経験者にしか実態はわからない!ピースボートのポスター貼り喜怒哀楽!

「ピースボートでポスター貼ってた」というと大半が「すごい」と言ってくれる。だが、その実態は、あなたの想像よりはるかに面白く、はるかに大変だ。ピースボートの乗船を目指す者たちは、いったいどんな思いでポスターを貼っているのだろうか。ネットには様々な風評が渦巻いているが、こればっかりは、経験者でないと語れない。


ピースボートのポスター貼り「楽」

まず最初に、「ラクな話」ではなく「楽しい話」である。

ラクなはずがない。

だが、ポスター貼りは楽しい。

まず、いろんな町に行けるという楽しみがある。

これまで行った中で最も都会だったのは、聖地・秋葉原だろう。あんまり枚数は稼げなかったが。

一方、一番田舎だったのは東武東上線で行った寄居町だろう。季節は春先だったと思う。緑のトンネルの中を電車が駆け抜けていく様は、ピクニック気分にさせる。町並みも古く、人柄もよく、ポスターもよく貼れた。

埼玉は街道沿いの街が多く、川越をはじめ意外と古い町並みが残っているので、そういうのが好きな人には、結構たまらない。

そしてお楽しみはポスター貼りが終わった後にもある。仲間たちと食卓を囲み、地球一周の夢を語り合う。

たまに勢い余ってカラオケに行ったり。休日にみんなでどこかへ遊びに行ったり。世代やそれまでのバックボーンを越えた交流が何よりも楽しい。

ピースボートの魅力の一つは、旅の前から仲間たちとともに楽しいひと時を過ごせる、というところでもあるだろう。もちろん、その絆は旅の後にも続いていく。

また、自分の頑張りが数字という形でわかりやすく表れるのもまた楽しい。

とまあ、これだけ「ピースボート楽しいよ」って話をしとけば、これからさきの話にも耐えられるだろう。ついてこれるかな、フッフッフ。

ピースボートのポスター貼り「哀」

ポスター貼り経験者は口をそろえてこういうだろう。「あのころは楽しかった」と。

また、口をそろえてこうも言うはずだ。「よくあんなことやってたよね」と。

ポスター貼りは決してラクではなく、とにかく、体はきつく、心は折れる。

最大の敵は何といっても天気だ。

まず、冬。

冬に関しては埼玉は、雪が降らないだけましだろう。

しかし、冷たいからっ風が吹く。これがかなり体力を削り取る。まるで、体の芯から熱を奪っていかれたかのようだ。

さらに、屋外でポスターを貼るときは、風にあおられてポスターが飛ばされる、なんてことも。東京のど真ん中で風に飛ばされたポスターを追っかけたこともある。

冬が過ぎて春がやってくると、つかの間の春が訪れる。春はいい。気候は暖かく、花は咲き乱れ、絶好のお弁当日和だ。

それが過ぎると、梅雨がやってくる。雨もまたきつい。

雨は体力を奪うだけでなく、雨に濡れた壁はポスターが貼りずらい。

雨の中、整備工場のトタンの塀にポスターを貼ろうとしたことがある。普段なら10秒もあれば終わるのだが、濡れた壁に両面テープがくっつかず、しこたま時間がかかった(それでも貼るのを断念したことは一度もない)。

そして、梅雨が明けたら夏が来る。埼玉の夏は、暑すぎて太陽から人類への殺意を感じるほどである。こまめな水分補給が欠かせない。

汗をかき、さらに暑さのあまり汗が渇く。すると、皮膚に乾いてできた塩がざらざらとついているのだ。

僕は夏の時期はバンダナをしてポスターを貼っていた。公衆トイレなどでこのバンダナを濡らして暑さをしのいでいた。

今までで一番きつかったのは、埼玉大学近辺で貼った時だろう。

雨と風が同時に来たのだ。

かなりのどしゃ降りだったのだが、傘をさすと強風で煽られて歩けない。結局、ぼくは傘をさすのを諦め、濡れながら歩いた。

さらに、それから3か月後、再びこの場所にポスターを貼りに行ったところ、まったく同じ天候だった。この時僕は、神様っているのかも、と思った。もちろん、悪い意味で。

そして、つらいのは天気だけではない。

ポスター貼りは、毎日何百というお店を尋ねる。

これは、断られる確率の方がはるかに高い。当然だ。見知らぬやつがいきなり店に来て、営業中にもかかわらず(営業中じゃないと入れないんだけど)ポスターを貼らせてくださいと頼むのだから。貼らせない方が普通だろう。

10軒以上断られ続けると、心が折れることもしばしばだ。

体力い的な意味では悪天候がきついが、精神的な意味では断られるというのがきつい。

それでも、ほとんどがやんわりとお断りをしてくれるので、心は折れるが傷つきはしない。

ピースボートのポスター貼り「怒」

しかし、中には、腹が立つとき、心が傷つくときもある。そんな時は自分にこう言い聞かせる。

「ケンカしたら負けだ」

ボランティアスタッフとはいえ、ポスター貼りの現場ではピースボートの代表である。自分の評判がそのままピースボートの評判へと変わる。

もし、自分がトラブルを起こしてしまったら、自分だけではなく、仲間や、自分より後に船に乗る者たちに迷惑をかけてしまう。

誰かの選択肢を奪うような真似だけは、絶対にしてはいけない。

ピースボートのポスター貼り「喜」

体力を削り、心折れて傷つき、そうまでしてポスターを貼るのはなぜなんだろう。

もちろん、夢のため、お金のためだ。

だが、決してそれだけでもない。

実は、腹が立つ場面なんて数か月に1回あるかないかで、それ以上にはるかに協力的な人の方が多いのだ。

そんな優しい人たちに出会えるから、僕らはポスター貼りを続けられる。

「若いうちに世界を見た方がいい」と言っていた自転車屋のおじさん。

「私はあんたたちのことを応援してるんだよ」と言ってくれた居酒屋のおばちゃん。

「孫に乗ってほしい」と言って貼らせてくれた美容院のおばさん。

暑いさなか道を歩いていて、ふと目があった瞬間に「兄ちゃん、休んでけ!」といった雑貨屋のおじさん。

快く3枚も貼らせてくれただけでなく、他の店に入ろうとしたら通りの向こう側から大声出して、「兄ちゃん、その店はだめだぁ! 隣の店いきな!」と言ってくれた八百屋のおばちゃん。

かつて船に乗っていたらしく、「いくらでも貼っていきなよ」と言ってくれた美容師さん。

「ピースボートだから貼らせるんだよ」と言ってくれたお花屋さん。

「貼らせてあげられないのが申し訳ない」と言っておやつをくれたラーメン屋さん。

夏の暑いさなか、コーラをごちそうしてくれたスナック。

決して、忘れるものか。

ポスター貼りをやって気づいたのが、

なんだかんだ、日本人は優しい、ということだ。

ピースボートのボランティアで出会った、心の温かい日本人たち

僕らはそんな人たちの善意におんぶにだっこで旅をする。優しい人の力で旅に出るわけだ。

たまに、よく知らずに上辺だけの知識で「ピースボートは反日だ」という人がいるが、冷静に考えてほしい。

日本が嫌いな人間に、日本の街で頭を下げてポスターを貼り続ける、なんて芸当ができるわけがない。

僕たちは、この国に住む人々の優しさを肌で知っている。ネットのうわさなど、単なる0と1のデジタル信号でしかない。『世界』は、自分の目で見たものしか、自分の肌で感じた者しか、存在しないのだ。

だから、僕の言いたいことはただ一つ。

こんなブログなんて信じないで、自分の目で、自分の肌で、世界を、日本を確かめてくれ。

寄せ鍋の夜、銃口の朝~ピースボート乗船から1年~

2016年12月10日。かつて、「ボランティアセンターおおみや」(通称「大宮ボラセン」)というピースボートの事務所でポスターを共に貼った仲間たちが再び集まった。あのころ、ピースボートの船旅に夢を見た仲間たちは、いつのまにかみな地球一周を終えていた。再び集まった仲間たち。でも、帰るべきボラセンは、もう、ない。


メロウ

十日市は大宮最大にして伝統のある祭りだ。ちなみに、「十日市」と書いて「とおかまち」と読む。

この祭りに再び集まろう、そういう話が出たのは2か月ほど前だった。

今から2年前、僕はピースボートの事務所の一つである大宮ボラセンのドアを叩き、ピースボートのボランティアスタッフとして、ポスター貼りを始めた。

「ピースボート地球一周の船旅」との出会い

ポスターを貼るときは一人だ。夜空に浮かぶ月を見て、エレカシの歌を歌いながら、重たいリュックを背負って歩いていた。

でも、ボラセンに帰れば、いつも仲間がいた。同じ釜の飯を食べながら、「地球一周」という夢を語り合う仲間が。年齢もばらばら、歩いてきた畑も違う。場所柄、埼玉出身の人が多いんだけど、東京から通っている子や、東北から来てシェアハウスに住んでるやつもいた。

僕らの共通項は2つだけだった。その一つが、「地球一周に夢を見た」。

そして、もうひとつが、「みんな、何かしらの闇を抱えていた」。

僕らはこの闇を「メロウ」と呼んでいた。仕事のこと、恋愛のこと、学校のこと、人生への言いようのない閉塞感。消えてしまいたいほどの絶望感。

みんな何かしら一ネタ持っていて(スタッフを含め)、みんなでそのメロウを分け合っていた。

僕たちは、ここではないどこかに行きたかった。見たことない世界が見たかった。ここがすべてじゃないんだって証明したかった。

きっと、僕らを海へ駆り立てた理由というのはそういうことなんだと思う。

大宮ボラセンはセンターとしての規模はかなり小さく、マンションのワンルームを借りて運営されていた。ボランティアスタッフ(通称「ボラスタ」)の数もよそのセンターと比べると少ない分、お互いの距離が近かった。

だからなのか、大宮ボラセンはよそからよく、「仲がいい」「アットホーム」と言われていた。

ボラスタ経験者はみな、自分の育ったセンターこそが一番だと思っていると思う。それでいいと思うし、僕も大宮が一番だと胸を張って言える。

そして、去年の10月、大宮ボラセンは4年半の歴史に幕を下ろした。

今宵の月のように

夕方五時。といっても、もうすっかり暗くなっている。最初に大宮駅に集まったのは、僕を含めて4人だった。僕以外はみんな女の子。皆、半年近くあっていなかった。でも、すっかり冷え込んだ12月の空気だけど、あって少ししゃべれば、半年の時間の隔たりなんてとけていった。

