他人を信用できない

自分は実はとてつもない人間不信なんじゃないか、他人を全く信じてないんじゃないか、そう思う事がよくある。

たとえば、人から言われた誉め言葉はほぼ全く信じていない。90%くらい社交辞令だと思っている。

ひとりでZINEを作っているのも、結局は他人を信じていないからなのかもしれない。

ZINEの表紙も自分で作っている。何なら、印刷も自分でやっている。

もっとも、それには経費の問題とか、自分でやった方が小回りが利くとか、理由はほかにもある。

それでも、僕に潤沢な資金があって、優れたクリエイターとのコネがあったとしても、「えんとつ町のプぺル」みたいに分業制でやろう、という発想にはたぶんならない。根本的に、他人を信用していないのだ。

それでいて、一人で何でもこなせる器用なタイプかと言ったら、そんなことはない。人一倍不器用なタイプだ。

不器用なくせに、人に頼んだり委ねたりしないで全部自分でやろうとするのだから、始末が悪い。

とはいえ、なにも普段から「あいつらは信用できない」などと意識して生きているわけじゃない。

ただ、無意識のうちに「人に任せてみる」という選択肢を避けてしまう。なんでだろうと振り返ってみると、おそらくその根底には、他人を全く信用していない、というのがあるのだろう。

誰かに任せる、というのはサッカーに例えればパスを出すようなものだ。仲間を信じてパスを出す、そんな司令塔に憧れる。

ところが、実際は一人でドリブル突破するようなプレイスタイルである。それがうまくいくかどうかは別として。

どうしても、パスは出せない。

どうしてそんなに他人を信じていないのかというと、そもそも、他人に関心がないからであった。どうしようもない。

たとえば飲み会などで初対面の人と会っても、何を話せばいいのかわからない。

他の人はどうしてるんだろうと見ると、「どこから来たの?」「何の仕事してるの?」なんて話をしてる。

なるほど、そんな話をすればいいのか、と目の前の相手に戻っても、やっぱり質問が出てこない。

相手に関心がないから、相手がどこ出身とか、どんな仕事をしてるとか、心から興味がないので「質問」という言葉にならないのだった。どうしようもない。

なにがタチが悪いって、これが付き合いの長い友人でも、関心のなさはほぼ一緒である、という事だ。「最近どうしてる?」なんて簡単な質問が全然出てこない。相手が最近どうしてるかなんて、どうでもいいと思っているのだろう。

他人に関心がないから、他人を信じられない。パスを出そうにも、パスを出すってことをすっかり忘れてドリブルしてしまう。

そのことに実は数年前から気付いているのだけれども、一向に改善しないのは、改善するつもりが全くないからだろう。だって、興味がないものには興味がないのだ。興味がないものに興味を持つにはどうしたらいいのだろうか。

努力や才能に勝るもの

コロナ禍でホームレスになった若者の話を耳にした。僕と同年代で、会社を経営していて、かなり羽振りがよかったらしいけど、コロナのあおりを受けて一気に倒産し、転がるように路上に投げ出されたらしい。

彼は極端な例だとしても、飲食店を始めコロナでつぶれるお店や会社は多いそうだ。当然、その分の失業者が生まれているわけだ。

彼らはなにが悪かったのだろう、と考えるとこれはもはや「運が悪かった」としか言いようがないんじゃないか。少なくとも、「実力不足」や「努力不足」とは言えないだろう。ホームレスになった社長さんは実力や才覚は人よりあったはずだし、潰れた飲食店はそもそも「努力させてもらえない」という状況のはずだ。

