小説「あしたてんきになぁれ」 第22話「明け方の青春」

初詣に向った亜美と志保。二人はそこである人物に合う。そして翌朝、たまきを加えた三人は「二日目の初日の出」を見るために早起きしたのだが……。「あしなれ」第22話スタート。


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

この町が今のような繁華街として発展し始めたのは、戦後の闇市からだ。何もかもなくなった焼け野原の中、露天商やバラック小屋が駅前に集まり、食べ物や日用品を売っていた。

そういった店のほとんどがいわゆる不法占拠だった。もっとも、地権者にお伺いを立てようにも、地権者は地方に疎開してしまっている。

不法占拠のお店はいけないことだけれども、いちいち取り締まっていたら食べ物が手に入らず、せっかく戦争が終わったのにみんな飢え死にしてしまう。

だから闇市は数年のあいだ見逃されてきたし、時には警察が率先して闇市を用意することすらあった。

そんな歴史がある街だからか、今でも闇市を彷彿とさせるような雑多な街並みがこの町には多い。昭和のノスタルジーを感じさせる飲み屋が集結し、飲みに来る客だけでなく、街並みを楽しみたい、そんな人もこのあたりを訪れる。近年では外国人も多いようだ。

歓楽街を出てそんなレトロな飲み屋街を抜けると、小さな階段と神社の鳥居が見える。

現代の不法占拠者たる亜美と志保はその階段を昇って行った。

階段をのぼり、鳥居をくぐると、神社の裏手に出る。

決して大きい神社ではない。ここからだったら明治神宮にだって歩いて行ける。明治神宮と比べたらこの神社はほんの箱庭程度の広さだ。

それでもそこはその町を代表する神社であり、元旦たるこの日は、多くの初詣客が参拝のために並んでいた。行列のことをよく「アリの行列」などというが、列を短くするために4,5人ごとに並ぶその形は、むしろ巨大な蛇を彷彿とさせる。

「すごいねぇ」

志保は階段で切らせた息を整えながら言った。

「ああ、すげぇな」

亜美はそう答えたが、目線は志保と違い、神社の周囲に向けられていた。

本殿の後ろに、いくつものビルがそびえたつ。

「こんなビルだらけのところにも神社ってあるんだな」

「でも、都内にはそういうところいっぱいあるよ?」

「でも、東京の連中ってあくせくしてるじゃん。なんかさ、ムダがないっつうか。なのにさ、神社ってぶっちゃけムダなスペースじゃん。そんなのつぶしてビルとかマンションとか建てちゃいそうなのにさ、ちゃんと残してんだなぁ、って思ってよ」

「無駄ってことはないんじゃない? こんなに参拝客来てるんだから」

「え、何、お前、カミサマとか信じてんの?」

「いや、信じてないけどさ、でも、一応教会に付属する施設のお世話にはなってるし……」

「ああ、そういやそうだったな。あの施設って讃美歌みたいなの歌うの?」

「それはないけどシスターが聖書を読んでくれる時間はあるよ」

「聖書って何書いてあんのさ?」

「う~ん、あたしも詳しく読んだわけじゃないけど、キリスト教の歴史とかかな」

「歴史?」

「そう。キリストが生まれる前とか……」

「ちょい待って。キリストってカミサマだろ? カミサマが生まれる前に歴史なんかあんの?」

「あるよ。聖書には旧約と新約ってあってね……」

なぜか神社でキリスト教の話をしながら、二人は歩いていく。

神社の本殿は境内よりも高いところに建てられている。二人はその本殿の裏にある階段から入り、いま境内を見下ろしている格好だ。

本殿のわきには何やら透明な箱が置かれている。中を覗き込むと、赤い小さな紙がくるっと丸められて、筒状にしてたくさん入っていた。箱には「おみくじ200円」と書かれている。

「変わってんな、このおみくじ」

亜美がしゃがみこんでおみくじの箱を覗き込む。

「うちの近所の神社は、普通に白い紙が中に入ってたよ」

「そうなんだ。あたしんとこじゃ、筒の中に木の棒が入ってて、そこに書いてある番号のおみくじがもらえたよ」

二人は小銭入れに200円を入れ、それぞれおみくじを引いた。

赤い包み紙を外してそれぞれおみくじを読む。

「なあ、志保、『半吉』ってなんだ?」

「はんきち?」

「そう。半分の吉」

「それって、中吉とどう違うの?」

「知らねーよ。おまえはどうだった?」

「えっと……『ショキチスエキョウ』って読むのかな?」

「は? 今、なんつった?」

亜美が不思議そうに志保を見た。

「だから、『初吉末凶』だってば」

「なにそれ?」

「あたしだってわかんないよ」

志保が難しそうな顔をしておみくじをにらみつける。

「あ、でも、縁談のところ『よき縁あり』だって。やった!」

志保が小さくガッツポーズした。

「旅行もよしって書いてある。東がいいんだってさ」

「お、いいな。東っていうと、千葉じゃん。千葉行こうぜ、千葉」

「なんでそんなに千葉に行きたがるの?」

志保が首をかしげる。

「バカ、言わせんなよ」

亜美はいったん志保に背中を向けると、くるりと振り向いて、

「千葉には太陽があるんだぜ」

と言ってにっと笑う。志保はあきれてため息をついた。

「亜美ちゃんはどんなのだった?」

志保が亜美のおみくじを覗き込む。

「あ、待ち人来ないって書いてあるよ。残念でした~」

「別に誰も待っててねぇし」

亜美が口をとがらせる。

「旅行は北がいいってさ」

「北ねぇ。北……。北海道にでも行くか」

「北海道には何があるの?」

「北海道には雪があるんだぜ」

今度は亜美はたいしてひねりも面白みもないことを言った。

「そうだ。せっかくだから、たまきにもおみやげ持って帰ろうぜ」

そういうと亜美は再び財布から200円を出した。

「ちょっと待って。おみやげって、おみくじのこと?」

「そうだよ」

「たまきちゃんのおみくじを、亜美ちゃんが引いて渡すの?」

「そりゃそうだろ。あいつ、来なかったんだから」

「そのおみくじって……当たるの? だって、本人が引いたものじゃないんだよ?」

志保がそう尋ねると、亜美はあっけらかんとして、

「バカ、こんな紙クズが当たるわけねぇだろ」

と元も子もないことを言い出した。

ふたたび200円を入れて、亜美はおみくじの山の中に手を突っ込む。

それと同時に志保は、自分のおみくじをそっとポケットにしまった。

そこには「病気:油断すべからず。過信すべからず。」と書いてあったのだが、志保はそれを亜美には伝えなかった。

こんな紙屑が当たるわけない、そう自分に言い聞かせて。

 

本殿から境内の入り口の方まで、参拝の行列が伸びている。軽く100人は超えていると思うが、それ以上は数える気にもならない。

「おい、あっちに屋台あるぞ。行こうぜ」

亜美が行列の向こうにあるいくつかの屋台を指さして言った。

「じゃあ、なにか食べ物買ってから並ぶ?」

「並ぶ? どこに?」

「いや、これに」

志保は参拝客の行列を指さした。

「ヤだよ。並ぶわけねぇじゃん。うち、並ぶの嫌いだし」

亜美は行列を一瞥すると、そういって通り過ぎて行った。

「あれ? 参拝しないの?」

「別にカミサマとか信じてないし」

「え? でも、初詣に来たんでしょ?」

志保が本殿の方を指さした。

「そうだよ。初詣に来たんだよ」

亜美は屋台を指さして言った。

「じゃ、あたしもなんか買おうかな……」

志保も参拝客の列を通り過ぎて屋台へと向かう。

「あ、クレープある。じゃ、あたし買ってくるね」

志保がそう言いながら亜美の方を向くと、亜美はフランクフルト屋の前にできた行列に並んでいた。

「おう、じゃ、その辺で待ってて。ウチも買ったら行くから」

「あれ、並ぶの嫌いなんじゃ……」

志保はしばらく亜美を見ていてが、

「ま、いっか……」

とクレープ屋の前に立った。

志保は並ぶことなくクレープを買えた。

クレープを食べながらちらりとフランクフルト屋の行列を見ると、亜美はまだ列の中ほどに並んでいた。

志保が再びクレープに目線を戻した時、

「よっ」

と言いながら誰かが志保の肩をたたいた。

声からして女性だ。だが、亜美はまだ列に並んでいるはずだ。とっさに志保はその列の方を見たが、亜美はまだ列の中で暇そうにしていた。

「カンザキさん、あけおめ」

志保は驚きで硬直しつつも、声のした方を振り返った。

トクラがそこに立っていた。真っ黒なコートを着込み、サングラスをかけていた。服から小物までの一つ一つがいかにもセレブと言わんばかりの高級さを漂わせている。

「ど、どうも、……あけましておめでとうございます……。トクラさんも初詣ですか?」

「ん? まあ、そんなとこ」

トクラはサングラスを外してにっと笑った。

「あっちの金髪の子と一緒? 今日はメガネの子はいないんだ」

「誘ったんですけど、たまきちゃん、こういうの苦手みたいで……」

「ふうん」

トクラは自分で話題を振っておきながら、あまり興味がないようだった。

「カンザキさん、あっちの歓楽街でご飯食べてきたの?」

「え、別にそういうわけじゃないですけど」

「ふうん。駅じゃなくて歓楽街の方から来たから、あっちで遊んでから来たのかなぁって思って」

「今日はお正月だからお店あまりやってませんよ……。あれ、なんであたしたち、あっちから来たってわかるんですか?」

「ああ、だって、ずっとつけて来たから」

「ええ?」

つけてきた?

あまり聞きなれない言葉に、志保は戸惑う。

つけて来たっていったいどこから? まさか、「城」から? 不法占拠がばれやしないだろうか。

いやいや、雑居ビルから出てきたのを見られたところで、なにかお店に用があったと思うのが普通。よもや不法占拠で暮らしてるなんて思わないだろう。

そもそも、舞のマンションを経由してからここにきている。

いや、気にすべきはそこじゃない。つけてきた、とはいったいどういうことだろうか。

混乱のあまり言葉が出ない志保を見ながら、トクラは志保がなにを聞きたいのか先回りしてわかっているらしく、勝手に答え始めた。

「何分か前に歓楽街の中をカンザキさんがあの金髪の子と歩いているの、たまたま見かけたんよ。で、あとをつけてみた、ってわけ」

そう言うと、トクラは志保の耳に顔を近づけ、囁くように言った。

「カンザキさんさ、自分じゃ気づいてないかもだけど、けっこう挙動不審だったよ」

「え、それどういうことですか?」

志保は意味が分からない、といった風にトクラを見た。

「あっちこっちキョロキョロキョロキョロ、金髪の子と比べても、だいぶ挙動不審だったよ」

「そんなこと……」

そういいながら、志保はふと、思い当たることがあった。

確かに、外を歩いている間、誰かに見られてる、そんな感覚が何度もした。

でもそれって……。

「それって、トクラさんが後をつけて来たからじゃないですか? ずっと誰かに見られてる気がしましたもん」

志保は少しムッとした感じで答えた。

「あ、そう。カンザキさん、気づいてたんだ」

そういうとトクラはクスっと笑う。

「その割には、こっち一回も見なかったけど。全然違うとこ見てたよ。本当に気づいてた?」

「そ、それは……」

志保は言いよどみ、トクラから視線を外した。

「カンザキさんさ、今日以外でも、誰かに見られてるって思う時ない? 町の中とか、家の中とかさ」

志保は答えなかった。

トクラの言うとおり、町の中でも、「城」にいる時でも、誰かに見られてる、そう思うことがよくあった。外はまだしも、屋内にいる時に誰かに見られていると強く感じる、それが志保には不可解だった。もしかして隠しカメラで盗撮されているのではないかと、一人でいる時に「城」の中を大捜索したこともある。何も出てこなかったが。

「あたしもね、誰かに見られてるって思うことよくあるのよ。部屋の中で監視カメラ探したり、盗聴器探したり、あと、窓の向こうから誰か盗撮してるんじゃないかって、窓開けて外に怒鳴ったこともあったよ」

トクラはそう言いながら志保の肩に手を置いた。志保はそれを払いのけようとしたが、なぜかできなかった。

「カンザキさんも聞いたことあるでしょ。ハッパだのクスリだのやってると、そういう妄想抱くようになるって。誰かに見られてる、聞かれてる、つけられてるって」

「あたし、今はクスリなんて使ってません」

志保は体をよじって、トクラの手を振るい落とした。

「使ってなくてもふとしたきっかけでそういう症状が戻ってくることがあるの。フラッシュバックって言ってね。それがひどくなると、またクスリに手を出すようになるの」

トクラは、志保が払いのけた手を再び志保の肩に置いた。そこに、

「お待たせ~」

と亜美がフランクフルトをほおばりながらやってきた。トクラは手を離すと、

「じゃ、カンザキさん、またね」

と言って去って行った。

「ん? 知り合い?」

「……施設の人と、偶然会って……」

「ふうん」

亜美はそれ以上は興味のなさそうにフランクフルトにかぶりつく。

黒いコートを着たトクラの背中を追いながら、志保はふと思った。

トクラは歓楽街の中から、志保たちをつけていたという。

元旦の歓楽街に一体何の用があったのだろう。

 

写真はイメージです

初詣を済ませた亜美と志保は、「城」へと帰ってきた。もっとも、参拝はしていないのだから本当に初詣を済ませたといっていいのか、疑問が残るが。

「城」の中ではたまきはソファに腰掛け、ゴッホの画集を眺めていたが、志保が

「ただいまぁ」

と声をかけると背筋を伸ばし、

「おかえりなさい」

と返事をした。

「おい、たまき、風呂行くぞ。早風呂だ。準備しろ」

亜美の声掛けにも、

「はい」

とはっきりと返事をする。志保はそんなたまきをまじまじと眺めていた。

「たまきちゃん、なんかいいことでもあった?」

「え?」

志保の問いかけにたまきが戸惑いを見せた。

「ど、どうしてそう思うんですか……」

「いや、何となくなんだけど、いつもより元気があるなぁ、って思って」

「……そう見えますか」

たまきは志保から視線を外しながら答えた。

「そういえばさあ」

と亜美がお風呂セットを用意しながら声をかける。

「ウチは早く風呂入って早く寝て、二日目の初日の出も見るつもりだけど、お前らはどうすんだ?」

「だから亜美ちゃん、それ、もう初日の出じゃないって」

志保はそう笑いつつ、

「日の出って何時?」

と亜美に尋ねた。

「う~んと、ちょっと待ってな」

亜美は携帯電話をいじりだした。

「4時半だってさ」

「4時半かぁ。早いなぁ」

志保がけだるそうな声を出す。

「一度起きて初日の出見て、それからまた寝りゃいいじゃねぇか」

「じゃあ、あたしも“二日目の初日の出”見ようかな。たまきちゃんはどうする?」

「あ、じゃあ、私も見たいです。“二日目の初日の出”」

そう言って笑うたまきを見て、志保は再び尋ねた。

「たまきちゃん、やっぱりなんかいいことあった?」

「べ、別に……」

そこで亜美が、

「そうだ、たまきにおみやげがあったんだ」

と言って、買ってきたおみくじを渡した。

「おみやげ、ですか」

たまきはおみくじの中を見た。亜美と志保も後ろからのぞき込む。

運勢は「凶」だった。

「凶だってよ。お前、くじ運ねぇなぁ」

「え、亜美ちゃんが引いたんでしょ?」

たまきはまじまじと「凶」の文字を見つめる。

「凶」というのはあまりよくないやつのはずだ。

死のうとしたけれど死にきれない、とかかな。

「あ、たまきちゃん、縁談よしって書いてあるよ」

「お、旅行悪しだってさ」

年上二人は、たまきが見るより先に見ていってしまう。

「あ、でも、方角は西がいいってさ。だから、西に旅行に行けばいいんじゃない? 亜美ちゃん、西には何があるの?」

「西か? 西にはたこ焼きがあるんだよ」

亜美もだんだん適当になってきた。いや、元から適当だったのかもしれない。

「西ですか……」

たまきはぼんやりと自分の左側を見た。もっとも、そこは北なのだが、たまきには知る由もない。

恋愛運とか旅行運とか、たまきに縁遠そうなことよりも、たまきは「ともだち運」を知りたかったのだが、たまきみたいな友達のいない子のことまでは、カミサマも考えていなかったようだ。

 

その日、たまきは久々にすっきりと眠れた。

別にこれまでも不眠症だったわけではないのだが、寝ようと目を閉じても心がざわざわしてなかなか眠れなかった。そんなことが一週間続いたのだが、その日は久々にすぐに眠りに落ちた。

夢の中で、たまきは森を歩いていた。

木々は複雑に入り組み、奥まで見通すことを拒んでいるかのようだ。

上を見上げても今度は枝がたまきの視界を遮り、太陽の光を細切れにする。

なんだか、たまきの絵に出てくるような木を集めて作った森、そんな印象を受けた。

そんな森の中を歩いていく。たまきは奥へ奥へと向かって行ったつもりだったのだが、いつの間にかアスファルトで舗装された大きな道に出てしまった。

道の上をたくさんの人が歩いている。セーラー服を着た女の子たち、なにやら楽しそうな若者の群れ、スーツを着たサラリーマン。

たまきもしばらく人の流れに沿って歩いていたが、なんだか息苦しくなり、たまきは道を外れて再び森の奥へと向かっていった。

森の奥へ奥へと向かっていくと、今度はどんどん心細くなる。

木の根っこに躓かないようにと下を向いて歩いていたが、頭に何かがぶつかった。顔をあげてみると、スニーカーが見えた。

さらに目線を上に上げる。スニーカーを履いた女の人が、木の枝からぶら下がっているらしい。学校の制服を着ている。女子高生、もしくは、中学生だろうか。

ぶら下がるといっても、鉄棒のように腕からぶら下がっているのではなく、木の枝からロープが伸びていて、それを首に括り付けてぶら下がっている。

要は、首つり自殺の死体だったのだ。

不思議と、怖くはなかった。どこかで、これは夢だと気づいているのかもしれない。

それよりも、スニーカーに何か見覚えがあるのが気になり、たまきは目線の少し上にあるスニーカーをしげしげと眺めた。

見覚えがあるはずだ。そのスニーカーは、たまきが今使っているものだった。

目線をあげてもう一度死んだ女の子を見てみる。

よく見るとその子の制服も、たまきの中学校のものだった。

眼鏡をかけていないが、その女の子はたまきだった。

ぽたっ、と水が生きてる方のたまきの顔に零れ落ちた。死んでる方のたまきのスカートの奥から、足を伝って滴っている。

そういえば、首を吊って死ぬと、お漏らしをすると聞いたことがある。

たまきは急に怖くなって、走り出した。木の根っこが地面の上に複雑に生い茂っているはずなのだが、躓くことなくたまきは走り続ける。夢は変なところでリアルなくせに、変なところで設定がご都合主義だ。

やがて、開けたところに出た。森の中でそこだけぽっかりと公園のように開けて、電話ボックスが置いてある。たまきは電話ボックスの中に入ってドアを閉めると、息を落ち着かせた。

受話器を取って「城」へと電話をかける。よくよく考えると「城」に固定電話などないし、もちろん電話番号もないはずなのだが、夢というのはこういう違和感になぜか気づけない。

呼び出し音を聞きながらふと見上げると、視線の先に大きな山があった。

青い山のてっぺんに白い雪が積もっている。富士山だった。

ああ、富士山だ。そういえば、おみくじに、西に行け、と書いてあったっけ。

そう思ったときに電話の向こうから亜美の声が聞こえてきた。

「おい、たまき、起きろ。二日目の初日の出、見に行くぞ」

そこで、目が覚めた。

 

写真はイメージです。

1月2日の午前4時15分、三人は太田ビルの屋上に立った。空は真っ暗だが、屋上から下に目をやれば、街灯の明かりと看板の明かり、店から漏れる明かり、お店から漏れる明かりが街を煌々と照らしていた。

夜のない街、不夜城。確かにそうなのかもしれない。

たまきは眠い目をこすりながら、鉄柵に寄り掛かる。冬の夜の冷気を思いっきり吸い込んだ鉄柵は冷たい。

一番眠そうなのは志保だった。大きなあくびを一つ二つ。

「四時半だっけ? 初日の出」

亜美がうんと答える代わりにうなづいた。

「志保、なんか初夢とか見た?」

「ううん、見てない。亜美ちゃんは?」

「なんか見た気がするんだけど、起きたら忘れちゃった」

「あ~、あるよね~、そういうこと。すごい楽しい夢だったとか、すごい怖い夢だったとか、そういうのは覚えてるのに、肝心の中身を全然覚えてないってこと」

志保が眠そうに眼をこすりながら言う。

「たまきちゃんは初夢見た?」

「はい」

「へぇ。どんなの?」

たまきは、なんて答えるか少し迷った。たまきの場合、見た夢をはっきりと覚えていた。

はっきりと覚えていたから、少し迷った。

「その……森の中を歩いていたら……山が、富士山が見えました」

「富士山? それ、初夢で一番いいやつじゃん!」

「え? そうなんですか?」

「そうだよ。昔から、『一富士二鷹三茄子』って言って、富士山と鷹とナスの夢を初夢で見ると縁起がいい、って言われてるんだよ」

「はあ……」

たまきは初めて聞いた、と言わんばかりにきょとんとしている。

「え? 富士山は日本一だからわかるけど、鷹はなんで?」

亜美が鉄柵にもたれながら口をはさんだ。

「さあ……かっこいいからじゃない?」

志保も適当に答える。

「じゃあ、ナスは?」

「ナスは……」

志保はなんとか答えを探そうとしたが、言葉が出てこなかった。

ただただ、ナスのように真っ黒な空が、三人の頭上に広がっていた。

 

1月2日午前4時25分。依然として空は真っ暗で、空気は刺すように冷たい。

最初に違和感に気づいたのは志保だった。

「ねえ、おかしくない?」

真っ暗な空を見上げながら志保が言う。

「何が?」

「あと5分で日の出のはずでしょ? いくらなんでも、空、暗すぎない?」

亜美とたまきは空を見上げた。相変わらず、宇宙の深淵まで覗けそうな真っ暗な空が広がっている。

「亜美ちゃん、昨日、初日の出見たんでしょ? どうだった? こんなに暗かった?」

「え~、どうだったっけなぁ……」

亜美は額に手を当ててしばらく記憶を探るように目を閉じた。

「そういや、もっと空が青っぽかったような……」

「もしかして、世界はとっくに終わってて、もう二度と太陽は昇ってこないんじゃ……」

志保はそう言ってからほかの二人の顔を見て

「そんなわけないよね……。ごめん、今のは忘れて……」

と恥ずかしそうにうつむいた。

「あの……本当に4時半なんですか?」

たまきが不安そうに亜美を見た。

「えー、4時半って書いてあったよ」

亜美は携帯電話を取り出して操作した。

「ほら、ここ、1月2日の日の入りは4時半って書いてあるじゃん」

「ほんとですね」

たまきは亜美の携帯電話を覗きこんで言った。だが、志保は

「ちょっと待って!」

と大きな声を出すと、亜美の携帯電話をかっさらった。

「日の入りが4時半!?」

「ああ、そう書いてあるだろ?」

「亜美ちゃん、日の入りって、日没、夕方のことだよ!?」

「へぇ、そうなん……」

亜美はぼんやりと携帯電話を見つめていたが、顔を見上げて空を見て、

「は?」

と声をあげた。

「日の入りって、初日の出のことなんじゃねぇの?」

「逆だよ。朝は日の出、夕方は日の入り」

「でもよ、プロレスとかで選手入場っつったら、選手がロープ越えてリングの中に入ってくる事だろ? じゃあ、太陽が地面越えて入ってくるのだって『日の入り』じゃねぇのかよ? 太陽は朝に入ってきて、夜に出ていくもんだろ? なんで夕方が日の入りなんだよ、おかしいだろ!」

「あたしに文句言われても、朝が『日の出』なんだから、夕方は逆に『日の入り』じゃん」

「それがおかしい、つってんだよ。太陽は朝に入ってきて、夜に出てくもんだろ!」

「だからあたしに言われても……」

「あの……」

たまきが申し訳なさそうに口をはさんだ。

「それじゃ、日の入りが4時半っていうのは、今日の夕方4時半に日が沈むってことなんですか?」

「……そうだね。ほら、ちゃんと”PM4:30″って書いてあるよ。亜美ちゃん、見落としてたんでしょ。」

「じゃあ、日の出は結局、何時なんですか?」

亜美と志保は同時に携帯電話を覗き込んだ。

「朝の……7時……」

「なんだよ! 2時間半も先じゃんか! ふざけんなよ!」

「亜美ちゃんが間違えたんでしょ? そもそも亜美ちゃん、昨日、初日の出見たんでしょ? なんで時間違うって気づかないの?」

「起きてテレビつけたら初日の出がどうこう言ってったから見に行っただけで、初日の出見たらすぐまた寝たから、時計なんか見てねぇよ」

気づけば時間は朝の4時33分になっていた。相変わらず空は漆黒の渦がとぐろを巻いている。

「……どうする? 寝る?」

志保が一気に疲れたような顔を見せた。

「いまから戻っても、寝れる気がしねぇよ。体冷えてかえって目がさえちまったよ……」

「たまきちゃんはどうしたい? 寝たい?」

「別に……」

たまきも体が冷えて寝れる気がしない。

「とりあえず寒いし、部屋戻ってそうだな……テレビでも見ようぜ……」

亜美はそういうと、階段に向かって歩き出した。

 

午前4時45分。3人はテレビの通販番組をぼんやりと見ていた。

「なあ、ほかに番組ないのか?」

亜美が志保を見て、志保はチャンネルを回す。

ニュース、ニュース、ニュースとチャンネルを回すもニュース番組が続き、そのたびに志保は亜美の顔を見るが、亜美は顔をしかめて首を振るばかり。

最後にたどり着いたチャンネルはただひたすらとどこかの清流の映像を流し続けていた。

「つまんねー!」

亜美はそういうと勢いよく立ち上がった。

「ちょっと出かけてくるわ」

「え、出かけるってどこへ?」

志保が驚いたように亜美を見る。

「この辺だよこの辺」

亜美はソファの上に無造作に投げ出されていたジャケットを羽織った。

「この辺って言ったって、お店なんかやってないでしょ?」

「でも、寝れねーし、テレビつまんねーし、ここにいたってしょーがねーから、ちょっと散歩してくる」

「でも、朝の5時だよ? もし、おまわりさんとかに見つかって補導されちゃったら……」

「大丈夫だよ。あれじゃね、警察も今日くらいは正月休みなんじゃね?」

「そんわけないでしょ」

志保はあきれたようにため息をついた。どうやら、説得は無駄らしい。

「わかった。じゃあ、あたしも行く」

そう言うと志保は立ち上がった。

「一人で歩いてるより二人で歩いてる方がまだ、不審にみられないかもしれないでしょ。わかんないけど」

志保も外出の準備をする。

「じゃあ、その理屈だと三人の方がいいだろ。たまき、お前も来いよ」

「え……」

たまきは座ったまま、二人の顔を見上げた。

「うーん、どうだろ……、たまきちゃんって背もちっちゃいし、夜中に出歩いてたらかえって怪しいんじゃ……」

「いや、わかんねぇぞ。うちら二人歩いてたら夜遊びっぽく見えるけど、たまき一人増えるだけで、印象変わるかもしれねぇ。たまき、絶対夜遊びしそうじゃねーもん」

「まあ、確かに……」

二人の視線がたまきへとむけられる。

「たまきちゃんはどうしたい?」

志保が優しく問いかける。

「えっと……その……」

「昼間と違って人なんかいねぇから、大丈夫だろ。来いよ」

「あの……そうなんですけど……その……」

たまきは心配そうに、亜美と志保を見つめた。

「この辺って悪い人もいっぱいいるじゃないですか。夜中に歩いてたら、悪い人に撃たれて死んじゃうかも……」

それだけ言ってたまきは、恥ずかしそうに下を向いた。

亜美と志保はいったんお互いに顔を見あい、それからたまきに視線を戻し、大爆笑した。

「いくらなんでも、そこまで治安悪くないよ、たまきちゃん」

「だいたい、いつも死にたい死にたい言ってるやつが、なに『撃たれて死んじゃうかも』って心配してんだよ」

「そうですけど……撃たれるのはなんか……」

たまきはバツの悪そうに、亜美の方を見た。

 

写真はイメージです

コンビニの前の冷たいアスファルトの上に三匹の野良猫がたむろしていた。亜美たちが太田ビルの階段がら降りてくると、驚いたのかネコたちは道を空けてくれた。

亜美たちはコンビニを覗き込む。店員さんが掃除をしているほかには、二人ほどの男性客が雑誌を立ち読みしている。

「……で、どこ行くの?」

「そんなん決めてねぇよ。一人でその辺ぶらぶら歩いてくつもりだったからなぁ。どっち行く?」

亜美は道のあっちとこっちを指さして、志保とたまきに尋ねた。

「そっちは交番が二つもあるから、やめた方がいいんじゃない?」

「じゃあ、駅の方行くか。でも、駅前にも交番あるぞ?」

「そこまでいかなくてもいいでしょ。ほどほどのところで引き返せば」

「じゃあ、行くか。いいかたまき、常に周りを見渡して、警察を見かけたらすぐに知らせるんだぞ」

なんだか、散歩に行くというより、戦争に行くゲリラ部隊みたいだ。たまきはそんなことを考えながら、二人のあとについていった。

 

ものの2~3分で大通りにたどり着く。

昼間は車が絶えず行きかい、途切れることなどないが、真夜中ともなると車はたまに何台か通るくらいで、さながら音のない川のようだ。

「なんか、こういう真夜中のさ、誰もいない東京の大通りを、車でぶっ飛ばしたくねぇ?」

大通り沿いに歩きながら、亜美が口を開いた。昼間は喧騒に飲み込まれてなかなか声が届かないのだが、今はとてもよく聞こえる。

「ちゃんとスピード守ってよ、亜美ちゃん」

「たまきはどうだ?」

「私は別に……」

たまきが少し不安げに道路を見ながら答えた。

 

三人は映画館の前にやってきた。当たり前だが、今は上映時間外で、誰もいない。

海外のアクションもの、日本の恋愛もの、サスペンスもの、シリアスでグロそうなもの、なんだかよくわからないものと、様々な映画のポスターが並んでいる。

「あ、今度これ見に行くんだ」

志保がポスターの中の一つを指さした。

青い空にうっすらと雲がたなびく。それを背景に、セーラー服を着た女の子が一列に並んでいる。何か楽しいことでも語りあっているのか、誰もがはじけんばかりの笑顔だ。

キャッチコピーには「青春、それは誰もが必ず通る道」と書かれていた。

「誰と見に行くんだよ、こんな映画」

亜美が笑みを浮かべながら尋ねる。

「別に誰とでもいいでしょ」

志保が少しそっぽを向いて答えた。

「っていうかこれ、何の映画?」

「青春映画だよ」

「面白いの、それ? こっちの方がおもしろそうじゃね?」

亜美は暗くてグロそうな映画のポスターを指さした。

「あー、でも、デートにはこういうの向かないかぁ」

そう言って亜美はにやっと笑う。

「その映画、マンガ読みましたけど、あまり面白くなかったです」

たまきがぼそりと、それでいてはっきりとつぶやく。

「へぇ。どんな内容?」

「……人が死ぬんです」

「それだけ?」

たまきは小さくうなづいた。

「じゃあ、デートには合わねぇなぁ。やっぱこっちじゃねぇと」

亜美はわざと「デート」を強調し、志保も少し顔を赤らめる。

たまきは「青春映画」のポスターをじっと見た。

どうして、こういう映画のポスターは、青空が背景に使われるんだろう。

まあ、「青春」というくらいだ。青空のようにさわやかで、晴れ渡って、どこまでも突き抜ける。それが「青春」という言葉のイメージなのだろう。

それが青春だというのならば、私は青春なんて知らない。

たまきがそんなことを考えていると、いつの間にか亜美と志保は歩きだしていたらしく、少し離れたところで立ち止まって、たまきを手招きしている。

たまきはとぼとぼと歩きながら、空を見上げた。

ビルとビルの間の地割れのようなスペースに、真っ黒な空が濁流のようにあるだけだ。これで満天の星でも輝いていれば、これはこれで青春だと胸を張れそうだが、ただただ真っ黒な空があるだけだ。

誰か、真っ黒な青春映画や、灰色の青春映画も作ってくれればいいのに。

 

写真はイメージです

お正月の真夜中の歓楽街は、お店がたくさんあるところはしばしば人がいるが、路地裏ともなるとほとんど人がいない。三人は人目につかないようにと道を選んで歩く。でも、あんまり人目につかない場所も怖いので、そういうところは避けて歩く。また、誰かが道端で殴られてるところにでも出くわしたらたまったもんじゃない。

そうこうしているうちに、昼間に亜美と志保が訪れた神社の入り口に来た。

「せっかくだからお参りしてかない?」

と志保が鳥居の奥を指さす。

「昨日来たじゃん」

と口をとがらせる亜美。

「昼間はすごい行列でちゃんとお参りできなかったでしょ? 今ならすいてるって」

「別にいいけど、まだ並んでたりして」

「まさかぁ」

亜美と志保は笑いながら境内へと入り、たまきもそれにとぼとぼとついていく。

昼間の大行列も、今は霞のように消えていた。それでも何人かは人がいて、初詣なのだろうか、お参りをしている。夜の闇の中でうっすらと明かりがついた真っ赤な社は、昼間に見るよりもなんだか神々しかった。

石段を上り、社の前に立つ。志保がお賽銭を入れると、たまきもそれを見てお賽銭を入れた。

柏手を叩く構えを見せて、志保が固まる。

「……どっちだっけ? 叩く? 叩かない?」

「神社は叩く」

そう答えたのは亜美だった。パンパンと二回たたき、志保とたまきもそれに倣う。

両手を合わせて祈りをすますと、亜美は

「行くか」

と言ってきた道を引き返した。

「亜美ちゃん、よく神社のお参りに仕方なんか知ってたね」

「オヤジがうるせぇんだよ、こういうシキタリとか。それよりお前ら、なにお願いしたんだよ」

「え、あたしは……」

志保が口を開きかけたが、亜美は

「ま、どうせお前は色ボケしたこと考えてたんだろ」

と、両手を後ろに組んで言った。

「べ、別に……その……ちゃんとその、治療のこともお願いしたもん」

「治療のことも、ねぇ……」

亜美は「も」をやけに強調してにやりと笑う。

「たまきは何お願いしたんだ。まさかカミサマに『殺してください』とかお願いしてねぇよな」

「してません」

「じゃあ、何お願いしたんだ?」

「別に何も……」

「まさか、お前も色ボケたことを……」

「ほんとに何も……」

たまきはほんとに何もお願いしなかった。亜美の真似をして手を叩いて合わせてみたものの、お願いしたいことは特には思い浮かばなかった。

「そういう亜美ちゃんは何お願いしたの?」

「え? カネだよ、カネ」

「夢がないなぁ」

「何言ってんだよ。カミサマよりカネサマの方が願い叶えてくれんだろ」

亜美は胸の前でパンパンと二回手を叩いた。

 

そのあとも歓楽街を当てもなく三人でうろついた。

酔っ払い以外にほとんど人がいなかったが、次第に車の量も増え、スーツ姿の人もちらほらと目に入るようになった。

太田ビルの前に戻ってきた時には、三人の頭上には、群青の絹を敷いたような空が広がっていた。

三人はコンビニで買い物をしてから、「城」へと戻ったが、亜美は荷物だけ置くと、

「屋上にいるから」

と言った。

「まだ日の出には時間あるよ?」

「いいよ、待ってるよ。4時半からずっと待ってるのに比べたらましだろ」

「じゃあ、あたしも屋上で待ってようかな」

そう言って志保も亜美のあとを続く。たまきは少し眠かったが、せっかくなので屋上に行くことにした。

屋上から見た空は、さっきと同じ群青のようだが、それでいて、さっきからほんの数分しかたっていないにもかかわらず、少し明るくなったような気もする。

4時半の時はまだ空が真っ黒で、屋上から見えるビルも、輪郭も壁の色もわからず、窓の明かりでとりあえずビルがあるとわかる程度だった。だが、今は群青の空を背景に、ビルの輪郭がぼんやりと、壁の色彩がはっきりと見える。

明け方の空の群青は、昼間の青空に近い色なのかもしれない。

だが、青空それ自体が輝きを放つのに対し、明け方の群青の空は深みのある暗さをたたえている。

そのため、群青の空に包まれた町明かりは、その深みのある暗さに引きたてられ、不思議と夜中に見るよりも輝いているように見えた。

その空はとっておきの絵の具で塗りたくったかのようにきれいで、朝と夜の狭間の不安定さを持ち、少しずつその色味を変えていく。町明かりはまるで真珠のようにほのかな輝きを放ち、ちりばめられていた。

「あのビルとビルの間、ちょっと空が明るくなってない?」

「ああ、あそこから初日の出が入ってくるんだよ。二日目の初日の出」

志保が指さした方角から、少しずつ空が白く、明るくなってきている。あと二、三十分もすれば、誰もが知っている青空へと変わるのだろう。

だからこそ、たまきにはこの群青の空が、なんだかいとおしいもののように思えた。

たまきは、青空の青春なんか知らない。

でも、青空のもとで青春を謳歌する人たちは、きっとこの群青の空を知らないのだろう。

群青の空は青空よりもどこか暗く、それでいてきれいで、儚い。

そんな空を、友達と三人で見ている。

それがどれほど奇跡的で、どれほどかけがえなくて、どれほどいとおしい瞬間なのか、きっと青空の下で青春を過ごす人たちには、わからないだろう。

「青春、それは誰もが必ず通る道」、そう書かれた映画のキャッチコピーを思い出す。

誰もが必ず通るはずの青春を、たまきは通っていない。そこを通る前にわき道にそれ、いまだやぶの中だ。

それでも、こんなにきれいな青い空が広がっていた。

たまきは昼間の、青空の青春を知らない。

知らなくていい。

この群青の夜明け前の空が、きっと私の、私だけの青春なんだ。

つづく


次回 第23話「あたりまえ、ときどき、あたりまえ。ところにより、あたりまえ」

田代と一緒に映画を見に行く志保。3人はばらばらの行動をとることに。行く当てもなくいつもの公園を訪れたたまきだったが、あるミスを犯したことに気づいてしまう。続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

 

小説「あしたてんきになぁれ」 第21話「もやもやのちごめんね」

クリスマスの一件以降、なぜかたまきの心はもやもやしたまま、晴れない。一方、ミチもまたモヤモヤを抱えていた。そして、お正月がやってくる。「あしなれ」第21話、スタート。


第20話「冷凍チャーハン、ところによりカップラーメン」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

たまきはまどろむ。

眠りにおける最大の快楽がこのまどろみだ。夢と現のちょうど境目で、まるでヤジロベーのようにゆらゆらとバランスを取るこのまどろみがなんとも心地よい。

たまきはブランケットにくるまり、器用にソファの上に寝転がってまどろむ。

いつもは三人そろってソファで寝てる、と舞に話すと、お前らよくそんな狭いところで寝れるな、と言われた。

だが、たまきは広い場所よりも狭い場所の方が好きだ。

ずっと、狭い場所で生きてきた。

教室よりも狭い自分の部屋に引きこもっていたし、今も大都会の東京にいながら、この「城(キャッスル)」という名のつぶれた小さなキャバクラに引きこもっている。

もしかしたらたまきの心も、狭い狭い籠の中に入っているのかもしれない。

ひとりぼっちはいやだ、ひとりぼっちはさみしい、と言いながら、その心の内に他者が踏み込むことは決して許さない。籠の中から外を恨めしげに見ているが、籠の中に誰かが入ってくるのはけっして認めない。

さながら路地裏の野良猫のようである。甘えたそうにこっちを見ているのに、いざ近づくと、触らにゃいでくれといわんばかりに、一目散に逃げだしてしまう。

そんなたまきのまどろみを邪魔したのは、

「おめでとー!」

という亜美と志保の叫びだった。

夢と現の間でゆらゆら揺れていたたまきのヤジロベーが、バランスを崩して現の方に真っ逆さまに落っこちる。

何か天変地異でも起きたかのようにたまきは飛び起きた。眼鏡をはずしたままだから、視界がぼやける。

とりあえず冷静になる。なにが起きたのかは知らないが、亜美と志保は「おめでとー!」と言ったのだ。とりあえず、マイナスなことが起きているわけではない。火事や地震のように、今すぐここから逃げなくてはいけないわけではないだろう。

「お、たまき、起きたか」

「たまきちゃん、おめでとー!」

どうやら、何かおめでたいことが自分の身に起きたらしい。

だが、全く心当たりがない。宝くじでもあたったのだろうか。いや、買った覚えなんかない。

「あの、何かおめでたいことがあったんですか?」

たまきは裸眼のまま目をぱちくりして尋ねた。亜美と志保の顔もぼやけて、髪の毛の色で何となくこっちが亜美でこっちが志保だろう、とわかる程度だ。もし、声がそっくりな別人と入れ替わっていてもわかるまい。

「バーカ、正月だよ!」

亜美の新年一発目の「バーカ」が聞こえた。

1月1日の、午前零時になったばかりである。

「たまきちゃん、あけましておめでとう」

たまきの目の前で志保がにっこりとほほ笑む。いや、たまきには見えていないのだが、声の調子から微笑んでいる気がする。

「……おやすみです」

たまきはそうとだけ言うと、再びごろりと横になって目を閉じた。

なんだ、おめでたいことなんて、なにも起きてないや。

 

再びまどろみの塀の上に戻ろうとしたたまきだったが、たまきのヤジロベーは現の側に大きく傾いたまま、ピクリとも動きそうにない。

聞こえてくるのは亜美と志保の笑い声。どうやら、テレビを見ているらしい。テレビの向こうからタレントの笑い声も聞こえる。

だが、たまきがまどろめない理由は、どうやら回りがうるさいから、ではないらしい。

うるさいのはたまきの心の中なのだ。

周波数があってないラジオのように、ザザザ、ザザザとノイズが入り、時折、混線でもしたかのように、いつかの自分の言葉が聞こえてくる。

『その時になって初めて、地獄を見ればいいんじゃないですか』

『海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?』

『あなたのことも、あなたみたいな人が作る歌も、私は、大っ嫌いです!』

そういったセリフはどこかエフェクトがかかっているみたいで、まるで自分の声ではないみたいだ。耳をすませばピーガガピーピーというノイズが聞こえてきそうだ。

いや、自分の声じゃないように聞こえるのは気のせいで、それらの言葉は紛れもなくたまきの言葉なのだ。自分の口ではっきりといった言葉なのだ。

クリスマスイブの夜以降、たまきはずっとこんな感じだった。以前は目を閉じればどこでもすぐに眠れたのに、心がざわついてなかなかすぐに寝付けない。

もっとも、いつもに比べてすぐに寝付けないだけで、別に全然眠れないわけではない。

よしんば不眠症だったとしても、たまきは別に困らない。毎日毎日「城」でごろごろして、たまに思い出したように公園に出かけて絵を描くぐらいの毎日なのだから。いっそ不眠症にでもなったほうがまだ健康的かもしれない。

たまきの心をざわつかせているのは、「なかなか寝れないこと」そのものではなく、「なぜなかなか寝れないのか」、その理由がわからないことだった。

正確にいえば、寝れない原因ははっきりしている。クリスマスイブの夜に起きた騒動のことが心から離れない。それがたまきの安眠を妨げているのだ。

問題は、なぜそれが心から離れないのか、その理由がわからないのだ。

ミチの不倫がばれて、相手の男性に殴られた。それはそれで大事件だったのだが、ミチは助かったし、問題自体はもう解決したはずだし、正直な話、ミチが不倫しようが殴られようが、たまきには直接関係のない話だ。

なのに、どうして、あの日のことが心から離れない。

あの日の自分の言葉が、心から離れない。

耳を澄ませば、またあの日の言葉が聞こえてくる。

『その目だ。たまきちゃんのその目が怖かったんだ……』

聞こえてきたのはミチの言葉だった。

いったいなんだというのだろう。

たまきは正しいことを言ったはずだ。

悪いのはミチと海乃って人、あの二人なのだ。間違っていることをしたから、たまきは自分の思ったことを、自分が正しいと思ったことをぶつけた。

なのにどうして、たまきがいつまでももやもやしなければいけないのだろう。

 

寝付けない、寝付けない、そう思いながら気が付くと朝だった。

時計を見ると午前十時。

寝付けない寝付けないと言いつつ、どうやらしっかり眠っていたようだ。

眼鏡をかけて、ぼんやりと部屋を見渡すと、テレビがついていて、「全国の元旦の朝」みたいな映像が流れている。

「たまき、起きたか。あと十五分ぐらいしたら出かけるぞ」

ばっちりメイクをした亜美がそう言った。

「どこか出かけるんですか?」

「先生のとこ。お年玉もらって、おせち食うんだ」

「そのあとは初詣に行くよ」

と志保。

なんだかめんどくさいな、と思いつつもたまきは起き上がった。

たまきは髪の毛を整える程度の支度を済ませる。

「そういえば亜美ちゃん、朝さ、いなかったよね」

「ん? 屋上にいたんだよ」

亜美が答える。

「何してたの?」

「そりゃお前、正月の朝っつったら、初日の出見るために決まってんだろう。やばかったぜ。区役所とビルの隙間からちょうど朝日が昇ってくるんだ。光がこう、パーっとなって、ぴかーっとなって、うわっやべーってなって」

