小説「あしたてんきになぁれ」 第40話「バイト、ときどきファミコン」

たまきと亜美が出会ってから約一年、たまき、初めての○○! 「あしなれ」第40話スタート!


第39話『お葬式、ところによりバスケ』

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち

歓楽街の神社のところで大通りを渡り、南へ行く。デパートのわきを抜けると、大きな画材屋さんがある。

その画材屋さんのわきの路地裏に、多くのラクガキがひしめいている。

たまきはスケッチブックを買った帰りに、そこをのぞき込んでいた。もっとも、ここにラクガキがいっぱいあると知っててのぞいたのではない。ちょうどここに自販機がいっぱいあるので、なにかペットボトルでも、とのぞいてみたところ、ラクガキをたくさん見つけたのだ。

とたんにたまきは自販機そっちのけで、例の鳥のラクガキを探し始めた。

狭い路地を行ったり来たりして、時にはぴょんぴょん飛び跳ねて、探す。建物と建物の隙間を見つけたら、顔を近づけて探す。

そうやって何分も何分もかけて探したけれど、見つけることはできなかった。

たまきは、ため息をついた。

鳥のラクガキを探し始めてからというもの、一か月でほどでたまきは三十個近くのラクガキを見つけ出した。

こんなに次々と見つけられるなんて、これはもしやギネスも狙えるんじゃないか、などと考えたりもした。ギネスにはたまにすごくくだらない世界記録がある。だったら、「鳥のラクガキ探し世界一」があってもいいだろう。たまきだって人生で一度くらいは何かの世界一になってみたい。

ところが、それからぷっつりと発見が止まってしまったのだ。最後の発見から十日間、全く見つけられていない。

ビルの隙間に顔を突っ込み、屋上に目を凝らし、「立ち入り禁止」と書かれた金網があれば向こう側をのぞき込む。前に探したところでも、新たに描きこまれているかもと、もう一度探してみる。それでもさっぱり見つからない。

見つけたラクガキのうちのいくつかは歓楽街から離れたところにあった。そんなラクガキがほかにもないかと「遠征」することも考えてみたけれど、一人で電車に乗って知らない街に行ったら、帰ってこれる気がしない。誰かを誘おうにも、亜美はこんなこと絶対興味ないだろうし、志保は最近新しくバイトを始めたらしくいろいろ忙しそうだ。

もう一度だけ、ラクガキがないか裏路地を探してみた。ほかのラクガキはいっぱいあるのに、あの鳥のラクガキだけが見つからない。

代わりに張り紙があるのを見つけた。

『落書き厳禁! 迷惑してます!』

志保が言ってた通り、やっぱりラクガキは迷惑なことらしい。ラクガキをきれいに消すのにはうんとお金がかかるという。そんな迷惑なラクガキを探し回っているたまきの行動も、やっぱり迷惑なことなのだろうか。

たまきは『城』に帰るべく歓楽街に向かってとぼとぼと歩き出した。

鳥のラクガキはすべて同じ人が描いた、とたまきは思っている。お絵かき好きのカンだ。そして、お絵かき好きだからこうも思う。

どうして、その人は新作を描かないんだろう。

お絵かき好きだったら、新しい絵を描きたいはずだ。たまきがスケッチブックを新調してでも新しい絵が描きたいように。その人だってお絵かき好きなら新しい絵を描きたいはずだ。

もっとも、このラクガキの場合、絵のデザイン自体はほとんど変化がない。いつも同じ、白い鳥が羽ばたく姿を描いている。

だけど、描かれる場所が毎回違う。作者の人はきっと、「なにを描いたか」よりも「どこに描いたか」の方を重視しているのだろう。作者の人にとって、ビルの壁とか、貯水タンクとか、陸橋の橋げたとかは、絵の背景であり、額縁であり、むしろ主役なのかもしれない。

とにかく、お絵かき好きならば新作を描きたいはずだ。だけど、少なくともたまきの目には、どれも最近描かれたようには見えないのだ。中には劣化がかなり激しく、明らかに何年か経過してるものもある。

帰り道でたまきは、カレー屋さんの隙間の室外機をのぞき込む。だけどやっぱり、鳥のラクガキは見つからない。

 

画像はイメージです

「ただいまです……」

たまきが『城』のドアを押し開けた。

部屋の中からは、バンとかドカンとかピコーンといった音が聞こえる。志保はバイトでいないはずだから、おおかた亜美がゲームでもやってるのだろう。

部屋の中に入ってみると、案の定、亜美がソファの上に胡坐をかき、コントローラーを握りしめ、テレビ画面をにらみつけて、ピコピコやっていた。テーブルの上にはゲーム機。亜美が中古で買ってきたやつだ。

「あー、くそっ! 殺す! ぶち殺す! 死ね! 死ね!」

亜美は画面をにらみつけながら、日常生活ではとても言わなそうな過激な言葉を吐き散らかす。いや、亜美なら日ごろから言ってるかもしれない。

「ああ、たまき、おかえり」

亜美は画面から目を離すことなく言った。

「あ、ちょ、ちょっと待て、おい!」

亜美が突如声を張り上げたのでたまきはビクッとなったけど、亜美は相変わらず画面から目を離さない。

「待て待て待て待て、おい、ふざけんなよ! あ~!」

亜美がコントローラーを投げだした。コントローラーは宙を舞ってソファの上に落ちた。

画面にはゲームオーバーの文字。まあ、画面を見なくても何が起きたかさすがのたまきにもわかってはいたが。

どうやら二世代前の格闘ゲームをやっていたらしい。亜美はそういった一昔前のゲームを中古でよく買ってくる。今のゲームと比べるとだいぶ画面は粗いし、できることも限られるけど、その分安くお店で買えるので、万が一「クソゲー」を買ってしまっても、あまり財布は痛くならずに済む。だから、よくわからないゲームでもとりあえず試しで買ってみることができる。万が一つまらなくても、数百円の損でしかない。

画面はいわゆる「セレクト画面」に切り替わり、モニターからは懐かしのファミコン音楽が流れている。亜美は床に無造作の置かれた段ボール箱の中から、ごそごそと何かを取り出した。

ゲームのコントローラーだ。二本目となるコントローラーを、亜美はゲーム機につなげる。

「よし、たまき、おまえもやるか?」

その質問をする前にコントローラーをつなげたということは、暗に「やれ」と言っているようなものだ。

「お前も変なラクガキなんて探して外うろついてないで、たまにはまったりイエでゲームでもしたらどうだ?」

いつもは「ひきこもってないで、外で遊んできなさい!」と言ってるくせに。

まあ、バーだのクラブだのに連れまわされるのに比べれば、ゲームはだいぶ抵抗が少ない。たまきは亜美の隣にちょこんと座ると、コントローラーを握った。

「いいか、必殺技の時はちゃんと技の名前を叫ぶんだぞ。そうすれば……」

「ダメージが三倍になるんですよね」

たぶん、そんなギミックのゲームはまだ開発されていない、とたまきはうすうすわかっていたけど。

 

たまきの操る女性キャラの体力ゲージがじりじりと減っていく。これで三回戦目。ここまでは操作に不慣れなたまきの二連敗だ。操作に不慣れだからと言って亜美が手加減するなんてことはない。

三回戦目にして、だいぶたまきのキャラの動きもスムーズになった。それでもまだ、意味もなくぴょこぴょこ飛び跳ねたりと、無駄なモーションが多い。

「はあっはっはー。小学生の時コイツを極めたウチに挑もうなんて、百年早いんじゃ、ぼけぇ!」

誘ったのはそっちじゃないか、とたまきは思ったけど、特に何も言わない。

「くらえ、爆裂ストレート!」

亜美の叫びとともに、亜美が操る男性キャラの必殺技が発動した。真っ赤な炎を纏うエフェクトで、パンチがたまきのキャラに迫る。ちなみに、技名がホントにそんな名前なのかはたまきには確認する術がない。

たまきのキャラのゲージはもはや三分の一ほど。この必殺技で勝利を確信した亜美。だが、たまきのキャラは絶妙なタイミングでしゃがみ、必殺技は空振りに終わった。

「なにぃ? そんなバカな! おのれぇ!」

亜美がマンガの悪役のようなセリフを吐く。

亜美は技の名前を叫びながら、必殺技に必要なコマンドを入力しているのだ。そのタイミングでよければいいということぐらい、いいかげんたまきでもわかるのだ。

画面をにらみつける亜美を横目に、たまきは頑張って一個だけ覚えた必殺技のコマンドを入力する。もちろん、無言で。

画面に必殺技の発動シーンが現れる。

「させるかぁ!」

回避しようとジャンプの黄色いボタンを亜美は押す。だけど、このゲームの仕様では、必殺技の発動シーンが流れたら、もう何を入力しても受け付けてくれないのだ。回避したかったら発動シーンが流れる直前に動く必要がある。たとえば、相手が技の名前を叫びながらコマンド入力を始めたタイミングで、とか。

たまきのキャラの華麗なるキックが炸裂した。何発も連続して相手に叩き込む技だ。

「おい! ジャンプだっつってんだろ! おい!」

亜美が無意味にボタンを連打するも、技の発動中では受け付けない。そもそも、攻撃されてから回避しようとしたって遅いのだ。亜美はこのゲームを小学生の時に極めたんじゃなかったのか。

