ラジオリスナーの憂鬱

相変わらず、毎日ラジオばっかり聞いています。今もラジオを聴きながら書いています。そんな日々をもう17年ほど続けているので、「趣味:ラジオ」でいいのでしょう。

とくに、つい先日、お気に入りのラジオDJの子が2週間のコロナ療養から復帰したので、改めてラジオの楽しさを噛みしめている日々ですね。

やっぱり、ラジオの一番大事なところって、「いつもの人が、いつもの時間に、元気にしゃべってる」、これにつきます。2週間の間、代演のラジオDJが日替わりで登場して、それはそれで面白かったんですけど、やっぱり「いつもの人が、いつもの時間に、元気にしゃべってる」のが一番。

おもむろにラジオをつけていつもと違う人がしゃべっていると、不安になるわけです。「え? どうしたの? いつもの人は? 病気?」って。

なかには、大人の事情で表には出せない理由を「体調不良」ってことでお茶を濁してて、そのまま二度と帰ってこない、なんてことが、まれにあるんですよ。ごくまれに。

だったらまだ、「コロナです! 2週間出れません! 確定です!」って言われた方が、ほっとするというもの。出れない原因がはっきりわかってるんだから。

原因不明の体調不良が、一番怖い!

だからこそ、番組が始まり、「いつもの人」が第一声の挨拶をした瞬間に、安心するわけです。ああ、今日も元気だなぁ、と。

ラジオは、生活の一部なんです。生活の一部だから、「いつも通り」が一番大事。

だから、生活の一部であるラジオ番組が終わる、というのはラジオリスナーにとって一大事なんです。テレビ番組の最終回なんかとはわけが違います。

ラジオでは4月と10月に大きな番組改編があります。だから、「番組終了のお知らせ」は3月と9月に集中するんです。そこが、ラジオリスナーにとっての鬼門。だいたいみんな、ナーバスになりながらラジオに耳を澄ませています。

この時期になると、「もしや、そろそろそういうお知らせが来るのでは……」と肝を冷やしています。

そして、「番組の最後に重大発表があります」「番組から大事なお知らせがあります」なんて言われると、もう生きている心地がしないんですよ。

そしていざ、重大発表の時間がやってきます。

「20ⅩⅩ年に始まったこの番組ですが……」

だいたい、番組が終わるときはこういうしゃべりだしです。

「3月の放送を持ちまして……」

ああ、ついにこの時が……。

「放送時間が拡大します!」

ズコーっ!!

……ホントにたまに、そういうフェイントかけられることがあります。

そして、改変期を無事に乗り越えると、少なくともあと半年ぐらいは平気だろう、っとほっとしてラジオを楽しむわけです。

だから今、一番ラジオが楽しいわけですね。愛してるぜ、ラジオ!

岡本太郎に憧れて

今、僕の中で何度目かの岡本太郎ブームがきてます。まあ、絵と言うよりは、彼の著作を読み漁る形なんですけどね。

特に、岡本太郎が民俗学にも造詣が深かったって聞いたんで、『神秘日本』っていう本を読んだんです。

岡本太郎が日本のいろんなところを旅行して、青森の恐山や東北の修験道、沖縄の御嶽などを目の当たりにするという本。

日本の民俗を、芸術家ならではの視点で観察し、表現してるんです。

岡本太郎って人は、パリにいたときに今でいうところの文化人類学を学んでて、日本の歴史や民俗に対しても知識が豊富な人です。

でも、そういった知識や理論を十分に知ったうえで、それに頼らずにおのれの感性のみでぶつかり、表現する。

読みながら、あっこれだ、って思ったんですよ。僕がやりたいのも、こういうことなんじゃないか、と。

知識や理論よりも、目の前の光景をどう切り取り、どう解釈し、どう表現するか。

最近、僕は知識を増やすことや、理論が正しいかどうかってことよりも、そういうことの方をよく考えてるんです。

もちろん、知識や理論も大事なんですよ。いい写真を撮るには、いいカメラが必要だし、カメラの使い方やテクニックなど、いろいろと知ってなきゃいけない。

でも、どんなにいいカメラを使ってても、どんなにカメラに詳しくても、レンズを向ける方向がおかしかったら、いい写真は撮れないんですよ。

で、最近の僕は、そのレンズの向け方のことをずっと考えているわけなんです。

いま、『民俗学は好きですか?』の第7集の制作が大詰めになっているんですけど、今回は「知識や理論よりも、レンズの向け方が大事」って意識が、今まで以上に出てる、って我ながら思うんですよ。