「よくわからないけど、あたしも見たかったなぁ。起こしてくれればよかったのに」

志保が不満げに口を尖らせた。

「じゃあさ、明日の朝見ようぜ」

「え?」

たまきと志保が同じタイミングで亜美を見た。

「明日見るって……何を?」

「何って、明日の初日の出だよ」

「明日って……、一月二日だよ?」

「知ってるよ」

「亜美ちゃん、初日の出の意味、わかってる?」

「その日初めて出てくる太陽の事だろ?」

「それ……ただの日の出です」

たまきがぼそりとつぶやく。

「亜美ちゃん、初日の出って、その年初めての日の出のことだよ?」

亜美は不思議そうな顔して話を聞いていたが、やがて顔をしかめて

「なにそれ?」

と言った。

「正月の朝だけ特別ってわけ?」

「そうだよ。だから亜美ちゃん、わざわざ早起きして見たんでしょ?」

「いや、うちは、テレビつけたら初日の出がどうとか言ってたから見に行っただけだけど、じゃあ、なに、今日の初日の出は初日の出だけど、明日の初日の出は初日の出じゃねぇのか?」

「だからそれ、ただの日の出です」

たまきがまたぼそっと言う。

「なんだよそれ。なんで正月の初日の出だけ特別なんだよ。明日見たっていいじゃねぇか。どうせおんなじところからおんなじ時間に昇ってくるんだから。今日の初日の出と明日の初日の出、クオリティが違うのかよ。んなわけねぇだろ?」

「まあ、クオリティは一緒だと思うけど……」

志保があきれたように言った。

 

お正月なんて何一つ特別なことなんてない。

たまきはそう思っているのだが、それでも年が変わり、1月1日というまっさらな日の空気は、冷たくもどこかすがすがしさを感じずにはいられなかった。

三人は連なって太田ビルの階段を下りていく。

2階まで降りると、ラーメン屋がのれんを出していた。

「この店、正月でもやってるんだ」

「みたいだね。年中無休って書いてあるよ」

「は~、正月早々ご苦労様です」

亜美が感心したように言うと、軽く敬礼をして見せた。

階段を下りた三人は舞の家に向けて歩き出す。

歓楽街に正月休みなんてないらしく、お正月だからと言って特別何かがいつもと違うわけではない。

「ミチってさ、今日もバイトしてんのかな?」

と亜美が切り出した。

「さあ。そもそも、ミチ君ってもうケガ治ってるの?」

「おい、たまき、なんか聞いてねぇか?」

「……なにも知りません。なんで私なんですか……」

「だって、お前が一番、ミチと仲いいだろ」

「……仲良くなんか、ないです」

たまきはわざと亜美から目線を外した。再びラジオのノイズみたいな音が聞こえた気がした。

「でも、たまきちゃん、よく公園でミチ君と一緒になるんでしょ? あの日もたまきちゃんだけ残ってたし、何か聞いてないの?」

「……あれ以来、会ってません」

たまきは、もうその話題に触れてほしくないかのように、歩調を落とした。

「でも、ミチ、もしも骨折とかしてたら、そんなすぐには治んねぇだろ」

「でも、先生は『最悪、亀裂入ってるかも』って言ってたから、逆に骨折してる可能性は低いんじゃない?」

ミチについて会話する亜美と志保の後ろを、たまきはとぼとぼとついていく。彼女の眼鏡に映る景色は、どことなくモノクロに感じた。

 

写真はイメージです

「せんせー、明けましておめでとー!」

「……お前ら、何しに来た」

舞は機嫌が悪そうに、マンションの廊下に並んだ三人をにらんだ。

「とりあえず、お前ら、中に入れ」

舞に促され、三人は部屋の中へと入る。

「先生、振袖とか着ないの?」

「一人で部屋の中で振袖着てたら、イタいだろ」

舞はそういうと、志保のほうを向いた。

「志保、お前、最近どうだ。クスリを断ってもう半年近くなるだろ」

「はい」

「クスリを使いたいって思うことはあるか? 怒らねぇから、正直に言えよ」

舞は灰皿の上に置いてあった煙草をくわえた。

「……あります。でも、一度も使っては……」

「了解。いいんだよ、それで」

舞はそういうと、今度はたまきのほうを向く。

「お前は、三日前のリスカの傷、どうなった」

「……別に何も」

正確にはまだちょっと痛いのだが、傷が開いたわけでもないので、たまきはだまっていた。

舞は何か考えるようなしぐさを見せた後、亜美のほうを向いた。

「亜美、お前、まさか、父親が誰ともわかんないガキを孕んだとか……」

「ないよ」

亜美があっけらかんとして答える。

舞は腕組みして数秒間考えた。

「じゃあ、お前ら、何しに来たんだ!?」

「何って……正月の挨拶ですよ」

「ずいぶん平和な用事だな……」

「何? 先生のとこって、ビョーキとかケガとかニンシンとかしてないと、来ちゃいけないの?」

「お前らが突然やってくるときは、だいたいなんかのトラブルと一緒だろうがよ! トイレで倒れてるとか、道路で殴られてるとか!」

たまきは舞の部屋を見渡した。いつもと何も変わらない。ここにいたら今日がお正月であることも忘れてしまいそうだ。

「せんせー、お年玉ちょーだい」

舞は浅くため息をついた。亜美がお年玉をせびることは想定済みだったらしい。

舞はおもむろにキッチンに向かうと、調理器具の中からお玉を手に取った。そしてリビングのソファの前に立つと、ソファの上にポトリとお玉を落とす。

「なに? いまの」

「おとし玉だよ」

三人はしばらく、ポカンと舞を見ていた。

「……くだらねぇ!」

「うるせぇ!」

亜美の言葉にかぶせるように、舞が吼えるかのように言葉をぶつけた。

「いいかお前ら、あたしはいつもお前らのことをタダ同然で面倒見てやってんだぞ! この前のミチの一件だって、本来の治療代と比べたら激安でやってやったんだからな! むしろ、お前らからもっとお金貰ってもいいくらいだ。なんであたしがお前らにお年玉払わにゃならんのだ!」

ミチの名前が出て、たまきは少し前のめりになるように口を開いた。

「あの、ミチ君、あれからどうなりました?」

「お、なに、心配?」

舞が妙ににやにやする。

「いや、そういうわけじゃ……」

下を向いたたまきを見て、舞はわざとらしく声を上げた。

「へぇ、心配してんだ。この前あんなにおおげん……」

「ま、舞先生…!」

たまきが慌てたように舞を見る。

「わかってるよ。言わないって」

舞はまだにやにやしている。

「おおげん?」

「なんだ、オオゲンって?」

志保と亜美が不思議そうに舞を見る。

「ん? ああ、ミチなら大元気だよ。オオゲンキ。結局、骨もおれてなかったし、頭打ったわけでもないし。年末に一回うちに呼んで様子見たけど、歩くのにちょっと足引きずってる感じだったけど、まあ、若いし、直に治るだろ」

「そうですか……」

たまきはどこか納得していないかのようだった。

「ところで、先生さ、おせち作ってないの?」

亜美がソファに腰掛けながら訪ねた。

「ないよ。一人でおせちなんか作るかよ」

「買ったりしてないの?」

「だからないって。一人でおせち食うかよ」

「なんだ。志保、おせちないってさ」

亜美がつまらなそうに言った。

「あれ? 亜美ちゃん、先生の家におせちあるから食べに行こうって……」

「いや、先生だったらおせちぐらい用意してるかもなぁ、って思ってたんだけどなぁ」

「え、ずいぶん自信ありげに言ってたけど、あれ、ただの予想だったの?」

「ダメじゃん、先生。正月なのにお年玉もおせちも用意してないなんて」

「勝手にあたしを当てにすんな」

舞が亜美を、ぎろりとにらみつけた。

 

結局、4人のお昼ご飯は舞の家にストックされていたカップラーメンという、お正月とは程遠いものとなった。

お昼を食べ終えて、亜美と志保は近くの神社に初もうでに向かった。

たまきも誘われたのだが、人ごみに行きたくなかったので、断った。

だいたい神様なんて信じていない。「早く死にたい」というたまきの願いは、一向にかなわないのだから。

テレビを見るとどこかで事故が起きたの、病気で人が死んだの、殺されたのと悲しいニュースが流れている。

こういうニュースが悲しいのは、死にたくない人が死んでしまうからだ。

どうせなら死にたくてしょうがない自分みたいな人が犠牲になればよかったのに。そうしたら悲しくなんかないのに。

死にたくない人が死んで、死にたい人が新年を迎える。もしも神様がいるなら、きっと悪趣味で残酷な奴に違いない。

 

たまきはソファの上でひざを丸めていた。舞の家にいてもやることがないし、このまま「城」に帰ろうかとも思ったが、帰ったところでやることはない。

何より、一人になったらまた心がもやもやして、あのノイズが聞こえてきそうだ。

眠ろうと思って目をつむった時、トイレに入った時、亜美も志保もいなくてひとりっきりになった時、心がもやもやして、ざわざわして、ノイズとともにイブの夜のことを思い出す。思い出してまたもやもやする。

ノイズが聞こえてくるタイミングはほかにもある。階段を下りてミチの働くラーメン屋の前を通りかかったとき、会話の中でミチの名前が出たとき、心がざわざわとし、あの夜のことが、ミチとのやり取りが頭をよぎる。

なぜあの日のことが頭を離れないのか、心がもやもやしてざわざわするのか。いくら考えても答えが出ない。

いくら考えても答えが出ないのに、それでも考えずにはいられない。もやもやするのが気のせいだなんて思えない。

さっきだってそうだ。ミチの名前が出るたびにもやもやしてるのに、自分からミチの話題を切り出した。ミチの話をすればまたもやもやするってわかっているのに。

そして、ミチのけがは心配ないという答えは、たまきが望むものではなかった。

別にミチのけがが治らなければいいとか、そういう意味ではない。たまきが知りたかったのは、ケガの具合じゃないのだ。それも心配だけれど、知りたかったのはもっと別のことなんだ。それは……。

「ミチ君、大丈夫でした……?」

「ん?」

舞は少し離れた所に立って、コーラを飲んでいたが、たまきの問いかけに怪訝な顔をした。

「さっき言っただろ? 大元気だったって……」

「けがのことじゃないです」

たまきは舞を見ることなく言った。

「そうじゃなくて、その、落ち込んだりしてなかったかなとか……」

舞はコーラを一口飲んでから答えた。

「そういう意味では元気なかったかもな。確かに、声のトーンとか、目線とか……、まあ、あんなことあったんだし、そんなすぐに立ち直れはしないだろうし」

「たぶんそれ、私のせいです……」

まるで冬の冷たい吐息のように、たまきはぽつりとつぶやいた。

「おまえのせい? なんで?」

「私があの時、ミチ君を傷つけるようなこと言ったから……」

たまきの中のノイズが、より一層大きくなった。

『海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?』

『あなたのことも、あなたみたいな人が作る歌も、私は、大っ嫌いです!』

『その目だ。たまきちゃんのその目が怖かったんだ……』

あの日の言葉が、ノイズがかかった状態で聞こえてくる。

「それでミチが落ち込んでるって思ってるの? いやぁ、考えすぎだろ」

舞はコーラの感をテーブルの上に置くと、笑いながらそう言った。

「でも……」

「前にも言ったろ。お前は何でも自分のせいにしがちだって。ミチがケガしたのも、お前にいろいろ言われたのも、全部ミチの自業自得なんだから。大丈夫。お前は間違ったことは言っちゃいないよ」

「私も、間違ったことを言ったなんて思ってません……」

「だったらそれでいいだろ。まだ納得できないことがあるのか?」

「はい……」

舞はコーラ片手に、たまきの隣に座った。たまきは膝の上に置いた両手を固く結び、その一点を見つめていた。

「心が……もやもやするんです……。ざわざわするんです……。なんであんなこと言っちゃったんだろうって。なんであんな言い方しかできなかったんだろうって。私は間違ってない、間違ったことは言ってない、何度もそう思っても、それでももやもやするんです……」

話ながらたまきは、ノイズの奥にある自分の本音が少し聞こえたような気がした。

「なんでかね、それは」

舞はやさしくほほえみながらそうつぶやいた。

「きっと私は……自分のことが赦せないんだと思います」

たまきは今にも消え入りそうな声で、それでいて力強くそう答えた。

「ああいう言い方しかできなかったことが?」

「はい……」

「でも、あたしから見ても、お前の言ってたことは間違っちゃいないぜ。悪いのは不倫して、嘘ついてたミチだ。そのことをきつく言われて落ち込んだからって、お前が自分を責める必要はないんじゃないか?」

「でも……、もやもやするんです。なんでなんで私はあの時……、って。それが心から離れないんです。自分が……赦せないんです……」

「それは、なんで?」

舞はうつむくたまきの目を覗き込むようにして言った。

「そうまでして自分のことが赦せないのはなんで?」

「それが……わからないんです……」

たまきはじっと一点を見つめたまま答えた。

舞はごくごくとコーラを喉の奥に一気に流し込むと、缶をテーブルの上に置いた。

「確かに、お前の言ってたことは正しかったけど、優しくはなかったかもなぁ」

「え?」

たまきはこの時になって初めて、舞のほうを向いた。

「お前が言ってることはそういう事だろ? 自分は正しいことを言った。でも、優しくなかった。優しくなかった自分が赦せないって」

「そうなんですか?」

「いや、お前のことだよ」

舞は笑った。

自分の言ったことは正しい。

でも、優しくなかった。

舞の言葉を心の中でたまきは何度もつぶやく。

いつしか、たまきの中に聞こえていたノイズは消えていた。もやもやもざわざわも消えていた。

「あの日、私は、やさしくなかった……。ミチ君に対してやさしくできなかった自分が赦せなかった……」

たまきはもう一度舞のほうを向いた。

「そういうことなんですか?」

「だからあたしに聞いても正解なんか知らないって。お前のことなんだから」

そういって舞はまた笑う。

「私は……やさしくない自分が赦せなかったんだ……」

「おまえはヘンなやつだな」

舞は白い歯を見せてにっと笑う。

「ヘン……ですか?」

「だってさ、自分がやさしくなかったから自分を赦せないって、そんなこと考えるのは、やさしいやつだけだよ。おまえは人一倍やさしいんだよ。なのに、自分がやさしくなかったから赦せない、なんて言ってやがる。矛盾してるだろ」

「私は……やさしくなんかないです……だってあの時……ミチ君にきつい言い方を……、海乃って人にも……」

「だから、そんな風に考えること自体、やさしいやつだけなんだよ」

舞はさっきから、ゲラゲラと笑っている。

「あたしがお前ぐらいの時なんか、そんな風には考えなかったぜ。あたしは正しいこと言った、あたしは間違ってない、って。その言い方がやさしくなかったとか、もっと別の言い方があったんじゃないかとか、そんなこと考えなかったよ。いや……、大人になってからもそうだったかもな……」

どこか遠い目をする舞の横で、たまきは突然立ち上がった。

「私、ミチ君に謝らないと」

「おお、どうした、急に」

舞は立ち上がったたまきを見上げた。

「別にお前が謝る必要なんかないんじゃないか? 確かにお前の言い方はやさしくはなかったかもだけど、何度も言うけどさ、悪いのはミチなんだぜ。ミチが悪いことして、その結果なに言われようが、自業自得だと思うけどねぇ」

「でも、私はミチ君にやさしくできなかったんです。やっぱり、そのことをちゃんと謝らないと」

たまきの言葉に舞は、いつになく意志の強さを感じた。

「私、帰ります。舞先生、ありがとうございました」

「おお、まあ、頑張って謝って来いよ」

たまきは舞にぺこりとお辞儀をすると、舞の部屋を出て行った。

たまきが出ていき、部屋の扉がバタンと閉じた。その扉を見ながら、舞はひとり呟いた。

「ほんとうにヘンなやつだ」

 

写真はイメージです

元日の昼過ぎ、ミチはいつもの公園の、いつもの階段にいた。

けがをして、それも足をくじいていたので、この公園に来るのは久しぶりだった。

ギターケースを下すと、階段に腰掛ける。夏場には鉄板のように熱い階段のコンクリートも、今では氷のように冷たい。

腰を下ろしたまま、ミチはただぼおっと前だけを見ていた。

ふいに後ろから声をかけられた。

「あけましておめでとう」

振り返ると、そこには仙人が立っていた。

「……あけおめっす」

ミチは軽く頭を下げる。仙人は笑いながら、

「今の若いもんはそんな風に略すのか。まあ、正月なんて何がおめでたいのかわからんもんな」

と言った。

「今日は歌わんのか?」

ミチは答えなかった。

仙人はミチの横の空いたスペースに目をやった。

「となり、いいかな?」

ミチは無言でうなづく。

「かわいいお嬢ちゃんじゃなくて申し訳ないがな」

「別に……」

仙人はミチの隣に腰掛けた。

仙人は手にカップ酒を持っていて、それを開けるとちびちびと飲みだす。

仙人は、ミチの額に貼られたばんそうこうについては、何も聞かなかった。

仙人がカップ酒を半分ほど飲んだ時だった。

「あの……」

ミチが仙人に話しかけた。

「ちょっと、話を聞いてほしいんす……けど……」

ミチは横目で仙人の表情をうかがう。

「歌ではなくて話を聞いてほしいか。噺家にでもなったのか?」

そういって仙人は、優しく笑った。

 

ミチは仙人にすべてを話した。不倫したこと。ばれたこと。殴られたこと。相手にも、そして友達にも嘘をついたこと。そして、たまきに軽蔑されたこと。

仙人にも軽蔑されるかと思ったが、仙人は時折あいづちを入れるだけで、不倫したことに対して、特に何も言わなかった。

一通り話し終えて、仙人は

「そりゃ、大変だったな」

とだけ言った。

「仙人さんは……その……今の話を聞いて、俺のことどう思います……?」

「別にどうも思わんさ。わしに迷惑をかけたわけではないからな。おまえさん、まだ未成年だろ? だったら、いっぱい道を踏み外して、めいっぱい怒られればいい。おまえさんは今回、自分の行いで傷つく人がいることを知ったんだ。おまえさんぐらいの年だったら、そこから学んで、二度と同じ過ちをしなければそれでよい」

仙人はカップ酒の入った小瓶を地面に置いた。

「経験するだけじゃ何も偉くない。人の価値を決めるのは経験から何を学んだか、だ」

「そうっすか……」

「ところで、どうしてこんな話をわしにしたのかな?」

「……」

「わしはてっきり、お前さんに嫌われていると思っとったんだが」

ミチは答えず、下を見つめた。

「ただ話を聞いて、懺悔したいというのなら、わしなんかよりも寺や教会に行ったほうがよいぞ。悪い宗教家というのは口がうまいが、善い宗教家は話を聞くのがうまい」

「そのっすね……、俺、どう謝ったらいいのかわからなくて……」

仙人は再びカップ酒を口にした。

「さっきの話を聞く限り、お前さんの先輩が、お前さんとその女の人はもう二度と会わないということで話をまとめたんだろ? だったら、下手に謝罪しないほうがいい。かえって話がこじれる。勝手なことをすれば、先輩とやらの顔をつぶすことにもなる」

「その……でも……」

「何か割り切れないことがあるのか?」

「俺、たまきちゃんにどう謝ればいいのかわからなくて……」

「ほう」

仙人は興味深そうにミチを見た。

「俺のせいで巻き込まれて、ケガしちゃったし、あんなに怒ってたし、ちゃんと謝んなきゃなって……。でも、こういう言い方するとあれなんすけど、あの子普通の女の子と違うっていうか……、普通の女の子ならなんかアクセサリーとかあげれば喜ぶかなって思うんすけど、たまきちゃんがアクセサリーとかつけてるの見たことないし、あの子、画集とかそういうの貰って喜ぶ子だから、何あげればいいかなって……」

「ボウズ」

「はい……」

ミチは緊張した面持ちで仙人を見た。

「わしから言えることは二つだ。まず、モノをあげれば謝ったことになると思っとるんなら、それは間違いだぞ」

「そ、それはそうなんすけど……」

ミチは仙人から視線を外し、泳がせた。

「でも、やっぱり、手ぶらっつーのも……」

「それにだ、確かにお嬢ちゃんが、お前さんに巻き込まれてケガしたことに怒っとるんだったら、まあまだお詫びの品を持ってくでもいいが、話を聞く限り、お嬢ちゃんはそこに怒ったわけではないと思うぞ」

「……というと」

「そもそも、お嬢ちゃんがケガをしたのは、お前さんを助けようとしたからだろ。おまえさんはお嬢ちゃんに助けを求めたのか?」

「……いいえ」

「つまり、お嬢ちゃんは自分の判断でおまえさんを助けようとしたんだ。ケガしたくなかったら、そんな事せんだろ」

「でも、現に、たまきちゃんは俺のせいでケガしちゃったわけで……」

「まあ、お前さんの気が済まんというのなら、謝って来ればいいさ。モノがなきゃどうしても不安だというのなら、お菓子の一つでも買っていくといい。だが、わしにはもっと他に謝らなければならんことがあるような気がするがの」

ミチは何も答えなかった。

「お前さんもそのことをうすうすわかっとるんじゃないのか。だが、それが何なのか、はっきりとは分からない。何をあげたらいいかとかそういうんじゃなく、あの子の前に立った時に何を言えばいいのか、本当は何を謝らなければいけないのか、それがはっきりと自分でもわかっとらんのではないか? だから、とっとと謝りに行けばいいものを、一週間も何もせんでおる。」

「俺は、なにを謝らなければいけないんすか……」

ミチは、仙人をすがるように見た。

「それを自分で気づくところまでが勉強……と言いたいところだが、まあ、『謝らなければいけないことがある』と自分で思っただけでも上出来だろう」

仙人は、再びカップ酒に口をつけた。

「言っておくが、『わしはこう思う』って話であって、これが正解ってわけじゃないぞ。一応、わしの考えは述べるが、それをどう思うかはお前さんが判断することだ」

ミチはいつになく真剣なまなざしで仙人を見据えた。

「お前さんにとって、あのお嬢ちゃんはどういう存在だ?」

「え……友達っすけど?」

「それだけか?」

「それだけって、別にヘンな関係じゃないっすよ?」

ミチは少し顔を赤くしながら言った。

「じゃあ、ほかの友達にはなくて、あの子にだけはあるつながりがあるだろう?」

「え……?」

ミチは数学の問題でも解くかのように難しい顔をしたが、悩みつつも口を開いた。

「歌?」

「お前さんにとって、あの子はどういう存在だ?」

「……ファンっすか?」

「そうだ。それもたった一人の、な」

仙人は、やれやれとでも言いたげにミチを見ている。

「そのたった一人のファンを、お前さんは失望させたんだ。おまえさんの歌は全部嘘だったんだ、とな。おまえさんの話を聞く限り、お嬢ちゃんはそこにがっかりして、そこに怒っていると思うがな。お嬢ちゃんが好きだったおまえさんの歌を、ほかでもないおまえさん自身が嘘にしてしまったことに」

ミチは何も答えられなかった。

「もちろん、ファンの期待に全部答えることなんてできん。中には、勝手な期待もあるだろう。だが、自分の歌を嘘にしちゃいかん。歌を殺しちゃいかん。おまえさんの歌はお前さんのものだが、聴いてくれる人のものでもあるからだ。おまえさんの歌が嘘になれば、お嬢ちゃんがお前さんの歌を聴いて抱いた想いや、思い出も嘘になってしまう」

仙人の言葉は白い息となって、霞のように空気に溶けていく。

「そこまで責任が持てんというのなら、人前で歌なんぞ歌わぬことだ」

ミチは何も答えない。ただ、傍らに置いたギターケースを見ていた。

やがて、おもむろにミチは立ち上がる。

「俺、そろそろバイトの時間なんで、行きます。……ありがとうございました」

「元旦からバイトか。大変だな」

「いえ……じゃ……」

ミチは軽く会釈をすると、公園の出口へとむかって歩き始めた。

結局開けることのなかったギターケースを担いで、大通りを渡る。

歩きながらミチは仙人の言葉に思いを巡らす。

それは、最初に言われた「正月なんて何がおめでたいかわからない」という言葉。

公園と駅の間にある官庁街は、ほとんど人通りがない。人気のない官庁街を、ミチは速足で歩いていく。

仙人のおっさんのゆうとおりだ。正月なんてちっともめでたくない。

だって俺の中では、去年はまだ、終わっていない。

 

写真はイメージです

ミチに謝ろうと勢いよく舞の家を飛び出したはいいものの、たまきは結局「城」に帰ってきた。

思えば、ミチの家も、連絡先も知らない。

いつもの公園に行けばもしかしたらいるかも、などと考えたが、「城」の鍵は今、たまきが預かっている。亜美と志保がいつ帰ってくるかわからないのに、遠出をするわけにはいかない。

結局、太田ビルに帰ってきたたまき。途中でミチの働くラーメン屋を覗き込んだが、覗いた程度でミチがいるかどうかはわからなかったし、謝罪をするためにわざわざお店に入るのは、お店にとって迷惑だろう。

結局、謝らなくちゃという思いを抱えてまたもやもやしたまま、たまきは『城』へと帰ってきた。

もやもやしたまま「城」でしばらく過ごしていたら、いつの間にか時間は午後4時になっていた。亜美と志保はまだ帰ってきていない。

ふと、おなかの虫がぐうとなった。

誰もいないのに、なぜだか恥ずかしいと思ってしまう。

おやつでも買おうと、たまきは立ち上がる。

下のコンビニ行くため、階段を下りていく。

3階から2階へと降りる階段の、踊り場を過ぎたあたりで、たまきは2階のラーメン屋の前に誰かいるのに気づいた。

階段のすぐそばにラーメン屋の入り口があり、2階の奥にはもう一つ、勝手口がある。勝手口のわきにはパイプ椅子が二つ置かれ、灰皿代わりの水の入ったバケツが置いてある。従業員の喫煙スペースとして使われている場所だ。

そこで一人、調理服を着た少年が、たばこを吸っていた。少年がタバコを吸うのはルール違反だが、吸っているのだからそう書くしかない。

少年の姿を見つけると、

「あっ……」

と、小さく声を漏らし、たまきは階段の上で足を止めた。そのまま次の一歩が踏み出せずに、階段の上に立ち尽くした。

さっきまで、謝ろう謝ろうと思っていたのに、急に本人に会うと、言葉が出てこない。

その少年、ミチもたまきに気づき、やっぱり

「あ……」

と、小さくつぶやくと、気まずそうにたまきを見ていた。

やがて、ミチは煙草をバケツの中に放り込み、やはり気まずそうに、それでも一歩一歩、たまきの方へと近づいて行った。

手を伸ばせば触れるくらいのところでミチは止まると、右上を見たり左上を見たり、視線を忙しく泳がせながら、言葉を探した。

「あ、あのさ……」

ようやく見つかったミチの言葉の出だしだったが、それにかぶせるように、たまきはいつもよりちょっと大きな声で、いつもよりちょっと早口で、

「あの、この前は、ごめんなさい!」

というと、思いっきり頭を下げた。

「……へ?」

ミチの方は出鼻をくじかれ、なおかつ面食らったようにたまきをぽかんと見つめる。

たまきが顔をあげた。いつになくまっすぐにミチを見据えている。

二人の視線が正面衝突した。

気恥ずかしさもあってか、たまきはすぐに次の言葉が言えなかった。

一方、ミチは虚を突かれたようにたまきを見ていた。やがて、絞り出すように言葉を述べる。

「……なんで……たまきちゃんが、謝るの?」

たまきは珍しく、ミチの目を見たまま、目をそらさなかった。

「あの日、ミチ君はケガしてて、傷ついてて、優しくしなきゃいけなかったのに、私、ちゃんと優しくできなくて……」

「でも、あれは、俺が悪いわけで……」

一方のミチは恥ずかしそうに視線を逸らす。

「だとしても、私はあの日、もっとミチ君に優しくしなきゃいけなかったんです。言いたいことがあっても、何もあの日に言うことはなかったんです。ごめんなさい」

たまきはもう一度頭を下げた。

顔をあげるとすぐ目の前にミチの顔があった。今度はミチがたまきをじっと見ると、

「……ずるくね?」

と言った。

「……え?」

「だって、謝らなきゃいけないのは俺の方なのに、そんな風にたまきちゃんから最初に謝られたら、俺、もう、謝れないじゃん。それってずるくね?」

「ずるいってどういうことですか? ミチ君も謝りたいことがあるなら、今、謝ればいいじゃないですか?」

「でも、たまきちゃんから先に謝られたら、もう謝れねぇじゃん。なんか、後出しじゃんけんみたいでさ」

「別にどっちが先だからってそんなの関係ないじゃないですか」

たまきとしても納得いかない。

「だってさ、優しくできなかったからごめんなさいって、そんな理由で先に謝られたらさ、なんか謝りづらいっていうか……」

「私が先に謝ったのがいけないんですか? 私は自分が悪いことしたって思ったから、謝ったんです。なんでそれに文句言われなきゃいけないんですか? おかしいですよね? おかしくないですか?」

たまきもムキになって言い返す。ミチは何か言いたそうにたまきを見ていたが、

「おかしいっていえばまあ、可笑しいよな……」

と言って、笑い始めた。

「……何がそんなにおかしいんですか!?」

「いや、俺、たまきちゃんに謝るつもりだったのに、なんでまたけんかしてんだろ、って思ってさ」

「……べつにけんかしてるつもりはありません」

たまきは斜め下へと目をそらした。そして、ぽつりと言った。

「……謝りたいことがあるなら、謝ればいいじゃないですか」

「そうやって促されると、余計にダサいっていうか……」

「謝るのはいつだってダサいんです。さっきは、私がダサかったんですから」

そういうと、たまきは再びミチの目を見た。

「謝るのにかっこつけたいなんて、それこそずるくないですか?」

ミチは本当に恥ずかしそうにたまきを見ていた。そして、恥ずかしそうに口を開いた。

「なんかその、いろいろと、ごめんなさい……!」

「『なんかいろいろと』じゃわかりません」

「いや、今のことも謝んなきゃなぁ、って思うし、巻き込んじゃったこともそうだし、その……たまきちゃんがせっかく好きだって言ってくれた俺の歌……、自分で台無しにしちゃって……ごめん……」

ミチはぎこちなく、それでも潔く、頭を下げた。だからたまきが

「……ほんとですよ」

とつぶやいた時、彼女がどんな表情をしていたかミチは見ていない。

「……俺決めた。これまで作った歌は、全部捨てる」

「え?」

たまきは戸惑ったような声を上げ、申し訳なさそうにミチを見た。

「……別にそこまでする必要は……」

「いや、もうさ、あの日以来、歌えないんだよ」

ミチはたまきから視線を外す。

「さっきもギターもって公園に行ったんだけど、歌うどころか、ギターを持つ気にもなれなくてさ……、結局、俺は自分の作った歌の主人公になれなかった。自分で自分の歌を嘘にしちまったんだ。だから、もう、歌えないんだ」

たまきはミチをじっと見ていた。

「だから、全部捨てる。今の俺には歌えないし、だったら、一からやり直すことに決めたんだ。ヒット曲の切り貼りじゃねぇ、俺の身の丈に合った、俺自身の言葉で書いた歌を、一から作り直すって」

「そうですか……」

たまきはどこか寂しそうに、それでいて、どこかほっとしたようにつぶやいた。

「でも……、全部捨てなくてもいいんじゃないですか……。あの……犬の歌とか、私、まだその……」

少し恥ずかしそうにたまきが言った。

「……また歌えるようになったらね」

そういってミチは笑った。たまきも微笑んだ。

「なんだか今日は、ミチ君がいつもと違って見えます」

「違って見えるって?」

「いつもはなんか、もっと遠い感じだったけど、今日は目線が同じに見えるような気が……」

「それ、たまきちゃんがちょっと高いところにいるからだよ」

たまきは足元に目をやった。たまきはミチよりも階段1段分、高い所に立っていた。

たまきはそこからぴょんと飛び降りた。トン、と着地して見上げると、ミチの目が少し高いところにあり、いつもの身長差に戻った。たまきはミチの目を見上げると、

「いつも通り」

と言ってほほ笑んだ。

「そういえば……その……」

たまきはラーメン屋ののれんを見ると、言いづらそうにミチを見た。

「お店で働いてて、あの海乃って人と会わないんですか……」

「……あの人ね、……バイト辞めてた。俺が休んでる間に」

「そうですか……」

「ま、旦那いるんだったら、別に無理してバイトしなくても生活できるだろうしな」

ミチがわざと明るく言っているようにたまきには感じられた。

「じゃあ、私はこれで……」

そういってたまきはミチに背を向け、階段を上り始めた。

「……たまきちゃん!」

たまきの背中に、ミチの言葉が投げかけられる。

「新しい歌ができたらさ、また聞いてくれないかな?」

「……はい」

たまきは振り返ることなく答えた。

そのままたまきは階段を上り続けた。

4階から5階へと向かう階段の踊り場で、再びおなかが、ぐう、と鳴った。

恥ずかしそうにたまきはおなかに手をやる。

そうだった。私はおなかがすいて、下のコンビニにおやつを買いに行く途中だった、とたまきは自分の用事を思い出した。

しかし、いま戻っても、たぶん、まだミチがあそこでタバコを吸っているような気がする。

いま戻ったら絶対、「あれ、どうしたの?」と声を掛けられるに決まってる。

そう思ったらさらに恥ずかしくなって、たまきはおなかに手を当てたまんま、階段を上り続けた。

つづく


次回 第22話「明け方の青春」

近くの神社に初詣に行った亜美と志保。志保はそこで思いがけない人物に出会う。そして、「二日目の初日の出」を見るつもりがふとした手違いで日出より早く起きてしまった3人は、明け方の歓楽街を散歩することに。

続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説「あしたてんきになぁれ」 第20話「冷凍チャーハン、ところによりカップラーメン」

あしなれ、前回までのあらすじ

ミチのカノジョ、海乃は実は既婚者だった。ミチとの交際が海乃の旦那にばれ、ミチは激しい暴行を受ける。その日の夜、舞の家で治療を受けるミチにたまきは、海乃が既婚者であることをミチは知っていたのではないか、知ってるのに「何も知らなかった」と嘘をついているのではないかとぶつける。


第19話「赤いみぞれのクリスマス」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです。

「海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?」

たまきはいつになく強い目で、まっすぐにミチを見据えた。

暗い部屋の中、外の明かりに照らされたたまきの顔は、ほんのりと紅潮している。

「え……、知ってるって……」

ミチは半笑いをしながら、窓の外を見た。

「海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?」

たまきはもう一度同じ言葉を、より語気を強めていった。

ミチはたまきの方を向くと、左手で鼻の下をこすりながら、ひきつった笑顔を見せた。

「し……知ってたわけないじゃん。俺だって今日初めて知って……」

「私は知ってました」

たまきの言葉にミチの指が止まった。そのまま左手はだらりと下がるものの、顔は硬直したまま、たまきを見続ける。

「え……」

「私は海乃っていう人が結婚してるって知ってました」

「いつ……」

ミチはそう言って唇をかんだ。

「……大収穫祭の次の日の朝、その……ホテルから出てきた二人にあった、あの時です」

たまきはミチの方を見ながらも、ときどき記憶をたどるように左上を見ながら、しゃべり始めた。

「あの海乃って人……、『ひきこもりはダメ』みたいなこと言って、私の頭なでたんです……。その時、私、はっきりと見ました。左手の薬指に、指輪してるの……」

たまきは言葉を選ぶように続けた。

「最初は……、見間違いじゃないかと思いました。左手っていうのは私の見間違いかなって……。でも、あの時、海乃っていう人の右手は、ミチ君と手をつないでました。私の頭を撫でたのは、指輪をしてたのは間違いなく左手だったんです……。それでも、ほんとに薬指だったかなって……。でも、あの人、別れ際に私にゆっくりと手を振ったんです。左手で。その時、指輪が見えました……。間違いなく薬指でした……」

ミチは気まずそうに、ドアの方に目をやった。

「私、もしかしてミチ君、このことに気付いてないのかなって思いました。でも、この前、ミチ君の働いてるお店に行った時、ミチ君、海乃って人とハイタッチしてましたよね……。その時も私、はっきりと見ました……指輪」

たまきは、一度下を向き、それから、ミチを再び見据えた。

「私が気付いているのに、お付き合いしてたミチ君が気付いてなかったわけないじゃないですか……!」

ミチは気まずそうに唇をなめると、たまきをちらりと見やったが、すぐにまた目線をそらした。

「知ってましたよね……!」

「……まあ」

ミチは窓の外を見ながら答えた。

「……知ってて付き合ったんですか?」

「俺が知ったのも……たまきちゃんと同じくらいのタイミングだよ」

ミチはようやく、たまきの方を向いた。

「大収穫祭の夜に海乃さんとホテルに泊まって、……そん時、海乃さんが誰かと電話してて、誰って聞いたらダンナって……。そん時まで、海乃さん指輪してるの隠してて……俺、そん時初めて、海乃さんが結婚してるって知って……」

「……じゃあ、その時、お別れすればよかったんじゃないですか?」

たまきは一度ため息をつくと、言葉を続けた。

「その時、海乃って人ときちんとお別れてしていれば、今日、こんなことにはならなかったんじゃないですか?」

ミチは、何かをあきらめたような笑顔を見せた。

「たまきちゃんってさ、誰かを好きになったこととか、ある?」

「……ありませんけど」

「じゃあ、わかんないよ」

ミチは再び窓の外を見ながら言った。

「人を好きになるってさ、なんつーか、そんな単純なことじゃねぇんだよ。そりゃ、確かに浮気はルール違反なのかもしれないけどさ、恋愛ってもっとなんつーか、尊いもんで、一度好きになっちゃったらもう、そういう次元じゃ……」

「……ごまかさないでください」

たまきはいつになく低い声で言った。その喉の奥に何か熱がこもっているのをミチは感じた。

「そんなに、恋愛って大事なんですか……?」

「そりゃ……、まあ……」

「何よりも?」

「……そりゃ、そうじゃない?」

ミチはあいまいにはにかんだ。

「そうですよね。大事ですよね。ミチ君、そういう歌うたってますもんね。志保さんや亜美さん見てても、私とそんなに年が違わないのに、二人とも大人で、やっぱりそういう経験の差なのかなって思います。そういう経験が大切なんだっていうのは、なんとなくわかります。でも……、だったら……」

時刻はすでに夜の十時を回っていた。暖房の風の音が重苦しく響いていた。

「だったら、なんでそれを、言い訳の道具に使うんですか?」

「……」

再び暖房の音。そして、たまきの声。

「そういう経験ないからわかんないとか、そんな単純じゃないとか、結局、ただの言い訳じゃないですか。自分を正当化しているだけじゃないですか。恋愛が、人を好きになることが、そんなに大切なんだったら、どうしてそれを都合のいい言いわけの道具に使うんですか? それって、大事なものの価値を、自分で貶めてるってことですよね?  おかしいですよね? おかしくないですか?」

たまきは、いつの間にか椅子から立ち上がって、ミチに詰め寄っていた。ミチはたまきから目を反らし、ぐるぐる巻かれた右手の包帯に目を落とした。

「私、ミチ君が不倫してるってわかって、なんだかもやもやして……。でも、不倫はイケナイことだけれど、私がとやかく言う事じゃないし……、それに、ミチ君がそこまであの海乃って人のこと好きなら、もうしょうがないのかなって思ってました……。もし、不倫が相手のダンナさんにばれた時、ミチ君は海乃って人をかばって、それでも、恋を貫き通すくらいの覚悟なんだって勝手に思ってました。だから、今日、ミチ君が殴られて……、『知らなかった』っていったとき……、ショックでした……。ああ、そういう覚悟はなかったんだ、って……」

「……勝手に人を、ラブソングの主人公とかにすんなよ……」

「だってミチ君、そういう歌、歌ってたじゃないですか……!」

たまきはミチの布団をぎゅっとつかんだ。

「ずっと大事にするとか、ずっと守り続けるとか……!」

「よく覚えてんな……」

「結局、そんな覚悟なんてなかったんですよね……」

たまきは、震える唇を前歯で軽く抑えた。

「ミチ君も、海乃って人も、結局、本当に大事なのは自分たちだったんじゃないですか。自分たちだけ楽しければそれでいい。今が楽しければそれでいい。それを恋愛って言葉で包んで、ふたをして……、ひきこもってただけなんじゃないですか?」

たまきはミチの目を強くにらみつけた。

ミチは目をそらしたかった。だが、そらせなかった。

「確かに、あの男の人がミチ君にやったことは、やりすぎだと思います。でも、不倫されれば誰かが傷ついたり、怒ったりするのは、当たり前じゃないですか。あなたたちもわかってましたよね? 私より経験豊富なんだから、当然わかってましたよね? 私、ミチ君も海乃って人も、それでも貫く覚悟があるって思ってました……。そう信じたかった……。でも違った……」

たまきの脳裏に、いつかの海乃の言葉が蘇ってきた。

『引きこもり?へぇ~、かわいい~』

『あれ、でも、この子ヒキコモリなの?だって、外にいるよ?』

『ダメだぞ、ちゃんと学校に行かなきゃ』

声帯がけいれんして嗚咽を繰り返す。そうやって、たまきのことばを喉の奥へ奥へ通し戻そうとする。

それでもたまきは言葉をつづける。前にもこんなことがあったような気がする。

「都合のいい言い訳をして、現実から逃げて、目をそらして、自分たちだけの殻に閉じこもって、ひきこもっているのは、あなたたちの方じゃないですか! そんな人たちに、私がひきこもりだからって、不登校だからって、なんで馬鹿にされなきゃいけないんですか⁉ 本当に逃げてるのは、本当にひきこもってるのは、あなたたちの方じゃないですか‼ なんで私がばかにされなきゃいけないんですか‼」

そこまで言って、たまきの目からポロリとひとしずく零れ落ちた。

「あなたのことも、あなたみたいな人が作る歌も、私は、大っ嫌いです!」

 

たまきは飛び出すように、寝室を出た。

蛍光灯が白い壁を照らす。たまきはソファをにらみつけると、クッションを手に取り、勢いよく寝転がった。

部屋の奥にあるキッチンでは舞が何やら作業をしていた。

「もう十時過ぎてるのでー、大声出さないでもらえますかー。近所迷惑でクレーム来ちゃうので―」

舞がわざと語尾を伸ばしていった。その言葉にたまきが飛び起きる。

「ご、ごめんなさい! 私、先生の迷惑とか、周りのこととか、全然考えてなくて……!」

「そんな必死で謝んな。大丈夫だよ、となり、空き部屋だから」

そう言って舞は笑った。

「……聞こえてました?」

「お前の声だけ、ほぼ全部」

たまきはバツが悪そうに下を向いた。

「お前あんな大声で、あんなにしゃべるんだなって、聞いてて結構面白かったぞ。録音して亜美と志保にも聞かせてやりてぇ」

「え?」

「いや、録音してないから、大丈夫だよ」

そういって舞はまた笑った。

ピーッという電子音が舞の後ろから聞こえてきた。舞は振り返ると、電子レンジのドアを開ける。

舞はテーブルの上にどんと、出来立ての冷凍チャーハンを置いた。

「さてと……、夜食のチャーハンができたわけだが、どうする? 気まずいってんなら、あたしが行こうか?」

「私が行きます。そのために、ここに残ってるんで」

たまきはそういうとチャーハンのお皿に手を伸ばしたが、すぐに

「あつっ……!」

といって手を離した。

「おいおい、気をつけろよ」

舞は笑いながら、たまきに鍋つかみを手渡した。

 

寝室のドアがガチャリと開いて、リビングの明かりが漏れこむと同時に、たまきが何かを持って入ってきた。

「お夕飯はチャーハンです」

舞がドアを閉めると、再び部屋は薄暗くなった。

たまきはチャーハンを化粧台の上に置くと、部屋の明かりをつけた。

薄暗かった部屋が一気に明るくなる。お皿からはチャーハンの蒸気が幽かに立ち上っている。

ミチは、何かを避けるかのように窓の外へと目をやった。

「……俺のこと、嫌いなんじゃなかったの?」

「大嫌いです」

たまきは即座に答えた。

「だったら、そんな奴の世話なんか……」

「それとこれとは話が別です」

たまきは椅子に腰を下ろした。

「誰かを見捨てる理由なんて、口にしたくありません」

その言葉から少し間があって、ミチが口を開いた。

「でも、さっき、海乃さんのこと、見捨てるっつーか、突き放すようなこと言ったじゃん……」

たまきはチャーハンにスプーンを突き刺したまま、まるで米粒の数を数えるかのようにじっと下を見ていた。

「……わかってる。あんなこと、言いたくて言ったわけじゃないし……」

「……たまきちゃん?」

「なんであんな冷たいこと言っちゃったんだろ……」

たまきはそのまま、石のように動かなかったが、気を取り直したかのように立ち上がると、チャーハンのお皿をミチの顔へと近づけた。

「だからミチ君は見捨てません。右手、使えないんですよね。ほら、こっち向いて口開けてください」

ミチはたまきの方を向いた。たまきはチャーハンをスプーンですくい、ミチの方に差し出す。

ミチはそれをじっと見ていた。

「食べてください。食べないと、治るものも治りません」

「海乃さんが一度だけ……、まかない作ってくれたことあるんだ……」

ミチはスプーンの先から目線を落とした。

「チャーハンを……」

「そうですか。早く食べてください」

「これ見てたら、そのこと思い出したっていうか……」

「これは違うチャーハンです」

「でも、思い出しちゃうっつーか……」

「じゃあ、牛乳でもかけますか? そうすればチャーハンじゃなくなります」

「……食うよ」

ミチはスプーンの先にかぶりついた。

「……熱っちぃ」

「知りません」

たまきは、無表情のまま、再びスプーンをチャーハンに突っ込んだ。今度は、ミチに差し出す前に、軽く息を吹きかけた。

 

