限界を知らないと先に進めない

いよいよ明日、三回目の文学フリマです。

楽しみ、と言うよりも緊張と不安の方がまさってるんですよ。

……ほんとに売れるの?

三回目だけど、やっぱりまだまだ不安です。これ、慣れる人いるん?

毎回毎回、テストを受けに行くような感覚ですね。これまでの成果が試されている気分。

今回はかなり時間に余裕をもって、作品作りはもちろん、それを売るための準備もこれまで進めてきました。

でも、その努力が報われなかったら?

特に今回は不安が大きくて、なぜなら、前回の倍の部数を販売するつもりなんです。

すでに、文学フリマの半月ほど前には刷り上がっています。もう逃げられないぞ。ああ、胃液を吐きそう。

まあ、これまでの部数が少なすぎたんですけどね。コロナ禍なんだし、そんなに客は来ないでしょ、と少なめに刷っていたら、瞬く間に売り切れてちゃったので、今回、もっと部数を増やそうと思い立ったんですよ。

なにせ、前回の文学フリマ東京は、2時間で売り切れてちゃったのですから(イベント自体は5時間)。短い文学フリマだったなぁ。ほんとにコロナ禍だったのか?

これは、いくら何でも部数設定が弱気すぎた、というわけで、今回は倍の部数を刷ったのですよ。

ただ、「倍の部数」と決心するまでにもまたいろいろありまして。

「1.6倍」にするか「2倍」にするかで、一週間ぐらい悩みました。

結果、売れ残るのを覚悟で、「2倍」にすると決断。果たして、どうなることやら。

まだ、自分の限界が見えないんですよ。いったい何部売れるのか、という限界が。

「限界は超えるためにある!」

「いや、限界は超えないためにある!」

「限界まで足掻いてみる!」

ヒーローものだったりアニメだったりで、いろんな「限界」の話が出てきます。

そんななか今の僕の心境は

「限界を知らないと、先に進めないじゃないか」

自分の限界がどこにあるのかを把握していなかったら、その先に進みようがないんですよ。

そうです。私、限界の先に進む気、満々です。

限界が見えてるからこそ、その先に進もうと努力する。逆に言うと、限界がわからない状態では、努力できないんですよ。

限界よりもその先へと進むために、まずは自分の限界がどこにあるかを知りたいんです。

だから、「売るための準備」「努力」と書いたけど、それが本当の意味での「努力」になるのは、限界が見えて、その先に進もうとするとき。

……まあ、そもそも「努力」って言葉はあまり好きじゃないんだけど。「オレ、やってますぜ感」が鼻につく。誰に? 僕自身に。

だいたい、いざ当日になって、ブースを設営したら、もうほとんどやることはない。座ってるだけ。努力もへったくれもないのです。過剰な売り込みは逆効果だと思うし。

というわけで、明日はいよいよ文学フリマです。ここにきて、もうやることはなにのないのに、焦りだけを感じています。

でも、まだまだまだまだ止まんないよ。鼓動がまだだって鳴りやまない!

政治に興味があるヤツがえらいのか?

選挙が終わりました。衆議院選挙の話です。

選挙期間中、あちらこちらで「選挙に行こう!」「投票しよう!」と、もううるさいったりゃありゃしない。

どうしてこうもしつこくしつこく言うんですかね。

だって、人ってしつこく言われるほど、反発したくなるものじゃないですか。

「勉強しなさい!」「うっせーな! 今やろうとしてたのに、やる気なくなったんだけど!」という、アレですよ。

人はしつこく言われれば言われるほど、反発したくなるものなんですよ。でないと、「うっせぇわ」なんて曲、流行ったりしません。

なかには「投票しろ!」などと言う、もはや脅迫じゃないかという物言いのポスターもありました。そういう高圧的な言い方をしたら、むしろ足が遠のくのではないかと、なんで考えない?

しつこく言いすぎると逆効果。じゃあ、どうしたら投票率が上がるのか。

……行きたくないものはムリしていかなくていいんじゃないかな。この国には「自由」があるんだから。

そもそもの話、他人を自分の思い通りに動かそう、という発想自体が、ちょっとズレてると思います。たとえそこに、選挙とか投票とか政治のような大義名分があったとしてもね。

選挙期間中、これまたよく聞いた言葉が「政治に関心を持とう」。

……政治に関心を持つ奴がそんなに偉いのか。

政治に関心あるやつがやってることって、右も左も口汚い罵りあいと貶めあいばっかりじゃないですか。「#国会中継」みたいなツイッターなんて、ほんとに子供に見せられるようなものじゃない。

