絶対役に立つ、カルト宗教の嘘のみやぶり方

安倍さんの事件以降、カルト教団が話題になってます。

人をだましてたぶらかしていいように利用しよう、ってのは宗教だけじゃなくて、いわゆるねずみ講とか、マルチ商法とか、つまりは相手の思考力を奪って、お金を巻き上げよう、って輩ですね。

僕自身、マルチ商法の勧誘を受けたことがあります。その場で断って帰ったけど。

だって、話が長かったんだもん。5分で済む話を30分もかけてたんだぜ。

「すぐに本題に入らない奴の話は信用しない!」、これは僕の嘘を見破るポイントの一つです。

いきなり宗教だ商法だの話を始めると警戒されるから、まずはそれを隠して、「もっといい生活がしたいと思わないか!」「いまの自分を変えたいと思わないか!」みたいなところから入って、次第に本題へとシフトしていく。だから、話が長くなる。

人をだまそう、たぶらかそうとしてるやつは、そのためのワナを会話にちりばめるから、どうしても長くなるんです。長々としゃべってたけど、要約すれば半分以下の長さで済むんじゃないか、ってなった時は、じゃあ半分以上は何の話をしてるのかというと、相手をだますためのワナに時間を使っているわけです。

とまあ、こんな感じで、「話の内容」よりも「話し方」の方に警戒心を向けると、ウソは見破りやすし、カルトまがいに引っかかることも少なくなります。

実際、「話の内容」の方で矛盾を指摘して、ウソを見破って論破するっていうのは難しいんですよ。

ウソを内容から見破るには、かなりの知識が必要です。たとえば、「昨日のお昼は東京にいた」って言われても、「彼は昨日のお昼、大阪で目撃されている」と知っていればウソだとみ破れる。でも、そんな都合のいい情報を知ってることなんてそうそうないわけです。

「この薬にはこんな効果があります」「ウソだ! その薬に使われている○○という成分にそんな効果はない!」とできればかっこいいけど、ふつうは「〇〇なんて物質、聞いたことはあるけどよく知らない」なんて感じです。

内容からウソを見破ろうと思ったら、知識がいくつあったって足りない。

だから、相手の話し方から見破るんです。

人って面白いもので、言葉だったらどんなウソでもつけるけど、話し方やしぐさ・態度はウソをつけない。すくなくとも、言葉に比べるとかなり正直です。

さっきの「すぐに本題に入らない」「やたらと話が長い」もそう。

ほかにも、「イエスかノーで答えられる質問を、イエス/ノーで答えない」というのもあります。これまたやっぱり相手に自分の言うことを何とか信じさせようとあれこれ言葉を足していくから、イエス/ノーという淡泊な答え方ができないんですね。

なかには、話してる本人もそれがホントだと信じ込んでいて、だまそうというつもりが全くないからウソのサインが出ない、って場合もあります。そんな時、僕は過剰な「陶酔」「敵意」「分断」に注目しています。それこそカルトなんて教祖・教団・教義への「陶酔」「敵意」「分断」の典型です。相手の言葉の内容よりも、「陶酔」「敵意」「分断」が含まれていないかの方に注意して耳を傾けます。

あとは、しぐさからウソを見破る。よくあるパターンとしては、

唇をなめる(ウソをつくとのどが渇く)

顔を触る(嘘をつくと汗をかくのでかゆくなる)

やたらと身振りが大きい(相手に話を信じ込ませようとする結果、身振りが大きくなる)

姿勢が傾いている(嘘をついているので、この場から早く離れたいという表れで姿勢が傾く)

手や腕を組む(防御姿勢、内面を見透かされたら困るという表れ)

この辺の合わせ技でも、ウソを見破れます。しぐさは、言葉よりもはるかに正直です。

「口をなめる」なんてのは、マスクをしてしまえばバレません。逆に言うと、「なにかの会見でマスクをしてるやつ」はもうそれだけで信用できません。「あ、口元見られたくないんだな」と。

先日の旧統一教会の会見では、幹部の人が唇をぺろぺろ舐めていたから、「あ、この人たち、真っ黒だ」と判断しましたとさ。

とにかく、その場でウソだとはっきり見抜けなくても、「ウソのサイン」があったら絶対に信じない、警戒心を解くことなく、話半分で聞くべきです。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。