はいどーも、こんにちわ。ノックです!
……というあいさつを、僕はブログではやっていない。
なので、あいさつで始まるブログをたまに読むと、「僕ってブログであいさつなんてしてないぞ?」と引っかかる。
礼儀としてはあいさつがある方がいいけど、文章だとあいさつがある方がまれだ。本を読んでいても、1ページ目で「はいどーもみなさん」とか「みなさんはじめまして」なんてあいさつで始まる本はめったに見かけない。
僕は、酒井順子さんのエッセイが大好きなのだけど、「こんにちわ、酒井です」なんて書き出しで始まるエッセイは読んだことがない。エッセイは雑誌連載が多く、読者は著者の熱心なファンとは限らないから、あいさつがあってもいい気もするけど、エッセイはあいさつからは入らない。少なくとも、酒井さんのエッセイにあいさつはない。
そもそも、文章における「あいさつ」はどんな効果を生むのか。
あいさつがないエッセイを「無礼だ!」と断じる人はいない。文章でのあいさつに「礼儀」としての意味は、たぶん、ない。
それよりも、読者との距離をぐっと縮める効果があるんじゃないか。
「誰やねん」と思いながら読むよりも、「はいどーも、ノックです!」から始まった方が距離が近くなった、ような気がする。軽く名乗った程度では、結局「誰やねん」の疑問はさっぱり解決していないんだけど、それでもかなり距離が縮まる気がする。
一方、名乗らない場合はどうだろう。
たとえば「たぬき」というタイトルのエッセイがあったとしよう。これだけではどんな内容なのかさっぱりわからない。
あいさつはなく、いきなり「僕の地元は野生動物に出くわすことなどほとんどありません。ところがある日、学校の先生が『学校の近くでタヌキを見た』と言い出したのです」みたいな感じで始まる。
この時点で、まだどんな話なのかはわからない。面白い話かも、泣ける話かもしれない。もしかしたら怪談話かもしれない。
著者との距離はけっして近くはないし、話の行く末もわからないまま読み始める。
エッセイで大事なのはこの「どんな話かまだわからない」というミステリアス感であり、それを醸し出すには、あいさつはむしろ邪魔なのではないか。
これが「はいどーも、ノックです。たぬきと言えば、先生がある日『タヌキを見た』と言い出したことがありました」だと、なんかミステリアス感が薄れた気がする。
言ってる内容は同じだけど、あいさつ一つで書き手の距離が縮まり、ミステリアス感が薄れてしまうのではないか。
ブログは「〇〇が簡単にできる3つのコツを紹介!」みたいなわかりやすいものが多いから、ミステリアス感などいらないのかもしれない。
一方で、エッセイとか文学とかは、話の内容がすぐには見通せず、霧の向こうから何かが少しずつ近づいてくる感じがいい。作者の内面だったり、思い出だったり。それは時として、どろどろにゆがんだものかもしれない。そういったものは、少しずつ近づき、溶かして、消化していきたいのだ。
それがいきなり「はいどーも」と来られたんじゃ、どうにも風情に欠ける。甘酸っぱい青春恋愛映画だと思って借りてきたビデオが、いざ再生してみたら実は直球のアダルトビデオでした、ぐらいの風情のなさだ(どうやったら間違えるんだろう)。
近頃やたらと「距離」に注目されるようになった。人とは距離をとりましょう、と。すっかり嫌われている「距離」だけど、僕はあえて言いたい。「人とは距離をとりましょう」。
文学も、芸術も、友情も、恋愛も、実は「距離がある」のが、距離が離れたり近づいたりするのが、一番面白いんじゃないか。あんがい距離って悪くないものよ。