努力や才能に勝るもの

コロナ禍でホームレスになった若者の話を耳にした。僕と同年代で、会社を経営していて、かなり羽振りがよかったらしいけど、コロナのあおりを受けて一気に倒産し、転がるように路上に投げ出されたらしい。

彼は極端な例だとしても、飲食店を始めコロナでつぶれるお店や会社は多いそうだ。当然、その分の失業者が生まれているわけだ。

彼らはなにが悪かったのだろう、と考えるとこれはもはや「運が悪かった」としか言いようがないんじゃないか。少なくとも、「実力不足」や「努力不足」とは言えないだろう。ホームレスになった社長さんは実力や才覚は人よりあったはずだし、潰れた飲食店はそもそも「努力させてもらえない」という状況のはずだ。

実力もあるし、誰よりも努力しているのに、運の悪さ一発でころっと店や会社がつぶれてしまう。

コロナに限らず事故や災害で亡くなる人というのは基本的に「運が悪かった」という事になる。努力が足りなかったわけじゃない。

もしかしたら人生というのは、運による要素がかなり強いんじゃないだろうか。僕らが思っているよりもはるかに強く。

実力や努力の要素よりも何倍も何倍も何倍も、運の要素が多いんじゃないか。

ところが、例えばどこかの社長さんが書いたビジネス書を読んでも、「すべては運です」だなんて書いてない。

そりゃそうだ。あの手の本は「君も努力と才能で俺みたいになれる!」が謡い文句なのだ。そこに「すべては運次第」なんて書いてあったら、もうどうしようもないじゃないか。

いや、そもそもああいう本を書く人は「運の要素がでかすぎる」だなんて思っていないのかもしれない。自慢話というのはたいていは、「今の自分があるのは、俺の才能と努力のたまもの」って話だ。そう思いたいのだ。口が裂けても「自分はとにかく運がよかっただけ」なんて言わない。

逆に、何かに失敗して落ちぶれた人に対しては「才能がなかった」「努力が足りなかった」とみなされがちだけど、やっぱり「運が悪かっただけ」という事なんじゃないか。でも、「運が悪かっただけ」だと、その不幸は自分にも回ってくるかもしれない、という事になる。それを考えたくないから「あいつは実力がなかった」という事にしたいのかもしれない。

「努力すれば報われる」「努力は裏切らない」と学校で教わってきた。特に受験生の時は「この(無駄にしか思えない)努力をしたという経験が必ず生きてくる」とごまかされて勉強させられてきたけれど、コロナが浮き彫りとしたのは「努力ではどうにもならないことなど、ざらにある」「結局、最後は運なのよ」という残酷な真実だったのかもしれない。

これほど科学が発達した現代でもまだ、宗教や占いやおまじないがなくならないというのはもしかしたら、「努力や才能も大事だけど、結局、一番大事なのは運なのよ」という事を、僕らはどこかでうすうす気づいている、その表れなのかも。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。

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