岡本太郎に憧れて

今、僕の中で何度目かの岡本太郎ブームがきてます。まあ、絵と言うよりは、彼の著作を読み漁る形なんですけどね。

特に、岡本太郎が民俗学にも造詣が深かったって聞いたんで、『神秘日本』っていう本を読んだんです。

岡本太郎が日本のいろんなところを旅行して、青森の恐山や東北の修験道、沖縄の御嶽などを目の当たりにするという本。

日本の民俗を、芸術家ならではの視点で観察し、表現してるんです。

岡本太郎って人は、パリにいたときに今でいうところの文化人類学を学んでて、日本の歴史や民俗に対しても知識が豊富な人です。

でも、そういった知識や理論を十分に知ったうえで、それに頼らずにおのれの感性のみでぶつかり、表現する。

読みながら、あっこれだ、って思ったんですよ。僕がやりたいのも、こういうことなんじゃないか、と。

知識や理論よりも、目の前の光景をどう切り取り、どう解釈し、どう表現するか。

最近、僕は知識を増やすことや、理論が正しいかどうかってことよりも、そういうことの方をよく考えてるんです。

もちろん、知識や理論も大事なんですよ。いい写真を撮るには、いいカメラが必要だし、カメラの使い方やテクニックなど、いろいろと知ってなきゃいけない。

でも、どんなにいいカメラを使ってても、どんなにカメラに詳しくても、レンズを向ける方向がおかしかったら、いい写真は撮れないんですよ。

で、最近の僕は、そのレンズの向け方のことをずっと考えているわけなんです。

いま、『民俗学は好きですか?』の第7集の制作が大詰めになっているんですけど、今回は「知識や理論よりも、レンズの向け方が大事」って意識が、今まで以上に出てる、って我ながら思うんですよ。

理論的に正しいと思ったことよりも、「こっちの方がロマンあってよくない?」ってことを強調しちゃったり。

数百年前の景色を、さも見たことがあるかのように書こうとしたり。

「自分が面白いと思ったことを、いかに他人におもしろく伝ええるか」、それがずっと、僕の中でのテーマなんです。

やっぱり自分は、学者や研究者じゃなく物書きなんだなぁ、とつくづく思いますね。

さっき例えでカメラの話を出したけど、最近は写真にも興味がありまして。

世の中には民俗学で扱うようなもの、古い風習とか、祭りとか、地蔵とか鬼の面とかを専門に撮る写真家、っていう人もいるんですよ。

彼らは、被写体に対しての知識はもちろんあるんだけど、やっぱり知識や理論だけでは表せない「なにか」を表現したくて、レンズを向けるんじゃないか。

そして、僕も同じなわけですよ。知識や理論だけでは説明しきれないなにかを表現したくて、筆を走らせるのです。実際にはキーボードをたたいているわけなんですけど。

電力会社から節電してくれと頼まれたから節電したけど、普段とさほど生活が変わらなかった件

電力会社から節電してくれと頼まれたから節電したけど、普段とさほど生活が変わらなかった件、です。

いやぁ、普段からあんまり電気、使わなかったんですね、僕。

カネさえ払えば電力を湯水のごとく使っていい、なんて許されるのは、小学生までだよねー!

まず、10年で2回パソコンが壊れているんで、パソコンやスマートフォンを信用してないんですね。だから、スケジュールなどはアナログで管理しています。

つまり、パソコンを開かないとできないってことが、日常生活の中であんまりないんですよ。

いま、この文章をパソコンで書いてるじゃないかって? こんなの、電力に余裕がある時に書けばいいんです。

何なら今、現在進行形でスマートフォンの調子が悪いんだけど、普段から生活がスマートフォンに依存してないので、ほとんど支障をきたしていません。

「自分で直せない道具に、生活のすべてを委ねない!」

計算も足し算引き算はそろばん使ってますし、加湿器を使わずに、霧吹きを部屋で散布しています。

you tubeはほとんど見ないし、SNSを見る時間も意識的にセーブしてる。「ひまつぶしにネットやSNSを見てる」ということは、僕の日常で30分くらいしかないのです。だから、見れなくなってもそんなに困らないんですね。

じゃあ、何やってるのかと言うと、節電の日は一日中ラジオ聞いてました。

ラジオはいいぞ。ラジオこそ、災害時における最強のメディアです。今もラジオを聞いて書いてます。

なんたって、電池一本で数十時間持ちますから。最悪の場合、人力で発電できるラジオだってあるし。

スマートフォン、人力で発電できますか?