実力もあるし、誰よりも努力しているのに、運の悪さ一発でころっと店や会社がつぶれてしまう。

コロナに限らず事故や災害で亡くなる人というのは基本的に「運が悪かった」という事になる。努力が足りなかったわけじゃない。

もしかしたら人生というのは、運による要素がかなり強いんじゃないだろうか。僕らが思っているよりもはるかに強く。

実力や努力の要素よりも何倍も何倍も何倍も、運の要素が多いんじゃないか。

ところが、例えばどこかの社長さんが書いたビジネス書を読んでも、「すべては運です」だなんて書いてない。

そりゃそうだ。あの手の本は「君も努力と才能で俺みたいになれる!」が謡い文句なのだ。そこに「すべては運次第」なんて書いてあったら、もうどうしようもないじゃないか。

いや、そもそもああいう本を書く人は「運の要素がでかすぎる」だなんて思っていないのかもしれない。自慢話というのはたいていは、「今の自分があるのは、俺の才能と努力のたまもの」って話だ。そう思いたいのだ。口が裂けても「自分はとにかく運がよかっただけ」なんて言わない。

逆に、何かに失敗して落ちぶれた人に対しては「才能がなかった」「努力が足りなかった」とみなされがちだけど、やっぱり「運が悪かっただけ」という事なんじゃないか。でも、「運が悪かっただけ」だと、その不幸は自分にも回ってくるかもしれない、という事になる。それを考えたくないから「あいつは実力がなかった」という事にしたいのかもしれない。

「努力すれば報われる」「努力は裏切らない」と学校で教わってきた。特に受験生の時は「この(無駄にしか思えない)努力をしたという経験が必ず生きてくる」とごまかされて勉強させられてきたけれど、コロナが浮き彫りとしたのは「努力ではどうにもならないことなど、ざらにある」「結局、最後は運なのよ」という残酷な真実だったのかもしれない。

これほど科学が発達した現代でもまだ、宗教や占いやおまじないがなくならないというのはもしかしたら、「努力や才能も大事だけど、結局、一番大事なのは運なのよ」という事を、僕らはどこかでうすうす気づいている、その表れなのかも。

映画に臨場感を求めない話

毎年、仮面ライダーの映画を見に行っていたのだけれど、今年は見送った。「映画とコロナが無関係」とは言い切れないからである。むしろ、不要不急の外出の自粛が求められている時期に、映画の興行収入記録が塗り替えられるなんて、国民総出で趣味の悪いコントを演じている気がしてならない。

まあ、半年もすればDVDが出る。それで見ればいいや。

むしろ、DVDの方が、いろいろとお得じゃないか?

まずはおカネの問題。映画は一回1800円。DVDはレンタルすれば100円。しかも、返却するまで何回も見れる。

さらに、DVDの場合、途中で止めてトイレに行けるのである。

映画館に行くときは念には念を入れて直前にトイレに行ったのに、途中でどうしてもトイレに行きたくなることがある。だからと言って、一時停止とか巻き戻しとかできない。この点でもDVDの方がお得だ。

そもそも、どうして映画を映画館で見なければいけないのか。

よく、「映画館と家とでは、臨場感が違う」と聞く。

だけど僕は映画を見て「うわっ、臨場感がすげぇ!」と思ったことがない。

映画館で映画を見終わり、その内容に感動することはあっても、「やっぱり映画館で見るに限るなぁ」と思ったことは一度もない。振り返れば全部、「家で見てもよかったな」。

そういえば、とあるグロ系の映画を見に行った時、よくわからないままに4DXの方がなんかすごそうだと選んだことがある。

銃撃戦のシーンでは顔に何か空気弾のようなものが飛んできて、血しぶきが上がるシーンでは軽い水しぶきをかけられた。あと、なんか椅子が動いてた。

うっとうしくて、映画に集中できなかった。二度と4Dナントカの映画は見ないぞ、と心に誓ったものだ。映画関係者は、映画を見ている最中に顔に霧吹きをかけられた人がどんな気持ちになるか、一度真剣に考えた方がいいと思う。

霧吹きをかけたり、椅子を動かしたりしてまで臨場感にこだわっても、臨場感なんて結局「気のせい」なんじゃないか。

そういえば、映画館のおやつやジュースはやたらと高い。別に食べなくてもいいのに、なんか意味もなく食べながら映画を見たい気持ちにかられる。高いのに。あれもきっと気のせいだろう。

