「つまらない」と言われたアニメ『サクラクエスト』が起こした奇跡

正直、驚いている。

2017年の4月から半年間放送されていた深夜アニメ「サクラクエスト」。

その最終回に合わせて、「『サクラクエスト』がつまらないと言われ続けた本当の理由」という記事を書いた。

当時、SNSなどで「つまらない」と言われていたことに対して、「そんなことないべ」と一言いいたくて。

記事をアップした当初は意外と反響があったが、正直、放送が終わったら閲覧数も落ちるだろうと思っていた。

3か月たっても閲覧数が落ちず、「意外と持つなー」と思った。

6か月たっても閲覧数が落ちないどころが、気づいたら100以上あるこのブログの記事の中でも、閲覧数トップ3圏内を不動のものとしていた。

最終回から1年たって、さらに驚くべき現象が起きた。

「私もサクラクエスト見ました。サクラクエスト大好きです」というコメントが寄せられるようになったのだ。

もう一度言う。最終回から1年が過ぎている。

この1年、物語の舞台・間野山のモデル、富山県城端町ではいろいろと活動してはいるが、大々的なメディア展開はほとんど行っていない。

名作だと思うが、人気作でも話題作でもないと思っている。

にもかかわらず、みんなどこから発掘してくるのか、サクラクエストを見て(全25話と、アニメとしては結構長い)、サクラクエストが好きになる。

気付けばグーグルの検索にも、「つまらない」よりも上位に「続編」が来るようになった。

「つまらない」と言われたアニメが、1年たっていまだ愛されるという奇跡。その理由を探るため、1年ぶりにサクラクエストについて筆を執ることにした。

「サクラクエスト」のおさらい

まずは、アニメ「サクラクエスト」のあらすじを駆け足でおさらいする。「知っとるわい」という人、ネタバレ絶対ダメという人は読み飛ばして構わない。

物語の舞台は富山県の架空の田舎町、間野山。ここには「チュパカブラ王国」という閑古鳥のなくハコモノ施設があり、そこの「国王」、いわば観光協会の旗振り役に、とある手違いから東京のごく普通の女子大生・木春由乃(こはるよしの)が就任してしまう事から物語が始まる。

由乃は当初、東京へ帰ろうとするが、いろいろあって、間野山で出会った仲間たちとともに1年間「国王」の仕事を全うすることを決意する。

メンバーは由乃のほかに、観光協会に勤めるしおり、東京で役者の修行をしていたが夢がかなわず間野山に帰ってきた真希、しおりの幼馴染でひきこもりの凛々子、東京からやってきたITに強い早苗の5人。

5人の仲間たちが、町おこしの活動を通して、時に壁にぶつかったり、悩んだり、自信を無くしたり、様々な困難にぶつかり・乗り越えていきながら、成長し、自分の居場所を確立していく物語である。

最終回は何度見ても泣ける。泣いてしまう。

どうしてサクラクエストは「つまらない」と言われるのか

さて、ここからが本題。「つまらない」と言われたサクラクエストが、なぜ放送から1年以上たっても愛され続けるのか。

そのためにはまず、なぜ、サクラクエストは「つまらない」と言われたのかを考えよう。

その理由を探るのは意外と簡単だ。今や年間100本以上の深夜アニメが作られている(と思う)。

つまり、今や、アニメを研究する上でのサンプルには事欠かない。人気作・話題作と呼ばれるアニメをサンプルに、サクラクエストと比較していけば、答えは見つかるはずだ。

さて、様々な要因があると思うが、「つまらない」と言われた一番の原因はこれではないだろうか。

登場人物の年齢設定が高め。

ここまで年齢設定が高いアニメはそうそうない。

人気作・話題作と言われるアニメ、とくに女の子たちが主人公のアニメを見ていると、登場人物はほとんどが年齢設定が低く未成年、女子中高生だ。

そう、若い・幼い女の子の方が人気が出るのだ。だって、その方がかわいいじゃん。

だが、サクラクエストはメインキャラ5人がしょっちゅう酒盛りしている時点で、全員成人しているとみて間違いない。

この中で年齢が明かされているのは20歳の由乃だけ。ほかのキャラは推測するしかないが、1話目でしおりが由乃に対して「同年代」だと言っていたから、しおりも20~21くらいだろう。しおりの同級生である凛々子も同い年のはずだ。

そして、真希は凛々子と同じ小学校を卒業していて、凛々子曰く「たぶん1年かぶってる」。そう考えると、真希は20代後半と見るのが妥当だろう。弟の年齢から考えると、真希は25歳。その5歳下だとしおり・凛々子は20歳、由乃と同い年になる。

早苗の年齢を示唆するものは特にないが、その話しぶりからして、おそらく大卒だろう。大学を卒業してある程度社会人経験があるとなると、やはり真希と同じくらいの年齢ではないか。

他のキャラクターはほとんどが中高年。未成年のキャラなんて数えるほどしかいない。

これが、これが田舎の現実か……

しかし、いくらサクラクエストがリアリティあるアニメだから年齢設定は高めなんだと言っても、このままでは人気が出ない。ここはひとつ、地元の美少女女子中高生5人を主人公にしよう。きっと人気が出るぞ!

……とはならなかったのである。そうはしなかったのである。なぜだろう。

それは、キャラクターの性質に大きく関係していると僕は考えている。

サクラクエストの年齢設定が高いわけ

メインキャラの5人は、皆それぞれ、挫折やコンプレックスを抱えている。そのことが、年齢設定に関係しているのだ。

ひとりひとり見ていこう。

主人公の由乃は東京での就活に失敗し、間野山にやってくる。彼女は自分が「ふつう」であることに大きなコンプレックスを抱いている。個性に対して挫折しているわけだ。

由乃はもともとは田舎の出身だったが、田舎は嫌だと東京に出てくる。しかし、東京では就活に失敗してしまう。故郷を拒絶し、都市からは拒絶されたのである。

真希は間野山を出て役者の夢をかなえるため東京に行くが、夢がかなわずに帰ってくる。典型的な夢に対しての挫折だ。また、東京で夢を追うもかなわなかったことで都市から拒絶された形となる。