そして音だけのメディアだから、節電や停電で部屋の中が真っ暗でも、影響なし!

むしろ、ジャズやR&Bなんかは、部屋が暗い方がムードが出ますね。

あと、怪談話。明るい部屋で聞くより、暗い部屋で聞いた方が、背筋が寒くなります。

日が落ちても電気をつけず、薄暗い部屋の中でラジオを聴きながら、むかーしむかし、まだ電気がなくて囲炉裏しかなかったころのことに思いを馳せます。もちろん、生まれてませんけどね。

テレビもネットもない時代。そして、囲炉裏の灯では薄暗くて、夜では読書もままならない。

そうなると、昔話や怪談話などの音のエンタメが、一番のエンターティメントなんですよ。テレビなどのメディアの普及で、そういった話が家で語られなくなったっていうけど、メディアの普及だけでなく照明の問題もあるかもしれないですね。

なるほど、民俗学の道というのは、テレビの電源プラグを引っこ抜き、文明を一つ捨てるところから始まるんですね。当時の暮らしぶりを自ら体感して、はじめて気づくことがある。書を捨てて、電気を消そう。

「昔は、囲炉裏端でのお話が最大の娯楽でした」と、知識では知ってるんだけど、いざ薄暗い夕闇の中に身を置いて初めてわかる、「音しか、楽しみない……」。

でも、音だけで十分楽しい!

書を捨てよ、そして、電力を捨てよう。

ノンバズル企画3周年!

ノンバズル企画の活動が3周年を迎えました。

3年と言うと、体力づくりのためにバスケを始めた木暮君が、「バスケが好きなんだ」と言えるくらいの年月が経ってますね。

ここまでの3年を振り返ってみると

1年目:ZINEを作り始めるため、いろいろと勉強。半年かけて1冊完成させる。

2年目:コロナ禍に突入して即売イベントが激減するも、何とか活動を進める。11月には初めて文学フリマに出店。

3年目:リアルやオンラインで、少しずついろいろなイベントに出るようになる。

ここまで、「民俗学は好きですか?」をvol.6まで発行。現在、vol.7の制作も大詰め!

こうやって振り返ると、「スタートの3年」って考えると、決して悪くはないなぁ、と思いますね。謙遜はしないです。

考える限りいちばん最悪な状況が「誰にも見向きされない」「さっぱり売れない」だけど、ありがたいことに、そのルートにはなってないわけで。

さて、4年目はどうしよう。

販路拡大、と言うのも考えるんだけど、やっぱりノンバズル企画に「成長路線」と言うのは似合わない。

いまや、何でも何でも数字じゃないですか。フォロワー何人とか、いいねが何個とか、再生回数が何回とか。どれだけそれに中身が伴ってるんだか。

振り返って自分に置き換えると、「成長路線」とか「販路拡大」という言葉が似合うほどに中身が伴っているんだろうか。

そもそも、中身とは何だ。

ノンバズル企画を立ち上げた時に掲げたのが、「量」より「質」であって、それは「バズることが正義」となっている現代社会への反骨なんです。だから「ノンバズル」という名前なんです。

となると、質が伴っていないのに、量の拡大ばかりに気が向く、と言うのはちがうでしょう。

まず、質が高いものをしっかりと作って、その質の高さが容れ物からあふれ出して、量を増やしていく、というのがスジじゃないですか。

じゃあ、質の高さをどうやって確認するのかだけど、まずは自分が満足できるものを作ること、そして、人からの反響がしっかりと返ってくることかな、と思うのです。

もちろん、そこに至る道はあまりに険しい。いつも「正解がわからない!」と言いながら作ってますから。「こうすれば質が上がる!」っていう確実な道があるなら、ぜひ教えてください。

