夢の結実点はどこだ?

電車の中で映像の広告が見れるようになったのはいつからでしったっけ? 僕が学生の頃にはまだなかったように思うから、ここ数年のような気もしますけど、いつしかすっかり当たり前のものになってました。

電車に乗りながら、ぼんやりとCMを見てたんです。どうやら、大手の予備校のCMみたいです。

そのCMは、虫が好きな女の子が主人公で、「女の子なのに虫が好きなんて変なのー!」とからかわれがらも、家族の励ましもあって、好きなものを好きなまま、成長していきます。イイハナシダナー。

やがて女の子は大人になって虫の研究者となり、なんか顕微鏡を見てたら大発見したらしく、「なにかの生物学賞」を日本人で初めて受賞するのです(あ、この話はCMの話で、フィクションです)。いやぁ、「なにかを好きだ」ということの原動力は素晴らしい! イイハナシダ……。

……「好き」の結実点は、「成功」や「栄光」でいいの?

……なにかを「好き」って気持ちは、そういった形で報われないといけないの?

じゃあ、虫が好きだけど研究者にはならずにこれといった大発見もせずに、でも週末にはカブトムシを探して森に向かうような大人は、好きなもので成功したわけじゃないから、報われてないのか?

そもそも、「好き」が報われるって何だ?

「努力」なら、そりゃ、報われてなんぼですよ。「負けちゃったけど惜しかったね」でいいやと思って努力する人はいないわけです。報われてなんぼです。

でも、「好き」はまた違うでしょう?  報われたくて努力する人はいるけど、報われたくて好きになったわけじゃないじゃん。

じゃあ、「好き」の結実点ってどこだろうと思ったら、それって「好きであり続けること」なんじゃないか、と思うんです。

好きで好きで始めたことでも、ずっとやり続けてたら、どこかでちょっとキライになってしまうタイミングってものがあります。

好きでやってるんだけど、努力しても結果が伴わず、報われなかったとき……。

それでもやっぱり好きでいられるか?

だって、「好きだったものが、キライになる」ってこんな悲しいことはないでしょう? それを好きだった日々を自分で否定しなくちゃいけないなんて。

だからやっぱり、「好き」の結実点は「今も好き」「ずっと好き」「たとえ報われなくても、好き」なんです。

ドリカムも歌ってるでしょ。「報われなくても、結ばれなくても、あなたはたった一人の運命の人 あああ~♪」と。

だから、あのCMのオチは、「決して思い通りの人生じゃないけど、ふと道端で虫を見かけて、やっぱり虫が好きで、ついつい微笑んじゃう」とか、そんな感じがいいと思うのです。

……ただね、これ、残念なことに、残念なことに?予備校のCMなんですよ。「みんな、大学行こうぜ!」って言わなければいけないんです。

まかり間違っても、「虫が好きすぎて、大学を中退して、虫取り網片手にアフリカへと向かう」みたいなオチであっちゃならないんです。クライアントが許しません。クライアントが報われません。

……CMって、難しい!

感覚でとらえる民俗学

ここ最近は、「日本の民俗の世界を、感覚でとらえることはできないか」なんてことを考えています。

どこの学問もそうだと思うけど、日本民俗学は学問だから、知識と論理をもとに語られるんですね。知識をもとにして論理的に考察を進める。結論には根拠が必要で、そのためには知識が必要で、根拠となる知識は、多ければ多い方がいい。

だけど、僕は学者ではなく、物書きなのです。あんまりそういった「知識と理論」に偏り過ぎるのもどうなんだろう、なんて考えるのです。ちょっと堅くないかな、って。

もっと感覚的なとらえ方をしたっていいんじゃないかしら。「これ、おもしろい」「美しい」「ワクワクする」「なんか怖い」、そういった、感覚的なものを中心にして文を書きたい。

いわば「それってあなたの感想ですよね?」ってやつですね。

……感想で悪いか!

でも、僕が作っているZINE「民俗学は好きですか?」は論文でも教科書でもなく、「読み物」です。「正しい」よりも「おもしろい」を重視して作っているわけです。

それに、昔の人たちは身の回りの世界を、知識や理屈ではなく、もっと感覚的にとらえていたはずなのです。「この神社にはこんな祭神がいて、こんな歴史があって」なんて堅苦しいことは考えずに、「なんかここ、めっちゃ神々しい!」という感覚で拝んでいたはず。

そんなことを考えながら、この前、某刑場跡を訪れました。

場所を具体的に書かないのは、僕がそこに対していい印象を持っていないからです。

駅を降りたってから、「その場所」に近づくにつれて、なんだか空気がひずんでいるような感覚を覚えました。

空気がひずんでいて、なんだか一刻も早くそこを離れたい、そんな気持ち。歩くだけで、なんだかげっそりと疲れる、不思議な感覚。そこに住んでいる人からすれば、すごい失礼な話。

……たしかに僕は、「日本の民俗の世界を、知識や理屈ではなく、感覚でとらえたい」とは言いました。

……「霊感が欲しい」とは言ってない!

まあ、これはいわゆる「霊感」とは違うと思うけど。

なぜなら、うちの地元にも「処刑場跡」はあるんだけど、そこへ行っても特に何も感じないからです。

地元の処刑場跡って場所は今はすっかりおしゃれな街なのです。

霊感がついたのならば、地元の処刑場跡を自転車で通るたびに、霊に憑りつかれて眩暈だ吐き気だに襲われてないと、おかしい。

つまり、これは霊感なんてたいそうなものではなく、ただ街になんとなく漂う当時の「雰囲気」をオーバーに感じてしまってるだけなのでしょう。

でも、これこそ「感覚でつかむ民俗世界」ってヤツなのでは?

