こんなもの食えるか!ピースボートの寄港地での印象深い食事8選

今回は、ピースボートの寄港地で食べた食事について紹介する。「食」は最も簡単な異文化交流である。「口に合わない」ということですら、異文化交流であり良い思い出である。今回は寄港地で出会った口に合わない料理や食べきれない料理など、食事にまつわるエピソードを紹介する。


ピースボートの寄港地での食事①

フィリピンの民族料理

まず紹介するのは、88回クルーズ最初の寄港地だったフィリピンのショッピングセンターで食べたシシグ

こんな感じで、お皿の上にはっぱをしいて、その上にひき肉料理(だったと思う)が乗っけられた。

これが、強烈ににんにくの味が効いているのだ。濃い!

一方で、あとからやってきた焼きそばが、今度は味が薄い!

一方は味が濃くて、一方は味が薄い。ということは混ぜてみると……。

ベストマッチ! ちょうどいい味になりました。みんなもシシグを食べるときは、味の薄いものと混ぜてみよう!

ピースボートの寄港地での食事②

インドの激辛カレー

「おなかを壊す人もいるので注意すること」

これが、インド上陸前にカレーについて言われた衝撃的な話だった。

辛すぎておなかを壊すって、そんなやつおまへんやろ~。チッチキチ~。

となめきって上陸した僕だったが、さっそくインドカレーの洗礼を受ける。

おやつを食べようと立ち寄ったマクドナルド。

まず、驚いたのがインドのマクドナルドは油で揚げたチキンをパンにはさんでハンバーガーとして提供する。インドでは牛は神獣だから食べてはいけないのだ。ちなみに、結構おいしい。

そして一緒に頼んだシャカシャカポテト。

このシャカシャカポテトに入れたカレー粉がめちゃくちゃ辛い!

ポテトの味付けでこのレベルか! 日本でやったら「嫌がらせか!」っクレームくる辛さだぞ?

何か甘いものはないかと探したら、マクドナルドでチョコアイスを売ってました。くそぉ、商売上手め……。

そんな洗礼を浴びた後、いよいよカレー屋さんへ。

シャカシャカポテトであのレベルなのだから、まともにカレーを食べたらおなかどころか舌が壊れる、そう考えた僕は野菜カレーを注文した。野菜の甘みで辛さを抑える作戦だ。

僕は本来左利きで、スプーンも左手で使うのだけれど、ここはインドの文化にならって右手で食べてみた。う~ん、食べづらい。

そして肝心の味の方は……。

野菜の甘みなど無意味!

「食べ物を粗末にしない」がポリシーだったが、悶絶した挙句半分近くを残した。

「本場のインドカレーは口に合わない」。それを知ることもまた異文化交流である。

ピースボートの寄港地での食事③

アラブのパサパサした食事

ドバイ上陸前に、乗船していた大学教授の講義があった。

ピースボートで大学教授が講義した、と書くと「左翼的な講義か!?」と反応する人もいそうだが、普通の地理と文化の話だる。

アラブは乾燥しているので、米のような水を使って栽培する植物は育たない。なので小麦料理が多いのだそうだ。

実際、ドバイのスーパーで買った小麦のおやつは、とってもパサパサしていた。

また、日本のスーパーでは入ってまず生鮮食品、野菜売り場で新鮮な野菜が手に入るが、アラブで新鮮な野菜や果物を売っている場所はほとんど見かけなかった。代わりによく見るのがドライフルーツの量り売りだった。

ピースボートの寄港地での食事④

トルコで正体不明のメニューを頼んでみた

みんなでトルコのレストランで昼食をとった時のこと。

トルコ語も英語もわからない僕は、思い切って全く分からない料理を注文してみた。

すると店員さんが「スモール(これ、小さいよ)」

和食屋さんの小鉢みたいなのを想像したが、お金がないので「それでお願いします」と注文。

そして出てきたのがこちら。

食べかけにて失礼。

トマトとナスとひき肉の料理だ。これがとてもおいしかった。トルコのナスは日本のナスと比べるとジャガイモのような食感だった。

そして、量もまた適量。

一方、僕以外の人はみんな大盛りの料理がやってきた。

トルコ人の「スモール」は日本人にとっての「普通」だったのである。

ピースボートの寄港地での食事⑤

ギリシャの甘ったるいお菓子

口に合わないのは辛いものだけではない。甘すぎるのもまた口に合わない。

ギリシャでかった洋菓子がまさにそうだった(向こうのお菓子は全部洋菓子か)。

これがとにかく甘ったるい。

真ん中の赤い部分が甘ったるいのはまだわかる。

その周りのカタ焼そばみたいなやつも実は、甘ったるいのだ。

あんまりにも口に合わず、その辺のごみ箱に捨ててしまおうかと考えたが、食べ物を粗末にしないのが僕のポリシーであるため、「口に合わないなぁ」と思いながら完食した。

ピースボートの寄港地での食事⑥

メキシコのポテトとドンタコス

メキシコのコズメルに行ったときの話。町を一通り散策して、おやつを食べることに。小さめのファンキーなレストランに入って、ポテトフライにチーズをかけたものを注文した。

これが結構ボリューミーだった。ガストのポテト程度を想像していたのだが、普通の食事ぐらいの量はある。

「この後、夕飯食べられるかなぁ」と不安になる量だった。終盤はもはや満腹中枢との戦いだったと記憶している。

その夜、スーパーによった僕は、そこでドンタコス、によく似たお菓子を見つけた。

ドンタコスは日本のお菓子だが、メキシコっぽいパッケージだ。

ならば、本場メキシコのドンタコスはいったいどんな味なのか、買って食べてみた。

……本場のドンタコスは、日本のドンタコスより少し酸味がある。

まあ、だいたい本場の味って、キムチもそうだけど、酸っぱいよね。

ピースボートの寄港地での食事⑦

ペルー人大食い伝説

友達と二人でペルーのリマを観光した時のこと。別の友人から「ペルーは中華がおいしい」という情報を仕入れたので、中華料理屋に入った。

そこで僕は、焼そばだったか、皿うどんだったか、とにかくそういった麺料理を注文した。

パーソナルサイズとファミリーサイズがあり、当然ファミリーサイズを注文する。

だが、やってきた料理はどう見ても2.5人前。

顔を見合わせる僕ら。「もしかして、間違えてファミリーサイズ頼んじゃった?」

しかし、店員さんに確認するも、「パーソナルサイズ」とのこと。

明らかに2.5人前なのだが、「パーソナルサイズ」だったらしい。これまた満腹中枢との戦いだった。

その2日後、ビジャ・エルサルバドルという土煙の舞う町で現地の子供たちと交流するツアーに参加した時のこと。

ビジャ・エルサルバドルの街並み

みんなでいっしょに、近所のレストランで昼食をとった。

出てきたのは山盛りのポテトとチキンの丸焼き。あまり裕福な地域ではないのだが、こんなにもがっつりとしたものを食べれるとは。

ペルーの子供はこんながっつりとした料理を食べるのだなぁ。

と思ったら、子供たちはみんなチキンを残してた。そりゃそうだ。

っていうか、子供に合わせたメニュー出せよ! なんで、大人と同じもの持ってくるんだよ!

ピースボートの寄港地での食事⑧

タヒチは何もかも高い

タヒチのレストランから

最後に紹介するのはタヒチのグルメ。

と言っても、味ではなく物価の話。

タヒチはとにかく、何もかもが高い。

日本だったら100円のアイスがタヒチだったら400円。終始この感じだ。

「タヒチはいいところだけど、物価が高いから住めない」と仲の良いスタッフに行ったところ、「でも、現地で商売すればタヒチの物価にあった収入になるんじゃない?」と返ってきた。


どうだっただろうか。口に合わない料理も、食べきれない料理も、みな異文化交流である。ときには「よくわからない料理」を頼んでみるのもまた面白いものだ。

見学も可能!ピースボートのオーシャンドリーム号の船内はこんな感じ

今回はピースボートの船、オーシャンドリーム号の船内について書こう。108日をこの船内で暮らした僕にとってはもはや家であるこの船は、定期的に見学会も行われている。ただ、ピースボートの見学に行ってもなかなかオーシャンドリーム号の全容把握しづらい。だって、デカいもん。この記事を読めば、見学会での理解が深まる……はず。


ピースボートの船は時代によって変わる

ネットを見ているとピースボートの船はひどい、という記事を見ることがある。

これについては、残念ながら、事実だった。

「事実だった」という言い方をするのは、「過去にはひどい船もあった」のは事実だからだ。何でも、船体に穴が開いたらしい。

ピースボートは自分で船を持っているわけではなく(そんなお金はないはず)、船会社から船を借りている。オーシャンドリーム号は2012年からチャーターしている船だ。

僕はオーシャンドリーム号に不満はないし、オーシャンドリーム号になってから船に対する悪評は聞いたことがない。

ちなみに、ピースボートが船を持っているわけではないと書いたが、最近になって「エコシップ」なるオリジナルの船を建造し始めたらしい。オーシャンドリーム号よりも大きく、2020年の就航を目指しているのだとか。就航後はオーシャンドリーム号と並行して海を走るそうだ。

オーシャンドリーム号の概要

「地球一周の船旅」と言われると、豪華客船の旅を想像しがちかもしれない。

そんな想像を抱いてオーシャンドリーム号に乗ると、ずいぶんとがっかりしてしまうらしい。

だから、先に言っておこう。オーシャンドリーム号は豪華客船ではない。海の上の合宿所、よくて海の上のビジネスホテルである。

だから、安いのである。

オーシャンドリーム号はパナマ船籍だ。法律上の問題で、日本船籍にすると手続きがいろいろめんどくさいからパナマ船籍にしている、ということを聞いたことがある。

総重量は35000t。地球一周できる船はある重さ以上ないといけない、と国際法で決まっているらしい。

速度は大体17ノットくらい。時速にすると約30km。何と、車の方が早い。どうりでゆっくり離岸していくと思った。

以前聞いた話では、船が1日かけて進む距離と飛行機が1時間で進む距離は同じらしい。飛行機って速いね。

屋上を含めて11階建て。ただし、乗客が立ち入れるのは4階から上である。

オーシャンドリーム号の船内 4階

4階には「リージェンシー」という大きなレストランがある。ホテルの高級レストランを想像してもらえるとわかるだろうか。

朝は和食が食べられ、昼はチャーハンなどが食べられる。ちなみにどちらも食べ放題。

夜はシェフが腕によりをかけた料理が食べられる。

船内の食事について詳しくはこちらへ!