正解はわかんないけど、「こういうものを作りたい!」っていう理想はあって、ただ、そこに至るための「正解がわからない!」。

でも、正解がわかんないからモノ作りは面白いんですね。「こうすればうまくいくよ」なんて方法論が開拓されているんだったら、やる意味がない。正解がわからない道を歩いていくからこそ、冒険なのです。

まだまだまだまだ止まんないよ!

感動なんていらない!

よく、スポーツとかで「感動をもらった!」「勇気をもらった!」って言葉を聞くんですけど、あれを聞くたびにいつも首をかしげるんですよ。

他人から「感動をもらう」「勇気をもらう」、そんなことはあり得るのか、って

僕は他人から、感動とか勇気とか元気とやらをもらったことは、一度としてないです。

だって、感動も勇気も、要は感情でしょ?

たしかにそのきっかけとなる出来事は他人にあるのかもしれないけど、感情である以上は、結局は自分の内側から湧き上がってくるものでしょ?

それを「人からもらう」なんてことはあり得るのか?

人からもらえるものなのならば、「いらないよ!」って返すこともできるはずです。捨てることだってできるはずです。

できないということは、それは人からもらったものではなく、自分の中から湧き上がってきたものなんです。

きっかけは確かに他人だったのかもしれない。でも、スポーツや映画を見ただけで感動するんじゃなく、それを自分の経験と照らし合わせて、何かリンクするものがあって、初めて人は感動したり勇気が湧いてきたりするわけです。

【自分が】感動してるんです。

【自分が】元気にしてるんです。

それを人のせいにするんじゃない!

何でもかんでも人のせいにしてるんじゃない! まったくもう!

逆に「見てる人に元気を与えたい」みたいなことを言う人がいると、イライラするわけです。

何様のつもりだ!

逆に俺がお前に元気を送り返してやる!

ワハハハハ! おまえもハイテンションにしてやろうか!!

「元気を与えたい」なんて言っていいのは、オロナミンCを売ってる人だけです。

まあつまり、あんまり自分を卑下するもんじゃないよ、と言う話です。

「感動をありがとう!」

いや、おまえが感動してんねん! おまえがおまえの人生に照らし合わせて感動してんねん! おまえがお前のがんばったこととかを思い出してリンクして、感動してんねん!

もっと自分に自信を持て! あの時の俺よ、感動をありがとう!

「元気をもらいました!」

いや、おまえが元気になってんねん! おまえがおまえの夢とか目標とかに照らし合わせてリンクして、元気になってんねん!

もっと自分に自信を持て! 未来の俺よ、元気をありがとう!

「見てる人に勇気を届けたいです」

「見てる人に夢を分け与えたいです」

施しはいらん! 返す! 着払いで返す!

なぜなら、勇気も夢も、すでに誰しもの心の中に持ってるものだからです。持ってるものを届けられても困ります。

まあつまり、あんまり人間というものを卑下するんじゃないよ、と言う話なんですか?

やっぱり『稼ぐ』って言葉が嫌い

前にも書いたんですけど、僕は「稼ぐ」という言葉が嫌いです。そこには、「すべておのれの才能と実力だけで稼いだ」っていう慢心があるからです。

「自分の実力だけで『稼ぐ』」なんてありえないのですね。その人が才能や実力を発揮できるための環境を整えた人間だけでも、数え始めるときりがないくらいいっぱいいるんですね。

『プロサッカー選手になって、日本代表で活躍したぜ!』⇒Jリーグがあってよかったね。30年前はなかったんやで。JFAに感謝しな。

『ユーチューバーになって、インフルエンサーになったぜ!』⇒YOU TUBEやSNSがある時代に生まれてよかったね。あと、撮影で使うカメラ、自分で作ったわけじゃないだろ? メーカーへの感謝を忘れるなよ。