写真はイメージです。

「さあ、バッターボックス、志保選手が入りました。右投げ、右打ち、打率はえーっと……」

「亜美ちゃん、ちょっと静かにしてくれない? 集中できない」

志保はバットを構えた。正面を難しそうににらみつける。

深夜のバッティングセンター。客の入りは上々で、あちこちからボールがネットに突き刺さる音や、バットによって高く打ち上げられる音が聞こえる。

志保と向かい合ったピッチングマシーンからボールが飛んでくる。そのたびに志保はぶんぶんとバットを振るのだが、当たるどころかかすりもしない。

後ろのベンチで亜美はそれを頬杖しながらじっと見ていた。

「あ~、むずかし~」

ヒットはおろか、ファウルすらあきらめた志保がベンチへと戻る。

「お前は腕だけ振ってるからダメなんだよ。こういうのはな、全身運動なんだよ。体全体でボールを前へはじき返すのがコツだ」

亜美がバッターボックスに立つ。ピッチングマシーンから、勢いよくボールが放たれた。

「せいやっ!」

亜美がバットを振ると、カンという心地よい音とともに、ボールが放物線を描いて飛んでいく。

「そいやっ!」

今度の打線は少し低めだった。

「はーい、どっこいしょ―!」

「ねえ、その掛け声、必要?」

ベンチで息を切らしていた志保が尋ねる。

「掛け声のタイミングで、バットにボールを当てるのがコツだ」

そういって亜美は、再びバットを構える。

「よいよい―よっこらせ―!」

今の掛け声は、長すぎて逆にタイミングが合わないんじゃないか。志保はそんなことを考える。一方、亜美は、志保の方を向いた。

「プロ野球選手もみんな打つときに掛け声言ってんだからな」

「うそだよ。聞いたことないよ」

「そりゃお前、スタジアムは客でいっぱいなんだ。歓声で聞こえてねぇだけだよ」

そういうと、亜美はバットをまっすぐに構えた。

「お前、知ってっか? 叫んだ方が力が出るんだぞ」

亜美はバットを持ったままぐるぐる回りだした。

「ハンマー投げの選手とかさ、こう、ハンマー振り回して、で、投げるときに思いっきり『あー!』ってさけん……」

「亜美ちゃん! バット!」

亜美は、志保が指さす方を見た。

斜め上のネットに的のようなものが設置されている。ここにボールが当たればホームラン、という事だ。

亜美が見たのは、その的に、掛け声と同時に亜美の手からすっぽり抜けたバットが、まさに突き刺さる瞬間だった。

「あー!!」

亜美が今日一番の大声を出した。

 

写真はイメージです

ミチが寝たいと言ったので、たまきは部屋の電気を消した。

たまきがカーテンを閉めるといよいよ真っ暗になったが、ミチがちょっと明るい方がいいと言ったので、たまきは再びカーテンを開けた。

薄暗い部屋の中で、イブの夜に10代の男女が二人きり、と書くと何かロマンチックなマチガイでも起きそうだが、包帯ぐるぐる巻きのミチと、毛並みを逆立てた猫のようにイスに座るたまきとでは、マチガイなんて間違っても起きそうにない。

「あのさ……」

ミチが口を開いた。

「寝るんじゃなかったんですか?」

「今日、いろいろあったから……寝付けなくて……」

「全部ミチ君のせいです。ちゃんと反省してください」

たまきはどこか無機質な声で答える。

「よくさ、母親が寝る前に子供に昔話聞かせるっていうじゃん……?」

「……そうですね。私やお姉ちゃんもお母さんに読んでもらいました」

「なんかさ、昔話知らない?」

「……知りません」

たまきはどこかあきれたように言った。

「じゃあさ、たまきちゃんの昔話聞かせてよ。っていうかさ、お姉ちゃんいるんだ? あれ、たまきちゃんってどこ出身だっけ? そういった話……」

ミチはわざと明るい口調で言ったが、それを水をかけて打ち消すようにたまきは、

「絶対に嫌です」

とだけ言った。

ふたたび静寂が部屋を支配する。

「……もしかして、私がいるの、気まずいですか?」

ミチはすぐには答えなかった。しばらく静寂を聞いた後、口を開いた。

「まあね……」

「私は舞先生から、ミチ君に何か異常があったらすぐに知らせるように頼まれてここにいます」

「でも、見られてると寝づらいっていうか……」

たまきは立ち上がると、ミチに背を向けて座りなおした。

「うん……まあ……ありがとう……」

 

電気を消してしばらくの間、ミチは横になっていたが、やがてトイレに行きたいと言い出した。たまきはその旨を舞に知らせ、舞がミチを連れてトイレに行く。

今のミチは一人でトイレに行けない。右手は包帯でぐるぐる巻きだし、満足に歩けない。

ミチはたまきが来る前から踏まれたり蹴られたりしていて、歩くたびに左足が痛いと言っていた。舞は「サイアク骨に亀裂入ってるかもだけど、まあ、しばらくおとなしくしてりゃくっつくから」とテキトーな診断をした。

ミチをトイレに連れて行った舞が戻ってきた。ミチに肩を貸しながら部屋に戻る。

「お前さぁ、いくつだよ?」

「……十七っす」

「何が見られて恥ずかしいだよ。あたしが気にしねぇっつってんだから、別にいいじゃねぇか。お前だってカノジョいんだろ? やることやってんだろ?」

ミチは少しさみしそうに、

「カノジョがいたのは……今日の夕方までっす」

とだけ言った。

「ああ、そうだったな。悪い悪い」

そいうと、舞はミチを投げ飛ばすかのように、ベッドの上に放り投げた。

「いたた……。先生、俺、けが人なんすから、もっと丁寧に……」

「けが人? 不慮の事故に巻き込まれたとかなら同情してやるけど、お前勝手に怪我して、勝手にウチ来て、あたしの仕事邪魔してんだからな。言っとくけど、あとで5000円くらいもらうからな」

「え?」

「バカ! ちゃんとした病院に入院してたら、この3倍くらいかかるからな、お前」

そういうと、舞はドアの方へと向かう。たまきは、申し訳なさそうに舞を見た。

「ごめんなさい。私が、その、おトイレの世話できないから、先生に代わりにやってもらって……」

「お、じゃあ、次はお前がミチのパンツ下ろす?」

「次もよろしくお願いします」

たまきは間髪入れずに頭を下げた。

「じゃ、あたし、隣にいるからなんかあったら言って。たまき、ミチが寝たらこっち来ていいぞ」

そういって舞は部屋を出ようとしたが、振り返ってたまきの方を向くと、

「けんかするなよ」

と言ってニッっと笑った。

「私、けんかなんてしてません」

ドアが閉まった後、たまきが不満そうに、珍しく口を尖らせた。

「先生にも聞こえちゃったのかな、さっきの話」

「全部聞こえたって言ってました」

たまきが淡々と答えた。

「そっか……知られたくなかったなぁ……」

「知りません」

たまきはミチから目をそらしてそういった。やがてミチの方を向き直ると、

「自業自得です」

とだけ付け足した。

ミチはたまきの顔をじっと見ていた。

たまきはミチの視線から逃げるように立ち上がる。

「寝るんですよね。電気、消しますね」

部屋の入り口にあるスイッチへとたまきは向う。

不意に、ミチの声がたまきの背中へと投げかけられた。

「……その目だ」

「え?」

たまきは壁のスイッチに手を触れたまま、押すことなくミチの方へと振り返った。

「海乃さんってさ……、なんつーか、ちょっとのことでは物おじしない人なんだよ……。それが何であの時、引き下がったのか不思議だったんだ……」

「あの時って……いつですか?」

「たまきちゃんが『地獄を見ればいい』っていった時」

スイッチに触れていたたまきの手が、だらりと下がった。

「あの時、海乃さん、何かにおびえるような目をして、逃げるように去ってったんだ」

「……よく覚えてますね」

たまきは下を見ながらつぶやいた。

「海乃さんらしくないなって思って、何がそんなに怖かったんだろうって。でも、わかった。その目だ。たまきちゃんのその目が怖かったんだ……」

「……そうですか」

たまきはそれだけ言うと、電気を消した。

 

写真はイメージです。

「やっぱさ、スジ通んなくね?」

亜美が缶ビールのプルタブを開けながら言った。

「城」で開かれていたクリスマスパーティは、たまきからの緊急通報でお開きになった。志保は「城」に帰ってきてからパーティの片づけを始めたが、亜美はもったいないからと言って、手を付けられることのなかった缶ビールを飲み始めた。

「何が?」

志保がごみ袋に紙コップを放り込みながら聞き返す。

「だってさ、ダンナいるのに不倫したのはあのオンナだろ? やっぱり、あいつが無傷っておかしいだろ」

「まだその話?」

志保があきれたように言う。

「そもそもさ、不倫するんなら結婚すんなよな、って話じゃん」

志保は聞き流すかのようにせっせと片づけを続けていたが、不意に手を止めた。

「……その理屈、ヘンじゃない?」

「は?」

「いやそれだと、最初から不倫するつもりの人が結婚するのがよくない、って言い方じゃない。そんな人いないでしょ? 結婚してるのに不倫するのがいけないんでしょ?」

「いや、どうせ不倫するのに、結婚するのはスジ通んねぇだろ」

「いやだから、『どうせ不倫する』っていうのが変じゃない? 最初から不倫する前提っていうのが。まず結婚して、それから不倫するのであって……」

「だから、どうせ不倫するのに結婚すんなっつってんじゃん」

しばらく、二人は見合っていた。

「……合わねぇなぁ、ウチら」

「合わない」

「たまき、早く帰ってこねぇかなぁ」

「明日にならないと帰ってこないよ。もう夜遅いし」

「誰だよ、たまき、先生の所に置いてきたの」

「亜美ちゃんだよ」

志保は再び片づけを始めた。

「……あたしはちょっぴりわかるけどな」

志保は目線を上げることなくつぶやいた。

「何が?」

「不倫しちゃう人の気持ち」

「へぇ!」

亜美が何か珍しい生き物でも見つけたかのように身を乗り出した。

「お前が? おいおい、優等生の志保ちゃんはどこ行ったんだよ」

「……そんなの、だいぶ前に死んだよ」

志保は相変わらず目線を上げずに、ごみ袋を縛り始めた。

「何? 浮気とか不倫とかしたことあんの?」

「ないけどさ……、でもさ……、『やっちゃだめ』って言われていることってさ、やりたくならない? なんて言うんだろう。背徳は甘美の味っていうか……」

亜美は、志保の話を聞きながら、煙草を灰皿に押し付けた。

「たとえそれが自分の身を亡ぼすとわかっていてもさ、背徳そのものが快楽っていうかさ、いっそ背徳に身をゆだねたくなるっていうか……」

「ハイトクうんぬんはよくわかんねぇんだけどさ」

亜美は缶ビールの残りを喉の奥に押しやる。

「夜中に太るってわかってんのに、カップ麺食いたくなるようなもんか?」

「かもね」

志保は少し寂しげに笑った。

「……もしかしてお前さ」

「ん?」

「……いや、何でもない」

亜美は空き缶をそっとテーブルの上に置いた。

「アー、なんか、マジでカップ麺食いたくなってきた」

「この時間に? 太るよ?」

亜美は立ち上がると、志保の忠告を無視して「城」を出ていく。二、三分でカップ麺の入ったビニール袋を提げて帰ってきた。

「お湯、沸かしてあるよ」

「さすが、気が利くねぇ」

亜美はカップ麺のふたを開け、お湯を注ぐ。

三分後には、湯気とともに醤油スープの刺激的な香りが、ふたを開けたカップ麺から部屋の中へと飛び出した。

この上なく愛おしそうに亜美は持ち上げた麺を眺め、ずるずるとすする。

「あ~、旨い。深夜のカップ麺ってなんでこんなに旨いんだ? 昼間のカップ麺と中身はおんなじはずなのに」

「だから、そういうことだよ。背徳は甘美なの」

「ん?」

亜美は麺をすすりながら曖昧な返事をする。

「昼間のカップ麺も深夜のカップ麺も、味は一緒。なのに深夜のカップ麺の方がおいしそうに感じるのは、背徳だから。『深夜のラーメンは太るから食べちゃだめ』って思うほど、おいしく感じちゃうんだよ。禁忌と背徳。『やっちゃだめ』って言われていることに手を出す、それ自体が快楽なんだよ……」

志保はどこかさみしげに、亜美を見ていた。

「ハイトクの意味は何となくわかったけどよ、カンビってどういう意味だよ」

「甘くておいしい、って意味」

「甘い? バカ、お前、これ、醤油ラーメンだぞ。甘いわけねぇだろ」

「フフッ、そうだね」

と志保は微笑んだ。

 

夜の十二時を回った。舞はメガネをかけ、パソコンに向かっていた。

ドアがガチャリと開いて、誰かが部屋に入ってきた。

クリスマスの夜に部屋に入ってくるのはサンタクロースだと相場が決まっているが、舞が振り向いた先にいたのは白いお髭のおじさんではなく、たまきだった。

「ミチ君、寝ました」

たまきが眠そうな声でつぶやいた。

「そうか、悪かったな。面倒な役割押し付けて」

「いえ、ミチ君を、舞先生のところに連れてきたのは、私たちですから」

「テーブルの上に菓子鉢あるだろ? そこにあるお菓子は食っていいから」

舞はたまきを見ることなく、パソコンに向き合ったまま言った。

だが、たまきはテーブルの方ではなく、舞の傍らにやってきた。

「ん? どうした?」

「あの……」

たまきは、少し下を見てから、舞の方を見た。

「今日、私とミチ君がここでしゃべってたことは、その……、みんなには、ないしょにしてもらえませんか?」

「なんで?」

舞はたまきの目を見たが、すぐにふうっと息を吐いた。

「安心しな。あたしは口が堅いことでこの辺じゃ有名なんだ」

それを着て、たまきもふっと息を吐くと、笑みを浮かべた。

「ちょっと待ってな」

舞は椅子から立ち上がると、ソファのわきへと向かった。

「最近、簡易ベッド買ったんだ」

「簡易ベッドですか?」

たまきの視線が、舞が向かっていった先に、部屋の隅っこに置かれた物体に向けられた。

「ああ、最近、トイレで倒れてたり、ベンチで泣いてたりして、そのままうちに泊まるやつが増えたからな。あたしの寝床を確保しておかないと」

そういって舞は笑った。一方、たまきはテーブルの上にメガネを置くと、ソファの上にころりと横になった。

「おい、お前はこっちだ。あたしがソファで寝るから」

舞が準備した簡易ベッドを指さす。

「いえ、私はこっちでいいです。慣れてるので」

「そんな狭いところで寝てたら、いつまでたっても背が伸びねぇぞ」

「べつにいいです」

たまきは静かに目を閉じた。

 

なかなか寝付けない。目をつむっても、どうにも寝付けない。

心のもやもやは一向に晴れない。

ミチがいつまでも嘘をついているのを見て、たまきは心がもやもやした。

もやもやしたから、思いのたけをぶつけた。

思いのたけをぶつければすっきりすると思ったのに。

なのに、なぜだろう。

さっきよりも、もやもやは深まって、しばらくは眠れそうにない。

つづく


次回 第21話「もやもやのちごめんね」

お正月を迎えたたまき。だが、クリスマスの一件が頭から離れず、もやもやしたままだった。たまきの心を悩ます一番の理由は、「なぜクリスマスの一件が頭から離れないのか、その理由がわからない」ことだった。

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第19話「赤いみぞれのクリスマス」

クリスマスイブの夜、「城」ではパーティが開かれていた。だが、ミチが姿を見せない。亜美にせかされてミチを探しに言ったたまきが遭遇した光景とは……?

あしなれ、第19話。衝撃のクリスマスがやってくる!


第18話「労働と疲労のみぞれ雨」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「たまきちゃんはさ、クリスマスに何かするの?」

そう尋ねたミチを、たまきがきょとんとした目で見た。

「くりすますっていつですか?」

「え? クリスマス、知らないの?」

「いや、クリスマスくらい知ってますけど……、そうじゃなくて、クリスマスって今から何日後ですか?」

たまきがあほの子みたいな質問をしたのは、別にくりすますを知らなかったからではない。

たまきには日付の感覚がない。今日が何月何日なのかわからない。なのでクリスマスは今から何日後なんだろう、という意味で「くりすますっていつですか?」と聞いたのだが、ミチにはたまきがクリスマスが何月何日かをを知らない、とんでもなく世俗に疎い子のように映ったようだ。

「今日が十二月十四日だから、ちょうどあと十日後だよ」

「そうですか」

どうやら、いつの間にか十二月になっていたようだ。道理で寒いと思った。しかし、十日後は二十四日、それはクリスマスイブで、あくまでもクリスマスの前日ではないだろうか。それくらい、たまきだって知っている。

たまきはいつもの公園に絵を描きに来ていた。いつものように階段で歌うミチと同じ段に腰を掛ける。木々はいつの間にか葉を落とし、夏場はおしりが焼け付きそうなくらい熱かった地面もすっかり冷たくなっている。

ミチは座布団のようなものを敷いていた。自分もああいうのを買おう、とたまきはひそかに心に思った。

「予定ですか。特にないです」

たまきはミチを見ることなく言った。

「俺はね、海乃さんとデート」

ミチが聞かれてもいないのにしゃべり始めた。口から白い吐息が、蒸気機関車の煙のように現れては、消える。

「二人で映画見た後、食事に行って、で、そのあとは……、まあ、ねぇ?」

「そこまで聞いてないです」

たまきが雪のように真っ白なスケッチブックに、うすい灰色の線を引きながら答えた。

「……まだあの海乃って人とお付き合いしてるんですか?」

たまきは、少しミチを視界に入れながら尋ねた。

「え、なにその、早く別れちまえ、みたいな言い方。あ、もしかしてやきもち焼いてる?」

「そんなわけないです」

たまきがすかさず答える。

クリスマスの予定なんてたまきにはない。これからクリスマス、年末年始、バレンタインと一年の行事の中でも特に浮かれやすいイベントが集中してやってくるが、たまきに何かが関係あったためしがない。せいぜい小学校の頃に父親にバレンタインのチョコレートを渡したぐらいだ。たまきにも父親が好きだった時代があったようだ。

毎年この時期は外に出ることなく、誰かと触れ合うことなく、できるだけ静かに、できるだけ厳かに過ごしたいと思っている。うかつにイベントごとに触れてみても、自分が惨めなのを確認するだけだ。

その一方で、なんだか嫌な予感がする。いつかのお祭りみたいに、無理やりイベントごとに巻き込まれそうな、いやな予感が。

少し鳥肌が立ってきたのは、きっと冬の寒さのせいではないはずだ。

 

写真はイメージです

「田代さんって、クリスマスって何かするんですか?」

喫茶店「シャンゼリゼ」の休憩室。志保が休憩でやってくると、十五分前に休憩に入った田代が何か本を読んでいた。今は志保と田代の二人っきり。

田代は本に目を通しながらも、志保とたわいもない雑談をしていた。その中で、志保が思い切って田代ののクリスマスの予定を尋ねてみた。

もしも「カノジョとデート」なんて言葉が出てきたら、その瞬間、なんだか試合終了のホイッスルが鳴らされたような、絶望的な気分になるだろう。ドーハの悲劇のように立ち上がれない志保がそこにいるはずだ。

「24日は昼間ではシフトに入ってるけど、夜から旅行に行くんだ。北関東に二泊三日でスキー」

「誰と?」という質問を志保は下の上で転がして、ぐっと飲みこんだ。

それを尋ねてしまったら、答え次第ではいよいよもって試合終了のホイッスルかもしれない。そう思って、一度は飲み込んだのにもかかわらず、

「誰と……行くんですか?」

と尋ねてしまった。

志保はこの想いを終わらせたいのかもしれない。

と、同時に、強く思っているのだ。まだ夢を見ていたい、と。

「大学の連中。男7人で行くんだぜ。華がないよね。むさいにもほどがあるでしょ」

クリスマスの日に女性との予定が一切ない、ということは田代は今、いわゆる「フリー」なのだろうか。

いや、もしかしたら遠距離恋愛、というのもあり得る。少なくとも、可能性はゼロではない。

志保の中で、「このまま夢を見続けていたい」という気持ちよりも、「0.1%でも可能性があるなら、つぶしておきたい」という気持ちが天秤にかけられ、そして、一方に大きく傾いた。

「いいんですか? クリスマスにカノジョさん放っておいて」

大きな賭けだ。この答えのイエスかノーかで、田代にカノジョがいるかどうかがはっきりとする。返答次第では試合終了だ。

言ってしまってから、田代が口を開くまでのほんのわずかな間に、志保は激しく後悔をした。ここにきて急に「このまま夢を見続けていたい」という気持ちが強くなり、一度傾いたはずの天秤が再びぐらぐら揺れる。

「そんなのいたら、男同士でスキーなんて行かないよ」

その答えは、志保が望んでいたものだった。望んでいたものだったからこそ、最初、志保は自分が自分に都合の良い聞き間違いをしたのかもしれない、と思った。

その言葉が都合の良い聞き間違いではなく、確かに志保の鼓膜を打った、現実の存在だと確信した時、思わずカズダンスを踊りたくなる自分に志保は気づいた。「カズダンス」なんて言葉の存在しか知らないのだけれど。

「志保ちゃんは、クリスマスなんか予定とかないの?」

「ありません。カレシとか、いないんで!」

クリスマスの予定がないことも、カレシがいないことも、こんなに誇らしく言えることはそうそうないだろう。

どうやら、休憩時間が終わっても立ち上がれそうだ。立ち上がるどころか、走り出したい気分だ。

 

写真はイメージです

 

「お前ら、クリスマスなんか予定あんのか?」

たまきと志保が「城(キャッスル)」でごろごろしていると、どこからか帰ってきた亜美が帰って早々尋ねてきた。

おととい感じたイヤな予感がどうやら的中しそうだ、とたまきはうんざりした思いで顔を上げ、

「あるわけないじゃないですか……」

と力なく答える。

「志保は?」

「ないよー」

志保が小説をを読みながら答えた。

「バイト先のヤサオとどっか行ったりしねぇの?」

「ヤサオって……、田代さんのこと? あのね、まだ亜美ちゃんが思ってるような関係じゃないから。それに、田代さん、クリスマスはスキーに行くからいないよ」

「ふーん、ちゃっかり予定聞いてるんだ」

亜美の言葉に、志保は頬を赤らめて、本で顔を隠した。

「く、クリスマスになんかするの?」

志保が本で顔を隠しながら尋ねた。

「パーティに決まってんだろ」

たまきは嫌な予感が的中して、頭をもたげた。

「トモダチいっぱい呼んで、パーティするからな。そうだ、ミチも呼ぼうぜ。あいつ、ギター持ってるから、たまきの誕生日の時みたいに、また弾いてもらおうぜ」

「ミチ君、カノジョさんとデートするみたいですよ」

たまきが口をはさんだ。

「なんだよ、お前もちゃっかり予定聞いてるんだな」

「……むこうが勝手にしゃべったんです」

「あれ、ミチって今日、下のラーメン屋でバイトしてる?」

「そんなこと知りません」

「まあいいや。ちょっと、ミチんとこ行ってくるわ」

そういうと亜美は「城」を出ていった。

ものの数分して、亜美は戻ってきた。

「ミチ、映画見た後カノジョと一緒に顔出すってさ」

たまきは、亜美がどんな脅しを使って、ミチに承諾させたのかと思うと、ミチがカワイソウに思えてきた。

「ミチ君、休憩中だったの?」

志保が訪ねた。

「いや、元気にバイトしてたぜ」

志保は、亜美がラーメン屋に入って、勤務中のバイトに話しかけただけで何も食べずに出てきたのかと思うと、お店の人がカワイソウに思えてきた。

 

写真はイメージです

そんなこんなでクリスマスイブがやってきた。

「城」の中には亜美の「トモダチ」の男7~8人がやってきて、いつもより賑やか、そして、いつもより男臭い。男たちの何人かは亜美の客でもあるらしい。とにかく、みんなチャラい。

テーブルの上にはだれのものかわわからないがパソコンが置かれ、そこから音楽が流れている。クリスマスソングでも流せば雰囲気が出るのだろうか、どちらかというと夏を想起させるようなダンス音楽がどむっどむっっと流れている。

傍らにはギターが置かれていた。ミチのものだ。ミチが午前中に置いていったのだ。亜美の話では、夜にカノジョと映画を見た後、ここに顔を出すらしい。

テーブルの上には志保が作った簡単な料理や、コンビニで買ってきた小さなケーキや酒のつまみが並べられていた。

一方、亜美はというと、コンビニで買ってきたフライドチキンをほおばりながら、男たちと談笑している。志保が思わずほほを赤らめてしまうような卑猥な言葉も平気で飛びっている。

たまきはどうしているのかというと、この部屋にはいない。

パーティが始まる前から、ドア一つ隔てた衣裳部屋に引きこもって、出てこない。

「ほら、たまき、出て来いよ。楽しいから」

亜美が衣裳部屋のドアに向かって話しかける。いつからか、たまきは返事をしなくなった。

「お前らだって、たまきの顔、見たいよなぁ」

亜美が男たちの方を見てそう言うと、男たちも

「見たい見たい」

とニヤニヤしながら言う。クラスに何人か、ああいった、おとなしい子をからかって楽しむ男子いたなぁ、と志保は思い出していた。

「それ! たーまーき! たーまーき! たーまーき!」

酒の入った亜美が頭の上で両手をたたき、囃し立てる。それに合わせて調子のよさそうな男が数人、亜美に乗っかって囃し立てる。

そんな風にあおったら、ますますたまきは出てこれなくなるんじゃないか、志保はそう感じていた。

思い返せば、大収穫祭の時にたまきをパレードに誘っても、たまきは静かに首を横に振るだけだった。

志保はトレイにケーキを二つのせ、ジンジャーエールの入った紙コップと、いくつかのお菓子を追加すると、衣裳部屋の扉をノックした。

「あたし。そっち行っていい?」

ドアがゆっくりと開き、まるで塹壕から戦場をうかがう兵士のように、たまきが顔を出した。

たまきは無言でうなづくと、志保を中に招き入れた。

「なんだよ、お前までそっち行くのかよ」

亜美が不満そうな声を漏らすと、

「あ~あ、華がなくなる」

と男たちがあからさまにがっかりしたような声を上げる。

「なんだよお前ら! ウチがいるだろ!?」

「てめぇなんか女のうちにカウントしてねぇよ!」

「んだとてめぇ! てめぇだってウチとヤッたことあんだろうがよ!」

「あんときはカノジョに振られたばっかで、どうかしてたんだよ!」

品のないやり取りも、ドアを閉めると静かになった。

「となり、いい?」

またしてもたまきは無言でうなづき、ソファの右端に腰かけた。志保は空いたスペースに腰を下ろす。

「……こっちに来て、よかったんですか?」

たまきが申し訳なさそうに尋ねた。

「ああいう男子、タイプじゃないから」

そういうと、志保はトレイをテーブルの上に置いた。

「たまきちゃんの分のケーキ、持ってきたよ。まだ食べてないでしょ? あたしも」

そういうと、ジンジャーエールの入った紙コップを持った。

「メリークリスマス」

「めりー……、くりすます」

紙コップが触れ合っても、きれいな音は鳴らなかった。

 

午後八時になった。

「ミチの奴、遅くねぇか? 七時半に映画終わったらすぐ来るっつってたのに」

亜美が時計を見ながらイライラしたように言う。

「オンナと一緒なんだろ? そのまま、メシでも食いに言ったんじゃねぇか?」

とヒロキが答える。

「あ? ウチが来いっつってんのに来ないとか、あいつふざけんなよ?」

亜美はそういうと立ち上がった。

「ちょっと、探させてくるわ」

「あ、そこは『探してくる』じゃないんすね」

シンジという痩せてひょろひょろした男が言った。

亜美は衣裳部屋の扉を勢いよく蹴飛ばした。

「たまき! そこにいるのはわかってんだ! 出て来い!」

ドアがゆっくりと開く。顔を出したのは志保だった。

「そんな大声出さなくても聞こえてるって。あと、ドア、乱暴にしないで。壊れるから」

奥ではたまきが、硬直したように志保の背中を見ている。

「たまき、お前、ちょっと映画館まで行って、ミチいねぇか探してこい」

「あたし行こうか?」

と志保が言ったが、亜美は

「いや、たまきに行かせる。こいつ、クリスマスだっていうのに引きこもってうじうじしやがって。ちょっとは外に出て、クリスマスの空気を吸ってきなさい!」

と玄関を指さしながら言った。

「そんなのたまきちゃんの勝手じゃん、ねぇ?」

そういうと志保は後ろを振り返ったが、たまきはおもむろに立ち上がると、ニット帽を頭にすっぽりとかぶって、

「……行ってきます」

と衣裳部屋を出た。

「いいの? 大丈夫?」

「……まあ」

「映画館の場所、わかる?」

「……まあ」

今のたまきには、チャラい男ばかりのこの「城」より、外の方がまだましな気がした。

「たまき」

亜美は靴を履こうとするたまきの肩に手を置くと、

「これで好きなもん買っていいぞ」

と百円玉を三つ手渡した。

たまきはぺこりと頭を下げると、「城」を出ていった。

 

写真はイメージです

外に出てからものの一分で、たまきは三つの間違いに気づいた。

一つは、クリスマス・イブの夜は、薄手のジャンパーではどうにもならないほど寒かった、という事。

一つは、外の方がまだましだろうと思って出てみたけれど、中も外も大して変わらなかった、という事だ。

若いカップルだったり、大学のサークルかなんかの集団だったり、そこかしこにクリスマスを満喫している人だらけだ。

大体、クリスマスに歓楽街に来るなんて、誰かと食事やお酒を楽しむという、素敵なクリスマスの予定がある人なのだ。

たまきは下を向きたくなった。こんな風に下を向いてしまう人も、今の歓楽街ではたまきぐらいなものだ。

そして三つ目の間違いは、クリスマスの歓楽街には、あまりにも人が多すぎるという事だ。

この中から、ミチを探し出すだなんて、絶対に無理だ。

そう思いつつも、たまきはとりあえず映画館へと足を進めた。映画館は「城」のある太田ビルから見て、歓楽街のちょうど反対側にある。

映画館に向けてとぼとぼと歩く。案の定、ミチは見つからないし、海乃っていう人は会ったことはあるはずなんだけれど、顔が思い出せない。

数分経って、映画館に着いてしまった。

映画館には当たり前だが映画のポスターがあった。ポスターには

「愛し合う二人。だが、彼女の命の終わりが近づいていた……。クリスマスに起きた奇跡の実話を感動の実写化!」

と書いてある。

「命の終わり」という文言にひかれて、あらすじを読んでみたが、どうやらヒロインは病魔に侵されていて余命いくばくもない、という設定らしい。

こういった映画で悲劇のヒロインになるのはいつだって病人だ。

たまきは映画に全然詳しくないが、「自殺してしまうヒロイン」というのはあまり見ない気がする。

病気だろうが自殺だろうが、死は死だ。若くして死んでしまうことには変わりない。

病気で死ぬのはカワイソウだけど、自分から死ぬのはカワイソウじゃない。きっと、そういう事なんだろう。

 

写真はイメージです

たまきは3分ほど、そこに立って映画館から出てくる人を見ていた。吐いた息が白いもやとなってメガネをくもらせ、指でこすってそのくもりを取る。そんなことを何度も繰り返すが、一向にメガネのレンズにはミチの姿は映らない。

もしかしたら、こことは違う場所にも出口があるのかもしれない。そう思ったたまきは、映画館の入っているビルの周りをぐるっと回ってみることにした。何より、じっとしていたら凍えてしまう。

映画館があるのは比較的に人通りが多い場所だが、その周りをぐるっと回ろうとすると、映画館のわきにあるとてつもなく狭い道を通ることとなった。いや、道というよりも隙間に近いかもしれない。

そこを抜けると、さっきまでたまきがいた通りとは映画館をはさんで反対側の道路に出る。少し広くなったが、人通りはない。

たまきは右折してその路地を歩き始めた。しかし、ビルとビルのはざまにあるようなこの道は人通りが全くなく、この道沿いに映画館の入り口などないことは明白だった。

室外機のファンの音がたまきの鼓膜を軽く揺らす中、突如、耳慣れない鈍い音が冷たい空気を打つように響いた。

たまきははっとして振り返る。

先ほどたまきが曲がってきたところのもっと奥に、人影が見えた。

立っている人影が二つ。一つはスーツを着ている。もう一つは茶色いロングヘアー。きっと女の人だろう。

スーツを着ている方が足をぶんと振ると、さっきの鈍い音が聞こえた。

人影の足元に何かが転がっていた。

たまきは目を凝らす。どうやら、転がっているのも人間のようだ。

「てめぇ、わかってんのかぁ!」

スーツを着た男か大声を出しながら、うつぶせに転がっている人間を蹴り飛ばす。また鈍い音が響いた。

人がけんかをしているのを見るのはたまきにとって初めてだった。いや、けんかと呼ぶにはあまりに一方的かもしれない。

こんな時、通りすがりの人はどうすればいいんだろう、そんなことを想いながらたまきは遠巻きにけんかを見ていた。

ふと、その様子をわきで見ている女性がこちらを向いた。女性は離れたところから見ているたまきに気付かなかったようだが、たまきはその顔に見覚えがあった。

海乃だった。ほんの一瞬、たまきにその表情を見せただけだったが、たまきに海乃がどんな顔だったかを思い出させるには十分だった。

再び、鈍い音が響く。倒れている方のうめき声も聞こえる。たまきの口からは、真っ白い吐息があふれ出る。

たまきは、気が付いたらけんかの方へと歩みを詰めていた。近づくたびに、革靴が肉を打つ音が、より大きくたまきの鼓膜にを震わす。

蹴られた拍子に、倒れている方がごろりと反転した。

左目は青くうっ血し、右頬は赤く腫れあがっている。それでも、たまきはそれが誰であるのかがわかった。

「ミチ君……」

たまきのつぶやきよりももっと小さい声で、ミチは

「知らなかったんです……」

と、蚊の羽ばたきのように言った。

「てめぇ、知らねぇで済むと思ってんのかよ!」

「ごめん……なさい……」

「ごめんで済むと思ってんのか、ああ!?」

スーツの男がミチの右腕を強く踏みつけたミチは悲鳴を上げる力すらないのか、声帯が石臼にすりつぶされたかのようなうめき声を出すだけだった。

たまきはその様子をじっと見ていた。

そうはいっても、決して傍観していたのではない。

頭の中では、今すぐ飛び出して暴力をやめさせようとする正義感のあるたまきと、男の暴力がやむまで物陰に隠れようとする臆病なたまきと、戻って亜美やヒロキに助けを求めた方がいいと考える冷静なたまきが、目まぐるしく入れ替わっていた。

結局、何をどう決断したのかはたまき自身にもわからない。たまきがわかっていることは、一歩前に進み出て、声を発したことだった。

「あの……、ぼ、暴力はよくないと……思います」

言葉を発した瞬間、冬の冷え切った空気が、いっそう張り詰めるのをたまきは感じた。

最初に反応を見せたのは海乃だった。言葉を発することはなかったが、「なんでこの子がここにいるの?」と言いたげな驚いた表情を見せた。一方、地面に転がっているミチは、たまきに気付いたのか何か声を発したが、よく聞き取れないかすれたうめき声でしかなかった。

一方、男はたまきをにらみつけた。視線がたまきの心臓を貫いたかのような痛みに襲われる。ここまで人から敵意を向けられるのも、初めての経験だった。

「おい、こいつ誰だ。知り合いか?」

男が海乃の方を見た。

「……たまきちゃんっていう、……彼の知り合いの、ひきこもりの子」

海乃が口を開いた。その声にはいつもの張りはなく、どこか震えているようにも聞こえる。

「ひきこもり? ひきこもりが何で外にいるんだよ?」

どうしてこんな時にまでひきこもりがついて回るのかたまきにはわからなかったが、今はそのことを抗議してもしょうがない気がする。

「あ……あの……」

たまきは自分でも心臓が恐怖で高鳴っているのを感じた。

「ミ、ミチ君が何をしたのかは知りませんけど、やっぱり、その、暴力はよくないんじゃないかって……。ちゃんとその……、落ち着いて話し合って……」

けんかの止め方の教科書があるとしたら、きっとたまきのやり方は模範解答なのだろう。だが、そんな教科書があったらこうも書いてあるはずだ。模範解答通りのことを言っても、うまくいかないことの方が多い、と。

「てめぇ、こいつのオンナかなんかか?」

「あ、いえ、そういうわけじゃないんですけど……」

「じゃあ、黙ってろ」

男はミチをつま先で軽く蹴飛ばした。

「こいつはな、年端も行かないくせに、人の嫁に手を出したんだ。だとしたら、何されても文句は言えねぇよな!」

男は再びミチを強く蹴り飛ばした。

「……知らなかったんです」

と再びミチは小さくつぶやいたが、

「知らねぇで済むわけねぇだろ!」

男がさらにミチを強く蹴る。

「海乃って人の旦那さんですか……」

たまきは海乃を見た。海乃は困ったような表情をしているが、だからと言って自分から何かをするような雰囲気はない。

海乃のダンナによる何発目かの蹴りがミチの脇腹に入った時、たまきは自分でも驚いたのだが、駆け出し、ミチと男の間に入るように立った。

「もう、や、やめてください!」

「あ?」

海乃のダンナが背の低いたまきを憎悪のこもった眼でにらむ。

「確かにその、不倫、なのかな、はいけないことだと思います。でも、もう、十分じゃないですか。これ以上はもう……」

「十分? 何が十分なんだよ。どけよてめぇ!」

海乃のダンナはたまきの肩を払いのけた。そのままたまきは地面に倒れこむ。メガネがアスファルトに強くぶつかり、衝撃が走った。

どさっという鈍い音がしたが、その直後に、再びミチが蹴られる音をたまきは聞いた。今度はミチが絞り出すようにうめいた。

たまきは立ち上がると、メガネのずれを直し、ミチに背を向けて走り出した。

突き当りを右に曲がってしばらく走ると、映画館のある通りに戻れた。町全体はネオンやイルミネーションで彩られ、待ちゆく人の顔も笑顔で輝いている。すぐ近くで暴力沙汰が起きているなんて嘘みたいだ。もしかしたら、それこそ映画の世界の出来事だったのかもしれない。

だが、男に突き飛ばされた方の感触と、地面にぶつけたほほの痛みは確かに本物だった。

たまきは「城」に向けて走り出した。

途中、何度も人にぶつかる。そのたびに「ごめんなさい」と小さくつぶやき、再び走り出す。が、クリスマスの夜、多くの人でにぎわう歓楽街は人の波が邪魔して、なかなか思うように走れない。おまけにまじめに走ったのなんか中学2年の体育以来で、息も切れてきた。

ふと、わきを見るとそこにコンビニがあった。

たまきは思い出した。以前にもこのコンビニの公衆電話を使ったことがある、と。

携帯電話全盛の時代になってもなお、緑の公衆電話は、たまにそこを訪れる誰かのために待ち続けていた。

たまきは受話器を手に取り、亜美からもらった百円玉を入れる。

たまきは、志保の携帯電話の番号を思い出す。確か、前に志保が語呂合わせで教えてくれた。最初が090、そのあとは確か……。

ピポパというボタンを押す音が、粉雪のように小さく鼓膜を打つ。

 

たまきが「城」を出て行ってもう十分くらいたつだろうか。

そろそろ帰ってくる頃なんじゃないかと思ったとき、志保の携帯電話が鳴った。

携帯電話を開いて確認してみると、メールが一通届いていた。

差出人は田代。

志保の心臓は驚き、高鳴っていた。少し震える指でメールを開く。

メールの内容は、ゲレンデに雪が降り積もっているというなんてことないメッセージと、辺り一面真っ白な、ゲレンデなのか豆腐なのかよくわからない写真だった。

なんてことのないメッセージなのだけれど、志保は口元を緩ませた。

“スキー楽しんできてくださいね”となんてことのないメッセージを返す。

送信して携帯電話を閉じ、テーブルの上に置こうとした瞬間、着信音が鳴った。

いくらなんでも返事が早すぎると思い携帯電話を開くと、今度はメールではなく電話だった。

「公衆電話」と書かれた着信先を見る。公衆電話からだなんていったい誰だろう。志保は警戒しつつも、通話ボタンを押した。

「もしもし……」

電話の向こうからは激しい息遣いが聞こえる。ほかにも、がやがやと町の喧騒が漏れてくる。

「あの……、どちら様で……」

「……ミチ君が……!」

「え?」

「ミチ君が死んじゃうよー!」

 

写真はイメージです

たまきは受話器を置くと、来た道を引き返した。

白い息が口から御香の煙のように出ては、消える。

十二月の冷たい空気はたまきの肌を引きはがすかのようだったが、たまきは意に介せず走り続けた。

映画館のわきの細い路地に再び入っていく。遠ざかるたびに街の喧騒が小さくなっていく。

再びさっきの裏通りに戻ってきたたまきは、左に曲がった。

そこには、先ほどまでとさして変わらぬ光景があった。地面に転がっているミチと、ミチを蹴り続ける海乃のダンナ。それをただ見ているだけの海乃。違うところがあるとすれば、ミチはもう、うめき声も上げないという点だろうか。

再びたまきはどうしたらいいのかわからなくなって、ただ見ているしかなかった。暴力を止めなきゃという正義感の強いたまきが、何度もたまきの背中を押そうとするが、冷静なたまきがそれを押しとどめる。自分が行ってどうなる、さっきだって何もできなかったじゃないか。

ミチがあまりにも痛々しそうなのと、自分があまりにも無力なのとで、たまきは泣きたくなっていた。

そうこうしているうちに、海乃のダンナはミチを蹴るのをやめ、裏通りのさらに奥へと向かった。

もう終わったのかと思ったたまきはミチのところに向かおうとしたが、海乃のダンナはすぐに戻ってきた。

手にはビール瓶が握られていた。それを海乃のダンナがどう使うつもりなのかは、すぐにわかった。

「ダメ……それは……ダメ」

走って体力をすっかり使い果たしたたまきだったが、余力で何とか駆け出すと、ミチと海乃のダンナの間に割って入った。

海乃のダンナはたまきを一瞥すると、

「なんだよ、まだいたのかよ。どけよ」

とだけ言った。一方、たまきは

「それはダメです……それは……」

と半ばうわごとのように言った。

「ミチ君が悪いことをしたっていうのはわかります。でも、もうこれ以上は……」

いつもより少し早口になっていることに、たまき自身が気が付いていない。

一方、海乃のダンナは、部屋に散らかったゴミでも見るかのようにたまきをにらみつけた。

「うるせーな、てめーにかんけーねーだろ。どけよ。殺すぞ!」

「どうぞ」

間髪入れずにたまきはそういうと、海乃のダンナの方を見た。

海乃のダンナはビール瓶を持った右手を振り上げたが、たまきと目があい、一瞬、腕が硬直したかのように固まった。が、

「どけよ!」

と怒鳴ると、左手でたまきを払いのけた。たまきはよろけて、冷たいアスファルトの上に座り込む。

それでもたまきはすぐに起き上がり、再び、ミチと海乃のダンナの間に割って入った。

たまきは海乃の方に目をやった。海乃は相変わらず困ったような顔をしていたが、たまきと目が合うと、目線をそらした。

「どけっつってんだろ!」

と、海乃のダンナが再びたまきの肩に手を置いたとき、

「たまきに何してんだてめぇ!」

という、たまきには聞きなじみのある声がその鼓膜に飛び込んできた。と同時に、何かがこちらに駆け寄る足音。

声のした方にたまきが目を向けると同時に、足音が消えた。足音が消えたのは、足音の主が地面をけって宙に飛び上がったからだ。

たまきの視界に飛び込んできたのは、スニーカーのつま先だった。それがたまきの視界の右端を掠めた。スニーカーからは、細い足がすらり伸びている。

スニーカーは海乃のダンナの脇腹をほぼ正確にとらえた。海乃のダンナがうめき声をあげて黒い道路に倒れこむ。ほとんど一瞬の出来事だったが、たまきにはなんだかスローモーションに感じられた。

「たまき、大丈夫か!? お前、血ィ出てるじゃねぇか!」

スニーカーの主、亜美はたまきの肩に手を置いた。亜美に言われて、たまきはさっきから軽い痛みの走る右の頬に手を置いた。手のひらを見てみると、うっすらと血がついている。そういえば、最初に突き飛ばされた時に、地面に顔をぶつけた。その時、擦ったか何かで切ったかしたらしい。