真希と同じ、東京からやってきた早苗だが、真希が間野山出身であるのに対し、早苗は東京出身だ。東京の会社で働いていたが、自分が病欠しても問題なく回る会社や東京の町を見て虚無感を感じ、逃げるように間野山へとやってきた。早苗は仕事に対する挫折と、都市空間に対する喪失感を抱えている。

一方、凛々子は東京には特に縁がない。彼女の場合は学校になじめず、高校卒業後はひきこもるようになる。人間関係に対して挫折を抱え、故郷から拒絶された形だ。

この4人と比べると、しおりはこれといったコンプレックスはない。彼女は間野山が大好きで、大好きな間野山をもっと知ってもらおうと、観光協会で働いている。だが、問題があるのは間野山の方だ。大好きな街なのに、どんどんさびれ、廃れ、街としての機能を失っていく。故郷がその機能をなくし、喪失していくのだ。

表にするとこんな感じだ。

挫折・コンプレックス 空間とのかかわり方
由乃 個性に対する挫折 都市からの拒絶

故郷への拒絶

真希 夢に対する挫折 都市からの拒絶
凛々子 人間関係に対する挫折 都市に対する喪失
早苗 仕事に対する挫折 故郷からの拒絶
しおり 特になし 故郷の喪失

しおりだけコンプレックスが「特になし」なのだが、これにはちゃんと理由があって、それについては後述するので、今は流しておいてほしい。

これを見るとわかる通り、それぞれのキャラクターが何らかの挫折を経験しており、さらに都市や故郷といった空間に対して、何らかのネガティブなつながりがある。

つまり、この5人の中に、視聴者に近いキャラクターが、ほぼ確実いるというわけだ。

個性に対して悩みがある人は由乃に共感するし、夢に挫折した経験がある人は真希に惹かれる。都市の中で自分はいなくてもいいと感じた人は早苗に共感するし、人見知りは凛々子に共感する。さびれた田舎に住む人ならしおりに共感するだろう。

こういうキャラクターを作ろうとなると、「美少女5人組」というわけにはいかなくなる。

田舎から東京に行くも東京から拒絶された由乃、東京で夢を追うも敗れた真希はあるていど年齢設定を高くしないと成り立たないし、仕事に対して挫折した早苗はそれなりの社会経験が必要である。

ゆるかわ美少女5人組では、サクラクエストは全く成り立たなくなってしまうのだ。

なぜそこまで「挫折」を経験しているキャラクターが必要なのか。

それこそが、サクラクエストが愛され続ける理由である。

サクラクエストのキャラクターの秘密

もう一度、いわゆる人気作・話題作の美少女キャラクターについて見ていこう。

彼女たちは単に「若い」以外にも、人気が出る要素を持っている。

かわいいのだ。

「かわいい」をより具体的に言うと、「視聴者の理想のキャラクター」という意味になる。

ビジュアル面では、美少女キャラ、セクシー系、ロリっ娘、ボーイッシュなど、性格面ではツンデレ、おしとやか、天然系、そのほかにも姉属性、妹属性と、視聴者の「見たいキャラクター」を見せる。

だからこそ、物語を離れてもキャラとして独立して売ることができる。動きもしゃべりもしない美少女フィギュアが人気なのは、そのキャラクターが買い手にとっての理想であり、その人にとっての「見たいもの」だからだ。

俗な言い方をすれば、キャラクターが物語から独立した「商品」として機能する。

だからこそ、人気が出る。

ところが、サクラクエストはそのようなキャラ展開ができない。

キャラクターのつくりからして、それができないのだ。

サクラクエストのキャラクターは、挫折を経験している。

その姿は、見る者にとっての理想・見たい姿ではない。

先ほど、挫折を経験することで、共感しやすくなると書いた。

つまり、同じ挫折を経験しているキャラクターは、まるで鏡に映った自分の姿のように見える。

これは、必ずしも「見たい姿」ではない。むしろ、挫折を経験した自分の姿、コンプレックスを抱えた自分の姿など、「もっとも見たくないもの」なのではないだろうか。

そう、サクラクエストのキャラクターたちは、アニメとしては珍しい「見たくない姿」なのだ。

なぜわざわざ「見たくない姿」のキャラクターを描くのか。

サクラクエストのキャラクターたちは、アニメの中に映し出された自分の姿そのものである。自分の分身である。

視聴者は、挫折やコンプレックスを手掛かりに、彼女たち5人のうちの、自分に近いキャラクターに自分を投影することで、サクラクエストを「自分の物語」として見ることができる。

「まるで自分の分身だ。見たくない」という思いを乗り越え、その一歩先へ、そのキャラクターを自分の分身だと認め、自分を重ね合わせることで、サクラクエストは「自分の物語」となるのだ。

実際、凛々子がメインとなる第10話・第11話を見た時は、「あれ、この脚本、僕が書いたんだっけ?」と錯覚するほど、自分を投影した。

だから、彼女たちは普通のアニメキャラと違い、物語から独立することができない。彼女たちは視聴者を物語の中に引き込み、視聴者の物語の中での分身として機能して初めて、その真価を発揮する。

そして、彼女たちが直面する困難も、決して非現実的なものではない。怒られたり、自信を無くしたり、抗いがたい力に流されたり、それは、今自分が直面している問題や、明日自分が直面するかもしれない問題とどこか共通点がある。

自分が分身が、自分と同じように困難にぶつかり、乗り越え、居場所を作っていく。自分の分身が頑張る姿に励まされ、自分本人もがんばれるようになる。自分の分身が発した言葉に、自分本人が救われることがある。

そうして、このサクラクエストというアニメは、見ている人それぞれにとって、「自分の物語」となる。自分が投影された、自分の想いや自分の人生が描かれた、自分の物語。

だから、愛されるのだ。

サクラクエストは人気作ではない。話題作でもない。

だが、名作である。愛される作品である。

サクラクエストにおける四ノ宮しおりの役割

そう、だからサクラクエストは愛されるのだ。

めでたしめでたし。

……と話を終わらせるわけにはいかない。一つ、置き去りにしていたことがある。

四ノ宮しおりだ。

メインキャラそれぞれが何らかの挫折を経験しているのに、しおりだけ「特になし」

その理由に言及しなければいけない。

なぜ、しおりだけ挫折・コンプレックスが「特になし」なのか。

ここまで書いてきたように、サクラクエストのキャラクターのほとんどは物語の中で見る者の分身となることで初めて機能をする。

ただ一人を除いて。

そう、サクラクエストの中で唯一、物語から独立できる、見る者の理想・見たいものとして機能するキャラクターこそが、四ノ宮しおりなのだ。

そもそも、深夜アニメを見る層の多くは、アニメに対して、自分の見たいキャラクターの提供を求めている。そのニーズにたった一人で応えるキャラクターこそがしおりなのだ。

実際、ファンの中でもしおり人気は高い。ゆるかわ・おしとやか・巨乳・方言女子と、物語から独立し、商品として機能する属性を備えている。

もちろん、由乃のねんどろいどがあったりと、他のキャラクターも「商品」としての機能を果たせるが(ちなみに、私が一番好きなキャラは凛々ちゃんです)、これまで見てきたように、それがキャラの本質ではないし、本来は向いていない。