後からみんなちらほら来るとのことで、先に氷川神社へ行くことに。あの頃歩いた大宮の街を神社に向けて進んでいく。

一歩一歩、そこにある思い出をかみしめながら。

10分ほどあれば氷川神社にたどり着く。関東地方にいっぱいある氷川神社の総本山。2kmある参道は空から見れば街中に伸びる一本の緑の線に見える。

といっても、2kmも歩くわけはなくて、神社から500m位のところから僕たちは入った。

紅の鳥居をくぐると、普段は緑に囲まれた賛同も今日ばかりは屋台が並び、冬空の下でお月様のように明るい。その中を流れる川のように多くの人が行きかっている。

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十日市の様子

僕たちはステーキ串を買って4人で分け合った。正確に言うと、恵んでもらったんだけど。

途中で大宮のスタッフだった人と合流し、5人で最後の鳥居をくぐり、神社の境内へと入っていく。

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氷川神社の鳥居
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本殿の入り口

いつもだったら開けた砂利の境内も、右も左も上も熊手で囲まれている。そこを抜けて本堂でお参りを済ませ、屋台で味を楽しみながら待っていると、一人、また一人とやってきて、いつのまにか8人に膨れ上がった。

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熊手を売っているところ。
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高い熊手を買うと、三本締めの声が響き渡る。

この時になると、もうすっかりあのころの空気だ。十日市の雰囲気を楽しみつつも、僕らはエレカシのあの歌みたいな、あのころの雰囲気を懐かしむように味わっていた。

「俺たちが集まれば、そこがボラセンだから」

集まれれば、別に十日市でも、クリスマスでも、初詣でも、何でもいいのだ。旅はどこに行くかではなく誰と行くか。ピースボートに乗る人が口をそろえて言う言葉だ。

僕が88回クルーズに乗ることを決めたのは、大宮の仲間がたくさん乗るからだった。だから、地球をぐるっと回ってさえくれれば、行先はどこでもよかったんだ。

人間交差点

夜8時。僕らは大宮から電車に乗って蕨という町に向かった。仲間が働いているホテルで、みんなで鍋パーティ&お泊り会をするのだ。

電車に乗ると、みんなで八景島や秩父に行ったことを思い出した。あのころは、月に1回みんなでどこかへ出かけていた。

電車に乗って15分くらいで蕨駅に着く。日本一小さい市として知られる蕨の駅前は、大きな建物がいっぱい建っている。いつだったか、ここから15分近く歩いてポスターを貼りに行ったっけ。

みんなで駅前のスーパーで買い出しをする。「一番好き嫌いがなさそう」という理由で、鍋のスープは寄せ鍋に決まった。みんなで割って620円。

スーパーを出て8分歩くと、今日の宴のお宿に着く。町中のマンションを改装したと思われるお宿を2部屋借りた。一部屋12000円なのだが、みんなで割って3000円。締めて3620円。

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ホテルのパンフレット

居酒屋で飲むのと同じような値段だ。でも、これでお泊りがつくうえ、プライベートが確保できる。

鍋パは女子部屋で行われることに。部屋の間取りといい、なんだか大宮ボラセンに似ていた。

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ホテルの部屋。大宮ボラセンもこのような感じの部屋だった。こんなオシャレじゃないが。

「本当にいい場所を選んだねー」などと言いあう。

ホテルといっても部屋の中にキッチンも洗濯機もある。お鍋の準備をしたり、足りない食器やいすを男子部屋からとってきたり。

段取りができない僕は、ブログ用に写真を撮るばかり。そういえば「ADHDの段取り」みたいな本があったが、そろそろ本気で読まないといけないのかもしれない。

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鍋の準備をしているところ

9時過ぎになって、船を降りてピースボートスタッフになった仲間が仕事を終えてやってきた。これで予定していた仲間は全員来た。大宮恒例の「海賊乾杯」をする。

「野郎どもー!! 船が出るぞー!!」

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大宮の仲間で東京ONE PIECEタワーへ行ったこともある

といっても、近所迷惑を考えてささやき声である。

鍋を囲みながら、各自の近況が報告される。

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ピザと鍋がターンテーブルとミキサーのように並んでいる
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寄せ鍋。締めはおうどん。

新たな仕事を始めたやつ。

仕事を辞め、旅に出ることを決めた人。

新天地へ向かうことになったやつ。

人生の大きな決断を下した子。

別々の場所からこの大宮に来て、船に乗って、また別々の場所に旅立っていく。まさに人間交差点。

そして、夢の入り口に立った子がいる。ここから少し、その子の話をしたい。

「空は青く澄み渡り、海を目指して歩く」(「RPG」より)

その子は僕より7個年下の女の子だ。

小柄で幼く見え、明るく人懐っこい子だけど、その笑顔の裏には、中学のころ、周りになじむことができず不登校だったという過去を抱えている。

大学へ進学するも、そこでも周囲に、特に同世代の学生たちに溶け込むことができなかった。

近所の人に大学に通っていると告げると、「今が一番楽しい時でしょう」と言われた。

それが、つらかった。

ずっと「普通になりたい」と願っていた。

そんな彼女も地球一周にロマンを感じ、大宮ボラセンに通い、埼玉でポスターを貼るようになった。

そこで、彼女は初めて心を許せる仲間に出会えた。表面上の馴れ合いではなく、それぞれがメロウを抱えた仲間たち。

僕は、彼女のちょっと後輩にあたる。一緒にポスターを貼りに行ったり、大阪の キャンプに参加したり、ずいぶん同じ時間を一緒に過ごした。

僕とその子は同じ船に乗った。船に乗って1週間ほどたったフィリピンでの港の夜、そのこともう一人、当時18歳だった大宮の仲間の男の子に、話があると僕は呼び出された。

その話は、二人が参加している「グローバルスクール」という船内のプログラムに参加しないか、というものだった。

グローバルスクール、通称GSについてはまた日を改めるが、簡単に言えば引きこもりや不登校経験者、今もそのさなかにいる人たちを支援するプログラムだ。実は、僕も船に乗る前に母に参加を促されたが、引きこもりでも不登校でもなかったので参加しなかった。

もちろん、僕は二人にそのことを告げた。どっちの経験もないのに入っていいの?と。

それに対して二人は、決してそういう経験がなければ入れないわけではない、ノックみたいな人がいっぱいいるから入ろうよ、と答えた。

引きこもりは決して僕とは無縁の存在ではない。引きこもりと社会人の境目みたいなところを歩いてきたという自覚があった。

何より、二人のことを信頼していた。

自己評価よりも、二人の意見を信用することにした。

そうして、僕はGSの15人目のメンバーになった。

その時、GS担当のスタッフから聞かされたのが、二人のうち特に女の子の方が僕の加入をプッシュしていたらしい、とのことだった。

「ノックが入ればノックとGS両方に効果があると思う」と言っていたのだとか。

二人が誘ってくれたおかげで、かけがえのない友達が増え、かけがえのない日々が送れた。感謝しても感謝しきれない。

さて、そんな彼女であるが、船の中で大きな変化が見られた。そのきっかけはシンガポールだったと思う。

日本軍によるシンガポール占領の歴史を学ぶ「昭南島ツアー」に僕も彼女も参加していた。

そこで、彼女は血みどろの歴史にショックを受けていた。感受性が豊かなんだ。

その後、昭南島ツアーの報告会の準備をみんなで進めていた。

彼女は発表者の一人だったが、本番前に50人ほどの聴衆を前にガチガチになっていたのを覚えている。

この後あたりから、彼女は今まで関心がなかった「平和」を中心とした国際問題に興味を覚えるようになっていった。アウシュビッツに関する本を借りて読んだり、国際問題に関する企画に積極的に参加していったり。

彼女が今の大学になじめずに悩んでいることを知っている僕は、「やりたいことが見つかったのなら、今の大学なんてやめてそっちに行けばいいのに」と思っていた。

しかし、僕に学校を辞めた経験はない。相談されてもいないのに無責任なことなど言えない。

やがて、彼女は人気のアウシュビッツ見学ツアーの空きを確保し、1週間ほど船を離れ、ポーランドへと向かった。

アウシュビッツで何を見たのか、何を学んだのか、詳しくは知らない。もちろん、アウシュビッツでの話は聞いたが、わかったことは2つ、「現地へ行かないと何もわからない」と、「アウシュビッツに行ったことが彼女に大きな影響を及ぼした」ということ。

帰ってきた彼女は、GSのみんなの前で堂々と宣言した。

「生まれて初めて、夢ができました!」

今の大学を辞めて、平和について学べる大学、学部に入り直す。それが彼女の決断だった。

彼女が自分の意志で答えを出したことで、僕もようやく、ずっと思っていた「大学を辞めて、入り直した方がいいのではないか」という思いを伝えることができた。

でも、日本にいる両親に彼女がその意志を伝えると、両親はとても驚き、帰ったら一回話し合おうと返事をした。

そのことには僕も驚いたが、よくよく考えれば、両親は彼女の船での変化を知らないのだ。当然と言えば当然の反応だった。

それと同時に、家族ですら見ていない彼女の変化を、一人の人間が人生の大きな転機を迎えるのを、こんなにも間近で見させてもらえたことを光栄に思った。普通は学校の先生などの仕事をしないとこんな経験はさせてもらえないと思う。

以前、大宮のスタッフが、「仕事が大変でも、人が変わっていく過程を特等席で見させてもらえる。こんなに楽しい仕事はない」と語っていた。その気持ちが、少しわかった気がした。

それから、彼女は、寄港地の度にスマートフォンで大学を調べたりと、生まれて初めてできた夢に向けてわくわくが止まらない感じだった。船の中でも企画に参加するだけでなく、自ら積極的に企画運営にかかわるようになっていった。

シンガポールの発表会でガチガチに震えていた時の姿は、もうどこにもなかった。

彼女は船を降りて家族と話し合った結果、もう一年今の大学に3年生として通った後、別の大学に2年生として編入することに決めた。

そして、8か月間、彼女は受験勉強をした。

頑張ることに関しては何の心配もしていなかった。むしろ、頑張りすぎてやしないかと心配するくらいだ。

編入試験は一般入試よりも早く終わるため、勉強期間は短い。さらに、一次試験を40人が受けて二次試験に進めるのはたったの4人、その後には教授の面接が待ち受けているという難関だ。