亜美のキャラの体力ゲージが、三割ほど吹っ飛んだ。残りは半分ほどだ。これで、勝負はまだわからなくなった。必殺技のゲージはお互いにすっからかん。

「ちっ、なんでこんなにゲージ少ねぇんだよ」

それはもちろん、必殺技を放った直後だからだ。相手に何度か攻撃を当てないとゲージはたまらない。

 

最初に亜美が二連勝するものの、その後たまきが二回連続で勝ち、負けず嫌いの亜美がそのあと一勝した。ここまでで亜美の三勝二敗だ。

そこでやめておけばよかったものの、勝利に気を大きくした亜美が「よし、もっかいやろうぜ」と再戦を申し込んだところ、今度はたまきが勝った。

ここで引き下がればよかったものの、「次はぜってー勝つ!」と往生際の悪い亜美が再戦を申し込む。ところが、これまたたまきの勝利で終わり、これで四勝三敗でたまきの勝ち越し。二度目の二連敗がこたえたらしく、亜美はとうとうコントローラーを投げ捨てた。

「おまえさ」

亜美がゲーム機からカセットを引っこ抜きながら言った。

「もしかしてこのゲーム、やったことある?」

「……まあ、ちょっとだけ。……お姉ちゃんが持ってたんです」

「どーりで、おかしいと思ったよ。操作に慣れるのやけに早いし、足払いとか妙な技知ってるし」

亜美としてはゲームセンターの楽しさを理解しないたまきにゲームで負けたというのが納得いかない。憎らし気な目でたまきをにらみつける。

「なに、笑ってんだよ」

「だって私、勝ちましたから」

「おまえ、ボウリングに行ったときも、ゲーセンに行ったときも、ぜんっぜん笑わなかったのに、なんでウチに格ゲーで勝った時だけ笑ってんだよ!」

「……だって私、勝ちましたから」

「つーかおまえ、ゲームやったことあるんだ」

「……私のこと、何だと思ってたんですか」

別にたまきは江戸時代からタイムスリップしてきたわけではない。れっきとした現代っ子である。まあ、一般的な現代っ子と比べると、ゲームへの関心も、やった回数も少ないんだろうけど、それでもちょっとぐらいやったことはあるのだ。

「え、ほかなんかやったことある? 」

「えっと……」

たまきはおぼろげな記憶をたどる。

「なんかその、お城があって……」

「城が出てくるゲームなんていっぱいあるぞ」

「その、悪いやつが出てきて、戦って……」

「いや、だいたいのゲームがそうだよ」

「えっと……空が青くて……」

「空なんか世界中どこ行っても青いだろ」

「えっとえっと……その……さんディーっていうんですか? 奥行きがあって……、そうだ、お城の中に絵が飾ってあって、そこからいろんな世界に行けるんですよ」

「ははーん」

亜美はようやく、ゲームの見当がついた。

「そりゃ、ロクヨンだな、たぶん」

「ロク……?」

「友達が持ってて、ウチも結構やったよ。あれだろ、ステージの中に隠されたスターを集めて回るんだろ?」

「そうだった気が……」

たまきの記憶の底から、鮮やかなゲーム画面の記憶がよみがえってきた。

「ウチも思い出してきたぞ。タワーの上とかさ、火山の中とか、洞窟の底とか、いろんなとこにスターが隠してあんだよ。でさ、ムズいワザとかマスターしねぇと、そこいけねぇんだよ」

「たぶん、それです」

「ふーん」

亜美はゲーム機を段ボールの中にしまった。

「一年も一緒にいるのに、そんな話したのはじめてだな」

「え……」

たまきは、キッチンにある小さな窓の方を見た。

今は六月の初め。亜美と出会ってこの『城』に棲みつくようになってから、もうすぐ一年が経とうとしている。

「そっかー、もう一年になるかー」

と亜美。「もう一年」なのか「やっと一年」なのか、たまきにはちょっと判断がつかない。

「お前、この一年でさ」

「はい……?」

「カレシできた?」

たまきは答えない。

「沈黙ということは……イエスか」

「ノーですよ」

今度は間髪入れずに返した。

たまきは天井を見上げた。

この一年で、自分は何か変わったのだろうか。たまきを取り巻く環境は少しずつ変わってきているのかもしれない。だけど、たまき自身は何か変わったのだろうか。相変わらず、学校にも仕事にもいかず、ひきこもっているだけではないか。この『城』の中にいれば友達がいる。それはたまきにとってこの上ない進歩だ。だけど、そこから一歩外に出れば、どこにも行くところがない。

たまきには、この街で暮らしているという感覚が、いまだにない。

そんなことを考えていると、玄関のドアが開いた。

「ただいま~」

志保が帰ってきた。今日はどこかで新しいバイトをしていたはずだ。

「おかえりー」

「おかえりです……」

「あ、たまきちゃん、いた」

志保は靴を脱ぐと、まずキッチンによって手を洗ってから、たまきの方に近づいてきた。

「たまきちゃんさ、バイトする気ない?」

「……え?」

天井を見つめていたたまきは、驚いて顔を志保の方に向けた。勢いよく首を動かしたた目にメガネが少しずれてしまっているが、たまきは気づかない。

「お、何だ? たまきにバイト? おもしろそーじゃん」

驚きと戸惑いで固まってしまったたまきの代わりに、亜美が身を乗り出す。

「どんなバイト? ウチもやってみたい!」

「亜美ちゃんはダメ」

「なんでだよ!」

「ダメっていうより、ムリ」

「あ、あの……」

たまきが言葉を挟み込む。

「亜美さんじゃダメだったりムリだったりするバイトを、私に、ですか?」

「そ。たまきちゃんじゃないとダメなの」

そう言って志保は優しく微笑んだ。

 

画像はイメージです

時間を少し戻して二時間ほど前。時間は午後の二時ごろ。場所は志保のバイト先である、行信寺の境内である。

今日はお葬式があるわけではなく、寺の掃除が志保の主な仕事だ。箒でさっさと落ち葉を掃いている。

「志保ちゃん」

住職に声をかけられて、志保は振り向いた。寺の敷地にある墓地の中から、住職が手招きをしている。

「ちょっと来てくれるかしら」

「はい」

志保が近くまで来たのを確認すると、住職は墓地の奥にある裏門にむかって歩き出した。志保も後をついていく。

「志保ちゃんはさ、絵って得意?」

「絵、ですか?」

志保の絵は別に上手くも下手でもない。ノートの片隅にちょっとしたラクガキが描ける程度だ。

「別に、フツーだと思いますけど……」

そうこうしてるうちに、裏門を抜けて道路へと出る。

墓地の周りは高いブロック塀で囲まれている。ふつうの家の塀よりもかなり高い。おそらく、お墓が見えないようにという配慮のためだろう。

ブロック塀は、スプレーなどで描かれた落書きで、ほとんどびっしり埋まっていた。文字なのか、記号なのか、落書きの上に落書きを重ねられているので、何を描いたかもう判別不能というものがほとんどだ。

「うわぁ……、すごいですね……」

「まあ、アタシは別に好きに描けば? って思ってるんだけどねぇ」

住職の方はさほど気にしていないらしい。

「でも、今この町内で落書きに対して厳しく取り締まっていこう、ってことになってるのよ。そうなると、ほかのお店やビルが頑張って落書き対策してる中で、ウチだけ落書きを野放しにしておくわけにはいかないのよ」

「じゃあ、この落書きを消すってことですか?」

「それも考えたんだけどね、消してもどうせまた落書きされるだけみたいなのよ」

「……そうですよね」

「でね、こういうのは落書きを消すんじゃなくて、上から新しくきれいな絵を描くってやり方が効果あるみたいなの」

「あ、わかります。よく線路の下とかに絵が飾ってあったり、ペンキでカワイイ絵が描いてあったりしますよね」

「そうそう。それでね、ウチもせっかくお寺なんだから、なんか仏教画みたいなのでも描いてみたらどうかしら、と思ったのよ。仏様の絵をね、なんかこう、親しみやすい感じで」

そこで住職は肩をすくめてみせる。

「思ったんだけどね、アタシ、絵は全然ダメなのよ」

「そうなんですか」

「絵筆をゴシゴシやってるとね、つい力が入りすぎて、絵筆がバキッて折れちゃうの」

それは「絵が下手」というのとは少し話が違う気がする。そもそも、絵筆ってそんな簡単に折れるモノなのだろうか。あと、絵筆を動かす擬音が「ゴシゴシ」と歯ブラシみたいなものであってるのだろうか。

「それでね、志保ちゃんに頼めないかなと思ったんだけど……」

「あたしですか? ム、ムリですよ」

クマさんやウサギさんを描けというなら志保の画力でもなんとかなるかもしれないけど、仏像さんを描くとなるとさすがに無理である。

「志保ちゃんの周りでやってくれそうな人いないかしら。たとえば、いつも通ってる施設の人とか、別のバイト先の喫茶店だっけ?の人とか」

「し、知りませんよ」

志保の通う施設では、絵画を使った治療法は行っていない。施設の人の画力なんて知らない。ましてや、バイト先の人の画力なんてもっとわからない。カレシの田代の画力だって知らないのだ。