そんな中で、見る者の分身ではなく、理想として、アニメオタクに向けた「商品」という役割を担えるのほぼ唯一のキャラクターこそがしおりなのだ。

だから、彼女は挫折を経験していない。挫折を経験したキャラクターは、人によっては自分の分身に見えてしまうから。

そうではなく、「理想のキャラ」に特化したほぼ唯一のキャラクター、それが四ノ宮しおりである。

もちろん、彼女一人で世のアニメオタクの人気を総取りすることなんてできない。人それぞれ、好みが違い、しおりのようなキャラが好きなオタクもいれば、特にそうでもないオタクもいるからだ。彼女一人で賄える人気には限度がある。

それでも、彼女はサクラクエストの作品とオタクの間を取り持つとりもち大臣として、ただ一人、他のキャラとは違った役目を担っているのだ。

重責だろうか。

それでもきっとしおりさんは、「だんないよ」と笑ってすますことだろう。

『サクラクエスト』がつまらないと言われ続けた本当の理由

半年にわたって放送されてきたアニメ『サクラクエスト』が来週で最終回を迎える。この半年間、Twitterで「サクラクエスト」と入力すると、常にサジェストで「つまらない」と表示されてきた。なぜ、サクラクエストはつまらないと言われ続けてきたのだろうか。


アニメ『サクラクエスト』とは?

サクラクエストのあらすじ、何度も書いてきた気がしていい加減めんどくさいから、これ見て(笑)

「サクラクエスト」第2クールを振り返って見えて来たもの

第1クールについての分析は「『サクラクエスト』の描く町おこしの本質 彼女たちが間野山に留まる理由」という記事で描いたので今回は深く掘り下げない。

ただ、第1クールの最後に描かれた、「建国祭に人気ロックバンドを呼び、イベント自体は大成功だったけど、街の活性化にはつながらなかった」という展開はものすごく重要である。

この話をターニングポイントに、間野山の町おこしの方向性が大きく変わっていった。

第1クールでは間野山彫刻のPRや映画撮影の招致、B級グルメの開発やお見合いツアーなどが行われ、その集大成として建国祭が大々的に行われた。

一方、第2クールで行われた街おこしの活動は、次の通りだ。

・へき地の集落の老人たちにインターネットを教える

・へき地の集落のためにデマンドバスを運行させる

・間野山第二中学校の閉校式を行う

・体育館を劇の練習や、教室をブックカフェブックカフェにするなど、廃校を活用をする

・寂れた商店街に吊るし燈篭を配布する

・人気の洋菓子店のために商店街の店舗を貸す

第1クールと第2クールの違い、おわかりいただけるだろうか。

第1クールは間野山という町を多くの人に知ってもらうこと、多くの人に来てもらうことを主軸として活動していたのに対し、第2クールでは間野山に暮らす人々がより暮らしやすくなるために活動をしているのである。

つまり、第1クールの活動が外向きなのに対し、第2クールの活動は内向きなのだ。

その集大成がみずち祭りである。第24話ではテレビ局が建国祭の時のように協賛を持ちかける。

その条件が、間野山の小劇団で行う予定だった劇を、テレビ局が作ったアイドルグループにやらせてほしいということ。そうすれば、テレビ局もみずち祭りを宣伝し、多くの客が集まるという話だった。

だが、観光協会の丑松会長は、その提案を完全に却下し、テレビ局を追い返す。

建国祭が「外から人を呼ぶための祭り」だったのに対し、みずち祭りは「間野山で暮らす人のための祭り」であることを、会長は重視したのだ(ちなみに、この丑松会長が50年前、みずち祭りを途絶えさせた張本人である)。

数字を捨ててでも、祭りが町の人のためのものであること、間野山がそこで暮らす人たちの居場所であることにこだわったのである。

サクラクエストから学ぶ「町おこしの本質」

そもそも、多くの人に知ってもらう、多くの人に来てもらうというのは本当に町おこしの方向性として正しいのだろうか。

メジャーな町で建国祭に似た事例がある。

千葉県浦安市だ。

浦安と言えば、誰もが知ってる東京ディズニーランドのある町である。

だが、浦安の町がディズニーランドのおかげで賑わっているとは言い難い。ごく普通の町である。

理由は舞浜駅があるからだ。あの駅があるせいで、よそから来た人は浦安の町を観光することなく、いきなりディズニーランドの目の前に出てしまう。そして、ディズニーランド内で全て食事やホテルなどを済ませ、舞浜駅から帰っていく。結果、浦安の町自体の活性化にはつながっていない(そもそも、浦安駅からめちゃくちゃ遠い)。

そんな話を親にしてみたところ、「東京スカイツリーも同じだ」と言われた。どうやら、スカイツリーのおひざ元にある押上が、当初のもくろみ程人が集まらなかったらしい。

確かに、スカイツリーもずばり「スカイツリー駅」から徒歩数秒で行くことができ、買い物や食事も「ソラマチ」の中で完結してしまう。

「注目を浴びれば、人を集めれば、町おこしは成功」というのはもはや、幻想なのかもしれない。

サクラクエストというアニメは、単に数字上の成功を追いかけるのではなく、その町で暮らす人々が、ここに住み続けたいと思える居場所に町を変えていくことが、町おこしでは重要なのではないかと問いかけているのだ。