そして迎えた12月10日。彼女の口から、本命の大学への編入が決まったことが告げられた。4月からは親元を離れ、寮生活も始めるそうだ。

もっとも、合格発表の日のLINEが既にうきうきしていたことから、うまくいったんだろうなとなんとなくわかっていたのだが。

約8か月ぶりにあった彼女は、嬉しそうに社会学について語っていた。彼女がかつて不登校だった経験を踏まえて、「不登校が個人にとってリスクになりかねない社会」というものを突き詰めて行きたいと考えていた。

「平和」と聞くと、ついついどこか遠い異国の戦場や、空爆されている市民を思い浮かべる。

だが、憲法9条があるはずのこの日本も実は平和とは言い切れない。今日もどこかで誰かが、閉塞感にあえぎ生きづらさを感じている。

彼女にとっての平和とは、誰しも平等に制度や社会構造の救いの手が差し伸べられること。決して、爆撃機飛び交う砂の街だけが戦場ではない。70年も平和なはずのこの国でも、子供がたった一人で見えないなにかと戦い、爆撃を受けた廃墟のように心が崩れていく。PKOのような応援部隊など誰も来ない。

そういう意味では、戦場で母をなくして泣き叫ぶ子供も、学校に行けず一人部屋にこもって時間をつぶす子供も、彼女にとっては何も違わない。

社会学を学ぶことで、この国を追う「見えない戦争」「かりそめの平和」に光りがさせるのではないか。今、社会学が彼女の希望だ。

彼女がレアケースとは思わない。船に乗って人生を変える大きな出会いがある人を、僕はほかにもたくさん見てきた。

それでも、彼女は僕ら大宮ボラセンの、自慢の妹だ。

わかもののすべて

夜は更ける。

あの頃毎日聞いていた声が隣で響いている。

あの頃毎日見ていた顔に囲まれている。

誰かの話に腹がよじれるほど笑う。

部屋の雰囲気がボラセンに似ていたのもあってか「俺らが集まればそこがボラセン」なのだと実感させられる夜だった。

全員が泊まるわけではなく、明日も仕事だと3人ほどが帰って行った。

が、そのうち一人から電話が。どうやら、道に迷って終電を逃したみたい。

結局、男子3人、女子4人が残った。

船を降りてからこれまでのことを語り合う。本当にあのころに戻ったようだった。

夜もさらにふけ、僕らは男子部屋へと戻って寝ることにした。

時刻は深夜2時。思うと、5時に集合してからここまでびっくりするほど長かった。

「これがずっと続いたらねぇ」

「でも、あのころはこれがずっと続いていたんだなぁ」

本当にあのころに戻ったみたいだ。

でも、本当はもう、あのころには戻れない。淋しいが、わかっている。みんなもう、それぞれの道を歩き出しているのだ。

そして、一人思う。

僕は果たして、歩き出しているのか? この1年、同じところに留まり続けていただけではないのか?

だって、僕には「おめでとう」とか「頑張ってね」って言ってもらえるような報告が何一つない。

 「また会う日までそれぞれの道で」(「琥珀色に染まるこの街は」より)

朝を迎え、9時に女子部屋へと向かいみんなで朝ご飯を食べる。ドラゴンボールはなぜか野球に興じ、ONE PIECEは12ページを30分かけてやっていた。

ホテルから駅へと向かう帰り道、冷たい冬の空気をかき分けながら、「よくこんな寒空の下、みんなポスター貼ってたな」と笑いあう。それぞれがそれぞれの道へと向かい、次に会えるのはいつなんだろう、そんな話をする。

「みんな、埼玉から旅立っちゃうんだねぇ」

やっぱり、僕らの本質は旅人なんだ。ひとところにはとどまらない。つくづくそんなことを考えさせられる。あのころ、埼玉に集った仲間たちの多くは埼玉で暮らしていた。でも、大宮ボラセンが閉鎖して1年。シェアハウスは2か月ぐらい前に閉鎖した。

そして、みんな埼玉から旅立っていく。

でも、僕は埼玉に残る。

新天地へ行く予定もなければ、そもそも引っ越すお金も、部屋を借りるお金もない。

だが、僕の仲間は、お前の感じてる劣等感なんて気のせいだとでも言いたげに笑った。

「ノックは埼玉を守ってよ」

ハシリツヅケル

最寄駅までは電車で10分もかからない。電車を降りて一人になった僕は、どこかもやもやした気持ちと、どこかすがすがしい気持ちを両方抱えて、駅前のスクランブル交差点で信号を待つ。

みんなと久しぶりにあって思ったこと。みんな、前に進んでいる。自分の道を歩き出している。

僕も歩いているつもりでいたが、僕の歩みはどうも遅い。

どうやら、僕は人よりだいぶ不器用らしい。

多くの人はいくつか武器を持っていて、状況に応じて使い分ける。

 

でも僕は、相手が空を飛ぼうが守りに入ろうが、何人いようが愚直に剣を振り回すだけ。相性の良し悪しは関係ない。剣しか持っていないんだから。

思えば、船に乗っている時からそんな生き方だった。立ち止まってうまく立ち回った方がいいんじゃないかと思ったこともあったが、思ったところで立ち回れない。

自分ができること、やりたいことをやるしかなかったし、うまく立ち回っている自分を好きになってもらったところで、たぶん長続きしない。

だから、走りつづけることしかできなかったけど、そうやって数えきれないほどの人と出会えた。

突っ走ったんじゃない。突っ走ることしかできなかった。

地球一周を選んだんじゃない。地球一周しか行くところがなかった。

フリーライターを選んだんじゃない。フリーライターしかできるバイトがなかった。

人一倍、不器用なのだ。臆病でプライドが高くて、かまってちゃんなのだ。

だから、相手が鎧を着ていようが、戦車に乗っていようが、要塞に立てこもっていようが、斬れるまで刀を振り回す。それしか僕にはできない。

人よりは時間がかかるだろうが、それしかできないならそうするしかない。そうやって走りつづければ、ちょっとした奇跡がその先で待っているかもしれない。

だから、僕は僕なりに一歩一歩歩くしかない。僕がほかの誰の真似もできないように、誰も僕の真似はできないはずだ。

そんなポジティブな僕を背後から、ネガティブな僕が銃を突き付け、あざけるように笑う。

「お前さ、おれのこと忘れてない? 人一倍ねたみやすく、人付き合いが苦手で、消えてしまいたい願望を抱えてる俺のことを。船に乗って地球一周してさ、ちょっと成長した気になって、俺のことなんか忘れてんだろ? でも、逃げらんねぇよ。俺はお前だから。俺のことを忘れたら、俺はお前を撃ち殺すよ」

僕は彼の銃口を握り返す。

お前のことを忘れるもんか。この先、どこへ行こうとも、お前と一緒だ。お前は俺だ。

「はっ、どうだか。忘れるなよ。俺はいつでもお前を見てる。お前がこの先どんな幸せを手にしようとも、どんな称賛を浴びようとも、ずっと俺はお前に狙いを定めてる」

信号が変わる。僕は、「僕ら」は、一歩一歩、自分のペースで歩き出した。このまま歩き続ければ、いつかまた「約束のあの場所」でみんなに会えると信じて。

 

この記事を、仲間であり、同志であり、友人であり、家族であり、兄弟であり、帰るべき場所である大宮ボラセンに捧げる。

ピースボートのボランティアスタッフになったらこんな毎日だった

ピースボート地球一周の船旅の特徴。その一つがボランティア割引制度だろう。僕はこの割引をためるボランティアスタッフ(通称「ボラスタ」)として8か月活動した。外からはなかなか見えてこないであろう、ピースボートのボラスタがどんな毎日を送っているのか、どんな思いでポスターを貼っているのかを書いていこう。


ピースボートのボランティア割引制度とは?

「ボランティア」といっても、ゴミ拾いなどをしているわけではない。

感覚としては、アルバイトに近い。

NGOピースボートの活動を手伝うことにより、バイト代が支給されない代わりに、働いた分だけ乗船費が安くなるという制度だ。ボランティア割引、通称ボラ割という。

30歳未満なら、最大で全額割引き、タダで乗ることができる。これを「全クリ」といい、全クリした人を「全クリスト」という。

僕も全クリストだ。だから、ピースボートに乗船費は1円も払っていない。

30歳以上の場合、割引きは半額までしか適用されない。これは、ピースボートが若い世代に世界を見てもらいたいという理念を持っていて、なるべく若い人に乗ってもらいたいからだ。

ボラスタには比較的若い世代が多く、学生やフリーターが多い。

ボランティア割引① ポスター貼り

ここからはボラスタの日常について見ていこう。

まず最初に書かなければいけないのが、僕は「ボランティアセンターおおみや」しか知らない。大宮ボラセンは今はないので、他のピースボートセンターに行くと、「あれ、話と違う」ということがあるかもしれない。そこをわかったうえで読んでほしい。

ボラスタが行う活動のメインがポスター貼り、通称ポス貼りだ。

ピースボートのポスターを街中で見たことがある人は多いだろう。このポスターは、ボラスタたちがせっせと貼っている。

3枚で1000円分の割引がたまる。1日で1万円分、うまくいけば2万、それ以上ためることができる。1件1件を店を回り、頭を下げ、ピースボートの活動を説明し、交渉し、時に怒られ、時に励まされながらポスターを貼っている。

朝の10時に事務所が開き、まずは今日のエリアを決める。自分で選べるところもあるらしいが、大宮は規模が小さい分、ピースボート職員とボラスタの距離が近く、職員がボラスタの力量を把握していたので、職員がそれぞれの力量にあった場所を選んでくれていた。

エリアが決まったら電車に乗ってその町に行く。そしてひたすら歩き、お店に入り、交渉して、ポスターを貼る。場所によっては夜遅くまでかかることもある。

ただ、人によって得意不得意がある。やはり、営業経験のある人が優位のようだ。ただ、ポス貼りを続けていく中で交渉の技術を鍛えた人もいる。

また、体力も必要不可欠だ。毎回約2万歩近くを歩く。

さらに、冬は寒いからっ風にさらされ、梅雨時には雨に打たれ、夏には(特に僕の活動していた埼玉ではより一層)暑い日差しに汗も乾き、体に噴き出た塩がこびりついている、なんてことも。