「それか、不法占拠してるビルの友達とか……、あらいけない。道端でする話じゃないわね」

そう言って住職は口に手を当てたのだが、志保は

「それだったら……一人……心当たりが……」

と答えていた。

 

「そ、それで……私なんですか?」

「だってたまきちゃん、絵が上手いじゃん」

「好きですけど……上手いかどうかは……」

たまきは志保から目をそらした。

「それに私、仏教画とかわかんないし……」

「そーだよ、たまきにはムリだぜ」

と口を出してきたのは亜美である。

「こいつにホトケサマなんて描けるわけないだろ。そのつもりで描いても、いつの間にか恐怖の大魔王になってしまいました、ってのがオチだろ」

たまきは無言で頷く。悔しいけれど、たぶん、その通りなのだ。

「だいたいさ、大丈夫なのか、その寺って」

「失礼だなぁ。あたしのバイト先だよ?」

と志保が口をとがらせる。

「だってさ、その寺の坊さんってのが、キャラが濃すぎて何が何だか。坊さんで、オネェキャラで、おまけにコワモテの大男って、何個属性あんだよ。多すぎるだろ。ポケモンだってタイプは二つまでだろ。情報多すぎて全然イメージがわかねぇんだよ」

「知らないし」

ふつうは、情報は多い方がイメージがわきやすいのではないだろうか。

志保はたまきの方を向いた。

「仏教画だなんて堅く考えなくていいんだよ。住職さんは親しみやすくって言ってたから、なんかこう、ほにゃーっとした、もにゃーっとした絵の感じで」

志保は両手を広げながら言った。だが、志保の言い方は漠然としていてあまりイメージがわかない。

たまきは志保を見るでもなく、亜美を見るでもなく、テーブルの上に置かれた水色の置時計を見ていた。なんだか、長身が逆回転を始めたかのような錯覚を覚える。それでいて、秒針はいつもより早く動いているような気もする。

「ラクガキの上から……」

たまきは呪文を唱えるようにつぶやいた。

「私……その……やってみます……」

という声は、音楽で言うところのデクレッシエンド、つまり語尾になるほど音が小さく、聞き取りづらかった。

「え?」

「その……バイト……やります」

たまきの答えは亜美にとって、そしてバイトに誘った志保にとっても意外だったらしく、目をぱちくりしている。

「おい、たまき、イヤならイヤってはっきり言っていいんだぜ」

「ちょっと、なんであたしがたまきちゃんに無理強いしてるみたいな言い方するの?」

「あ、あの、私、やります……! やってみたいです……!」

たまきは教室の一年生のように、勢いよく手を挙げた。

「それじゃ、住職さんに電話しておくね」

「でもさおまえ、前に先生に面接の練習してもらった時、ダメダメだったろ。大丈夫なのかよ」

と亜美が、自分は舞にブチギレられて履歴書をゴミ箱に叩き込まれたことを、それこそ記憶ごとゴミ箱に放り込んだかのような口ぶりで言う。

「そ、それは……」

と不安げに志保を見るたまき。

「うーん、面接なんてあるのかなぁ。そもそも、あたしも面接してもらってないし」

「あ、あの、そんなに絵が上手じゃなくてもいいんですよね……」

「大丈夫。ほにゃーっと、もにゃーっと、描けばいいんだよ」

「ほにゃーっと、もにゃーっと……」

たまきはそれこそ念仏のように唱えた。

 

たまきが志保に連れられて行信寺に行ったのは、それから幾日か経ってだった。天気予報では九州が梅雨入りしたとか言ってたけど、東京はまだからりと晴れている。

墓地にある裏口から二人は境内へと入る。

住職からは「履歴書はいらないけど、描いた絵があるなら持ってきてほしい」と言われたので、リュックサックにいつもののスケッチブックが入っている。もっとも、学校に行かず仕事もせず、公園で絵を描いていることしかしてないたまきにとっては、このスケッチブックこそが履歴書なのかもしれない。

墓地を抜けたところで住職が待っていた。なるほど、話に聞く通り、いかつい顔をした大男だ。だけど、住職はニコニコと笑顔で待ってていたため、怖い印象を受けない。

あれっ、とたまきは思った。なんかこの人に見覚えがある。どこかで会ったりしていただろうか。だけど住職が、

「はじめまして」

とあいさつしたので、たまきはそれ以上考えることはやめた。

「住職の知念です。あなたがたまきちゃんね」

たまきは無言で頷く。

「あらあら、かわいい子じゃない」

ここでもまた、クラゲのかわいいだろうか。

たまきの顔に浮かんだ不安の色を察したのか、住職は口に手を当てた。

「あらやだ。最近じゃそういうのってセクハラになっちゃうのよね。ごめんなさいね。嫌だわぁ、アタシったら」

たまきは、志保の半歩後ろに下がり少しだけ志保の体で身を隠すように立つと、志保の服のすそを軽くつかんだ。それを見て住職はまた困ったような笑みを見せる。

「そうよねぇ。こんなデカいおじさんがオカマ口調でしゃべってたら、怖いわよねぇ。いいのよ気にしなくて。アタシは慣れてるし、その反応の方が普通だもの」

違うのだ。たまきはオネェキャラだからだとかコワモテだからだとかではなく、初対面の人間には誰に対してもこうなのだ。そのたまきの態度がどうやらいらぬ誤解を与えてしまったらしい。

「それで、住職さん」

と切り出したのは志保である。

「たまきちゃんのバイトの件なんですけど……」

「そうそう。お仕事の内容はもう聞いてるわよね」

「え、えっと……」

たまきが口をパクパクしながら不安げに志保を見る。

「あ、はい。説明しました。さっき入ってきた裏口の壁に落書きがいっぱいあったでしょ? あの上から新しく絵を描く仕事。大丈夫だよね、たまきちゃん」

たまきは無言でうなずく。

「大丈夫みたいです」

「たまきちゃんは絵が好きなんだって?」

「えっと……その……」

「中学のとき美術部だったんだよね? それで今でも好きでよく描いてて」

志保が代わりに答える。

「これまでにバイトの経験はあるのかしら?」

「その……えっと……」

「今回が初めて、だよね?」

「……です」

腹話術の人形みたいに口をパクパクさせるたまきを住職は微笑みながら見ていた。

「じゃあ、絵を持ってきてくれてるのよね。見せていただこうかしら」

たまきはリュックからスケッチブックを取り出すと、いちど志保を見て、志保が頷くのを見てから、住職に渡した。

住職はスケッチブックをめくると、驚いたように眉を引き上げた。驚きの理由は想像がつく。「まさかこんな画風とは」と言ったところだろうか。

「なるほどなるほど」

と、住職はスケッチブックをめくりながら一人うなずく。

「それでお仕事の内容なんだけどね、まず、どんな絵を描くか簡単なスケッチを作ってもらうわ。そうね、ちょうどこんな感じで、鉛筆で描いてもらう形で。アタシが大まかなイメージを伝えてそれを絵にしてもらう形になるけど、まあ、絵の技術的なこととかはたまきちゃんにお任せするわ。必要な機材はアタシの方で手配しておくけど、アタシも美術には疎いから、そういうことも含めていろいろと打ち合わせしないといけないわね。もうじき梅雨が来るから、その間にそういうことは済ませちゃいましょう。梅雨が明けたら、作業に取り掛かってもらうわ」

「あの……その……えっと……」

たまきはまたしても不安げに口をパクパクさせる。それを見た志保が何かを察したのか口を開いた。

「あ、あの、住職さん。バイト代ってどんな感じですか?」

「そうそう、その話もしなくちゃね」

と住職は話し始めた。たまきは志保の横で

「あの、その、ちがう……」

とごもごも言っていた。

「こんな感じで大丈夫かしら?」

「たまきちゃん、バイト代、今の話で大丈夫?」

「え、えっと、その……」

「うん、初めてだからよくわかんないよね。まあでも、妥当な金額だと思うよ。っていうか、あたしより多いんじゃないかな」

「えっとえっと……」

たまきはそれとは違うことがさっきから聞きたいのに、志保はなかなか翻訳してくれない。そこでたまきは腹をくくった。これは、自分がちゃんと日本語でしゃべるしかないんだ、と。

「あ、あの、私って、採用なんでしょうか……」

住職は最初、きょとんとしていた。なにせ住職はこの時初めて、「あの」とか「えっと」以外の、ちゃんとしたたまきの声を聴いたのである。最初誰がしゃべってるのかわからなかったのだ。

少し間をおいてから、住職は

「もちろんよ。あなた、なかなかいい絵を描くじゃない。声もカワイイし。もっと自信もっていいわよ」

と言ってから、

「あらヤダ、今のもセクハラになっちゃうのよね」

とひとり呟いた。

 

たまきと志保は改めて住職に連れられて、裏の通りのブロック塀の前に立った。スプレーでのラクガキが所せましに描かれて、何が何だかわからない。

「まずはこの壁一面を青いペンキか何かで塗りつぶして、その上から絵を描いてもらおうかと思ってるの」

と住職が言う。

たまきは視線を壁のあちこちに走らせていた。

もちろん、ここに例の鳥のラクガキがないかを探すためだ。だが、あまりに多くのラクガキが入り乱れているので、一瞥しただけではあるかどうかわからない。

それでも、こういう場所に引き寄せられたということは、やっぱりあの鳥のラクガキが自分を呼んでるんじゃないか、たまきにはなんとなくそう思えるのだった。

 

つづく


次回 第41話「タイトル未定」

ついにたまきのバイト生活が始まる! 5月公開予定!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第39話「お葬式、ところによりバスケ」

 

お寺でバイトを始めた志保、そして、あいかわらずラクガキ探しをするたまき。あのキャラの過去にも少し触れるかも? 「あしなれ」第39話、スタート!