もしかしたら、映画とは「気のせい」で成り立っている娯楽なのかもしれない。「気のせい」を味わいたくて、人は映画館に足を運ぶのではないか。

「気のせい」というとイメージが悪いけど、小説を読んで「情景が目に浮かぶ」というのも気のせいだし、音楽を聴いて「まるで自分のために書かれた歌みたい」と思うのも気のせいだ。人が感動するのも実は「気のせい」であり、むしろ「気のせい」にこそ人を感動させる力があるのかもしれない。

となると、「気のせい」って何だ、という事になる。「気のせい」の「気」とは何だろう。

誰もいないのに誰かいる気がする、名前を呼ばれた気がする。身近な「気のせい」の例だ。

「気のせい」の「気」とは、つまりは「第六感」のことだ。第六感がさえわたった結果、見えないものが見えたりするわけだ。

つまり、「気のせい」の「気」とはどこにあるのかというと、自分の中だ。自分の中から外側を感じ取ろうとする力が「気」なのだ。

という事は、臨場感も気のせいなのだから、音響をすごくしたり、顔に霧吹きをかけたり、椅子を動かしたりしたりしなくても、「映画の世界にのめりこむぞ」という想い一つで、十分に臨場感を感じ取れるはずだ。

家でDVDを見ていても、気持ち一つでそこは映画の世界。これを「気の持ちよう」という。

逆に、顔に霧吹きをかけられたら、映画の世界に入り込もうという集中力がそがれてしまう。

こういうのを「気が散る」というのだ。

予想通りの1年だった話

前にも書いたけど、僕は「10年後の自分はどうなってると思いますか?」という、就活でよく聞かれる質問が苦手だ。

本音で答えれば「死んでるかもしれないからわかりません」なんだけど、そんなネガティブかつ投げやりなことを言うと確実に面接に落ちるので、「10年後は御社でキャリアアップして……」などと心にもないことを言う。もちろん本心は「さあ、10年後なんて死んでるかもしれないからなぁ」。

心にもないことを言っているので、当然、簡単にメッキがはがれて、面接は落ちる。

そうして、「10年後の、キャリアアップした自分」をすらすらよどみなく言えた人が正解とされ、面接に受かるのだ。

ところが、僕が就活をしてた時から10年たたないうちにコロナ禍がやってきてしまった。飲食業や観光業、それ以外にもいろんな業界が苦境に立たされている。

面接で答えた10年後とは、大きくかけ離れた人も多いはずだ。

……それ見たことか!

やっぱり、「10年後なんて知るかよ、バーカ」が正解だったじゃないか!

「10年前の面接」では、「10年後の自分」をよどみなく答えることが正解だったけど、実際の10年後では「知らねーよバーカ!」が正解だったじゃないか!

そもそも、「10年後の自分」とはなかなかに厄介な質問である。

現代史を振り返ってみると、90年ごろのバブル崩壊、2001年の同時多発テロ、2011年の東日本大震災、そして2020年のコロナ禍と、10年周期で、「10年前の計画」がおじゃんになるような大事件が起こっている。ちなみに、80年代は詳しくないのでわからない。

10年周期で大事件が起きるという事は、「10年後の自分」を思い描いた時、その10年の間のどこかでとんでもない横槍が入る可能性が高い、という事だ。

再起不能になるほどの横槍が飛んでくるかもしれないのに、それを無視して「御社でキャリアアップして……」などとのんきなことを言うやつのどの辺が正解なのか。「御社」なんて10年後にはなくなっているかもしれない。

10年後まであるとおもうな、親と金と御社。

のんきと言えば、今年(2020年)はよく「まさかこんなことになるなんて思ってなかった」なんて言葉を聞いたけど、これまたずいぶんのんきな言葉である。

僕もさすがに「未知の感染症が蔓延する」とは思ってなかったけど、それでも「まさかこんなことになるなんて」とのんきなことは考えていなかった。

何かの災害で、今の生活や社会が再起不能になることはあるかもしれない、頭の片隅では必ず考えていることだ。

恐れるべきは災害だけではない。車に轢かれるとか、癌が見つかるとか、生活や人生を狂わせる一大事がいつ起こるとも限らない。今、このブログを腱鞘炎の真っ最中に書いているのだけれど、腱鞘炎だけでも十分に日々の生活を狂わせる。