そして、この「数字上の成功を追い求めない」というのは、サクラクエストというアニメ自体にも言える話なのである。

「サクラクエスト」がつまらないと言われ続けた本当の理由

僕がサクラクエストに最初に惹かれた理由、それは『このアニメは媚びていない』という点だった。

そう、サクラクエストは媚びていないのだ。安易な数字上の成功を求めて作られたアニメではなかったのだ。

確かに、メインは5人の女の子であるがいわゆる「百合展開」と呼ばれるものもなければ、彼女たちのかわいらしさのみに頼った展開や、エロさのみを際立てた演出もほとんどなかった(たまにはあったけど)。

そして、その周りを取り巻くキャラクターはじいさんばあさんが多い。「こんなにシニア層しか出てこないアニメも珍しい」という書きこみを見たこともある。

つまり、ビジュアル的にほとんど媚びていない。「ビジュアルで数字を稼ぐことを放棄している」ともいえる。

そして、シナリオ展開も大きな事件が起こるわけではなく、恋愛要素があるわけでもなく、地味と言われ続けた。「エンタメ要素で数字を稼ぐことを放棄してた」のだ。

サクラクエストで描かれていたのは、田舎のリアルな現実と、そこに向き合う若者のリアルな現実。夢との葛藤、アイデンティティとの葛藤、挫折と成功の繰り返し。

そんな彼女たちを取り巻く人たちも、過去に因縁を抱えていたり、さびれていく街を嘆いたり、そんな街を嫌ったり。

そんな中で、「数字上の成功を追い求めるのではなく、住民の居場所となれる町おこし」が描かれていく。

そんなアニメが、とりあえず美少女ばっかりたくさん出てきたり、とりあえずエロかったり、とりあえず恋愛要素を放り込んだり、とりあえず大事件が起こったり、とりあえずギャグを放り込んでみたり、とりあえず鬱展開になったりしたらどうだろうか。

商業的には成功できるかもしれない。

ただ、確実に「数字上の成功を追い求めるのではなく、住民の居場所となる街づくりが大切」という、半年もかけて紡いできたメッセージは薄れてしまうだろう。肝心のアニメそのものが「数字上の成功」を追い求めてしまったら。

「言ってることとやってることが違う」ということになってしまうのだ。

なぜ、サクラクエストがつまらないと言われ続けたか。

それは、安易な面白さを求めることを、安易な人気を求めることを切り捨てたため。

それは、本当にアニメが伝えたかったことをちゃんと伝えるため。

サクラクエストの各エピソードは実は、「居場所」というキーワードにつながっている。居場所とは、「ここにいていいんだ/ここで生きていこう」という想いが詰まった場所である。「縁もゆかりもないけど、縁はこれから作るもの」というセリフがあるが、サクラクエストというアニメはメインの5人がそれぞれ、仲間や街の人たちとの縁を紡いでいき、間野山に居場所を作っていく過程を描いている。

居場所を求めているのはメインの5人だけではない。50年前、みずち祭りがつぶれてしまったのは、若き日の丑松会長が、間野山を自分の居場所に変えようとして越した行動が原因だった(そのやり方が正しいかどうかは別として)。

また、蕨矢集落のエピソードも、バス路線廃止が迫り取り残されていく僻地の老人たちが、自らの居場所を守ろうとする話だった。

閉校式のエピソードは、真希が間野山で小劇団を立ち上げるというオチだった。東京に自分の夢の居場所を見つけられなかった真希が、地元の間野山でその居場所を見つけたのだ。

エリカの家でのエピソードも、間野山を居場所と思えないエリカと、間野山を居場所と感じるしおりを対比させて描いている。

そして、国王の由乃は終盤で「なぜ縁もゆかりもない間野山で頑張るのか」と問われ、「そこで必要としてくれる人がいるから」と答えた。第24話では「どこにいてもどんな仕事をしていても、自分の気持ち次第で刺激的にできる」と語っている。地元が嫌で、「普通」と言われ東京に居場所のなかった由乃が、たとえどこに行ったとしても、そこの人たちと縁を結び、全力で取り組めばその場所を自分の居場所にできるという自信を手にしたのだ。

第24話のラストで描かれたみずち祭りは、建国祭に比べれば地味なものだったかもしれない。しかし、本当に間野山に思い入れのある人たちが集まる祭りであることがうかがわれた。祭りとは、本来こういうものなんだと思う。サクラクエストというアニメは、間野山が観光地ではなく住民たちの居場所になっていく様を、そして、由乃たちが普通でも自分の居場所を築き上げていく様を描いたアニメだったのだ。

SNS全盛の昨今、ごく普通の人がフォロワー数や閲覧数、再生回数といった数字に振り回されてしまう。だが、そんな数字よりも大切なものがある。間野山という町にとってはそれが「そこで暮らす人の居場所であること」だったし、「サクラクエスト」というアニメにとってのそれは「そのメッセージをちゃんと伝えること」だったのだと思う。

目先の面白さに囚われ、数字の上での成功を求め、大切なものを見失ってはいけない。

数字より大切なものを大切にしたい人にとって、サクラクエストは決してつまらないアニメなんかではないはずだ。

 

2019/1/20 追記

サクラクエストの最終回から1年以上がたった。

驚いたことに、今でも「サクラクエスト大好きです」という方からコメントをもらう。むしろ、1年たってからの方が多い気もする。

しかも、リアルタイムで見ていた人ではなく、「最近見ました」という人が多い。

「つまらない」と言われたアニメが1年たってなお愛され、ファンを増やしているという奇跡。

サクラクエストは名作だと思うが、それにしてもなぜここまで愛されるのか。1年を経て、久しぶりにサクラクエストについて筆をとってみた。1年前には気づけなかったことを書いているので、興味のある方は是非。

「つまらない」と言われたアニメ『サクラクエスト』が起こした奇跡

『サクラクエスト』の描く町おこしの本質 彼女たちが間野山に留まる理由

架空の町・間野山の町おこしをテーマとしたアニメ『サクラクエスト』が2クール目に突入する。2クール目に突入する前に思うのが、サクラクエストは、本当に間野山の町おこしを描いたアニメなのか? ということだ。確かに、町おこしが物語の軸ではあるが、物語の本質は、そのわきで描かれる人間ドラマである。果たして、サクラクエストは本当に町おこしのアニメなのか?