「おい、てめぇ誰だ! なにす……」

海乃のダンナが起き上がりながらそう怒鳴りかけたが、亜美の後ろを見て、口をつぐんだ。

亜美の後ろには、なんともガラの悪い男たちが数人立っていた。「ナントカ組の人たち」と言えばそのまま信じてしまいそうである。

一番最後に路地裏に入ってきたのは志保だった。志保は息を切らせながら、誰かと電話している。

ヒロキがしゃがみこんでミチの様子を見ていたが、しゃがんだまま口を開いた。

「こいつミチって言って、俺の中学の後輩なんすけど、なんか粗相しましたかね?」

口元には営業マンのような笑みを浮かべているが、目は笑っていない。

「……そいつが人の嫁に手を出したから、仕置きしたまでだよ。も、文句あるかよ。悪いのはそいつだろ?」

たまきは海乃のダンナを改めて見た。さっきまで、凶暴な人間のように思えたが、こうしてヒロキたちと見比べてみると、普通のサラリーマンのようにも見える。

「本当なのか?」

ヒロキがミチに尋ねた。

「……知らなかったんです」

ミチが油の切れかかったロボットのように答える。

「……そうか。たとえ知らなかったんだとしても、人の嫁に手を出したんだ。お前が悪いよな」

「……はい」

ミチの言葉を確認すると、ヒロキは立ち上がった。

「とりあえず、ウチの後輩が失礼しました。こいつにはあとで俺からもよく言っておくんで、もうお宅の嫁さんとは会わないってことで、今日のところは勘弁してもらえないっすか?」

相変わらず、ヒロキの目は笑ってなかった。そして、口元も急に引き締まる。目線は海乃のダンナから、彼が手に持つビール瓶の方に向けられる。

「それともあれっすか? これだけボコボコにしといて、まだ足りないっすか? それだと、俺らも態度変えなくちゃいけないんすけど?」

海乃のダンナは半歩後ろに下がると、手にしていたビール瓶をそっと地面に置いた。

「い、いや、そのガキがもう嫁と会わねぇっつーなら、それでいいんだよ。おい、帰るぞっ!」

海乃のダンナは何か焦ったように海乃に言うと、その場から立ち去ろうと路地の奥へと向かった。海乃はヒロキたちを一瞥した後、ミチの方を見ることなく、旦那の後についていこうとした。

だが、海乃がちょうどたまきたちに背を向けた時、

「納得いかねーんだけど」

という亜美の声が路地裏に響き、海乃とその旦那は足を止めた。

「ミチがボコボコにされてる理由はわかったよ。やりすぎなんじゃねぇかって気もすっけど、まあ、今は置いといてやるよ。でもよ……」

そういうと亜美は海乃を指さした。

「不倫はイケナイっていうんだったら、その女も同罪だろ? それに、ミチはこいつが結婚してるだなんて知らなかったっていうなら、一番悪いのはこの女じゃねぇかよ。だったら、こいつをミチと同じくらいかそれ以上にボコすっていうのが、スジなんじゃねぇの? それともなにか? まさか、『自分が結婚してたなんて知らなかったんです~』とかいうつもりか? あ?」

そういうと、亜美は今度は海乃のダンナの方を見た。

「てめぇもおかしいだろ。なんでミチはボコしてんのに、てめぇの嫁には手ぇだしてねぇんだよ」

「うるせぇな、てめぇには関係ねぇだろ!」

「関係ねぇだと?」

ちょうど志保は電話を終えて亜美を見た。亜美の周囲の空気が変わったことが一目でわかった。

「ふざけんじゃねぇぞ、おい! こっちはミチだけじゃなく、たまきまでケガさせられてんだぞ! 関係ねぇっつったら、たまきが一番関係ねぇじゃねえかよ!」

海乃とその旦那につかみかかろうとする亜美を、志保がすんでのところで後ろから抑えた。

「ダメだよ亜美ちゃん! 手を出しちゃ!」

「じゃあお前、納得してんのかよ! なんでこのオンナだけ無傷なんだよ! おかしいだろ!」

「納得してないけど……、でも、いろいろ事情があるんじゃない? 奥さんケガしてたら近所や親戚にDV疑われるとか……、よくわかんないけど……」

「はぁ? くだらねぇ。それだけのことしたんだろ、このオンナは」

「とにかく、こっちから手を出すのはダメだよ。さっき、むこうの通りからこっち見て何か話してる人がいたの。もし、この騒動に気付いて警察に通報されてたら、警察来たとき亜美ちゃんが暴力ふるってたら、もう言い訳できなくなっちゃうよ。あたしたちのうちだれか一人でも問題起こせば、三人ともあそこにはいられなくなっちゃうよ!」

「じゃあお前はたまきがケガさせられたの、赦せんのかよ?」

「それは、……赦せないけど……」

志保の力が少し緩んだ。亜美は志保を振りほどくと、海乃に近づいた。

「おい、なにすんだてめぇ。余計なことすんじゃねぇよ!」

海乃のダンナが怒鳴った。

「何、このオンナ、かばうの? 裏切られてんのに? もしかして、まだこの女に惚れてんの? だから殴れないってわけ? 中学生かよ」

そういうと亜美は指の間接をぱきぱきと鳴らす。

「オンナだから顔は勘弁しといてやるよ。近所が気になるっつーなら、ちゃんと服で隠せるところにしといてやっからよ。ガキの頃に空手で鍛えた中段蹴りを見せてやるよ」

ああ、それで飛び蹴りとか得意なんだ、とたまきは妙に納得した。

一方、志保は焦ったように、亜美の肩に手を置いた。

「ダメだって亜美ちゃん!」

「じゃあ、このままこのオンナ無傷で帰せっていうのか? そんなの、筋が通らねぇじゃねぇかよ!」

亜美が志保の方を見る。その一瞬のスキをついて海乃のダンナは

「おい」

と海乃に声をかけた。二人が、再び亜美に背を向けて路地の奥に消えようとする。

「おい、逃げんのかよてめぇら!」

亜美が叫んだ時、

「いいんじゃないですか?」

という声が、背後から聞こえた。

抑揚のないその声に亜美と志保だけでなく、ヒロキたち、そして立ち去ろうとしていた海乃とその旦那も声の主を見た。

声の主であるたまきは、大勢の人間から注目されるという、苦手な状況にもかかわらず、淡々と話した。

「いいんじゃないですか? このまま帰ってもらっても。もし志保さんの言う通り警察でも来られたら、いろいろ面倒ですし」

「何ってんだよ。お前、こいつらにけがさせられたんだぞ! なのに、無傷で帰るって、そんなスジの通らねぇ話……」

「こんなの、けがのうちに入りません」

たまきは右の手首を左手で軽く握った。

「それに、その人たちが無傷だとも思えませんし」

「何言ってんだよ。どう見てもこいつら、無傷じゃねぇかよ」

「あ、もしかして、すぐに傷にはならないけど、あとでじわじわ効いてくる技を使ったとか……」

と志保が言ったあと周りを見渡して、

「そんなわけないよね……。ごめん、今のは忘れて……」

と恥ずかしそうに下を向いた。

「確かに、その人たちはけがはしてません。でも、その海乃っていう人は、旦那さんを裏切ったんです。その傷って一生残るんじゃないですか?」

たまきは、海乃たちとは、そして誰とも目線を合わせることなく言った。

「このまま帰ったって、もう今まで通りってわけにはいかないと思います。旦那さんは海乃っていう人を疑いながら生きていくことになると思うし、海乃っていう人は疑われながら生きていく。そうなると海乃っていう人はさみしくなって、きっとまた同じことすると思います、どうせ」

たまきの吐息が白く浮かび上がる。

「でも、二回目はこうはいかないと思います。ずっと深く、もっと痛く、決して治らない傷がつくと思います。一生その痛みに苦しみ続ける。もう遅いけど、その時になって初めて……」

その時になって初めて、たまきは海乃の目を見た。

「地獄を見ればいいんじゃないですか?」

冬の空気が凍り付いたかのような静寂が一帯を襲った。

亜美は右手をそっと、ジャンパーのポケットにしまった。志保は目を見開いたまま動かなかった。

亜美が連れてきた男たちは、たまきから少し距離を取った。

海乃のダンナはバツの悪そうにたまきから目をそらした。

海乃はそれまで困ったような表情だったが、たまきの言葉を聞くと急に眼を釣り上げて、小柄なたまきをにらみつけた。

「なに? あんたなんかに何がわか……」

そう言いかけた海乃だったが、ふいにおびえたような目になった。

「やめてよ……そんな目で見ないでよ……」

そう言うと海乃は踵を返して、路地の奥へと足早に歩いて行った。

「おい、待てよ!」

海乃のダンナがそのあとを追いかけていく。

十二月の冷たい風が、夜空の闇と、町明かりの間の隙間を縫うように吹き渡った。

 

ミチはヒロキに背負われて、舞のマンションに担ぎ込まれた。志保が電話をしていた相手は舞だったらしい。地理的に、病院に行くよりもその方が近かった。

舞は手慣れた調子でミチの手当てをする。舞によると、このようなけんかによるけが人の治療をするのは半月に一回くらいあるらしい。ただ、ミチがこんなけがをしてきたのは初めてだという。

舞は、けがの治療に必要な情報をミチや、ヒロキや亜美たちから聞いていたが、どういう経緯でミチがこうなったかについては尋ねなかった。

ミチの治療が一通り済むと、絶対安静という事で、ミチは舞の家に一晩泊ることになった。ミチの治療が終わると、ヒロキたちは「クリスマスの続きをしに行く」と言って出ていった。寝室にミチは寝かされ、リビングルームには女子だけが残った。

「しかし、先生がクリスマスだってのに家で仕事してて助かったよ」

「お前、イヤミか」

舞が亜美をにらみつける。

「でも、電話してきたときのたまきちゃん、いじらしかったなぁ」

志保がソファにもたれながらそう言った。

「いじらしい?」

亜美が首をかしげる。

「電話の向こうからすごい焦った感じで『ミチ君が死んじゃうよー!』って」

「私、そんな子供っぽい言い方してません」

たまきが口を尖らせた。

「いやいや、してたって。いやぁ、あの時のたまきちゃん、いじらしかったなぁ」

たまきは「いじらしい」という言葉の意味がよくわからなかった。よくわからなかったが、きっと今、自分はいじらているのだろう。

「じゃ、ウチらもそろそろ帰ろうぜ」

そういって亜美が立ち上がったが、

「待て待てお前ら」

と舞がそれを制した。

「お前ら、勝手にけが人運び込んできて、あたしに全部押し付けて帰る気か。誰か一人残って、手伝え」

「じゃあ、たまき置いてくよ」

と亜美が言ったので、たまきは驚いて亜美を見た。

「な、なんで私なんですか?」

「だって、ウチらの中じゃお前が一番ミチと仲いいだろ」

「べ、別に仲良くなんかないです」

たまきは顔を赤くして否定した。

「亜美さんの方こそ、私よりも長い知り合いじゃないですか」

「いや、確かにそうだけど、なんかいつもヒロキの後ろついてきてただけで、これと言って深い知り合いでもなかったしな。ちゃんと話すようになったのは、たまきが来てからだぜ」

そう言うと、亜美はたまきの肩に手を置いた。

「というわけで、よろしく」

「……わかりました」

たまきはどこか納得いかないようだ。

「なんだよ、あいつの看病、いやか?」

「いやじゃないですけど……、その……、私が一番ミチ君と仲がいいっていうのが、納得いかないというか……」

「ふふ。そう思ってるの、たまきちゃんだけだよ、きっと」

志保が手を後ろに組んで笑った。

「あの人のこと、嫌いだし……」

「はいはい、わかったわかった。じゃあ、志保、帰るぞ」

そういうと亜美と志保は玄関へと向かった。

「あ~、まだイライラするなぁ。おい、志保、帰りにバッティングセンター寄って乞うぜ」

「バッティングセンターってあそこ? こんな夜中にやってないでしょ」

時計はもうすでに十時を回っていた。

「知らねぇのか。あそこ、朝までやってんだぜ?」

「うそ?」

そういいながら、二人は舞の部屋から出ていった。

「まったく、あたしにも仕事かあるってのに。今度から大けがするときは事前に予約してくれ」

舞がパソコンに向かいながらぼやいた。

舞の部屋に残った、というか、残されたたまきは舞を不安げに見た。

「あの……看病って……私は何をすれば……」

「ん? まあ、そんな難しいことは頼まないさ。そうだな。あたしここで仕事してるから、とりあえずミチのところに行って、夜食くうかどうか聞いてきて。あとは、基本的にはミチのところにいて、あいつの様子になんか変化あったら、例えば、頭痛いとか気分悪いとかいったら教えてくれ。ま、ないと思うけど念のためだな。あたしが見ててもいいんだけど、ちょっと集中して仕事したいんで。頼めるか?」

たまきはこくりとうなずいた。

「あとはトイレか。あいつ、右手今使えないから、たぶん一人でトイレとか無理だな。教えてくれればあたしが世話するから。あ、それともお前やる? 何事もけいけ……」

「舞先生にお願いします」

たまきは即座に頭を下げた。

 

寝室のドアをそろりと開ける。

部屋の中は暗かった。

だが、窓から月明かりなのか歓楽街の明かりが漏れてくるのか、うっすらと光が差し込んでいて、窓際のベッドに寝かされているミチの顔がほのかに青白く照らされていた。

顔の腫れたりうっ血になったりしたところにはガーゼが貼られている。少しはましになったが、痛々しいことに変わりはない。

右手は包帯でぐるぐる巻きにされていた。舞によると、ひねって捻挫をしたあとで踏まれたらしい。ミチは殴られて倒れた時に、手のつき方を誤ってひねってしまったと言っていた。

ミチはたまきが入ってきたのに気づくと、右手を見せて

「……お揃い」

と言って力なく笑った。お揃いと言っても、たまきは手首だけに巻いているのに対し、ミチは右腕の肘から先全体がぐるぐる巻きだ。

たまきはドアの向こうから顔を出したまま尋ねた。

「舞先生が、夜食たべますかって……」

「……食う」

たまきは振り返ると、舞にそのことを伝えた。そうして、たまきは部屋の中に入ってきた。化粧台のいすに腰掛ける。

「……具合はどうですか? 気分が悪いとか……、頭が痛いとか……」

「腕が痛い」

「知ってます」

たまきの言葉にミチは笑ったが、すぐに顔をしかめて、右腕を見た。

「いってぇ……。あのおっさん、やりすぎだろ。確かに、俺もまあ、悪いことしたなと思うけどさ、知らなかったっつってんだからさ、ここまでやることないじゃん、ねぇ」

たまきと話して少し元気が出たのか、ミチは再び笑みを浮かべてたまきを見た。

だが、化粧台のイスに腰かけたたまきは、ミチをまっすぐに見ていた。

それは、いつだったかたまきがミチをにらみつけた時の目に近かったが、にらみつけるというよりは、何かを訴えかける、そんな強い目だった。

「なに……どしたの?」

「……みたいなこと言ってるんですか……」

「え?」

「いつまで被害者みたいなこと言ってるんですか?」

静かだが、それでいてどこか怒りのこもったたまきのこれまでにない口調に、ミチはたじろいだ。

「え、いや、なに言って……、俺、被害者……」

「知ってましたよね?」

たまきの肩と口は、少し震えていた。

「海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?」

つづく


次回 第20話 冷凍チャーハン、ところによりカップラーメン

それでは、ここで問題です。たまきはいったいいつ、「海乃は結婚している」と気付いたのでしょうか。

①第11話、初めてたまきが海乃に会ったとき

②第13話 「大収穫祭」の会場で海乃を見かけた時

③第14話 ラブホの入り口で海乃に会ったとき

④第18話 ラーメン屋で海乃を見た時

ヒントはすでに書いてあります。答えこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第18話「労働と疲労のみぞれ雨」

喫茶店「シャンゼリゼ」でバイトを始めた志保。自分一人、お金を稼いでいないたまきは焦りを感じ、仕事についていろんな人に聞いて回る。

クソ青春冒険小説改め、ニート完全肯定小説「あしなれ」第18話スタート!


小説 あしたてんきになぁれ 第17話「ガトーショコラのち遺影」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

「じゃーん!」

志保はそういいながら衣裳部屋から出てくると、ソファとテーブルの間の狭いスペースをモデルのようにすました顔で歩く。足先に力を入れながらたまきと亜美の前まで来ると、くるっと回ってみせた。

志保が「シャンゼリゼ」でバイトを始めて4日目。制服を洗濯するために持ち帰ったついでに、「城(キャッスル)」での一人ファッションショーが行われた。

「シャンゼリゼ」のホールスタッフの女性用制服は白いブラウスに黒いズボンという清潔感があふれるいでたちだ。エプロンのような前掛けをスカートのように腰から垂らしている。

「なんかさ、思ったより、フツーだな」

亜美が少しがっかりしたように口をとがらせる。

「もっとメイドっぽいのを想像してたよ」

「いや、シャンゼリゼ、そういう喫茶店じゃないから」

志保が制服のままソファに腰かけた。

「でも、似合うと思います」

たまきがそういうと、亜美と志保の視線がたまきに集中した。

「似合う? メイド服が? あたしに?」

「お、たまき、お前メイド趣味か? 志保、ちょっと『おかえりなさいませ。ご主人様』って言ってみろよ」

そういって二人はけらけらと笑う。

「あ、いや、そういう意味で言ったんじゃなくて、その、今の制服が志保さんに似合ってるっていう意味で……」

たまきは弁明しながら、顔を赤らめて下を向いた。

「ふふ、ありがと」

志保はそう言って優しく微笑むと、

「でも、メイド服はあたしより、たまきちゃんの方が似合うと思うなぁ」

と、たまきにとっては余計な一言を付け足した。

「え? それってどういう……」

たまきが顔を赤くしたまま志保を見る。

「たまきちゃんてさ、いつもどちらかというとふんわりとした、もこもことした服着ること多いじゃん。メイド服もそんな感じだし、小柄で童顔でかわいい系だから、あたしよりもメイド服に合うと思うよ」

「お、確かにそうかもな。ほら、『モエモエキュン』って言ってみろよ」

たまきは今度は、顔を赤めるとそっぽを向いた。そんな何の意味もなさそうな言葉、絶対にいうもんか。

 

十一月の冷たい風がガタガタと窓ガラスを揺らす。それが目覚ましの代わりであるかのように、たまきはのそのそと起き上がった。

とある日のひるすぎ。志保はバイトに行ったらしく、いない。亜美はどこかに行ったらしく、いない。そういえば夕べもいなかったから、「仕事」に出かけたまんま帰ってきてないのかもしれない。

たまきはやることもなく、「城」の中をぼうっと眺める。

そう、たまきはやることがない。

今までは、亜美の「稼ぎ」を三人でやりくりしていた。だが、志保がバイトを始めると、いよいよもって働いていないのはたまきだけになってしまった。まあ、亜美を「労働者」に含めていいのか疑問が残るが、お金を稼いでいるのは間違いない。

志保がバイトの面接に受かった、という話を聞いた日から、たまきはどことなくいたたまれなさを感じていた。シブヤで感じた場違いな思いとはまた違った、自分はここにいてはいけないかのような何とも言えないいたたまれなさ。

自分も何か働かなければ。そんな焦燥感がたまきの心にまとわりつくように離れなかった。

でも、とたまきは遠くを見る。遠くを見るようで、実は自分の眼鏡のレンズを見ているのかもしれない。

たまきにできる仕事なんて、果たしてあるのだろうか。

まだ眠気の残る頭を回転させてみても、「絵を描く」以外にできそうなことが見つからない。

でも、絵を仕事にできる人なんて、きっと一握りだろう。ゴッホも生前は絵が1枚しか売れなかったという。

そもそも、たまきはどうしたらバイトを見つけられるのかを知らない。「ハローワーク」という言葉を何となく聞いたことがあるが、何か関係があるのだろうか。

そんなことをぼんやりと考えていると、ぐぅうとたまきのおなかが鳴った。

たまきは死にたい。

なのにおなかが減る。

だから、ご飯を食べに行く。

たまきに弁証法はまだちょっと早いみたいだ。

 

写真はイメージです

太田ビルの階段をこつこつと下る。2階のラーメン屋のドアを開ける。券売機にお金を入れていると、

「いらっしゃいませー!」

という店員の大声が聞こえ、たまきは帰ろうかと思ったが、もうお金を入れてしまったので、仕方なく「ミニチャーハン」のボタンを押した。

午後二時過ぎのラーメン屋は都心の歓楽街とはいえ人はまばらだ。

食券を持ってカウンターのいすに腰掛ける。カウンターの向こうから見慣れた顔がたまきを覗き込んだ。

「いらっしゃい、たまきちゃん」

ミチがにこっと微笑むと、たまきの前に水の入ったコップを置いた。。

「……こんにちわ」

たまきが目線を合わせることなく答える。

「ひとり? 珍しいね」

「まあ……」

ミチはたまきの食券を手に取ると厨房へと向かっていった。直後に会社員風の男性が入ってくると、ミチは再び、

「いらっしゃいませー!」

と声を張り上げ、笑顔で接客に向かう。

たまきはミチの姿を、羨望とあきらめのまなざしで追いかけた。

あんなの、私には無理だ。

人から見られる場所にずっといて、楽しくないのに笑顔を見せ、知らない人と話す。

それができないからたまきは学校に行けなくなったのに、ミチにとってはきっと何でもないことなんだろう。

世の中にはたまきにとっては苦痛でしかないような仕事を、「楽しい」と言ってのける人がいる。志保も「あたし、接客業好きかも」なんて楽しそうに話していた。

たまきは「接客業」と書かれた紙を、頭の中でごみ箱に捨てた。

ミニチャーハンが運ばれてきた。軽い絶望感をチャーハンの味でごまかすように、たまきはレンゲを口へと運ぶ。

控室らしき扉から女性が一人出てきた。その顔にたまきは見覚えがあった。ミチのカノジョの海乃という人だ。ラーメン屋の制服に身を包み、ウェイブのかかった髪を後ろで結んでいる。海乃はたまきと目が合うとたまきを指さし、

「あ、ひきこもりのたまきちゃん!」

と声を上げた。

どうしてわざわざ「ひきこもり」をつけるのだろう。だったら、「会社員の田中さん」に会ったら、「あ、会社員の田中さん!」というのだろうか。きっと、いや、絶対に言わないだろう。

「みっくん、休憩入っていいよ」

海乃はミチに声をかけると、両手を開いて胸の前で構えた。ミチも同じようにして海乃に近づくと、

「イエーイ!」

と両手をタッチした。その様子をたまきはぼんやりと眺める。

あの二人はいつもあんなことをしているのだろうか。

 

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「4番テーブルのお客様、コーヒー二つとモンブラン、あとチーズケーキです」

志保はそういうと伝票をキッチンに置こうとした。洗い立ての制服が「シャンゼリゼ」の照明の光の粒子をやさしく反射している。

「志保ちゃん」

そう言って近づいてきたのは田代だった。

「注文、本当に『チーズケーキ』だった? 『レアチーズケーキ』じゃなくて?」

「え……あ……確認してきます……!」

田代に言われて自信がなくなった志保は、もう一度注文を聞きなおしに客のいるテーブルへと戻っていった。

「すいません……! 『チーズケーキ』じゃなくて、『レアチーズケーキ』でした。本当にごめんなさい!」

キッチンへ駆け寄ると志保は深く頭を下げた。

頭を上げようとすると、何かが志保の髪に触れた。それは、志保の頭をやさしくポンポンと叩く。

「気にしなくていいよ。俺もさ、新人の頃よく間違えたからさ」

志保の髪にやさしく触れていたのは、田代の右手だった。志保は田代の腕を見上げる。

色は白く、細く、欠陥が浮き出ている。しかし、細いながらも、筋肉の質感を確かに感じさせる。

優しくも、見た目には表れないたくましさがある、そんな腕だった。

「ん? どうしたの、志保ちゃん?」

いつの間にか田代は腕を引っ込め、ぼうっとしている志保を不思議そうに眺めている。

「あ、いえ、その……、大したことじゃないんです。あ、あたし、ホール戻りますね」

そういうと志保はキッチンとホールの境にあるのれんをくぐってホールへと戻った。戻ったところで、一回、深く深呼吸をする。

チーズケーキとレアチーズケーキ、メニューに紛らわしいのがあるから気を付けること。これは、研修の最初の段階で言われていたことだ。こんなの、かつての志保だったら一回で覚えられたはずだ。志保は暗記、記憶力には絶対の自信を持っていた。

ところが、実際ホールに立ってみると、研修の時に聞いた忠告を忘れて二つのメニューを混同し、指摘されるまでそれに気づかなかった。

まだバイトに入りたてだから、という言い訳も考えたが、実は志保はここ1年ほどで記憶力が徐々に落ちていることを痛感していた。

記憶力だけではない。体力も確実に落ちている。「城」へと続く階段を上がるたびに息が切れている。

これも薬物の影響なんだろうか……、と思考がそっちに切り替わりそうになるのを、志保はすんでのところで食い止める。

今は、バイトに集中! そう自分に言い聞かせた志保だったが、直後、髪の毛に田代の腕が触れた感触が蘇る。

鼓動が高鳴るのを確かに感じた志保は、田代の方をちらりと見る。

田代は若い女性客を接客していた。その姿に、志保は言いようのない嫉妬を覚える。

今はバイトに集中! 集中! そう志保は自分に言い聞かせた。

 

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次の日、たまきは一人でいつもの公園を訪れていた。

シブヤで買った黒いニット帽をかぶり、同じくシブヤで買った黒いセーターを着こみ、誕生日にもらったリュックサックを背負っている。

いつの間にか公園の木々はすっかり葉を落とし、細い枝のみを空に向かって伸ばしている。

たまきは「庵」の前にやってきた。樹木が葉を落としたことで、前よりも「庵」は外から見やすくなっている。

庵の前に置かれた椅子に仙人が腰かけ、カップ酒を飲んでいる。

たまきはぺこりと頭を下げて仙人にあいさつすると、「庵」の方へと近づいていった。

「やあ、お嬢ちゃん」

仙人がたまきを見て目じりを下げる。

「……こんにちは」

たまきはそういうと、仙人の隣に腰かけた。

リュックサックからスケッチブックを取り出すと、無言で仙人にそれを見せる。

「どれどれ……」

仙人はスケッチブックを眺める。その様子を、たまきは恐る恐る横から見る。仙人は無言のままスケッチブックの絵を眺めているが、表情からしてけっしてつまらないわけではなさそうだ。

仙人は厚手のジャケットを着ている。これからどんどん寒くなるのに、こんなところで生活していて大丈夫なんだろうか。

「よかったよ」

そういって仙人はスケッチブックを返した。

「実にお嬢ちゃんらしい、いい絵だった。技術も初めて会ったころよりは上がっておる」

「でも……、売り物にはならないですよね……」

たまきはスケッチブックをリュックサックにしまいながら、伏し目がちにそう尋ねた。

「まったく売れんわけではないとは思うが……、金もうけをしようと思うんだったら、話は別だな。お嬢ちゃんの絵は、いわゆる商業的な絵とは少し違う」

つまりは、よほどの物好きではないと買おうとは思わないということだろう。

「そうだな……、お嬢ちゃんの絵だけを売るとなると少し難しいかもしれんが……、例えば、本の挿絵とか、お嬢ちゃんの画風を生かせるものと一緒に売るなどという方法はあるかもな」

仙人はそういうと、カップ酒をぐびりとあおる。

「その……、ゴッホみたいに……、ものすごい値段で売れるなんてことは……」

「絵に何万も何億もの金を出すやつなんて、絵の価値がわからん奴だ。価値がわからんから金額に置き換えるんだ。考えてもみなさい。絵なんて、キャンバスに絵の具を塗って、額縁で囲っただけ。原価二万円くらい。だとすれば、どんなに高くても絵の値段なんて10万くらいが本来の値段だ。それが『芸術性』とやらでウン千万にもウン億にも跳ね上がるわけだが、芸術性を金額であらわそうとする時点で、そもそも芸術がわかっとらんということではないのかね」

そういうと、仙人は再びカップ酒を口に含む。

「同じ芸術でも本やレコードは、中にどんなことが書かれていようが、どんな曲が入っていようが、それで値段が変わることはまずない。まあ、中古なら多少の変動はあるかもしれんが、芥川の小説は文庫でも何十万とか、ビートルズのレコードは何千万とか、そんな馬鹿な話はない。誰の作品だろうと、本はみな同じ値段だし、レコードはみな同じ値段だ。要は、『芸術性』に値段なんて最初からついちゃおらんのさ。それを買い手が勝手にやれ希少価値だなんだと、芸術とは関係のないところで値段を釣り上げた結果、フィンセントの絵は何億という値段になってしまった。ばかばかしい」

「あ、あの……」

芸術論を語る仙人に水を差すのはなんだか申し訳ない気がしてきたが、たまきは勇気を振り絞って質問をぶつけた。

「仙人さんは……、普段どうやってお金を稼いでいるのですか……?」

たまきの問いかけに仙人はにやりと笑う。

「はっはっは。『稼いでいる』、か。稼いどったら、こんなとこにはいないなぁ。まあ、それでもいいなら話してやろう。」

仙人は空になったカップ酒の便を傍らに置いた。

「わしは主に空き缶を拾って生活しとる」

「空き缶……ですか?」

「そうだ。道に落ちとるのもそうだし、ごみ箱に捨てられてるものもある。それを拾っておる」

「拾ってどうするんですか?」

「売るのさ。空き缶をつぶしてリサイクルしとる業者にな」

「その……空き缶拾いって……、一人でするんですか?」

「ん? ……ああ、そうだな」

たまきの質問の意図がわかりかねたのか、仙人は少し怪訝そうな顔を見せた。

たまきは、少し体を、仙人の方に傾けた。

「わ、私にもできますか?」

今度は仙人は驚いたようにたまきを見た。

「お嬢ちゃん、空き缶拾いがしたいのか? お嬢ちゃんはまだ若い。そんなホームレスの真似事なんぞしなくても、もっといい仕事はたくさんある。空き缶拾いの話なんか聞いたって、お嬢ちゃんの役に立つとは思えんがなぁ」

「それでも……いいので……」

たまきの言葉に何か切実なものを感じ取ったのか、急にまじめな顔つきになって、あごのひげを触りながら、

「そうだな……」

とつぶやいた。

「まあ、基本は体力勝負だ。丸一日自転車を走らせ、町中のごみ箱をめぐり、ごみ袋がパンパンになるまで拾う。一袋、2キロぐらいかな」

「にきろ……」

「その袋を二つ、三つと一気に運ぶ」

そんな重いもの、持ったことあるかな、とたまきは不安になってきた。

「パンパンになった袋が二個か三個ぐらいになるまで集めるのが普通だな」

「それで、いくらくらいになるんですか……」

「そうだな……、缶の種類によっても違うんだが……、大体1キロ100円以内だな」

重いごみ袋を持って一日中駆けずり回って、千円にもならない。

いや、そもそも、稼げる稼げない以前に、たまきにこういった仕事はできない可能性の方が高そうだ。ジュースの缶を一人じゃ開けられないのに、その缶を何キロも担いで街を回るなんて。

たまきは「力仕事」と書かれた紙も、頭の中のごみ箱に入れた。

 

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それから何日かして、たまきはまたリストカットをした。前に切った時から十日経っていた。

たまきは亜美に連れられて、舞の家を訪れた。

たまきの手首に包帯を巻きながら、舞は亜美に向かって話しかける。

「どうしてたまきを連れてきた」

「だって先生が、たまきが切ったら必ず見せろって……」

亜美が舞の冷蔵庫から勝手に拝借したチョコを食べながら答える。

「だからって血がどろどろ流れてるのに連れてくる馬鹿がいるかよ。電話すればこっちから行った。傷口から雑菌が入って炎症を起こすことだってあるんだぞ! タオルがガーゼ当てて、傷を高く掲げて、あたしが来るまでおとなしく待ってろ!」

「先生、なんか医者みたい」

「医者だバカ! 今まであたしのことを何だと思ってたんだ!」

舞が亜美をキッとにらみながら言った。

「でも、医師免許はもう捨てちゃったんでしょ?」

「いやいや、病院勤務を辞めただけで、医師免許はちゃんとまだ持ってるぞ」

舞は深いため息をつくと、たまきの腕の包帯をぎゅっと縛った。

「よし、終わりだ」

たまきは舞にぺこりと頭を下げる。

「大体、今回の傷は結構深いぞ。その状態でお前らここまで歩いてきたのか? よく通報されなかったな」

舞が余った包帯を救急箱にしまいながら言った。それに対して、亜美があっけらかんとして答える。

「あ、歩いてきたんじゃなくて、ビデオ屋の店長がビルのわきに自転車止めてたから、それ借りて後ろにたまき乗せて……」

「アウトだバカヤロー!」

救急箱を片付け始めた舞が声を上げた。

「アウト? なんで? あ、さっき言ってた、バイキンがウンタラとかそういうの?」

「二人乗りが普通にアウトだって言ってんだよ!」

「え? なんで?」

「そういう法律だバカ!」

舞が救急箱を乱暴に戸棚に押し込めながら、がなる。

「でも、たまき、血ぃ出してんだよ? ほら、救急車ってそういう時、何でもありじゃん?」

「救急車は何でもありじゃねぇし、そもそもお前は救急車じゃねぇ!」

「じゃあ、走ってくればよかったの?」

「連れてくんなって最初から言ってるだろ!」

舞はソファの上にどさりと体を投げ出すと、深々とため息をついた。

「もうやだ……、疲れた……」

「たまき、先生疲れたってさ。ちゃんと謝んな」

「ごめんなさい」

「たまきにじゃねぇよ! 亜美、お前との会話に疲れたんだよ!」

「え、なんで?」

意味が分からない、と言いたげな亜美の顔を見て、舞はまたため息をつく。

「ねえねえ、なんでウチと話してると疲れるの?」

「たまき……、助けてくれ……」

舞はゾンビにでも襲われたかのようにげっそりとした顔でたまきの方を向いた。急に話を振られてたまきは驚く。

「え、わ、私ですか? た、助けるってどうやって……」

「なんでもいい。話題を変えてくれ。あたしはもう、コイツとの会話に疲れた……」

そんなこと言っても、すぐに思いつく話題なんて……。

「ら、ライターのお仕事ってどういうのなんですか?」

たまきの言葉に、亜美も舞も驚いたような目でたまきを見た。

「お前、急にどうした?」

「え、だって、舞先生が話題変えろって……」

「いや、そうだけど、お前の口から仕事の話が出るとはな……」

「変ですか……?」

たまきは少しうつむきがちに尋ねたが、舞は、

「大丈夫だ。お前はもともとヘンだから」

と、どう解釈したらいいのかわからないことを言った。

「お、たまき、仕事にキョーミがあるのか?」

亜美が身を乗り出して尋ねる。たまきは、

「……いえ……その……」

とこれまたどう解釈したらいいのかわからないことを言った。

「じゃあさ、今度、ウチのシゴトバに社会科ケンガ……」

「絶対に嫌です」

今度はたまきははっきりきっぱり言葉にした。

「ライターの仕事か……、そうだな……」

舞は少し天井を見つめるようなしぐさを見せた。

「少なくとも、病院に勤めていたころよりは気が楽だな。朝、電車乗らなくていいし、あまりに人に会わなくていいし、ある程度の融通は効くし」

「わ、私にもできますか?」

たまきはまた、舞の方に体を傾けて尋ねた。

「なに書くのさ?」

「え……!」

舞の言葉に、たまきの顔が少しこわばる。

「日本は識字率が高いから、『文章を書く』程度だったら、ほとんどの人ができる。だからこそ、何か突出した才能や個性が必要になってくる。あたしの場合は医者だったから医療系に特化した記事を書くようになったけど、お前はどうするつもりだ?」

「どうする……?」

そんなこと言われても、人に話せるような引き出しがたまきには何もない。

やっぱりたまきは何の役にも立たない、「ひきこもりのたまきちゃん」のようだ。

「せんせー、ウチもしつもーん」

「疲れないやつにしてくれ」

舞が亜美を見ることなく言った。

「先生さ、ライターやめようと思った事あんの?」

「ん? 何度もあるぞ」

舞が、亜美が机の上に散らかしたチョコを食べながら言う。

「へぇ、いつ?」

「最近だとおとといくらいだな」

「ついこの前じゃん。なんかあったの?」

亜美もチョコをほおばりながら言う。

「よく仕事もらってた雑誌の廃刊が決まって、そうなると収入面で結構打撃でな、そろそろ廃業して、病院勤務に戻ろうかな、って頭によぎったよ」

「ライター辞めちゃうんですか?」

たまきが心配そうに舞を見た。

「ま、三か月に一回くらい、『廃業』の二文字は頭にちらついてるからな、この程度はよくある話だ。ライターに限らず、あたしみたいなフリーランスの欠点はとにかく不安定なところだな」

そういうと舞はたまきの目をまっすぐに見て、

「ちょっとは参考になったか?」

と言ってほほ笑んだ。

「……まあ」

「たまきにできる仕事はなさそうだ」と結論付けるのには、役に立つ話だった。

そんなたまきの肩を亜美がポンと叩く。

「ま、いきなりライターみたいな働いてんのか働いてないのかよくわかんない仕事よりはさ」

「お前に言われたくねぇよ!」

舞ががなる。

「とにかく、まずは簡単なバイトから始めてみたらいいじゃん」

「……亜美さんは私にアルバイトができると思いますか?」

「さあ、ウチ、やったことないからわかんない」

亜美は白い歯をにっと見せて笑った。その後ろで舞が深くため息をつく。

「何のバイトをやるにしてもたまき、まずは面接に受からんといけないぞ」

「はい……」

たまきがさみしげにつぶやいた。

それが問題なのだ。どんなアルバイトをするにしても、大体が面接で決めるという。

人と話すなんて、たまきが一番苦手なことなのだ。

「自信なさそうな顔してんな」

舞はそういうと微笑んだ。すると亜美が

「じゃあさ、コンビニで履歴書買ってきてさ、先生相手に練習すればいいじゃん」

どこか他人事のように言った。

「なんであたしがやらなきゃいけないんだよ」

「だって、先生、仕事なくなっちゃって暇なんでしょ?」

「……悔しいけど、暇だ!」

舞は本当に悔しそうに言い放った。

 

亜美がコンビニで買ってきた履歴書に、たまきが鉛筆で記入する。

「ほんとはボールペンの方がいいんだけどなぁ」

履歴書に書き込むたまきのつむじを見ながら舞が言った。

「さて、設定どうするかな……。あたしが学生の頃、ドラッグストアでバイトしてたから、それでいいか」

「……はい」

たまきが力なく答えた。

「……できました」

たまきは顔を上げると、自信なさげにそういった。

「じゃあ、はじめっか。えー、次の方どーぞー」

舞は病院の診察室の呼び出しみたいな感じで言った。

「……よろしくお願いします」

たまきはぺこりと頭を下げると、履歴書を舞の方におずおずと差し出した。

「たまき、こういうのは相手の読みやすい方向で渡した方がいいぞ」

舞が履歴書をくるりと上下反転させた。

「あ、ご、ごめんなさい」

たまきが力強く、メガネがずれるんじゃないかという勢いでぶんぶんと頭を下げる。

「ま、本番でやらなければいいから」

そういって舞は履歴書に目を通す。

氏名の記入欄にはひとこと「たまき」。

ご丁寧に、ふりがなの欄も埋めてある。ふりがなももちろん「たまき」。

「お前、名字はどうした?」

たまきは答えない。

「名字はどうした。家に置いてきたのか?」

たまきは下を向いたまま答えない。

「……ま、練習だしな」

舞はそう呟くと次に住所欄を見る。

今度は何も書いてない。

「ま、練習だしな……」

舞は自分に言い聞かせるようにそう言った。

「では、なぜうちのバイトを志望したのですか?」

「……え、えっと、なんて答えれば……」

「まあ、バイトだからな、そんなたいそうな動機じゃなくても大丈夫だよ。お金が欲しいからとかでもいいし、ウチから近かったからでもいいさ。ただし、はっきりと答えること」

「え、えっと、その、お金が欲しくて……、それで……」

たまきはまるで初めて日本語を話すかのような困惑した顔をしている。

「……たまき」

舞は、なるべく威圧しないように、声色を選んで話した。

「お前がそういうの苦手なのはわかるけど、面接の時ぐらいはちゃんと相手の目を見て話さないと、印象が悪くなるぞ」

「……はい」

たまきは申し訳なさそうにうつむくと、

「ありがとうございました……」

と言って履歴書を手に取って下がった。

その時、少し堅苦しい空気を、打ち壊すかのように亜美が手を挙げた。

「せんせー、ウチも履歴書できたから、面接してー」

「は? なんで?」

舞が心底イヤそうな顔をして亜美を見た。深く深くため息をつくと、

「次の方どーぞー……」

とやる気なく言った。

たまきが座って居た席に、今度は亜美が座る。亜美は片手で履歴書を

「ほい」

と舞に差し出した。舞は無言で受け取る。

氏名欄にはただ一言「亜美」。

何を気取っているのか「ふりがな」のところには「ami」と書いてある。

「だから、お前ら、名字を書け!」

舞があきれたように言った。

「えー、名字、必要なくない?」

「本名書かない履歴書なんかあるか、バカ」

「でもさ、ほら、キャバ嬢とかって、本名と違う名前で働いてるじゃん」

「おい、ドラッグストアって設定だろ……。それにな、キャバクラとか風俗だって、履歴書にはさすがに本名書くぞ」

「詳しいじゃん。先生、そういうのやってたの?」

「一般常識だ、バカ!」

舞はだんだんイライラしているかのように顔をしかめていくが、亜美はあっけらかんとにこにこしている。

「でもさ、先生、まだ若いし、スタイルいいし、キャバクラとかまだまだいけるんじゃない? 仕事なくなっちゃったんでしょ? キャバクラだったら稼ぎもいいし、この町だったら通いやすいじゃん。週末とか、シフト入れる?」

「面接してるのはあたしだ! お前は面接される方!」

舞が机の上の履歴書をバンバンと叩いた。

舞は深い深いため息をつきながら、住所の欄に目を通す。

住所欄には「東京都、城」。

もう、これにはツッコまないことにした。いちいちツッコんでいたら、寿命が縮まりそうだ。

舞は脚を組みなおすと、履歴書を見ながら言った。

「大体、お前の方こそ、いまみたいな暮らしをするくらいなら、キャバクラでも風俗でも、どっかの店に入った方が、まだましなんじゃないのか。十九歳が働けるのかどうか知らんけどさ」

すると亜美はあっけらかんとして、

「ウチ、人に雇われるの嫌いなんだよねー」

「じゃあ面接なんかやめちまえ!」

舞は亜美の履歴書をぐしゃりとつかむと、ごみ箱にたたきつける。

「ちょっと、捨てることないじゃん!」

亜美がごみ箱からしわしわになった履歴書を拾う。一方、舞はソファの上にごろりと横になった。

「もうやだー! 疲れたー!」

「たまき、先生疲れたってさ。カワイソウだから帰ってあげようぜ」

「は、はい。お、お邪魔しました」

「またねー」

「とっとと帰れー!」

舞がソファに寝転がったまま怒鳴った。

部屋のドアがばたりと閉じた。

 

写真はイメージです

志保が息を切らせて階段をのぼり、「城」へと帰ってきた。ドアの前で呼吸を整えると、軽くノックしてから中に入った。

中では亜美がソファに腰かけて、携帯電話をいじくっている。一方、たまきはその反対側のソファの上で、ひざを抱えて横になっていた。

「ただいまー」

「お、おかえり」

と亜美が反応した。少し遅れて、

「……おかえりです」

とたまきが力なく答えた。

「どうしたの? 元気ないね」

と志保が、いつものように声をかける。

たまきは返事をしなかった。その代わり、答えたのは亜美だった。

「たまきは今、仕事について悩んでるんだってさ」

「しごと?」

「ああ、自分にできる仕事がないつって」

志保がたまきの方を見る。たまきも志保の方をちらりと見ると、目線を下の方に外して、

「けっきょく私は、何の役にも立たない『ひきこもりのたまきちゃん』なんです……」

とつぶやいた。

「ちゃん?」

「あ……、いえ……、その……、ひきこもりちゃんなんです」

なんだか、言い直さない方がよかったような気もする。

「何の役にも立たないなら、私は何のために生まれてきたのでしょうか……」

「……なんだか哲学的だね」

「ウチらは何のために生まれてきたのだろうか。ウチらはなぜ生きてるのだろうか。ウチらはどこへ向かって歩いていくのだろうか」

と亜美がガラにもなく哲学的なことを言った。

「亜美ちゃんまでどうしたの?」

「たまにはテツガクしたくなる夜だってあるさ」

今はまだ夕方である。

「たまきちゃんが何の役にも立ってないなんて、あたしは思わないけどなぁ」

志保はそう言ってほほ笑むと、たまきのすぐ隣に腰を下ろした。

「でも、私は亜美さんみたいにお金稼いでないし、志保さんみたいに働いているわけでもないし……、料理ができるわけでもないのに……、本当にここにいてもいのかなって……」

まるで亜美はお金は稼いでいるけど働いていないかのような言い方だが、幸いにも、亜美はそのことに気付かなかったらしい。

一方、実は志保は「その言い方じゃ、亜美ちゃん働いてはいないみたい……」ということに気付いていたが、あえて気づかないふりをして話を進めた。

「わすれちゃった? たまきちゃんがいなかったら、今頃あたしは、ここにはいないんだよ?」

「え?」

たまきがうつむいた顔を上げて、志保を見る。

「あたしがライブハウスで財布盗んだとき、たまきちゃんが引き留めてくれなかったら、あたしは今頃ここにいないんだよ。みんなでシブヤでカラオケすることもなかったし、たまきちゃんの誕生日を祝うこともなかった。全部、あの時たまきちゃんが引き留めてくれたからだよ。本当に感謝してる」

たまきは、言葉が出なかった。

「だから、たまきちゃんが何の役にも立っていないなんて、そんなことないんだよ。ただ、ここにいる。それだけでたまきちゃんは十分あたしの、ううん、みんなの役に立ってるんだよ。ただ、ここにいる、それだけでいいんだよ」

「……そうなんですか?」

何もしなくても、そこにいるだけでだれかの役に立つ。本当にそんなことあるのだろうか。

「だいたいなぁ」

そういって亜美が携帯電話を置いて立ち上がった。

「役に立たないからここにいちゃいけない、生きてちゃいけないなんて考えてるのがそもそものマチガイなんだよ。『ただ、ここにいる、生きている』って当たり前のことしてんのに、どうして誰かの役に立ったり、誰かの許可を得なければいけないんだよ。役に立たなくたって、許可が下りなくたって、生きてくしかないじゃん。生きてんだから」

そういうと亜美は胸の前で腕を組んだ。

「だから、ウチらが家賃を払わなくたって、ただ、ここにいるだけなんだから、誰かの許可なんて必要ない!」

「それ言いたいだけでしょ、亜美ちゃんは~」

志保が苦笑した。

「でも……」

とたまきはまたうつむきがちに言った。

「やっぱり、私はいつも役に立っているわけじゃないし……」

志保はまだどこか不安げなたまきを見ると、少したまきの方に詰め寄った。

「たまきちゃんは、いまでもちゃんと役に立ってるよ。言ったでしょ? たまきちゃんがいるから、あたしは今、ここにいるんだって」

「でも、ただここにいるだけでいいっていうのはさすがに……」

「そんなことないよ。たまきちゃんはここにいるだけで、十分なんだから。例えば……」

そういうと、志保は亜美の方をちらりと見て、

「前々から思ってたんだけどさ、あたし、あの人と合わないんだよねぇ。たまきちゃんがいなかったら、今頃、自分から出て行ってるかも」

と言ったので、たまきは驚いて、志保と亜美の顔を交互に見比べた。

志保と亜美が合わないなんて、そんなことないだろう。だっていつも、二人で話してて、たまきはいつも話に入るタイミングを見計らって、結局は入れない。話題も学校の友達の話とか、恋愛話とか、メイク道具の話とか、テレビの話とか、たまきには縁遠いことを二人で話している。二人が性格合わないなんてそんなこと……、

「同感だね」

亜美がそういったので、たまきはますます驚く。

「ウチも前々から思ってたんだけどさ、ウチら、合わないよ」

「え? そうなんですか?」

たまきが大きく目を見開いて、志保の方を見た。

「だってさ、たまきちゃん、信じられる? あの人、誰とでもエッチできるんだよ?」

「おい! 今の言い方はゴヘイがあるぞ! 別に『誰とでも』ってわけじゃねーよ。ウチにだってオトコの好みぐらいあるわ!」

「でも、別にカレシ以外の人とも平気でエッチできるでしょ? そういうのを『誰とでも』っていうんです!」

「だってさ、毎回おんなじオトコとヤッてたらさ、飽きない?」

「飽きないよ! 何言ってるの⁉」

「でもさ、いくらカラアゲ好きでも、毎日カラアゲ食ってたら飽きるだろ? それと一緒だよ」

「恋愛とから揚げは一緒じゃないよ!」

そういうと、志保はたまきの方に向き直り、詰め寄った。

「わかったでしょ? あたし、あの人と合わないの。たまきちゃんが一緒にいてくれるから、何とかやっていけてるんだよ」

「そ、そうだったんですか……」

そんなに自分の存在が大事なのか、とたまきは不思議に思う。

「確かに、たまきの存在は大きいかもなぁ」

そういって亜美が、すぐ近くのソファに腰を下ろした。

「たまきの存在は何つーか、ウチら二人の間に入れる……ほら……」

「緩衝材?」

志保が亜美の方を見て尋ねる。

「そうそう、それ。コンドームみたいなもんだよ」

「え⁉」

たまきの表情がこわばり、志保が

「全然違うよ!」

と素っ頓狂な声を上げた。

「え? ちがうの? 似たようなもんだろ? だって、コンドームって、アレとアソコの間に……」

「もう、この人やだー! 疲れたー!」

志保はたまきの方を向くと、ぬいぐるみでも抱くかのように、勢いよくたまきに飛びついた。

「ふええ!」

慣れないことをされて、たまきが変な声を上げる。

「ねえねえ、なんでみんな、ウチと話してると疲れるの?」

「たまきちゃん助けてぇ!」

亜美が志保の体を揺さぶる。同時に、志保が抱きついているたまきの体も揺れる。

ゆっさゆっさと揺れながら、たまきは考えた。

こんな私でも、誰かのそばにいるだけで、抱きつかれるだけで役に立つのなら、

こんなに幸せなことはない。

……のかな?