『スマホひとつでどこでも仕事できるぜ!』⇒ジョブズの墓参りをしろ。

こんな調子で、誰もがあったこともない誰かのお世話になって生きているのです。全人類、誰かの苦労におんぶと抱っこされて生きているのですね。

僕自身もハッとさせられることがありまして。

ずっとZINEを自分一人で作っていると思ってたんですけど、いざ販売しようと文学フリマの会場に行くと、すでに僕が使うための長机が用意されていたんですね。

そのとき、ハッとするわけですよ。

「俺、自分で使う長机を、自分で用意してない!」

「そもそも俺、このイベントの手伝い、何もしてない!」

自分一人で活動してると思ってたけど、最後の「販売」というステップでは、どうしても他人の力、他人の看板を貸していただかないと、何もできないのですね。

そもそもこの「自分一人で活動してると思ってた」の時点で、思い上がりなのですね。パソコンとプリンタと、近所の東急ハンズがあって、初めて成り立つ活動なのです。

恩人に足を向けて寝られないけど、全方位に恩人がいるので、立って寝るしかないのです。

石を投げれば恩人にあたるのです。いや、恩人に石を投げてはいけません。

なんでこんな話をしてるのかと言うと、例のプロゲーマーが差別発言をして炎上した挙句、スポンサーから契約を切られて、チームもクビになった、という話です。

この人こそまさに、自分の置かれた環境への感謝を忘れていたんだろうなぁ、と。

だって、過去の発言とかも掘り返されているけど、要は「自分以外みんなカス」って言いたいわけでしょ。

でも、プロゲーマーがゲームの大会で実力を発揮してお金を得るためには、ゲームを作った人たちが必要なわけで。eスポーツやプロゲーマーにそれこそ「人権」が認められるように頑張った人たちが必要なわけで。そこに気前良くお金を出すスポンサーがいる必要なで。コントローラーだってゲーミングチェアだって、自分じゃ何一つ作らないわけで。要は「他人の苦労におんぶにだっこ」だったわけです。

そういった「環境を整えてくれた人たち」への感謝がないから、いざって時に「環境」の方から「あんた来なくていいよ」とはしごを外されてしまうのです。

これがホントのSDGs!!

今年の冬は、一段と乾燥してますね。

どのくらい乾燥してるのかと言うと、これまで乾燥なんてまったく気にしなかった僕が、気にするぐらい乾燥してます。

なんかね、かゆくてたまんないんですよ。で、かゆいところを触ると、もう明らかに肌が乾燥してるんですね。

なので、霧吹きを用意しました。

そんで、1時間に1回、部屋の中で霧吹きを散布しまくってます。湿度よ、あがれ~。

……いや、加湿器買えよ!

でもね、加湿器買うと、お金がかかるじゃないですか。

霧吹きはね、元から家にあったのですよ。タダなのですよ。

で、1時間に1回、部屋でシュッシュしてます。それ以外にも、乾燥が気になったら、部屋でシュッシュしてます。

……いや、加湿器買えよ!(2回目)

でもね、1時間に一度、部屋の中で霧吹きを散布する。たったそれだけの手間が惜しくて、マシンを買うなんて、バカバカしくないかいですか?

そしてふと気づくのです。そうか、今話題のSDGsってそういうことか。

電気を使わなくても、人力でできることは、人力でやろう。

そう、SDGsとは、S「それくらい」 D「電力つかわずに」 G「頑張れ!」の略なのです。

……最後の小文字の「s」は何なのかって?

……そう、SDGsとは、S「それくらい」 D「電力つかわずに」 G「頑張れ!」 s「しょ、少年!」の略なのです。少年よ、大志を自力で抱け!

人力でよくない?ってことはほかにもありまして。

最近は夏場になると、携帯型扇風機みたいなのを持っている人を街で見かけます。お店に行くと、売ってます。たぶん、電池式なんでしょうね。それを見るたびにいつも思うんです。

……うちわじゃあかんの?