毎日がタダで食べ放題? ピースボート船内の食事は実はこんな感じ

オーシャンドリーム号の船内 5階

5階はレセプションがある。寄港地でのツアーの追加やキャンセルはここで行う。また、酔い止めをもらったり落とし物が届いていたり(僕はなくしたパソコンが届けられていたことがある)もらったり、とにかくお世話になりっぱなしの場所だ。

オーシャンドリーム号の船内 6階

6階はオーシャンドリーム号のいわば商店街みたいなものだ。売店と美容院がある。

売店ではお菓子から日用雑貨、文房具、星座版といろんなものが揃っている。

美容院は予約制で、確か3000円だったと思う。

僕は美容院が予約でパンパンだったので、ベリーズシティの路上編みこみ屋さんみたいなところで切ってもらった。僕史上最も短い髪型になって、会う人会う人に驚かれた。

オーシャンドリーム号の船内 7階

7階前方にあるのは「ブロードウェイ」というイベントスペースである。ステージがあり、400人規模の客席がある。航路説明会や水先案内人の講演のほか、かくし芸大会、M-1グランプリ、のど自慢、紅白歌合戦、ダンス大会、新喜劇、ミュージカルと大規模なイベントが行われる。

ちなみに、僕はこのステージでかくし芸とカラオケとラップのライブを行ったことがある。照明の具合にもよるが、後ろの客席は意外と見えないので緊張せずに済む。

オーシャンドリーム号の船内 8階

4階から7階までは実はほとんどを客室が占めている。

だが、8階に客室はなく、そのすべてがオープンスペースだ。

まず、前方から。「スターライト」と呼ばれるイベントスペースがある。規模は200人ほど。バンドのライブをはじめ、割と軽めだけど、集客が見込める企画が行われる。

僕はこのステージでもラップをしたことがある。スターライトのステージは丸く、周囲270度ほどを客席に囲まれていて、客席との距離も近く、顔もよく見える。

8階中央を締めているおはフリースペースだ。ソファが置かれていたり、畳が敷かれていたりして、みんな、特に若者がまったりしている。ここでも企画が行われ、よくモノポリーを畳の上でやって遊んだ。

フリースペースの両脇は「プロムナード」と呼ばれる廊下だ。大きな窓があり、外の様子がよく見える。何か作業をするときは、海を見ながらというのが優雅なスタイルだ。

このプロムナードにはパソコンが置かれていて、インターネットができる。ただし、有料で時間制限があり、そのうえ、海の上はつながりにくい。

ネット環境について詳しくはこちらへ。

ピースボート乗船で初めて知った、海の上のアナログすぎる生活体験

8階の後ろの方はピアノの演奏を聞きながらお酒が楽しめる「ピアノ・バー」、お酒とカラオケが楽しめる「クラブ・バイーア」がある。それについてより詳しくはこちらへ。

毎日がタダで食べ放題? ピースボート船内の食事は実はこんな感じ

さて、8階の一番後方は屋外、オープンデッキだ。バーベキュー大会やアコースティックライブといったイベントが行われる。

プールやジャクジーもある。僕はよく、出港式でジャクジーで足湯をしていた。

ちなみに、ここで初めて知ったのだが、正しくは「ジャグジー」ではなく、「ジャクジー」である。

オーシャンドリーム号の船内 9階

9階中央はオープンデッキだ。「リド」と呼ばれるレストランがあり、朝は洋食が食べられ、昼は麺類、夜は丼物が食べ放題だ。

また、このスペースでは夏祭りや大動会も行われる。

リドの後ろには「パノラマ」というレストランがある。パノラマは屋内と屋外、二つの席がある。朝も昼も洋食系だ。

夜は「なみへい」という居酒屋になり、いつも賑わっている。合言葉は「船に終電はない」。

レストランについて詳しくはこちらへ。

毎日がタダで食べ放題? ピースボート船内の食事は実はこんな感じ

オーシャンドリーム号の船内 10階

10階はそのほとんどがオープンスペースだ。防球ネットがあって、ちょっと狭いけどサッカーやバスケができる。

また、スポーツジムもある。こちらもちょっと狭いけど。また、サウナもある。

10階にも客室があるが、10階の客してゃほかの会よりも豪華だ、と言われている。

オーシャンドリーム号の船内 11階

11階に屋根はない。要は屋上である。

あるのはジャクジーだけ。

ちなみに、夜は立ち入り禁止だ。勝手に入ると警備の人に怒られる。

怒られた本人が言っているのだから、間違いない。

オーシャンドリーム号の見学会

オーシャンドリーム号は年内に3回ほど見学会を行っている。地球一周の旅から帰り、次の旅までの間。年によってばらつきはあるが、だいたい春と夏と冬だ。横浜だけで行われる時もあれば、全国を回る時もある。

興味を持った方は是非見学会に行ってみるといい。実際に船を見ながら「ここで暮らすのか」と考えるとテンションが上がる。

ちなみに、あなたが見学会に行くことで、僕へのキャッシュバックは

……まったくない。

毎日がタダで食べ放題? ピースボート船内の食事は実はこんな感じ

人間にとって一番大切なのは食事である。旅において大切なのも食事である。旅先でどれだけ素敵な景色に巡り合おうと、船内でどれだけ素敵な仲間に恵まれようと、ご飯がおいしくなければ台無しだ。今回はピースボートの船内の食事について書こう。ピースボートの船内は、毎日が実は……。


ピースボート船内の食事ってまずい?

ネットではたまに「ピースボートの食事はまずい」と書かれた文章を見る。

何も知らないアンチが書きこんでいるのかと思いいや、昔のピースボートの食事は本当にまずかったらしい。スタッフが「確かにまずかった」と言っていたのだから。

「昔の」と書いたのは、2017年現在ピースボートが使かってるオーシャンドリーム号よりも前の船の話だからだ。

僕はオーシャンドリーム号の食事しか知らない。

そしてオーシャンドリーム号の食事は……、美味い。安心してくれ。

ピースボート船内のレストラン

まず、ピースボートの船内には三つのレストランがある。そう、三つもあるのだ。これを理解していないとこの後の話はさっぱり分からない。

まずは4階にある「リージェンシー」。4回は乗客が立ち入れる一番下のスペースで、4階で乗客が立ち入れるのはこのリージェンシーだけだ。イメージはホテルの大きな食堂や結婚式場に近いかもしれない。三つのレストランのうちで一番豪華だ。

席はスタッフが案内してくれる。逆に言うと、こちらでは選べないのだが、知らない人と話せる機会だったりもする。

残る二つは9階にある。9階の中央にあるのが「リド」。真ん中は屋根がなく、プールがあってプールの周りをいすとテーブルが囲んでいる。

もう一つが9回後方の「パノラマ」。こちらは屋内だが、外にもいくつか席がある。

9階の二つは席が自由に選べる。

これらのレストランでの食事代は、すでに船代に含まれている。船内にいる限り、食費の心配をすることは全くない。

ピースボート船内の朝ごはん

まずは朝である。

4階のリージェンシーでは和食が食べられる。ご飯に味噌汁、しゃけの切り身や玉子焼きなど「ホテルで出てくる和食の朝ごはん」を想像してもらえるといい。

一方、9回の二つのレストランでは洋食を出している。トーストにスクランブルエッグなど。こっちは「ホテルで出てくる洋食の朝ごはん」を想像すればいい。

ちなみに、どちらも食べ放題である。朝から腹いっぱい食べようとする人は少ないと思うが。

朝ごはんのこぼれ話

エジプト、スエズ運河での朝。左側にアフリカ大陸の安定陸塊、右側にアラビア半島の砂漠が見えるという、この上なく贅沢な状態で朝ごはんである。

僕は仲の良いグローバルスクールのメンバーと一緒にリド(9階の屋外)で食事をとっていた。

ただ、スエズ運河の上というのはいつもこうなのか、ハエが大量発生していた。

うっかりハエを口にしないように気を付けながらの食事が強いられていた。エジプトの人たちは大変だなぁ、と思った朝だった。

ピースボート船内の昼ごはん

さて、お昼ご飯である。

4階のリージェンシーではよく、チャーハンが出ていたのが印象に残っている。普通のチャーハンだったり、キムチチャーハンだったり。

また、寄港地に停泊中でもリージェンシーは営業している。もちろん、ただなのでお金の節約にはもってこいだ。

こういうときはおにぎりや唐揚げといったメニューが多い。リージェンシーでの昼食を待ってから寄港地を散策したこともある。

9階中央のリドは麺料理が出てくる。うどん、そば、ラーメン、タイのフォーなどなど。若者に人気だ。

9回後方のパノラマではカレーだったり白身のフライをパンにはさんだり、フライドポテトだったりと洋食系だ。

ちなみに、どれも食べ放題である。そして、どこか一つのレストランしか行けないというルールは存在しないので、余裕があるものはリドとパノラマをはしごする、なんてこともよくある。

昼ごはんのこぼれ話

リドのラーメンは人気メニューだ。日本で食べるラーメンに比べればそれほどでもないのだが、とにかく船内でラーメンが食べられる機会はそうそうないので、大人気だ。割と早い段階でなくなってしまう。

ある日、8回のフリースペースでぼんやりしていると、「地球大学」という有料プログラムの受講生二人が声をかけてきた。「地球大学」とは船で地球を一周しながら、貧困や戦争など、世界のいろいろな問題について学ぶという有料プログラムだ。彼らはまいにち2時間ほど講義を受けている。

さて、僕に声をかけた二人は「我々は今、ある社会問題についての問題提起をするために、みんなの署名を集めている」と切り出した。いったい、どんな問題を扱っているのだろうか。貧困? それとも平和? 差別問題?

彼らが取り組んでいる問題、それは「地球大学生はリドのラーメンが食べられない、これは不公平だ!」という問題だった。

地球大学生はまいにち13時まで講義を受けている。ところが、講義が終わってリドに行ってみると、もうラーメンがなくなっているのだ。

同じ食事代を払っているのに、地球大学生だけラーメンが食べられない。これは不公平だ!

だから、ラーメンの日はなるべくおかわりをせず、地球大学生の分を残しておいてほしい!

というわけで、賛同してくれる人の署名を集めている、との話だった。

僕は署名した。「確かに、おいしいラーメンが食べられないのは不公平だ」と素直に思ったのと、「お前ら、よくそんなくだらねぇ話題で署名を集めよう、という気になったな。それこそ平和とか差別とか、もうちょいましな話題あっただろ?」という彼らの心意気に感動?したからである。面白ければそれでいいのだ。

あれ以来、僕はリドでラーメンのおかわりはしていない。

ピースボートのティータイム

午後三時になるとパノラマでティータイムがある。一口サイズの洋菓子と一緒にお茶を楽しめ、いつも大人気だ。

何か打ち合わせがあるときなどは「じゃあ、ティータイムでもしながら」と呼び出すのにとても便利だ。

ちなみに、無料のうえ食べ放題である。

もっとも、僕はあまり好きじゃなく、わざわざ売店でスコーンを買って(有料)食べていた。スコーンといっても洋菓子ではない、バーベキュー味とかチーズ味とかある、スナック菓子の方だ。

ピースボート船内の晩ごはん

夕食の目玉は何と言ってもリージェンシーである。豪華客船の旅っぽい、シェフが腕によりをかけた豪華な食事を楽しめる。これは残念ながら、食べ放題ではない。

また、誕生日の人は部屋にバースデーカードが届けられて、それを持っていけばバースデーケーキが出てくる。これは本人だけでなく、一緒に来たお友達も食べられる。僕も船内で誕生日は迎えなかったが、仲間のおこぼれで何回か食べた。

ただ、人によってはそういった上品な味が口に合わず、もっと庶民的などんぶり飯が食べたい、という人もいるだろう。

そんな奴いるのかと思うだろうが、そんな奴の本人がいまこの記事を書いている。

そういう人は9階のリドに行けばどんぶり飯が食べられる。スタミナ丼や牛丼のようなボリュームたっぷりのどんぶり飯だ。

こちらは食べ放題である。

ちなみに、この時間、「なみへい」という居酒屋として営業している。お酒はもちろんいわゆる居酒屋料理が食べられ、フライドポテトやたこ焼き、ラーメン、たまに新鮮なお刺身などが食べられるが、これはすべて有料なので注意すること。

酒を飲むか飲まないかで船内の生活費はだいぶ変わってくる。

晩ごはんこぼれ話

1日目の晩ごはんは何かどんぶり飯だった気がするのだが、船酔いがひどく、満足に食べられなかった。船内では腹が減っていなくても、ご飯は食えると気に食うべし。

晩ごはんこぼれ話

さて、さっきも書いたようにリドの夕食はどんぶり飯が基本だ。また、リージェンシーでは和食が食べられる。

そのため、地球一周の108日の中で、和食やごはんが恋しくなったことはない。よく、海外旅行だと和食やごはんが恋しくなると言うが、ピースボートの船内なら毎日食べられるのだ。