第38話「地図ときどき異界、ところにより二丁目」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


画像はイメージです

「それじゃ、今までカレシがいたことないの?」

ミチのお姉さんの問いかけに、たまきは無言で頷いた。

「付き合うまでいかなくてもさ、デートしたりとかさ」

またしてもたまきは無言で、首を横に振った。

「じゃあ、このまえミチヒロと出かけたのが、ほんとに初めてってこと?」

たまきは頼りなさげに、うなずいた。

ここはスナック「そのあと」、いまはランチタイムである。

ランチの焼きそばを食べに来たたまきに、ミチのお姉ちゃんは彼女の恋愛遍歴を聞いていた。まじめでおとなしそうな印象だけれども、同年代の男の子の家にいきなり転がり込んでお泊りする度胸を持っている。見た目に反して、実は意外と男を手玉に取る魔性の女なのではないか……。

と思って聞いてみたのだけれど、さっきからたまきは、申し訳なさそうな返事ばっかり。

「クラスの男子からさ、かわいいとか、言われなかった?」

「とくには……」

「え~? たまきちゃんのクラスの男子、見る目ないなぁ」

見る目があるどころか、たまきが彼らの視界にはたして入っていたのかどうか、疑わしい。

「片思いとか、それくらいあるでしょ?」

「……別に」

「……この人かっこいい、とかさ?」

「かっこいい……?」

「クラスの男子じゃなくてもさ、芸能人とかでさ、いない?」

「かっこいい……」

たまきはしばらく、宙を見つめていたが、

「……ライオン……とか?」

ダメだこりゃ。

「たまきちゃんぐらいの年ごろだったら、ふつうはもっと男子に興味あるんじゃないの?」

「私は……ふつうじゃないので……」

なんだか尋問しているみたいで、ミチのお姉ちゃんは気が引けてきた。

話題を変えようと、たまきの荷物に目を向けてみた。グレーのリュックサックの中から、丸めた白い紙が飛び出している。

「その紙は何? 宝の地図か何か?」

と半ば冗談めいていってみた。それに対してたまきは、

「まあ、それみたいなものです」

と、少し意外な返答をした。

「え、ほんとに宝の地図なの?」

「まあ、地図であることは間違いないんですけど……」

「へえ。見せて見せて」

たまきはカウンターの上に地図を広げた。例の「鳥のラクガキ」の場所を示した地図である。

その横にたまきはスケッチブックを置くと、たまきが模写した鳥のラクガキの絵を見せながら説明した。

「へぇ。こんなところにそんなものあったかなぁ?」

ミチのお姉ちゃんは地図の中の自宅に近い部分を見ながら言った。

そこにドアが開いて

「姉ちゃん、メシ~。あ、たまきちゃん来てるの」

とミチが入ってくる。

「……こ、こんにちは」

「……何してんの? 二人とも」

ミチはカウンターの上の地図を見て、次にたまきと姉を見て、首をかしげる。

「あ、わかった。これ先輩たちのナワバリの地図でしょ?」

なんか前にもそんなことを言われた気がする。

いま、ミチのお姉ちゃんにした説明を、もう一回ミチにするのは面倒だな、とたまきが思った時に、お姉ちゃんのほうがスケッチブックを手に取り、

「なんかね、こういうラクガキ、探してるんだって」

「ラクガキ?」

ミチがスケッチブックの鳥をのぞき込み、もう一度首をかしげる。

「そ。あんた、見たことない?」

「えー、ないけど」

そういうとミチはたまきの方を向いた。

「ラクガキなんて探して、どうするのさ」

「どうする……?」

どうすると聞かれても、困る。

返事のないたまきに、ミチも興味を失ったのか、たまきのすぐ隣のイスに座ると、

「姉ちゃん、メシー」

とだけ言った。

「ちょっと待って」

「待ってるから、メシー」

「イヤそうじゃなくて、この絵、よく見せて」

お姉ちゃんは再びスケッチブックを手に取り、鳥の模写を見つめる。

「姉ちゃん、メシー」

「うるさい。そこら辺の草でも食ってなさい」

お姉ちゃんは弟を軽くあしらうと、たまきの方を向いて、

「もしかしたらこれ、見たことあるかもしれない」

と言った。

「ほんとですか?」

「うん、変なところにラクガキあるなぁ、って思ったやつが、こんな絵だった気がしてきた」

ミチのお姉ちゃんは、今度は地図の方を向く。

「この地図で言うとね~……」

と、地図の下の方を指でなぞっていたが、

「あ、これ、地図の外側だ」

と、お姉ちゃんは、地図からはみ出して外側を指さした。

「このへんの線路沿いにね、線路をまたぐ道があってね、その下に公園があるのよ。そこに階段があってね、そこの天井にこんな絵があった気がするのよ」

説明を受けたけど、たまきにはいまいち、場所の状況がわからない。

「ミチヒロさ、知らない。線路沿いにあっちの方に行くと、橋の下に公園があるの」

「えー。知らねぇけど」

いまだ空腹のミチは口をとがらせながら答える。

「橋はわかるでしょ。線路をまたぐ道路のやつ」

「二つとなりの駅にある、あれ?」

「そーそーそーそー。あんたさ、いまからそこにたまきちゃん連れてってあげなよ」

「え?」

「は?」

ミチとたまきが、同時に互いを見て、それからお姉ちゃんの方を見る。

「やだよ。オレ、これからメシなのに。姉ちゃんが連れてってあげなよ」

「あたし、これから夜の営業に備えて寝るんだもん。そんなとこまで行ってる暇ないって」

「俺のメシ、どうすんのさ」

「だから、そこら辺の草でも食べてなさいって」

「あ、あの、私、迷惑になるんで、もう帰り……」

「いーのいーの気にしないで。どーせこいつ、今日は何の予定もないし、自分の部屋にこもって、エロ本読むくらいしかやることないんだから。だったら、リアルな女の子と一緒にいる方が、まだ健全でしょ」

エロ本読む代わり扱いされるのは、たまきにとってメーワクなのだが。

 

線路沿いにあるんだったら線路沿いに歩いて行けばいいんだから、案内されなくたってわかる。と思っていたたまきだったが、それは少し考えが甘かったようだ。どうやらまず線路沿いに道が続いていないらしく、確かにミチに道案内してもらわないとたどり着けなさそうだった。ミチは家の近くで買ったハンバーガーの包みを抱えて、むしゃむしゃとハンバーガーを食べながら歩いている。たまきはその少し後ろを、うつむきがちにとぼとぼと歩いていた。

「そうだ、もっかい地図見せて」

ハンバーガーを食べ終わったミチが、口のケチャップを拭きながらたまきの方を向く。たまきは少し不服そうに、リュックから地図を取り出して見せた。

「なんかさ、小学校の授業でさ、こういう地図作らなかった?」

たまきの反応はない。

「たまきちゃん、小学生みたいなことやってるよね。かわいい」

こいつケトバしてやろうか、とたまきはミチをにらみつけた。

 

画像はイメージです

行真寺は都心のど真ん中、何車線もの車が走る大通り沿いにある。境内は木々に囲まれ静けさに包まれ、騒がしい都市の中での一つのアジールになっている。

ところが、今日に関しては少々騒がしい。多くの人が出入りしている。どうやら、誰かの葬儀が行われているらしい。

志保がこの寺でバイトを始めてから十日ほどが経った。これまでに三回ほど、簡単な掃除や片付けのバイトをしていたけど、お葬式の対応は今日が初めてだ。

人と接すること自体は、普段の喫茶店のバイトでやっているので問題はない。むしろ、得意分野である。ただ、お葬式となると少し勝手が違う。

喫茶店の時は「明るく笑顔で」が基本中の基本なのだけど、お葬式の受付でニコニコ笑っているのは不謹慎だろう。かといって、仏頂面というのも礼儀に欠ける。住職からは「涼しげな笑みでお願いね」といきなりハードルの高いことを言われた。とりあえず、喫茶店での営業スマイルをかなり水で薄めた、そんな顔をしている、つもりだ。寺の備品にあった女性ものの喪服を借りて、髪を後ろで束ねて、志保は受付の応対をしていた。

お葬式の主役、という表現が正しいのかはわからないけど、遺影で見る故人はけっこうな年のおじいさんらしい。「西山家葬儀」と書かれているので、きっと西山さんなんだろう。参列者は家族以外にも仕事関係と思われる人がかなりいる。