『サクラクエスト』1クール目のあらすじ

知っている人は読み飛ばしてかまいません(笑)。

東京の短大生、木春由乃は就活で30社受けるもいまだ受からないという状況で、手違いから縁もゆかりもない富山県の間野山という町の観光大使「チュパカブラ王国国王」になってしまう(任期は1年)。

当初は東京に帰りたがっていたが、仲間にも恵まれ、次第に町おこしにやりがいを感じるようになった由乃。

特産品のアピール、映画撮影の誘致、B級グルメの開発、お見合いツアーと様々な企画を打ち、就任から半年の集大成として、チュパカブラ王国20周年の建国祭を行うことになった。

地元テレビ局の協力で人気ロックバンドを呼ぶことができ、イベント自体は大成功に終わったが、その際に配った商店会のクーポン券はほとんど使われることなく、結局、街は何も変わらなかった。

ただ、人を呼べばいいというわけでゃないのはわかっていたはずなのに……。無力感に襲われた由乃は、大荷物を抱えてバスへと乗り込む。由乃は東京に帰ってしまうのか……。

町おこしに必要なのは「魅力」ではなく「魔力」

さて、4月に書いた「アニメ「サクラクエスト」から見る、今、町おこしが必要なあの町」では、「東京には魅力はあるけど魔力がない」ということを書いた。東京には人をたくさん呼び寄せる「魅力」はいっぱいあるけれど、呼び寄せた人をそこに留まらせる「魔力」はない、という話だ。例えるなら、「おいしいし行列もできてるんだけど、一度行ったらもういいかな~、って感じのお店」。

この「魔力がない」という問題は東京だけでなく地方にも言えることだ。しかも、地方の場合は魅力も魔力もないという二重苦である。

さて、1クール目で由乃たちが行ってきた企画は、特産品である彫刻をアピールしたり、「空家が自由に使える」という条件で映画のロケを誘致したり、そうめんを使ったB級グルメを開発したり、お見合いツアーを企画したり、クイズ大会を開いたり。

これらは、いずれも間野山の「魅力」をアピールする企画だった。

ただ、酷なことを言ってしまえば、どれも別に「間野山でなくてもいい」ものでもある。

確かに、彫刻が国の伝統工芸に指定されていたり、空家がしこたま多かったり、そうめんが古くから親しまれてきたり、それらは「間野山ならでは」ではあるのだが、「別に間野山でなくても、他にもあるよね」という話である。

そして、いずれも「魔力」にはなりえない。

彫刻があるから、そうめんがおいしいから、そんな理由で間野山に移住する人はかなり少ないだろう。「映画のロケ地」という要素もそうだ。一時、人を呼ぶことはできるかもしれないが、「そこに留まらせる」ほどの力があるとは思えない。現に、お見合いツアーに参加した女性3人は全員、結局、間野山には嫁がなかった。由乃たちは一生懸命間野山の「魅力」を伝えるツアーを企画したが、そこに留まらせる「魔力」は伝えられなかったのだ。

サクラクエストは町おこしのアニメなのか?

果たして、伝えるべき間野山の魔力とはいったい何なのか。

そして、2クール目を前にしてふと思う。

サクラクエストって、本当に「町おこし」のアニメなのだろうか。

なぜなら、1クール目を見ていて思うのが、サクラクエストの面白い所は町おこしの企画の成否ではなく、その裏で由乃たちがいろいろなことに気づき、成長していく過程の方だからだ。

描写のウエイトは由乃たちの成長譚に置かれており、町おこしはそのきっかけという位置づけにすぎないのだ。

彫刻をアピールするエピソードでは、駅を100年かけて彫刻で彩るという、壮大すぎてすぐには結果が出ない企画を打ち出した。そして、このエピソードの肝は実はそこではなく、東京から逃げてきた早苗が自分の仕事と向き合えるかどうかだった。

映画のロケを誘致するエピソードでも、映画自体はB級ゾンビものという、誰が見てもこけそうな内容だった。話の肝はそこではなく、女優の夢が敗れて間野山に帰ってきた真希が再び自分の夢に向き合うという点と、映画の中で燃やされてしまう家に対する観光協会のしおりの想い、それをくみ取ろうとする由乃だった。

B級グルメのエピソードでも本筋はその裏で描かれた、しおりの姉の恋愛模様だった。

お見合いツアーもツアー自体は誰も嫁がないという結果に終わったが、話の本筋はひきこもりの凛々子の「みんなとなじめない」という想いと、それに向き合った由乃であった。

こうやって見ていくと、サクラクエストにとって町おこしとは、あくまでも物語のきっかけに過ぎないという風に見える。

だとしたらサクラクエストがわざわざ2クールもかけて伝えたいこととはいったい何なのだろうか。サクラクエストがキャラクターの成長に力を入れている物語だということは、キャラクターに答えがあるのかもしれない。

サクラクエストのキャラクターたち

サクラクエストのメインキャラクターは、国王である由乃、由乃を補佐する観光協会のしおり、詩織の幼馴染でひきこもりの凛々子、東京から移住してきた早苗、一度は東京で女優の夢を追いかける者の故郷である間野山に帰ってきた真希の5人だ。

この5人は3つのグループに分けることができる。

まず、東京からの移住組、由乃と早苗だ。

二人とも、間野山に来た理由はちょっと弱い。早苗は「東京でなければ別にどこでもよかった」というのを指摘されているし、由乃に至っては単なる手違いだ。

だが、「東京を出てきた」理由はかなり切実だ。

由乃は東京で就活するも30社全滅。つまり、東京の社会に必要とされなかったのだ。

国王就任後も当初は東京に帰りたがっていたが、東京に帰ったところで、東京は由乃を必要としていないというのが現実だ。

一方、早苗は東京生まれの東京育ち。東京のIT企業に勤めていたが、『自分の仕事には代わりがいる』という現実を知ってしまい、逃げるように間野山へやってくる。

つまり、二人とも「自分が東京にいなければいけない理由」を失ってしまったのだ。

次に間野山在住組のしおりと凛々子。

間野山が好きで観光協会で働いているしおりに比べ、ひきこもりでニートの凛々子。

凜々子は昔から周囲になじむことができなかった。人前に出るのが苦手で、高校卒業後はひきこもり気味に。間野山にずっと住んではいるが、間野山に彼女の居場所はないのだ。

最後は間野山出身で上京するも、再び故郷に帰ってきた真希。

女優の夢を追って上京した真希。東京には「女優の夢を叶えられる」という魅力があったわけだ。

しかし、現実は厳しく、真希は女優の夢を諦めて故郷の間野山へと帰ってくる。女優という夢に彼女の居場所はなく、その瞬間に東京にも魅力がなくなってしまったのだ。

つまり、彼女たちは「自分はここにいなくてもいい」という想いを抱えていたのだ。

そんな彼女たちだったが、町おこしの中で徐々に思いが変わっていく。

最初は東京に帰りたがっていた由乃だったが、「この4人と働けるなら」と国王の仕事を引き受ける。

早苗は由乃たちに出会うまで、2週間だれとも話さず、東京へ帰ろうと思っていたところに由乃たちが現れる。間野山で由乃たちとともに頑張る中で、『自分にしか出せない結果』を求めるようになる。