雨にも負けず、風にも負けず、雪にも、夏の熱さにも負けない丈夫な体が必要だ。ん? どこかで見たことのある文章だ。

その上、精神力も必要だ。営業中のお店にって「ポスターを貼らせてください」などといっても、断られるのが普通だ。何軒も連続で断られたり、心無い人に罵声を浴びせられたり。「心が折れた」なんて日常的に使う言葉だ。

そんな思いをしてまでなぜポスターを貼るのか。

そこに、どうしても叶えたい夢があるからだ。

どうしても見たい景色がある。どうしても行きたい場所がある。

だから、僕らはポスターを貼る。

ボラスタの活動をしていれば、船に乗る前から仲間ができる。一人ぼっちで船に乗ることがなくなるのだ。

また、悪い人がいれば同じくらい、いや、悪い人なんかよりもずっと多く、励ましてくれる人たちがいる。そんな人に出会えるのが、何よりの喜びだ。

「今日もまたどこへ行く。愛を探しに行こう」

 

ボランティア割引② 内勤

このポスターを準備することでもボラ割をためることができる。ポス貼りと比べれば額は少ないが。

ポス貼りと違い室内で行うので、「内勤」と呼ばれている。

全国の事務所によってやり方は変わるが、大宮では次のようなことをやっていた。

まず、ポスター貼りに使う両面テープを準備する。5㎝ほどに切りそろえるのだ。

準備が終わったら、それをポスターに貼っていく。全部で9か所。こうすれば、現場ではテープの紙をはがすだけだ。

10枚ポスターができたら、丸めて輪ゴムで止める。その繰り返し。ポスター以外に、ポスターに張り付けるチラシも準備する。

単純作業だが、仲間たちとおしゃべりをしながら作業できる。ポス貼りと比べて肉体的疲労もない。時間も自分の都合に合わせて作業できる。

こちらは、年配の人がやることが多いが、若いボラスタも内勤をする。

ボランティア割引③ 船内見学会

ピースボートでは年に3回くらい、全国の港でオーシャンドリーム号の見学会を行っている。その受付を手伝うこともボランティア割引の適用内だ。

しかも、休憩時間に船内を見学することができる。いつか「我が家」となる船を見学するのはとてもテンションが上がる。

また、船が帰ってきたときにもボラスタの出番はある。船から降りてくる人たちは、歩いて持ち帰るのが無理なレベルの荷物を抱えて降りてくる。そういった荷物は宅配で自宅へと送られるのだが、その際に佐川急便さんのお手伝いをするのだ。

こういったピースボート全体を上げたイベントは、普段はあまり接点のないよそのピースボートセンター所属のボラスタと交流できる貴重な機会の一つだ。

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オーシャンドリーム号 in タヒチ

ボランティアスタッフの日常① 定例会

どこのピーセンでも、週に1回定例会を行っている。大宮ボラセンでは「さいた丸」という名前で毎週水曜日に行われていた。

定例会開催の名目上は連絡事項の伝達だが、親睦を深めるという意味が大きい。

職員がせっせと作ってくれたこだわりの料理をみんなで食べ、連絡事項が終わったら、楽しいイベントの時間。さいころトークのようなレクレーションをやったり、時にはゲストが来たりする。

乗船を控えたメンバーがいるときはいってらっしゃいパーティ、略して「いってらっぱ」が開かれる。いわば、ボラスタの卒業式だ。

このような定例会以外でも、ポス貼りが終わったらすぐ帰るボラスタというのはあまりいない(終電の都合などで早く帰る人ももちろんいるが)。事務所に残り、地球一周という夢を語り合う。そんな毎日だった。

ボランティアスタッフの日常② P-1グランプリ

数か月に一度、p-1グランプリという大会が開催される。全国のピーセンごとに、1週間のポス貼りの成果を競い合うのだ。

とはいえ、「枚数」では日本一の商業都市である東京と埼玉では勝負にならない。それぞれのピーセンごとに目標枚数が設定され、その枚数に対する「伸び率」を競い合う。

P-1の週になると、ボラスタも職員も7日間身をすり減らしてポスターを貼りまくる。その分、目標を達成した時の達成感は半端ない。

普段は一人で貼るもの、自分との戦いだが、P-1になると「自分が手を抜いたら目標を達成できないかもしれない」というチームへの責任感を感じるようになる。

いつもよりも枚数を稼げるエリアに行くことができるので、ポス貼りの腕をレベルアップさせる絶好の機会でもある。

ボランティアスタッフの日常③ アルバイト

ボラスタとして活動しても、1円ももらえない。だから、多くのボラスタはアルバイトで生計を立てている。

正社員の仕事をしながらボラスタとして活動することもできる。ボラスタとしての活動は、完全に自分のペースで進めることができるのだ。都合のいい時だけピーセンに顔を出せばよい。

ただ、全クリを目指すのであれば、バイト生活の方が多くの時間を割ける。

僕の経験上、このようなバイトがおすすめだ。

週末のバイト ポス貼りは日曜が休みなので、僕は平日はボラスタをメインに、週末はバイトをメインに活動していた。ボラスタの方が融通が利くので、バイトのシフトと自身の体力に合わせて週に3~4日ほどポス貼りをしていた。

夜勤のバイト 夜勤をメインにバイトをしていれば、日中は内勤をして、夜はバイトという風に1日を使うことができる。バイトではかなり体力を使ったが、内勤は体力を使わないので両立できた。ただし、深夜の夜勤だと生活リズムがくるってしまうのでお勧めできない。

すぐやめれるバイト どうせ、船に乗るときにやめるのだ。すぐやめられるようなバイトがいい。

ボラスタの日常④ 休日

大宮ボラセンでは、月に1度みんなでどこかへ出かけていた。

鴨川シーワールドやディズニーランドをはじめとした遊園地や、電車に乗って秩父に行ったり。

印象に残っているのが、みんなで日野に行ったことだ。

大宮ボラセンには幕末好きが多く、新選組ゆかりの地、日野に行き、資料館をはじめ、新選組にまつわる場所を回って歩いた。資料館では新撰組の浅葱色の服や、土方歳三の洋装のコスプレをして記念写真を撮って楽しんだ。

このほかにも、乗船を間近に控えた仲間がいる場合は、お別れ会を兼ねてどこかに出かけたりする。

また、平日に堂々と休めるのもボラセンの特権である。平日に堂々とディズニーランドに行ったこともある。

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こんなコスプレをして楽しんだ。 出典:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/a2/38e86c360372d82c1f397c07f9e9972b.png

ボラスタとは不思議な縁だ。年代も経歴も将来の夢すらも違う人たちが、一つの場所に集まり、夢を語らいあう。彼らをつなぐ絆はただ一つ「地球一周にロマンを見た」

夢を追いかけ、仲間たちと語り、笑いあったかけがえのない日々。「俺たちのドラマは今、最高に視聴率が熱いところなんだ!」が合言葉だった。

「閉塞感」という言葉が恐怖の大魔王のように支配している昨今、ピースボートの事務所のように、「勇者の酒場」となるべき場所が必要なんだと僕は思っている。

ポスター貼りのもっと細かい実態についての記事はこちら!

経験者にしか絶対にわからない!ピースボートのポスター貼り喜怒哀楽!

ピースボート地球一周の船旅の魅力

飛行機ならわずか1時間で進む距離を、船旅だと丸1日かけて進む。ピースボートのように地球一周となると3か月ほどかかる。あるものは仕事を辞め、あるものは学校を休学して船に乗る。何がそこまで人を海へ、船旅へと駆り立てるのだろうか。今回は、乗った人にしかわからない、ピースボート地球一周の船旅の「魅力」に迫ってみる。

ピースボートの船旅への誤解

スイートルームに泊まり、シャンパン片手にキャビンの窓から水平線に沈む夕日を眺める。夜にはドレスを着て高級レストランで、豪華フルコースと素敵な音楽に舌鼓を討ちながら社交パーティに興じる。

そんな豪華絢爛な船旅に魅力を感じているのなら、ぜひ頑張ってお金をためて飛鳥Ⅱに乗ってほしい(笑)。

我らがオーシャンドリーム号でも、奮発すればいい部屋に泊まれるし、「リージェンシー」という立派なレストランもある。部屋でシャンパンは飲めるかどうかは知らない(寄港地でお酒を買っても、船に預けなければいけない)。

しかし、豪華絢爛船の旅を想像していると、乗った後でがっかりするという話をよく聞く。

オーシャンドリーム号は「地球一周できる客船」ではあるが、「豪華客船」ではない。

若者も多く、「海の上の合宿所」、よくて「海の上のビジネスホテル」である。

いきなり悪口から入ってしまった。まあ、当然である。

船に限らず、人も組織も国も、知れば知るほど良い面も悪い面も見えてくる。悪い面が全く見つからないなんてことはあり得ず、その悪い面に折り合いをつけて僕らはうまくやっていく。

人でも組織でも国でも、「すべてが好き」だったり「すべてが嫌い」などという人は、実は「何も知らない」と言っているのと同じなのだ。

いろいろ長くなったが、ピースボートの船旅は決して豪華な旅ではない。ピースボートの船旅の魅力は、「そこ」ではないのだ。

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船内はこんな感じ

ピースボートの船旅の魅力① 異国がすぐそこに

ピースボートの船旅に限らず、船旅の魅力の一つはなんといっても、飲んで食って起きたらもう外国」という点だろう。四角大輔さんの言葉を借りれば「Door to door」

バスや電車、飛行機でも飲んで食って寝ることはできるが、狭い椅子に座りっぱなしであまりリラックスはできない。ずっと座ってただけなのに、気づけばぐったり疲れている。

船の場合、それはない。船内は自由に歩けるので、好きな場所でのんびりと羽を伸ばすことができる。キャビンで寝ていてもいいし、ジムで汗を流すのもいい。フリースペースでソファに持たれながら仲間とおしゃべりするというのは、船内でよく見かける光景だ。

そして、朝起きたら、そこはもう異国の港である。モンテネグロではフィヨルドの山々に当たりを囲まれ、パナマ運河では目の前にジャングルが広がり、タヒチでは朝起きたら楽園だった。

僕自身、最初の寄港地セブ島では10年ぶりの海外ということで少し緊張していたが、最後の寄港地サモアでは財布も持たずに散歩気分で外を歩いていた。外を歩いてから「そういえば、ここ外国だった」と気付いたくらいだ。