うちわなんて、だいたいただで配ってることが多いんだぜ。

まあうちわは持ち運びに不便ですけど、扇子だったら持ち運びも楽チン。むしろ、小型扇風機より軽いですよ、きっと。

おまけに、扇子があれば落語もできます。「時そば」とかやれちゃうよ。

もちろん、扇子もそこそこの値段がしますけど、

……電池って意外と、高いのよ。

仮に小型扇風機が充電式だったとしても、

……どうせすぐ壊れるって。

僕の部屋にあるうちわなんて、たぶん、10年ぐらい前のやつです。まだ全然使えます。なんというものもちの良さ。

おまけに、風の強弱も手首の加減一つで思いのまま!

これぞ、S「それくらい」 D「電力つかわずに」 G「頑張れ!」 s「少年!!」

科学の進歩は素晴らしいですが、中には「なくてもよかった進歩」もあるのです。

この前も、街を歩いていたら、電動スクーターがスイ~!

……自転車に乗れ! 太るぞ!

「反発」だらけの人生

思えば、僕の人生はたいてい何かに反発してばっかりなんです。

たとえば、「あしたてんきになぁれ」という小説。あれは学校や受験、就職といった枠組みへの反発が根底にあるんです。

「民俗学は好きですか?」ってZINEも、いろんなものへの反発が根底にありますね。

まずは、民俗学への反発。民俗学についてやってるのに、民俗学に反発するとはどういうことや。

民俗学の本って、わかりづらくて、面白くない本が多いんですよ。

「俗」ってついてるんだから、わかりやすくて、おもしろくないとダメだろ、っていう「反発」があって、なので「わかりやすく、おもしろく、奥深く」を掲げてZINEを作ってます。「勉強してる人やオタクにだけわかればええねん」はやめよう、と。

そもそも民俗学自体が、文献至上主義の歴史学への反発で生まれたものですし、偉人中心の歴史観への反発でもあるんですよ。さらに紐解くと、民俗学の父・柳田國男が官僚時代に抱いた、「地方の実情を無視した国策」への反発が、彼を民俗学の道へといざなったんです。民俗学ってそもそもが、反発の学問なんですよ。

また、ZINEというスタイルには、WEBライターやライター業界への反発が潜んでます。

自分でZINEを作ろうって思ったきっかけが、いまのWEBライター業界は、記事を量産してお金を稼ぐことしか考えてなくて、質のいい記事を作ろうという気概がない、という「反発」でした。

さらに、

「ライターってなんで自分でメディア作らずに、『お仕事待ってま~す』なの?」

「ライターってなんで自分の作品を自分で売らないの?」

「ライターってなんで自分でお客さんの前に立たないの?」

という業界そのものへの「反発」もあるんです。

反発に反発を上塗りする、反発オンザ反発スタイル。

さらに、「ノンバズル企画」という活動には、SNS社会の「バズることが正義」「ネット上の数字が正義」という風潮への反発もあります。

学校とか就職とか、民俗学とか、ZINEとか、自分が通ってきた道をもれなく反発で塗りつぶしていきます。反発の大怪獣です。後始末は誰がしてくれるんでしょうかね。

ピースボートだけは反発から免れているのかと思いきやどっこい、旅人界隈によくある「行った国の数をプロフィールに自慢する」とか「海外いっぱい旅したヤツがエラい」「旅するヤツがエラい」といった風潮にも中指たててます。

ここまで反発しっぱなしだと、きっと死ぬまで反発しっぱなしなのでしょう。世間が右を向けば左を向く。左を向けば上を向く。こういうやつを昔から「アマノジャク」と言うのです。