真希は一度諦めかけた夢のかけらを間野山で見つける。由乃たちとともに映画撮影の手伝いをする中で、「どうしようもなくお芝居の世界が好きだ」ということを思いだす。

凛々子は「普通」でいられる由乃に自分が持っていないものを見出し、一方、由乃は強い個性を持っている凜々子に尊敬の念を表す。のちに凛々子は由乃のことを「私をちゃんと見てくれているから、好き」と評している。

そう、彼女たちが間野山に留まる理由。彼女たちを間野山にとどめた魔力。それは「仲間がいるから」に他ならない。

町おこしの本質 居場所という魔力 間野山に留まる理由

サクラクエストは町おこしのアニメなのか。その答えはイエスだ。

ただし、「町おこしに必要なもの」を町おこしの活動自体ではなく、そのわきで繰り広げられる人間ドラマで描いている。なかなか高度なことをしている。

町おこしに必要なもの。町に人をとどめる魔力。それは簡単に言えば「居場所」である。

仲間がいるから、ここにいる。ここにいていいんだ。ここで頑張っていこう。

それこそが町おこしの本質なのではないだろうか。特産品や名物はよその町にも似たようなものがあるが、仲間、友達、そういったものはどこにでもあるものではない。一度そこに居場所ができれば、替えなんてきかない。どんなにその町自体には魅力がなくても、仲間がいれば、居場所があれば、「ここで頑張ろう」、そう思えるものだ。

東京には魅力がたくさんある。だが、この居場所の魔力が弱いため、無理して東京にいても疲れてしまうだけだ。「ここにいてもいいのかな」「ここじゃなくてもいいんじゃないか」そう思いながら居続けるのはつらいことだ。

一方で、その町がどんなに田舎でも、何の観光名所もなくても、「ここにいていいんだ」そう思った時、人はその町に魔力を感じ、そこに留まる。

しおりは酔っぱらいながら「弱っている人ウェルカ~ム! 間野山はそ~いう町なの!」と言っていた。この言葉が、間野山の持つ魔力の本質であろう。また、凛々子の尽力で間野山が元来よそ者の受け入れに積極的な町だったことが明らかとなる。由乃の周辺もよそのものである由乃に割と寛大だ。

ここにいたい。ここにいていいんだ。ここで頑張ろう。そう思わせる居場所を作ることが町おこしの本質なのではないだろうか。

そう考えると、しおりの存在というのは大きい。その町の出身で郷土愛が強い一方、由乃のようなよそ者にも寛大なしおりは、よそ者と町を結びつける役割を果たしている。さらに、その町の出身であるにもかかわらず町に居場所がなかった凛々子と居場所をつなぐ役割も果たしている。人となじめない凛々子にとって、ほんわかしたしおりは居場所への入り口でもあるのだ。


サクラクエストは7月から2クール目に入る。残り3か月、どのように話が展開していくのかはわからないが、この「居場所」という観点から見ていくのも面白いんじゃないかと思う。

少なくとも、5人の若者が「ここで頑張ろう」「ここにいたい」「ここにいていいんだ」と思えるのであれば、彼女たちの町おこしはすでに成功しているのかもしれない。

アニメ「サクラクエスト」から見る、今、町おこしが必要なあの町

我が家のテレビも東京MXが見れることがわかり、久々にいろいろアニメを見ている。その中で今期一番気になっているのが「サクラクエスト」というアニメだ。このサクラクエストは東京の大学生がとある田舎町の町おこしに携わる、というアニメなのだが、このアニメを見ていると今、町おこしが必要な町が見えてきた。


これまでの限界集落論

まずは、これまでの限界集落論について見ていこうと思う。

「限界集落」という言葉を提唱したのは、社会学者の大野晃氏である。定義としては、65歳以上の人が集落の半分を占め、特に一人暮らしの老人が多い。農地は荒れ果て、寄合や祭りなどは行われなくなり、ムラとしての機能を失いつつある集落である。

1980年代に提唱されたこの概念だが、ずいぶん人によって解釈に違いがあるようだ。

例えば、テレビ東京の特番などを見るとたまに、「限界集落の宿でのんびり過ごそう」みたいな企画があり、「限界」の意味わかってますか?と聞き返したくなる。

一方で、社会学者の山下祐介氏は、むしろ「限界集落」という単語が危機を煽る言葉として独り歩きしていると指摘する。「限界集落なんだから、この集落は問題があるに違いない」という論調が席巻しているらしい。

だが、山下氏は、実際の限界集落はメディアが煽るほど危機的状況ではないとしている。

「限界集落論」は「今目の前の危機を煽る」ものではなく、「いつか来るであろう危機への警告」だとしている。

そしてその「いつか来るであろう危機」に対して、集落自体が主体性を持って、②近隣の集落や都市を巻き込むことが大切だとしている。

特に、集落から都市へと移り住んでいった若い世代がカギを握っている。彼らも都市にずうっと住むつもりではなく、どこかに「いつかは帰りたい」という気持ちを抱いている。

そう言えば、僕の友人で地方移住をした人は多いし、地方出身者で大学は東京だったが、卒業後は地元に帰った友人も多い。

なぜだか、東京に人が根付かない。人は来るけど、根付かない。

さて、山下氏は、限界集落が問題なら、都市も問題があるはずと論じている。都市では生活上の問題が起きても、個人ではどうしようもない。東日本大震災の例を挙げて、都市での個人の無力さを描いている。限界集落同様、都市でもコミュニティが喪失していると論じている。