「朝、起きたら異国」。そんな経験を繰り返すうちに、異国が身近になっていく。これが船旅の魅力の一つだ。

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タヒチ・ボラボラ島。船内で朝ご飯を食べながら。

ピースボートの船旅の魅力② 船からの絶景に価値観も変わる

「誰も見たことがない景色」というのはどこにあるのだろうか。

人類がいまだ到達していない、月よりさらに向こうの景色など、まさにそれだろう。だが、何も「人類史上誰も見たことがない景色」でなくても、「現代人のほとんどが見たことない景色」というのがある。

船旅はまさにそれだ。飛行機の登場以前は、「海外」といえば文字通り船に乗っていくのが当たり前だった。それは島国である日本だけでなく、遠くへ行こうとすれば、船に乗らなければいけなかったのだ。国内の移動でも汽車や電車が登場するまでは船が最も一般的な乗り物だったのだ。

交通網の発達で船旅をする人は希少になってしまった。

だからこそ、僕らは海に恋い焦がれる。船の上から見る景色はどんなものか、船に乗る前には想像もつかなかった。

船の上から見える景色は、毎日青い海と青い空ばっかり。だが不思議と飽きることがない。

どんな陸上の景色が変わっても、海の上の景色は何万年も前からずっと変わらない。古代ギリシャの商人も、大航海時代の探検家も、カリブの海賊たちも、戦艦大和の乗組員たちも、すべて同じ青い海を見てきたのだ。

青い空、青い海、夕日、朝日、星空。眼前をゆっくりと通り過ぎていく、名前も知らない島。価値観を揺さぶる風景など、一生忘れられない景色など、いくらでも見れる。

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坂本龍馬も、ナポレオンも、コロンブスも、きっとこんな景色を見ていたのだろう。

ピースボートの船旅の魅力③ 船の中の暮らし

船の中では様々なイベントがある。ピースボート側が用意するものもあるし、自分で企画することもできる。旅人の中には、船に乗る前から船内でチャレンジすることを決め、準備をしてきたものもいるくらいだ。

船の中ではなんだってできる。音楽活動だったり、ダンスだったり、美術作品制作だったり、映像制作だったり、イベントの企画・運営だったり、本当に何でも。

そして、旅人達は仲間のチャレンジを常に受け入れてくれる。陸の上では指差されて笑われそうなことでも、船の中では必ず誰かが面白がり、応援してくれる。

本当に不思議な空間だ。これこそが、ピースボートの船旅ならではの魅力だろう。

あるスタッフは、船に乗る前に「船は積極的じゃないと楽しめないよ」と言っていた。また、あるスタッフは「立場的には何度も船に乗ってほしいんだけど、個人的にはこう思っている」と前置きしたうえで「これが一生のうちで最後の地球一周だと思った方がいい」と言っていた。

船の中では決して受け身では楽しめない。至れり尽くせりの豪華客船が望みなら、悪いことは言わない。飛鳥Ⅱに乗りなさい。

そして、船の中でやりたいことがあったら、やり残してはならない。某麦わらの海賊は「気に食わなかったらもう一周する」などと言っていたが、「もう一周」などないと思って乗るべきだ。

そうでないと、楽しめない。「これを逃したら、もうこんなことするチャンスなんてない」、そう思うことだ。

旅路の果てに ~ピースボートの船旅の後も、僕らは旅を続ける~

ピースボートは「多様性」というのを一つのテーマに掲げている。その言葉が示すように、船旅の後に旅人達の歩んでいく道もまた様々だ。ピースボートで出会った仲間たちは、船旅が終わってもそれぞれがそれぞれの旅をつづけている。今回はそんな旅人達の、船旅という旅路の果てに迫っていきたい。

ピースボートの船旅を終えて① 新たな道に進む者

ピースボートの船旅をきっかけに、それまでの人生とは違う道へと歩む者たちがいる。今まで知らなかった世界を知り、今までとは違うことを学ぶために学校へ行く者。東京に移り住んで新たな生活を始める者。逆に地方に移り住んで、自然の中で暮らし始める者。新たなチャレンジを始める者。自衛隊に入って国民のために働く者。

船旅の話をするとたいていの人がうらやましがってくれる。しかし、そこから自分も船に乗ろうと決断する人は少ない。その理由の一つが、「船を降りたとき、復職できるのか」という問題だ。

しかし、仲間の一人がこんなことを言っていた。

「船に乗ると価値観が変わる」

どこまでも広い海を見ていると、今まで生きていた世界がいかに狭いものだったか思い知らされる。世界のいろんな町でいろんな人々と触れ合うと、日本も所詮は世界の一部にしか過ぎないことを思い知らされる。

船の中でいろんな企画に積極的にかかわっていくと、思ってもみないことで褒められたり認められたりして、自分の新たな可能性の中に気づくことがある。

だから、下船後の人生設計をしっかりと建てて船に乗るというのはあまりお勧めしない。プランそのものが大きく変更されることが多いからだ。船の中でゆっくり考える時間はいくらでもある。

そう言えば、警備員から無職を経て船に乗り、船旅を終えて何を勘違いしたのかフリーライターになった、自由堂ノックという男もいる。彼もまた、新たな道に進んだものの一人だ。

ピースボートの船旅を終えて② それまでの日常に帰る者

船に乗ると、旅に出ると、確かに価値観が変わる。だが、すべての人が新たな道に進むわけではない。

ピースボートには学生も多い。その多くが、大学を休学して乗ってくる。中には、ピースボートに乗ることに単位が出るという奇特な学校もある。こういった学生の多くは、再び大学へと戻っていく。

また、船旅の後、もともとやっていた職業に戻る人もいる。

しかし、もともとの道へ戻っていったとしても、船旅で得た物の影響というものは確実にあるだろう。

新たな道に進む者と、元いた道に戻るもの。どちらが偉い、という問題ではない。

一見すると新たな道に進む方が大変そうに見えるが、元いた道に戻るということは、船旅よりも前に「自分はこの道を行く」と決めていた人たちなのかもしれない。要は、自分の人生を変える出会いが、決断のタイミングが船旅の前か後かという違いなのだろう。

出典:http://hacks.beck1240.com/wp-content/uploads/IMG_2861.jpg

 

ピースボートの船旅を終えて③ いまだ、迷い続ける者

すべての人が船旅を終えた後に確固たる道を歩むわけではない。船旅を終えた後も、自分の進むべきが見つからないというものももちろんいる。むしろ、人としてそれが一番自然なのかもしれない。旅で得た刺激はあまりにも多く、そのすべてを消化して自分のものとし、どの道を歩くのかを見定めるには長い時間が必要だろう。

僕自身も、「新たな道に進んだ」とは書いたが、壮絶な決断を下したというよりは、「そこしか行くところがなかった」が本音だ。決めたはいいが、お世辞にも稼いでいるとは言えず、不安は尽きない。船を降りてからの1年、果たしてこのままでいいのか、いまだ答えは出ない。そうして先の見えない道を歩いている僕もまた、迷いの中でくすぶっている。

不安のない人生など面白みがない。不安がある限り迷いは尽きない。だから、答えを急ぐ必要などどこにもない。一つ迷いを抜けても、またすぐに次の迷いがやってくる。どうせ迷いが尽きないのなら、一つの迷いにとことん向き合ってみるのもまた一興だろう。

仲間の一人が、「ピースボートに乗る奴は前向きなプータロー」だと言っていた。迷いながらも、くすぶりながらも、ゆっくりと前に進んでいる。まあそのうち、なんとかなるさ。

 

ピースボートの船旅を終えて④ 夢に向かう者

船旅を終え、かねてからの自分の夢をかなえたもの、夢にチャレンジする者、夢をかなえるための準備を始めた者。

その中には、ピースボートでの地球一周が、夢に一歩近づくために必要なプロセスであった、というものもいる。

夢を追い続けるものと、迷い続ける者。一見、矛盾しているようで、きっと本質は同じなのだと思う。

なぜなら、今の世の中で夢を追うことほど迷いを多く生むことはないのだから。

夢に向かってまっすぐ進んでいたつもりだったけど、振り返ったら同じとこで足踏みしていただけで愕然とする、なんてこともある。

夢があるから迷うもの。夢が見つからずに迷うもの。だが、どっちにしろ歩かなければ迷うことはない。苦しむこともない。迷うということは、自分の足でちゃんと歩いている証なのだ。

ピースボートの船旅を終えて⑤ 船を出す者

船旅を終え、ピースボートのスタッフになったり、提携する旅行会社「ジャパングレイス」に就職したりする者もいる。

逆に、この二つは地球一周経験者しか採用していない。ピースボートに乗らない限り、この二つの組織で働くことはまずないだろう。

船旅を終えたものがピースボートで働く理由は様々だ。確固たる強い目的があるものもいれば、何となく流れで入ったが性にあっていたのかそのまま働き続ける者もいる。

だが、ほとんどの職員が、何か問題意識を抱いている。それは、国際情勢にだったり、日本の現状だったり、その人の歩んできた道によって大きく異なる。

あるスタッフはピースボートをなくすためにピースボートで働いているという。ピースボートなどなくても、みんなが笑顔で暮らせる日が来ることを、もうピースボートは役目を果たした」と言える日を目指して活動している。

こういった社会貢献ができる仕事は、何もピースボートだけではない。船旅を終えた後、よその団体で働き、社会貢献している者もいる。

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ピースボートの船旅を終えて⑥ 旅を続ける者

船を降りてバックパッカーになる者、再びピースボートに乗船する者、日本をヒッチハイクで旅する者。船を降りてなお旅を続けるものはとても多い。

「旅」とは少し違うのかもしれないが、ワーキングホリデーなどで外国で生活する者もいる。厳密な意味では旅ではないのかもしれないが、日本を離れ異国で生活するというのも旅の一つだろう。

言葉の通じない国での生活というのは、一つ一つが冒険だ。買い物の仕方がまるで違ったり、交通事情がまるで違ったり。言葉が通じないから、バス一つ乗るのも怖い。日本ではなかなか見られないが、タクシーの値段交渉なんてしょっちゅうだ。

今、どこどこの旅路にいる、なんて話を聞くと、うらやましさを感じる一方、何か力をもらった気もする。船であれ電車であれ飛行機であれヒッチハイクであれ、旅というのは常に直感を研ぎ澄まし、日々挑戦が続いていくものだ。この旅の中で日々様々な出会いと別れを繰り返す彼らは、本当に尊敬に値する。