恋しくなったのは、チェーン店系の料理だ。

パナマのクナ族という部族のコミュニティを訪れたツアーの帰りのバス。横浜を出港して2か月がたていた僕と友人の女子二人は、「日本に帰ったら何が食べたい」で盛り上がっていた。

僕が挙げたのは地元・大宮のラーメンとうどん(うどんは「楽釜製麺」というチェーン店のものだ)。この「日本に帰ったら何が食べたい」という話題はとても盛り上がったと記憶している。

その日の夜、夢に大宮駅が出てきた。どうやら、よほど食べたかったらしい。

これが、地球一周の108日の中で僕が唯一、「日本に帰りたい」と思ったエピソードである。

船内のその他の食事処

実は、この三つのレストラン以外にも食事をができる場所がある。全部8階だ。あと、全部有料なので注意すること。

まずは、8階中央の「カサブランカ」。昼間はカフェとして、夜はバーとして営業している。カップめんもここで食べられる。

その後ろにあるのが「ピアノ・バー」。その名の通り、ピアニストの演奏を楽しみながらお酒が飲める。

8回後方にあるのがクラブ「バイーア」。ここでもお酒とカップめんが楽しめる。

バイーアの最大の特徴は「カラオケ機器がある」ということであろう。

ちなみに、カラオケ機器は一台だけ。自分の番が来るとクラブの中央に置かれたカラオケ機の前に立って、他のお客さんに囲まれながら歌うこととなる。

それでも、船内で唯一カラオケができる場所である。このカラオケとカップめん目当てで、僕は割とバイーアに入り浸っていた。

たぶん、船内の乗客は「なみへい」派と「バイーア」派にある程度わけられると思う。

カラオケはいつも多くの人が予約するので、1日2~3曲も歌えればいい方なのだが、何かのイベントの裏とかで一回、仲間内4人ぐらいで占拠したことがある(占拠と言っても、たまたま他のお客が来なかっただけなのだが)。運が良ければそういうこともできる。

また、船内で行われたオークションで友人が「カラオケ独占権」を落札して、仲間内で本当に占拠してしまったこともあった。

さて、8階の最後方、オープンデッキではたまにバーベキュー大会が行われる。これに参加するのは有料なのだが、結構いい思い出になるぞ。

夜食こぼれ話

以前、ピースボート地球一周の船内に持っていくべき、日本で簡単に手に入るアレとは?という記事にも書いたのだが、船内でカップめんは非常に人気だ。

寄港地でもカップめんは売っているが、現地の人向けの味なので、日本人の口には合わない。特にバルセロナで見た日清のカップヌードルは、パスタ風の味付けがされているような感じだった。

ただ、このカップめんはクルーズ終盤には売り切れてしまう。自分でいくつか持ち込んでおくことをお勧めする。

ピースボート地球一周の船内に持っていくべき、日本で簡単に手に入るアレとは?

ピースボート地球一周の船旅は、約3か月かかる。3か月も船にいると、もはや宿泊というよりは引越しである。今回は、ピースボート地球一周の船旅に持って行った方がいいものを、筆者の経験と後悔と一緒に綴っていこうと思う。


ピースボートの船の中には売店がある

まず、何でもかんでも買い込んでいく必要はない。船の中には売店があるので、日用品は意外とそこで手に入る。文房具のような日用品だけではなく、スナック菓子やおせんべい、アイスクリームも売っている。コンビニで手に入るようなものは、だいたいこの売店で手に入るとおもう(最新の少年ジャンプは手に入らないぞ)。

僕は船に乗る前に星座早見盤を買って船に持ち込んだが(わざわざ東京の専門店にまで行った)、売店で売っていた。

しかも、星はそんなによく見えない(笑)。

地球一周にはこれを持って行け① 方位磁針

マルセイユで迷子になったことがある。いつのまにか海岸線からかなり離れてしまい、現在地もわからず途方に暮れた。

わかっていたことはただ一つ「西に行けば海に出る」。

そして、僕はどっちが西かわかっていた。方位磁針を持っていたからだ。僕は方位磁針だけを頼りに、海岸線にたどり着いた。

「方角がわかる」というのはとても大切だ。

寄港地でタクシーに乗るとき、僕は必ず方位磁針を手にしていた。

運転手さんには悪いが、万が一用である。ちゃんとタクシーが目的地に向かっているのか、言葉がわからないことをいいことに変なとこに連れてかれてないか、確認するためだ。

特に、女の子を連れている時は、用心深く方位磁針を見ていた。

最近は、スマートフォンで方角がわかるアプリがあるらしい。

地球一周にはこれを持って行け② パソコン

特に何に使う予定もなかったが、ノートパソコンを船に持っていった。

だが、船内では結構パソコンが重宝される。

例えば僕は新聞局に入って船内新聞を作っていたが、原稿を書くのにパソコンは必需品だった。

他にも、映像を編集したり、スライドショーを作ったり、何かとパソコンを使う。映像編集ソフトなどが使えると、船内でいろんな仕事を任せれたりする。

なにより、デジカメに撮ったデータをデジカメから移せる。これは大きい。

また、パソコンを持ち込む際には、必ずUSBメモリも一緒に持っていくこと。これでデータのやり取りができる。

地球一周にはこれを持って行け③ おもしろTシャツ

友達ができると、船内生活はとても楽しくなる。

しかし、人見知りで人に話しかけられない。そんな人もいるはずだ。

そんな人にぜひ持って行ってほしいのが「おもしろTシャツ」

つまりは、おもしろいTシャツだ。

僕の場合、「HOME MADE 家族のライブTシャツ」と「新日本プロレスと仮面ライダーウィザードのコラボTシャツ」がとても役に立った、こちらから話しかけなくても、このシャツに興味を持った人が話しかけてくれて、そこから友達の輪が広がったからだ。

趣味丸出しのシャツとかを持っていたら、持っていくと友達の輪が広がるかもしれない。

地球一周にはこれを持って行け④ カップラーメン

地球一周の船旅に絶対持っていくべきもの、それがカップラーメンである。

海外のカップラーメンは、日本人の口には合わない。現地の人向けの味付けになっている。

寄港地で全く口に合わないカップラーメンをすすってみるたびに、日本のカップラーメンが恋しくなっていく。

フィリピンのスーパーで日本のカップラーメンを買ったが、「輸入品」ということで日本のカップラーメンより2.5倍ぐらい高かった。

ちなみに、船内でカップラーメンは買える。いくつか種類もあり、粉末スープを入れてお湯まで注いで出してくれる。ただでさえ作るのが楽なカップラーメンで、ここまで楽をしていいのか。

夜中に目の前でカップラーメンを食べられると、その匂いと音につられて自分もカップラーメンを注文してしまう。夜食テロである。ピースボートの船内でもテロに遭遇するのだ。

しかし、このカップラーメンにも限りがある。クルーズ終盤になると、売り切れになってしまう。

そこでものをいうのが、「日本から持ってきたカップラーメン」である。クルーズ終盤になるとカップラーメンの早い者勝ちという状況になってしまうが、自分の持ち込んだカップラーメンは誰にも取られず、ゆっくり食べることができる。

もし、もう一度ピースボートに乗れるなら、スーツケースの中にカップラーメンを詰めて乗り込みたい。

番外編 地球一周の船内にとんでもないものを持ち込んだ奴がいた

ある日、自分の船室のドアを開けると、そこには衝撃の光景が広がっていた。

何と、部屋の一番奥のスペースに、ONE PIECE全巻(当時は78巻まで)がずらりと並んでいたのだ。

その場で僕は叫んだ。

「誰だ、ONE PIECE全巻持ってきたやつはー!」

どうやら、部屋メン(同室のメンバー)の一人がONE PIECE好きで、全巻部屋に持ってきたらしいのだ。

出港直前に自分のONE PIECEコレクション(当時は78巻まで)に別れを告げた僕だったが、一週間ほどで他人のものとはいえ、ONE PIECEに再会した。

この部屋メンは寛大なことに、僕を含むほかのメンバーも自由にこの本を読んでもいいということにしてくれたので、僕は108日の船内生活において、ONE PIECEだけは全く不自由がしなかった。いつでも部屋に戻ればONE PIECEが読める。ベネツィアに寄港した日にウォーターセブン辺を読むなんて贅沢なこともできた。彼には感謝しかない。

旅ボッチと旅パリピ

「旅人」というとどんなイメージだろうか。高橋歩みたいな、誰に対してもフランクで、世界中のどんな人とも友達になれちゃう人? だが、旅人が全員そんな気さくなわけではない。人見知りだって旅をしていいはずだ。もっと孤独な旅があったっていいじゃないか。


旅ボッチと旅パリピ

先日、「旅祭2017」に参加してきた。

そこで感じたのが、「あれ、僕、この祭り、馴染めない」。

地球一周を経験し、「旅」というジャンルの中では否応なしに自分がもう初心者ではないのだと痛感することが多いのだが、それでも「旅」というジャンルを全面に出した祭になぜかなじめない。

なぜだろう。なんだかやたらフランクな参加者(客としてきた人も、作り手として参加した人も両方含む)を見て、僕はあることに気付いた。

世の中の旅人には、「旅ボッチ」「旅パリピ」がいる、ということに。

要は、「人づきあいが得意か苦手か」であり、僕はそれを「学校の教室の中心と周辺」と呼ぶこともある。

旅祭の参加者の大半は、みんなでワイワイするの大好き、人としゃべるの大好き、国際交流大好きという「旅パリピ」なんじゃないかと思った。これは、そのまま日本の旅人全体の比率に当てはまるかもしれない。

旅祭のステージに上がっていた「旅の達人」の中にも旅パリピはいた。

僕がアニキと尊敬する四角大輔さんなんかはもともと人と話すのが苦手だったというだけあって、大輔さんと伊勢谷友介さんの対談なんかは非常に落ち着いた、身のある者だった。また、グレート・ジャーニーを成し遂げた関野吉晴さんのトークもとても落ち着いていて、おもしろかった。

特に、大輔さんに関しては、ピースボート88回クルーズでとてもお世話になったのでよく知っている。決して旅ボッチではないが、旅パリピでもない。「孤独であること」の大切さをとても理解されている人だ。

だが、その一方で、いわゆる居酒屋トークに終始したトークをステージ上でしていた人たちも無きにしも非ずだった。

大輔さんよりも一回り二回り若い世代だろうか。内輪ネタをステージ上で繰り広げ、芸人の真似事みたいなしゃべり方をする。どうも僕にはピンとこなかった。彼らが旅パリピで、僕が旅ボッチだから、ということなのだろうか。

「旅先で友達が増える!」そんなのは嘘だ!

よく、ピースボートなんかもそうなのだが、旅人の話を聞くと、「世界を旅すると、世界じゅうに友達がいっぱいできます」と語る人を見る。ぼくの身近にもいた気がする。

はっきり言わしてもらうと、

そんなのは嘘だ!