だから、「まさかこんなことになるなんて」だなんて、ずいぶんのんきなことを言うものだな、とあきれ返っているわけだ。

確かに、さすがに感染症が広がるとは予想してなかった。何か生活を狂わせる一大事が起きたとして、災害だと地震、個人的なことだと交通事故の可能性が高いと思っていたけど、まさかウイルスが蔓延するなんて。

それでも、原因が何であれ「社会がひっくり返るほどの大事件が起きる」ことは頭のどこかで常に予想していたので、「まさかこんなことになるなんて」とは思わない。そういう意味では予想通りの1年だった。

人と距離を取りたい話

「ソーシャル・ディスタンス」という言葉にずっと違和感がある。

「社会的距離」というけど、実際には「2m間隔をあけましょう」というわけだから、どう考えても「物理的距離」だ

いや、もはや「物理」ですら余計である。単に「距離」「間隔」で十分通用するじゃないか。

「感染を広げないために、ソーシャルディスタンスを保ちましょう」

「感染を広げないために、人と間隔をとりましょう」

ほら、ちゃんと伝わる。

やはり物書きとしては、無駄な文字数は使いたくない。簡潔であるべきだ。

「社会的距離」とはたぶん、ふだん一緒に遊んでるけど社会的な立場が全然違う、ハマちゃんとスーさんみたいな人のことを言うのではないか。ハマちゃんとスーさんは、物理的にも心理的にも密接だけど、社会的な立場だけはかなり離れている。

ところで、コロナ禍で離婚が増えたという。いつも一緒にいたくて結婚したはずなのに、本当にいつも一緒にいるのは耐えられないというのだから不思議だ。「健やかな時も、病めるときも」じゃなかったんかい。

家族、恋人、友人、仕事仲間と、いろんな意味で密接であることが素晴らしいように言われているけど、一方で、「距離をとる」という事もやはり大事なのではないか。物理的にも、心理的にも。「ちょうどいい距離を保つこと」こそが人間関係をうまくするコツなのではないか。

一緒にいてほしいて時に一緒にいる。

放っておいてほしいときに放っておいてくれる。

一人でいたいときに一人にしてくれる。

助けてほしいときに助けてくれる。

そんな、ちょうどいい距離。

同じ部屋にいながら、互いに干渉せず、それでいて険悪なわけでも倦怠期でもない、そんな「ちょうどいい距離感」。

一方で、遠く離れた町に住んで、何年もあっておらず、電話だけのやり取りだけどお互いがお互いのことをわかっている、そんな「ちょうどいい距離感」。

なんか都合の良い理想を言ってるような気もするけど、人間関係の失敗における多くは、この「ちょうどいい距離」を保てなかったことにあるんじゃないか。

そもそも、地球に生命が生まれて高度な知性を持つにいたるまで進化したのだって、太陽から見て熱すぎず寒すぎない「ちょうどいい距離」を保っていたからだ。そんな距離感の申し子たる我ら人類は、やはり「ちょうどいい距離」を模索しながら人生を歩むことが運命づけられているのかもしれない。

地球と太陽もまた、絶妙なバランスで「ちょうどいい距離」を保っている。地球と太陽にはお互い引力があるけれど、太陽の方が何倍もでかいから、放っておくと太陽に引っ張られて、人類は簡単に滅亡してしまう。

だから、地球は太陽の周りをぐるぐると周り(公転というやつ)、遠心力を生み出して、その遠心力が太陽の重力と釣り合い、地球は「ちょうどいい距離」を保っていられるのだ。

公転が遅いと遠心力が弱く、地球は太陽に引っ張られ、気温はどんどん上昇する。逆に公転が速いと、地球は太陽から遠ざかり、どんどん寒くなる。

「ちょうどいい距離」を保つには、絶妙なバランスが大切なのだ。

人間も同じだ。放っておくとどんどん引っ張られて密になっちゃうから、時に自分からわざと距離をとることも大切だ。そうやって絶妙なバランス感覚で、「ちょうどいい距離」を模索するのだ。

あなたと私のちょうどいい距離を探していく、それこそが人生の醍醐味かもしれない。

オンライン会議に限らず、電話、手紙、メールにLINEと、現代は人と人との物理的距離を保ちながら、心理的距離を縮める手段がたくさんある。いろんなやり方で、「ちょうどいい距離」を探すことができる。なかなかにいい時代ではないか。

ブログの挨拶の書き方が気になる

はいどーも、こんにちわ。ノックです!