はっきり言って、人として、「下品」なんですよ。どんなに立派なことを言っていても、その言い方や振る舞いは、「下品」なんです。

人は話の内容よりも、その話し方や立ち振る舞いに品があるかどうかを重視するんです。

たとえば、街頭演説している男がいて、とても立派な主張をしていたとしましょう。

でも、その男が全裸でパンツすら履かずに演説をしていたとしたら? 演説の内容がどんなに立派なものだったとしても、誰一人耳を傾ける者はいないはず。なぜなら、「下品」だからです。

若者に政治に関心を持ってもらいたかったら、政治に憧れを持ってもらえばいいんです。憧れの力は強いです。ヒーローに憧れて変身ポーズをまねし、サッカー選手に憧れてサッカー部に入り、ロックスターに憧れて歌い方やファッションをまねする。いくつになっても、人は憧れで動きます。

ところが、「政治に関心ある大人」に若者は憧れない。なぜなら、彼らは「下品」だからです。

「下品」なヤツには憧れないし、「下品」なヤツとは関わりたくない。人として、当然の発想です。

そして、「下品」なヤツが、「下品」なくせに「俺は政治に関心があるから偉いんだ」と言わんばかりに「投票しろ!」などと言う。

人間が見えていないんだなぁ。「人間とは何か」がわかっていない。

しつこく言い続けたら、人間はどう思うか。

高圧的な言い方をされたら、人間はどう動くか。

罵りあいを見せられたら、人間はどう動くか。

「下品」な人間が、周りからどう見えているか。

だから僕は、「政治に関心を持て」とは言いません。「人間に関心を持て」と言う。「人間とは何ぞや」と問い続けろ、と言う。

人間に関心を持つとはどういうことか。もちろん、生の人間と触れ合うのが一番いいけど、優れた文学や、歌の歌詞、芸術、歴史や文化に触れることでも人間は学べます。他人が苦手な人でも、自分の内面と向き合う、と言う学び方もあります。

政治に関心を持つ前に、まずは人間に関心を持とう。むしろ、人間に関心がないのに、何を勘違いしたのか偉そうに政治に関心を持つヤツ、これが一番めんどくさいんです。

販売ブースのあれこれ

今月末には「文学フリマ東京」があります。3回目の参加ですね。

文学フリマが近づくと、毎回毎回「販売ブース、どうしようかなー」ということを考えてます。

どこのブースも、その世界観にあったブースを設営していて、やっぱりそういうところで負けちゃだめなんです。「こだわったブース」と「手を抜いたブース」だと、やっぱり「こだわったブース」の方が目に留まりやすいんですね。

というわけで、凝りに凝ったブースってやつを考えてみるわけなんですが、ここで一つ問題が。

どんなに凝りに凝った、おしゃれなブースを設計したところで、持ち運ぶことができなかったら意味ないんですよ。

すぐに設営できて、すぐにバラすことができないといけない。僕の場合は電車で移動するので、カバンひとつで持ち運びできないといけない。

となると、素材も、仕組みも、「トランクひとつだけで飛び回る」ということが大前提になるんです。

重い素材、軽くてもかさばる素材は、持ち運びに不便なのでNG。

それでいて、棚とかを作るときは、それなりの強度がないとだめ。おまけに、持ち運びするためにはバラバラにしないといけない。つまり、ばらせる構造じゃないとだめ。

そんな都合のいい素材はないかと、ある時はホームセンターをうろうろ。またある時は合羽橋をうろうろ。さらにある時はカッパのコスプレで街をうろうろ。いや、カッパのコスプレはしてないな。

せっせとZINEだけ作っていればいい、というわけじゃないのです。

いや、せっせとZINEを作っているからこそ、それを売る場所にも手を抜きたくはない。

たとえば、ステージに立って歌う、となると、「衣装はどーでもいい」とはならないでしょう。「演出もセットも、なんでもいい」というわけにはいかないでしょう。「歌さえ上手けりゃ、あとはなんでもいいんだ」とはいかないのです。

たとえば、飲食店をやる、となると、「内装はこだわらなくていい」とはならないでしょう。洋食屋ならヨーロッパっぽく、お寿司屋だったら純和風に、ハンバーガー屋はアメリカンに、喫茶店はアンティークに、内装や雑貨や音楽で世界観を表現する。これ、どこもやっていること。「メシさえ旨けりゃ、あとはなんでもいいんだ」とはやっぱりいかんのです。

それと全く同じです。

せっせとZINEを作っているからこそ、それを売る場所にもこだわりたい。いや、販売ブースまでを含めて、僕の一つの作品なんです。

むしろ、世のライターだ作家だと言われる人たちが、原稿だけ書いて、その販売は完全に本屋まかせ、ということの方が、僕には不可解です。

さらに言えば、出版社ですら販売は書店まかせ、というのが僕には不可解なのです。

製作から販売まで全部やる。大変だけど、正直めんどくさいけど、楽しいです。