理論的に正しいと思ったことよりも、「こっちの方がロマンあってよくない?」ってことを強調しちゃったり。

数百年前の景色を、さも見たことがあるかのように書こうとしたり。

「自分が面白いと思ったことを、いかに他人におもしろく伝ええるか」、それがずっと、僕の中でのテーマなんです。

やっぱり自分は、学者や研究者じゃなく物書きなんだなぁ、とつくづく思いますね。

さっき例えでカメラの話を出したけど、最近は写真にも興味がありまして。

世の中には民俗学で扱うようなもの、古い風習とか、祭りとか、地蔵とか鬼の面とかを専門に撮る写真家、っていう人もいるんですよ。

彼らは、被写体に対しての知識はもちろんあるんだけど、やっぱり知識や理論だけでは表せない「なにか」を表現したくて、レンズを向けるんじゃないか。

そして、僕も同じなわけですよ。知識や理論だけでは説明しきれないなにかを表現したくて、筆を走らせるのです。実際にはキーボードをたたいているわけなんですけど。

電力会社から節電してくれと頼まれたから節電したけど、普段とさほど生活が変わらなかった件

電力会社から節電してくれと頼まれたから節電したけど、普段とさほど生活が変わらなかった件、です。

いやぁ、普段からあんまり電気、使わなかったんですね、僕。

カネさえ払えば電力を湯水のごとく使っていい、なんて許されるのは、小学生までだよねー!

まず、10年で2回パソコンが壊れているんで、パソコンやスマートフォンを信用してないんですね。だから、スケジュールなどはアナログで管理しています。

つまり、パソコンを開かないとできないってことが、日常生活の中であんまりないんですよ。

いま、この文章をパソコンで書いてるじゃないかって? こんなの、電力に余裕がある時に書けばいいんです。

何なら今、現在進行形でスマートフォンの調子が悪いんだけど、普段から生活がスマートフォンに依存してないので、ほとんど支障をきたしていません。

「自分で直せない道具に、生活のすべてを委ねない!」

計算も足し算引き算はそろばん使ってますし、加湿器を使わずに、霧吹きを部屋で散布しています。

you tubeはほとんど見ないし、SNSを見る時間も意識的にセーブしてる。「ひまつぶしにネットやSNSを見てる」ということは、僕の日常で30分くらいしかないのです。だから、見れなくなってもそんなに困らないんですね。

じゃあ、何やってるのかと言うと、節電の日は一日中ラジオ聞いてました。

ラジオはいいぞ。ラジオこそ、災害時における最強のメディアです。今もラジオを聞いて書いてます。

なんたって、電池一本で数十時間持ちますから。最悪の場合、人力で発電できるラジオだってあるし。

スマートフォン、人力で発電できますか?

そして音だけのメディアだから、節電や停電で部屋の中が真っ暗でも、影響なし!

むしろ、ジャズやR&Bなんかは、部屋が暗い方がムードが出ますね。

あと、怪談話。明るい部屋で聞くより、暗い部屋で聞いた方が、背筋が寒くなります。

日が落ちても電気をつけず、薄暗い部屋の中でラジオを聴きながら、むかーしむかし、まだ電気がなくて囲炉裏しかなかったころのことに思いを馳せます。もちろん、生まれてませんけどね。

テレビもネットもない時代。そして、囲炉裏の灯では薄暗くて、夜では読書もままならない。

そうなると、昔話や怪談話などの音のエンタメが、一番のエンターティメントなんですよ。テレビなどのメディアの普及で、そういった話が家で語られなくなったっていうけど、メディアの普及だけでなく照明の問題もあるかもしれないですね。

なるほど、民俗学の道というのは、テレビの電源プラグを引っこ抜き、文明を一つ捨てるところから始まるんですね。当時の暮らしぶりを自ら体感して、はじめて気づくことがある。書を捨てて、電気を消そう。

「昔は、囲炉裏端でのお話が最大の娯楽でした」と、知識では知ってるんだけど、いざ薄暗い夕闇の中に身を置いて初めてわかる、「音しか、楽しみない……」。

でも、音だけで十分楽しい!

書を捨てよ、そして、電力を捨てよう。