……というあいさつを、僕はブログではやっていない。

なので、あいさつで始まるブログをたまに読むと、「僕ってブログであいさつなんてしてないぞ?」と引っかかる。

礼儀としてはあいさつがある方がいいけど、文章だとあいさつがある方がまれだ。本を読んでいても、1ページ目で「はいどーもみなさん」とか「みなさんはじめまして」なんてあいさつで始まる本はめったに見かけない。

僕は、酒井順子さんのエッセイが大好きなのだけど、「こんにちわ、酒井です」なんて書き出しで始まるエッセイは読んだことがない。エッセイは雑誌連載が多く、読者は著者の熱心なファンとは限らないから、あいさつがあってもいい気もするけど、エッセイはあいさつからは入らない。少なくとも、酒井さんのエッセイにあいさつはない。

そもそも、文章における「あいさつ」はどんな効果を生むのか。

あいさつがないエッセイを「無礼だ!」と断じる人はいない。文章でのあいさつに「礼儀」としての意味は、たぶん、ない。

それよりも、読者との距離をぐっと縮める効果があるんじゃないか。

「誰やねん」と思いながら読むよりも、「はいどーも、ノックです!」から始まった方が距離が近くなった、ような気がする。軽く名乗った程度では、結局「誰やねん」の疑問はさっぱり解決していないんだけど、それでもかなり距離が縮まる気がする。

一方、名乗らない場合はどうだろう。

たとえば「たぬき」というタイトルのエッセイがあったとしよう。これだけではどんな内容なのかさっぱりわからない。

あいさつはなく、いきなり「僕の地元は野生動物に出くわすことなどほとんどありません。ところがある日、学校の先生が『学校の近くでタヌキを見た』と言い出したのです」みたいな感じで始まる。

この時点で、まだどんな話なのかはわからない。面白い話かも、泣ける話かもしれない。もしかしたら怪談話かもしれない。

著者との距離はけっして近くはないし、話の行く末もわからないまま読み始める。

エッセイで大事なのはこの「どんな話かまだわからない」というミステリアス感であり、それを醸し出すには、あいさつはむしろ邪魔なのではないか。

これが「はいどーも、ノックです。たぬきと言えば、先生がある日『タヌキを見た』と言い出したことがありました」だと、なんかミステリアス感が薄れた気がする。

言ってる内容は同じだけど、あいさつ一つで書き手の距離が縮まり、ミステリアス感が薄れてしまうのではないか。

ブログは「〇〇が簡単にできる3つのコツを紹介!」みたいなわかりやすいものが多いから、ミステリアス感などいらないのかもしれない。

一方で、エッセイとか文学とかは、話の内容がすぐには見通せず、霧の向こうから何かが少しずつ近づいてくる感じがいい。作者の内面だったり、思い出だったり。それは時として、どろどろにゆがんだものかもしれない。そういったものは、少しずつ近づき、溶かして、消化していきたいのだ。

それがいきなり「はいどーも」と来られたんじゃ、どうにも風情に欠ける。甘酸っぱい青春恋愛映画だと思って借りてきたビデオが、いざ再生してみたら実は直球のアダルトビデオでした、ぐらいの風情のなさだ(どうやったら間違えるんだろう)。

近頃やたらと「距離」に注目されるようになった。人とは距離をとりましょう、と。すっかり嫌われている「距離」だけど、僕はあえて言いたい。「人とは距離をとりましょう」

文学も、芸術も、友情も、恋愛も、実は「距離がある」のが、距離が離れたり近づいたりするのが、一番面白いんじゃないか。あんがい距離って悪くないものよ。

たいしてヒットしていないアニメを応援する奴

たいしてヒットもしていないアニメをずっと追いかけている。

たいしてヒットしていないのだから、残念だけど、爆発的な人気はない。

でも、「根強い人気」というものはある。

たいしてヒットもしてないけど、大コケしたわけでもないので、ファンの数はそれなりにいて、その一人一人が作品に、結婚指輪を送りかねないくらい熱い思い入れを持っている。

