映画に臨場感を求めない話

毎年、仮面ライダーの映画を見に行っていたのだけれど、今年は見送った。「映画とコロナが無関係」とは言い切れないからである。むしろ、不要不急の外出の自粛が求められている時期に、映画の興行収入記録が塗り替えられるなんて、国民総出で趣味の悪いコントを演じている気がしてならない。

まあ、半年もすればDVDが出る。それで見ればいいや。

むしろ、DVDの方が、いろいろとお得じゃないか?

まずはおカネの問題。映画は一回1800円。DVDはレンタルすれば100円。しかも、返却するまで何回も見れる。

さらに、DVDの場合、途中で止めてトイレに行けるのである。

映画館に行くときは念には念を入れて直前にトイレに行ったのに、途中でどうしてもトイレに行きたくなることがある。だからと言って、一時停止とか巻き戻しとかできない。この点でもDVDの方がお得だ。

そもそも、どうして映画を映画館で見なければいけないのか。

よく、「映画館と家とでは、臨場感が違う」と聞く。

だけど僕は映画を見て「うわっ、臨場感がすげぇ!」と思ったことがない。

映画館で映画を見終わり、その内容に感動することはあっても、「やっぱり映画館で見るに限るなぁ」と思ったことは一度もない。振り返れば全部、「家で見てもよかったな」。

そういえば、とあるグロ系の映画を見に行った時、よくわからないままに4DXの方がなんかすごそうだと選んだことがある。

銃撃戦のシーンでは顔に何か空気弾のようなものが飛んできて、血しぶきが上がるシーンでは軽い水しぶきをかけられた。あと、なんか椅子が動いてた。

うっとうしくて、映画に集中できなかった。二度と4Dナントカの映画は見ないぞ、と心に誓ったものだ。映画関係者は、映画を見ている最中に顔に霧吹きをかけられた人がどんな気持ちになるか、一度真剣に考えた方がいいと思う。

霧吹きをかけたり、椅子を動かしたりしてまで臨場感にこだわっても、臨場感なんて結局「気のせい」なんじゃないか。

そういえば、映画館のおやつやジュースはやたらと高い。別に食べなくてもいいのに、なんか意味もなく食べながら映画を見たい気持ちにかられる。高いのに。あれもきっと気のせいだろう。

もしかしたら、映画とは「気のせい」で成り立っている娯楽なのかもしれない。「気のせい」を味わいたくて、人は映画館に足を運ぶのではないか。

「気のせい」というとイメージが悪いけど、小説を読んで「情景が目に浮かぶ」というのも気のせいだし、音楽を聴いて「まるで自分のために書かれた歌みたい」と思うのも気のせいだ。人が感動するのも実は「気のせい」であり、むしろ「気のせい」にこそ人を感動させる力があるのかもしれない。

となると、「気のせい」って何だ、という事になる。「気のせい」の「気」とは何だろう。

誰もいないのに誰かいる気がする、名前を呼ばれた気がする。身近な「気のせい」の例だ。

「気のせい」の「気」とは、つまりは「第六感」のことだ。第六感がさえわたった結果、見えないものが見えたりするわけだ。

つまり、「気のせい」の「気」とはどこにあるのかというと、自分の中だ。自分の中から外側を感じ取ろうとする力が「気」なのだ。

という事は、臨場感も気のせいなのだから、音響をすごくしたり、顔に霧吹きをかけたり、椅子を動かしたりしたりしなくても、「映画の世界にのめりこむぞ」という想い一つで、十分に臨場感を感じ取れるはずだ。

家でDVDを見ていても、気持ち一つでそこは映画の世界。これを「気の持ちよう」という。

逆に、顔に霧吹きをかけられたら、映画の世界に入り込もうという集中力がそがれてしまう。

こういうのを「気が散る」というのだ。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。

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