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ピースボートの旅路の果てに

こうやって見ていくと、船旅を終えた後、それぞれが進む道は実に様々だ。

だが、ぼくは、それをたった一言でくくることができると考えている。

僕らは、旅人だ。

新たな道に行くもの、元いた道に戻るもの、いまだ迷い続ける者、夢を追うもの、船を出す者、旅を続けるもの。道は様々なれど、僕らは旅人なのだ。

僕らは旅人。まつろわない。とどまることなく、常に移ろい続ける。

新たな道に進むというのは、まさしく旅だ。何物でもない自分が、何かのなろうともがく旅路。その道の先にあるゴールにたどり着く保証なんてどこにもない。

元いた道に戻るというのもまた旅だ。さっきも書いた通り、新たな道に進む者も、元いた道に戻るものも、タイミングの違いでしかない。元いた旅路に戻っただけである。「日常に戻る」と書くと留まっているように錯覚するが、実際のところ、彼らはとどまることなく、自分のペースで歩き続ける。むしろ、すでに自分のペースで旅する方法を知っていたともいえる。

迷い続けるものなど、旅の醍醐味にいるようなものだ。迷いのない旅ほどつまらないものはない。むしろ、道に迷うことが旅人を強くさせる。

フランス・マルセイユで道に迷い、帰船リミット30分前にぎりぎりたどり着いた、なんてことがあった。相当焦ったが、方位磁針ひとつで何とか船に帰りついた経験は相当な自信になった。

迷いのない人生なんて、敵キャラの出てこないドラクエみたいなものだ。どうやってレベルアップしろというのだ。

夢に向かって進むというのもまた、果てしない旅の一つだろう。迷いや悩みは尽きないが、自分で決断し行動する、果てしない旅路の途中だ。

ピースボートで働くというのも旅路の一つにすぎないと思う。仕事そのものが船に乗るというのもあるが、ピースボートの仕事からまた別の目的地を見つけ、新たな旅路へと進んでいく者も多い。やはり、本質は旅人のようだ。

新たな旅を続けるものなど、改めて書く必要などあるまい。旅人だ。

どのような道を選んでも、みな迷い、それでも決断し、何かを求めて、自分のペースで一歩ずつ歩く旅人である。

僕らは旅人。それこそが僕らの本質なんだろうと思う。

評判を無視してピースボートの船に乗ってみたら、こんな毎日だった

実際にピースボートの船に乗ると、どのような生活が待ているのか。やはり一番気になるのはそこだろう。そこで、今回はピースボートの船内生活の概要について書いていこうと思う。もちろん、あくまでも僕の視点だ。ぼくは88回クルーズしか知らないし、同じクルーズの仲間と話していても、人によって見える景色はかなり違うということがわかる。

ピースボート88回クルーズとは?

2015年8月21日から12月6日までの108日かけて地球を一周したクルーズが、ピースボート88回クルーズである。寄港地は次の通り。

・「貧富の島」セブ島(フィリピン) 2日間

・「森の中の都」シンガポール

・「神秘の街」ムンバイ(インド)

・「砂上の楼閣」ドバイ(UAE) 2日間

・「灼熱の街」ドーハ(カタール)

・「空の上の街」サントリーニ島(ギリシャ)

・「猫と遺跡の港町」クシャダス(トルコ)

・「丘の上の港町」ピレウス(ギリシャ)

・「水の上の美術館」ヴェネツィア(イタリア)

・「石造りの迷宮」ドブロブニク(クロアチア)

・「天空の城」コトル(モンテネグロ)

・「古美術の街」パレルモ(イタリア)

・「曇り空の街」マルセイユ(フランス)

・「陽気な港町」バルセロナ(スペイン)

・「おもちゃ箱の街」ジブラルタル(イギリス領)

・「緑と青と霧の島」ポンタデルガーダ(ポルトガル領)

・「海賊の港町」コズメル(メキシコ) 2日間

・「海賊のリゾート地」ベリーズシティ(ベリーズ)

・「リアル・ロワナプラ」クリストバル(パナマ)

・「最果ての街」カヤオ(ペルー) 4日間

・「楽園の島」パペーテ(フランス領タヒチ)

・「恐竜の島」ボラボラ島(フランス領タヒチ)

・「最後の島」アピア(サモア)

なお、途中でスエズとパナマの2大運河を通る。

そもそも、「ピースボート」という船はない

これはよく誤解されがちなのだが、「ピースボート」という 船は存在しな
い。「ピースボート」はNGO団体の名前である。ピースボートに代わって船会社と契約しているのはジャ パングレイスという旅行会社で、1年間船をチャーターして いる。

2016年現在、ピースボートがチャーターしている船の名前はオーシャンドリーム号。3万5千トンのパナマ船籍の船である。11階建てだが、乗客が立ち入れるのは4階から上だ。

中にはレストランやバー、居酒屋などのほかに、売店や美容室、小さなスポーツジムなどがある。まさに、一つの村だ。

「ピースボート 船」で検索すると、たまに「ご飯がまずい」だの評判の悪い口コミがあるが、これは大抵、先代の船の悪口だ。先代は確かにごはんがまずかったらしいが、オーシャンドリーム号はチャーハンがおいしいので、安心して乗っていただきたい。

ただし、よく「豪華客船の旅だと思って乗ったら、質素でがっかりした」という話を聞く。ここではっきりと言わせてもらおう。

オーシャンドリームは豪華客船ではない!

もちろん、地球一周できる船なのだからしっかりしているが、「豪華」な船ではない。「海の上の合宿所」よくても「海の上のビジネスホテル」だろう。何せ、3食昼寝付きで1日約1万円ちょっとなのだから。

だが、ぼくは若者たちがTシャツ姿でのんべんだらりとしているこの船が大好きだ。あんまり高級すぎるものでは息が詰まってしまう。美術館で生活することはできないのだ。

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我らがHOME、オーシャンドリーム号

 

ピースボートって船の中で働くの?

これも、よく聞かれることだ。ポスターに貼ってある「ボランティアして船に乗ろう」みたいな文言がそう誤解させるのだろう。

ここでいう「ボランティア」とは、船に乗る前の話。船に乗る前にポスター貼りなどのボランティアで割引をためよう、ということを指しているわけで、一度船に乗ってしまったら、毎日寝ていても構わない。

とはいえ、仕事が全くないわけではない。ボランティアで、部活のようなノリで、船内での仕事を楽しむ人たちがいる。

「船内チーム」と呼ばれる活動がそれだ。船内で音響を担当したり、映像の撮影や編集を行ったり、新聞やタイムテーブルを作成したり、イベントを企画したり。必ず入らなければいけないわけではなく、有志が集まって、担当のピースボートスタッフの下で動いている。チームによっては音響機材や映像編集の技術が身に付く。

僕は「新聞局」に所属し、船内で発行される新聞づくりに携わっていた。自分の書いた文章が新聞という形で残るので、日本に戻ってから家族や仲間に船内での活動を見せられるというのが強みだ。

他にも、働きながら船に乗る仲間はいっぱいいる。

CCGET TEACHERがその代表だ。

CCは簡単に言えば通訳さんだ。船内や寄港地での通訳業務に携わる代わりに、ただで船に乗ることができる。忙しそうだし大変そうではあるが、語学の勉強をしている人にとって見れば、この上ない成長の機会なのかもしれない。

GET TEACHERは船内の有料英会話教室「GET」の先生で、外国人の方がほとんどだ。その多くが、日本の学校で英語を教えた経験を持っている。なので、簡単な日本語の会話ができる人もいるが、まったくできない人もいる。だが、みなフレンドリーな人ばかりだ。

他にも、船の中で看護師や美容師として働いている人もいる。また、ヨガの先生や水彩画の先生もいる。彼らも、技能を生かして働くことを条件にタダで船に乗っている。

船の生活ってどんな感じ?

基本的に、毎日青い海と青い空ばかり眺めることになる。地中海以外では島影などほとんど見えない。青い海と白い波、青い空と白い雲ばかり。

それでいて全く飽きないのだから、海というのは偉大だ。

どれだけ地上の景色が変わろうと、海の上の景色は絶対に変わらない。ヴァスコ・ダ・ガマも、カリブの海賊も、インドへ香辛料を求めた商人たちも、旧日本軍の戦艦の兵士たちも、みな同じ景色を見てきたのだ。

船内では毎日いろんな企画が行われている。ピースボート側が用意した真面目な企画から、乗客が自分で企画したくだらないものまで千差万別。「水先案内人」と呼ばれるゲストの講演会をきいたり、ちょっとまじめなワークショップに参加してみたり、音楽やダンスの練習をしてみたり、くだらない企画で仲間同士と笑いあったり、自分で企画をやってみたり。

僕が積極的にかかわった企画は「PBタックル」「フネトーーク!」の二つだ。名前を見ればわかるように、日本のテレビ番組のパロディ企画だ。

PBとはピースボートの略。PBタックルでは本家のTVタックルよろしく真面目な議題を議論するのだが、この企画の軸は、「答えを押し付けるのではなく、議論することを根付かせる」ことを目指すというものだ。

「日本は核武装するべきか否か」という議題では、僕は核武装賛成側に回った。本来は反対側なのだが、反対派の数が多すぎて、そういう「やらせ」をしないと、議論にならないのだ。

すると、これがなかなか面白い。それまでは「核武装などもってのほか!」だったのだが、一回賛成派として反対派の主張を聞いてみると、結構、穴が多い。現在は「核武装は反対なんだけど、それが絶対の正解ではない」という立場をとるようになった。

一方、「フネトーーク!」は基本、完全なバラエティ企画だ。最初は「教育」をテーマに「学校大好き芸人」と「学校大嫌い芸人」に分かれてトークするなど少し真面目要素があったが、3回目にして「ワンピース芸人VSナルト芸人」という、完全なバラエティ企画と化した。

僕はワンピース芸人として出演し、ただひたすら「ワンピースがいかに面白い漫画か」を語った。振り返っても、これが一番、純粋に楽しかった。

他にも、船内では夏祭りや大運動会といったビッグベントもある。

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「見渡せやせぬ……!! それが”世界”だ!!」(ONE PIECE 第82巻55ページより)
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船の8階後方デッキ。プールがあり、9階に上ると「パノラマ」がある。

船室ってどんな感じ?

まず、ぼくは一番安い部屋しか知らない。

一番安い部屋は窓がない。おまけに、4人部屋だ。うなぎの寝床のようなキャビンに、二段ベッドが二つ並んでいる。年の近い人が同じ部屋になる。実際船に乗るまで、誰が同じ部屋になるかはわからない。同室の仲間のことを船内では「部屋メン」と呼び、クルーズの間、共に生活をする。部屋メンがフルでそろっている時は、結構狭い。

もちろん、大奮発すれば個室に泊まれる。

船のごはんってどんな感じ?