かくいう僕も、その一人。

たいしてヒットもしてないけど、ファン一人一人のマグマのような熱意を集めて、細々と新作がつくられている。

爆発的にヒットしたアニメだったら、ほっといても新作がつくられるだろうけど、たいしてヒットしてないアニメで、細々とでも新作がつくられ続けているのは奇跡である。

そして、ほっとくともう新作がつくられないかもしれないから、必死になって応援するわけだ。

もしかしたらこの「たいしてヒットしていない」「ファンの数はそこまで多くない」というのが重要なのかもしれない。

たとえばすごく面白いアニメがあって、実際に「面白い」という感想を抱いたとして、

そのアニメが爆発的な人気で、誰もかれもが面白いと言ってるのを見ると、僕はかえって興ざめしてしまう。

「なんだよ、僕だけの『面白い』じゃなかったんかい」と。

ラブレターだと思って大切に読んでた手紙が、実はダイレクトメールでした、みたいながっかり感。

むしろ、「みんなに知られている」「みんなが好き」という時点で、なんだか価値が少し下がってしまったような気がするのだ。

もしかしたら、「みんなに人気があるもの」というのは、「ずば抜けて質が高い」というよりは、「とりあえず、ハズさない」ぐらいのものでしかないのかもしれない。

たとえば、ファミレスの料理。みんなに人気のファミレスの料理は、メチャクチャおいしいわけではないけれども、「クソまずい!」という事もない。とりあえず、ハズさない。

一方、「マイナーな名店」探しは骨が折れる。もしかしたら、大ハズレの店に行ってしまい、「これだったらファミレスに行けばよかった」と後悔するかもしれない。

コンビニのお弁当も、チェーンの居酒屋も、駅前のマックも、人気のアニメも、流行の音楽も、高視聴率のドラマも、ずば抜けて優れているのではない。「とりあえず、ハズさない」。

もちろん、「とりあえず、ハズさない」というのも、すごいことだ。「誰にとっても70点の面白さ」というのは、簡単にできることではない。

だけど、それよりもさらに30点面白いものがどこかにまだあるのだ。ほかの人にとっては20点でも、自分にとっては100点の何かが。

そして、それは不思議なことに、本屋の「おすすめです!」と書いてある棚や、CDショップの「今、人気です!」と書かれている棚には、置いていないのである。

自分だけの名作に出会うのは、ほとんど運任せだ。放送されているアニメを全部チェックして、そんなオタク生活を何年も続けてようやく巡り合うこともあれば、何も知らずに深夜にたまたま見たアニメがものすごく面白くて、なんてこともある。いつ、なぜ、どうやって巡り合えるかを私たちは誰も知らない。まるで縦の糸と横の糸が織りなすように……、あ、これ、中島みゆきの「糸」だ。

一つわかることがあるといえば、人気や他人の評価に頼らず、自分で探さなければいけないってことだろう。

願わくば、僕がつくる作品も、誰かにとっての「隠れた名作」でありたい。

FOMOの意味を考えてみる

ついこの前、FOMOという言葉を知った。

ガソリンスタンドの名前ではない。「FOMO」とは「Fear Of Missing Out」の略で、「自分だけ見逃してしまう事への恐怖」という意味だ。

要は、流行や話題に自分だけ乗り遅れてしまう事への恐怖、というわけだ。

2004年ごろに生まれた言葉らしいが、僕がこの言葉を知ったのは2020年の暮れである。だいぶ乗り遅れてしまった。

いや、そもそも、ネットで調べてみても「FOMO」という言葉を解説している記事はあまり多くない。どうやら、「FOMO」というワードそのものが世の中から見逃されているらしい。

