「努力すれば報われる」「努力は裏切らない」と学校で教わった。特に受験生の時は「この(どう考えても無駄にしか思えない)努力をしたという経験が必ず生きてくる」とごまかされて勉強させられてきたけれど、コロナが浮き彫りとしたのは「努力ではどうにもならないことなど、ざらにある」「結局、最後は運なのよ」という残酷な真実だったんじゃないか。
コロナ禍では、そんなことを考えさせるような話がごろごろ転がっている。
テレビで野球少年の話をやっていた。毎日一生懸命練習していたけれど、コロナ禍でその実力を発揮する機会を失ってしまったのだという。やっぱり、結局最後は運なのだ。
となると、逆に「運の流れ」というものを把握できれば、うまく立ち回ることができるのではないか。
そんな思いが「占い」というものを生んだんだろう。
僕は毎朝、自分でタロットカードを引いてその日の運勢を占っている。これが不思議とよく当たる。天気予報よりもよく当たる。
悪いカードが出た時は、本当に運が悪い1日なのだ。
早く出かけなければいけないのに家での用事が片付かない。やっと出かけられたと思ったら忘れ物に気づいて引き返す。道を行けば出くわす信号はすべて赤。ならばとわき道に入るとトラックが通せんぼしている。トイレに入ろうとすると必ず誰かが先に入ってる。
どうやら本当に運の悪い日らしい。恐るべし、僕の占い。正直、当たらなくてよかったんだけど。
しかし、こんな日こそ自分の実力の試し時ではないか。
何度も言うけど、人生は意外と運による要素が大きい。「私はこうして成功した!」みたいな話を聞いても、「正直、運がよかっただけでは?」と首をかしげることも多い。そういった成功譚からは、まず学ぶものがない。
自分では実力だと思っていても、実は運に恵まれている要素が大きいのだ。
だけど、もしもめちゃくちゃ運が悪いときに、それでもある程度の結果を出せたのならば、それは「実力がある」と言えるんじゃないか、逆に。
だって、その日はめちゃくちゃ運が悪いのである。信号が全部赤で、20m進んでは止まるを繰り返す、渡れると思った瞬間に目の前で赤に変わる、今度こそ行けると思ったら歩行者に横断ボタンを押される、そんな1日である。そんな日でも成果を収めて、それで「いや、運がよかっただけだよ」と言われたら、朝からの「不運な出来事」を一つずつ列挙してこう言えばいい。「今日、すごく運が悪かったんだよね」。
そう、「運がよかっただけじゃない?」を唯一封じ込められる日、それが、「運が悪かった日」なのだ。運が味方してくれたなんて絶対に思えない日こそが、その人の実力があらわになるのだ。
だから、僕は今日は運が悪いと思うと、俄然に張り切るわけだ。ならばせめて最低限の結果だけでも残そう。運が悪い日に及第点をとれてこその実力だ、と。
「イヤぁ、今日は運が悪くて悪くて、まいっちゃうよまったく。……まあ、ちゃんと結果は残したけどね」
どうだ、かっこいいだろう。