先代の船はまずかったらしいが、オーシャンドリーム号のごはんは美味しい。

レストランは3つあって、4階のレストラン「リージェンシー」と9階の屋外スペース「リド」、同じ9階の屋内スペース「パノラマ」の3つのレストランから選べる。和食、洋食、ガッツリ系、ファーストフード風といろいろ選べる。夜のリージェンシー以外は、基本ビュッフェスタイルだ。

ただ、パノラマは夜の営業はしていない。ここは夜になると居酒屋「波へい」として営業している。有料だが、居酒屋メニューが食べられ、いつも賑わっている。

波へいのほかにも、昼は喫茶店、夜はバーとして営業している「カサブランカ」、ピアノ演奏を楽しみながらお酒が飲める「ピアノバー」、カラオケが楽しめる「クラブ・バイーア」などがある。大体、人によって入り浸る店は違っていて、ぼくはカラオケ目当てでバイーアに入り浸っていた(入るだけならただだし)。

ピースボートの合言葉は「船に終電はない!」

また、パノラマは午後3時になるとティータイムになり、洋菓子が食べられる。これが結構な人気である。

船内の意外な人気メニューがカップラーメンだ。カサブランカとバイーアで食べることができる。

地球一周してわかったことが、「日本のカップラーメンが日本人には一番」ということだ。寄港地で買うカップめんは、どれも口に合わない。

だが、このカップめんには限りがある。クルーズ終盤にはどんどん売り切れてしまい、何ともひもじく、さびしい思いをした。

食事についてさらに詳しくはこちら!

毎日がタダで食べ放題? ピースボート船内の食事は実はこんな感じ

船のなかって清潔?

まず、部屋の掃除はハウスキーパーがやってくれる。何も心配する必要はない。

次にお風呂であるが、多くの船室に湯船はない。シャワーがあるのみだ。そのシャワーも4人で1個だから、他の部屋メンのお伺いを立てねばならないが、ぼくは取り合いになったことはない。

お風呂に入りたければオープンデッキにジャグジーがあるが、もちろん水着着用だし、いろんな人に見られる可能性がある。

さて、問題は洗濯である。洗濯の選択肢は二つ。300円払ってクリーニングに出すか、自分で手洗いするか。ぼくはケチなので、自分で手洗いしていた。

船内のお金事情

船内で財布を使うことはない。しかし、お金は使う。売店でおやつを買ったり、酒場でお酒やラーメンを食べたりするのにはお金がかかる。

これらは、首に下げているIDカードがクレジットカードとなって支払うことができる。

このIDカードは寄港地で船に乗り込むときの本人確認に必要なものであり、部屋のカギでもある。

ピースボートの寄港地

ピースボートでは毎回20前後の寄港地に停まる。シンガポールやドバイ、バルセロナといった大都市や、セブ島やタヒチのような楽園、はたまたコトルやベリーズシティ、アピアなどの「どこだよ!」と言いたくなるような場所にもいく。

寄港地ではそれぞれ魅力的なオプショナルツアーがある。定番の名所を巡るものもあれば、その土地の歴史を学べるものや、現地の人と交流できるツアー、アクティビティ系のツアーなどがある。

もちろん、自由行動もできる。お金のない若者は自由行動の方が多い。気の合う仲間と自由気ままに寄港地を旅できる。

ただし、中南米は治安が悪いので、何らかのツアーに参加しないと、命の保証ができない。

僕は、地中海あたりから一人で行動することが多くなった。

一人で歩いていても、小さな寄港地だと誰かしら仲間に出くわす。そこで目的地が一緒ならともに行動するし、行きたい場所が変われば「じゃあ、また船で」と言って別れる。お互い我慢することなく、気ままに旅できるのでこのスタイルが好きだ。

ツアーの中には、飛行機などを駆使して移動するオーバーランドと呼ばれるものがある。また、自由行動でも「離脱」というものが許されている。いったん船を離れ、船ではいかない場所などを巡り、数日して別の寄港地から再び船に乗り込むことができるのだ。人気のあるオーバーランドツアーでごっそり人がいなくなったときは少しさびしい。

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アラビアの世界観は、日本ではなかなか味わえない
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「アドリア海の真珠」と呼ばれる、ドブロブニクの旧市街
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湖ではない。フィヨルドという入り江の朝だ。
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クルーズの終盤に訪れたタヒチのボラボラ島。

ピースボート最大の魅力とは?

ピースボートに乗ったと話すとよく、「どこの国が一番良かった?」と聞かれる。国」と聞かれたので「クロアチアとモンテネグロかな」と国名で答えるが、正直な話、一番良いのは船の中だ。

まず、船から見える青い海と青い空。どこまでも広がる海を毎日見てると、今まで自分がなんて狭い世界に囚われて生きてきたのか痛感させられる。日本なんて世界のごく一部に過ぎず、東京なんてさらにその一部にすぎない。世界には無限の選択肢が広がっていた。

船から見る夕焼けや日の出もこの上ないものだ。海賊対策中には明りを消すので天の川も見える。

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こんな心躍る夕焼けが見たくて、僕らは船に乗る

そして、何よりも108日間共に過ごした仲間の存在だ。横浜を出航した時は、全くの他人だった彼らが、船を降りるころにはかけがえなのない仲間である。

地球一周を終えて横浜で仲間たちと別れる時、口を突いて出てきた言葉は「さようなら」ではなく「ありがとう」だった。

「ピースボート地球一周の船旅」との出会い

「ピースボート」地球一周の船旅について書くに当たり、まずはこの団体との出会いを書かないといけない。僕らは何を思ってピースボートに携わったのか。何を求めて地球一周を夢見たのか。あくまでも僕の目で見た「側面」でしか描けないが、それでも悪意に満ちた妄想よりはましだろう。結論を言えば、「僕らは旅人である」その一言に尽きると思う。

 

自己紹介 夢は「地球一周した民俗ライター」

まず、「お前、誰やねん!」という話である。

名前は自由堂ノック。もちろん、本名なわけがない。

「ノック」というあだ名は、ピースボートに携わるようになってボランティアセンター(以後「ボラセン」)のスタッフにつけてもらった。

ピースボート内では、乗船者はもちろん、スタッフもみんなあだ名で呼び合うことがほとんど。「自由堂」は船を降りたあとで勝手につけた。

ピースボート88回クルーズに乗船し、地球を一周した後、フリーライターとして細々と生きている。裁判に関する記事や、仮面ライダーに関する記事を書いている。

大学生の時は日本民俗学を専攻していた。今でも道端のお地蔵さんや馬頭観音などの「野仏」を写真にとり、研究している。 いつか民俗学に携わる仕事をしたい。たぶん、「地球一周した民俗ライター」は僕しかいないだろうから。地球一周した視点で、改めて日本を見つめ直せたら、と思っている。

 

NGOピースボートとは?

では、NGOピースボートとはいったいどういう団体だろうか。

正直な話、僕もよく知らない(笑)。

ざっくりと書けば、「①地球一周する船を出すことで、②世界平和などの国際問題に貢献していく団体」ということになる。

ただ、どのような立場の人間が見るかで、この団体の味方はだいぶ変わってくる。

おそらく、いわゆる「ネット右翼」からすれば、ほぼほぼ②の姿しか映らないのだろう。

一方、乗船者の大半は①としてのピースボートの印象が強いと思う。もちろん②の部分も見えているが、これはその人がどれだけ国際問題に関心があるかで変わってくるだろう。

それ以上の詳しいことは、リンクを貼っておくので、それを見ることを勧める。

NGOピースボート公式サイト

 

ピースボートとの出会い

そんないかがわしい、もとい、興味深い団体と僕は、いかにして巡り合ったのか。

僕がピースボートに出会ったのは、3年前の夏だった。当時20代半ばだった僕は、やめたくてしょうがない会社へ向かう途中にポスターを見つけた。

「地球一周120万円」とかそんなポスターだったと思う。

「冒険」という言葉が大好きだった僕にとって、そのポスターはかなり魅力的に見えたが、お金もないし、会社を辞めるめども立っていない。その時は地球一周をあきらめた。

その年の秋に会社を退職。再びポスターを見つけたのは、その翌年の夏の終わりだった。

会社を辞めたはいいものの再就職先がなく、「在宅ホームレス」として社会に絶望していたまさにそんな時、地元大宮で再びポスターを見つけた。

今度はまあまあお金がある。そして、時間は余るほどある。

もう、冒険に行かないという理由はなかった。

しかし、ここで新たな問題が生まれた。

この団体、すこぶる評判が悪い(笑)!

やれ、辻本議員が関わってるだの、左寄りに洗脳されるだの、船が途中で壊れただの、ご飯がまずいだの、とにかくネット上での評判が悪かった。

悩んだが、100万円前後で地球一周できる船など、他に存在しなかった。

そして、僕は一つの結論を出した。

「目の前に冒険のチャンスが転がっているのに、噂なんか気にしてやめるなんて、阿呆のすることだ!」

そう決意し、まずは説明会に予約した。偶然地元、さいたま市の大宮駅近くにボランティアセンターがあり、そこで説明会を行うらしい。

 

地球一周までの道のり

忘れもしない2014年10月1日、ボランティアセンターおおみや(以後、「大宮ボラセン」)の説明会に参加した。

大宮ボラセン(2015年10月31日をもって閉鎖)は駅前のマンションの1室だった。勤務しているスタッフはたったの2人。当時の全国のピースボートセンターの中でも、相当小さい規模だ。

説明会では地球一周の映像を見た後、スタッフによる説明が行われた。

質問コーナーでは、一緒に参加していた女性が、上に書かれたようなネットの悪評についてズバズバ質問していた。「おいおい、そんなことまで突っ込んで聞くんかい!」と思ったが、スタッフは説明慣れているようで、臆することなくすべての質問に丁寧に答えてくれた。気になる人は一度聞いてみるといい。

少し悩んだが、こういうのは直感が大事だ。その場でボランティアスタッフに登録した。

ボランティアスタッフ、通称ボラスタとは、ピースボート特有の割引制度だ。町中に出てお店と交渉し、ピースボートのポスターを貼る人たちのことだ。無償で活動する代わりに、3枚貼れば1000円船代を割り引いてもらえる。およそ3000枚で全額割引になる計算だ。街の人の善意におんぶにだっこの活動である。