一方で、研究者にとっては大きく関心のある現象らしく、ウィキペディアを見ただけでも、いろいろな研究成果が見つかる。

それによると、FOMOというのは要するに「仲間外れは嫌だ」という感情らしい。常に人とのつながりを欲し、仲間外れを恐れるゆえに、「話題の○○」「流行りの○○」というのを常にチェックしておかないと気が済まない、というのだ。

そうして、話題や流行りをチェックしておくことで、周囲と話を合わせることができ、結果、自分が周りに承認される、という事らしい。

特に、人とのつながりに満足できないとき、人はこのFOMOに陥りやすいという。

何のことはない。FOMOとは、話題のスイーツが好きな人でもない。流行のアイドルが好きな人でもない。

結局は自分が好きな人に過ぎないのだ。自分が好きだけど、その自分が仲間外れにされるのが嫌だから、流行を追っかけて話題を合わせる。

スマートフォンで常にトレンドに目を光らせているけど、you tubeを見ていても、tik tokを見ていても、ドラマを見ていてもアニメを見ていても映画を見ていても、実はずっと自分のことしか見ていないのである。なかなかの皮肉だ。

そう考えると、流行というのもなんだか考え物だ。音楽にしろ、映画にしろ、食べ物にしろ、そのもの自体を楽しんでいるというよりも、話題を楽しんでいるようにも見えるし、作り手側も、作品を作っているというよりは、話題を作っているんじゃないかとも思えてくる。

雑誌が売れなくなり、SNS社会となり、テレビが見られなくなって、you tubeが見られる。結局は、話題の振りまき役が変わっただけなのかもしれない。

受け手は話題に取り残されたくないと恐れ、作り手は話題を必死に作る。最終的にはきっと、自分が「話題」になりたいのかもしれない。自分が「話題」になってしまえば、もう取り残されることもない。

なんだか、「話題」に振り回されているような気もするが、「話題」とは一体何だろう?

年末特番は見ない

今年もまた年末が近づいてきた。

年末になると、どのテレビ局も年末特番をやり始める。今年の紅白に誰が出場するとか、NHK以外のテレビでも話題に挙げている。

でも僕は、この数年、紅白を見ていない。

苦手なのだ、あの「特別感」が。

いかにも「特別なことやってます」という雰囲気。特別な演出。特別な脚本。すべてが苦手だ。

紅白に限らず、年末特番というのもほとんど見ない。

特に意味が分からないのが「今年を振り返る」系の番組。

歴史は好きなのだが、単にちょっと昔を懐かしがるだけの番組は全然興味がない。そういえば、平成が終わる頃には「平成の30年を振り返る番組」がいくつか放送されていたが、一つもみなかった。