それは、「旅パリピ」に限った話である。

日本で友達が作れない奴が、旅先で、言葉も文化も宗教も違う奴と友達になれるわけがない。

私がその証明だ(笑)。

「旅に出れば世界中に友達が増える」という甘言で旅ボッチを惑わすのは、金輪際やめていただきたい。

旅ボッチと旅パリピ、教室の中心と周辺

とはいえ、そもそも全員を旅ボッチ・旅パリピと分類できるわけではなく、グレーゾーンもたくさんいる。僕の実感では、「旅ボッチ」の域に達しているのは全体の15%ほどだろうか。「旅パリピ」が35%ぐらいだと思っているので、数にして3倍の開きがある。

半分くらいはグレーゾーンに分類される。そういう意味では旅パリピも少数派である。何も、そこまで目の仇にしなくてもいいじゃないか。

しかし、旅パリピというのは、テンションが高く、声がデカい。

その結果、常に注目を集め、いかにも旅パリピが多数派であるかのような錯覚を周囲に引き起こす。

だからさっき「教室の中心と周辺」という言葉を使った。僕はスクールカーストといった階級制よりも、中心と周辺という表現の方が実態に合っていると思う。

学校の教室にはいわゆる「イケてる人たち」と「イケてない人たち」がいる。「イケてる人たち」は常に教室の中心にいる。それは、物理的に中心にいるわけではなく、会話の中心、情報の中心、注目の中心という意味だ。そして、「イケてない人たち」いわゆる会話の輪のようなものの外側にはじかれてしまう。

例えば、同窓会とかでこんな経験をしたことはないだろうか。

A君「あの時、BとCが付き合ってたよね」

Dさん「そうそう、あったあった」

僕「なにそれ! 今、初めて聞いた……」

このように、教室の周辺部にいる人間にはあまりクラスの情報が入ってこない。情報も会話も、このA,B,C,Dのような「クラスの中心の人たち」で回されて、注目も「クラスの中心の人たち」に集まる。周辺の人たちに会話や情報が回ってくることもなければ、周辺の人たちが話題に上ることもない。

そして、この構造が、教室を飛び出して「旅」というフィールドでも同じことが起こっているのだ。

旅人同士の情報は声の大きい旅パリピ内で回ってしまい、注目も旅パリピが独占する。

結果、旅パリピの「旅とはこういうものだ!」「旅人とはこういう人たちだ!」という、一方的な視点だけが流布することになる。

その結果、旅パリピの価値観に基づいて、旅の本が作られたり、旅のイベントが作られたりする。

そうやって、気づけば「旅」に関する情報や空間がどんどん旅パリピ色に染められている。

その結果、旅ボッチは大好きな「旅」の世界の中でも、中心には行けず周辺にはじかれてしまう。

よく「旅はどこに行くかではない、誰と行くかだ」なんて言葉を聞く。これこそ、旅パリピの極みではないだろうか。

確かに、誰かと行く旅は楽しい。

だが、それが旅のすべてではない。

時には、一人の方が気楽で楽しい。そんな旅だってある。

誰かと一緒にいたって、目を奪われるような絶景を目にした時、隣に誰かがいるなんてことを忘れてしまう瞬間だってあるだろう。

だいたい、隣にいる人間が、必ずしも同じ景色を見て、同じことを感じているとは限らないのだ。

もっと、旅ボッチを、孤独な旅を、認めたっていいじゃないか。

旅祭2017 ~最果ての地、幕張~

幕張で行われた「旅祭2017」に参加してきた。旅祭には去年に続いて2年連続での参加となり、自分は去年からどう変わったのか、何も変わっていないのか、そして「旅」とはなんなのかを考えるいい機会となった。それでは、幕張で行われた旅祭2017を振り返ってみよう。


幕張到着

旅祭2017の会場は幕張海浜公園。今回、僕は初めて幕張を訪れた。

海浜幕張駅前は埋め立て地で、近未来的な街並みは、この日始まったばかりの「仮面ライダービルド」や、「宇宙戦隊キュウレンジャー」のロケ地にぴったりだ。

 

また、イオングループのおひざ元でもある。

 

さすが千葉だ。タワー・オブ・テラーまである(違います)。

 

会場はロッテの球場のすぐ隣だった。

 

だが、ここで不思議な事件が起きた。

みんな、スマホを片手に道に迷っているのだ。

なぜ、スマホを持ているのに、道に迷う?

僕なんか、これしか持ってないのに。

僕も若干迷ったが、方位磁石と、昨日見た記憶の中の地図を駆使して、大きな進路変更をすることなく、無事会場にたどり着いた。

「スマートフォンの機能を高めるより、本人の頭脳と勘を磨くべきだ」という僕の理論がまた一つ実証された。

旅祭2017 トークライブ 高橋歩×四角大輔

去年もオープニングアクトはこの二人だった。旅祭の発起人で、自由人であり作家の高橋歩さんと、ニュージーランドの湖畔で生活していて、僕がアニキと敬愛してやまない四角大輔さん。プライベートで親交の深い二人の旅人のトークからのスタートだ。

会場入りした僕は、マップを見ることなく、勘だけでトークライブのステージに直行した。

イルカの話とかハワイの話とかいろんな話が出る中、一番印象に残ったのが、「誰にでも、『理由は説明できないけど、とにかくこれがしたかった』という経験があるはず」、という話で、僕はその話を聞きながら大きくうなづいていた。

心当たりがあるからである。

ピースボート地球一周の船旅の魅力

船に乗ってから2年がたったが、いまだに船に乗った理由をうまく説明できない。たぶん、聴かれるたびに答えが変わっていると思う。

 

さて、トークライブが終わり、しばらく会場をうろちょろした後、いったん僕は会場を出て海浜幕張駅前に戻った。

仕事である、焼肉屋の取材をこなすためである。

旅祭2017 トークライブ 関野吉晴×高橋歩

取材を終えて会場に戻った僕は、高橋歩さんと関野吉晴さんのトークライブを見ることに。

関野吉晴さんは10年をかけて、南米から北米、アジアからヨーロッパ、そしてアフリカへと、人類の起源を逆にたどる「グレート・ジャーニー」を成し遂げた人物だ。

偉大なる探検家もまた、「目的や理由などなく、楽しいから旅をするのだ」と語った。グレート・ジャーニーは10年かかったが、本来ならおそらく5年ぐらいで旅を終えられたはずで、10年もかかったのは寄り道が大好きだったからだと語り、「寄り道をつないでたら一本の道になった」と言っていた。人類史上最大規模の寄り道である。

旅祭2017 MOROHA

続いてはMOROHAのライブ。1MC+1ACOSTIC GUITERという、本人たち曰く「少々毛色の違う」組み合わせだ。

今回、僕が一番楽しみにしていたのがMOROHAのライブである。旅祭2017の開催が発表され、今年は参加しようかどうしようかと出演者ラインナップを見ていた時、MOROHAの名前を発見して即効で参加を決めた。

MOROHAの持ち味は、儚いギターのアルペジオや激しいカッティングなど、既存のヒップホップのトラックとは全然違うサウンドに乗せてキックされる、まるで刃のように心に突き刺さるリリックである。

歌詞のほとんどはMC AFROの実体験に基づいており、曲の構成もまるで一つの物語のようだ。

MC AFROのあごひげから汗が滴るたびに、彼もまた身を削り、彼の人生をラップに変えて紡ぎ出していった。

と言葉で語っても伝わらないので(一応、音楽記事を書くライターです、ボク)、ぜひとも一度曲を聴いてほしい。彼らのライブを生で見れて本当に良かった。

MOROHAの歌の中で一番好きなのがこの”tommorow”である。曲中に「旅祭はいろんなトークライブがあって面白い」とふりを入れた後に、「『人生は旅だ』 そんなのはうそだ! 俺はどこにも行けないじゃないか」と歌いはじめる。

この歌の中にある「本当は一本道の迷路をさんざん迷って人は歩くよ」というフレーズは、関野さんの言葉に通じるものがある。

旅祭2017 Aqua Timez

Aqua Timezを見るのは、10年ぶり二度目である。とはいえ、10年前はライブではなくラジオの公開生放送であった。高校の帰りにいつも見に行くラジオの公開生放送。何も知らずに行ったら、たまたまその日のゲストがAqua Timezだった。

あれから10年。またAqua timezにあえたことをうれしく思う。MOROHAの歌詞で「勝ち負けじゃないと思えるところまで俺は勝ちにこだわるよ 勝てなきゃみんなやめてくじゃないか みんな消えてくじゃないか」というのがあったが、Aqua Timezは10年、やめることなく続けてきたのだ。

大ヒット曲「虹」で始まり、「決意の朝」や「等身大のラブソング」といったヒット曲を披露した。

旅祭から離れてふと思う「旅ってなんだろう?」

とまあ、さもここまで旅祭を楽しんだかのように書いたが、僕には一つの違和感が付きまとっていた。

どうも、この場になじめない。

CREEPY NUTSの『どっち』という曲がある。「ドン・キホーテにも、ヴィレッジ・バンガードにも、俺たちの居場所はなかった」という出だしで始まる曲で、ドンキをヤンキーのたまり場、ヴィレバンをオシャレな人たちのたまり場とし、サビで「やっぱね やっぱね 俺はどこにもなじめないんだってね」と連呼する。

旅祭の雰囲気はまさにこの歌に出てくる「ヴィレバン」だった。やたらとエスニックで、やたらとカラフルで、やたらとダンサブル。

突然アフリカの太鼓をたたく集団が現れたり、おしゃれな小物を売るテントがあったり、やたらとノリのいい店員さんがいたり、なぜか青空カラオケがあったり。

なんだか、「リア充の確かめ合い」を見せられている気分だ。「私たち、やっぱり旅好きのリア充だったんだね~♡ よかったね~♡」という確かめ合い。

会場で何回かピースボートで一緒だった友人たちに会い、その都度話し込んだが、彼らがいなかったら、とっくに帰っていたような気がする。

トークライブも、上にあげた通り刺激的なものもある一方、内輪ウケだけで乗り切ろうとする居酒屋トークみたいなのもあり、そんなもやもやを抱えながら夕方の会場内をフラフラと歩いていると、海岸に出れる道があることに気付いた。

海までほんの100m。海岸といってもおしゃれなビーチではなく、埋め立てによってつくられた人口の海岸である。浅瀬に沈んだテトラポッドに波が太鼓のばちのように打ち寄せる。この穴場海岸を発見した何人かはそこで思い思いの時間を過ごしていた。

久々に海を、波を体感して、船に乗っていた時のことを思いだす。夜、ベッドに寝転ぶと、波のうねりを全身で体感できる。まるで、地球の鼓動を感じているかのようだった。

そんな地球の鼓動に久々に触れ、空を見上げると太陽が輝き、海面は煌く。ペットボトルを開けると波の音に共鳴したのか、ボトルの中から「ブオーン」という何とも不思議な音が出てきた。

ここだったら、何時間でもいれる。

ああ、これこそが旅なんじゃないだろうか。

みんなでワイワイ盛り上がりたかったのではない。観光名所が見たかったわけでもない。行った国の数を誇らしげに語りたかったわけでも、ましてや土産話を誰かに自慢気に聞かすためでもない。

こんな感動を求めて、僕らは旅に出るんじゃないだろうか。

どんな感動かというと、「思いがけない感動」というやつだ。

「全米が泣いた」と書かれた映画を見に行くとか、泣ける歌を聞くとか、泣ける小説を読むとか、そんなのは僕は感動のうちにカウントしていない。

僕がここで「感動」とみなしているのは、大して期待しないで入った食堂のごはんがすごいおいしかったとか、たまたまラジオから流れてきた曲がめちゃくちゃかっこよかったとか、そういうのだ。

もちろん、別に泣きはしない。「泣く」=「感動」ではない。

では、旅人が求める感動ってなんだろうって思うと、見知らぬ街の坂を上った風景がきれいだったとか、初めての土地で何気なく見上げた夕焼けがきれいだったとか、旅先でやさしい人に出会ったとか、そういうのだと思う。

その一瞬に心を奪われたくて、僕らは地の果てを目指す。

この「地の果て」ってのは、別にわざわざパスポートを用意して、飛行機を乗り継いでいくような場所じゃなくっていい。こういった感動が味わえるなら、家から日帰りで行ける千葉の幕張だって地の果てなのだ。

旅祭2017 トークライブ 伊勢谷友介×四角大輔

そういう意味では、四角大輔さんと伊勢谷友介さんのトークライブも、思いがけない感動だった。

もちろん、伊勢谷友介という俳優は知っている。彼が社会活動をやっていることもなんとくなく知ってはいたが、詳しくは知らなかった。

伊勢谷さんは「リバースプロジェクト」という株式会社を経営している。NPOではなく株式会社。社会に貢献し、なおかつそれで利益を上げて収入を得る。そうしないと、誰もまねしようとは思わないからだそうだ。