次回 第19話「赤いみぞれのクリスマス」

クリスマス、何も起きないわけがない。

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第17話「ガトーショコラのち遺影」

前回、たまきは16歳の誕生日を祝ってもらい、人生で一番楽しい誕生日となった……。

で終わらないところが「あしなれ」である。その誕生日パーティの写真が破かれてしまうという事件が発生する。果たして、犯人は誰?

「あしなれ」第17話スタート!


小説 あしたてんきになぁれ 第16話「公衆電話、ところによりギター」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


「誕生日の写真? 写真だったら、このまえ渡したじゃねえか」

舞は振り返りざまにそう言った。

「ええ……、まあ……、そうなんですけど……」

志保は少し申し訳なさそうにはにかむ。

十月二十一日に行われたたまきの誕生日パーティ。その時の写真は舞のカメラで撮影し、そのデータは舞のパソコンに入っている。パーティーの翌日、舞はプリントアウトした写真を「城」に持っていったはずだった。

志保が再びその写真をプリントしてくれないかと頼みに来たのは、十一月に入ってからだ。志保は買ったばかりのベージュのコートと赤いマフラーに身を包んでいた。冬着に身を包むと、志保の細い手足も隠れ、健康そうに見える。

「パーティの次の日に渡した写真の画像しかないぞ? 同じ写真が欲しいのか?」

「……はい」

「前の写真はどうした」

またしても、志保はごまかすように笑う。しかし、そんなはにかみでごまかされる舞ではない。

「別に、お前らを監視したいわけじゃないんだけどさ……」

舞はエンターキーを勢いよくはじくと、パソコンの置かれたデスクから立ち上がった。仕事途中なので、今日はメガネをかけている。

「お前らがあの『シロ』ってキャバクラに勝手に住み着いていることを黙認している身としては、些細なトラブルでも把握しておきたいんだよ。わかるか?」

「……はい」

「一応聞いておくけど、……クスリがらみじゃねぇよな」

「それは違います」

志保はきっぱりと否定する。それを聞いて舞は安心したように微笑んだ。

「別に怒りゃしねぇから。言ってみな」

 

 

十月下旬 今から二週間ほど前

写真はイメージです

「シゴト」から帰った亜美が「城(キャッスル)」へ戻ると、たまきが一人でいた。志保は施設の集会に向かったらしい。

たまきはソファの上に寝転がりながら、本を読んでいた。誕生日プレゼントにもらったゴッホの本である。

雑誌ていどのサイズの本にゴッホの絵が掲載されている。

十六才になって最初の一週間を、たまきはこの本を繰り返し読むことで費やしていた。

見れば見るほど、ゴッホという画家は面白い。そして、知れば知るほど、なんだか自分と重なる。たまきはそんな気がしている。

驚くべきことに、ゴッホはたまきと同じで中学校を途中でやめている。そして美術商の会社に就職する十六歳までの間、何もしていない。たまきと同じように、部屋でごろごろしていたのだろうか。

その後、美術商の会社に勤めるが、7年後にクビになる。その後は父親と同じキリスト教の聖職者になるが、これまたクビになる。そうして本格的に絵を描き始めたのが27歳のころだった。

この頃のゴッホの絵は何というか、暗い。黒を使うことが多く、絵はどこかくすんでいる。こういったところも、たまきはなんだか他人の気がしない。

その後、ゴッホは故郷オランダを離れ、パリへと移る。そこで出会ったのが印象派と浮世絵だった。

特に、印象派の影響が強く、この頃、画風ががらりと変わる。青や白といった色が増え、画風が急に明るくなる。明らかに印象派の影響だろう。

もう一つ、ゴッホに影響を与えたものがある。浮世絵だ。浮世絵を通して日本に強い憧れを抱いたゴッホは、アルルという街に日本の面影を求めて移住する。アルルのどの辺が日本っぽいのかはわからない。移住の理由はそれだけではなく、どうもゴッホは都会になじめなかったらしい。

アルルに移住したゴッホの絵は、今度は黄色くなる。有名なひまわりの連作もこの頃にかかれたものだ。住んでいた家も「黄色い家」というらしい。

だが、同居人のゴーギャンとはケンカ別れをし、自分の耳を切り落とし、挙句の果てにアルルから追い出されるように精神病棟に強制入院となる。退院後もアルルに居場所はなく、サン=レミの療養院へと入院することになった。

療養院に移ってからのゴッホの絵は青くなる。一方、彼は死に魅入られたかのように発作を繰り返す。

そして退院からわずか二か月後にピストル自殺をするのだった。

死ぬ間際の作品として有名なのが「烏の群飛ぶ麦畑」だ。

麦畑の上を無数のカラスがはばたく。空は青空にもみえるし、漆黒の夜空にもみえる。黒、青、黄色、ゴッホが特にこだわってきた色が使われている。

カラスはまるでアルファベットの「M」の字のような形をしている。「線」と言い換えてもい。こんなの、美術の時間に描いたら「ふざけるな」と怒られてしまうだろう。ゴッホの絵は生前は1枚しか売れなかったというから、当時もふざけてると思われていたのかもしれない。

それでも、不思議とカラスにしか見えない。畑も正直な話、子供が黄色い絵の具をこすり付けただけのようにしか見えないが、それでも不思議と麦畑に見える。耳を澄ませば風になびく麦のざわめきの中に、カァカァというカラスの鳴き声が聞こえてきそうだ。仙人の言っていた「直感でやっているのか計算してやっているのかわからない」というのはこういうことを指していたんだろう。

そして、この絵は「極度の孤独」を表現したものらしい。麦畑とカラスのどの辺が孤独なのかよくわからないが、それでも、確かにこの絵からは孤独とか絶望とか死とか、そういったものが伝わってくる。

なんだかどこかでこの絵を見たことがある。そう思ってたまきは眺めていたが、一週間眺めてやっとわかった。

たまきが初めてこの太田ビルに来て亜美と会った日、雨にもかかわらず傘も差さずに歩いてたためメガネのレンズはぬれ、視界はぐにゃぐにゃに曲がっていた。そうだ、あの時に似ているのだ。

最近もどこかで見たと思ったら、「東京大収穫祭」の時に一人ベンチに座って泣いていた時に舞が目の前に立っていた、あの時に似ている。メガネをはずしていたうえ、目はなみだで滲んでいた、あの時に見た景色に。

死ぬ間際のゴッホには世界がこんな風に見えていたのか。ゴッホも泣いていたのかな。

ゴッホという画家はその絵1枚1枚もさることながら、時系列順にその絵を並べてみることで彼の人生そのものを表現している、「ゴッホ」という一つの作品らしい。

死にたがりなところとかどことなく自分に似ている。たまきはゴッホに親近感を沸くと同時に、自分とは違うところもいくつか見つけていた。

ゴッホもコミュニケーションが苦手だったらしいが、たまきのように喋らないのではなく、むしろすぐに人と口論になって嫌われてしまうタイプだったらしい。ゴッホが残した手紙にも、そんな自分に対して自分で嫌気がさしているかのような言葉が目立つ。

それでいて、ゴッホは自画像を多く描いた。

自分が嫌いでしょうがないたまきは自画像なんて描きたいと思わない。ゴッホは実は自分が好きだったのだろうか。

それとも、自分を好きになりたくて自画像を描いていたのだろうか。

たまきはのそりと起き上がると、厨房の方へと移動した。厨房の手前はちょっとしたカウンターになっていて、そこに安っぽい写真立てに収まった、誕生日の日の写真が飾られている。

写っているのは5人。後列は右からミチ、亜美、志保、舞。みな笑顔だ。

写真の中央、4人より少し前にたまきは座っていた。満面の笑み、とまでは行かなかったが、十分笑顔だった。

もし私が……、ふとそんなことを考えたとき、亜美が口を開いた。もちろん、写真の中の亜美ではなく、すぐそばにいる実物のほうの亜美だ。

「誕生日プレゼントを気に行ってもらえたのは嬉しいんだけどさ」

亜美は半ばあきれたように言う。

「お前、ずっとそれ読んで一歩も外出てないだろ」

「……お風呂と洗濯に行きました」

「それだけだろ。とにかく、ここ一週間ほとんど外出してないじゃないか」

と、声を張り上げた。

「そうですね」

「どっか行って遊んできなさい!」

先週もそんな風に言われた気がする。

「おそとに出るのがえらいんですか?」

「……べつにえらかねぇけどさ」

亜美はまだ何か言い足りなさそうにたまきを見ていたが、やがて、ふうっと息を吐くと、あきらめたかのようにたまきの頭を軽く、ポンポンと叩いた。

「ま、無理に外に出して、車道に飛びこんで死なれてもアレだからな」

「……アレってなんですか?」

「……アレはアレだよ」

たまきは怪訝そうに亜美を見上げていたが、やがてぽつりと、

「亜美さんは……、私が死んだら悲しいですか?」

と言った。

「は? そりゃ、カナシイに決まってるだろ。何か月一緒にいると思ってんだ」

「そうですか」

たまきは、亜美ではなく写真立ての方を見ながら、そう返事した。

 

 

十一月上旬 今から一週間ほど前

写真はイメージです

たまきの約十日ぶりの本格的な外出は、駅前の喫茶店に行くことだった。

志保が最近よく足を運ぶ喫茶店があるらしく、そこに行こうと誘われたのだ。

亜美もたまきも最初は断った。亜美は

「喫茶店ってジジイがコーヒー入れてババアがケーキ運んで、おばさんがベチャクチャしゃべりながら飲むところだろ?」

と随分凝り固まったイメージを喫茶店に持っているらしく、行くのを渋った。たまきはたまきで

「お茶なら下のコンビニで買えます……」

とだけ言ってそのまま昼寝しようとしたが、志保が

「友達連れてくって約束しちゃったの!」

と懇願したのだ。

最初にじゃあ行きますと言ったのはたまきの方だった。これまで友達らしい友達がいなかったから、「友達」という言葉を出されると、どうもむげに断れない。

たまきが行くというのを聞いて、だったらウチもと亜美が言い出して、三人で行くことになった。

十一月に入ったばかりの東京の町は、まだ午後二時だというのに空っ風が吹いて寒い。

これからどんどん寒くなっていくのだろう。あと2カ月もすれば、クリスマスに大晦日、お正月と世間が浮かれる1週間がやってくる。

それまで生きてられるかな、と漠然とたまきは考える。

歓楽街を出て大通りを渡ると、駅へと続く大きな歩道だ。色とりどりの看板が、客が来るのを首を長くして待っている。

足音。話し声。車の音。何かの音楽。

この町はシブヤと違って、たまきはあまり場違いな感じがしない。何が違うのかと考えてみたが、4カ月この町にいる、ということしか思い浮かばなかった。

「志保さ、一個聞きたいんだけど」

「なに?」

志保が振り返って、後ろを歩く亜美に返事をした。

「友達連れてくって約束したって言ってたじゃん」

「うん」

「誰と?」

志保の時間が一瞬止まった、ような気がした。

「だ、誰とって?」

「誰とそんな約束したんだよ」

「え……店員さんだけ……ど」

志保は亜美を見ることなく答えた。

「喫茶店の店員とそんな約束するか、フツー?」

「でも、施設行くときとか帰りにいつも寄ってるから、仲良くなっちゃって」

そう答える志保の後姿を、たまきはぼんやりと眺めていた。

喫茶店の店員と仲良くなれるだなんて、たまきには想像がつかない。いったいどうやったらそんなことができるのだろう。

仙人はいろいろとたまきに言ってくれたが、やっぱり志保は「あっち側」の人なんだ、そうあらためて思う。

「いつから通ってんの?」

亜美は振り返らない志保の背中越しに問いかけた。

「え~っと……、8月の半ばくらいかな……」

これは嘘である。本当は店に初めて行ったのは10月の頭、大収穫祭の翌朝である。

おそらくそのことを正直に言ったら亜美は「1か月で喫茶店の店員とそんな仲良くなれんの?」と聞き返してくるだろう。そう考えたら、とっさに嘘をついていた。

「亜美ちゃんってさ……」

志保は振り返ってそう言いかけたが、

「ごめん。やっぱ、なんでもない」

と言って再び前を向いた。

「なんだよ。気になるな。言えよ」

「なんでもないって。あ、ここ、左だから」

志保は袖でそっと額の汗を拭く。「亜美ちゃんってさ、おバカなのに、勘がいいよね」なんて失礼なセリフ、言えるわけがない。

 

写真はイメージです

「シャンゼリゼ」というおしゃれな店名から連想することは人それぞれ違う。

志保は、この看板を見るたびにレコードの時代のおしゃれな音楽が頭の中に流れだす。

一方たまきは、ゴッホもパリにいたころシャンゼリゼ通りを歩いたのかな、なんてことを考える。ゴッホがパリにいたのは確か、絵が青と白だったころだ。

亜美は「シャンゼリゼ」という看板を見たら、カップルのうちの男の方が壁にかけられた変な顔の彫刻の口に手を突っ込む、白黒の映画のシーンが頭に浮かぶ。ちなみに、その映画の舞台がパリではなくローマ、フランスではなくイタリアであることを亜美は知らない。

「シャンゼリゼ」の店内はなんだかレトロな蒸気機関車の座席みたいだ。とはいえ、三人のうちだれも機関車に乗ったことなんてないのだけれど。

「なんだか、ウチの知ってる喫茶店と違うなぁ」

亜美がはきょろきょろと店の中を見渡していたが、やがて興味を失った亀のように首をひっこめた。一方、たまきはふだんの猫背をさらにねこのしっぽのように丸めている。

店内はスーツを着たサラリーマンや、学生らしき若い男女で込み合っていた。曲名も知らないクラシック音楽の上に、食器の音や話し声が、ベートーヴェンの音楽のように流れていく。

「いらっしゃい、志保ちゃん」

ウェイターの青年が水の入ったコップを持って、三人のテーブルにやってきた。長身だがこれといった特徴のない顔をしている。どちらかというと、パーマのかかったもじゃもじゃの髪の方が印象に残る。胸には「田代」と書かれた名札がついている。

田代を見て、志保の顔に笑顔がこぼれる。

「田代さん、こんにちわ」

「……この子たちがこの前言ってた友達?」

「そうそう。こっちが亜美ちゃんで、その隣がたまきちゃん」

「どうも」

亜美が軽くあいさつし、たまきも無言で頭を下げる。

「なんか、二人とも、志保ちゃんと雰囲気ちがうね」

「よく言われる」

志保が笑いながら返す。

「どういう知り合い? 学校?」

「……そうじゃなくて、家が近いんだよね?」

志保は亜美とたまきの方を向く。たまきはどう話を合わせればいいのかわからなかったが、亜美は

「そうそう、家が近くて、昔からよくつるんでんの」

と話を合わせる。

「じゃ、オーダー決まったらまた呼んで」

そういうと田代は厨房の方へと向かって行った。

「なに飲む? あたしはもう決まってるから」

志保はメニュー表を広げて、亜美とたまきの方に渡した。

「酒とかないの?」

「ないよ」

「だろうな」

そう言いながら亜美はメニュー表を覗き込む。

「お、このナポリタンうまそうじゃん」

「え? 食べるの?」

「なんだよ。悪いかよ」

亜美が怪訝な顔をして聞き返す。

「だって、お昼、食べたじゃん」

志保も怪訝な顔をする。

「食えるって、これくらい。飲み物は……コーヒーでいいや」

「たまきちゃんは飲み物どうする?」

「え?」

たまきは戸惑った。飲み物ならすでにお水があるじゃないか。

もしかして、こういった店はたまきの知らない不文律があって、「お水は飲み物のうちに入らない」とか、「お水以外の飲み物を頼まなければいけない」とか、たまきにはわからないルールがあるのかもしれない。

たまきは無言で「リンゴジュース」と書かれた文字を指さした。

「ジュースだけ? ケーキとかは頼む?」

「おい、ナポリタン、食うか?」

二人の問いかけに、たまきは無言で首を横に振った。

「田代さぁん、注文お願いします」

志保の呼びかけに田代がやってくる。

「ミルクティーとガトーショコラとモンブラン」

「うん、いつものやつね」

「それからナポリタンとコーヒーとリンゴジュース」

「ハイ、かしこまりました」

田代は伝票にメニューを記入すると、再び厨房の方へと向かった。ミチがバイトしているラーメン屋のように、大声で注文を叫んだりはしない。

「お前、ケーキ二つも食うのかよ」

「ナポリタン注文した人に言われたくない」

志保は少しむっとしたように答えた。そして、壁の張り紙に目をやった。

そこには「バイト募集」と書かれていた。「女性大歓迎」とも書いてある。そういえば、この店には若い女性の店員がいない。

「今度、この店の面接受けようと思うんだ」

「面接ってバイトの?」

「うん」

志保は張り紙を見ながら答えた。

「いつまでも亜美ちゃんの……稼ぎにお世話になるわけにもいかないじゃない。この前のイベントも無事こなせたし、あたしもバイトしようかなって。まあ、先生に相談してみてだけど」

「ふうん」

亜美は厨房の方に目をやる。

ほどなくして、ナポリタン以外の注文の品が運ばれてきた。ナポリタンはやはり少し時間がかかるようだ。

志保の持つ銀のフォークが黒みを帯びたガトーショコラの中に沈みゆく。濃厚なチョコの香りが志保の鼻孔を刺激する。

「最近はどんな本読んでるの?」

田代は志保のわきに立つと、トレイを片手に話しかけた。

「これ読んでます」

志保はカバンから文庫本を出した。

「ああ、映画になったやつね。見たよ」

「原作読みました?」

「いや、原作はまだ……」

「読んだ方がいいですよ。ヒロインの細かい感情表現がとてもきれいなんです。あ、読み終わったら貸しましょうか?」

そんな話をしているうちにナポリタンが出来上がった。

 

たまきにはわからない。ごく普通のリンゴジュースである。コンビニや自販機で買えるものとそんなに違わない。いや、むしろ自販機のリンゴジュースの方がたまきの舌にあっている気がする。

店内を見渡すと、コーヒーや紅茶だけを注文している客もちらほらいる。

そんなの、わざわざこんなお店に来て飲まなくても、その辺で買って、帰ってゆっくり飲めばいいじゃないか。

それとも、すぐに帰りたがるたまきの方がおかしいのか。亜美が「どっか言って遊んできなさい!」というように、お外へ出たがる方が普通のなのかも。

そんなことを考えていたら、ナポリタンを食べ終わった亜美が口を開いた。

「志保、ウチら、さき帰るから」

亜美も帰りたがることがあるんだなぁと、ぼんやりと亜美のコーヒーカップをのぞきながらたまきは思う。カップにはまだ3分の1ほどコーヒーが残されていた。

あれ? 「ウチら」?

「ほら、たまき、帰るぞ」

そう言って、亜美はたまきの肩をたたく。

「あれ? 帰るの? だったらあたしも」

そう言って志保は立ち上がろうとしたが、

「いや、お前は残ってていいよ。もう一杯紅茶飲んだらどうだ?」

そういうと再びたまきの肩をたたく。

「ほら、たまき」

たまきは何が何だかわからない。

「え……帰るんですか?」

「なに、お前、残ってたいの?」

「いえ……」

帰りたいか帰りたくないかと聞かれれば、帰りたい。

志保は何かを怪しむように亜美を見る。心なしか、顔が紅潮している。

「亜美ちゃんってさ……」

「ん?」

「なんでもない! じゃあ、お言葉に甘えてもう一杯もらおうかな」

「あ、たてかえといて。あとで払うから」

そういうと、亜美はたまきの手をグイッと引っ張って店を出た。たまきも、なんだか無理やり散歩させられてる子犬のような足取りで外へ出る。

 

写真はイメージです

「フツーの味だったな」

亜美が口の周りのトマトソースをなめながら言う。すれ違うトラックのエンジン音が響く。

「……リンゴジュースも普通の味でした」

たまきが亜美の後ろをとぼとぼとついてくる。歩くたびに雑踏の中で黒いニット帽が揺れる。

「あれだったら別に、わざわざ行かなくてもよかったなぁって……。志保さん、なんでわざわざ通ってるのかなって……」

おしゃれ女子の考えていることはわからない。

「ま、そういうことだろ」

亜美は振り返ってにやりと笑う。

「紅茶なんてどこで飲んでも一緒だし、ケーキなんてもっとうまい店この辺だったらいっぱいあるだろ。それでも志保はあの店に通う。そういうことだよ」

「……どういうことなんですか?」

たまきはけげんな顔をして亜美を見つめた。

「いや、あの二人、デキてるだろ」

「……あの二人って?」

「志保とあの店員だよ」

「できてるって何が……?」

しばらくたまきは考えたが、そういうのに疎いたまきでも、流石にわかってきた。

「え? え?」

「まあ、お互い意識している段階っていうのが60パー、もう付き合ってるっていうのが20パー、まあ、どっちかは確実に意識してんだろ」

「なんで? なんでわかるんですか?」

珍しく食いついてくるたまきに気をよくしたのか、亜美は名探偵よろしく語り始める。

「フツーさ、喫茶店の店員と仲良くなるか? どっちかが意識して声かけたか、そうじゃなかったら、実は別の場所で知り合って、ていうのもあるな」

「でも、志保さん、施設行くときはいつもあの店寄るって言ってたから、それで仲良くなったのかも……」

「施設っつったって、毎日行ってるわけじゃねぇだろ。週に2回か3回だろ。それも、あいつの話がホントなら2か月ちょっと通ってるわけだけど、それでも仲良くなるかよ。結構混んでるぜ、あの店」

「確かに……」

「そもそも、志保の話もどこまでほんとかわかんねぇしな」

「え?」

たまきがまたまた驚いたように目を見開く。

「店に行く前にウチが質問したとき、明らかにキョドってたよ、あいつ。どの辺がウソなのかまではわかんねぇけどさ。とにかく、あいつには隠しておきたい何かがある。でもさ、そこにウチラ連れてくんだから、別に後ろめたいことしてるわけじゃねぇ」

「はぁ」

たまきは話についていくのに精いっぱいだ。

「そういうのは大抵オトコがらみだよ。あいつ、読んでる本を店員に見せてただろ。自分はこういうの読んでるって知ってもらいたいんだよ。ウチらが連れてかれたのもその延長。こういう友達がいます~って知ってもらうことで、志保について知ってもらいたいってことよ。だからウチラを連れて行った。でも、恥ずかしいからウチラにほんとのことは言わない。そんでもって、バイトしようかな~、だろ? 客としてじゃ満足できねぇってことよ」

「じゃあ、志保さんは、あの店員さんが……、その……、好きなんですか?」

「たぶんな。そんなはっきり意識してはねぇかもだけどな。そうか、あいつ、ああいうヤサオがタイプか」

「ヤサオ」の意味がたまきにはわからなかった。「野菜みたいな男」という意味だろうか。そういえば、あの店員のもじゃもじゃした髪は、どことなくキャベツっぽい。

それにしても、全然気づかなかった。自分の鈍感さにたまきはショックを通り越して半ばあきれてしまった。

「亜美さんって、おバカだけど、そういうとこ鋭いですよね……」

その言葉に亜美は足を止めた。呆れたように笑っている。

「お前、けっこう、失礼なこと言うな」

「え? ごめんなさい。褒めてるつもりなんですけど……」

「いや、『おバカだけど』は褒めてねーよ」

「でも、私、そういうの全然気づかなかったから、亜美さんすごいなぁって……」

「いや、だから、『おバカだけど』は余計だって。まあ、否定はしねぇけどさ」

そう言いつつも、亜美は笑顔だった。

 

 

十一月中旬 志保が舞の家を訪れる前日

写真はイメージです

志保が「城」で暮らすようになって気づけば4カ月がたっていた。

だいぶ慣れてきたな、志保は自分でもそう感じる。最初こそは異様に距離感の近い同居人と、全然しゃべらない同居人に戸惑うこともあったが、4か月一緒にいると、どう扱えばいいのかもなんとなくわかってくる。

ただ、ビルの5階にある、というのはいつまでたっても慣れない。毎回、階段を上ると息が切れてしまう。

やっぱり体力が落ちてるんだな。骨が浮き出るかのように細い自分の手を見つめながら志保は息を飲み込んだ。

それでも何とか登りきり、ドアの前で呼吸を整える。ビルの影に沈む直前の西日が志保の髪を照らす。

息が整い、志保は「城」へと入った。

「ただいまぁ」

特に返事はない。電気もついていない。

ただ、ドアが開いていたからには、誰かしらいるはずだ。

志保は電気をつけて、奥へと進んでいく。

ソファの上に、黄色い毛布にくるまったたまきがいた。もっとも、頭を向こうに向けているので顔までは見えないが、黒髪と、テーブルの上に置かれたメガネからして、たまきと見て間違いない。

「ただいまぁ」

ともう一度言ってみた。

「……おかえりです」

たまきがか細い声で答える。もしかしたら、さっきも返事をしていて、単に聞き取れなかっただけかもしれない。

「どうしたの。元気ないね」

たまきに向かって何回このセリフを言ったことか。志保にとっては英語で言うところの”How are you?”に相当するあいさつの定型句だ。

「……別に」

これまた、たまきにとってはお決まりの返事である。

だが、心なしかいつもよりも元気がないような気がする。

志保は、カバンをソファの上に置いた。片手には下のコンビニで買った履歴書を持っていて、厨房の手前のカウンターに置こうとする。

履歴書がカウンターに置かれたのと、志保が写真の異変に気づいたのはほぼ同時だった。

先月行われたたまきの誕生日会の写真。たまきたち5人が笑顔で写った写真。

その写真が引き裂かれていた。中央にいるたまきの顔は、真っ二つに裂けている。

「なにこれ?」

志保は息をのみ、目を見開いた。

写真を手に取った志保は、下腹部から何か熱いものが湧きあがってくるのを感じていた。その一方で、手先は熱を失ったかのように震えている。

写真たてに入っていた写真が、勝手に破けるはずがない。誰かが取り出して破かなかったらこんなことにはならない。

たまきがいつもより元気がない理由も、おそらくこれだろう。誰が一体、こんなひどいことを。そして、なんのために。

志保は厨房に入ると、水道水をコップに入れ、一気に飲み干した。

そのタイミングで、再びドアが開く。

「たっだいま~」

亜美ののんきな声が「城」の中にひびた。

「……亜美ちゃん」

志保はいつもよりも低い声を発した。

「これなに?」

志保は二つに裂けてしまった写真を亜美の目の前に付きだす。

亜美はしばらくその写真を見つめていたが、突如、

「はぁ!?」

と声を張り上げた。

「これ、たまきの誕生日会の時の写真だろ? なんで破けてんだよ。たまきのところ、真っ二つじゃねぇか。誰だよ、こんなひどいことするの。たまきがカワイソウじゃんか」

「……白々しい」

志保が、泥棒でも見るかのように亜美をにらむ。

「亜美ちゃんがやったんじゃないの?」

「はぁ!?」

亜美は、さっきよりも語気を強めた。一方、志保は亜美を睨んだままだ。

「イミわかんない。何でウチが写真破かなきゃいけねぇんだよ?」

「たまきちゃんばっかり注目されて、自分が主役じゃなかったのが面白くなかったんでしょ!?」

志保は糾弾するように亜美に詰め寄った。

「は? たまきの誕生日だったんだから、たまきが主役になるのは当たり前だろ? ウチが嫉妬? ばかばかしい。証拠あんのかよ、証拠!」

亜美は、写真をカウンターの上に乱暴に叩きつけると、尋問のように志保を睨みつけた。叩きつけたときの音が「城」の中で反響する。

「だって、あたしじゃないもん。そしたら、亜美ちゃんしかいないでしょ。誕生日の写真、こんなことされて、たまきちゃんがかわいそうだよ! たまきちゃんに謝りなよ!」

「なんだよその理屈。自分じゃないからうちが犯人だって、お前が犯人じゃないって証拠あんのかよ?」

「証拠はないけど……、でも、あたしには動機もないもん。たまきちゃんの写真にあんなことする動機ないもん」

「ハッ、どうだか。隠れてクスリやって、ラリって破いたんじゃないの?」

その言葉に、志保が目を大きく見開いた。少し充血気味だ。

「訂正して、亜美ちゃん」

明らかに言葉に怒りがこもている。

「あたしは7月にみんなに迷惑をかけた一件以来、クスリ一回もやってない! 正直、使っちゃえば楽になるかなって思った日もあった。でも、一回もやってない! 訂正して!」

志保は亜美に詰め寄ると、亜美の肩を強くつかんだ。

「触んじゃねぇよ!」

亜美は志保の手を勢いよく払いのける。

「訂正すんのはてめぇだろ? 何でウチが疑われてんだよ! 濡れ衣もいいとこだろ。ウチが今まで、誰かの写真破ったことあるかよ。てめぇ、前にクスリやって財布盗んでる前科者だろうがよ! てめぇの方こそ、よっぽど怪しいじゃねぇかよ!」

亜美は、志保の肩に手を当て、突き飛ばした。志保がよろけて、壁に背中を強打する。骨がぶつかる鈍い音が「城」の中にこだました。

「いったぁ……」

志保も負けじと、亜美を親の仇かのように睨みつける。

志保はソファの上に置いてあったクッションを手に取ると。亜美に向かって投げつけた。クッションは勢いよく宙を舞うが、亜美が片手で払いのける。

「お、やんのか? お前みたいなガリガリに負けねぇぞ? それとも、とっとと罪を認めて楽になるか?」

「……そんなこと言ったって、そんなこと言ったってあたしじゃないもん!」

志保が叫ぶ。その振動で窓ガラスが震える。

「あたしじゃなかったら、亜美ちゃんしかいないじゃない! 他に誰がいるの!? だったら何? たまきちゃんが自分で破ったとでもい……」

そこまで言って、志保ははっとしたように言葉を止めた。亜美の方も何かに気付いたのか、少し顔色が冷めてきたように見える。

そういえば、もう一人の同居人は、自分で自分の手首を切るような女だ。

それに比べれば、自分の写真を引き裂くぐらい、たぶんなんでもないことだろう。

志保は、カウンターに上に置かれた写真をもう一度見た。

縦に真っ二つに引き裂かれている。たまきの顔は左右に泣き別れだ。

一方で、たまきのすぐ後ろにいた亜美と志保の顔には傷がない。まるで、亜美と志保の間のわずかな隙間をうまく破くように、細心の注意を払ったかのように。

二人はゆっくりと、ソファの上に寝転がっていたまきを見た。

いつの間にかたまきは立ち上がり、二人のすぐそばにいた。小柄な体を小刻みに震わせて、目も少し赤い。

言い争いが収まり、「城」にはかりそめの静寂が訪れた。静寂の中でたまきは幽かに、それでいてはっきりと、ぽつりと言った。

「……ごめんなさい」

今にも泣きそうなたまきは、言葉を続ける。

「ちゃんと言わなきゃって思って……、でも、二人とも、声かけられるような雰囲気じゃなくなって……。私、怖くて本当のこと言えなくて……。ごめんなさい……。私が早く本当のことを言えば……」

「本当にこれ、たまきちゃんが破いたの?」

たまきは、うつむいたまま、ゆっくりとうなづいた。

「お前、なんでそんなこと……」

「たまきちゃん、誕生日パーティ、嫌だった? 楽しくなかった?」

亜美は腰を落として、たまきに目線を合わせて尋ねた。たまきはぶんぶんとかぶりを横に振った。

「……楽しかったです。嬉しかったです……」

「だったらなんで……」

たまきは、ゆっくりと顔をあげた。

「誕生日の日は、……とても楽しかったです。でも、その時の写真を見るたびに、思うんです。いつか私が死んじゃった時に、こんな写真が残ってたら、あの時はこんなに楽しそうにしてたのに、結局、最期はあんな死に方をしてって、みんな悲しくなると思って……」

まるで自分がどういう死に方をするかわかっている、もしくは決めているかのような言い方だ。

亜美はおもむろに身をかがめ、たまきに目線を合わせると、

「バーカ」

と言ってたまきのメガネをデコピンではじいた。

「いたっ」

「ちょっと亜美ちゃん、メガネは危ないって」

「お騒がせした罰だよ」

亜美は呆れたように笑っている。

「写真があろうがなかろうが、お前が死んだらカナシイに決まってんだろうが、バカ。だいたいな、そんな自分が死んだ後のことなんかどーでもいいんだよ。どうせ自分はいないんだから、そんなんいちいち気にしてんじゃないよ」

そういうと、亜美は破れた写真を手に志保の方を向いた。

「……どうする? 先生に頼めば、写真くらいまた印刷してくれるだろうけど、どうせこいつ、また破るぞ?」

志保は天井の方を見上げてしばらく何か考えていたが、何かを思いついたのか、たまきの方を向いた。

「じゃあさ、こうしようよ。この写真は、たまきちゃんの遺影にしよう?」

「遺影?」

たまきがきょとんとして目で聞き返す。

「いつかたまきちゃんがその……死んじゃったら、この写真を遺影にするの。この子は最期は……結局死んじゃったけど、こんな楽しそうに笑ったこともあったんだよって。ならいいでしょ?」

「遺影……」

たまきはぽつりと同じ言葉を繰り返した。そして、

「悪くないです」

と言って珍しく、たまきにしては本当に珍しく、微笑んだ。

「お前、さっきたまきが言ってたこと、ひっくり返しただけじゃねぇかよ」

亜美が志保のそばに行き、小声でつぶやく。

「そんなもんだって。こういうのは、考え方次第だってば」

志保はそう言って笑った。が、急に真面目な顔つきになった。

「さっきは……ごめんね。根拠もないのに疑って」

「まったくだよ……。まあ、ウチも、言っちゃいけないこと言っちゃったかもなぁって……、思ってます……。すいませんでした……!」

亜美は志保から顔をそらして言った。だから、志保は亜美が顔を少し赤くしていることに気付かなかったし、亜美も志保が亜美のことばを聞いて呆れたように笑っているのを知らない。

「……ごめんなさい。そもそも、私が写真を破らなければこんなことに……」

「お前はもう、この件で謝んな! なんかもう、死ぬまで毎日謝ってそうだから」

亜美はたまきの方を向くと、笑いながらそう言った。

「でも、今思うと……、二人が私のために怒ってくれたのは、ちょっとうれしかったです」

たまきはぽつりとそういったが、その言葉に志保がおかしそうに笑う。

「今の言葉、なんか、魔性の女っぽいね」

「え?」

たまきは意味が分からず、志保の顔を見つめる。

「『やめて! 私のために争わないで!』って言いながら、本心では男子に自分を取り合わせて、優越感に浸る、みたいな」

「お、たまきの中の魔性がついに目覚めたか」

「ち、違います! わざとやったわけじゃないし、そもそも、二人が争っている間は、もうどうしていいかわかんなくて、あとになって少し落ち着いてから、そういえば二人とも、私のために怒ってくれてたんだなぁって思って、けっしてそういう争わせようとか……」

「わかってる、わかってるって。じょうだんだってば」

志保は笑顔で、たまきの方を優しくたたいた。

つづく


次回 第18話「労働と疲労のみぞれ雨」

シャンゼリゼでバイトをすることになった志保。一方、たまきは自分も何かバイトをしなければと焦り、周りの人に仕事について尋ねていく。

続きはこちら! 半分くらい、ギャグ回です。


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第16話「公衆電話、ところによりギター」

10月のある日、たまきは「城」を追い出されるように公園にやってくる。どこに行っても馴染めないと仙人に話すたまき。だが、「城」に帰ってきたたまきの身に、思いもよらない事態が待ち受ける!

「あしなれ」第16話、スタート!