どうにも、「懐かしい」という感情にも、それほど興味がないらしい。そういえば、僕は自分の昔の写真は一切見返さない性格だ。

さて、そういった年末番組のいくつかをやり過ごすと、大みそかがやってくる。紅白は見ないのだが、じゃあ何を見てるのかというと、何も見ていない。

そう、大みそかは基本、テレビをつけない。

なぜなら、大みそかはどこのテレビ局もたいてい「特別感満載の番組」をやっているからだ。

見るとしたら、大みそかにやってるくせに全く特別感のない「孤独のグルメ」とか、BSの番組とか、とにかく「特別感のないモノ」。

もちろん、カウントダウン番組なども見ない。むしろ、たかだか日付が変わるだけでどうしてあんなに盛り上がれるのか、不思議でしょうがない。

そのまま、お正月もテレビを見ない。お正月特番の特別感も苦手だからだ。

テレビ局の人たちも、大みそかやお正月はむしろ働ないで、家でのんびりすればいいじゃないか。何も気張って、ヘンな番組を作る必要などないはずである。

どうしてお正月の特別感が苦手なのだろうか。

お正月になるとみな「あけましておめでとうございます」という。

実は、この挨拶を僕はほとんど言ったことがない。

だって、おめでたいことなんて別に何も起きていないじゃないか。「日付が変わった」ただそれだけのことだ。

おめでたいことなど何も起きていないのに、「おめでとう」と言い、さもおめでたい事かのように振る舞うのは、明らかにおかしい。

この「おめでたいことなど何も起きてない現実」と「なにかおめでたいことが起きたかのように振る舞う虚飾」の間のギャップ、これがものすごく疲れるのだ。

僕は大みそかも、お正月も、三が日も「いつもと変わらない日常」として過ごしたいのだ。

お雑煮もおせち料理も食べたくなどないのだ。普通にいつもと同じようなカップ麺でいいのだ。どうして、お正月だけ何か特別なものを食べなければいけないのだろうか。

こういう「特別な日」というのを「ハレの日」というのだけれど、どうやら僕はこのハレの日にとことん興味がないらしい。お正月や年末年始に求めるのは、とにかく「いつもと変わらない、穏やかな日常」なのである。

北岳なんて知らない

びっくりするくらい、「流行りもの」に縁がない。

アニメはちょくちょく見るのだが、実は「エヴァンゲリオン」も「ガンダムシリーズ」も「まどか☆マギカ」もほとんど見たことがない。

「ファイナルファンタジー」も「モンスターハンター」も「どうぶつの森」もやったことがない。そもそも、これらをプレイできるゲーム機を持っていない。

「ドクターX」も「半沢直樹」もほとんど見たことがない。

「スターウォーズ」もよく知らない。

ラジオを聞くので音楽だけはいろいろ知っているのだが、流行の歌はそこまで好きではない。

そんな僕でも、「ワンピース」にはがっつりはまっている。もちろん洋服ではなく、マンガの方だ。自他ともに認めるワンピキッズだ。

僕の感覚だと、それまでもずっとワンピは人気があったけど、10年前の「頂上戦争編」あたりから爆発的な人気になった、そんな印象だ。

不思議なことに、ワンピのことは大好きなのだけれど、「ワンピ人気」に関してはちょっと距離を置きたいのである。「そんなにワーキャー言うほどかなぁ」と。

たしかに、ワンピはほかの漫画と比べると、1ランク2ランクおもしろい。

だけど、ほかの漫画が3ランク4ランクも劣っているとも思えない。ワンピはめちゃくちゃ面白いけど、世の中にはほかにも面白いマンガがいっぱいあるのだ。

音楽でも同じことが言える。確かに、「ヒット曲」と呼ばれる曲は、ほかの楽曲に比べて1ランク2ランク優れている。

だからと言って、ほかの楽曲が3ランク4ランクも劣っているとは思えない。オリコン30位くらいの曲だって、とても素晴らしい。

たしかに、「流行りもの」には流行るだけの素晴らしさがある。「他のもの」と比べても頭一つ抜き出ているのは間違いない。

だけど、「流行りもの」と「他のもの」に、決定的な溝があるほど実力が離れているとも思えない。

ところが、注目度においては、「流行りもの」と「他のもの」の間には、決定的な溝があるのだ。

そう考えると、「流行りもの」というのはいつだって、実力以上の過大評価を受けているのではないか。

ひとたび何かが流行りだすと、人の目が「他のもの」には向けられなくなり、「流行りもの」しか目に入らなくなる。結果、「流行りもの」はさらに流行る。これが熱狂の正体なのではないのか。

たとえば、「日本一高い山は富士山である」、これは誰でも知っている。

ところが、「日本で二番目に高い山は、北岳である」、これを知っている人は決して多くはない。

たしかに、富士山は標高が高いだけでなく、見た目も美しい。それに比べて、北岳は武骨だ。それでも、北岳だって3000mを超える山である。日本にこれだけ山がある中で、第2位にランクインする山である。もうちょっと知名度があったって良いではないか。

昔、「2位じゃダメなんですか?」という言葉に対して「2位じゃダメなんだよ!」という声が多く上がったけど、2位のなにがダメなのかというと、「実力以上に、注目度が劣る」という点ではないだろうか。

ひとたび「今、これが人気です」「今、これが流行ってます」「今、これが一番です」と言われると、人の目はもうそれにしか向かなくなり、他のものには目がいかなくなってしまうのだ。

これをきっと「全集中」と呼ぶのだろう。

もちろん僕は「鬼滅の刃」なんて、映画のCMでしか見たことがない。