限界集落論で見逃されがちだが、問題があるのは田舎だけではなく、都市も同じなのだ。

東京と「木綿のハンカチーフ」

かつて、東京には人を引き付けて離さない「魔力」があった。

松本隆が作詞し、太田博美の代表曲となった「木綿のハンカチーフ」という歌がある。1975年に発売された歌だ。

構成が面白く、東京へと旅立った「僕」と、故郷に残した恋人の手紙のやり取りのように歌詞が進行していく。

1番では「僕」が進学か何かで東京へと旅立つ、列車の中の胸中がつづられている。都会で何か贈り物を探そうという「僕」に対し、恋人は「僕」が都会に染まらないことだけを願う。

2番では「僕」が東京に移り住み半年がたっている。「僕」は都会で流行りの指輪(都会って指輪が流行ってるの?)を恋人に贈る。それに対し恋人は、指輪よりも「僕」とのキスの方が煌くと返している。

3番では「僕」は見間違うようなスーツを着た写真を恋人に送っている。恋人のあか抜けない様子を懐かしむようでもあり、小ばかにしているようでもある。それに対し恋人は、スーツの「僕」より、田舎の純朴な青年だった「僕」が好きだったと返し、「僕」の体調を気にしている。

そして4番。「僕」こう歌っている。

「恋人よ、君を忘れて変わっていく僕を許して。毎日愉快に過ごす街角。僕は、僕は帰れない」

あまりにも身勝手な別れの言葉に恋人は、いや、元恋人は、最後に初めて贈り物をねだる。涙をふく木綿のハンカチーフをください、と。

はは~ん、女ができたな。

などとゲスな推測をする一方で、すごい引っかかるフレーズがある。

「毎日愉快に過ごす街角」だ。

果たして、今の東京で毎日愉快に過ごしている人など、どれくらいいるだろうか。満員電車に押しつぶされ、都会では四季の移ろいを感じられず、栄養ドリンクを流し込み日々を過ごす。それでもそれなりに楽しいこともあろうが、「毎日愉快」とまではいかないだろう。

そして、「僕」はこうまで言い切るのだ。「僕は帰れない」。

田舎は仕事がないから帰れないのではない。「毎日愉快だから帰れない」。

この歌が大ヒットをしたということは、この「僕」以外にも東京で毎日愉快に過ごしていた人がたくさんいた、ということではないだろうか。70年代の東京にはそれだけ、人を引き付けて離さない魔力があったのだ。しかし、今なお、その魔力はあるのだろうか。

アニメ「サクラクエスト」

さてさておまちかね。やっとこさ、サクラクエストの登場である。

物語のあらすじはこんな感じだ。

主人公は東京の短大に通う木春由之(こはるよしの)。就活で30社落ち、精神的にも落ちていたある日、とある手違いから縁もゆかりもない町「間野山」に1年間住みこんでアピールする「チュパカブラ王国・国王」という役職についてしまう。

「チュパカブラ王国」とは間野山にかつての文化創生事業で作られ、かつては10万人の観光客を集めたが、今は閑古鳥が鳴いている、いわゆる「ハコモノ」である。

はじめは東京に帰りたがっていた由乃だが、間野山の人たちと触れ合うにつれ、次第に真剣に「国王」としての仕事に打ち込むようになる。「町おこしに必要なのは、若者、馬鹿者、よそ者」というが、しかし、所詮はよそ者。そんな簡単にはいかない……。

実にリアルなアニメである。前番組が話題の異能系アニメ、後番組が老舗の魔法系アニメ(再放送)に挟まれいている中、実写でもよかったんじゃないかというくらい、リアル感が溢れている。特殊能力があるわけでもない、大事件が起きるわけでもない、普通の女の子の町おこし奮闘記である。

間野山のモデルは富山県南砺市だと言われている。車のナンバーは「富山」だし、作中では「だんない」という言葉が出てきて(どうやら「構わない」という意味らしい)、これは北陸の方の方言だそうだ。

作中の間野山は、田舎出身であるはずの由乃もびっくりするくらいの田舎である。駅前にはそこそこ大きな町があるが、シャッターが閉まっているお店も多い。郊外に出れば田んぼが無限に広がり、山が周囲を囲む。21時くらいに終電が終わる。

つまり、田舎である。

特産品は蕪(かぶら)。また、木彫り彫刻が文化財に指定されていて、よそからこの町に移りこんで修行する者も多い。

商工会の会長はかなり強引な性格で、「チュパカブラ王国」を使った町おこしに焼になっているが、周囲の反応はどこか冷ややかだ。

東京には何でもある?

このアニメには、東京から間野山に移り住んだ人や、東京から帰ってきた人が登場する。

まずは、主人公の由乃。彼女が間野山に来たのはとある手違いが原因で、当初は国王などやるつもりもなく東京に帰りたがっていた。

なぜそんなに東京に帰りたがるのかと聞かれると、「東京には何でもあります」。彼女自身、間野山と同じような田舎の出身らしく、母親から「就職できないなら帰ってくればいい」と言われても、「普通の田舎のおばさんなるのは嫌だ」と拒んでいる。

だが、「じゃあ、何でもある東京には具体的に何がるのか」という質問には言葉を詰まらせる。

サクラクエストの主要人物でもう一人、東京から移住してきた「よそ者」がいる。

由乃とともに町おこしをすることになった香月早苗(こうづきさなえ)は東京生まれ東京育ち。半年前に間野山に移住し、さも田舎暮らしを満喫しているかのようなブログを書いていたが、実際は誰とも交流がなく、古民家の虫に怯える日々。そんな中訪ねてきた由乃たちと町おこしをするようになる。

第4話では彼女の東京での暮らしが明かされる。残業続きの日々で体調を崩してしまうが、自分がいなくても仕事は代わりの誰かが入って回っていくことを知り、東京から逃げるようにしても間野山にやってきたのだという。

間野山出身で一度は東京に出ていったが、帰ってきたものもいる。

由乃とともに町おこしをする緑川真希(みどりかわまき)は女優を目指して東京に出たが、サスペンスドラマのちょい役しかできず、間野山に帰ってくる。地元ではその時出演した作品「おでん探偵」の名で有名だ(主役ではなくちょい役である)。第4話までではまだ、彼女の身の上はあまり明かされていないが、地元に帰ってきたものの実家には寄りつかず、由乃が止まっている宿舎?に勝手に管理人と名乗って住み着いている。