小説 あしたてんきになぁれ 第15話「クラゲときどきハチ公、ところによりネズミ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


十月二十一日 午後三時半 曇り

写真はイメージです

秋が深まってきて日に日に気温が下がっている、らしい。

しかし、シブヤに買い物に行って以降、たまきはほとんど「城(キャッスル)」に引きこもっていたので、天気の変化を実感できない。銭湯に行くのもおっくうで、最近は厨房で頭を洗い、体を洗ってている。

今日もやけに明るいピンクのソファの上でごろごろ寝転がって過ごす。昨日もそうだった気がするし、おとといもそうだった気がする。

このまま自分はごろごろ転がったまま死んでいくのだろうか。

たまきは右手首の包帯に触れる。指で少し触れるだけでじんわりとした痛みが手首に走る。

同居人はというと志保は本を読んでいた。依存症のナントカと表紙には書かれている。志保の通っている施設の図書室から借りてきたものらしい。

一方、亜美は何とも退屈そうに携帯電話を眺めていた。あんなに小さな携帯電話の向こうっていったいどんな世界が広がっているのだろうか。

今日もこうしてごろごろして日が暮れていくのだろう。明日もそうだし、明後日もきっとそうなんだろう。

そんな明日なんか、いらない。

ふと、亜美と目があった。亜美は一回、志保の方を見て、それからもう一回たまきを見ると、立ち上がった。

「たまき」

ちょっと強めの言い方だ。

「お前、いつまでごろごろしてるんだ!」

なんだか、心の中を読まれたような気がする。

「毎日毎日ごろごろして、不健康だと思わないのか!」

たまきも不健康だと思う。だが、健康とは長生きしたい人間が求めるものであり、たまきは別に自分が不健康でも気にしない。

「どっか行って遊んできなさい!」

『きなさい』という口調はいつもの亜美とはちょっと違い、なんだかおかしかった。たまきは口元を緩める。

「笑う元気があるなら、遊んできなさい!」

どうして遊ぶことを強要されなければいけないのか。

「行くところなんかないです……」

たまきは寝っころがりながらそう答えた。

「ミチのところにでも行ってくればいいだろ。あいつ、いつも公園にいるんじゃねぇの?」

「私、あの人、きらいです」

そういうとたまきは亜美に背を向けた。

「じゃあ、前言ってたホームレスのおっさんいるだろ、お前の絵をほめてくれた人。そのおっさんのところに遊びにけばいいじゃねぇか」

そういえば、もうひと月ぐらい仙人にあっていない気がする。

どうしてるだろうか。公園に戻っているのだろうか。これから冬になっていくというのに、寒くないのだろうか。

たまきはのそりと起き上がると、テーブルの上に置いてある肩掛け式のカバンを手に取り、黒いニット帽をかぶった。カバンからはスケッチブックがはみ出ている。

「お前、前から思ってたんだけどさ、スケッチブック、入りきれてねぇじゃん」

「……これしか持ってないんで」

そういうと、たまきは玄関で靴を履き、ドアノブを押して出て行った。

「……行ってきます」

「死なずに帰ってこいよー!」

「死ぬ気分じゃないです……」

ドアが閉まり、内側にかけられたネームプレートが揺れる。

ドアが閉まったことを確認すると、亜美は志保の方を振り向いた。

「ちょっと乱暴だったんじゃないの?」

志保が本を傍らに置いて言う。

「ああでもしねぇと、あいつは外に出ないって」

亜美は志保の方に近づいた。

「っていうか、ほんとに大丈夫なんだろうな。あいつ、いつも通り元気ないぞ?」

「大丈夫だよ。ちゃんと、メモ取ってるもん。間違いないよ」

志保はそう言うと立ち上がった。

「じゃ、はじめようか」

 

 

十月二十一日 午後三時四十五分 曇り

写真はイメージです

秋が深まって日に日に寒くなっているというのは、どうやら本当だったらしい。

たまきはとぼとぼと公園に向かう。道沿いには何人かのホームレスが段ボールを砦のように重ねて家を作っている。彼らに気を配るものは誰もいない。

歩道橋を渡って公園に入った。いつの間にか木々は黄色に染まっている。

冷たい空気をかき分けてたまきは公園の奥の方へと進んだ。

半月ほど前はここで大きなイベントをやっていたのだが、今は跡形もない。もしかしたら、あの時の屋台もステージも全部、砂でできていたのかもしれない。

鬱蒼と繁る木々の向こうにたまきは目を凝らした。

青い何かが見えた。たまきは、落ち葉を踏みしめて林の中へと入っていく。

そこには、青いビニールシートに包まれた、ベニヤ板のお化けのような小屋だった。夏に見たものよりは一回り小さいが、「庵」で間違いない。

「久しぶりだね、お嬢ちゃん」

聞きなじみのあるハスキーな声がして、たまきは振り向いた。

ジャンパーを着て、キャップをかぶった仙人がそこにいた。椅子に腰かけている。

たまきは何も言わず、ただ、ぺこりと頭を下げた。

「うん、その帽子は似合っとるな」

仙人はそう言ってほほ笑んだ。

 

 

十月二十一日 午後四時 曇り

 

たまきは、仙人が差し出した椅子に腰かけた。椅子の上から、小さくなった庵を見る。

「なあに、毎年のことだ」

そう言って仙人は笑った。

「毎年毎年作って、少しずつ大きくして、祭りの時期が来たら取り壊しだ。また一からやり直し」

「せっかく作ったのに……」

「仕方はあるまい。わしらはここにいてはいけないのだからな」

風に吹かれた木の葉がはらはらと舞い落ちる。

「それに、居場所というのはそういうものだ。大切に築き上げたものが、ある日ぷっつりと消えてなくなる」

そういうと仙人はカップ酒を口に運んだ。

「お嬢ちゃんは祭りには行ったのか?」

「……はい」

「どうだった?」

「……まあ」

仙人はそれ以上、祭りについて聞くことはなかった。

「あの……」

そう言ってたまきはスケッチブックを仙人に差し出した。

「お嬢ちゃんの絵を見せてもらうのも久しぶりだ。どれどれ」

仙人はやさしくも真剣な目つきでスケッチブックをめくる。

「これはシブヤだなぁ」

「この前……、友達と一緒に行ったんです。帰った後で思い出しながら描いたんですけど……」

「なるほどなぁ。お前さんにはこういう風に見えとったかぁ……」

そういうと仙人はたまきにスケッチブックを返した。

「大冒険だったな。そんなに怖かったか」

たまきは仙人の言葉にドキッとした。

「怖かったというか……、その……、私はここにいてはいけないんだなって思って……」

たまきは視線を落として答えた。

「昔から……、どこ行ってもなじめなくて……」

「でも、いっしょにシブヤに行ってくれる友達はいるんだろう?」

たまきは地蔵のように動かなかった。

「……友達になれたのかなって思ってたけど……、二人とも私に似たところがあるのかなって思ってたけど……、でも二人とも、やっぱりあっち側の人で……」

「あっちっていうのはどこだい?」

仙人のハスキーな声が優しく尋ねる。

「……どこと言われても……」

あっちはあっちだ。

「お嬢ちゃん。順番が違うんだよ」

仙人は少し身を乗り出し、優しい口調でたまきに言った。

「友達だと思ってた人が実はあっち側の人だったんじゃない。わしはお嬢ちゃんの友達がどんな人かは知らんが、お嬢ちゃんの話を聞くかぎり、『あっち側』の人なんだろう。あっち側の人だったはずの子たちと、お嬢ちゃんは友達になれたんだ。あっち側だったはずの子にも、お嬢ちゃんに似たところがあったんだ」

「でも……二人は私のことをわかってくれません……。今日だって追い出されるような感じでここに来たし……」

「じゃあ、お嬢ちゃんはその友達二人のことをよくわかっているのかい?」

「それは……」

たまきは言葉に詰まった。

「お嬢ちゃん、ちがうから友達になるんだ。わからないから友達になるんだ」

雑木林は少し薄暗くなってきた。たまきは確認するようにあたりを見渡す。

「……ありがとうございます。少し……すっきりしました。……帰ります」

たまきは立ち上がろうとしたが、仙人はそれを制した。

「おお、ちょっと待て。久しぶりにきたんだ。もう少しゆっくりしていったらどうだ。そうだ、お菓子があるぞ」

そう言って仙人は柿ピーの袋を取り出した。

 

 

十月二十一日 同刻

 

「城」の玄関を開けて舞が入ってきた。

「おっす、やってるな」

「城」の中を見渡して舞が言う。舞が来たことを知ると亜美は作業をやめ、舞の元へと駆け寄った。

「お疲れっす。先生、あれ、持ってきてくれた?」

「ああ」

舞は手に提げた二つのビニール袋を見せた。それは、以前に亜美と志保がシブヤで買った本屋の包みと、それより二回り大きな包みだ。

「なんか悪かったっすね。買ったはいいけど、ここに置いとくわけにはいかなくて」

その言葉を聞いて、舞はきょとんとした目で亜美を見た。

「なんか、はじめてお前の口から、『遠慮』を聞いた気がする」

「エンリョ? ウチ今、『エンリョ』なんて言いましたっけ?」

「ああもういい。忘れろ」

そういうと舞は厨房へと向かった。厨房では志保が作業をしている。

「手伝おうか?」

「あ、お願いします」

そこに再びドアの開く音が聞こえた。

「お疲れっす!」

ミチがギターケースを担いで入ってきた。

「いやぁ、めっきり寒くなりましたね。うわぁ、だいぶ進んでるッすね。なんか手伝いましょうか?」

ミチはギターケースを下ろしながらそう言った。亜美はそんなミチの肩に手を置く。

「いや、ミチ、お前には重要な任務を任せたい」

「なんすか?」

亜美の改まった口調にミチも身構える。

「見張りで外に立ってろ」

「え……外……?」

ミチの脳内でさっき彼自身が言った「めっきり寒くなった」がリフレインを始めた。

 

 

十月二十一日 午後四時四十五分 曇り

 

やっぱり、自分はどこに行っても場違いだとたまきは改めて思う。

たまきの前には幾人かのホームレスがいて酒盛りを始めていた。何人かは見覚えもあるが、それでもどこかいたたまれないような気持ちがぬぐえない。

この公園にいてはいけないホームレスたち。彼らの中でさえ、たまきは場違いだった。

学校に行っても場違いで、家に引きこもっていても場違い。あの家にとって、たまきのようなおかしな子は場違いだったのだ。だからと言って家出をしてみても、やっぱりどこへ行っても場違いらしい。

どこへ行ってもなじめないのなら、死ぬしかないじゃないか。

しかし、死んでそれで終わりならいいけど、万が一死後の世界なんてものがあったらたまったもんじゃない。きっとあの世ですらたまきはなじめないのだろう。たまきみたいな手に負えない悪い子はきっと地獄に落ちるのだろうが、もしも天国に行けたとして、天国になじめないかもしれない。天国でたまき一人、地獄のような日々を送るのだ、きっと。

柿ピーをポリポリつまみながらそんなことを考えていると、隣に座わる仙人が優しく笑った。きっと、たまきがどうせまた暗いことを考えているなんて、見透かされているんだろう。

「お嬢ちゃんは、人より繊細なんだよ」

やっぱり見透かされているようだ。

「だから、普通の人が気にしないようなことを気にして、普通の人が怯えないようなことにおびえてしまう。それはとても息苦しいことだ」

自分が繊細なのかどうか、たまきは自分ではよくわからなかった。でも、仙人の言う「息苦しい」はわかる。

「私は……、『生まれてきてよかった』とか、『生きていてよかった』とか、思ったことありません」

三億個もの精子が卵子を目指し、受精できるのはたったの一個。人は生まれて来ただけで奇跡なのだという。

生まれて来ただけで奇跡だというのなら、たまきはきっと生まれて来ただけで運を使い果たしてしまったに違いない。

そんなたまきを見て仙人はまた優しく笑う。

「まあ、『とても幸せだ』なんて鈍感な奴の言うセリフだからな」

仙人の言葉に、たまきは訝しむように仙人を見る。

「世の中には見たくないもの、都合の悪いものもたくさんただよってる。お前さんみたいな子は繊細だから、そういうものに気付いてしまう。『毎日が楽しくて幸せだ』なんて笑顔で言える奴は、鈍感だからそういうマイナスなものに気付いていないだけさ。本物の幸せは、そういうマイナスなこともちゃんと肌で感じていて、それでも自分は幸せだって言えるときのことを言うのさ」

たまきはよくわからない、といった顔で仙人を見る。

「例えば、お嬢ちゃんの年じゃまだ縁がないだろうが、覚醒剤とかに手を出す奴がいるだろう」

友達がそうです、とはたまきは言えなかった。

「ああいった薬は繊細な人間が鈍感になるのにはもってこいだ。余計なことは忘れて快楽を得られるからな。もっとも、あとあとやってくるマイナスがおぞましいわけだが」

仙人はたまきのメガネの奥の瞳をじっと見据える。

「お前さんもそのうち、そういう幸せではなく、ちゃんとした幸せを感じれる時が来るさ。生まれてよかったとは思えないけど、それでも自分は幸せだってな。それは、マイナスなことに目をつむって感じる薬のような幸せじゃない。マイナスをちゃんと肌で感じて、そのうえで幸せを感じとるんだ。自分にはこんなマイナスがある。でもこんなプラスもあるから幸せだってな。お前さんなら大丈夫。あんなにいい絵が描けるんだから」

気づけば、もう太陽はビルの向こうに沈んでいた。

「さあ、そろそろ暗くなる。おうちへおかえり」

 

 

十月二十一日 午後五時 曇り

写真はイメージです

信号が青になった。たまきは大通りを渡り、歓楽街に入っていく。たまきの後ろでトラックのけたたましい音が聞こえる。

「そのうち幸せと思える」なんて、仙人も案外とあいまいなことをいうものだ。たまきはそう感じていた。大人が言う「そのうち」や「いつか」なんてやってきたためしがない。

とぼとぼと歩きながら太田ビルが見えてきた。たまきはふと上を見上げる。

太田ビルの階段から見慣れた顔が見えていることに気付いた。ミチだ。まあ、二階のラーメン屋でアルバイトをしているのだから、いても不思議ではない。

たまきは太田ビルの階段を上る。五階まで昇るのはしんどいのだが、この運動が無かったらたまきみたいな子はいよいよ不健康になるのだろう。

ふと、たまきはあることに気付いた。ミチがいたのは二階のラーメン屋ではなく、もっと上の階だった気がする。まあ、どうでもいいことだ。

5階まで登り切り、たまきは「城」のドアをコンコンとノックすると中に入った。

中は真っ暗だった。ただでさえ日当たりが悪いうえ窓は厨房にしかなく、もうこの時間帯は電気を消せば「城」の中は真っ暗だ。

でも、どうして真っ暗なんだろう。今まで、「城」に戻ってきたら誰もいなかったなんてことは一度もなかった。そもそも、たまきは鍵を持っていないのだから、誰かいないと「城」に入れないし、亜美と志保が開けっ放しにして「城」を離れたことも一度もなかった。

たまきはとりあえず靴を脱いだ。頭の中にこの前見た忠犬ハチ公の銅像を思い出して不安になる。

足元を触ると自分のもの以外の靴があることがわかった。誰かがここで靴を脱いで中にいることは間違いない。もしかしたら、また泥棒が入ったのかも。

たまきは不安で胸が締め付けられていた。強盗に襲われるのが怖いのではない。何が起きているのかがわからないのが怖いのだ。たまきは不安げにか細い声を出す。

「亜美さん……? 志保さん……?」

とりあえず、電気をつけよう。そう思ってスイッチを探そうとしたたまきの目に、オレンジの明かりが映った。

暗闇の中で煌々と輝き、はかなげに揺れ、それでもひときわ明るく輝いている。それが何かが燃えている様だと気付いた時、たまきは反射的に火事だと思った。刹那、仙人の言葉が脳内再生される。

「居場所というのはそういうものだ。大切に築き上げたものが、ある日ぷっつりと消えてなくなる」

自分が焼け死ぬことよりも、この「城」という場所がなくなることの方がたまきには恐ろしいことのように思えた。

ふと、冷静になり、見えている炎が思ったより大きくないということに気付いた時、急に視界が明るくなった。そして何かの破裂音と火薬の匂い。

ああ、いよいよもって死ねるのか。

「ワン、ツー、スリー、フォー!」

たまきの死への渇望をかき消すかのように、アコースティックギターの音に乗せてミチによく似た男の明るい声が聞こえた。

「はっぴばーすでーとぅーゆー♪」

ギターの伴奏に合わせて何人かの歌声が聞こえる。ほとんどが女性のようだが、さっきのミチのような少年の声も聞こえる。それにしても、この歌、なんの歌だっけ。

「ハッピバースデートゥーユー♪」

ほとんど同じフレーズを繰り返す。たまきはこの歌が、誰かの誕生日を祝うために世界中で歌われている歌であることに気付いた。とはいえ、歌ったことも、生で誰かが歌うのを聞いたこともないので、気づくのが遅れてしまった。気づくのが遅いと言えば、火事だと思っていたのはろうそくの炎で、それがケーキに刺さったろうそくだということにも気づいた。明るい中で改めてみると、普通に安全なろうそくの火だ。

どうやら、今日は誰かの誕生日らしい。誕生日を祝ってもらえるなんて、何ともうらやましい限りだ。

「ハッピバースデーディアたまきちゃ~ん♪」

唐突に自分の名前が出てきてたまきはパニックになった。

え? わたし? なんで? だって、私の誕生日は十月のにじゅういち……、

あれ?

「ハッピバースデートゥーユー♪」

ミチがギターをじゃかじゃかとかき鳴らす。たまきは部屋の中を見渡した。ギターを弾くミチ、ケーキの両脇には亜美と志保がいて、みんな笑顔で歌っている。少し離れたところには舞もいて、軽く口ずさむという感じだが、顔には笑みがこぼれている。

「たまきちゃん、お誕生日、おめでと―!!」

パン! という破裂音とともに紙テープが宙を舞った。再び、火薬のにおいが鼻につく。どうやら、さっき聞いた破裂音とにおいもこのクラッカーだったらしい。

たまきは、空が落っこちてきたかのような戸惑った顔をして、不安げに口を開いた。

「今日って、二十一日ですか?」

「そうだよ」

志保が答える。

「十月の?」

「ずっと十月だったぜ」

亜美がそう言って笑う。

「誕生日でしょ、今日?」

「……はい」

たまきは戸惑っているのが恥ずかしそうにうつむきながら答えた。

十月二十一日。それはたまきにとって最大の黒歴史、つまり何を間違えたのかこの世に生まれ落ちてしまったことを記念する日である。

「な、なんで私の誕生日知ってるんですか?」

「亜美ちゃんの誕生日の時、たまきちゃんの誕生日いつなのか聞いたじゃない」

志保が笑いながら答える。

「覚えてくれてたんですか?」

「あの後すぐ手帳にメモったよ」

志保の言葉に、たまきは心臓がひときわ高鳴るのを感じた。

「お前、いつも通り元気ねぇんだもん。ほんとに今日、誕生日なのかと疑ったよ」

「亜美ちゃん、三回ぐらい疑ってたよね。ほんとに今日なのかって」

そんな話を聞きながら、たまきの頭の中にいつかの仙人の言葉がよみがえる。

「誕生日を祝うということは、生まれてくれてありがとう、出会ってくれてありがとうというメッセージを伝える、ということだ」

ふと、ケーキに目をやると、まだろうそくの火がゆらゆらと燃えている。

「ほら、たまき、お前が吹き消すんだぞ」

亜美が笑いながらたまきの背中をそっと押した。たまきはケーキの前に立つと、少し腰を落として、炎に息を吹きかけた。ふうふうと吹きかけるのだが、16本のろうそくのうち3本の火が消えただけで、あとはたまきの息にゆらりと揺れるだけ。肺活量が足らないらしく、いくら吹きかけても消えやしない。

すると急に亜美が横から顔を出し、一息で10本近く消してしまった。

「あー!」

そう言って声を上げたのは志保だった。

「なんで亜美ちゃんが消しちゃうの!? これ、たまきちゃんのバースデーケーキだよ?」

「こいつにやらせてたらいつまでたってもきえねぇだろ」

「もう……」

そういうと志保は腰をかがめ、残ったろうそくの炎を吹き消した。

「あ……」

今度はたまきが声を上げた。

「お前だって消しちゃったじゃないか」

亜美がそういうと、志保が悪戯っぽく笑った。

ふと、たまきの隣にミチが来る。

「本当はさ、仙人のおっさんも呼ぼうと思ってたんだけどさ」

「仙人て、たまきが言ってたホームレスのおっさんだっけ?」

亜美の言葉にミチがそうそうとうなづく。

「でも、おっさん、『わしのようなフンコロガシが行ったら、お嬢ちゃんの誕生パーティが汚れてしまう』ってどうしても行かないっつって」

ミチは少し低くハスキーな感じで仙人の声を真似した。たいして似てなかったが、真似しようとしていることだけは何となくわかった。

「だから来る代わりに準備ができるまで、たまきちゃんを足止めしてくれるように頼んだんだ」

「じゃあ、今日、遊んでくるように言ったのは……」

「バカ、お前がここにいたら、サプライズパーティの準備ができないだろ?」

たまきは改めて部屋を見渡す。色とりどりの折り紙で飾り付けをしてある。

仙人は今日、たまきが誕生日であることも、誕生日パーティがあることも知っていたのだ。「そのうち幸せと思える」の「そのうち」がすぐ来ることを知っていたのだ。

「じつは、たまきちゃんにプレゼントがありま~す」

志保がそういうと、舞が衣裳部屋から何かの包みを二つ持ってきた。一つは本屋の包み。もう一つはそれより二回り大きな包み。

「みんなでお金出しあったんだよ」

志保が笑顔で言ったが、

「おい、あたしが半分出して、お前ら三人で残り半分だからな」

と舞が付け足した。

「どっち先に渡す?」

「たまきに決めさせようぜ。たまき、どっちがいい?」

舞の問いかけに、たまきは大きい方の包みを指さした。いったい何が入っているのだろうか。

志保から大きい方の包みを手渡される。

「開けてみて」

がさがさと音を立てて、たまきは包みを開けた。

中には布製品が入っていた。灰色の布でできたそれは、リュックサックだった。全体的に洋服を作るのに使いそうな布でできていて、ふにゃっとしている。

たまきは試しに背負ってみた。軽い。

「いつもカバンからスケッチブックが飛び出たまんま外に出てただろ? これなら、スケッチブックも入るぞ」

「……ありがとうございます」

プレゼントそのものよりも、ちゃんと自分のことを見ていてくれていたことの方に、たまきは吐息が熱くなるのを感じた。

「もう一個の方も開けてみて」

志保が本屋の包みを渡す。がさがさと音を立てながら、たまきは中身を取り出した。

案の定、本である。表紙に男の顔が描かれている。油絵だ。

空色の背景に髭の生えた西洋人の男が描かれている。絵筆の後がはっきりとわかる独特のタッチだが、荒々しい画風とは裏腹に、繊細に描かれた男の顔は彼の人間性を深く醸し出している。

その本は「ゴッホコレクション」と題されていた。雑誌ていどの厚さの本で、ぱらぱらとめくるとひまわりの絵だったり、夜景の絵だったり、ゴッホの絵が何枚も収録されていた。

これがゴッホなんだ、とたまきは魅入られたかのようにページをめくる。

「たまきちゃん、絵が好きだし興味あるかな~、と思って」

志保が悪戯っぽく微笑む。

「あ、ありがとうございます」

たまきは一通りページをめくり終えると、4人の方に向いて頭を下げた。そのままうつむきがちにぽつりとしゃべり始める。

「私、生まれてきてよかったとか、生きててよかったとか思ったことないんです。でも、こんな風に祝ってもらえて……」

たまきははっきりと顔を挙げた。

「私、死なないで……よかったです」

たまきの言葉に亜美は明るく笑い、志保はやさしく笑った。

「よかった、喜んでもらえて」

「じゃ、ケーキ食う前に記念写真撮るぞ」

舞がカメラを手にそう言った。

「たまき、お前、今日はちゃんと映れよ。メガネ星人はなしだぜ」

亜美がたまきの肩をバンバンと叩きながら言った。

「今日は……たぶん大丈夫です」

「なんすか、メガネ怪人って?」

ミチが横から口を出す。

ケーキを持って立ったたまきの後ろに、亜美と志保が立つ。たまきの右斜め後ろに志保、左斜め後ろに亜美。志保の隣には舞が立ち、亜美の隣にはミチが立つ。5人は舞が持ってきた三脚の上のカメラを見つめる。

カメラのライトが点滅し、フラッシュが光った。舞はカメラを確認する。

「見てみるか?」

立ち上げたノートパソコンに舞はカメラを繋いだ。写真が画面いっぱいに拡大される。

「たまきちゃん、いい笑顔してるじゃない」

志保が声をあげると、たまきは顔を赤らめた。

「いやぁ、まだ堅いって」

「えー、この前よりいい笑顔じゃん」

「まあ、メガネ星人よりはましだけどさ」

たまきも画面を覗き込む。

……こんな表情、私もできたんだ。

「よし、手作りケーキ食おうぜ! 志保、ケーキ切り分けてよ」

亜美が勢いよく言った。

「えっ! これ、手作りなんですか?」

たまきが驚いたようにケーキを見て、そのあと厨房を見る。いくら何でも、ケーキを焼くような設備なんてあったっけ?

「手作りと言っても、買ってきたスポンジに生クリームぬって、フルーツ乗せただけだよ」

志保が笑いながら傍らのナイフを手に、ケーキを切り分け始める。

「来年はもっと派手にやろうぜ」

亜美が馬鹿みたいに明るく言う。

「ほら、レストランとか言ってさ、よくあるじゃん。お店が急に暗くなって、ケーキが運ばれて、お店みんなで祝うやつ。あれやろうぜ」

「……やめてください。はずかしいです。そうなったら私、逃げます」

たまきが少し目線を落としていった。

 

 

十月二十一日 午後七時 晴れ

バイトがあるから、とミチが「城」を出た。なんだか宴に一区切りがついたかのような雰囲気だ。

ケーキはすっかり平らげられ、テーブルの上には下のコンビニで買ったお菓子やお総菜、ジュースの缶が置かれている。

志保は使い終わった道具を洗い始め、亜美はソファの上にごろごろ転がりながら携帯電話を見ている。洗い物の音を聞きながら、たまきはぼうっとしていた。

私の人生にも、こんなこと、起きるんだな……。

お皿に付いた生クリームを人差し指ですくってぺろりとなめる。舌先に広がる甘い風味の余韻を味わうように息を吸う。

ふと、舞がたまきのすぐ横に腰を下ろした。

「いくつになったんだ、お前」

「……十六です」

「女子の十六つったら、もう結婚できる年だぞ」

「……相手がいません」

たまきが少し笑みを見せる。

「どうだった、今日は」

「たのしかったし……、うれしかったです」

たまきは、そういうと皿に残った生クリームの跡を眺めた。

「そこにパソコンがあるぞ。ネットにつながってる」

舞はテーブルの上のパソコンを指さした。

「ネットに書き込むか? 私はリア充ですって」

「言いません、だれにも」

たまきはやさしく微笑みながら、首を横に振った。

「誰かに言ったら、幸せが逃げちゃう気がするから」

「そうか」

舞は終始笑顔だ。

「でもさ、お前の家族には言ってもいいんじゃないか?」

「え?」

たまきは舞の目を見た。

「まだ、一度も連絡してないんだろ? 心配してるぞ。生きてるってことぐらい教えてやれ」

「……私なんかいなくなったって、どうせ心配なんかしてないです」

「だったら、見せつけてやれよ。あんたらのいないところでそれなりに楽しくやってるって」

たまきはゆっくりと立ち上がると、黒いニット帽をかぶり、もらったばかりのリュックを背負った。さっき、中に財布を入れたばかりだ。

たまきは立ち上がると、玄関のドアを開けた。吊るされたネームプレートが静かに揺れる。

 

十月二十一日 午後七時十分 月夜

写真はイメージです

いつの間にか雲は晴れ、お月様が顔を出している。

夜の歓楽街は多くの人が闊歩している。サラリーマン、学生らしき若者のグループ、客引きなどなど。闇の中でネオンサインが煌々と輝き、むしろ夜の方がきらびやかに感じる。その中を縫うようにたまきはとことこと歩いていく。背中に背負ったグレーのリュックがたまきの歩調に合わせて揺れている。

コンビニの前でたまきは足を止めた。

今どき珍しい、緑の公衆電話がある。誰もが携帯電話を持って当たり前の時代になっても、相変わらずそこにあり続ける。

公衆電話を必要とする人なんて、公衆電話に目を向ける人なんてほとんどいないだろう。

それでも、必要としてくれるほんのわずかな誰かのために、公衆電話はずっとそこにいる。

たまきは受話器を持って十円を入れると、自宅の電話番号を押した。

ぴぴぽ、ぴぽぱぽ。

呼び出し音が鳴るたびに、心臓が少しずつ締め付けられていく。

おそらく、父親はまだ会社のはずだ。高校生の姉も部活でいないだろう。出るとすれば母親だが、最近、お爺ちゃんの介護でたびたび家を空けることがあったから、いないかもしれない。

『ただいま留守にしております。ピーとなったら、ご用件をお願いします』

自宅の留守電音声なんて初めて聞いた。たまきは安堵で胸をなでおろすと、秋空の吐息と一緒にか細い声でしゃべり始めた。

「……私です」

なんだか、オレオレ詐欺みたいな喋り出しになってしまった。

「……とりあえず、生きてます。……十六才になりました。友達に……、祝ってもらいました」

十円で話せる時間には限りがある。たまきは何を言おうかと言葉を詰まらせ、だいぶ時間を使ってしまった。

「まだ……帰らないから」

ぷーっと音が鳴り、通話時間が終わった。

受話器を握りしめたまま、たまきは通りに目をやる。

たまきより少し上の世代の人たちのグループが談笑しながら歩いていく。男女入り乱れ、おしゃれに身を包み、明るく、笑顔で。

笑い声がたまきの耳の奥に響く。

たぶん、たまきは、ああいう風にはなれない。

誕生日を祝ってくれた人が仙人を含めて5人。きっと、ああいう人たちから見れば笑ってしまうくらい少ない数なのだろう。

たまきは友達が少ない。

でも、友達に恵まれている。今、たまきはそう強く感じていた。

それって、もしかしたら幸せなことなのかもしれない。

たまきは公衆電話の受話器をそっと元に戻した。

みんなに必要とされなくなっても、それでも必要としてくれるごくわずかな誰かのために、公衆電話は今日もそこにある。

つづく


次回 第17話「ガトーショコラのち遺影」

たまきの誕生日の写真が破かれるという事件が発生する! こんなひどいことをする犯人はいったい誰だ! まあ、だいたいわかる気もするけど。

犯人はこいつだ!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第15話「クラゲときどきハチ公、ところによりネズミ」

シブヤを訪れた亜美、志保、たまきの三人。ショップ、プリクラ、ハチ公、ランチ、カラオケとめぐるが、たまきはどうしてもシブヤの町になじむことができない。いや、そもそもたまきはこの世界になじむことができない、場違いな存在なのか。そんなことを考えてしまうお話です。

「あしなれ」シブヤ編、どうぞ!


小説 あしたてんきになぁれ 第14話「朝もや、ところにより嘘」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです。

「あ~、かわいい~!」

試着室のカーテンを開けたたまきを見るなり、志保が1オクターブ高い声で叫んだ。この「かわいい」は前にも聞いたことがある。たまきの姉が水族館のクラゲの水槽の前で言っていた「かわいい~」と同じだ。

さながら、たまきもクラゲみたいなものなのだろう。水族館で見るクラゲはさも美しい生き物かのように飾られているが、自然界のクラゲはそこにいるのかいないのかよくわからないくらいぼんやりしていて、何の目的もなさそうにふよふよと漂っている。おまけに無表情だ。それでいて毒針を持っているというのだからタチが悪い。

たまきはカバンの中に入っているカッターナイフを思い出した。クラゲでいうところの毒針に相当するそれは、いつでも速やかにこの世からログアウトするためのたまきのお守りだ。

シブヤへ買い物に行こう、と言い出したのは志保だった。もう1年近く「城(キャッスル)」で暮らす亜美と違い、死ぬつもりで家を出てきたたまきと、トイレで倒れていたのを発見されてそのまま「城」へ転がり込んだ志保には冬服がなかったのだ。亜美はシンジュクで買えばいいと言ったが、志保はどうしてもシブヤがいいと言って譲らなかった。たまきはシンジュクもシブヤも一緒じゃないかと二人の言い争い?を冷めた目で見ていた。

 

シブヤの中でも大通り沿いの象徴的なビルに三人は入った。志保曰く、このビルにはたくさんの「ショップ」が入っているらしい。「お店」ではなく「ショップ」。

館内の中ほどをエスカレーターが貫き、その周りを洋服を売る店ばかりが囲んでいる。冬を前にしてか落ち着いた色の服が多い。鼓膜を打つのは流行っているらしいJ-POP。たまきとしては文房具屋とかのほうが落ち着くのだが、そういったたぐいのものはとんと見当たらない。みんな、そんなに服が欲しいのか。

このビルにとって、たまきは明らかに場違いだ。雪国に夏服で来てしまった、そんな居心地の悪さだ。ビルに入る瞬間は緊張をおぼえた。たまきみたいなおしゃれじゃない子は、屈強でおしゃれなガードマンに「お客様、ちょっと……」と言われて、ビルの外へつまみ出されてしまうのではないだろうか。

志保はお気に入りの店、じゃなかった、ショップがあるらしく、そこへ行くとじっくり30分かけて、自分の冬服を選んだ。顔と体型は変わらないのだからどれを着てもおんなじじゃないかとたまきは思うが、志保には決して同じなんかではないらしく、クリーム色とカーキ色のカーディガンをそれぞれの手にもち、悩んでいた。亜美も服を何着か買い、3人でおそろいのパジャマを買った。

残るはたまきの冬服である。たまきは服にこだわりなどなく、なんなら人に見られたくないと思っている。適当なものを買って終わらせたかったのだが、志保が

「あたしがたまきちゃんの服をコーデしてあげる♡」

と余計なおせっかいを発揮して、現在に至る。

数あるショップのうちの一つにたまきを連れ込むと、ハンガーにぶら下がった色とりどりのセーターを次々と手にとっては、たまきの体に重ねていく。

「ちがうな~」

などと首を傾げてはいるが、なんとも楽しそうだ。きっと、クラゲをライトアップして楽しむ女性というのはこんな感じなんだろう。

最終的に、セーターとベレー帽を手渡されて、たまきは試着室に放り込まれた。

志保に渡されたセーターとベレー帽を身に付けて出てきたところでの志保の「あ~、かわいい~!」である。

たまきは志保の絶叫を聞くとすぐさま試着室のカーテンを閉めて、神話の中の天照大御神のごとく試着室の中へと姿を隠したが、せっかく閉めたカーテンを志保が素早く開けてしまった。

「ほら、くるっと回ってみて」

言われるままにたまきは無表情で、少し辟易しているように見えるかもしれないが、その場でくるりと回った。再び志保が

「ほら~、かわいい~!」

ともだえる。

「やっぱり、たまきちゃんは小柄であどけないから、体のラインが出ないモコモコした服が似合うと思ったんだぁ」

と志保は何ともうっとりした感じでたまきを眺めている。

「でね、たまきちゃんって、暗い色の服ばっかりいつも着てるでしょ。ここは少しイメージを変えてみようと、オレンジを基調にしてみたの」

たまきは振り返ると、改めて鏡で自分を見た。

セーターはオレンジと白の太いスプライト。ベレー帽もオレンジの毛糸で編まれている。

これじゃまるでクマノミだ。

「ちょっとさ、オレンジ、きつすぎない?」

少し後ろで見ていた亜美が口を出す。

「わかってるよ。だからさ、アウターとかでそこを押さえていくんだよ」

志保はロダンの「考える人」みたいなポーズを取りながら答えた。

たまきはもともと来ていた黒っぽい服に着替えると試着室から出てきた。すると今度は亜美がたまきの手を掴んだ。

「ウチに貸してみ。ウチがコーデしてやるよ」

「え……」

たまきは拒否反応を示したが、亜美はたまきの手を引っ張って別のショップへと連れて行った。志保と同じようにハンガーにかかった服をたまきの体に合わせていく。志保同様楽しそうだが、どちらかというと悪だくみをしているような笑顔だ。

十月に入って気温も下がり、亜美の露出もだいぶ減ったが、それでもたまきならば絶対に着ないような服ばかりだ。不安でたまきの額に汗がにじむ。

「よし、これなんてどうだ」

亜美はたまきにジャケットとシャツを渡した。

たまきは不安げに亜美を見たが、亜美はたまきをくるりと回して試着室の方に向かせると、どんと背中を押して試着室に押し込み、何か言いたげなたまきを無視してその扉を閉めた。

二分ほどして出てきたたまきは、血のように真っ赤なシャツに黒いジャケットを羽織っていた。シャツはたまきの体にぴたりとまとわりつき、凹凸をはっきりさせている。ジャケットにはジャラジャラとシルバーの鎖がついている。

なんだかマグロの切り身みたい。鏡に映った自分を見ながらたまきはそう思った。

「え~、たまきちゃんの良さ、残ってないじゃん」

志保は明らかに不満げだ。

「何言ってんだよ。これくらいのイメチェンしないと、こいつはいつまでもうじうじしたままだって」

「ちがうよ。もっと、たまきちゃんの良さを生かしたうえで、イメチェンしてくんだよ。これじゃ、丸っきり亜美ちゃんじゃん。ほら、料理する時も、素材の味を生かさなきゃダメでしょ?」

「ウチ、料理しないもん」

言い争う二人に割って入るようにたまきはおずおずと口を開いた。

「あの……、やっぱり私、こういうのは似合わないかなって……」

たまきの言葉に亜美はじっとたまきを見ていたが、

「やっぱ、メガネがよくないな」

というとたまきにすっと近づき、さっとメガネをはずしてしまった。

「あっ……」

視界が一気にぼやけるとともに、街中に全裸で放り出されたかのような感覚に陥る。もちろん、そんな経験などないのだが。

メガネを取り返そうにも、亜美がどこにいるかわからない。なにしろ、そこかしこに亜美みたいな服が並んでいるのだ。

だが、志保が亜美からメガネを奪い取ると、たまきの目にそっと戻した。

「だーめ。たまきちゃんはメガネが似合うんだから、かけてた方がいいって」

たまきはメガネに指を添えて、ズレを直す。逃げ込むようにたまきは試着室へと入った。

「だいたい、亜美ちゃんは自分の趣味を押し付けすぎなんだよ。これじゃあ、まるでたまきちゃんじゃなくて亜美ちゃんだもん。プチ亜美ちゃん」

「なんだよ、そのプチトマトみたいな言い方は」

「あのシャツの赤は、趣味の悪いプチトマトみたいだったけど」

「お前の方こそ、オレンジにタルタルソースかけたみたいだったじゃねーか」

二人が言い争う中、元のほぼ黒一色の服に身をまとったたまきが出てきた。若干よろけながら店、ではなくショップの外へ出て行く姿は、食卓の上を転がる黒豆のようだ。

「たまき、お前はどういうのがいいんだよ」

「私は……」

たまきは不安げにあたりを見渡すと、目に入ったショップに駆け込んだ。そこで売られていた黒いニット帽を手に取り、

「……こういうのがいいです」

と少し自信なさげに言った。

「お前、また黒かよ」

亜美が少し呆れ気味に言った。

 

写真はイメージです

結局、黒い色の多いいつものコーディネートをたまきは購入し、三人はビルを出た。たまきの頭にはかったばかりの黒いニット帽が耳まですっぽりとかぶさっている。

ビルの外を色とりどりの服を着た人がたくさん歩いている。秋が深まるにつれて服の色は暖色が増えてくる。街行く人は、シンジュクよりも若い人が多い印象だ。

三人は細い路地を歩いている。たまきは二人の背中を追うように、とぼとぼとついていく。

大通りに出て通り沿いに歩くと、白いきれいなビルがある。そのビルの一階を指さして志保が言った。

「せっかくだからさ、あそこでプリクラ撮ってかない?」

「お、いいね~。いこうぜ」

「え……」

またしてもたまきは何か言いたげだったが、亜美に強く腕を引っ張られて、言葉を飲み込んでしまった。

 

プリクラ専門店と銘打ったその店は、白とピンクがほとんどの色を占めていて、秋口だというのにここだけ春のままのようだ。専門店というだけあって、たくさんのプリクラを撮る機械で占められている。

とはいえ機械そのものが見えているわけではなく、機械全体を大きな垂れ幕が覆っていて、どの垂れ幕にもモデルらしき茶髪の美女の写真が描かれている。

さながら無数の巨大な顔が立ち並んでいる状況だ。二次元のはずのそれから目線を感じ、たまきは下を向かずにはいられない。

「おい、コスプレ用の衣装なんてのもあるぜ」

亜美が指さしたが、たまきは反射的に反対方向を向いた。さっきのようにまた着せ替え人形みたいにされたらたまったもんじゃない。

一方、志保は真剣な顔をして、機械を見比べていた。たまきから見るとどれも一緒のような気がするが、何か違いがあるのかもしれない。

「これにしようよ。いろいろ盛れるみたいだよ?」

……何が漏れるのだろう。そんなたまきの疑問を置き去りに、志保と亜美は垂れ幕の向こう側へと入っていく。たまきは少しそこに立ち尽くしていたが、不意に垂れ幕の向こうから細い志保の腕がすっと出てきて、たまきの手首をつかんだ。

「ほら、たまきちゃんも入って」

言われるがままにたまきも垂れ幕の向こうへと入る。

垂れ幕の向こうはまるで宇宙船のコックピットのようだ。

正面にはモニターがあり、その上にカメラのレンズなのだろうか、穴のようなものがある。何となく、たまきは写真館みたいに古いカメラが置いてあるのをイメージしていたため、自分の世間知らずさに少し恥ずかしくなった。

「亜美ちゃん、なんかこうしたい、とかある?」

「プリクラなんて中学以来だもん。ウチがやってた頃よりも、いろいろバージョンアップしてるんじゃねぇの? わかんないよ。志保に任せる」

「オッケー」

志保はモニターをいじっている。

「目元とか盛っとこうか。胸は……盛れないか」

志保が冗談なのかわりと本音なのかよくわからないことを言う。

「立ち位置とかどうしようか」

志保の後ろから亜美が声をかける。

「たまきちゃんが真ん中がいいんじゃない?」

「え?」

志保の提案にたまきが戸惑いの声を上げた。

「な、なんで私が真ん中に……」

「いや、身長的に、その方がバランスとれるかなぁって」

確かに、亜美と志保の身長はほとんど変わらず、一方でたまきは二人よりちょっと小さい。

『レンズの中央を見てください』

モニターがそうしゃべった。

「ほら、たまきちゃん、真ん中」

志保はたまきの右側に立つと、たまきの両肩を掴んでレンズの正面に立たせた。その左側には亜美が立つ。

『5秒前』

たまきは不安そうに志保を見ていたが、

「ほおらぁ、たまきちゃん、前」

と志保は今度はたまきの両頬を手で挟んで、前を向かせた。

もはや逃げ場はない。さながら、まな板の上の鯉だ。いや、まな板の上のクラゲ。

『3・2・1』

パシャッという音が聞こえる少し前にたまきはニット帽を思い切り下に引っ張った。

 

亜美は仕上がったプリクラを見て爆笑していた。

写真の両脇に亜美と志保がたっている。それぞれ目元はいつもより大きく、瞳はやけに光を反射している。色もやけに白っぽく、どこかマネキンのような質感だ。それぞれ、志保の字で「あみ」「しほ」と名前が書かれている。

その真ん中にたまきが移っている。いや、かろうじて「たまき」と名前が書いてあるからたまきだとわかるだけで、顔はほとんど映っていない。口元を残して上は黒いニット帽にすっぽりと覆われている。

その際、ニット帽かたまきの手がメガネに当たり、ずり落ちた。たまきの記憶では、あごにメガネがふれた、そんな感覚が残っている。しかし、つるがニット帽に挟まれていたため、完全に落ちることはなく、そこで静止していた。それが、カウントダウンの「1」という声が聞こえたタイミングだった。

そして、たまきは反射的にメガネを手に取り、かけ直した。間違えてニット帽の上から。あ、っと思ったタイミングでパシャリと音がした。

その結果、黒いニット帽で顔をすっぽりと覆い、その上に黒縁メガネをかけているというシュールな写真ができあがった。

しかも、メガネがプリクラのフラッシュを反射してしまい、そこだけ白く光っている。口は映っているので、顔に見えないこともない。むしろ、別の何かの顔に見える。

亜美は「メガネ星人捕獲!」とタイトルをつけてゲラゲラ笑っていた。

「たまきちゃん、プリクラ、嫌だった?」

志保は少し腰を落として、たまきと同じ目線になるようにして言った。

「写真は……苦手です」

「どうして?」

「……上手く笑えないし……」

「そっか……」

志保はなにか悪いことをしてしまったかのような顔をした。そんな顔をされると、こっちこそ何か悪いことをしたような気分になる。

 

写真はイメージです

「よし、ここでいったん、解散しようぜ」

店を出て少し歩き、渋谷の街のメインストリートに出たときに、亜美がそう言った。

「かいさん?」

亜美の言葉にたまきが首をかしげる。

「それぞれ、買いたいものとかあんだろ。昼飯にはまだ早いし、ここでいったん解散しようぜ」

「集合場所はハチ公でいいよね。何時に集合する?」

志保は腕時計を見ながら言った。現在、十時半だ。

「十一時半にハチ公集合。それじゃ」

そういうと、亜美と志保はもう既に行く店が決まっているかのように歩き出した。

たまきが一人、ぽつんと取り残された。いや、あたりは人だらけで、ぽつんと一人だけそこに残っているわけではないのだが、立ち止まっていると自分だけ時間が止まってしまったかのようだ。

さっきまで亜美と志保と一緒だったのに、急に一人になってしまった。自分だけ白黒になってしまったようで、なんだか心にぽっかり穴が開いたようだ。

たまきは行く当てもなく、仕方なく駅の方へと向かってとぼとぼと歩きだした。

1,2分もしないうちに大きな交差点へとたどり着く。タイヤと地面の擦れる音が地響きのようだ。

ふと、周りの人たちを見渡す。

恋人同士、数人のともだちグループ、小さい子を連れた家族連れ。みんな誰かと一緒にいる。一人ぼっちの人を見つけたかと思えば、携帯電話で誰かと電話していた。

東京のど真ん中の、いちばん人が集まる交差点で、たまきだけ、一人ぼっち。

ちがうの。今日は友達ときたの。私は一人ぼっちなんじゃないの。たまきは交差点に向かってそう叫びたくなった。

数日前の舞の言葉を思い出す。

「だってさみしかったんだもんよ」

信号が青になり、たまきはスクランブル交差点を渡る。交差点の向こうには女優さんが写った看板や、アイドルの歌を世伝する看板があり、実にカラフルだ。

目の前に人の影が迫ってきたり、横切ったり、背後から急に出てきたり。それらにいちいち怯えながらも、たまきは交差点を渡る。

ふと、たまきは「ガリバー旅行記」を思い出していた。漂流していたガリバーが目覚めると小人の国に流れ着いて、地面に固定されていた、というのは有名な話である。そんなガリバーが次に訪れた国は確か、巨人の国だった。

交差点を渡りきっても、そこはたまきにとってはまだまだ巨人の国だった。「場違い」、そんな言葉が頭から離れない。まるで町全体に拒絶されているかのようだ。

こんな思いは学校に通っていた時からずっとだった気がするし、家に引きこもっていた時も感じていた気がする。つい最近、お祭りに行ったときにも強く感じた。

要するに、生まれてからずっと、たまきは場違いなのだ。

たまきみたいな人間が生まれてきたこと自体がこの世界にとって場違いなのだ。どうして自分なんか生まれてきたんだろう。

ふと、たまきの左目に交番が映った。いつもは前髪で隠している左目だが、ニット帽をかぶっているときは不思議と出していても平気だ。

制服のお巡りさんが立っているのが映って、たまきは足早にそこから遠のく。小柄なたまきは中学生に間違えられることもある。そうでなくても家出中の身。声をかけられたら面倒だ。

やっぱり、たまきのような存在は、この町にとって、この社会にとって場違いなのだ。

 

写真はハチ公です

騒々しい人の声と音楽の間を縫って進むと、たまきの目の前に、犬のような形をした銅が現れた。台座には「忠犬ハチ公」と彫られている。

銅像は台座を含めるとたまきの身長より高く、犬はまっすぐ正面を向いていたが、なんだか不思議とたまきは銅像と目があったような気がした。

「さみしいよ……」

誰に聞こえるでもないボリュームで、たまきはそうつぶやいた。

頭の中で舞の言葉が響く。

「もう、我慢するしかないんよ。さみしいまんま生きていくしかないんよ」

なんだか、ハチ公がそう言っているような気がした。

ハチ公の物語はなんとなくしか知らない。昔、この場所で飼い主を犬が待っていたが、飼い主は病気か何かで死んでしまって帰ってこず、犬は死ぬまでその場で待ち続けた、そんな話だったような気がする。

「忠犬」の泣ける物語として語り継がれているが、そうじゃないような気もする。

この犬はきっと、さみしかったんじゃないだろうか。一人ぼっちがさみしいから、飼い主が帰ってくるのをずっと待っていた。たとえその飼い主のことを、そこまで好きじゃなかったとしても。犬にとって場違いな人間の世界で、飼い主しか居場所がないのだから。

たまきはもう一度銅像を見上げた。やっぱり、目が合ったような気がする。

銅像の周りはベンチのように鉄の棒が半円を描いている。たまきはそこに腰かけた。

もしもこのまま亜美も志保も来なかったら、そんなはずはないのだが、ついついそんなことを考える。

それでもきっと、たまきはここで待ち続けてるのだろう。誰かがこっちにおいでと言っても、待ち続けてるのだろう。だって、知らない人は怖いから。

そうして死んで行ったら、「忠犬たま公」とでも呼ばれて銅像でも建てられるのだろうか。「たま公」なんて、どちらかというとネコみたいな名前だ。でも、銅像が作られてじろじろ見られるのは嫌だな。

 