「稼ぐ」という言葉が嫌い

「稼ぐ」という言葉が嫌いです。

なんだか「自分一人の実力で、これだけ稼いだぜ、ざまぁ」みたいな臭いを感じて、イヤなのです。

だって仕事はお客さんから「いただくもの」だし、お金もお客さんの役に立って初めて「いただくもの」。

なのに「稼ぐ」という言葉には「全部自分の力」みたいな思いが見え隠れして、イヤなのですよ。

とはいえ、僕も気を抜くとつい「今日の稼ぎは……」なんて口にしてしまってるんですけどね。その都度「いけないいけない」と自分をいさめているわけです。

とはいえ、臆面もなく「俺の稼ぎは……」とか言うやつは好きになれません。周りへの感謝を忘れた、犬畜生だと思ってます。

ところがね、そんな犬畜生がいたのですよ。

タイムラインに流れてきたネット記事に「仕事は自分で作るもの」「給料はもらうものではなく稼ぐもの」とまあ偉そうに書いてあったのです。

……噛み殺すぞ、てめぇ。

(人に噛みつくのは犯罪です。絶対にやめましょう)

給料は「稼ぐもの」ではなく、会社がお客さんの役に立って、「いただいた」お金の中から分配されるもの。つまりは、いただくものです。それも、いただく相手は上司でも経理部でも社長でもなく、会社の外の人からいただくのです。

さらに言えば、会社員の場合、その会社のブランド価値を高めてくれた先輩方がいるわけで、さらに言えば会社を設立した人がいるわけで。どれだけ有能な社員でも、彼らの存在抜きにして、今日の有能さはありえないわけです。

じゃあ、自分で起業した人は「全部俺の稼ぎだぜ!」でいいのか、って言ったらそういうわけでもなくて。

たとえば会社の業務を楽にするためのソフトとかアプリとか。

……おまえが作ったんか? ちがうよな。

たとえば会社の業務で使う車。

……おまえが作ったんか? ちがうだろ。

たとえば取引先との連絡に使っているスマートフォン。

……おまえが作ったんか? ちがうでしょ? スティーブ・ジョブズとグラハム・ベルに感謝しなさい。

そして、これらが壊れた時、じゃあ自分一人で直せるのか、って言ったら、専門家でない限り無理なんですよ。

さらに言えば、「起業して、収益を上げられるような時代・環境」を整えた人は誰だろう、と考えると、それはもう気の遠~くなるほどの年月をかけて、気の遠~くなるほどたくさんの人たちが、今の時代を気づいたわけで、己などその大河に一滴に過ぎないわけです。

自分一人じゃ、ほんとは何にもできない。だから、仕事で電話を掛けるときは、こう言うわけですね。

「お世話になっております」

なぜ、ZINEを販売するお店は(そんなに)ないのか

年末にイベントに参加してきたんですよ。出展する側ですね。

野外のイベントだったんでコロナのリスクは低いんですけど、むしろ凍死のリスクが高くて、死ぬかと思いました。

文学フリマや、ましてやコミケなんかと比べると決して大規模なイベントではなかったけど、それでもまずまずの部数を売り上げたんです。

そして、ふと思うのが、「毎日、このくらいの売り上げがあったら、結構な収入にならないか?」

1日1万円を売り上げるとして、ひと月営業したら、30万円。

……悪くないじゃない。

もちろん、これだけだと店舗の家賃やコストだけで飛んでく可能性があるけど、何人かでチームを組んでお店を作ったら、結構いけるんじゃないの?

となると問題は、「僕のZINEはイベントじゃなくても売れるのか?」という点ですね。「イベントだから」売れてるんじゃないのか。お祭り気分だからみんな買ってくれたんじゃないのか。

まさにハレとケの問題。イベントで売れたZINEは普通のお店でも売れるのか?

となると、疑問に思うのが「なぜ、コミケの同人サークルは、常設店舗を作らないのか?」ということ。

半年に一度のコミケには、50万人ほどが集まるといいます。

もし、秋葉原あたりにコミケと全く同じ品ぞろえのお店があって、365日営業しているとしたら、1日3000人近くのお客さんが集まる大繁盛店になるという計算。

もはや、デパートですよ。秋葉原同人誌デパート。コミケがあれほど繁盛してるのに、なぜ同人誌デパートが生まれない?