昔の人たちは知識や理屈ではなく、「この辺、なんか不気味な場所だなぁ」と何となく感じて、処刑場だの墓場だのを作ったはず。

僕もそんな風に、民俗の世界を感覚でとらえていきたい。

でも、そうやって感覚でとらえた世界を、ほかの人にも伝わるように表現するためには、それこそ知識や理屈が必要なのです。

やっぱり、ちゃんと勉強しないとなぁ。

ZINE創刊2周年!

ZINE「民俗学は好きですか?」を創刊して2周年を迎えました。

創刊したのは2019年の10月。ちょうど仮面ライダーゼロワンが始まったばかりの頃です。

あの頃は、数か月後にあんなことになるなんて思っても見なかった……。

……お仕事五番勝負があんなにつまらないなんて。

……ゼロワンは後半に入って面白くなったから、もう許してやれよ。

2019年の10月に創刊したということは、半年ほどでコロナ禍に突入したということになります。

その影響はZINEの中にも表れてまして、Vol.3の中にすでに「ケガレとウイルス」という記事を書いてます。文の中に新型コロナの話も出てくるんだけど、去年の2月ごろに書いたので、まだ「海外の出来事」として扱ってます。いやぁ、なつかしい。

つづくvol.4は特集記事として「大都会の民俗学」を書きました。これなんてまさに、コロナ禍で都市が疲弊しているのを受けての企画。vol.4には「異界としての『夜の街』」という記事もあります。これもまた、小池都知事が「夜の街」を名指しした、というところから始まった企画。

vol.5になると、あの「アマビエ」の関する記事が出てきます。「甘エビ」ではありません。「アマビエ」です。

正確に言うと、「アマビエ」のもととなった妖怪、「アマビコ」の話をしています。

そのvol.5の編集後記では「コロナのせいで製作スケジュールが狂いまくりだよ、まったく」とぼやいています。

コロナはZINEの内容にも大きく影響を与えているのですが、コロナの影響が一番大きかったのは、「即売イベントに出店できない!」という点。

何せ、イベントの数そのものが大幅に減ってしまったのですから。

もともと、即売イベントを中心に活動して、ネットにはあまり重点を置かないつもりだったけど、路線変更を余儀なくされます。

なんだか、手錠をしたままハードル走をやらされてる気分です。走りづらいったらありゃしない。

ただ、それでも、走れないことはないんです。

長らくできてないコミケと違い、文学フリマの方は東京での開催がなんとかできているし、オンラインでのイベントもあります。

もちろん、イベントの方でも感染対策はしてるし、僕個人としても無人販売などの形で対策をやってます。

こういった状況でも、何とかイベントは開催されているし、お客さんは来るし、ちゃんと売れてる。

これはちょっとした自信です。

コロナ禍でもなんとか販売できてるんだから、この先、日本がどうなろうが、自分がどうなろうが、地球がどうなろうが、何とか続けられるんじゃないか。

という自信。

……まだまだまだまだ止まんないよ。

図書館を作りたい

図書館を作りたいなぁ、と思ってから半年くらいたっただろうか。

進捗状況はどうだというと、残念ながらたいして進んでない。

図書館の「館」、つまり建物もないんだけれど、なによりも圧倒的に「図書」、つまり本が足りない。

いくら立派な建物を用意したところで、本がなければそこは図書館とは呼べないのだ。そこに「図書」がなければ、「館」は空虚な箱なのさ。

図書館の構成要素で何よりも重要なのは本なのである。

じゃあその本を集めればいいじゃないか、という話なのだけれど、「これぞ!」という本もそうそうない。

基本的に僕はケチなので、「なんでもいいから片っ端から買ってくる」ということはできない。どうしても財布のひもが緩まないのだ。

そんな僕でも、古本屋で「これは掘り出し物だ!」と思った本を見つけると、財布のひもも緩む。

この前も、「悪魔がつくった世界史」だなんて物騒な本を買ってしまった。本棚を見ると呪術の本とか錬金術の本とかオカルト本とかクトゥルフ神話とか、なんだか不吉そうな本が一角を占めている。

こういう本だとするりと財布のひもが緩むんだけどなぁ。

そして、ふと思う。

図書館を作るには、まんべんなくいろんなジャンルの本をそろえねばならない、と最初は思ってたんだけど、必ずしもそうじゃないかもしれない。

むしろ、ジャンルに偏りのある図書館があったっていいんじゃないか。

思えば、まんべんなくいろんな本が読みたいんだったら、公立の図書館に行けばいいのだ。

そうではない、マニアックな蔵書の方が、私設図書館としては面白いかもしれない。

この前、アートコレクターの人が書いた本を読んだのだけれど、どうやら「集める」というのもまた一つの創造的な行為らしい。

コレクターは、自分で何かを生み出すわけじゃない。他人がつくったものをせっせと集めてるだけだ。

集めてるだけなんだけど、その集め方にもその人のクセというものが現れて、それもまた一つのアート足りえるのだ。

たとえば、何かのテーマに沿って作られたプレイリストなんかがそうだろう。楽曲自体は人のものだし、自分で演奏してるわけじゃないんだけれど、その集め方にマニアックなこだわりがあったりすると、プレイリストもまた一つの作品となるのだ。

というわけで、まんべんなくいろんなジャンルの本を集めることはあきらめて、僕の個性がにじみ出たコレクションを作ろう、ということになった。

きっと、歴史・民俗関連と、おばけ・オカルト関連のジャンルに大きく偏った図書館ができるだろう。でも、「おばけの本の図書館」とか面白いじゃないかと、ちょっとワクワクしている。