それにしても、ずいぶんこわもての人が多い気がする。もちろんお葬式なのだからにこやかにというわけにはいかないけど、悲しいから神妙な顔をしているというよりも、もともと眼光鋭い人ばかり集まってる、そんな気がするのだ。遺影の中の故人にしても、一応笑っているのだけど目が笑っていない。その眼光の鋭さを隠しきれていない、そんな感じがする。

今は住職の読経も終わり、出棺前の休憩時間、といったところだろうか。志保のもとに住職がやって来た。

「この後の確認、いいかしら?」

「あ、はい」

「このあと出棺したら、お片付けね。祭壇は業者の方が片付けるから、志保ちゃんはイスやテーブルの方をお願いね」

「はい」

「よかったわぁ。やっと3日以上続いてくれるバイトさんが見つかって」

そんな会話をしているとき、寺の入り口に黒い車が横づけるのが見えた。中から喪服姿の男が数人おりてきて、こちらに向かってくる。

もう出棺間近なのに、今ごろ弔問客だろうか、と志保が受付の準備をし始めた時、住職がそれを手で制した。

「ここはもういいから、片付けの準備に入ってちょうだい」

「え、でも、いま参列の方が……」

「いいから」

住職はそれこそ涼しげな笑みでそう言った。わけがわからないが、とりあえず志保はその場を離れる。

だけど、やっぱり気になる。少し歩いてから志保は振り返った。

「住職、久しぶりじゃな」

新たに現れた参列客もまた、眼光の鋭い壮年の男だった。鼻の下の髭がまたなんとも言えない威厳を醸し出している。

「お久しぶりでございます。そろそろ出棺よ?」

「その前に、死んだオヤジさんに最期の挨拶でもと思うてな」

やけに声の大きい男である。その声量だけで相手を威圧する。おまけに、コワモテだ。確かに、志保が受付をしていたら、それだけでビビってテンパってしまったかもしれない。

とその時、寺の事務所の入り口が、ガラガラとけたたましい音をたてて開いた。そして、中にいたはずの参列客が数人、雪崩のように志保の横を通り、受付の方へと押し寄せた。

その中の一人が怒鳴る。

「東野、貴様、どの面下げてきたんだ!」

これまたとんでもない声量で、驚きのあまり志保は数センチ飛び上がった。怒鳴った男は四十代ぐらいだろうか。赤っぽい色付きのメガネをしている。例にもれず、眼光は鋭い。

一方、怒鳴られた方のコワモテヒゲおじさんは、全く臆することなく、メガネの方をにらみ返した。

「なんじゃ、わしかてオヤジさんには世話になったんじゃ。最期にあいさつにっていうのが礼儀じゃろ」

「おんどれ、何が礼儀だ! 貴様が裏切ったせいで、親父は死んだんだ!」

『おんどれ』だなんて日本語が生で使われる場面を、志保は初めて目撃した。

気づけば境内は、コワモテヒゲおじさんの一派と、コワモテメガネおじさんの一派が睨み合う、まさに一触即発という状態になった。戦国時代ならこれから互いに名乗りを上げるところだけど、名乗りどころが銃声が響き渡りそうな雰囲気である。

志保はそばにあった松の木の後ろに隠れて、なるべく自分の気配を消すように努めた。亜美の持つ「トラブルをおもしろがる才能」か、たまきの持つ「気配を完璧に消す才能」のどっちかが欲しいところだ。

そこに響く「パンッ!」という甲高い音。一瞬だけまさか!と思ったけど、それは住職が手をたたいた音だった。

「まあまあみなさん。故人さまもそりゃ生前はいろいろございましたけど、すでに拙僧による読経も終わり、あらゆる煩悩を捨て去り、これから仏様の御元へと旅立たれる時よ。残された方々がこのようにいがみ合っていたら、故人さまも安らかな成仏ができないわ。みなさん、いろいろ遺恨はございましょうけど、故人さまを思う気持ちは一緒ということで、ここはひとつ穏便に……」

「住職、これはわしらの問題じゃ! あんたはひっこんどれ!」

ヒゲおじさんが住職をにらみつけた。

「そうだ、あんたが口出しする問題じゃないんだよ!」

メガネおじさんが同意する。いがみ合ってるわりに、ヘンなところで意見は一致するらしい。

そしてメガネおじさんは住職に一歩詰め寄ると、

「だいたい、オカマのボウズなんて、キモいんだよ! バケモノが!」

と吐き捨てるように、それこそ、噛んでいたガムやたばこをそのままポイ捨てするかのように、言い放った。

志保の立っている場所からは住職の顔は見えなかった。松の陰に隠れているので、その松の木が邪魔してたのだ。だから住職の表情はわからないけど、さすがにこれはマズいんじゃないか、と肝が冷えた。

木の陰から志保はそっと住職の顔をのぞき込む。住職の横顔は最初、志保にはひきつっているように見えた。

だが、次の瞬間、住職は笑い始めた。最初は笑いをかみ殺すように。そして、次第に声を上げて笑い始めた。引きつっていたのはどうやら、笑いを耐えている表情だったようだ。

「な、何がおかしい。男のくせに女みたいにしゃべったり、不自然で気持ち悪いと思うのは当然だろ! みんなそう思ってるんだよ!」

メガネおじさんはさらに悪態をついたけど、それを聞いても住職はますます声を上げて笑うだけだった。

「ごめんなさい。ごめんなさいね。だけど、おかしくて……」

どうして住職が謝るんだろう、と志保は思った。

「だけど、ここまでストレートに言われたのも久しぶりで、まあたしかに、みんな口に出さないだけで心のどこかでは思ってるんだろうけど……」

そう言いながら住職は、メガネおじさんの真正面に立った。

「いいかしらボウヤ。『みんなそう思う』ってことはね、アタシだって自分を客観的に見たらそう思う、ってことなのよ。自分はふつうじゃない、ほかの男子と違う、おかしい、異常だ、バケモノ、キモチワルイ。悪いけどね、あなたが思いつく程度の悪口なんて、アタシがアタシ自身に何千回も自問自答してきたことなの。何度も何度も自分を否定して否定して否定して否定して、それでも答えが出なくて、そういう月日を積み重ねて、アタシは今ここに立ってるわけ。なのにいまさら、レベル1みたいな悪口を、さも会心の一撃みたいな顔してぶつける人がいるんだって思うと、おかしくてね。レベル1なのに」

住職は笑いながらそう言った。意地でも、皮肉でもなく、本当におかしくて笑っているように見えた。

「相手のプライドをへし折りたかったらね、もっとウィットにとんだ悪口を言わないとダメよ。相手が何度も自問自答してきたような言葉じゃなくて、相手がずっと耳を塞いできたような痛烈な一言を、ね」

そういうと住職は、メガネおじさんにそっと耳打ちするように言った。

「だからボウヤはいつまでもボウヤのままなのよ」

メガネおじさんはすでにプライドをへし折られたような顔をしていた。今言った住職の言葉のどれかが、おじさんがずっと耳を塞いできた言葉なのだろう。

「それと、あなたは『不自然で気持ち悪い』っていうけど、この街のどこに自然があるのかしら。地面はアスファルトに覆われて、木よりも高いビルに囲まれて、車が排ガスを撒き散らして走る、こんな不自然な街で暮らしてて、気持ち悪くないのかしら、ボウヤ」

メガネおじさんはもう、言い返す気力はないらしい。

 

やがて棺は霊柩車という排ガスを撒き散らす乗り物に乗せられ、アスファルトの道路の上を走りながら、ビル街の彼方へと消えていった。一触即発状態だった弔問客たちも、少し頭が冷えたのか、出棺と同時にほとんどが無言のまま寺を後にした。

「ふぅ~」

片付けが終わると志保はようやく緊張が解け、本堂の壁によりかかった。

「だいじょうぶかしら?」

と住職が尋ねる。

「ま、まあ、何とか……」

「そう。コワいところに居合わせちゃったから、またバイトさんにやめられちゃうのかと思ったわ」

「まあ、あたしもそれなりに修羅場はくぐってますから……」

志保は去年のクリスマスのことを思い出しながら答えた。

「でも、さすがに本物のヤクザの人たちを見たのは初めてだったから……」

「え?」

とそこで住職がしばらく何も言わなかったが、やがてさっきのように声を上げて笑い始めた。

「え?」

今度は志保が怪訝な顔をする番だ。

「だってあの人たち、歓楽街の暴力団とかじゃ……」

「ちがうちがう。あの人たちは都議会議員よ」

「え?」

「亡くなった西山先生っていうのが5年くらい前まで議員やってて、あそこにいた人のほとんどが、そういう関係の人たちよ」

「え? だって、あのメガネの人が『オヤジ』って……」

「だから息子さんよ。もともと父親の秘書をやってたんだけど、今は後を継いで都の議員をやってるわ。でもまあ、あのくらいの言い争いに勝てないんじゃ、大成しそうにないわねぇ」

志保はてっきり、杯を交わした「オヤジ」だと思っていたのだが、どうやら本当の親子だったらしい。

「でもだって、さっきの人が裏切ったせいで西山さんは亡くなったって……?」

志保の頭の中に、西山とかいう人に東野とかいう人の撃った銃弾が当たって倒れこむ、「仁義なき戦い」みたいなシーンが浮かび上がる。ちなみに、志保は「仁義なき戦い」を見たことは、ない。