例えば、車の捨てられるエアバックを使って、かっこいい「エアバッグバッグ」を作ったり、捨てられる野菜をつかって社食の料理を作り、収益の一部を途上国に回したり、そんな事業をしている。

伊勢谷さんの話で一番心に残っているのは、「誰しも生まれ持った使命があり、それに気づくか気づかないか」というものだった。

これも、身に覚えがある。

僕はピースボートに乗る前はボランティアセンターおおみやというピースボートの支部でせっせと乗船に向けて活動していたのだが、このボラセンが、なんと僕が乗船中に閉鎖してしまった。

『ボラセンがなくなる』と聞いた日のことは鮮明に覚えている。土曜日で、岩槻にポスターを貼りに行く日の朝だった。

最初、「ボラセンがなくなる」と言われたときは、頭では情報として理解していても、感情が追い付いてこなかった。感情が追い付いてきたのはその日の昼。お昼んカレーを食べていたら、急に泣きたくなった。

その日一日考えて出した答え「大宮ボラセンのような場所を絶対になくしてはいけない」は、2年たった今でも変わることなく、僕が小説を書く原動力となっている。

大宮ボラセンのような場所を仮想現実で再現したくて、僕は筆を執るのだ。これは、僕の「やらなければならないこと」なのだ。

クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

旅祭とピースボート

旅祭にはピースボートもブースを出している。写真はマスコットキャラのシップリンだ。

この日は気温もそこまで上がらず、シップリンにとっては割と過ごしやすい一日だったのではないだろうか。去年は、とにかく暑かった。

ブースに近づくと見知った顔がいたから声をかけて見たりして、なじめない旅祭の中で結構助けられたブースでもある。

 

旅祭2017 ナオト・インティライミ

世界中を旅したことで知られるミュージシャンのナオト・インティライミ。旅祭に最もふさわしいミュージシャンの一人かもしれない。

そんなナオト・インティライミのライブだが歌はそんなに歌わず、むしろ旅の話ばっかりしていた。旅祭ならではである。

自身のヒット曲をメドレーにしたり、やけに短くアレンジしたりと、歌以外でも楽しませてくれる、まさにエンターティメントショーだった。

来年も旅祭に行きたいか

旅祭2017を振り返って、「来年も旅祭に行きたいか」と問われれば、答えはイエスである。

僕みたいな「旅ボッチ」は旅祭に群がる「旅パリピ」が苦手なだけであって、旅祭そのものは刺激に溢れた祭だ。

この「刺激」とは、単に「楽しい」とか「面白い」とかそういった刺激ではない。

今、自分がやっていること、すなわち、自分の旅路を振り返って、次の旅路へと歩みを進めるための刺激だ。

良い刺激、悪い刺激、選り好みすることなく様々な刺激が受けられる場所。それが、僕にとっての旅祭である。

ミュージカル「コモンビート」を見て思う、「本当に争いはおろかなのか」

友人らが携わる「コモンビート」というミュージカルを見てきた。友人らの生き生きとした姿が見れて、とてもよかった。コモンビートを見るのはこれで3回目である。同じミュージカルでも3回も見ると、いろんな視点から新たな発見をすることができる。果たして、みんな本当に「争いはおろかだ」と思っているのだろうか。


ミュージカル「コモンビート」とは?

コモンビート。正式名称は「A COMMON BEAT」。通称「コモビ」。ミュージカル作品の名前であり、それを主催するNPO法人の名前でもある。

アメリカのNPO団体「Up with people」が2000年に制作したこのミュージカルは、「個性が響きあう社会へ~Hamony of Uniqueness~」というコンセプトのもと、日本でも公演されている。

このミュージカルの面白い特徴は、実は出演者はみなプロの劇団員ではない、ということだ。さまざまな職業の人々約100人が100日間練習して講演する。「なんだ、素人のミュージカルか」と決めつけるのは早計で、チケット代3500円に見合うクオリティはあると思うし、「素人が100日間でここまでやる」というリアル感、ライブ感もこのミュージカルの売りの一つだと思う。

ミュージカルの面白いところが、「エキストラがいない」という点ではないだろうか。広い舞台の上では高らかと歌い上げる役者がいる一方で、舞台の端や後ろでそれぞれの演技をする役者たちもいる。他にもダンスしたりコーラスをしたり、誰一人「とりあえずそこにいる」という役者はいない。歌う人、踊る人、歩く人、止まっている人、それぞれに大事な役割があり、それぞれがその役割を全うしている。特に今回の公演では舞台上にセットは置かれなかった。そうなると、なお一層、一人一人の演技が物語の世界を紡ぐうえで重要になってくる。メインの役どころだけが歌い、セリフをしゃべっても、ミュージカルは成立しないのだ。

コモンビートのネタバレ?

コモンビートの出演者たちは、大きく4つのグループに分けられる。赤、緑、黄色、青と戦隊モノよろしく色分けされた、四つの大陸である。

情熱の赤大陸はアフリカやアラビアをモチーフにしている(ちなみに、アフリカの国旗は赤・黄色・緑で構成されることが多く、アラビアの国旗は赤・白・黒・緑で構成されることが多い)。

気品の緑大陸はヨーロッパをモチーフにしている(ちなみに、ヨーロッパの国旗で緑を使っているのは、アイルランド、イタリア、ハンガリー、ブルガリア、ベラルーシ、ポルトガル、リトアニアの7か国のみ)。

調和の黄色大陸は日本や朝鮮、中国、インドなどの東アジア・東南アジアのあたりをモチーフにしている(ちなみに、この地域の国旗は赤を基調としたものが多く、黄色を基調としたのはブルネイの国旗のみ)。

自由の青大陸は南北のアメリカ大陸をモチーフとしている(ちなみに、中南米には青を基調とした国旗が多い)。

このように、国旗マニアとしては、赤と黄色は入れ替えた方がいいんじゃないかと思っている。いや、そういうことを言いたいんじゃない。

それぞれの大陸は音楽、ダンス、衣装でこれらのモチーフを表している。音楽・ダンス・ファッションに興味がある人たちは、これらに注目しながら見るのもまた面白いと思う。

さて、これら4つの大陸は、それぞれ互いの存在を知ることはなく、「国境警備隊」という誰に雇われたかよくわからない人たちによって守られている。

しかし、あるとき、彼らは互いの存在を知る。自分たちとは違う言葉、衣装、文化に興味を抱く人がいる一方、「権力者」と呼ばれる人たちは自分たちの仲間を、文化を、伝統を守るため、他の大陸のものたちを排除しようとし、やがて大きな戦いに発展し、多くの命が失われてしまう……。そこて初めて気づく。言葉や衣装、文化が違っても、僕らは同じ心臓の鼓動を、「コモンビート」を持っているのだと……。

というのがミュージカル「コモンビート」のあらすじである。そのまま、人類の歴史と言いかえてもいいかもしれない。

コモンビートの3つ目の視点

コモンビートは「個性が響きあう社会へ」をスローガンに掲げており、ミュージカルを通して「文化や歴史の違いから争いあうのはおろかなことであり、違いを乗り越えて共生することが大切だ」と訴えかけている。

一方で、だからといって戦いを煽った権力者が完全な悪者なのかというとそうではなく、それぞれの民族、文化、歴史、伝統を守るためだったという彼らの正義もきちんと描かれている。

実は僕はコモンビートを見るのは3回目である。1回目は2年前に同じ場所で、2回めはピースボートの船の中だった。

そして3回目にして今回、こういう見方もあるのではないかということを考えた。

「そもそも出会わなければ、交わらなければ、争うこともなかったのに」

コモンビートは4つの大陸が登場し、それぞれに権力者がいる、世界の歴史を描くスケールの大きなミュージカルだ。

一方で、実はこの物語は、それぞれの大陸を一人の人間として見ることもできるのではないだろうか。

人は幼いころは保護者という国境警備隊に守られていた。しかし、やがて学校や社会に出て、他者に触れ、他者と交わるようになる。その中では自身のアイデンティティや自尊心といったものが傷つくこともあり、自身を防衛するために、「敵」とみなしたものを排除しようとすることもある。

悪口、批判、無視、そして暴力など、手段は様々だ。

そうやって人は傷つけ、傷つけられ、傷つけあう。そんな思いをするのなら最初から他者とは交わらない方が賢明ではないだろうか。

なんて問いかけをすると、おそらく多くの人が「それは違う」と答えるだろう。人と交われば傷つくことも多い。しかし、そこを乗り越えてこそ人は成長しあい、信頼し合えるのだ、と。争いはむしろ、成長のために必要な通過儀礼なのだ。

一方で、これが国レベル、民族レベルの話になると途端に、人々は争っていてはだめだ、争いはおろかだという。

矛盾していないか。

もちろん、国と国同士の争いは多くの死者を生む。個人レベルの話と単純に比較することはできない。

だが、個人レベルの争いは、命までは取らないい代わりに心が死んでいくのだと思う。人を信じられなくなったり、他人に心が開けなくなったり、自信を失ったり。そうして、自らの人生に自ら影を落としていく。人によっては、自ら命を絶つこともあるだろう。

そんな目にあうなら、最初から人と出会わなければいい。そういって殻にこもることをなぜか社会は許さない。外に出て学校へ行け、働け、そして人とふれあって、傷ついて来いと言う。

不思議なことに、傷つかない方法を教えてくれたり一緒に考えてくれるのは一部の専門家だけで、多くの人は他者に触れ、傷つけあうのは当たり前ののことだ、仕方ないことだ、避けられないことだ、さあどんどん傷ついて来いと言う。

そう思って街を見渡すと、漫画も映画も小説も歌も、「ケンカも失恋も、青春の1ページだ! どんどん傷つけ!」みたいなことを言って、若いうちはどんどん傷ついて来いと、むしろ争いを煽っている。

それでいて「乗り越え方は自分で見つけなさい! 大丈夫、君ならできる!」というのだから無責任なことだ。これを国レベルで考えると、「戦争も差別の歴史の1ページだ!どんどん争え! だけど、 乗り越え方は自分で見つけなさい! 大丈夫、この国ならできる!」といった感じだろうか。そんな無責任な煽り方があるだろうか。

個人レベルで見ると、「争いは成長するための通過儀礼だ」という声が多い。だが、国レベルで同じことが言えるだろうか。確かに、歴史を対極的に見れば戦争はもしかしたら通過儀礼だったのかもしれないが、だからといって戦没者や戦争経験者、いま戦火の真っただ中にいるものに「あなたたちは歴史の通過儀礼なのだから我慢しなさい」なんて言えるわけがない。

ジョン・キム氏は著書『時間に支配されない人生』の中で、「何かを選択した時点では正解不正解などなく、その後の行動でその時の選択を正解だったと言えるようにするのだ」と書いている。

だとすると、争いそのものも、争っている時点で正解不正解などない。「人と触れ合い、傷つけあい、乗り越えることで人は成長する」というのは、たまたま乗り越えられたやつが語る結果論であり、この国は乗り越えることができず命を落とした人が年間で3万人もいるというのが現状だ。

人と人が交われば争いあい、傷つけあうこともある。この時点では「それを乗り越えれば成長できる」かどうかなんて誰にもわからないはずなのである。

ピースボートの船の中でフリーランサーの安藤美冬さんにお会いした時、人生には春夏秋冬があるということを話してくれたことがある。人にはそれぞれ春の時期もあれば冬の時期もある。そして、その冬がいつやってくるかは人によって違う。子供のころの人もいれば学生時代の人も、社会に出てからの人も、結婚や親になった後の人もいる。冬が長引いてしまうひともいる。