空が落ちてくるんじゃないかと心配することを「杞憂」という。たまきのくだらない心配も杞憂に終わり、まず最初に志保が、次に亜美が待ち合わせ場所にやってきた。志保の手には本屋のの名前が書かれたビニールがぶら下がっていて、亜美はそれより二回りも大きなビニールを持っていた。ビニールは色がついていて、二人が何を買ったかまではわからない。

「たまきちゃんはどこか行ったの?」

「……まあ」

これ以上かわいそうな子だと思われたくなくて、たまきは適当な言葉でごまかす。

「じゃ、メシにしようぜ」

「あ、あたし、美味しいとこ知ってるよ」

 

写真はイメージです

志保が案内してくれたのは、スパゲッティのお店だった。

「ここのパスタ、とってもおいしいんだよ」

パスタとスパゲッティはどう違うのだろうか。そんなことを考えながらたまきは席に付いた。

亜美と志保が向かい合うように座る。たまきは、志保の左隣に座った。亜美の右隣に座ってしまうと、亜美の右腕とたまきの左腕が食事の時にぶつかってしまう。

注文を終えて料理が来るのを待つ。他のテーブルで食器と食器がカチカチとぶつかる音が聞こえる。

「こんな店、誰と来たんだよ」

「……モトカレ」

亜美の問いかけに、志保は少し淡白に答えた。

「それにしても、けっこう買っちゃったね」

志保は話題をずらすかのように、亜美の隣の席を見た。今日一日の買い物が置かれ、まるでもう一人いるかのように存在感を放つ。

「車でもあれば便利なのにね」

「え~、駐車場探すのめんどくさいじゃん」

亜美が不服そうに口をとがらせる。

「……その前に私たち、免許ないじゃないですか」

「いや、ウチは持ってるぞ、メンキョ」

「え!」

亜美の言葉に二人の視線は一気に亜美へと集中した。

「なんだよ。高校辞めてヒマだったし、教習所なら親も金出してくれるっていうし、ウチの地元、車あった方が便利だし……、そんなにおかしいか?」

「だって、ねぇ……」

志保がたまきの方を見る。たまきも志保を見る。

「なんか、スピード出して事故を起こしそうなイメージが……」

「大丈夫だよ。うちの近所、畑ばっかりだから人いないし、ミスっても畑に突っ込むだけだから」

「スピードは出すんだ……」

志保が呆れたところで、注文したパスタがやってきた。

 

スパゲッティはフォークに巻いて食べなければいけないなんて、だれが決めたんだろう。そう思ってはみたものの、ついついフォークに巻きつけたくなってしまう。

「この後、どうする?」

志保がパスタをくるくる巻きながら言う。

「え、カラオケ行くんじゃねぇの?」

「食べてすぐ行く感じ?」

「うん」

「了解」

志保と亜美のやり取りをたまきは巨人の国に迷い込んだガリバーの気分で見ている。

やっぱり二人はこの町に似合う人間なのだ。二人のやり取りはどこか、不文律とでもいうべき、言外の共通理解があるように感じられる。その不文律はこの街の空気に書いてあって、この町の人間じゃないと、この町に溶け込める人間じゃないと、その不文律を読むことができないのだ。

「でも、こんなふうに3人で遊ぶって初めてだねぇ」

志保があさりを口に運びながら言う。

「いつか、3人で旅行に行きたいね」

「いいね、それ」

亜美と志保が盛り上がるなか、たまきは下を向いた。

「レンタカーとか借りようぜ」

「……法定速度、守ってくださいね」

たまきが少し顔をあげて言う。

「大丈夫だって。ちゃんと、制限速度ぐらいのスピードで走るから」

「ぐらい」は若干、制限速度を越えているのではないだろうか。いったい、亜美はどこの教習所に通って、どんな講習を受けていたのだろう。

「それでさ、首都高ぶっとばして、千葉に行くんだ」

「なんで千葉なんですか?」

「千葉に何があるの?」

志保とたまきは少し身を乗り出して尋ねた。

「バカ、千葉には太陽があるんだぜ」

亜美は急にロードムービーみたいなことを言い出した。

「夜中に歓楽街をぬけ出して、朝日めがけて車を飛ばすんだ。海に出れれば一番だけど、まあ、出れなかったらそん時はそん時だ。そこで朝日を見ながら、『バカヤロー!』って叫ぶんだ」

「……亜美さん、そういうの好きですね」

たまきはパスタをくるくるしながら言った。

「リスカとかクスリとか……、いろいろ忘れてさ、サイコーの明日を迎えようぜ」

「亜美ちゃん……、酔ってる?」

志保は念のため、亜美のグラスの中身を確認したが、甘そうなメロンソーダがあるだけだった。

 

写真はイメージです

食事が終わり、カラオケ屋へ向かってセンター街を歩いていく。

途中にもカラオケ屋があったが、志保が会員カードを持っている店が別にあるらしく、その店へ向かって歩いていく。

道の端っこを歩きながら先頭を志保、その後ろを亜美が歩き、一番後ろをたまきがとぼとぼとついていく。

突然、志保が短い悲鳴を上げた。次に声を挙げたのは亜美だった。

「ネズミだ!」

志保の足元から亜美の足元へと、灰色の小さなネズミが駆け抜けていった。たまきはよけようと道のさらに端に身を寄せたが、ネズミは急に方向転換して、道の真ん中へと走っていく。

ネズミを目で追うと、視界にトラックが入ってきた。

「あ……!」

ほんの一瞬、ネズミとトラックのタイヤが重なった。

次の瞬間には、さっきまで活発に走っていたネズミがアスファルトに横たわっていた。ピンクの何かがネズミの体からこぼれていた。

特に何か音がしたわけでもなかった。ネズミの頭がい骨や内臓が潰れた音も聞こえなかったし、ネズミは断末魔一つ上げなかった。もしかしたらトラックに最期まで気づかなかったのかもしれない。

聞こえてくるのはトラックの走り去る音と、志保の「やだ……!」という小さな悲鳴と、亜美の「うわっ……」というため息にも似た声だった。

 

写真はイメージです

「あ~、やなもん見ちゃった……」

カラオケ屋でエレベーターが来るのを待っていると、志保が堰を切ったように言った。何か話さずにはいられない、そんな感じだ。

「まあさ、飯食う前じゃなくてよかったじゃん」

と亜美。

「そうだけどさ……」

「そんな珍しくもないじゃん。よくカエルとか、轢かれて潰れて転がってるじゃん」

「それは轢かれた後のやつでしょ? あたしたち、ちょうど轢かれるところ見ちゃったんだよ?」

「まあ、後味悪いけど、ウチはそれより、東京にネズミがいたことに驚いたよ」

「そう? たまに見るよ。シブヤでネズミ。……もう、この話はおしまい! カラオケで忘れよ?」

エレベーターが昇っていく。ガラス張りになっていて、上に上がるごとにシブヤの町の一角がよく見える。

さっきのネズミ、走らなければ轢かれて死ぬこともなかったのに……。たまきはぼんやりと考える。

きっとネズミにとっても、このシブヤは場違いな町だったのかもしれない。その違和感に耐えきれずに、逃げようとして走り出したら、この町どころかこの世からおさらばする羽目になってしまったのだろう。

 

ショップ、プリクラ、スクランブル交差点、ランチ、どれもたまきにとって場違いな場所だったが、カラオケの個室が一番場違いだと強く感じてしまう。

ドアをくぐると薄暗い部屋にテーブルを囲む形でソファーがあり、大きな画面からは最新のミュージックビデオが流れている。

三人はじゃんけんで順番を決めた。志保がドリンクバーで三人分の飲み物を持ってくると、一番手の亜美が曲を入力した。

画面に曲のタイトルが出てきた。やけに画数の多い女性歌手の曲だ。

「亜美ちゃん、こういうの好きなんだ。もっと、ヒップホップ系かと思ってた」

「そういうのも聞くけど、ロックも好きだぜ。特にこの人の曲は、かっけぇし、歌詞もいいんだ」

画面が切り替わり、カラオケ映像が始まった。出だしはBGMが無く、若干のリズム音が流れた後、ほぼアカペラの状態で亜美はマイクに口づけするかのように歌い出した。

そのままひずんだギターと軽快なドラムとベースのロックサウンドが流れ、亜美は歌う。その歌声は地声より少し低く、力強く、それでいてどこか往年の歌謡曲スターのような妖艶さを兼ね備えている。

と、筆舌を尽くしてみたが、簡単に言えば、うまいのである。

アウトロに合わせて亜美がスキャットをして終わった。志保とたまきは、食べ散らかしたポテチの袋のようにぽかんと口を開けていた。

「ん? どした?」

亜美もぽかんとして尋ねる。

「亜美ちゃん、……上手い。……意外」

志保が半分放心したかのように言った。

「意外、は余計だろ」

「バンドとかやらないの?」

「ヤだよ、めんどくせ―」

そういうと、亜美はマイクをたまきの前に置いた。

「あれ、お前、曲入れてねぇの?」

亜美が不思議そうに画面を見る。画面の中ではどこかのアイドルグループのインタビューが流れている。

「あ、今いれます」

亜美の歌が意外にもうまく、自分の曲を入れるのを忘れていた。たまきは慣れない手つきでリモコンを操作する。

……何を歌えばいいんだろう。ヒット曲なんて全然知らない。かといって「おもちゃのチャチャチャ」でも歌おうものなら、バカにされるに決まってる。

たまきはかろうじて知っている曲を入力した。

「これ、何の曲?」

案の定、志保が聞いてきた。

「……深夜にやってたアニメの歌です」

「たまきちゃん、深夜アニメなんか見るんだ」

「……家族がいないときにしかテレビ見てなかったので……」

何かの冒険の始まりを告げるかのように、ピアノの旋律が鳴り響いた。たまきはマイクを両手でつかむと、口元に運んだ。

小さく息をすって歌い始める。

人前で歌うなんて、たぶん初めてだ。恥ずかしくて消え入りそうになりながら、たまきは必死に文字を追って歌っていく。自分でももうちょっと声を張った方がいいんじゃないかと思うけどこれ以上なんて出せやしないし、音程なんて取れてるのかどうかわかりやしない。

何とか曲終わりにまでたどり着けた。たまきはうつむいたままマイクを志保へと渡す。

「かわいい歌い方だね」

志保はそう言ってほほ笑んだ。またクラゲのかわいいだろうか。

「なんか、透き通るような歌声で、あたしはそういうの好きだよ」

「音とか外れてなかったでしょうか……」

「いや、大丈夫じゃね?」

亜美がソファに片足を乗っけながら答える。

「声ちっさいからたまに聞き取れねぇ所あるけど、無理して張り上げたほうが逆に音外すかもな。うん、あれでいんじゃね?」

たぶん、亜美ほどうまくはないけど、合格点なのだろう。たまきはそう解釈した。

「あたし、大丈夫かなぁ。歌、あまり得意じゃないんだよねぇ」

志保はそういうとマイクを手に取った。画面には、たまきでもかろうじて知っている女性歌手の名前が出ている。

ピアノのイントロが流れた。さっきたまきが歌った曲よりも重苦しい感じだ。志保は右手に握ったマイクを口に近づける。若干痩せているのが気になるが、その姿はなかなか様になっている。

曲はいきなりサビから始まる構成である。志保の声がマイクに乗ってスピーカーから拡張される。その歌詞は、流行りの音楽に疎いたまきでも何となく聞いたことのあるものだった。

そのまま間奏を経てAメロ、そしてBメロへと続く。

亜美とたまきは、思わず顔を見合わせた。

さっきから、音符がほとんど合っていない。

半音、ひどい時は二音、高かったり低かったり、何かしらずれている。

つまりは、本人の申告通り、志保は歌があまり得意ではない。いや、「あまり」という副詞は余計か。

それでも本人は気持ちよさそうに歌っている。英語の部分の歌詞はちょっと発音よく歌ってそれっぽい雰囲気を出そうとしているのだが、いかんせん音符が合っていない。

たまきはこの曲のサビのメロディしか知らない。それでもわかる。全体的に、とにかく音符が合っていない。

時空でも歪んだんじゃないかと思える5分間が終わり、志保の前には一周してきたリモコンが再び置かれていた。

「う~ん、この歌好きなんだけど、やっぱちょっと難しいな」

そういうと志保は、

「次なに歌おうかな~。ほんと、歌、そんなに得意じゃないんだよね。いっそ『おもちゃのチャチャチャ』でも歌おうかな」

と笑いながら言った。

 

写真はイメージです

カラオケにいたのは3時間ほどだっただろうか。

亜美はレパートリーの豊富さが際立っていた。ロック、R&B、ヒップホップ、それもわりと玄人好みの曲が多い。そして、どの曲も抜群の歌唱力で歌いこなしていた。バラードなど圧巻の一言である。

たまきは次第にレパートリーが尽きてきた。終盤は子供のころ見てたアニメの歌などで場を繋いだ気がする。歌うたびに志保から話「かわいい~!」とその歌声を評され、亜美からは「アニソンにはそういう方があってるかも」と評された。

志保はアイドルの歌など、ヒットチャートの上位の曲を多く歌った。マイクを取るたびに磁場がどうにかなってしまったのかと思うような歌を披露したが、あくまでも本人は「歌はちょっと苦手」という程度の認識らしい。

カラオケ屋を出てからの三人は、十月の風を浴びながら無目的にシブヤの街を歩いていた。

亜美と志保が次はどこに行こうかと話しながら歩く後ろを、たまきはとぼとぼとついていく。たまきとしてはこんな場違いな町は早く出たいのだが、シンジュクに帰ったとして、やっぱりそこもたまきにとっては場違いな町なのだろう。

ふと、亜美が立ち止り、片手で志保を制した。後ろからついてきていたたまきも立ち止まる。

「ストップ」

「どうしたの?」

「ケーサツがこっち来る」

「え? どこ?」

志保は目を細めた。数十メートル先から、青い制服の警官が二人、こちらへ向かってくる。

「ほんとだ。亜美ちゃん、よくこんな遠くから気づいたね」

「とりあえず、こっち行くぞ」

亜美はすぐ左にあった狭い路地へと入っていった。志保とたまきもそれに続く。

路地に入って十数メートル歩いたところで、志保が口を開いた。

「……そういえばさ、なんでおまわりさんから逃げるの?」

「だって、見つかったらいろいろと面倒じゃねぇか。特にお前なんか、聞かれたらいろいろと困るだろ?」

亜美は志保を見ながら答えた。

「でも、あたし、もう三カ月ぐらいクスリ使ってないし、クスリも器具も今は持ってないし、調べられて困るようなことなんかないよ?」

「そういえば……、でも、目ぇつけられたら困るだろ。たまきとかはまだ子供に見えるかもしれないし」

「別にいいんじゃない? だって、もう夕方だよ?」

そういう志保のわきを、地元の子どもだろうか、ランドセルを背負った子供が3人ほど、はしゃぎながらすり抜けていく。

「ほら、もう、学校とか終わってる時間だって。だいたい、今のあたしたち見て、不法占拠とかクスリとかエンコーとか、見ただけじゃわかんないって」

「そういやそうか……」

そこで会話は途切れたが、急に亜美が笑いだした。

「え、じゃあ、ウチら、なんでケーサツ気にしてるんだ?」

「そうだよ。まあ、確かにいろいろやましいところあるけど、ちょっと見られたぐらいで目をつけられたりしないって」

「そうだよな。あれ、なんでケーサツ気にしてるんだろ?」

亜美と志保はケラケラ笑った。その後ろで、たまきも少しほっとしたように笑った。

この町にとって、この世界にとって自分が場違いだと思っていたのは、たまきだけではなかったらしい。

 

写真はイメージです

「さっきから、ガキ、多くね?」

亜美がすれ違う小学生たちを見ながら言う。

「近くに学校があるんじゃないの?」

「こんな都会のど真ん中に?」

「あるところはあるって。」

そんな会話をしながら3人は少し人気のない路地を歩いていく。

「ん、学校ってあれのこと?」

亜美が少し先の建物を指さした。塀とフェンスに囲まれ、門から続々と子供たちが出てくる。

「こんな都会にも学校ってあるんですね」

たまきが久しぶりに口を開いた。

「うわっ! 校庭、狭っ! 運動会とか、無理じゃん!」

亜美がフェンスにへばりつきながら、その向こうの校庭をのぞいた。緑色のゴム素材のような地面をしている。

「だいたい、校庭ってフツー、土だろ。なんだよあの、テニスコートの失敗作みたいなの」

「都会の学校なんてどこもそんなんだって。土地が少ないんだから、しょうがないじゃん」

志保が亜美の少し後ろで笑いながら言った。さらにその後ろでたまきがぼんやりと二人を眺めている。

たまきと志保の間を、女子高生が三人通り過ぎた。ワイシャツの上に学校指定のものと思われる紺のセーターを重ね、胸元には真紅の大きなリボンを飾っている。

亜美が校庭を見るのに飽きて振り向くと、志保がその女子高生たちが通り過ぎた後も、彼女たちを目で追い続けているのが視界に入った。その顔は、どこか儚げでもあった。

「なに、どうした? 知り合い?」

「ううん、そうじゃないんだけどね……」

志保は少しため息をつくと、言葉をつづけた。

「あの制服、ウチの高校のなんだ……」

そうさみしそうにつぶやく志保を、たまきはまたさみしそうに見つめていた。

……志保さんは、学校に戻りたいのかな。

そんな志保とたまきの間を、今度はオートバイがエンジン音を響かせて通り過ぎる。

そもそも、たまきのように学校に行きたくない方が少数派なのだろう、きっと。志保は頭もよく、友達も多い、学校でうまくやっていけるタイプだったはずだ。そんな志保がたまきみたいな死にたがりや亜美みたいなヤンキーギャルと一緒にいること自体が、場違いなのかもしれない。

「志保さんは、がっこ……」

たまきがそう言いかけた時、亜美がわざとらしく大きな声で言った。

「しょうがねぇじゃん。もう、こっち来ちゃったんだから」

そう言って亜美はにやりと笑うと、志保の肩に手をポンと置いた。

志保は少し自嘲気味に笑った。

「時々さ、思うんだ。クスリさえ使わなければ、今頃、フツーに学校通ってたのかなぁって」

声は少し震えている。志保は、笑顔を作り直した。

「でも、今ここで二人といることは、後悔してないよ。だから、クスリに手を出したことも、後悔してない」

志保は二、三歩歩いて、亜美とたまき、二人とも視界に入る位置に動いた。

金髪のポニーテールの少女は、どこか安心したかのように笑っている。

黒いニット帽とメガネの小柄な少女は、不思議そうに志保を見ている。

「こんなこと言うとさ、舞先生には怒られそうだけどさ、クスリを使ったことは後悔していない。もちろん、反省はしてるし、二度とやらないって決めてる。でも、後悔はしてない。だってさ……、こうならなかったら、二人に会えなかったんだよ?」

そこで志保は一呼吸おいて、言葉をつづけた。

「しょうがないじゃん。出会っちゃったんだから」

そういうと志保は、駅の方に向かって歩き出した。

「夕飯、どうする?」

「駅前にあっさり系のうまいラーメン屋知ってるぜ。こんどはうちが案内するよ」

「たまきちゃん。ラーメン屋でいい?」

「あ……、大丈夫です」

「メシにはちょっとはえぇな。駅ビル見てこうぜ」

「あ、あたし、コスメ見たい!」

駅の方に向かって三人は歩いていく。二人の背中を追いかけながら、たまきはふと、ハチ公を思い出していた。

もしもあの時、亜美も志保も待ち合わせ場所に来なかったら、それでもたまきは待ち続けていただろうか。

きっと、それでもたまきは待ち続けていたんだろう。

しょうがない。出会ってしまったんだから。

つづく


次回 第16話「公衆電話、ところによりギター」

亜美に「外に出て遊んできなさい!」と言われて、仕方なく公園に向かうたまき。仙人に、どこへ行ってもなじめないと相談する。

その裏で、ある準備が進められていた……。

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第14話「朝もや、ところにより嘘」

「わたしはふたりにこっちがわにきてほしかった!」

「東京大収穫祭」で号泣したたまきに優しく微笑む舞。翌朝、たまきはとある場所でミチと海乃に出会う。一方、喫茶店を訪れた志保にも思わぬ再会が……!

「あしなれ」第14話、スタート!


小説 あしたてんきになぁれ 第13話「降水確率25%」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


「かんぱ~い!」

グラスの触れ合う音が部屋に小さく響いた。

テーブルの上にはお菓子とアイス、フルーツが並んでいる。アイスとフルーツはクレープの売れ残りだ。

クレープは完売とはいかなかった。しかし、8割がたを売り上げ、今テーブルの上にのこっているのはわずかなアイスとフルーツだ。

場所は教会のすぐ近くにあるマンションの一室。志保が通う施設は、マンションの二部屋を借りて男女別のシェアハウスにしている。

「おつかれ」

トクラがグラスを志保の前に差し出し、志保はサイダーの入ったグラスでトクラとこつんとやる。口をつけると炭酸の泡が血管中にしみ込んでいくのがわかる。

お菓子をつまみながらワイワイとやりながら携帯電話に目を向けると、着信があったことに気付いた。

電話は主治医の京野舞からだった。

志保は席を立つと廊下に向かった。十月の初めのマンションの廊下は、室内とはいえ足元が少し寒い。フローリングならばなおさらだ。

リダイヤルを押すと電話を耳に当てる。すぐに舞が出た。

「お、打ち上げ中か? 悪いな。メールしようかと思ったんだけどさ、お前の番号だけでメアド知らなくてさ」

「どうしたんですか?」

志保は少し不安げに尋ねた。

「お前、今夜帰ってこないんだろ?」

「はい。出店の打ち上げです」

「今夜、たまき、うちで預かるから」

「あ、そうなんですか。よかった。亜美ちゃんも帰ってこないみたいだし、たまきちゃん、一人になっちゃうけど大丈夫かなって心配してたんです」

「ふうん」

舞の返事はどこか冷たく感じられた。

「で、あのキャバクラ、名前なんだっけ、『シロ』? あそこのカギ、いま、たまきが持ってるって」

「あ、はい、知ってます」

「つーわけだから、明日お前が帰ってきて、鍵開いてなかったら、あたしんとこに電話してくれ」

「はい」

志保の返事の後、舞はしばらく沈黙していたが、

「ま、打ち上げ、楽しみなよ」

と言って電話を切った。

 

写真はイメージです

チン!という音がして、舞はトースターの扉を開けた。鳥かごの檻のような台の上に置かれた二つの食パンには程よく焼き目が付き、チーズが掛布団のようにとろけている。

舞はそれを「あちち」と言いながらそれぞれお皿に載せると、黄色いスープの素が入った二つのマグカップにそれぞれお湯を注ぎ始めた。

「こっちでよかったのか? あたしがお前んとこ泊まりに行ってもよかったんだぞ」

舞はたまきにマグカップを渡しながらそう言ったが、たまきは静かに首を横に振った。

「……先生、お仕事とかありますよね。……そこまで迷惑かけられないです」

「……スープの素、下の方にたまってるからかき混ぜて飲めよ」

そういうと舞はピザトーストにかみついた。チーズがむにーと伸びる。

たまきは小さく「いただきます」というと、ピザトーストにかぷりと口をつけた。スープも飲もうとするが、ふうふうと息を吹きかけ続けるだけで、なかなか飲もうとしない。

本人は気づいてはいないが、舞から見ると泣きはらした目は真っ赤っかだった。

「少しは落ち着いたか?」

舞が優しく問いかけると、たまきはスープに息を吹きかけるのをやめ、こっくりとうなづいた。

「……ご迷惑かけました。ごめんなさい」

「……何で謝んだよ」

舞はビールの缶のプルタブに手をかけながら尋ねた。

「……結局、私のわがままなんです」

たまきはまだ熱いマグカップを手に、しょんぼりしたようにつぶやく。

「ふむ……伸びるな」

舞の口かっらびろ~んとチーズが伸びる。たまきも同じようにピザトーストを口にした。下味にガーリックペーストがまぶしてあって、香ばしい。たまきのチーズもびろんと伸びたが、舞のようにはうまくいかず、すぐ、ちぎれてしまった。

「……私のは、あんまり伸びないみたいです」

「いや、お前は伸びるぞ。あたしなんかよりずっと伸びる。強くなる」

舞は笑いながらそう言った。たまきは意味が分からず、舞の目を見つめる。

「何かあった時『自分のせいだ』って思える奴は、伸びるぞ。成長できる」

舞はそういうと缶をテーブルの上に置いた。

「ま、お前は自分のせいにしすぎだけどな。そこまで自分を責めると、かえってストレスだ。六割は自分のせい。四割は人のせい。それっくらいがちょうどいいんだ」

たまきはまっすぐ舞の目を見ていた。

「でも、やっぱり私はわがままです……」

「なんでそう思うかね?」

「自分が一人ぼっちだからって、亜美さんや志保さんにこっち側に来てほしいだなんて……」

「誰だってそんなもんさ」

そういうと、舞はスープに口をつけた。

「人間は誰しも、さみしさを抱えてるもんさ。それはな、絶対にぬぐえないんだ。ぬぐおうとか紛らわそうとかするんじゃない。『自分は孤独だ』って受け入れて生きていくしかないんだ」

舞は再びビールの缶に口をつけた。

「……孤独を、受け入れる」

「そうだ。人は誰でもいつか死ぬ。それと同じくらい、人は誰でもいつか孤独を感じる。お前みたいに『私は一人ぼっちだ』って泣いている奴ほど、いざ本当に一人になった時に強いのかもしれんぞ。亜美とか志保とかミチとか、みんなでワイワイやってごまかしてる奴よりもずっとな」

「……みんな、さみしいのをごまかしているだけなんですか? 亜美さんも志保さんも、ミチ君も?」

舞の言っていることが今一つ信じられない。誰とでも友達になれる亜美や志保、カノジョが作れるミチが、たまきみたいに『一人ぼっちはさみしい』なんて言って泣いている姿が想像できない

「お前はさ、あたしが結婚してたから自分とは違うんだ、みたいなこと言ってたけどさ、あたしだってさみしさを感じる時ぐらいあるぜ。いまは男いなくてフリーだしさ。仕事も取材とかもあるけど、一人でここで文章書いているときは、ああ、さみしいなって感じるよ。医者つづけてたら、体力的にはしんどいけど、同僚とか上司とか先輩とか患者とかいたんだろうになって考えると余計に」

舞はそういうと、少し身を乗り出した。

「それではここで問題です。あたしが三十何年の生涯の中で、一番さみしかったのはいつでしょうか?」

舞はにっと白い歯を見せた。

「……そんなの、わかんないです。だって、私は舞先生のその、三十何年のうちの何か月かしか知らないし……」

「まあまあ、あたしについて、知ってる情報の中にもう答えはあるはずだから」

たまきは少し下を向いて考えた。

「……離婚したとき?」

たまきは我ながら失礼な回答だと思った。だが、そもそもクイズにしてきたのはむこうだ。

「おしい。それは第二位だな。離婚届出して、じゃあね元気でねって元旦那と別れて、一人になった駅のホーム。たしかにさみしかった。でも、それは第二位だな」

たまきは舞の言っていることに共感できなかった。別れ以前に出会いを経験していない。

「じゃあ、わかりません」

「正解は、結婚パーティの夜でした」

「え?」

たまきのメガネの奥の瞳が大きく見開かれた。

「あたし、結婚式はやってないんだよ。その代り、結婚パーティってのはやったの。本当に親しい友達だけ集めて、ちょっとしたパーティ会場、と言ってもそこまでデカいところじゃないけどさ、そこを貸し切ってパーティを開いたんだよ。パーティって言っても二十五人ぐらいの規模だけど。みんなに祝福されて、人生で一番幸せだったね」

全然さみしくなんかないじゃないか。たまきは少しむくれた。

「でさ、パーティが終わり、家に帰るじゃんか。でさ、旦那は同業者だったんだけどさ、その日は当直だったんよ。他の日にしたかったんだけどさ、二人の共通の知り合いっていうと医療業界のやつばっかでみんな忙しくてその日しかなくてさ。だから、あたしがシャンパンとか飲んでるよこで旦那はジンジャエールで我慢して、夜勤に行ったのよ」

いつになったらさみしくなるんだろう、とたまきはむくれたままじっと話を聞く。

「で、旦那が出かけて一人ぼっちの部屋の中でふと『さみしいなぁ』ってさ、思っちまったわけよ。信じられるか? 結婚パーティの日だぞ? 先まで旦那がいて、友達がいて、祝福されて、それで一人になった途端に『さみしい』て感じちまったらさ、それってもう、何やっても埋められないさみしさ、ってことじゃねえか」

たまきは、以前にあった強盗のおじさんを思い出していた。誰しも「絶対に埋められないさみしさ」というやつを抱えていたとしたら、あの時のおじさんの「さみしいなぁ」もそういうことなのかもしれない。

「それでさあ、そのタイミングでまさかの、モトカレから電話かかってきたんよ」

「……前に付き合ってた人からですか?」

「そう。『結婚したって聞いて、おめでとう』って。どうしても言いたかったんだと。『ごめんね。もうかけてこないから』って」

それを聞いてたまきは困ったように笑った。

「……それは、迷惑ですね」

「……あたしは、あやうく『今から会える?』っていうところだった。結局言わなかったんだけどさ」

「え?」

驚いてたまきの背筋がピンとなった。

「だって、さみしかったんだもんよ」

「さみしかったからって、それはさすがに……」

いくらそういうのに疎いたまきでも、昔付き合っていた男女が再会して、ただ会って終わり、とはならないことぐらい想像がつく。舞がさみしかったというなら、なおさらだろう。

「だからさ、テレビで芸能人とかがよく不倫してこき下ろされてるじゃん。あたし、気持ちがわからんでもないわけよ」

舞はビールの缶をコトリとテーブルの上に置いた。

「だいたい『家族がいるのに……』っていう批判をされるわけだ。でもさぁ、家族がいるのにさみしさを覚えちゃったらさ、それはもう家族じゃ埋められんわけよ。だとしたらさ、家族以外の人で埋めるしかないじゃんか」

たまきは、舞の言っていることが何となく理解できた。理解はできたが、納得できない。

「でも、それを認めちゃったら……」

「だからさ、『さみしさを埋める』っていうのがさ、そもそもの間違いなわけよ」

たまきは、舞の顔がさっきより近くに来ているのに気付いた。こんな風に舞と一対一で話すのは初めてかもしれない。

「このさみしさからは絶対に逃げらんない。そんでもって、絶対に埋められない。もう、我慢するしかないんよ。さみしいまんま生きていくしかないんよ」

だからさ、と舞は続けた。

「お前みたいに、一人ぼっちで寂しいってちゃんとわかってる奴は、ほんとうに独りぼっちになった時に、そのさみしさに耐えられると思うんだ。恋だ友達だっつって紛らわしてるような奴は、いざ孤独を感じても、耐えられないから紛らわそうとする。その結果、不倫みたいなトラブルを起こしちまうんだよ。それに引き換えお前ときたら、友達になじめないって言って泣いてやがる」

「私は……、べつに自分から耐えてるんじゃないんです。……紛らわせてないだけです」

「結果、耐えてるんだよお前は。ちゃんとさみしさを正面から受け止め続けてるんだ」

舞はそういうとにっこりと笑った。

 

写真はイメージです

日はまた昇り夜が明け、、いらなかった明日がまたやってくる。たまきは、少し早めに舞の家を出た。たまきが「城(キャッスル)」の鍵を持っているのだ。二人が帰る前に戻らないと。

舞が志保に電話してくれたおかげで、もし志保が帰っても鍵が開いていなかったら舞のところに連絡が来ることになっている。そうすれば、「城」までたまきの足でも歩いて5分ちょっとだ。電話が来ればすぐに駆け付けられる。

だが、亜美からの連絡はなかった。舞がメールを送ったらしいが返事はなし。そもそもメールを見ているかどうかも疑わしい。

たまきから見て亜美はまるで自由気ままな三毛猫だ。ふらりとどこかに行って、ふらりと帰ってくる。

どこかへ行くときの決まり文句はたいてい、「シゴト」と「隣町の美容院」だ。亜美が「隣町の美容院に行ってくる」と言って、本当は何をしてるのかは考えてもわからないし、「シゴト」と言って出かけて、そこで何をしてるのかは考えたくもない。

そして亜美は突然帰ってくる。朝に帰ってくることもあるし、真夜中に帰ってくることもあるし、次の日の夕方に帰ってくることもある。

つまりは、亜美が一体いつ帰ってくるのかはたまきにも予想がつかないのだ。帰ってきたはいいが鍵の開いていない「城」の前でいらだつ亜美を想像すると……、

なんだか、めんどくさい。

たまきは「城」のある太田ビルに向かってとぼとぼと歩いていた。

舞の住むマンションと太田ビルの間にはホテル街が広がる。たまきはどことなくうつむきがちにそこを通り過ぎていく。たまきのすぐわきをトラックが轟音を立てて通り過ぎていく。うすい朝もやの向こうにはまぶしいばかりの朝日が見える。朝日を見るのは久しぶりだ。

ホテル街の一角に「CASTLE」というホテルがある。名前の読み方は「城」といっしょだが、こっちの方がよっぽどお城っぽい外観だ。

その入り口から誰かが出てきた。案の定、男女のカップルである。道路と自動ドアの間には小さな噴水があり、カップルはたまきから見て噴水の向こう側を歩いている。たまきはなるべくそっちを見ないように歩いたが、ちょうどカップルが道路に出たところでバッティングしてしまった。

たまきはカップルをちらりと見上げると、すぐに目線を足元に落として、二人が通り過ぎるのを待とうとした。しかしカップルに、特に男の方に見覚えがる気がして、たまきはもう一度カップルの方を見た。

相手も同じことを考えていたらしく、たまきの方を見つめている。

たまきは半ばあきれたように言った。

「……おはようです」

「おはよう……、ってか、たまきちゃん、こんなところで何してるの?」

カップルのうち男の方、ミチが少し驚いたように言った。左隣にはミチと同じくらいの身長の、茶髪の女性がいる。たまきにもなんとなく見覚えのある顔だ。たぶん、海乃って人だろう。ミチの左手と海乃の右手がしっかりと恋人つなぎされていた。

「あれ? もしかして、たまきちゃんも朝帰り?」

こんな人たちと同じフォルダーに入れられてしまったことをたまきは不快に思いながら

「舞先生のところにいました」

とだけ答えた。

「ミチ君こそ、こういうところ泊まっていいんですか?」

「まあまあ、細かいことは気にしないの」

ミチはそう言って笑う。すると、海乃がミチの左手を軽く引っ張った。

「みっくん、お友達?」

厳密にはたまきと海乃は初対面ではないのだが、一度だけ店に訪れた地味な客の顔など、海乃は覚えておるまい。

「そうそう、友達」

「知り合いです……!」

いつもより強めにたまきは否定した。

「へぇ、どういうお友達? 同級生?」

海乃は何か興味を引かれたらしい。

「いや、最近知り合ったんだけどさ。引きこもりのたまきちゃん」

「引きこもり?」

海乃が不思議そうに聞き返した。

たまきはむっとした。「引きこもり」だなんて紹介、あんまりじゃないか。

しかしたまきは学生じゃないし、社会人でもなければ、フリーターですらない。不本意ながら、「引きこもり」以外に自分を表す肩書が見つからない。

「へぇ~、かわいい~」

海乃はたまきを見ながらそう言うと、笑顔をこぼした。

引きこもりのなにをもって「かわいい」なのかわからない。たまきは、昔、家族で水族館に行ったときに姉がクラゲの水槽の前で「かわいい~」と言っていたのを思い出した。いまの海乃の「かわいい」に似ている気がする。きっと、海乃は「ヒキコモリ」をナマコかウミウシの仲間かなんかだと思っているのだろう。

「あれ、でも、この子ヒキコモリなの?」

海乃はたまきを指さすと、不思議そうにミチの方を見た。

「だって、外にいるよ?」

海乃は笑いながらそう言った。それを聞いてミチも

「ほんとだ。確かに、たまきちゃんって引きこもりだと言っている割には、けっこう外にるよね」

と言って笑う。

ミチが「たまきはわりと外にいる」と思っているのは、外でしか会わないからだ。たまきはそのほとんどを「城」の中で具合悪そうにゴロゴロして過ごす。たまに体調がいい時に頑張って都立公園まで行き、そこでミチと出くわすのだ。ミチはその「たまに体調がいい時に頑張っている」たまきしか知らないのだ。

「この子、いくつ?」

海乃は横にいるミチに尋ねた。

「一個下だから、今十五才だよね?」

ミチの言葉に、たまきは無言でうなづいた。

「みっくんの一個下ってことは、高校生?」

海乃はまた隣のミチに尋ねた。なぜ、本人を目の前にしてとなりに尋ねるのだろうか。

「でも、不登校だから、高校は行ってないよ」

「へぇ~」

海乃は奇異なものを見るかのようにほほ笑んだ。きっと、「フトウコウ」もフジツボの仲間ぐらいに思っているのだろう。

ふいに海乃は手を伸ばすと、たまきの黒い髪を撫でた。

「ダメだぞ、ちゃんと学校に行かなきゃ」

たまきは驚いたように、自分の頭をなでる海乃の手首を凝視し、次につながれた二人の手をじっと見ていた。

「海乃さん、俺だって学校行ってないよ?」

ミチが口をとがらせた。

「みっくんはちゃんと働いてるじゃん」

海乃はそう言って笑った。

「じゃあね、たまきちゃん」

海乃はそういうと、ミチと手をつないだまま歩き出した。さっきからずっとつなぎっぱなしである。

海乃は振り返ると、たまきに向かって手を振っていた。たまきは、その手をじっと見ていた。二人の姿が見えなくなるまで、海乃を見つめていた。

 

写真はイメージです

駅と歓楽街の間のにぎやかな通りを志保は歩いていた。

鍵を持っているたまきが舞の家に泊まっているということは、「城」に帰っても中に入れないかもしれない。舞に電話することも考えたが、まだ二人とも寝ているかもしれない。どこかで時間を潰そうと志保は歓楽街へと続くルートを外れて、ふらふらと散策していた。

駅前の繁華街は、「城」がある歓楽街ほど物騒でないとはいえ、やっぱり飲み屋が多く、朝から落ち着ける志保好みのカフェなんていうのはさっぱり見つからない。月曜日の朝はスーツを着た出勤途中のサラリーマンが通りを埋め尽くし、その中をカフェを探して歩くのはなんだか申し訳ないような気分にもなってくる。

駅からだいぶはなれたところを歩いていると、喫茶店を一件見つけた。カフェではなく喫茶店。スタバのような「カフェ」ではなく、昔ながらのレトロな喫茶店だ。昭和のころはきっと、こういうのが最先端のおしゃれだったのだろう。

入口には午前七時から営業中と書いてあった。時間は既に七時半。中にはサラリーマンらしき男性や、オフィスレディが座ってコーヒーを飲んだり、軽食のようなものを食べたりしている。

志保は店の中に入った。ドアは手動で、少しずつ、まるで店の空間の機嫌をうかがうかのようにドアをして、志保は足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ~」

若い男性の店員が志保を席へと案内する。

志保は席に着くと、ミルクティを注文した。カフェオレにしようかと思ったけど、これから帰ったら少し寝たいのでやめておいた。

周りはやはり出勤前のサラリーマンやOLばかりで、志保には少々居心地が悪い。

ふと、志保が視線を感じてそっちの方を見ると、先ほどのウェイターの男性が志保の方を見ていた。

どこかで見た顔だ。どこかで会っただろうか。わりと最近、会ったような……。

あ!という志保の声が店内に響いた。周りの客たちの視線が志保に集まる。志保は声を出してしまったことが恥ずかしいといいたげに顔を赤らめると、ウェイターの方に歩み寄って、声をかけた。

「あの……、この前、助けて下さった方ですよね。ほら、繁華街の前の大通りの信号で……」

志保の言葉を聞いたウェイターは

「やっぱり!」

と声を上げた。背が高く、黒い髪は軽くパーマをかけている。顔だちはこれといった特徴があるわけではないが、ウェイターの制服と相まって、さわやかそうな印象を受ける。

制服の胸ポケットには、「田代」と書かれた名札がついていた。

「やっぱり、この前の子だよね?」

「あ、あの時はありがとうございました」

志保はまだ恥ずかしさが残る中、ぺこりと頭を下げた。

二週間ほど前、幻覚や幻聴のようなものに襲われ、赤信号なのに道路に飛び出してしまった志保。すんでのところで腕を引っ張って助けてくれたのが彼だった。名前も連絡先も知らなかったのだが、また会えるとは。

「いや、元気そうでよかったよ」

田代はほっとしたようにはにかんだ。

「あの時は本当にご迷惑を……」

「いいよ、そんなに気を遣わなくて。具合悪かったんでしょ?」

「は、はい……、まあ」

あの時は確かに具合が悪かった。嘘ではない。

「この辺、よく来るの?」

「……この町にはよく来るけど、このあたりに来るのは初めてです」

これは少し嘘が入っている。「よく来る」のではなく、住んでいるのだ。ただ、家賃を払っていないのだが。

「へぇ~。学生さん? 高校生?」

「……はい」

これは嘘ではない。もう4カ月ほど学校に行っていないが、退学届けを出した覚えはない。

「今日、学校休み?」

「……はい。ぶ、文化祭の振り替え休日で……」

これは嘘である。昨日まで文化祭みたいなことをしていたのは事実だが。

志保は席に戻ると、カバンから読みかけの文庫本を取り出した。女性エッセイストの単行本の続きを読み始める。

数分たって、田代がミルクティーを運んできた。

「お待たせしました。ミルクティになります」

その言葉づかいが志保には少しおかしかった。「ミルクティになります」って、もうミルクティになっているじゃないか。

田代は、志保の読んでいた本に目を落とした。

「その人の本、面白いよね」

「え、こういうの読むんですか?」

意外である。男性がこの著者のエッセイを読んでいるイメージがない。

「まあ、女性向けなんだろうなとは思うけど、その人、視点というか、切り口が面白いから、読んでて楽しいよ」

「ですよね! 私も、そういうところが大好きなんです」

これは本当である。

「それじゃ、ごゆっくり」

田代は軽やかな足取りで離れていった。

カップの中に志保は視線を落とす。「城」を一歩外へ出ると、嘘をつかないと誰かとしゃべれない。クスリのこと、高校のこと、今住んでる場所のこと。同じ施設に通う依存症患者たちに出さえ、「城」のことは嘘をついている。いつからこんな人間になってしまったのだろう。

もっとも、志保の性格が嘘つきになってしまたのではない。隠さなければいけないことが多すぎるのだ。

志保はカップを持ち上げると、ミルクティに口をつける。

レモンは入っていないはずなのに、なんだかレモンみたいな味がした。

信じてもらえないだろうが、本当である。

 

写真はイメージです

太田ビルの4階にはビデオ屋が入っている。もはやビデオテープは置いておらず、全部DVDのディスクなのだが、みんな「ビデオ屋」と呼んでいる。

とはいえ、普通のテレビや映画のビデオは少ないし、子供向けのアニメなんて全くおいていない。そのほとんどがアダルトビデオで、おまけによくビデオ屋のアダルトビデオコーナーの入り口にあるのれんらしきものが見当たらず、たまきのような子供でも簡単に目に入るところにアダルトビデオが置いてある。法律にしっかり基づいたビデオ屋なのかと首をかしげたくなる。

そんなビデオ屋だから、入口には裸一歩手前の女性のポスターがたくさん貼ってある。ここを通るたびに、たまきはそのポスターを見ずにはいられない。

別にいやらしいことを考えているわけではない。ポスターの中の彼女たちの笑顔が気になって仕方ないのだ。

心からの笑顔なのか、自分の美貌に自信があるのか、それとも、巷のうわさ通り無理やりやらされているのか、そもそもそんなことを考えているのはたまきのエゴなのか。

もしかしたら、この人たちもさみしいのかな。そんなことを考えて、たまきは階段を上る。

階段を上るにつれて、水平線から昇る太陽のように金色の髪の毛が見えてくる。

想定していた中でも、割とめんどくさい状況のようだ。

階段を一段上ると、亜美の顔が見えてきた。なんだか小刻みに揺れている。

ドアの方をにらむ目はつりあがり、口はとがっている。たまきには亜美がとても苛立っているように見えた。

想定していた中でも、トップクラスにめんどくさい状況が発生しているらしい。たまきは重い足取りでゆっくりと階段を上った。

亜美が小刻みに揺れていた理由は、脚だった。脚がかくかくと上下に揺れている。苛立ちからくる貧乏ゆすり、と呼ぶにはだいぶ激しい。「メガ貧乏ゆすり」とでも呼べばいいのだろうか。ブーツがコンクリートの床に触れるたびに、タタタンタタタンとリズムよく音が響く。

亜美は、たまきが階段の残り2段のところまで来て初めてたまきに気付いた。「気配の薄さ」ならばたまきはどこのクラスに行ってもトップを取れる自信がある。

亜美は勢い良くたまきの方に振り向くと、がなった。

「お前、どこ行ってたんだよ! 今、八時だぞ、八時! こんな時間までどこほっつき歩いてたんだよ!」

「亜美さんはいつ帰ってきたんですか?」

「あ? 15分前だよ」

亜美の方こそこんな時間までどこをほっつき歩いていたのだろうか。

「メール、見なかったんですか?」

たまきは亜美と視線を合わせることなく尋ねた。

「は? お前、ケータイ持ってないんだから、お前からメールが来るわけないだろ?」

「私じゃないです。舞先生からです」

「先生?」

亜美は自分の携帯電話を開いてピコピコといじった。

「あれ、なんか来てる」

亜美は今初めて、昨日の夜十時ぐらいに舞が送ったメールを見ているらしい。

「なるほど。お前、そういうことは早く言えよ」

「……早く伝えたつもりなんですけど……」

たまきはもうここでこの件は終わらせたかった。「亜美は何をしていてメールに気付かなかったのか」は知りたくなかったからだ。ミチの朝帰りを見てしまったから余計に。

それまでぶすっとしていた亜美だったが、急に顔をほころばせると、

「ま、お前が生きててよかったよ」

と言ってたまきの頭をポンポンと軽くたたいた。さっき、海乃に触られた時よりも、なんだかとってもやさしい触り方だった。

「……心配してたんですか?」

「ま、うちもこの歓楽街にいたからさ、お前がここで自殺してたらパトカーとか救急車のサイレンが聞こえたはずだから、生きてるんだろうなぁ、とは思ったけど」

亜美はバカのくせに、そういったことには頭が回る。

「ウチはむしろ、お前もとうとうナンパされて朝帰りデビューしたのかと思ってたよ」

またこんな人たちと同じフォルダーに入れられてしまったことにたまきはがっかりした。

そこに、パタパタと足音を鳴らして、志保が戻ってきた。

「ハァ、ハァ、やっぱり、5階ってキツイ……」

志保はいつも骨のように細い手足を震わせ、息切れしながら昇ってくる。

「あ、たまきちゃん、帰ってる」

「お、志保、おかえり。お前、たまきが今までどこにいたか知ってるか?」

亜美はまた悪巧みしたかのような笑みで志保に問いかけたが、

「え? 先生のところでしょ?」

とあっさりと返した。

「なんだよ! 知らなかったの、ウチだけじゃん!」

「亜美ちゃん、エッチなことに夢中で、ケータイ見なかったんでしょ」

「いや、メール来たときはカラオケしてた。今度、三人でカラオケこうぜ!」

「カラオケ~?」

志保は左手を右肩に置いた。

「あたしはいいや。歌はあまり得意じゃないの」

「……私も、歌うのはあまり……」

「え~、そんなこと言わないでさ、っていうか、たまき、カギ! あと、ウチの財布!」

「……あ、はい」

たまきはカバンから亜美の財布を取り出すと、亜美に返した。

亜美は財布を開けて、鍵をさぐる。ちりんちりんという鈴の音が財布の中から聞こえる。

「……二人も、さみしいんですか?」

たまきの突然の問いかけに、亜美の手が止まった。

「たまきちゃん、どうしたの急に」

志保がやさしく微笑みながら聞き返す。

「……何でもないです。忘れてください」

たまきはばつの悪そうにうつむくとそういった。

亜美は、取り出した鍵をたまきに渡すと、

「ウチ、屋上でたばこ吸ってくるから、先、中入ってて」

というと、そのまま屋上へと続く階段へと向かった。

 

たまきと志保は鍵を開けて中に入る。たまきはふらふらとソファへと向かうと、ころりと横になった。

落ち着く。家族と暮らしていた実家よりも、落ち着く。

「城」がこんなに落ち着く場所になったのはきっと、亜美も志保もたまきには深く干渉しようとしないからだろう。特に亜美は普段ずかずかしているくせに、ほんとうに放っておいてほしい時には放っておいてくれる。

でも、昨日は放っておいてほしくなかったな。一緒にばっくれて欲しかった。

そんなことを考えながら、たまきは眠りにつく。

志保がたまきのことを放っておいてくれるのは、彼女のコミュニケーションスキルの高さによるものだ。たまきのような子はあまり接近しすぎず、少し距離を置いておいた方が相手も楽だということを知っているのだ。

亜美は、そんな風に頭を働かしてたまきのことを放っておいてくれるわけではない。

たまきに放っておいてほしい時があるように、亜美にも放っておいてほしい時があるから、なんとなく相手の放っておいてほしい時がわかってしまう。それだけの話である。

 

つづく


次回 第15話「場違い、ところによりハチ公」

シブヤへと買い物に来た3人。だが、たまきはどうしても自分が場違いな存在だと感じてしまう。そんなほのぼのとした(?)休日。

続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第13話「降水確率25%」

都立公園で行われる大収穫祭の当日になった。志保は施設の人たちとクレープ屋を開き、ミチはバンド仲間とライブに出演する。そこに客として訪れる亜美とたまき。四者四様の祭りが始まる。

「大収穫編」クライマックス! 「あしなれ」第13話、スタート!