「西山先生と東野先生は同じ党に所属していたのよ。それで、どこかの区長選の時に、その党からは西山先生が推薦した人を出馬させることになったの。ところがそこに東野先生も出馬を表明したのよ。つまり、同じ党で票を奪い合うことになったってわけ。結果、有利と思われてたその党は表を分け合う羽目になって、二人とも落選。別の党の人が区長になったわ。そのことで西山先生と東野先生は大揉めして、それから体調が悪くなった、らしいのよ」

「え、じゃあ、あの人たち、政治家だったんですか?」

「だからそう言ってるじゃない。まあ、都議会議員じゃ、若い子は知らないわよねぇ。地盤もこの辺りじゃないし」

「だって……その……、目つきが悪かったというか、顔がコワかったというか……」

住職もコワモテだけど、そういう生まれついてのコワモテと言うよりは、彼らはなんだか銃弾の雨を潜り抜けた末のコワモテ、そんな風に志保には見えていた。

「あら、品性がなくたって選挙には受かるわよ」

住職はさもありなんといった感じで答えた。

「でも、政治家の人にも……ああいう差別的な考え方の人っているんですね」

「逆よ逆。政治家なんて、あんなのばっかりよ」

住職は、もうすっかり慣れた、とでも言いたげな表情をした。

「そうなんですか?」

「そうよー」

住職は後片付けの手を止めることなく答える。

「志保ちゃんはそれなりに勉強ができる子と見たわ。だったら日本で、民主主義の国で政治家になるのに必要な要素って、何だと思う?」

「え、えーと……」

志保は答えあぐねた。質問の答えがわからないのではない。いくつか答えが思いついて、絞り込めないのだ。

「じゃあ、聞き方を変えるわ。政治家になるには、選挙に勝たなければいけない。選挙に勝つためには何が必要かしら?」

「そ、それは、やっぱり一票でも多く票をもらうことじゃ……」

「そうね。より多くの人に、この人の考え方がいいって共鳴してもらうことね」

住職は優しく微笑みながら、志保の方を向いた。

「つまり、多数派であること。これが絶対条件よ」

確かにそうなのかもしれない。志保も政治に詳しいわけではないけど、たぶん、同世代の子よりもニュースを見る方だ。確かに、オネエの総理大臣も、耳の聞こえない官房長官も、見たことがない。

「多数派の人が、私はみんなと同じ多数派です、って宣言して、やっと当選できるの。もちろん、少数派の立場から議員になる人もいるけど、でもよくテレビに出るような有名な先生たちって、だいたいが『多数派のおじさん』なのよ」

それにね、と住職は続けた。

「政治家の仕事なんて、急速に変わってく社会がこれ以上変わらないようにブレーキかけることなんだから。むしろ、頭が固くないとやってけないのよ」

志保には、住職の言ってることがよくわからなかった。社会を変えていくのが政治の仕事だと学校では教わったのだが。

「もしそうだとしたら……、社会はいつまでたっても変わらないってことですか?」

「でもね、社会は変わるわよ。かってにどんどんね」

住職はふと、どこか宙を見るような眼でつぶやいた。

「志保ちゃんは携帯電話持ってるかしら?」

「あ、はい」

「どう?」

「……どう、ってえっと……?」

「携帯電話持ってて、どう?」

「……どう?」

どうと言われても、困る。みんなが持ってるから持ってる。それだけだ。

「あたしが子供の頃は携帯電話なんてなかったわ。でも、いつの間にかみんな持ってるのが当たり前になってる。この世は諸行無常。色即是空。誰か偉い人が変えるわけでも動かすわけでもない。常に水のように移り変わっているのよ。もちろん、携帯電話は誰かが作ったものなんだろうけど、でも、それを持たなきゃいけないって政治に強制されてるわけじゃない。みんながケータイ欲しいなぁ、便利だなぁ、って思ってたら、いつの間にか持ってるのが当たり前になってた。そんなもんよ」

いつの間にか、本堂は葬儀仕様のモードから、普段通りの様子に戻りつつあった。

「いまから十年くらいしたらきっと、アタシみたいな日陰者でももうちょっと住みやすい社会になってるわ。でもそれは、誰か偉い人が変えるんじゃない、みんなが少しずつそうなったらいいなって思って、少しずつ変わっていくのよ。こうやってしゃべりながら作業してる間に、すっかり片付けが終わってるみたいに、ね。さてと、今日のバイト代を渡さなくちゃね」

そういって住職はパンッと手を叩いた。

 

画像はイメージです

たまきとミチは十五分ほど歩いていた。下り坂だ。線路から離れたところを歩いていたのだけど、坂の下に再び線路がまた見えてきた。駅舎があるのもわかる。

その駅舎のさらに奥に、線路をまたぐ大きな橋が架かっていた。

「姉ちゃんが言ってたの、あの橋だよ。あの下に公園があるんじゃないかな」

「……そうですか」

ふだんあんまり歩かないたまきはもう疲れ始めていた。そもそも、スナック「そのあと」に行くまでにけっこう歩いているのだ。帰りはお金を払ってでも電車に乗ろう、とたまきは考えていた。

たしかに、橋の真下には金網に囲まれた小さな公園があった。公園の中には階段があって、どうやら橋の上の歩道に出られるらしい。遊具は子供が乗るのかゾウとパンダの置物がある。あとベンチがいくつかと、バスケットのゴールがぽつんと立っているだけ。

「でさ……」

公園の中に足を踏み入れながらミチが言った。

「姉ちゃん、どこにそのラクガキあるっつってた?」

「えっと……」

どこだっけ?

公園にたどり着くことばっかり考えながら歩いていたら、いつの間にか、公園のどこでミチのお姉ちゃんはラクガキを見たと言っていたのか、すっかり忘れてしまっていた。

たまきはとりあえず周りをきょろきょろと見渡したけど、それらしきものは見つからない。だいたい、これまでのラクガキもそんな簡単には見つからないところにばっかりあったのだ。今回だってちょっと見渡して見つかるような場所にあるはずがない。

とはいえ、モノがごちゃごちゃとあるような公園でもない。少し気合を入れて探せば、すぐに見つかるだろう。

たまきはベンチの後ろに回り、下から覗き込み、バスケットのゴールの周りをぐるぐる回り、パンダのおしりを覗いて、ゾウの鼻の下をうかがって、それから階段の周りをぐるぐる回った。一方のミチはたまきよりも背が高いので、もっぱら天井、つまり橋の裏側の部分を注意深く探した。

「ありました?」

たまきがミチのそばによって尋ねる。

「いや。つーか、あそこはさすがに届かねぇよ」

天井はミチの身長のさらに倍以上ある。

「でも、いつもそういう場所にあるんです」

「そんなの、どうやって描くのさ」

たまきは、少しだけ黙った後、答えた。

「魔法でも使ったんじゃないですか?」

半分は冗談のつもりである。

たまきは公園の中をもう一度ぐるぐるとまわる。ミチもそのあとにくっついて歩く。

それから、たまきは階段を上り始めた。足元を注意深く見るけれども特にそれらしきものは見つからない。

やがて橋の上に出た。橋の上はけっこうな大通りらしく、車がバンバン通る。

エンジン音があまり好きではないので、たまきはすぐに引き返した。ミチのお姉ちゃんは「公園」と言っていたのだ。橋の上の大通りは対象外と見ていいだろう。

階段の一番上からもう一度公園全体を見下ろすけど、やっぱり何も見つからない。

そうして今度は天井を見上げる。天井はミチがさっき探していたはず……。

「……あっ」

見つけた。

例の、鳥のラクガキである。

階段の真上にある天井に描かれていた。ミチのいた場所からはちょうど階段そのものの陰になって見えなかったのだろう。

たまきは手を伸ばしてみた。全然届かない。ここにラクガキするにはやはり脚立が必要だろう。

次に足元を見る。階段の中ほどだ。こんなところに脚立を立てて、果たして安定するのだろうか。

たまきはもう一度天井を見上げて、ラクガキを見た。少し煤けていて、ほかのラクガキよりも古い印象を受けた。

「あの、ミチくん、ありました……!」

たまきはそう言いながらミチの姿を探した。

たまきのいる場所から、踊り場を挟んでさらに下の段から、ミチはぼんやりと公園のバスケットがある方を眺めていた。

「あの……、ラクガキ、ありました」

たまきはとててと階段を駆け下りてミチのいる段の近くまで行った。

「あ、そう。見つかったの。よかったね」

ミチはもうすっかりラクガキへの興味を失っているようだった。いや、そもそもミチはここに来ること自体乗り気じゃなかった。もともとラクガキに興味なんてなかったはずだ。一生懸命探してるたまきの方がヘンなのだ。ミチがラクガキに興味を持たないのは別に不思議じゃない。