ただ、コミケの主力商品は二次創作品。悪い言い方をすれば「パクリ」。

二次創作の売買が許されているのはイベント、つまりお祭りだからであり、それをさすがにお店で堂々と売り始めたら、さすがに集〇社あたりから「ちょっ、待てよ!」と言われてしまうのではないか。

メ〇ンブックスなんかでひっそりと委託販売してるくらいならまだしも、堂々とお店を構えるのはさすがにマズい気がしますね。

その点でウチは大丈夫です。完全なオリジナル作品ですから。

(まあ、全ての民俗学は柳田國男の二次創作なんじゃないか、という疑念は置いといて)

まあつまり、同人誌の即売イベントがあれだけ盛り上がるということは、「商業誌じゃないから」「個人が作ったものだから」「手作りだから」は、売れない理由にはならない、ということです。

むしろ、出版不況と言われ続ける今こそ、ZINEに価値があるのかもしれない。

全国でZINEやリトルプレスを扱うお店も、確実に増えてきています。ZINEを売る場をハレからケへと移す方法も、どこかにあるはずなんです。

「悪」を煽る奴も同罪じゃないのか?

ネットとかを見ていると、腑に落ちないことが多々あって。

「悪いヤツ」や「悪いもの」をもてはやした連中は、「悪いことをしたやつと同罪」ではないのか、って想いがずっとあるんですよ。

たとえば、ちょっと前に話題になった「迷惑ユーチューバー」。逮捕だの裁判だのアカウント凍結だので話題になりましたけど、あれって、「動画作った本人」だけが悪いんでしょうか。

どうしてそんな動画作ったのかと言うと、「再生回数が伸びるから」ですよね。誰も見ない迷惑動画を黙々と作るような酔狂な人間はまずいないはず。「この動画、迷惑でおもしれー!」ともてはやした連中が、サル山の猿のようにうじゃうじゃいたから、迷惑ユーチューバーは迷惑動画を作り続けたはずなんですよ。

迷惑動画をおもしろがって楽しんだ連中は、動画を作った本人と同罪じゃないのか? だって、こいつらがいなかったら、迷惑ユーチューバーは活動できなかったはずなんです。

そして、こいつらがタチ悪いのと思うのは、

「いや、僕らただ動画見てただけですよ」という言い逃れができてしまう、という点。

たしかに、積極的に悪いことをした人間と、それをただ見てた人間を同罪にする、と言うのは無理があるのかもしれません。

一方で、「いじめを黙認して傍観してるやつも、イジメた奴と同罪」っていうし。

犯罪にしろ虐待にしろ、「通報義務」ってあるし。

飲酒運転を黙認したやつは飲酒運転したやつと同罪だし。

悪を傍観することは、悪を黙認することであり、悪を推奨することなのではないか。

思えば、昔からこういう問題がたびたび出てくるわけです。

たとえば、10年ほど前の某ボクサー一家の問題。

それまでさんざん「ワルっぽいところがいい!」とか言ってたのに、いざ問題を起こしたら、みんなてのひら返し。

挙句の果てには「持ち上げてたマスコミが悪い」。

マスコミが持ち上げてたのは視聴率が取れるからであり、つまりは「ワルっぽくておもしれ‐!」って人たちがいっぱいいたから、マスコミが持ち上げたわけです。誰も食いつかないものにマスコミは注目しません。

最近だと、SNSの誹謗中傷で自殺者を出した某番組。この番組も、過剰な演出がイケなかった、ということにされています。

するとやはり、過剰な演出をした番組が悪い、と言われるのですね。

でも、テレビが過剰な演出をしたのは、その方が視聴率が取れるからであり、つまりは「リアリティショーっていうの? 過激でおもしれー!」という連中がいっぱいいたからです。

そして、ボクサー一家が問題を起こそうが、シェアハウス番組が問題を起こそうが、面白がった連中は知らんぷりです。「僕ら、ただ見てただけです」というわけですね。

……同罪だからな。

ちなみに、「ガキ使」をやらなかった今年の日テレの大みそかは、視聴率が悪かったらしいです。みんなやっぱりケツバットとタイキックが見たかったんですね。

……アウトー!