ここで、さっきの「木綿のハンカチーフ」を思い出してほしい。あのころの東京は、毎日愉快すぎてもう田舎には帰れない、そんな街だったのだ。

だが、サクラクエストで描かれている東京、21世紀の東京は少し違う。

確かに、由乃が言うとおり、東京には何でもある。コンビニ。居酒屋、ゲーセン、大学……。むしろ、多すぎるくらいだ。話題のパンケーキも食べれるし、日本初上陸のハンバーガーも、行列のできるラーメン屋もある。東京に憧れを抱き移り住む人も依然として多いのだろう。

一方で、就職先は決まらず、東京にこだわっていても、その理由がちゃんと答えられない。毎日仕事づめで体調を崩し、それでも社会は問題なく回っている。夢を追いかけるも、叶わない。毎日愉快どころか、出てくるのはため息ばかり。

東京に人を呼び寄せる「魅力」はいまだある。しかし、そこに留まらせ続ける「魔力」がもう、東京にはないのではないだろうか。

この記事のタイトルに書いた「今、町おこしが必要な町」。それはほかでもない、東京である。

東京は誰も待っていない。

東京は町である。そんなこと、いちいち言わなくてもわかっている。

わかっているのを承知であえて書くと、東京とは「首都圏」という日本最大の集落の中心部の名前である。

集落はふつう、「ムラ」と呼ばれる人が住む場所があり、その周りを「ノラ」と呼ばれる耕作地が囲んでいる。「ノラ」の周りを「ヤマ」が囲む。別にヤマは「山」である必要はなく、森でも川でも海でもいい。要は人の住まない自然だ。

少し集落が大きくなると、「ムラ」の中心にさらに「マチ」ができる。いわゆる、お店が立ち並ぶ場所だ。

この構図は、首都圏という集落にも面白いようにあてはまる。

まず、東京・横浜という巨大な町があり、その周囲に西東京、埼玉、千葉、神奈川、の住宅地が「ムラ」として存在する。

その周囲、北関東や埼玉北部、千葉頭部や神奈川西部には農村が広がる。これが「ノラ」だ。

そして、関東平野は周囲を「ヤマ」に囲まれている。箱根の山々、秩父、赤城山、日光の山々などなど。

東京は、日本一大きなマチなのだ。

「マチ」の語源は何かと問われたら、やっぱり「待ち」だろう。神社やお寺、宿場や港にお城など、人の集まるところに店を構え、客が来るのを「待ち」続ける場所。それが街であり、それが「僕」に「毎日愉快で帰れない」と言わしめた魔力だったのではないだろうか。

今の東京は、果たして来るものを「待って」いるのだろうか。

30社試験を受けても受からない。

夢を追いかけても叶わない。

体調を崩しても、どうせ代わりがいる。

一体、今の東京はいったい誰を待っているというのか。「日本の首都」という「魅力」にかまけ、ほっといてもどうせ人は東京にやってくると、どこか胡坐をかいているのではないだろうか。

限界集落をはじめとする田舎は、目に見えて人が少ないから問題と思われやすい。一方、東京はなまじ人が多いから、問題が発生していることを見過ごされやすいのではないだろうか。

3年後にはオリンピックだ。東京はいやでも世界中から注目を集め、ほっといても世界中から人はやってくるだろう。どうせ、ある程度経済は潤うはずだ。

世界規模での「呼び込み」には熱心な一方で、食を司る市場はトラブル続きで、保育園は足らない。満員電車は何かの格闘技じゃないかと勘繰るぐらい、体力を消耗する。

毎日愉快どころか、毎日不快だ。住んでいる人に全然やさしくない。だからイケダハヤト氏みたいに「まだ東京で消耗しているの?」などと言われるのだろう。

消耗するだけで、人を引きとどめる魔力がもうないのだ。「東京で生きていこう」と腹をくくらせるほどの力がもうないのだ。

これは、死活問題である、「集落」は「ここで生きていこう」という固い決意のもとに成り立つ。東京に住む人にその決意がないのであれば、やがてはすたれかねない。

それでも、東京は相変わらず莫大な人口を抱え、世界有数の都市なんだから、大丈夫だよ。そんな声もあると思う。

こう例えればわかってもらえるだろうか。行列ができるほど話題のお店で、確かにおいしいんだけど、一度行けばもういいかな、というお店。

それが、今の東京である。こんな店は、遅かれ早かれつぶれる。

また、東京を町おこしする、ということは、限界集落問題にもつながるはずだ。

人を引き付ける東京の魅力は田舎にはまねできない。しかし、人をその地に留まらせる暮らしやすさは、実は東京に限った話ではなく、田舎でも再現可能ではないだろうか。

むしろ、東京が魅力だけでむさぼるように人を呼び続けていたら、東京も地方も共倒れになりかねない。

かつての東京は、都会だから暮らしやすかったのだろう。なんてったって「毎日愉快」だったのだから。都会ならではのにぎわいやきらめきといった魔力が、人を引き付けて離さず、「帰れない」と言わしめた。

しかし、どうやらもう都会ののきらめきやにぎやかさにかつての魔力はないらしい。魔法が解けて見渡してみると、都心なんてスーパーもろくにない。保育園もろくにない。校庭は狭い。地下も家賃も高い。よくよく見れば、結構暮らしづらい。

もう、東京も「大都会」の憧れだけで勝負できる時代ではない。「暮らしやすさ」や、山下氏が東京にないと危惧した「コミュニティ」などが求められているはずだ。そして、それはそっくりそのまま地方にも当てはまる。東京が町おこしに成功すれば、むしろ日本中の良いモデルともなりうる可能性がある。

サクラクエストでは、「町おこしに必要なのは若者・馬鹿者・よそ者」だと言っている。幸い、東京には若者もよそ者もたくさんいる。あとは彼らが馬鹿者になったつもりで東京を変えようと思えば、これからの東京は面白いものになるかもしれない。

リンク:サクラクエスト公式ページ

参考文献:山下祐介『限界集落の真実 ――過疎の村は消えるか?』ちくま書房 2012年