たまきにとって不思議だったのは、ミチの興味が公園にあるバスケットのゴールへと注がれていたことだった。

「その……バスケのゴールがどうかしたんですか?」

そう言いながらたまきは、どうかしてるのはラクガキなんかを追いかけまわしてる自分のような気がしてきた。

「いやさ……」

そこでミチは少し言葉を切って、一息ついてから続けた。

「姉ちゃん、ここで何してたんだろうなぁ、って思って」

「はぁ」

ミチの言ってる意味がたまきにはいまいちわからない。

「姉ちゃんさ、たまに原付で出かけるんよ。で、三十分ぐらいして帰ってくるんだけどさ、何か買ってくるわけでもねぇし、どこ行ってるんだろう、とは思ってたんよ」

「……はぁ」

「もしかしてさ、ここでバスケの練習とかしてたんじゃないかな、って思って。だって、姉ちゃんがこの辺に来る用事なんて、ほかにないもん。買い物はだいたい家の近くのスーパーで済ませてるし。スクーターの座席の下なら、小さめのボールだったらしまっておけるだろうし。」

たまきは、頭上のラクガキを見やった。たしかに、ちょっと通りがかったぐらいではなかなか見つけられないだろう。バスケの練習をしててみつけた、というのはありえない話ではない。

「そういえば……」

と、たまきは切り出した。

「お姉さんのお店って、バスケットに関するものがけっこう置いてありますよね」

「姉ちゃん、バスケやってたんよ。小中で。けっこうすごくてさ、キャプテンやってて、県大会でベスト4に入ったんだぜ」

「ふ、ふーん」

それがどれだけすごいことなのか、たまきにはピンとこなかったけど、とりあえずわかっているふりをした。

「試合も何回か見に行ったけど、姉ちゃん、めっちゃ活躍してたんよ。あのまま高校に行って続けてたら、もしかしたらいいとこまで行けたんじゃないかなぁって思うんだよ」

「どうしてやめちゃったんですか?」

「だって、高校いかなかったんだもん。中学出てすぐ働き始めたから」

ミチは、バスケのゴールを見つめながら言った。

「俺は高校いきなよって言ったし、施設も高校までの学費は出してくれるんだけどさ、姉ちゃんは早く働いてお金を稼ぎたいからって、就職したんだよ」

ミチは、ゴールから目線を落とした。

「……もしかしたら、俺のせいなのかもしれない」

「え?」

「そん時、オレ、まだ小学生だったから。姉ちゃん一人だけならもしかしたら高校いってバスケ続けてたかもしれないけど……。施設だって金持ちの道楽でやってるわけじゃないからさ、いつ潰れて俺ら放り出されるかもわかんないじゃん。それにさ、スポーツってカネかかるんだよ。部費だ、合宿費だ、遠征費だってさ……。施設のお金をそういうことに使うんだったら、俺や下の世代の子供たちのためにって考えてたのかも……」

ミチは、階段を降りて歩き始めた。たまきもその後ろをついていく。

歩きながらも、ミチの視線はバスケのゴールへと投げかけられていた。

「姉ちゃんはさ、バスケのことはもういいって言ってんだけどさ、店の中にバスケのグッズ置いたりしててさ、もういいっていうふうには俺には見えねぇのよ。……やっぱここでシュート練習とかしてたのかもなぁ」

たまきもゴールに目をやった。バスケットボールが放物線を描きながら、リングの真ん中に吸い込まれていく光景を思い浮かべながら。

でも、ミチのお姉ちゃんが一体どんな顔をしてシュートを打っているのかは、どうしても思い浮かべることができなかった。

 

帰りのたまきは電車に乗った。

ほんの十分ほどでいつもの駅に着いた。

駅の中は色んなキラキラしたものであふれている。

どこかの女優さんを起用したポスター。

映画の宣伝ポスター。

本屋さんに置いてある漫画の最新刊。

これらの後ろで、一体どれだけの「あきらめた人たち」がいるのだろうか。それも、自分ではどうしようもない理由で。そもそも、その人たちは本当にあきらめることができたのだろうか。

つづく


次回 第40話「タイトル未定」

たまき、初めてバイトに行く!? 続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第38話「地図ときどき異界、ところにより二丁目」

前回登場した謎のコワモテおじさんこと「ママ」。はたしてその正体とは? 「あしなれ」第38話、スタート!


第37話「イス、ところにより貯水タンク」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


画像はイメージです

「よっ、ただいま」

「おかえりー」

「……おかえりです」

亜美が外出から帰ってきて、志保とたまきが返事をする。「城」のいつもの光景だ。

「今日はどこ行ってきたの?」

と、志保が本を読みながら訪ねる。

「ん? まあ、隣町の床屋だよ」

と、亜美はたまきの方に目をやった。

いつもなら、かなりの高確率でたまきはタオルケットをかぶって寝っ転がっているのだけど、今日はほとんど顔を上げることなく、何かかきものをしてる。テーブルの上にはスケッチブックよりも少し大きめの紙。その上にたまきは鉛筆で、絵というよりはなにか図面を描いている。

「ん? おまえ、なに描いてんだ? スゴロクでも作ってるのか?」

「……まあ」

亜美はたまきの描く図面をのぞき込んだ。改めてみてみると、何かの地図のようだ。ところどころ、地名も書かれている。

「これ、この辺の地図か?」

「……まあ」

たまきは地図を描きながら言った。「城」のある歓楽街とその周辺、半径一キロほどの範囲の地図だ。もちろん、正確な地図ではない。小学生が町探検の授業で作るような、簡素なものである。距離感も適当なのだろう。

亜美はたまきの描く地図をしばらく眺めていたが、やがて、地図の中にところどころバツ印が書かれていることに気づいた。

「へぇ~、おまえもだいぶ、この辺のことわかってきたじゃねぇか」

「どうゆうこと?」

「このバツ印はな、ウチらのグループのナワバリの店を指してんだよ、ちがうか?」

「違うと思うけど」

と答えるのは、描いている当人ではなく、志保だ。

「たまきちゃんがそんな地図作るわけないじゃん。それにさ、歓楽街からだいぶ離れた線路上にもバツ印があるけど、そこもナワバリなの? 違うでしょ?」

「じゃあ、何なんだよ」

志保は読みかけの本を置いて立ち上がった。

「バツ印は全部で七個あるから、この七つのポイントをすべてまわると、何か願いが叶うとか」

「マズいじゃねぇか。コイツの願いなんて、死なせてくださいの一択だろ。却下だ却下」

「じゃあ、印を線で結ぶと図形が現れて、呪文を唱えると封印された恐怖の大王が現れるとか……」

「おまえ、頭いいんだからさ、もっとジョーシキで考えろよ」

常識のない奴に常識を諭されたのが気に食わないのか、志保は黙ってしまった。だが、そこでたまきが突然立ち上がり、

「それ、いいアイデアです」

というと、鉛筆でバツ印同士をつなぐ線を描き始めた。

「ほら、あたしの言った通りじゃん!」

「いや、どっからツッコめばいいんだ、これ……?」

もちろん、たまきはナワバリの地図を作っているわけでも、禁断の魔法陣を描いているわけでもない。地図に描きこまれたバツ印は、ここ数週間でたまきが発見した、「鳥のラクガキ」である。

歓楽街のビルの隙間に一つ。

歓楽街から離れた高架下に一つ。

ビルの屋上に二つ。

そして、歓楽街のそばを通る大通りに一つ。

さらに、大ガード下の天井に一つ。

最後に、線路をまたぐ大きな橋の橋げたに一つ。

ほかにもまだまだまだ未発見のラクガキがあるのかもしれない。

ラクガキの場所に何か意味があるのではないか、と思ったたまきは、地図を書いてそこにバツ印を打ってみたわけだ。さらに印と印をつなげてみたりしたのだけれど、今のところ、特に法則らしきものは見つからない。

共通してることがあるとすれば、どれもこれも、「よりにもよってなんでこんな場所に」と思うような場所にばかりあるということだ。

ラクガキするには狭すぎるビルの隙間だったり。

3メートルあるフェンスの向こう側だったり。

ビルの屋上の、立ち入るのが難しい場所だったり。

そこからさらに十日ほどかけて、たまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、毎日外に出てラクガキを探し回った。そして、たまきは3つのラクガキを見つけた。

ひとつは、駅前と歓楽街の間を通る、十車線くらいある大通りだった。地下道に入る階段の壁に描かれてあったのだ。

問題は、その壁がその十車線ぐらいある車道に面していた、ということだ。

車がバンバン通る中で、ラクガキをするのはかなり難しいんじゃないだろうか。

その次に見つけたのは、大ガード下の天井だった。

歓楽街を出てすぐのところに、線路の下をくぐる大きな通路がある。そこの天井を見上げたところに、鳥の絵が描かれていた。

これまた、どうやって描いたのかわからない。もちろん、脚立でも持ち込めば可能だけど、人通りの多いこの通路でそんなことしたら目立ってしまう。

この二つのラクガキは、「不可能ではないけど、描こうとしたら目立つよね」という問題がある。ラクガキは誰にもバレずにこっそり描くものだ。

一番不可解なのが、線路をまたぐ大きな橋の、橋げたに描かれていたものだ。つまり、鉄道会社の完全な敷地内である。高架下のフェンスのむこう側とはわけが違う。そこに誰か入り込んでいるとバレれば、怒られるでは済まない。電車が止まってしまう。電車を止めてしまうと、みんなに迷惑がかかるだけでなく、とんでもない損害賠償を請求される。とくに、ラクガキのあった駅は日本の鉄道の大動脈だ。そこに立ち入って電車を止めたとなると、請求される金額はきっと、目玉が飛び出て帰ってこないくらいのレベルだろう。