そんな冬の時期に無理して人と交わり、傷つけば、たぶん乗り越えられない。だから、他者との接触を避け、殻にこもる。春になるのをじっと待っているカエルのようなものだ。

だが、社会はどういうわけかそれを許さない。「温かく見守る」なんて選択肢は存在せず、周りはみんな頑張っているのだから、こっち来て一緒に働けと言う。

じゃあ、「外で頑張っている人たち」がみな強い人たちなのかというとそうではなく、彼らの心もまたぼろぼろだ。「外は怖くないよ。こんなに楽しい所だよ。さあ、出ておいで」と言いたいのではない。「お前も俺たちと一緒に地獄でぼろぼろになるんだよ!」というわけだ。まるでカンダタのぬけがけを許さない罪人たちのようである。

「争いはおろかだ」、これはコモンビートが90分のミュージカルをかけて訴えていることである。90分の公演を見れば、いかに争いがおろかなことなのかが身にしみてわかる。

一方で争いは通過儀礼であり、それを乗り越えることで人も国も成長していく。これまた残酷なこの世の真理なのだろう。

大切なのは、だからといって争いを美化していい、というわけではないということだ。

争いは通過儀礼であり、それを乗り越えることで成長していく。

それでも、争いはおろかなことなのだ。美しいのは、それを乗り越えた後の時代の話であり、争いそのものはどこまでいってもおろかなのだ。

そう考えると乗り越えられるかどうかもわからない争いや差別を助長するなど決して許されることではない。

それはまた個人レベルでも同じであって、乗り越えられるかどうかもわからない人生の壁とやらにぶつかってこいというのもまた許されないことなのではないだろうか。

それでも人は悲しいことを避けて成長することなんてできない。なんて残酷な真理であろうか。

問題なのは、そんな悲しみを乗り越える気などさらさらない奴らが、寄り添う気などさらさらない奴らが、争いによる痛みを引き受ける気などさらさらない奴らが、人を戦場へと駆り立てることなのだと思う。

戦場というのは本当の銃弾が飛び交う戦場のことでもあるし、空襲警報が鳴り響く街のことでもある。

一方で、戦場とは平和な国のごく普通の学校の教室のことでもあるし、都心のオフィスのことでもある。もしかしたら、ネットの世界ですら戦場になりうるかもしれない。

「争いは仕方ないことだ。争いを乗り越えて、人は成長するんだ。さあ、どんどん争って、傷ついて来い! 大丈夫。君なら乗り越えられるさ。根拠はないけど」

「そして、僕は君のそばにいるわけでも、君の痛みに寄り添うわけでもないけど。さあ、争って来い! 戦って来い! 傷ついて来い! 結果だけ教えてくれ」

これを読んでいる人の中で、「人は傷ついて初めて成長するんだ」と誰かに言ったことがあったら、また、誰かにこれから言おうとすることがあったら、

どうか責任を持って、その人が傷つき、乗り越えていく姿を最後まで見届けてほしい。可能なら、そばにいてあげてくれ。一緒に傷ついてくれ。

争いというのはいつだって愚かであり、一人でぶつかって勝手に乗り越えていいけるほど甘いものではない。

検証:ピースボートで人生は劇的に変わるか?:フリーライター自由堂ノック編

前回に続き、「ピースボートで人生は劇的に変わるか」シリーズの第2弾である。今回は仕事につながる話だし、ちゃんと人生に変化はある。果たして、その変化が劇的なものなのかどうか。もちろん、前回に続き、主人公として登場してもらうのはこの私、自由堂ノックだ。


ピースボートの船内には、「船内チーム」という集団がいる。乗客の中から有志が集まって、船内を盛り上げる様々な仕事をするのだ。音響や照明を担当するPAチームや、映像チームなどがある中、僕は船内新聞を作成する「新聞局」に入った。

船内新聞とは読んで字のごとく、船内で発行される新聞を作るチームだ。とはいえ、記事の大半は船内のイベント情報で、そのイベントを担当するスタッフが書く。

ただ、参加者を紹介するコーナーがあり、そのコーナーは新聞局のメンバーが面白い人を見つけて取材し、記事にする。また、新聞が記事で埋まらないこともあり、そのスペースは新聞局の仲間がコラムみたいなものを書く。

僕はもともと文章を書くのが好きだったので、船に乗ったら新聞局に入ろうと思っていた。

ただ、「文章を書くのが好き」であって、「文章を書くのが得意」と思っていたわけではない。

大学のころ、自分の書いた文章にかなり修正を加えられたことがある。

大学では「民俗学研究会」という部活に所属し、そこで毎年、部誌を発行していたのだが、僕の文章は同期の仲間に「ふざけすぎだ」と言われてかなり修正されたのだ。その日は、めちゃくちゃ落ち込んだ。

これまで、取り立て文章で褒められることもなかった。浦和市が市内の小学生の文章を集めた「文集うらわ」に載ることもないし、何かの賞をもらったこともない。

だから、新聞局に入っても、記事は書かずに編集などをしようと思っていた。まったく自信がなかったからだ。

ただ、1記事だけ、僕が専属で書くことになった。

それが、寄港地の国旗について紹介する記事だった。

とはいえ、僕は船に乗るまでこれと言って国旗に詳しかったわけではない(今では国旗大好きだが)。

ではなぜ、国旗のコラムを書くことになったのか。

船に乗る前、事前に新聞局に入りたい人が集まる機会があり、そこでLINEのグループを作った。

そして、局長を務めるスタッフから、船内新聞で国旗に関するコラムをやりたいということ、国旗に関する本があったら持ってきてほしいことがLINEで伝達された。

その翌日である。僕がブックオフでたまたま、「国旗の世界史」という本を見つけたのは。

世界中の国旗がマイナーな国まで網羅されているうえ、それぞれの国旗に隠された歴史も書かれている。おまけに、本来1800円のその本が中古だったので500円。

奇妙なめぐりあわせで、僕はその本を購入した。いざ、船に乗ったら新聞局でそんな本を持っているのは僕だけだった。それがきっかけである。

国旗のコラムをいくつか書いていると、局長から「ノックは文章うまいから助かる」との言葉をいただいた。

とはいえ、例によって疑い深い僕である。お世辞ぐらいにしか思わず、全く本気にしていなかった。

そんな僕に、ある出会いが訪れる。

ピースボート88回クルーズでは、mすあき案内人としてフリーランサーの安藤美さんが乗っていた。僕らは親しみを込めて「ミッフィーさん」と呼んでいた。

そのミッフィーさんが、ツイッター用の140字のプロフィールを添削してくれるという。ぼくは文章力が上がるのではないかと思い、140字のプロフィールを作って店に行った。当時、ツイッターなどやってはいなかったが。

自分での感想は「ふざけすぎた」だった。学生時代に修正喰らったことが頭をよぎった。

だが、これから添削されに行くのだ。完璧なものを用意する必要はない。もしふざけすぎたのであれば、そう指摘されるだろう。

だから、ミッフィーさんから「どこも直すところがない」と言われたときは、頭が真っ白になった。「何も添削する必要がないなんてめったにない」とも言われた。もちろん、いい意味で、だ。

添削される気満々だった僕は、じゃあどこを改善したらいいのかと途方に暮れた。褒められなれていないのだ。

疑り深い僕でも、さすがにこれは信じざるを得なかった。ミッフィーさんが添削の場でお世辞を言う理由が全くなかったからだ。

この一件は僕の文章に対する自己評価をかなり変えた。「もしかして、自信を持っていいのか?」と考えるようになった(自信を持ったわけではない)。

ミッフィーさんから教わったことはほかにもある。

船内の講演会で、「今、ネットのメディアはライターをたくさん募集している」とミッフィーさんは教えてくれた。船を降りた僕はその言葉を当てに「クラウドワークス」や「ランサーズ」に登録し、今、フリーライターの仕事をしている。

ミッフィーさんと出会わなかったら、今、フリーライターをしていないかもしれない。そう考えると、わずか2週間ほどの交流だったが、実に不思議だ。今でも僕は、ミッフィーさんを師と仰いでいる。ライターとしての目標の一つは、「いつかミッフィーさんと仕事をする」だ。

ただ、ミッフィーさん一人の影響は大きいが、それがすべてではなかった。

船内新聞で書いた僕の記事の感想が、僕の耳にも入るようになったのだ。直接本人から「よかったよ」と言われたり、人づてにそう言ってたよと聞いたり。そのほぼすべてが、僕の本名の読み方を間違えていたが(笑)。だが、そういうことがきっかけで船内の企画に携わるようにもなった。シニアの方から船内新聞の記事のファンレターをもらったこともあった。

そんなこんなの影響で何を勘違いしたのか、今、僕はフリーライターをやっている。出版業界にいた経験は、ない。前職は警備員だ。

さて、では、僕の人生は劇的に変わったのだろうか。

僕自身は、劇的とは思っていない。

以前にも書いたが、やっぱり人生は複線回収で、過去にそうとは知らずにつくってしまった伏線を、後々回収するだけなのだと思う。

小さいころから本を読むのは好きだったし、文章を書くのも好きだった。就活の時も漠然と「文章を書く仕事がしたい」と考えていた。今思えば、そういった伏線を回収する機会を得ただけなんだと思う。

だが、複線回収の一方で、思いもよらない偶然の連鎖というものがある。

船に乗る前に「国旗の世界史」を買わなければ船内新聞で記事を書くことなんてなかったかもしれないし、88以外のクルーズだったらミッフィーさんに出会うこともなかった。

ラップに関しても、大宮ボラセンにたまたまラップ好きが集まってなければ、船でラップをしようなどとは思わなかった。

そして、僕がこの変化を「劇的」とは思わない理由がもう一つあって、

僕は、いまだに自分が文章を書くのが得意だと思っていない。

「人からそう言われるので、おそらく僕は文章を書くのが得意なのだろう」と認識しているだけで、自分で文章が得意だとは全く思っていない。「しゃべるよりは書く方が得意だろう」ぐらいの認識である。

他人の文章の良し悪しはわかる。同じ船内新聞の仲間の書いた文章は本当にうまいし、逆にネットでよくわかんない記事を見て、「文章下手だなー」と思うこともある。

だが、自分の文章に暗しては、とんとわからない。

「これでいいのかな?」と首をかしげながら日々仕事をしている。

何か月もやってクビになってないから、おそらく評価されているんだろう、という認識である(もちろん、不採用になった原稿もたくさんある)。

だいたい、僕は「フリーライターになれた」のではない。他の仕事が壊滅的にできないから、「フリーライターになるしかなかった」のである。「書く仕事がしたかった」とは言ったが、「いきなりフリーで」なんて一言も言っていない。いきなりフリーで仕事をし出したのは、かわいそうなくらい会社の仕事ができないからであり、かわいそうなくらい面接が苦手だからだ。

志望校に全滅して、滑り止めの高校に進学したら、意外と自分に合ってた、そんな感じだ。

ピースボートで人生は劇的に変わる、わけではない。これまでの伏線を回収するだけだし、相変わらず自信なんてない。

ただ、ピースボートは「選択肢」を提供してくれる場であったと思う。

船で出会った仲間や水先案内人、旅先の文化や風景などが、あなたに無数の選択肢を与えてくれる。「普通の」以外にも道はたくさんあるんだと教えてくれる。

そして、ピースボートは何かをチャレンジした人を応援してくれる人がとても多い。一般社会では「空気読めよ」と言われてしまいそうなことも、臆することなく評価してくれる。だから、どんどんチャレンジするといい。船は積極的じゃないと楽しめない」、これは僕が恩人からもらった言葉だ。

無数の選択肢の中から何かを選び取った時、それまでの人生にちりばめていた複線が、そして不思議な偶然が、最高の仲間が、ちょっと背中を押してくれる。たったそれだけである。

