだ。自分が好きだけど、その自分が仲間外れにされるのが嫌だから、流行を追っかけて話題を合わせる。

スマートフォンで常にトレンドに目を光らせているけど、you tubeを見ていても、tik tokを見ていても、ドラマを見ていてもアニメを見ていても映画を見ていても、実はずっと自分のことしか見ていないのである。なかなかの皮肉だ。

そう考えると、流行というのもなんだか考え物だ。音楽にしろ、映画にしろ、食べ物にしろ、そのもの自体を楽しんでいるというよりも、話題を楽しんでいるようにも見えるし、作り手側も、作品を作っているというよりは、話題を作っているんじゃないかとも思えてくる。

雑誌が売れなくなり、SNS社会となり、テレビが見られなくなって、you tubeが見られる。結局は、話題の振りまき役が変わっただけなのかもしれない。

受け手は話題に取り残されたくないと恐れ、作り手は話題を必死に作る。最終的にはきっと、自分が「話題」になりたいのかもしれない。自分が「話題」になってしまえば、もう取り残されることもない。

なんだか、「話題」に振り回されているような気もするが、「話題」とは一体何だろう?