小説 あしたてんきになぁれ 第12話「夕焼けスクランブル」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


プロローグ

「ほら、行くぞ!」

ドアの外にいる亜美のがなるような声が「城(キャッスル)」の中に響く。十月に入り亜美の露出も少しは抑え目になってきたが、それでも胸のふくらみはしっかりと強調されている。

「……行かなきゃ、ダメですか?」

たまきは亜美から数m離れたところで、力なく言った。靴は履いているものの、玄関に置かれたマットの上から動こうとしない。

「志保が祭りで店やるってのに、ウチらが行かなかったら、カワイソウじゃん。ミチのバンドもライブするんだろ? オモシロソウじゃんか。お前、あのバンドの曲好きだって言ってただろ」

「ミチ君の歌は好きですけど……、あのバンドの歌はあんまり……」

たまきは下を向いたままぽつりと言った。

「どっか具合悪いのか?」

「……べつにそういうわけでは……」

「だったら別にいいじゃん。デブショウはよくないって。どうせあれだろ、具合が悪いわけじゃないけど、気分がすぐれないとかいうヤツだろ。大丈夫だって。祭り行ったらなんだかんだ楽しくって忘れるって。ほら、来いよ!」

亜美がたまきの手を強く引っ張った。たまきは特に抵抗するでもなく引っ張り出された。

都立公園に向けて二人は手をつないで歩き出す。手をつなぐ、というよりは、亜美がたまきのことを、キャリーバッグのように引っ張っている、と言った方がいい。たまきは相変わらず抵抗するでもなく、とぼとぼと歩き続ける。

「祭りなんて久しぶりだなぁ。ジモトは大っ嫌いだったけど、祭りだけは好きだったなぁ」

ウキウキと楽しそうな亜美は、下を向いたままのたまきを引きずるように歩いて行った。

 

シーン1 志保

写真はイメージです

二日にわたって行われた「東京大収穫祭」は、小雨が降っていた一日目と違い、二日目は天気に恵まれ、昨日よりも多くの人が訪れ、賑わっていた。フランクフルト、ケバブ、焼きそばと様々な屋台が夜の公園をパレットのように染め上げる中、志保が通う施設の出店したクレープ屋は、混みすぎず空きすぎず、ちょうどいい感じだった。

志保は接客担当だった。客の注文を聞き、横にいるトッピング担当に注文を伝える。注文を渡してお金を受け取り、お釣りを渡す。ブースの奥では、トクラがせっせとクレープの生地を焼いていた。淡い黄色の生地をホットプレートの上に落として広げる様は、何度も練習した甲斐あってか、なかなか様になっている。香ばしいたまごの香りがブース内に充満している。

「カンザキさんって、接客とか向いてるよね」

志保の隣でトッピングをしていた少女がそう声をかけた。

「そうかな。前にちょっと、スーパーの試食のバイトとかしてただけだけど。またそういうのやってみようかな」

志保は少しはにかんだ。そこに

「おっす!」

と聞きなじんだ声が聞こえ、志保は顔を上げた。

「あ、亜美ちゃん! たまきちゃん!」

二人の同居人が店の前に立っていた。

「あら、お友達?」

仕事がひと段落したトクラが声をかける。

「はい。二人とも来てくれたんだ」

「そりゃ、志保ががんばっているところ見ないと、なぁ、たまき」

亜美に言われて、たまきはどこか申し訳なさそうに笑った。相変わらず、堅い笑顔だ。

「えー! せっかく来たんだから、食べていってよ! いろいろメニューあるよ」

メニューは一番シンプルなプレーンと、アイスを追加したもの、さらにそれぞれイチゴ、キウイ、バナナを乗っけたものの全5種類だ。

「たまき、何にする?」

亜美とたまきはメニュー表、と言っても5種類しかないのだが、を見つめながら何やら話している。

ふいに背中をつつかれ志保が振り返ると、そこにはトクラがいた。

「カンザキさんのお友達って、あんまり、カンザキさんっぽくないね」

「……私っぽくないって、どういう意味ですか?」

「ほら、系統が違うっていうか。あの二人、ビッチとぼっちって感じじゃん。どこで出会ったの? 学校?」

この数日で少しトクラのことが志保にもわかってきた。この人は悪気があって言っているのではないのだ。いつだって、ただ思ったことを口にしているだけなのだ。

とはいえ、「ビッチとぼっち」は二人には申し訳ないが、なかなか的を射ているような気がする。「ぼっち」はさすがに言いすぎだとは思うが、確かにたまきの口から、学校や地元の友達の話を聞いたことがない。

「じゃあ、あたしはなにっちですか?」

志保は少しおどけた感じでトクラに尋ねた。

「あんたはね、コッチ」

トクラは、志保の肩に手を置くと、不敵に笑った。

トクラに触られた部分からぞぞぞと悪寒が志保の背中を駆け抜けていく。ふと前を見るとビッチ、じゃなかった、亜美が笑いながら近づいてきた。どうやら、トクラの言葉は二人には聞こえなかったらしい。

「ウチら二人ともアイス乗っけたやつで」

「ありがとうございまーす。四百円になりまーす」

志保はわざと語尾を伸ばしておどけたように言ったが、亜美とたまきは

「は?」

「え?」

とだけ言い、凍りついたように志保を見ていた。

「……二人とも、どうしたの?」

「いや、四百円って高くね?」

亜美がそういうと、隣でたまきが申し訳なさそうにうなずく。

「何言ってるの。クレープなんてこんなもんだよ。むしろうちは利益を求めてるわけじゃないから、安い方だよ」

「はぁ? こんなうっすい生地に生クリームとアイス乗っけて四百円? バカじゃねーの?」

亜美が大声を出すととなりでたまきも不安そうに志保を見ながらつぶやいた。

「クレープって、卵焼きとか目玉焼きの仲間ですよね……」

「そうだよ! こんなうっすい卵焼きが、四百円とかマジであり得ない!」

「二人とも何言ってるの? 卵焼きじゃないし! 小麦粉だよ!」

後ろでトクラがケラケラ笑っているのが聞こえる。三人のやり取りがよっぽど面白いらしい。

「え? 二人とも、クレープ食べたことないの? デートとかでクレープ食べない?」

「ウチ、デートに財布、持ってかない主義だから」

亜美の答えに、またトクラがゲラゲラと笑う。

「たまきちゃんは? デートいってクレープ……」

「……私がデートしたこと、あるわけないじゃないですか」

「あ、ごめん」

「……謝られると、なんか余計に……」

「ごめん……」

いつの間にかトクラの笑い声も収まり、急に静かになる。公園内で流されているJ-POPのBGMがよく聞こえる。

「何言ってんだよ、たまき。お前、いつもミチとデートしてんだろ」

今度は亜美がケラケラ笑いながら言った。とたんにたまきが、ものすごいスピードで振り向く。

「違います。あれは、私の行く先にたまたまあの人がいるだけです。そもそも、私はあの人のこと嫌いだし、あの人はあの人でべつにカノジョさんいるし、そもそもあの人も私のこと恋愛対象じゃないってはっきり言ってるので、デートなんかじゃないです」

「……お前、そんな早口で喋れたんだな」

「え?」

亜美の言葉をたまきは牛のように反芻する。

「たまきちゃん、……ミチ君となんかあった?」

「……べつに、ないですけど」

今度は、いつものたまきのスピードだった。

 

結局二人は四百円払ってクレープを買った。

「あれ? カンザキさんの言ってた、『裏切りたくない友達』って」

トクラが志保の横に立って問いかけた。

「……はい」

「ふーん」

トクラは志保の顔を覗き込む。

「ま、やれるだけ頑張ってみれば?」

トクラはどこか憐れむようにそう言った。

志保は思考を切り替えようと、亜美とたまきに話を振る。

「二人とも、どう? 美味しい?」

志保の問いかけに二人は顔を見合わせた。

「……甘いな」

「はい、甘いです……」

「でしょ? クリームもアイスも、生地にもこだわっているからね」

志保は満足げな顔を浮かべた。二人が、口を真一文字に閉じていることに、志保は気づいていない。

 

シーン2 亜美

写真はイメージです

志保のクレープ屋を離れた二人はほかの屋台を見て回った。そのうちの焼きそば屋で亜美が500円の焼きそばを買ってきた。

「食うか?」

亜美はパックに入った焼きそばをたまきに差し出したが、たまきは静かに首を横に振るだけだった。

亜美は口を使って割り箸を割ると、モリモリと焼きそばを食べ始めた。夜の公園を背景に、湯気が街灯に照らされ、なんだか神々しい。

「やっぱウチ、こういうののほうが好きだわ。あ~、これで呑めたらなぁ~!」

亜美が傍らにある自動販売機を恨めしそうに眺める。

「お前、ほんとにいらないの? さっき、クレープ食べただけだろ」

「……大丈夫です」

たまきは静かにそういった。

「……さっきのクレープさ、どうだった?」

亜美は頬張った麺を飲み込むと、たまきに尋ねた。

「……甘かったです」

「甘すぎじゃねぇ、あれ?」

亜美の言葉に、たまきはこくりとうなづいた。

「志保の味付けじゃねぇよな、あんな甘いの。誰の趣味だ?」

亜美の問いかけに、たまきは首を傾げた。

「たまにいるんだよなぁ。甘ければいいとか、辛ければいいとか、量が多ければいいとか思ってる店。ぜんぜん美味しくねぇんだよ。辛いだけだったり多いだけだったりで、美味しくねぇの。なんなん、あれ?」

「……さぁ」

たまきはまた首を傾げた。

ふと、亜美はたまきの前に来ると、少しかがんで目線を合わせた。

「お前さ……、楽しんでる?」

「え……あ……」

「答えに詰まるなよ、そこで」

亜美はそういうと、箸でつまんだ焼きそばを、たまきの口へと突っ込んだ。

「むぐっ!」

「祭りはな、楽しまないとダメなんだよ」

亜美は残りの焼きそばをかきこむと、傍らのゴミ箱にパックを放り込んだ。ポケットから四つ折りにした大収穫祭のチラシを取り出す。

「……ここ真っ直ぐ行くと、ライブのステージか」

たまきの方を見ると、ようやく焼きそばを飲み込んだところだった。

「よし、ステージの方、行ってみようぜ」

「ミチ君の出番はまだだったと思いますけど……」

たまきも自分の貰ったチラシを見る。ミチのバンドの名前は9時ごろの登場と書かれている。今はまだ8時半。チラシには「DJタイム」と書かれている。

「お前なぁ、そんな、友達が出てるとこだけ見ればいいやって考えだから楽しめねぇんだよ」

たまきは口を真一文字に結んでいたが、亜美はたまきの右手首を掴むと、引っ張るようにステージに向けて歩き出した。

「亜美さん、痛い……」

そんな声が聞こえたような気がしたが、亜美は意に介せず、ずんずん歩いていく。

急に、たまきの足が急ブレーキをかけたかのように重くなった。

亜美も立ち止まって振り向く。

「どした?」

亜美の問いかけに反応することなく、たまきは、林の奥をずっと見ていた。

公園内の道沿いに、10mの間隔で街灯が置かれている。しかし、林の奥にはその光もほとんど届かない。目を凝らせばかろうじて、中の様子がぼんやりと見えるくらいだ。

「なんもないじゃん」

亜美は、たまきの手を引っ張った。

「はい……、何もないです」

たまきはそういうと、また亜美に手を引かれるままにとぼとぼと歩きだした。亜美には心なしかたまきがさっきよりもうつむいているように見えた。

 

二人は階段を駆け降りていく。階段を下りて行った先に大きな広場があって、普段は何にもないのだが、今夜は奥にステージが組まれている。

ステージの上にはDJブースが置かれ、サングラスをした色黒のDJがスポットライトを一身に集めている。ターンテーブルに手を置いて操作したかと思うと、ふたつのターンテーブルの間に置かれたミキサーで、何やら調整している。亜美はよくクラブに行く方だが、DJが機械のなにをいじれば音がどう変わるのか、亜美にはよくわからない。よくわからないんだけど、ステージ上に立つDJの姿は様になっていてかっこいい。

「なんかさ、前にもこういうのあったよな。二人でクラブ行ってさ……」

「……二人じゃなかったです。亜美さんの友達がいっぱいいました」

「そうそう、で、あんとき、志保に会ったんだよな」

「今日は志保さんに会ってから来ましたから、……あの時と逆ですね」

ステージの前には十代の後半から二十代の前半くらいの男女が入り乱れている。踊る、というよりも体を揺らす感じ。クラブに出入りするようなコアな音楽ファンという感じではなく、なんとなく集まってきた祭りの客がほとんどで、流れる曲もJ-POPのヒット曲ばかりだ。

亜美はたまきの手を引っ張ったまま、その群れに入っていこうとした。が、ここにきてたまきの足が、地中に錨でも沈めたかのように動かない。

「……大丈夫だって。ここにいる連中は、クラブにいた連中とは全然違うから。ライトな層だよ。ほら、ダンスのステップとか知らない感じじゃん。大丈夫だって」

亜美はにっと笑いながらたまきにそう言ったが、たまきはむなしく首を横に振るだけだ。

「私は……あそこで……見てます」

たまきは、広場のはしっこに植えられている木の根元を指さした。

「お前……ここまで来て、遠くから見てるってないだろう。ほら、行こうぜ。楽しいから」

亜美はもう一度、たまきの手をグイッと引っ張ったが、たまきはまたしてもむなしく首を横に振るだけだった。

「ったく……、しょうがねぇなぁ。じゃあ、そこで待ってろよ」

そういうと亜美は、たまきの手を放して群れの中へとわけ入っていった。

ステージからは軽快なロックサウンドが流れている。色とりどりの服を着た若者たちがステージの前を雲海のように埋め尽くし、踊るように体を揺らす。

人ごみと言っても、満員電車のように密集しているわけではない。ところどころ隙間が空いていて、空いたスペースを埋める名フットボーラ―よろしく、隙間をぬって亜美は前の方へと進んでく。

軽くステップを踏みながら群集の真ん中あたりまで来ると、右手を振り上げ、ギターのカッティングに合わせて亜美は体を揺らした。亜美が体を揺らすたびに、シャツの胸のところにかかれた英語が、豊満な胸の上下に押されて揺れる。

DJは続いてユーロビート風のナンバーをかけた。前の曲とBPMはほとんど一緒で、アウトロがフェイドアウトしていくと、次の曲が自然に耳に入ってくる。

ふと視線を感じ、右前方に目を向けると亜美の視界に、二十歳ぐらいの男性が映った。三人ぐらいだろうか、何やら話しながら踊っている。ヒップホップ系のファッションに身を包んでいた。

ヒロキのようなならず者、といった感じではない。大学生かフリーターかといったところだろう。

何度か視線を配るが、やはり3人のうちの一人はこっちを見ている。亜美の顔を見た後、ゆっくりと足の付け根まで見下ろし、そこからまた視線を上げて、胸元へ戻る。

金は持っていなさそうだが、遊び相手としてはちょうどいいかもしれない。

亜美は、手を後ろに組んで微笑みながら彼らのもとに近づくと、声色を少し上げて、甘えるように言った。

「なぁに? チラチラ見て」

 

シーン3 ミチ

写真はイメージです

ミチは歌っているときが何より好きだ。特に、ライブのように聞いてくれる人が大勢いる中で歌うのは最高だ。

とはいえ、そんなに何度もライブをして歌っているわけではない。未だに、一番最初にバンドのボーカルとしてステージに立った中学校の文化祭を越える人数の前で歌ったことはない。

あの時は演奏が終わり、ステージから降りて控室となっっているテントで倒れこんだ。

全身から吹き出した汗がその場で蒸発して、客席からの拍手と溶け合っていくのがわかる。

共にステージに上がったメンバーから何か声をかけられたが、ちっとも頭に入ってこなかった。

あの瞬間を何度でも味わいたい。それが、ミチがミュージシャンを志した理由だった。

とはいえ、今のバンドではリズムギターというポジションだ。

少し前まではあまり楽しくなかった。演奏にいっぱいいっぱいであるのもそうだし、ギターをバカにするわけではないが、あくまでもミチは歌を歌いたいのだ。

それでも、最近、音楽に関する考え方が少し変わってきた気がする。二週間ほど音楽から遠ざかっていた時期もあった。

仙人の前で歌って「ヒット曲の切り貼り」とこき下ろされてからはそのことばっかり考えていたが、頭を冷やして考えてみると、「声はよかった」とか「メロディも悪くない」とか、実は意外と褒められていたような気がする。

正直、歌声には自信があった。そもそも、中学のバンドでボーカルをしていたのも、カラオケに行ったときに「ミチって、歌、めっちゃうまくね?」と友人に褒められたのがきっかけだ。

だからミチにとって、声よりもメロディを「悪くない」と言われたのは、少し意外なことだった。

二週間ぶりにギターに触ったとき、鼻歌を歌いながらギターを奏でていた。鼻歌のメロディに合う音を探してギターをいじくる。

すると、いろいろと発見があった。こんな風に弦をはじくと、こんな音がするのか。こんな音が出せるのならば、こんな曲が作れるかも。

ギターを始めたときは間違えないように演奏するので精いっぱいだったが、いつしか、ギターを奏でるのが楽しくなってきた。

 

ギターを弾くのが楽しくなってくると、今までつまらなかったバンドでの練習も楽しくなってきた。

「ミチ、最近なんかあったか?」

バンドのリーダーであり、ミチのギターに師匠でもあるギタリストがそうミチに問いかける。仙人にこき下ろされてふさぎ込んでいたことは言いたくなかったので、

「最近、カノジョできたんスよ」

と答えておいた。

「マジか?」

「マジっす。今度のライブにも来てくれるって」

リーダーは腕を組むと、

「じゃあお前さ、次のライブで、コーラスやってみる?」

とミチに行った。

「マジっすか?」

「ああ、マジで」

さっきから、「マジ」しか言っていないような気がする。

「お前元々、ボーカル志望だろ? これでうまく行ったらさ、ツインボーカルの曲とかやろうと思っててさ」

「マジかよ……」

 

というわけで、今夜のライブはギターだけでなく、コーラスも担当する。ボーカルにハモるだけでなく、リードボーカルの裏で違う歌詞を歌うパートもある。ミチにしてみれば、これまでのこのバンドでの活動で最大の見せ場だ。ずっと正式メンバーなのかサポートメンバーなのか自分でもわからないポジションだったが、これをこなせば胸を張ってメンバーであると言える気がする。それどころか、きっと来てくれているはずの海乃にもかっこいいところが見せられる。

そう思うと、いつもよりも緊張が増す。イベントとということは、普段のこじんまりとしたライブよりも多くのお客さんが来てくれているはずだ。それを考えてしまうと、余計に緊張が増す。

だから、ミチはさっきから掌に「米」の字を書いては、ぺろりと食べる動きをしていた。

「お前、さっきから何やってんだ?」

バンドのボーカルがミチに話しかける。

「緊張しないおまじないっす。手に『米』って書いて……」

「『人』じゃね?」

ボーカルの言葉に、ミチは思わず手の動きを止めた。

「……じゃあ、『米』ってなんの時にやるんすか?」

「さあ? 腹減った時じゃね?」

なんだか、ミチは余計に緊張してきた。そんなタイミングで、舞台袖の方から声が聞こえる。

「そろそろスタンバイしてくださーい」

 

夜の野外ステージから聴衆の方を見下ろす。普段、ライブハウスで歌うときは客席は真っ暗で、ステージ上だけライトが当たっているので客の顔はほとんど見えない。最前列の何人かの顔が見える程度である。しかし、今日のステージでは、観客のスペースの後方から強烈なライトが会場全体を照らしているので、観客たちの様子がよく見える。

ざっと百人たらずといったところだろうか。中学の文化祭のころに比べればまだ少ないが、本格的に音楽を始めてからこれだけの人数の前で演奏するのは初めてな気がする。少なくとも、いつも隣にたまきしかいない、なんて状況に比べれば、だいぶ違う。

ミチは海乃の姿を探した。しかし、真っ先に目に入ったのは、観客スペースの中央で「ミチ―!」と大声を出している金髪ポニーテールの少女、亜美だった。亜美は見覚えのない男と肩を組んでいる。亜美がいるのなら、たまきや志保もいるかもしれないと観客スペースを探したが、それらしき顔は見つからなかった。

一方、海乃は最前列にいた。最前列にいたので、逆にすぐ見つけることができなかった。茶色い髪を結んだツインテールの髪型をしている。ミチと目が合うと、小さく手を振った。

観客スペースの百人のオーディエンスを見渡したときよりも、心拍数がぐっと上がった。

「こんばんは。レイブンスターズです。今日は、盛り上がっていこうぜぇ!」

ボーカルのあいさつに、オーディエンスがわっと沸く。

ベーシストがベースで低音のメロディラインを奏でる。4小節奏でたところで、ドラムが割って入り、ドラムの音を合図にミチもギターを奏で始めた。

ステージの上手から見る客席は、まるで夕方の海のようだ。色とりどりのファッションに身を包むオーディエンスはさながら、夕日を反射して煌めき、うねる海原だ。

跳ねるようなドラムの音に合わせて、ミチはギターを激しくストロークした。「ロック(ゆれて)&ロール(ころがる)」という言葉の通り、体を激しく揺らし、音を譜面の上に転がしていく。互いの楽器は恐竜の咆哮のように爆音を奏で、その音と同調するようにオーディエンスも体を揺らす。

曲の終わりにミチは激しく体を動かして最後の一音を奏でると、右の人差し指を天に付けて突き立てた。

本当にやりたい音楽とは、少し違うのかもしれない。それでも、今、自分は輝いている。そのことが実感できた。

 

3曲目のバラードもいよいよサビに入る。ボーカルの歌声が伸びるところで、ミチがコーラスを入れる。

――I love you baby

歌詞としては簡単なフレーズだが、ファルセットを使った歌唱法で、ただ歌えばいいというものではない。両手でギターを弾きながらスタンドマイクの前に口を持って来て、自分の声を通す。

サビが終わり、ミチはマイクの前をすっと離れた。手元を確認しようと視線を落とすと、海乃が微笑んでいるのが見えた。ミチは、微笑み返すとピックで優しく弦をはじいた。

 

5曲の演奏を終え、ミチたち「レイブンスターズ」はステージを降りた。実行委員のシャツを着た女性に促されるまま、控室のテントへと進む。

しばらくは拍手や歓声が響いていたが、やがて観衆の興味はトリに控える歌手へと移っていった。彼女はレイブンスターズのような一般公募ではなく、メジャーデビューして半年ほどで、実行委員から招待されて出演する、いわばこのイベントの目玉である。知名度はまだまだ低いが、注目度は高い。

中学の文化祭の時に比べると、ミチは落ち着いていた。あの頃に比べると、だいぶ場馴れしてきたらしい。

ギターケースを背負って控室となっていたテントを後にすると、

「みっくん」

と声をかけられた。その方を向くと、海乃が近寄ってきた。

「よかったよ~」

海乃は両の手のひらを見せながらとことこと歩いてきた。ミチも同じポーズで構えると、海乃とハイタッチをした。

「なに、カノジョってその子?」

リーダーの問いかけに、ミチは笑顔で返事する。

「へぇ、かわいいじゃん」

かわいいと評されて、海乃の笑顔はますます明るくなった。そのさまを見ていると、ミチは心臓をきゅっと軽く握られたような感覚を覚えた。

海乃はミチの方に向き直ると、手をぶんぶんさせながら言った。

「ギター、すごいかっこよかったよ~。コーラスもやってたよね。あたし、ぐっときちゃった」

「マジっすか? 最前列にいましたよね」

「うんうん、いたいた。みっくん、手を振ってくれたよね」

海乃の言葉を聞きながら、ミチはふと公園の奥の雑木林の方を見た。

仙人のおっさんは、今日の演奏を聴いてくれたのかな。聴いていたのなら、いったいなんていうのだろうか。

「みっくん」

再び海乃に呼びかけられて、ミチは彼女の方に視線を戻した。

「今日、この後どうするの?」

「……この後はバンドのみんなと打ち上げっす」

「じゃあさ、その後でいいからさ……会えない?」

言葉と言葉の間の空白で、海乃は悪戯っぽく微笑んだ。

「……いいっすけど、十二時過ぎるかもしれないっすよ?」

「……いいよ」

海乃はうつむきがちに、それでいてミチの目をしっかりと見据えながら答えた。ミチはさっきよりも心臓を強くつかまれた気がして、思わず視線を落としたが、シャツの胸のふくらみが目に入り、そこに視線が釘付けとなった。

「……マジっすか」

 

シーン4 たまき

レイブンナントカというバンドの演奏が終わって、スタッフらしき人たちがステージ上の配置転換をした後、着飾った女性が一人、マイクを持ってやってきた。聴衆もどんどん増えていく。

女性はステージ上であいさつをした後、歌い始めた。女性にしては低い声だ。

歌詞は、ミチがよく歌っているような歌に少し似ていた。

ふと、たまきの視界にミチが映った。ステージ横のテントの前で、女の人としゃべっている。女性の方は後ろ姿なので顔はわからないが、あの海乃っていう人だろうか。

「たーまき」

後ろからとつぜん声をかけられて振り向くと、そこには亜美が立っていた。亜美の周りには3人ほど見知らぬ男性がいる。

「ウチ、これからこいつらと飲みに行くから」

「……この人たち、誰ですか?」

「ん? さっきできたトモダチ」

なんで亜美さんはそんなに簡単に友達が作れるんだろう。

「なに、この子? 友達?」

男の内の一人が亜美に尋ねる。いつも亜美の周りにいる男と比べると、だいぶ爽やかだ。

「そうそう、一緒に住んでるの。でさ、ウチはこいつらと飲みに行くけど、たまきはどうする? 来る?」

たまきはぶんぶんとかぶりを横に振った。

「ま、そういうと思ったよ。部屋のカギ、渡しとくから先帰って」

亜美はたまきに鍵の入った財布を渡した。鍵には赤い紐で鈴が結び付けられている。

財布を渡すとき、亜美はたまきの耳元でささやいた。

「預かってて。千円くらいだったら、使っちゃっていいよ。なんか買って食べたら?」

そういえば、さっき亜美は「デートに財布は持っていかない主義」だと言っていた。あの男たちに飲み食い代を払わせるつもりだろう。

「今夜はかえんねぇから」

……ラブホテル代も払わせるに違いない。

 

亜美は男たちに囲まれ、そのままどこかへ行ってしまった。

たまきは、財布の中の鈴のついた鍵をしばらく眺めていた。ステージからはアップテンポなビートに乗って、さっきの歌手の歌声が聞こえてくる。

たまきはとぼとぼと歩き、広場を後にした。志保と合流しようと、クレープ屋のあった方へと歩いていく。

暗い闇の中にそこだけ光のチューブのように道が伸び、その中を色とりどりの服を着た若者たちが歩いている。男子の集団はワイワイはしゃぎながらフランクフルトを頬張り、カップルは恋人つなぎをしながら綿菓子にむしゃぶりつく。

人の流れに逆らう形で、たまきはクレープ屋を目指していたが、ふと、歩みを止めた。

ちょうど、店が途切れた一角だ。街灯と街灯の間にあり、その奥には林が広がっている。いや、広がるというよりも、鬱蒼とした茂みに闇を閉じ込めているようだった。

その闇の中にどれだけ目を凝らそうと、何も見出すことができない。

ほんの一週間ほど前には、そこにベニヤづくりの庵があった。椅子に腰かけ、仙人やホームレスのおじさんと一緒にミチの歌を聴いていた。

だが、祭りの間はいなくなるという仙人の言葉通り、庵は跡形もなくなくなり、後には木が生い茂るだけ。いつもたまきの隣で歌っていたミチはステージ上で輝き、今頃カノジョといちゃいちゃしている。志保はたまきの知らない人とクレープを焼き、亜美は知らない男の人たちとどこかへ行ってしまった。たまきがいつも来ていた公園も、見知らぬ人たちが行きかう。

「わしらはここにいてはいけないからな」

そんな仙人の言葉が、たまきの頭の中で響く。

 

クレープ屋の前まで来たが、お客さんはおらず、志保は施設の人たちと談笑していた。そろそろ午後十時になろうとしている。二日にわたって開かれた祭りも、終わる。

志保が談笑する中、たまきはなかなか声をかけられないでいた。なんだか、志保とのあいだに川が流れて風が吹いているかのように冷たさを感じる。

志保がたまきに気付いたのは、たまきが辿り着いてから2分ほどたってからだった。

「あ、たまきちゃん」

志保はクレープ屋の屋台から出てきた。

「もう、お店は終わりだよ。あれ、亜美ちゃんは?」

「……なんか、知らない男の人たちと、どこかへ行きました。……今夜は帰らないみたいです。だから、鍵は今、私が持ってます」

そういうと、たまきは少し声のトーンを落とした。

「志保さんは今日、帰ってきますよね……」

幼い日に、夜中に姉を起こして、一緒にトイレへ行ってほしいと頼んだ時もこんな喋り方だった気がする。

志保は、背後の屋台を見やると

「ごめん。この後、施設のシェアハウスで打ち上げがあって、今夜はそのまま泊まると思う」

「……そうですか」

実は、たまきは、なんとなくそんな気がしていた。風も急に強くなったように感じられる。

「一人で、帰れる?」

「……いつも、ここ来てますから」

たまきは志保の目を見ることなく答えた。

屋台から、志保を呼ぶ声が聞こえた。志保が振り向くと、トクラが立っていた。

「カンザキさん、そろそろ行くよ」

「あ、ちょっと待って」

志保はたまきに向き直ると、少し腰を落として、たまきの目線に合わせて言った。

「この後、パレードに参加するんだけど、たまきちゃんも来る?」

「……ぱれーど?」

たまきは視線を上げて志保に聞き返した。志保はポケットからサイリウムを取り出した。縁日で売っていそうな安物だ。

「これもって音楽かけながらみんなで練り歩くの。広場からメイン通りを抜けて、公園の外を一周するんだ」

なんのためにそんなことを……、という疑問をたまきはぐっと飲み込んだ。もう、そんな余計なことをしゃべる気にもならない。

「たまきちゃんも一緒に、来る?」

志保の誘いに、たまきはむなしく首を横に振った。

「私……、お店とかやってないし……」

「あ、そういう、お店出した人だけとか、そういうんじゃないの。サイリウム買えば、だれでも参加できるんだよ」

志保はやさしく言ったが、それでもたまきは首を横に振る。

「ね? 一緒にいこ? 仮装してる人とかもいるし、楽しいよ、きっと」

それでも首を縦に振らないたまきを見て、声を出したのは志保の後ろにいたトクラだった。

「もう、いいじゃん。その子、行きたくないって言ってるんだから」

そう言ってトクラは志保の肩をたたいた。志保も困ったように笑うと、

「じゃあ、たまきちゃん、一人で帰れる?」

そこでたまきは初めて首を縦に振った。

「それじゃあ、気を付けて帰ってね」

志保はそういうと、微笑みながらたまきに小さく手を振り、くるりと向きを変えると、トクラとともに屋台の方へと戻っていった。しばらくすると、屋台からカラフルなサイリウムを持った一団が出てきて、広場の方へと向かって行った。その中には志保の姿もあった。同い年ぐらいの女の子と、何やら楽しそうに話している。

今度は志保に言われた言葉が頭の中で鳴り響いていた。どこかで聞いた言葉だと思ったら、むかし中学校の先生に言われた言葉に似ていた。

「ね? 学校いこ? クラスの子もいっぱいいるし、楽しいよ、きっと」

 

メイン通りを少し外れた芝生の上をたまきは歩いていた。緑の芝生の上を闇が漂い、たまきはふらふらと、蛾のように街灯の下へ向かって歩いていく。

街灯の下には木製のベンチがあった。このあたりは人気が全くなく、傍らに置かれた青い自動販売機の光が、さびれたホテルのような雰囲気を醸し出している。

たまきはベンチに腰を下ろすと、こうべを垂れた。

亜美や志保、ミチの顔が浮かんでは流れるように消え、また浮かぶ。それらはいずれも色のないモノクロで、なんだか、昔の映画を見ているようだった。

たまきは一人、客席に座ってスクリーンに映る銀幕のスターたちを眺めている。たまきもスクリーンの向こうへ行きたいのだが、どうしてもいけない。近づけば近づくほど、自分とは違う世界の映像を映写機で映しているだけのように思えてならない。

ふと、目の奥が震えるのを感じる。瞳からこぼれた雫がメガネのレンズをぬらし、たまきの視界がゆがんだ。

喉の奥から地響きのような激しい嗚咽が走り、こらえようと思ったが口から洩れてしまった。たまきはメガネをはずすと傍らの、ベンチの空いたスペースにそっと置いた。

そしてたまきは身を大きく前へ乗り出して、突っ伏した。

上半身を折りたたみの携帯電話のように曲げ、たまきは膝をまとうスカートに目頭を押し付ける。

静寂に包まれた夜の公園のベンチ。遠くではテンポの良い音楽がかかり、ほかに聞こえるのは自販機から洩れるなにかの機械音と、たまきの嗚咽と鼻をすする音だけだった。

 

写真はイメージです

ふと、だれかが落ち葉を踏んだ音がした。たまきは顔をあげてそっちを見た。

見たと言っても、メガネをはずしてしまったのでよく見えない。おまけに、涙にぬれて視界はぐちゃぐちゃだ。かろうじて、目の前の影が人かもしれない、ということしかわからない。たまきの身長よりも大きな影が見えるが、都心の真ん中にくまはいないはずなので、人の影で間違いないだろう。ふと、その影が声を発した。

「もしかして、たまき?」

聞き覚えのある声にたまきは傍らのメガネを手に取って装着した。それでもまだ若干視界はなみだで歪んではいたが、目の前にいるのが誰かくらいは識別で来た。

「……舞先生?」

薄手のジャンパーを羽織り、ジーンズをはいた舞がそこにいた。

「やっぱお前か! メガネ外してたから、最初わかんなくてさ。どこかでこの子みたような、って考えてたら目がお前に似てるなってきづいて。いやぁ、メガネ外すと、だいぶ印象変わるな」

「……よく言われます」

たまきは舞から視線をそらすと、袖でメガネを上へと押しやり、残ったなみだの雫をふき取った。泣いてたことなんて、気づかれたくない。

舞はその様子を見て、口元を少し緩めた。ふと横の自販機に視線を移すと、

「自販機あるじゃん。なんか飲むか? おごるぜ」

というとショルダーバッグから財布を取り出した。

「なにがいい? えっとね、リンゴジュースと……」

「……それでいいです」

がこんと缶が落ちる音が二回した後、舞の手には二本の缶が握られていた。舞はそのうちのリンゴジュースをたまきに手渡すと、

「となり失礼」

と言ってたまきの隣に腰を下ろした。コーラの缶のプルタブを開け、グイッとのどに押しやる。

二酸化炭素を吐き出すタイミングで舞がたまきの方を見やると、たまきはまだプルタブと格闘していた。小さな親指をプルタブに引っ掛けるが、何度やっても親指が外れてしまう。

「なんだ、お前、開けられないのか。かしてみ」

舞はたまきから缶を受け取ると、あっさりとプルタブを開けてたまきに返した。たまきは申し訳なさそうに缶に口をつけた。

舞は、再びコーラを飲むと、声帯の、さらに奥から息を絞り出すように言った。

「ああ、やってらんねぇよなぁ」

その言葉にたまきは、水をかけられたかのように驚き、舞を見た。

「そう思わんかね。今、あいつら何やってるか知ってるか? パレードだってよ。遊園地でもないのにパレードなんかして何すんだよ。あんなの、写真うつりがいいからやってるだけだろ」

舞が飲んでいるのは確かにコーラのはずなのだが、もう既に酔っぱらっているかのような口調で舞は続ける。

「だいたい、なんなんだよ、この祭り。『食物に感謝を』? だったら、畑にでも行って農家のおっさんとかに『いつもありがとう』っていやぁいいじゃねぇか。東京のど真ん中の公園でやる必要なんか、一個もねぇだろ。たまき、なんでこんな祭りが毎年毎年開かれてるか知ってっか? みんな自分がリア充だって確かめたいだけなんだよ。企画してるやつらも、店出してる奴らも、ステージでてる奴らも、ワイワイ盛り上がってる客もみんな、自撮り写真とか撮って、『私たち、やっぱりリア充だったんだねぇ~♡ よかったねぇ~♡』って確かめ合って安心したいだけなんだよ。一生ともだち申請でもやってろ、バーカ」

舞はまたコーラを口に含んだ。そして、たまきの顔を見ると少し照れたように、

「なんだよ。何笑ってんだよ」

とぼやいた。

「…笑ってました、私?」

「笑ってるだろ」

「その……、舞先生って、こういうイベントごと、嫌いなんだなぁって」

「志保の頼みじゃなかったら、絶対こなかったね。楽しくねぇもん」

舞は缶から口を話すと、つぶやいた。

「昔っからこういうイベントごとが嫌いでな、こんなんだから、ガキの頃から友達も多くない」

「そうなんですか?」

たまきが今日一番のテンションで聞き返した。街の不良たちに先生と慕われている姿からはちょっと想像できない。

でも、とたまきは視線を落とす。舞は「多くない」といったのだ。たまきのように、友達がいなかったわけではない。だいたい、舞がたまき側の人間なんてことはあり得ない。

「でも、先生、結婚してたじゃないですか……」

「ん? なんだよ。友達少ないのに結婚したのは変だって言いたいのか?」

「カレシだって……、いたわけですよね」

「まあ、何人かとは付き合ったな」

やっぱり。とたまきは肩を落とす。少なかったとはいえ友達がいて、カレシがいて、一度は結婚して、舞はやっぱりたまきとは違う側の人間なんだ。舞だけじゃない。亜美も志保もミチも、少し仲良くなれたように思えたけど、やっぱり私とは違う側の人間なんだ。

「でもなぁ、カレシは何人かいたし、結婚もしたけど、ついぞ恋人はいなかったなぁ」

舞のその言葉に、たまきは半ばあきれたように返した。

「……カレシと恋人ってどう違うんですか?」

「一緒なのか?」

その言葉を聞いてたまきは、舞を見た。舞もたまきを見ている。

「……私には、その違い、わかんないです。だって、私、カレシとか、友達とか、そういうのいなくて……」

「友達ならいるじゃねぇか。亜美とか志保とかミチとかさ」

そして、舞は飲み干したコーラの缶を傍らに置いた。

たまきは言葉を返さなかった。何か言いたかったのだが、「友達」という言葉が鼓膜を打った途端に唇がけいれんして思うように動かせない。舞の耳に聞こえたのは、鼻をすする音と、しゃっくりのような嗚咽だった。

「お前、何泣いてんだよ」

「だって……だって……」

たまきは嗚咽を交えながら、言葉をつづけた。

「亜美さんも志保さんもミチ君もみんな、お、お祭りを楽しんでて、わ、わたしだけ楽しめなくて、い、いろいろ気を遣わせて、『い、いっしょに行こう』って言ってくれて。でも、ち、ちがうの。わ、わたしは、あ、亜美さんと志保さんに……」

たまきは、そこで言葉を切ると、袖で涙をふいた。泣くなんてわかってたら、ハンカチを持ってくればよかった。

声帯がけいれんして嗚咽を繰り返す。そうやって、たまきのことばを喉の奥へ奥へ通し戻そうとする。

でも、今、この気持ちを誰かに伝えなかったら、もう一生誰にもこの気持ちを伝えられないような気がした。この願望にきちんと言葉をつけてあげなければいけないような気がした。

たまきは、大きく息を吸うと、声を上げた。

「わ、わたしは、ふたりに、い、こ、こっち側に来てほしかった!」

小刻みに震えるたまきの背中を、舞がさすった。大粒の涙が頬からぽろぽろこぼれ落ちる。

「わがままなのはわかってるけど……わ、わたしは、『い、いっしょに祭りに行こう』とか、『こ、こ、こっちに来れば楽しいよ』とか、そ、そういうのじゃなくて……、わたしは、ふたりに、いっしょにおまつりをぬけ出してほしかった! ずっといっしょにいてなんてわがままは言わないから、ほんの2,3ふんだけでいいから、二人に、いっしょにこっち側に来てほしかった!」

たまきの嗚咽は止まらない。

「こんなふうに、に、にぎやかなところからはなれていっしょに……。でも、わかってもらえなくて、みんな、お祭りにな、なじめてて、わ、わたしだけなじめなくて、、うまく言えなくて……、いっ、えっ」

あとはもう、言葉にならなかった。言いたかったことはまだまだたくさんあるのに。

舞は、たまきの背中を優しくさすりながら、優しく微笑むと、静かに、囁くように言った。

「たまき……あたし、今夜お前のところ泊まろうか?」

つづく


次回 第14話「朝もや、ところにより嘘」

舞の家に泊まることとなったたまき。そこで舞はたまきに話す。「人はさみしさからは絶対に逃げられない」。翌朝、たまきはミチと海乃に鉢合わせする一方、志保はある人物と再会する。

つづきはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」