他人を信用できない

自分は実はとてつもない人間不信なんじゃないか、他人を全く信じてないんじゃないか、そう思う事がよくある。

たとえば、人から言われた誉め言葉はほぼ全く信じていない。90%くらい社交辞令だと思っている。

ひとりでZINEを作っているのも、結局は他人を信じていないからなのかもしれない。

ZINEの表紙も自分で作っている。何なら、印刷も自分でやっている。

もっとも、それには経費の問題とか、自分でやった方が小回りが利くとか、理由はほかにもある。

それでも、僕に潤沢な資金があって、優れたクリエイターとのコネがあったとしても、「えんとつ町のプぺル」みたいに分業制でやろう、という発想にはたぶんならない。根本的に、他人を信用していないのだ。

それでいて、一人で何でもこなせる器用なタイプかと言ったら、そんなことはない。人一倍不器用なタイプだ。

不器用なくせに、人に頼んだり委ねたりしないで全部自分でやろうとするのだから、始末が悪い。

とはいえ、なにも普段から「あいつらは信用できない」などと意識して生きているわけじゃない。

ただ、無意識のうちに「人に任せてみる」という選択肢を避けてしまう。なんでだろうと振り返ってみると、おそらくその根底には、他人を全く信用していない、というのがあるのだろう。

誰かに任せる、というのはサッカーに例えればパスを出すようなものだ。仲間を信じてパスを出す、そんな司令塔に憧れる。

ところが、実際は一人でドリブル突破するようなプレイスタイルである。それがうまくいくかどうかは別として。

どうしても、パスは出せない。

どうしてそんなに他人を信じていないのかというと、そもそも、他人に関心がないからであった。どうしようもない。

たとえば飲み会などで初対面の人と会っても、何を話せばいいのかわからない。

他の人はどうしてるんだろうと見ると、「どこから来たの?」「何の仕事してるの?」なんて話をしてる。

なるほど、そんな話をすればいいのか、と目の前の相手に戻っても、やっぱり質問が出てこない。

相手に関心がないから、相手がどこ出身とか、どんな仕事をしてるとか、心から興味がないので「質問」という言葉にならないのだった。どうしようもない。

なにがタチが悪いって、これが付き合いの長い友人でも、関心のなさはほぼ一緒である、という事だ。「最近どうしてる?」なんて簡単な質問が全然出てこない。相手が最近どうしてるかなんて、どうでもいいと思っているのだろう。

他人に関心がないから、他人を信じられない。パスを出そうにも、パスを出すってことをすっかり忘れてドリブルしてしまう。

そのことに実は数年前から気付いているのだけれども、一向に改善しないのは、改善するつもりが全くないからだろう。だって、興味がないものには興味がないのだ。興味がないものに興味を持つにはどうしたらいいのだろうか。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。

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