ちなみに、ポスター貼りのことを「ポス貼り」と呼んでいる。

たまにtwitterでこのボラスタを左翼活動家呼ばわりする人がいるが、これは本質を見誤ったがために起こってしまう間違いだと思う。

ボラスタの多くは、自分の船代を割り引くのが目的だ。もちろん、高尚な目的意識を持ってポスターを貼る意識高いボラスタもいるが、ボラスタの多くは学生やフリーター。ポスターを貼る目的のやはりトップは金だと思う。

ああ、金だよ。金目当てだよ。悪いかよ。(開き直り)

だが、金ばっかりではない。ポス貼りにはもう一つ大きな目的がある。

それは、乗船前に地球一周を目指す仲間ができることだ。

毎日ボラセンに通い、ポス貼りが終わったら一緒にご飯を食べたり飲んだり。夢を語り合ったりみんなでどこかに遊びに行ったり。世代も、歩んできた道もばらばらの若者たちが(たまに年配の人もいる)、「地球一周にロマンを見た」という共通点だけで結びついている。

不思議と大宮ボラセンには、どこか学校や社会でくすぶっていた人たちが集まっていた。「こんなくそみたいな世の中で、最後のロマンとして地球一周にすべてをかける」、そんなやつらだ。

先に書いたスタッフ二人も、ともにポスターを貼った仲間たちも、船を降りた今でも大切な仲間だ。

僕自身も8か月にわたりポスターを貼りまくった。大宮、浦和、所沢、春日部、川越といった埼玉の主要都市から、東武東上線に乗って田舎の方まで出かけることもあった。また、東京に遠征し、三河島や秋葉原でポスターを貼ったこともある。

そして、乗船1か月前に、割引を全額ためた(これを「全クリ」と呼び、全クリした人を「全クリスト」と呼んでいる)。ポス貼りの細かい話はまた別の機会に書くが、海のない埼玉の片隅で、仲間たちとともに地球一周を夢見た日々は、かけがえのないものだった。

「大切なものは、ほしいものより先に来た」(HUNTER×HUNTER 32巻 163ページより抜粋)

ポス貼り中、よくこの曲を聴いた。いつか大海原のど真ん中で輝ける時を信じて、埼玉の田舎道で月を見上げながら、よく口ずさんでいた。

 

地球一周への関門① 今いる場所を捨てる覚悟

船に乗ってからの話はまた日を改めるとして、ここからはポスターを見てから船に乗るまでに立ちはだかる、3つの関門について書いていこうと思う。

基本、ピースボートは来る者は拒まない。ボラスタになるのにも、面接も何もない。登録の用紙に書き込めば、誰でもボラスタになれる。

なのに、船に乗る若者はあまり多くない。なぜなら、「3つの関門」を越えられないと、地球一周にたどり着けないからだ。

その一つが「今いる場所を捨てる覚悟」。

地球一周は大体3か月かかる。多くの若者が、職場をやめたり、学校を休学したりして乗っている。ボラスタとして本格的に活動しようと思ったら、やはり学校や仕事に一区切り打つことが必要になる。

まず、そこまでしてでも地球一周がしたい、という人でないと、なかなか船に乗れないのが現状だ。

友人に船の話をしたら「いいなぁ」というので、「なんならスタッフとか紹介するよ?」といったとこと、「3か月穴開けたら社会にカムバックできなくなる」との答えが返ってきた。ピースボートに限らず、何をするにしても夢を追うことが難しいのが日本の現状だ。

 

地球一種への関門② 噂を信じず、自分の目で確かめる覚悟

とにかく、ピースボートはネットの中での評判が悪い。「船の中で左翼に洗脳される」だの散々な言われようである。

個々の言い分にいちいち反論を書くのは面倒なのでやらないが、一言だけ言えることがある。

確かに、右か左かと問われれば、ピースボートは確実に左だろう。船内で国際問題に関する企画が多く行われているのも事実だ。ピースボートの乗船を機に、そういった活動に興味を持ち、自分の意志で進路を決めていった人も知っている。

だが、ピースボートであっさり洗脳されて帰ってくるような人は、

おそらく地球上のどこへ行っても洗脳されて帰ってくるだろう。

右寄りの団体に行ったら右寄りに洗脳され、左寄りの団体に行ったら左寄りに洗脳されるだろう。怪しい宗教団体に行ったら、信者になって帰ってくるに違いない。

そういう場所に関わらなくても、学校で「受験第一主義」に洗脳され、会社では「利益第一主義」に洗脳されてしまう可能性が高い。

だが、実際の乗船者たちは、もっとタフだ。自分の意志を貫き、自分の意志で今いる場所を離れ、地球一周を志した連中である。ちょっとやそっとでは自分の軸は崩れない、そんな奴らばかりだ。そうそう簡単に洗脳されるはずもない。

こういったピースボートのよくない噂は、乗船者のほとんどが知っている。知ったうえで、ネタにして船の上で笑っている。「興味あるんだけど、この団体、評判が悪すぎる」というジレンマは、乗船者の多くが一度はぶつかる関門だろう。噂を信じず、自分の目で見たことだけを信じる覚悟、自分が求めたロマンを信じぬける覚悟がないと、地球一周しても結局何も身につかないだろう。

 

地球一周までの関門③ 船に乗るまで情熱を燃やし続けられるか

こうした関門を乗り越えてピースボートの門をたたいても、まだ関門が待ち受けている。

説明会に足を運んでから船に乗るまで、大体の人が半年から1年ほどの時間をかけている。

それだけ長いと、多くの人が「本当に自分は船に乗りたいのか」「本当に地球一周したいのか」と悩んでしまうことがある。中には、途中で乗船をやめてしまう人もいる。これが最後の関門だろう。

1年から半年にわたり、情熱を燃やし続けるということは、なかなかに難しいらしい。

このように、地球一周までには多くの関門がある。そのすべてが自分との戦いだ。

そして、ピースボートの乗船者たちは皆、これらを少なくとも1つは乗り越えてきた。「関門」とすら感じなかった者もいるだろう。あるスタッフはこれを「地球一周する才能」と呼んだ。多くの人が様々な理由であきらめてしまう中で、最後まで成し遂げる力。ピースボートに乗る者たちにはこれがある。この強さがある。

だから、何も知らずに批判する人がいたとしたら、それは本質を見ていない。彼らの持つ人間的強さに気づかず、表層だけの批判に留まるのがほとんどだ。そして、僕の仲間たちは、その程度の批判では心折れることなく、愚直に今日もどこかで自分のロマンを追いかけてる旅人達だ。

だから、僕の仲間を、なめるなよ。

現在絶賛放送中の動物戦隊ジュウオウジャー。決め台詞は「この星を、なめるなよ!」                出典:http://livedoor.blogimg.jp/henshinhero/imgs/3/f/3f0d3482.jpg

 

ピースボート乗船者は果たして、ネットで言われているような左翼活動者なのか

右か左かと聞かれれば、左寄りの人が多いのは事実だと思う。ただ、がちがちの聞く耳持たない左翼というよりは、大局観を持って、右側の言い分も理解しつつ、冷静に自分の答えを導き出せる人が多いと思う。

果たして、ピースボートの乗船者たちは、僕らはいったい何者なのか。

確かに、ネットで言われるような、社会活動に熱心な人もいる。それは事実だ。

だが、それは側面であって本質ではない。

ピースボートには毎回1000人近くが乗船している。社会問題に対する関心は人それぞれであり、すごく熱心な人もいれば、あまり興味のない人もいる。一般的な日本社会と比べれば、熱心な人の割合は多いが、やはり「人それぞれ」という答えが一番適切であろう。

確かに、「団体」としてのピースボートは、「平和活動」が根幹にあるのだと思う。

でも、乗船者一人一人は、果たしてそうなのだろうか。

さっきも書いた通り、社会問題への関心は人それぞれである。僕らの本質はきっとそこではない。

僕らは、旅人なのだ。それこそが、僕らの本質だとおもう。船の中で多くの仲間と会い、話した、経験に基づく僕の実感だ。僕らは旅人。旅を愛し、自由を愛し、海を愛し、船を愛する。

旅人は平和主義者だ。なぜなら、平和でなければ旅ができないのだから。戦争中の国を自由に旅することはできない。

旅人は、遠い海の向こうの事件を、遠い海の向こうと思えない。なぜなら、遠い海の向こうは、自分の歩いてきた旅路の延長線。どこかで自分につながっているのだから。旅人が平和活動に熱心なのは、きっとそういうことなんだろう。

旅人を海へと突き動かすのは、小難しいイデオロギーなどではない。海が見たかった。世界が見たかった。ここではないどこかに行きたかった。見たことのない景色が見たかった。そんな子供のようなロマンである。

旅人は、とにかく行動力がすごい。行きたいと思ったら、地球の裏側でも行ってしまう。やりたいと思ったら、すぐに行動に移す。本当に、尊敬に値する奴らばかりだ。

 

長々と書いたが、すべては「選択肢の一つ」に過ぎない。

別に、絶対にピースボートに乗らなければいけないわけではない。

この国では多くの人がくすぶっている。学校で、職場で、家の中で。くすぶったまま、自分の出した煙にまかれて死んでいく。そんなくすぶり者たちが少しでも前を向くきっかけが、選択肢がピースボート以外にもあるのなら、僕はそれでいいと思う。

こうやってピースボートの話を書くのは、その選択肢が多いに越したことがないから、その一つとして、僕は自身が経験したことしか語れないからだ。

自分が経験してないことについて、賛美したり、悪口を言うのは、誰かの選択肢をゆがませてしまう。だから、ぼくは選択肢として、自分が経験したことしか提供できない。

ただ、それでも、僕が何か書くことで、かつての自分のようなくすぶり者に選択肢を与えられるのなら、筆を執る理由はそれだけで十分だ。

何度も書くが、あくまでも選択肢の一つだ。そして、ここに書かれたことも僕が見たピースボートの「側面」でしかない。大宮以外のボラセンについては書けないし、88回以外のクルーズについても知らない。

だから、結局は、自分の目で確かめろ。そういうことだ。

ネットの情報をいっぱい集めれば、知識は広がるだろう。

だが、自分の目で見て確かめない限り、世界は広がらない。

僕らは旅人。そして、君も旅人になりたいのなら、自分の目で、足で、世界を確かめてほしい。