検証:ピースボートで人生は劇的に変わるのか?埼玉のラッパー編

ピースボートにはいろんな人が、いろんな想いを持って乗船する。その中には、「何かを変えたい」そんな思いを持って乗ってくる人もいるだろう。地球を一周したら何かが変わるのか。そこで今回は、ある人物の事例を基に「地球一周で何か変わるのか」を検証していこう。ある人物。もちろん、他でもない僕自身だ。


ピースボートに乗ったら人生は劇的に変わるのか? 今回は「ピースボートで劇的な体験をしたら、その後の人生に何か変化があるのか」という視点から考えよう。

僕のピースボートにおける「劇的な体験」。それは、「人前でラップをしたこと」であろう。それも相手は一人二人ではない。数百人規模だ。

まわりがこのことをどう思っているのかはわからない。だが、二度とあるかどうかわからない、少なくとも本人にとっては劇的な体験だった。

どうしてこんなことになったのか、順を追って説明していこう。

きっかけは「グローバルスクール」というプログラムに参加したことだった。

グローバルスクール、通称GSとは、ピースボートが船内でたまにやっている有料プログラムである。ひきこもり・不登校・ニートだった人たちが参加するプログラムなのだが、別のその経験がなくても参加していい。事実、僕はどれもない。

僕がGSに入ったのは船に乗ってから10日して程だった。先にGSに入っていた友人らから「ノックみたいな人がいっぱいいる」と誘われたのがきっかけだった。

さて、せっかく5万円も払って入ったからには何かしたい(お金の問題?)。

この時、GSでは「ハーフアクション」を計画していた。もともと、クルーズの最後に発表会的な「ラストアクション」が毎回行われていたのだが、その前にクルーズの途中で一回発表会をやろう、というものだった。それが「ハーフアクション」である。

そこで僕は、「人見知りをテーマにしたラップを作って歌う」を提案した。何かインパクトがある出し物があった方がいいという話だったので、うってつけだった。

では、どうして「ラップをする」なんて言い出したのか。

これもまた、話すと長くなる。

まず、僕にラップを作った経験も、大々的にライブをした経験もない。

ただの日本語ラップ好きでしかなかった。

それがたまたま通っていた大宮ボラセンにラップ好きが集まっていて、「船に乗ったらラップしようぜ」などという話をしていた。

だが、たぶんそれだけでは「GSでラップをする」なんて発想にはいきつかなかったと思う。

もう一つ、決定的な出来事があった。

それが、僕が船に乗っている間に大宮ボラセンが閉鎖することが決まっていた、ということだ。

どうすれば大宮ボラセンを復活させることができるか。もっとも、こればっかりはピースボートの上の人たちが決めることなので、僕にはどうしようもない。

僕にできること、それは、「大宮ボラセンの名を88回クルーズで強烈に刻みこむこと」だった。それしか、思い浮かばなかった。

「88回の大宮、熱かったな」と多くの人に思ってもらう。そうすれば、いずれ地方のボラセンを復活させるときに、真っ先に大宮の名が思い浮かんでもらえるかもしれない。それしか、できることなんてなかった。

ならば、なるべく早い段階で何かアクションした方がいい。船内のイベント「スター誕生」に出演者として参加したのもそれが大きな理由だったし、GSでラップをするということを思いついたのも、やはり「何が何でも大宮の名を残す」ことを考えていたからだろう。

正直、「僕が目立つ」ことよりも「大宮が目立つ」ことが最優先だった。

奇妙な感情である。ボラセンは本来、地球一周のための準備をする場所でしかないはずだ。地球一周が目的。ボラセンが手段。それがいつの間にか、僕の中では地球一周が『ボラセン復活』という目的を成すための手段の場となっていた。でも、それでよかった。

今こうして振り返ると、よくよくできた話だったと思う。大宮の仲間と「船内でラップしようぜ」と話していたおかげで、僕はラップに使えそうなインストのCDを船内に持ち込んでいた。その音源を使って曲を作ることができた。

最初の曲、「ゲキヤク」は2日くらいでできたと思う。人見知り目線での世の中への恨みつらみをラップにした。

曲ができた後は、たぶんラップをいきなり聞き取れる人は少ないだろう、ということで歌詞カードの製作、外国人の乗客もいるので、歌詞の翻訳を人にやってもらった。僕が作った物を人にやってもらうという自体、なかなかない経験だった。

さて、本番。コーナーとコーナーの間にこっそり衣装に着替えた僕がとびだしてゲリラライブを観光する。自分で集客をしない、一番卑怯なパターンだ(笑)。

不思議な感覚だった。覚えてきた歌詞はすべて忘れた。

忘れたうえで、さも、いま思いついた言葉を叫んでいるような感覚で、歌詞カード通りのリリックをラップしていた。

終わった後は、舞台そででひっくり返っていた。

その反響は、想像以上だった。

とはいえ、僕は申し訳ないが、疑り深い性格のようだ。「よかったよ」とか「かっこよかったよ」と言われても、申し訳ないけど「どうせお世辞でしょ」程度にしか思っていなかった。

唯一信用したのは、大宮の仲間によるかなり長文の感想。「こんなに長いなら、きっと本心なんだろう」といった感じだ。どうしようもなく疑り深いのだ。

それが、だんだんと予想だにしなかった反応がやってくる。

最初に驚いたのが、ほとんど接点のなかったジャパングレイスの人が「良かったです」と言ってくれたことだった。顔見知りではなく、接点のない人たちがわざわざ感想を言ってくれたということで、「これは本当かもな」と思った。

さらに驚いたことがった。

ある日、夕飯を食べようとしたら、それまで会話をしたことなかった青年が「一緒に食べていいですか」と聞いてきた。断る理由などないので僕はうなづいた。

ご飯を食べながら話していると、彼がバスケットボールをしているということがわかった。文化部しかやったことのない僕は、運動部というだけで彼を羨んでいた。

彼は僕のラップを見て、僕に声をかけてくれたらしい。そして、彼はこう言った。

「自分で表現できるなんて、羨ましい」

「羨ましい」という言葉は、僕が全く想定していなかった感想だった。今まで人に羨ましがられることなんてなかったからだ。むしろ、常に他人を羨んできた嫉妬深い人生だったともいえよう。

「僕は人に羨ましがられることをしていたのか? この僕が?」と呆然とした。

これ以降、僕の船内生活は劇的に変わった。これまで話すことのなかった人たちとも話すようになった。

また、周りから「誕生日祝いにラップを作ってやってほしい」だの、「サプライズ用のラップを作ってほしい」だの頼まれるようになった。

クルーズの最後で行われたラストアクションでは、「ボーダーライン」という曲を作って歌った。

おそらくファイナルアクションはしんみりする内容になると思うから盛り上げ役が必要だと、アップテンポな曲を選んで作った。

今のところ、「少なくとも5人は泣いた」というのを把握している。泣かせるつもりは全くなかったのでうれしい半面、大変当惑している。

とまぁ、自分で振り返ってもなかなか劇的な体験をしたと思う。

そんな劇的な体験をした僕が、船を降りてどんな劇的な変化があったかというと、

……これと言って劇的な変化はない。

そんなに人に「ラップ作って」と頼まれるなら、と、「ココナラ」「ワオミー」で「ラップ作ります」というサービスを出店してみた。

今のところ、月に一回、何かの本を買うお金が稼げればいい方の収益しか上げていない。

別にメジャーデビューする話もないし、武道館ライブの話があるわけでもない。せいぜい、友人の結婚式で「ラップやって」と頼まれたくらい。

そもそも、ラップで有名になってやろうとかそういう欲は全くないのだ。趣味としてのんびりやって行って、いつかミニアルバムでも作れたらな、くらいにしか考えていない。

つまり何が言いたいかというと、

船の中で劇的な体験をしても、

人生が劇的に変わるとは限らない、ということである。

「ラッパー」としての僕自身を取り巻く状況はみじんも変化していないし、僕自身のハートに火がついて「ラップで天下とってやろう」みたいな野心もついぞ芽生えなかった。「趣味が一個増えたぞ」程度の感覚である。

だいたい、「大宮ボラセンを復活させる」という当初の目的すら達成されていない。現段階では大失敗もいいところだ。

ただ、これがきっかけで多くの人とつながれた。ちっぽけな奇跡というやつだ。

人見知りに友達ができた。これ以上の奇跡があるものか。

人見知りがマイク握った

俺の声がステージ響いた

でもいまだ自己嫌悪の塊

周りと比べ絶望し儚み

溜息のように「死にたい」とつぶやく

いつかきっと救われる日来るはず?

そんな劇的な変化なんかない

種をまかねば芽は出ない

芽吹いた何かを刈り取るだけ

その前にまずは種を蒔け

芽吹いた種を刈り取ってみたら

前よりちょっと友達増えたな

人生は複線回収だと思う。

船の中でラップという形で新たにばらまいた複線はきっと、今後の人生の中で、少しずつ回収していくのだと思う。

だから、そんな劇的な変化なんてものは、ありません。

むしろ、個人的には気持ちは完全にラップからクソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」に向かっている(もちろん、趣味としてラップは続けていくけど)。

でも、たぶんいまだに僕のイメージは、「88でラップやってた人」なんだと思う。

たぶん、これは誰しも抱えうる問題なのではないだろうか。今の自分の進みたい方向と、周りのみんなが抱いているであろうイメージに違いが生じる。船にの仲間でも同じようなことを口にしているのを見たことがある。

ピースボートの船内ではいろんなことをやるチャンスがある。バンド活動、お笑い、ダンス、絵画、自主企画などなど。みんな誰しも、二度と体験できないような劇的な体験をしていると思う。もちろん、人によって大小はあれど、だ。

何かに一生懸命になったりすると、それが周囲にはイメージとして定着する。それ自体はいいことだ。誰しも大なり小なり周囲に何らかのイメージを持たれているものだ。

だが、いつかそのイメージにサヨナラをしなければいけない時が来るのだと思う。何か新しいことをはじめようとするときだ。あるいは、すでにイメージが定着してしまった段階から自分の内面とのギャップを感じている人もいるだろう。

人間の承認欲求というやつは強い。そして人は常に「最新の自分」を評価してほしいのだ。「昔はかわいかったね」と「最近かわいくなったね」のどちらが言われて嬉しいかを考えればわかると思う。

たぶん、劇的な経験をすればするほど、周囲にはそのイメージが強烈に刷り込まれる。何か新しいことをはじめようとするとき、そのイメージとの戦いになる。

ミュージシャンが「ヒット曲の壁を越えられない!」という葛藤を抱えるのと同じだと思う。

自分の敵はいつだって自分なのだ。最も輝いていたころの自分。もっともダメダメだったころの自分。今の自分の敵は、いつだって過去の自分なのだ。

同時に、過去の自分は必ず今の自分の力となる。人生は複線回収。過去に蒔いた複線を一つずつ回収していく。

船内でのライブしたのも、「10年間ラップを聞いていた」という複線と、「大宮ボラセンが閉鎖になった」という複線を回収しただけにすぎないのだと思う。

ピースボートで劇的な体験はできると思う。大なり小なりはあると思うけど。ただ、劇的な変化はそんな簡単には起こらない。これまでの人生の複線回収をずっと続けていくだけなのだと思う。過去の自分と向き合って、過去の自分を掬い上げていく。その繰り返し。

昨日と向き合って、明日に向かって今日を生きる。ただ、それだけである。今日が昨日の続きで、明日は今日の続きなのだ。そんな劇的な変化などあるものか。

古市憲寿ピースボート乗船記「希望難民ご一行様」に感じた違和感

社会学者の古市憲寿氏の「希望難民ご一行様~ピースボートと『承認の共同体』幻想~」を読んでみた。新進気鋭の社会学者である古市氏が実際にピースボートに乗って何を見たのかが気になったからだ。僕もピースボートに乗っていたので、過去乗船者あるあるになると思いきや、意外にも感じたのは違和感だった。


「希望難民」とは?

「希望難民」とは古市氏の造語だ。経済的に豊かになった現代社会で、あらゆるものは手に入るのに、閉塞感は打ち破れず若者は「もっと輝けるはずだ」という希望を追い求める。そんな人たちを「希望難民」と呼んでいる。高橋優の「素晴らしき日常」のような世界観だ。

古市氏は本書を通じて、現代社会は「何かを諦めるのは悪いこと」という風潮が漂っていると指摘し、若者に諦めさせることが重要だと説いている。

若者に対して「諦めろ」というのではなく、社会に対して「若者が諦めるのを認めろ」という主張だ。

そんな諦めさせてくれない社会で、若者に諦めさせる装置としての一つがピースボートである、そう言った趣旨だ。

クルーズとピースボートへの違和感

古市氏が乗船したのは第62回クルーズ。2008年5月出航で、僕の乗った88回クルーズより7年も前の話だ。

このクルーズが、おそらくピースボート三十数年の歴史の中でも最悪の部類に入るものだった。よりによってこんな極端なクルーズに乗ったのかよ、といった感じだ。船のエンジンは壊れ、船体に穴が開いてアメリカで足止めを食らい、ピースボートにキレる老人とかばう若者が対立し、抗議運動まで起こった。船が日本にも着いたのは予定よりも10日遅れだった。

もっとも、違和感以前にまず、船が違う。88回クルーズで使われたのは「オーシャンドリーム号」。2012年からピースボートがチャーターしている。

古市氏が乗ったのは「クリッパー・パシフィック号」だ。

オーシャンドリームに関して何かトラブルがあったという話は聞いたことがない。ピースボートの船に関するトラブルは大体これより前の船たちだ。整備不良だったり、途中で乗り換えを余儀なくされたり、ご飯がまずかったりしたらしい。しっちゃかめっちゃかである。

さて、ピースボート史上まれにみるトラブル続きだった62回クルーズだが、ピースボート側の対応もちょっとお粗末である。抗議のための文章の印刷を断るなど、乗客の抗議活動を制限しようとしていて、お世辞にも褒められる行動ではない。旅行会社のジャパングレイスも度重なるトラブルに対する説明で「当社に責任はない」という、考えられる限り最悪の対応をしている。

一方で、88回でもしこのようなトラブルが起こったらピースボートは同じような対応をとるだろうか、と考えると、そこに僕は違和感を覚える。

完璧な対応、いわゆる「神対応」とまでは行かなくても、62回クルーズに比べればましなのではないか、という風に感じる。あくまでも日頃のピースボートスタッフやジャパングレイスの接し方から感覚的に推論したに過ぎないが、さすがに「うちに責任はない」は言わないだろう、と思う。7年前のこのトラブルを教訓にしているはずだし、していないのであればそれはとんでもないことだ。ここ数年、目立ったトラブルがないということは、多少なり学んで改善している、ということなのであろう。

乗客への違和感

だが、それ以上に違和感を感じたのが62回クルーズの乗客、特に若者に対してだった。

62回クルーズでは「9条ダンス」というよくわからないダンスの練習をしていた。9条護憲の理念をダンスで表現したらしいのだが、何度説明されてもこればっかりはわからない。僕がダンスに興味がないからなのか、ダンスで9条を表現しようという行為そのものが無謀なのかはわからない。

とはいえ、僕自身も実は船内の平和デーかなんかのイベントで9条をラップにして発表している。もっとも、護憲だのと言ったたいそうな理念があったわけではなく、イベント紹介の船内新聞に記事に「ラップ」の3文字があったのを発見して、「私を呼んだかぁ!」という勢いで参加しただけである。ちなみにこのラップは船を降りた後、護憲の立場だけの歌詞では不完全と考え、改憲派の立場に沿った歌詞を追加した。

さて、62回クルーズの若者たちはピースボートの不手際やトラブルに抗議の声を上げる老人に対し、不快感をあらわにしたり、すごい人に至っては涙を流したりしていた。

完全に理解できない。「キモチワルイ」というのが正直な感想である。何も泣くことはあるまい。この本を読んだ人が「ピースボートに乗る若者は頭の中がお花畑」だと思っても、当然の帰結だと思う。

古市氏はこの現象に対して、「自分たちと異質なものへの耐性が弱い」と評している。

これはなかなか興味深い分析だが、それを「若者全体」に言える傾向だと論じることに違和感を感じる。

もっとも、古市氏も若者がみんなこうだと入っていない。若者の4類型のうちの一つ、仲間意識の強い「セカイ型」と「文化祭型」の若者の特徴だと書いている。

古市氏はピースボートに乗る若者を4つの類型に分類していた。

セカイ型……船内での仲間意識が強く、ピースボートの理念への関心も強い。「意識高い系」と言い換えてもいいかもしれない。

文化祭型……ピースボートの理念に関心はないが、船内での仲間意識が強く、文化祭のノリでワイワイやっている若者。「パーリーピーポー」と言い換えてもよいかもしれない。

自分探し型……ピースボートの理念に関心を持つ一方、船内での仲間意識はそれほど強くない。こちらもいわゆる「意識高い系」なのだろうが、セカイ型が「みんなで世界を変えていこうぜ!」なのに対し、自分探し型は自問自答を繰り返す傾向がある。

観光型……ピースボートに理念に関心はないし、船内の雰囲気にも距離を置いている層。乗船目的も単純に観光旅行である。もちろん、友達がいないわけではなく、セカイ型や文化祭型が「みんなでワイワイ」なのに対し、観光型はいつもの数人で固まりがち。

この4類型は「船内での仲間意識が強いか」「ピースボートの理念への関心が高いか」で決められる。

「どちらでもない」という回答を禁止すれば、誰でもこの4類型のどれかに当てはまるはずだ。

だが、この4類型に違和感を感じる。

88回クルーズで考えると、全体的に文化祭型が多いのかな、と思う。

だが、この4つに分類できない層もいる。

例えば、僕は「グローバルスクール」という有料プログラムに所属していた。不登校や引きこもりの経験者が多く、船内では特定の人付き合いしかせず、ピースボートの理念への関心も薄い。

さっきの4類型だと観光型に当てはまるわけだが、「ただの観光旅行」をしていたわけではない。それぞれにいろいろな事情を抱えている。

また、船内では「ヤミメン」を自称する集団がいた。「ヤミ」が「病み」なのか「闇」なのかは聞いたことがないのでわからないが、傍から見るに文化祭型に対して「やってらんねぇ」的な態度をとっていた。

ただ、「ピースボートの理念への関心」という点では「人によって違う」という形になり、4類型のいずれにも当てはまらない。

もう一つ、僕が違和感を感じたことがあった。

88回クルーズは文化祭型が主流派だったと思うし、もちろんセカイ型もいた。

だが、彼らが同じトラブルに遭遇した時、果たして抗議活動する人間に不快感を表すか、果たして「争わないで」と涙を流すか、という疑問である。

88回クルーズは全体的に、62回クルーズよりはシニカルだったと思う。62回のようにピースボートへの帰属意識は強くなく、仲間意識は感じるしスタッフとの距離も近い一方、ピースボートという団体に対しては距離をとって接していたと思う。

要は、7年で若者の性質も変わってきたのではないか。それがピースボートという枠の中だけなのか、若者全体の話なのかは分からない。

ちなみに、僕自身はどうなのだろうか。

人付き合いについてだが、僕は大の人見知りである。それでも船内では広く人づきあいができていたが、基本は固定の人付き合いだったと思う。

次に、ピースボートの理念に対する関心だが、ないわけではない。

もちろん、関心はあるし、ニュースは毎日見る。だが、「政治?興味ないっすね」という若者よりは関心があるが、いわゆる「意識高い系」ほどではない。船内では社会問題や世界情勢に関する様々なイベントに顔を出したが、「この問題に特に興味がある」「この問題のために活動したい」と思える内容は見つからなかった。

世界平和や憲法9条に対する関心は薄いが、日本の「閉塞感」に対する関心は強い。そういう意味では、「ピースボートの理念にやや関心がある」という得るであろう。

おそらく、僕は「やや自分探し型」なのだと思う。

古市氏の視点への違和感

本書を通して感じていたことは、「古市氏がどの立場にいるのかわからない」という点だった。

理論上、ピースボートの若者は全員4類型に分けられる。それは、古市氏ももちろん例外ではないはずだ。

だが、古市氏の書き方はどの類型とも距離を問ているように感じられた。きわめて客観的である。

そんなことを考えながら読んでいたら、あとがきで古市氏自ら、「『クルーズを楽しめなかった陰気な東大生が腹いせに書いたように思われるんじゃない』と言われた」と明かしていた。このあとがきで明かされたフィールドノートの最後のページ、横浜帰港の前日に書かれたページは非常に共感できる、人間的な文章だった。

「だけど本書はエッセイではなくて、これでも一応『研究』のつもりだから、どうしても『彼ら』を俯瞰的に『分析』する必要があった」(277ページより抜粋)

ただ、ここにもまた違和感を感じる。

それは僕が民俗学を学んできた人間で、民俗学の研究には「文学的な表現」のスキルが不可欠だと感じているのもあるだろう。

また、人間である以上、主観というフィルターを通して物事を見ることは避けられない。客観的な分析をするためには、自分がどのフィルターから見ていたかをはっきりさせるべきだったと思う。

古市氏への見解への違和感

古市氏は船を降りた後の若者たちの動向も調査していた。

古市氏の調査では、自分探し型は帰国後も社会問題への関心は強まって、自分なりに行動しているという。なるほど、自分の掌をじっと見て、その通りだと思う(笑)。

観光型は旅行が終わり、日常に帰って行く。

一方、セカイ型と文化祭型は、ルームシェアをしたりと、船で築いた共同体のまま生活を始める人が多い。

しかし、セカイ型の特徴であった意識の高さは薄れ、政治活動だの社会活動だのへの関心が薄くなった人が多かったらしい。

古市氏はこのことについて、ピースボートは若者に諦めさせる「冷却装置」であったと論じている。

ここにも僕は違和感を感じる。僕は以前「ピースボートに洗脳・マインドコントロールは可能か?元乗客が検証!」において、「ピースボートで社会問題に安心を持っても、ピースボートを降りた後はピースボートは一切干渉してこないので、船を降りた後は関心を保てない」と論じた。この見解の相違が違和感を感じさせる。

違和感の原因

違和感だらけである。同じ地球一周の旅をしていたのに、どうしてこんなに違和感を感じるのか。

しかし、当然と言えば当然である。

人によって、見える景色が違うのだ。

おんなじ船に乗って、おんなじツアーに参加して、同じ時間を長く共に過ごした友人が、船を降りてから僕とは全く違う進路を進む姿などを見ると、どんなに距離が近くても、人によって見えている景色は違うんだな、と思う。たぶん、家族でも恋人でも同じことが言えると思う。「同じ景色を君とずっと見ていきたい」なんてありえない。隣で並んで夕焼けを見ていたって、見え方が違うのだ。

船を降りた後、同じ船に乗っていた仲間と一緒に飲んだ時も、同じ船に乗っていたはずなのに、ずいぶんと見えていた景色が違うんだな、と考えさせられることがあった。

同じ船に乗っていても、人によって見えた景色、感じたことが違うのだ。同じピースボートという枠組みであっても、違う船、違うクルーズに乗っていれば、見える景色は全く違うはずだ。

これが違和感の正体なのだと思う。違っていて当然なのだ。

時代が映り、船が変われば、ピースボートも変わる。若者の性格も変わる。それに対するとらえ方も変わる。当たり前のことだ。