世俗に疎いたまきが何で電車事情にだけ詳しいのかというと、もちろん、「線路に飛び込んだらどうなるのか」いろいろと調べてみたことがあるからである。駅のホームに立って電車が来るたびに、「いま、飛び込んだらどうなるんだろう」とぼんやりと考えてみるのだけれど、調べた範囲では、どうやらスマートな死に方ではないようなので、なるべく線路には飛び込まないようにしよう、とたまきは思っている。あと、たまきを跳ね飛ばすことになる運転手さんにも、なんか申し訳ない。

わからないことだらけの「鳥のラクガキ」だけど、わかっていることもある。

それは、すべて同じ人が描いたんじゃないか、ということだ。もっとも、絵のタッチからたまきが何となくそう思っているだけなのだが。根拠は、と聞かれても、お絵かき好きのカン、としか言いようがない。

もうひとつ、たまきはこのラクガキは女性が描いたような気がしているのだけど、それもやっぱり、なんとなくそう思ってるだけである。

 

画像はイメージです

喫茶「シャンゼリゼ」の扉が開いた。

「いらっしゃいませー」

と笑顔で応対した志保はすぐに、

「あれ、先生?」

と驚きの声を上げた。扉を開けた客は、舞だったのだ。舞は「よっ」と片手を上げた。カジュアルな格好で、リュックサックを背負っている。

「どうしたんですか?」

「いやなに、仕事で近くに来たついでに、そういやおまえのバイト先はこの辺だったと思い出して、立ち寄ってみたのさ」

「あ、席、案内しますね」

志保は舞を席へと案内する。

舞は席に座る前に、椅子をしげしげと眺めていた。

「あの……椅子がどうかしましたか?」

「あ、いや、イスを片手でぶっ壊した知り合いのことをちょっと思い出してな」

「え?」

「いや、そんなことより、おまえさ、バイト終わるの、何時だ?」

「えっと、あと1時間ほどですけど」

志保は時計を見ながら言った。もう夕方である。

「そのあと、なんか予定ある?」

舞はメニュー表に目を落としながら訪ねた。

「買い物して帰りますけど……」

「じゃあさ、1時間、この店で待ってるからさ、バイト終わったら一緒に買い物行かないか? ちょっと話したいことあるんだよ」

「話?」

「……悪い話じゃないよ。ちょっと頼み事っていうかさ、ま、おまえまだ仕事中だろ。その話はあとで。あ、とりあえず、紅茶よろしく」

志保は怪訝な顔をしながら、キッチンに注文を伝えに行った。悪い話じゃないというけど、用件が見えてこないのはやっぱり不安だ。

「あのお客さん、知り合い?」

と尋ねてきたのは、田代である。

「うん、お世話になってるお医者さんなんだ。なんか、あたしに用事があるみたいで、バイト終わったら一緒に帰らないかって」

「え?」

田代が不安そうな顔をした。志保の事情を知ってるだけに、知り合いの医者が用があってわざわざ訪ねてきたとなると、表情も曇る。それを察した志保は付け加えた。

「お医者さんって言ってもね、体のこととかだけじゃなくて、生活のこととか、メンタルのこととか、いろいろお世話になってるの。あたしだけじゃなくて亜美ちゃんもたまきちゃんも。ここのバイト受けるときも協力してもらったし、ほかにも、まあ、いろいろと。まあ、先生も悪い用事じゃないっていうし」

と言いながら志保は、こんなにお世話になってるんだから、そろそろ舞に何かお返しでもしないとまずいような気がしてきた。

「悪い話じゃなきゃいいんだけどさ……」

と田代。

その様子を、舞は水を飲みながら横目で見ていた。

「ふーん、あれかぁ……」

舞は田代のもじゃもじゃ頭を見つめ、志保の顔に目をやった。

 

画像はイメージです

志保たちや舞が暮らす歓楽街は、南北を大きな道路に挟まれている。その北側の大通りに近い場所に、韓国をはじめとしたアジアの食料品を売るスーパーマーケットがある。スーパーと言っても、コンビニより少し大きいくらいなのだけど。

舞はバイトの終わった志保を連れて、その店に来ていた。それぞれの夕食の買い物である。

「このお店、よく来るんですか?」

志保が周りをきょろきょろしながら聞いた。志保にとってこの店は来るのが初めてだ。それどころか、今さっきまでこんな店があることすら知らなかった。

「ああ、近いからな」

確かに、舞の家からは歩いて5分もかかるまい。

「まあ、あたしもそんなしょっちゅうは来ないけどな。でも、何にも献立が思い浮かばないときとかは、ここに来て、なんじゃこりゃ! ってものを買ってみるんだよ」

そう言いながら舞は唐辛子のような木の実が描かれた袋を手に取り、

「なんじゃこりゃ?」

と言いながら、カゴに入れた。

「それ、どんな味がするんですか?」

「さあ、知らない」

「……知らないのに買うんですか?」

「海外のレストランとか行ったら、全く聞いたことのない料理をわざと注文するのが、好きなんだよ。いったいどんな料理が出てくるんだろう、ってな。肉料理だろうと思って頼んでみたらパスタだった、とか、そういうことが起こるしな。あと、日本じゃぜんぜん知られてない家庭料理が出てきたりとか」

「それで口に合わなかったらどうするんですか?」

志保のカゴにはまだ、一つも商品が入っていない。

「それはそれで、海外のいい思い出だ」

そういうと舞は、香辛料らしき瓶を無造作にカゴに放り込んだ。

「先生って、海外によく行くんですか?」

「そうだな、仕事で行くこともあるけど、プライベートでも年に一回は行ってるな。友達と行くことが多いけど、アジアとかだと一人でフラッと行くこともあるな。ああ、そうだ、新婚旅行もドイツだった。そんで、離婚した時の傷心旅行が韓国だ」

「いいなぁ。あたしも海外行ってみたいなぁ」

「海外行ったことないのか。意外だな。留学とかホームステイとかしてそうな感じだけど」

「興味はありますけど……」

志保はそこで黙ってしまった。

思い返せば、海外どころか、家族旅行の思い出すらほとんどないのだ。

「あの……先生……それで話って……?」

「ん?」

舞はしばらく、何を聞かれたのかわからないような顔をしていたが、

「そうだった。お前に用があるんだった。すっかり忘れてたよ」

と笑いながら言った。

「忘れるような話題なんですか?」

「まあ、あたしに直接関係のある話じゃないからなぁ」

舞はポリポリと頭をかいた。

「知り合いに頼まれてさ、誰かバイトしてくれる奴いないかって頼まれたんだよ」

「バイト、ですか?」

「そうそう。なんでも、簡単な事務と、簡単な接客と、ちょっとした力仕事。まあ、雑に言えばお手伝いってやつだな」

「あたしに、力仕事……ですか?」

志保は怪訝な顔をしながら、自分の腕を見た。少し骨が浮き出ている細い腕は、一般的な十代の少女よりも明らかに華奢に見える。

「いや、最初はな、男子を何人か紹介してやったんだよ。でもな……」

そこで舞は一度言葉を切った。

「バイトを探してる知り合いってのが、ゲイバーのママやってたやつなんだよ」

「え、ゲ、ゲイバー?」

「おまえさ、『二丁目』って聞いて、何のことだかわかるか?」

「は、はい。聞いたことくらいは……」

歓楽街の中で『二丁目』と呼ばれる区画は、なぜかゲイバーが多い、という話は聞いたことがある。お店にも、『二丁目』にも行ったことはないけれど。志保たちが住むところとは少し離れているのだ。

「ママ、ああ、その知り合いのことな、ママはずっと二丁目で働いてて、まあ、今もそうなんだけどさ、力仕事があるっていうから男子を何人か紹介したんだけど、みんな三日でやめてくんだよ。ママにビビって。別にママが何かしたってわけじゃねぇ。ハナッからゲイとかに偏見持ってるんだ。別にゲイだからって男ならだれでも見境ない、なんてことないのにな」

「……それで、あたしなんですか?」

「だって、男子を紹介しても、三日以内で逃げてくんだもんよ。これがホントの三日坊主ってやつだな!」

そういって舞は笑ったが、志保がぜんぜん笑ってないのを見て、笑うのをやめた。

「で、男子がだめなら女子で、というわけだ。ママに聞いたら、ちょっとした力仕事ってのは、部屋の掃除や片付けの手伝いらしいから、まあ女子でもイケるだろ。ということでおまえら三人を思い浮かべたんだけどさ、亜美に『簡単な事務』が務まるとは思えないし、たまきが『簡単な接客』をしてるのは想像がつかねぇ。それでもう、おまえしか残ってないのよ」

「あ、あの……」

「お、なんか質問か?」

「あたし未成年なんですけど、そのお店ってあたしが働いても大丈夫なんですか……?」

志保は不安げに尋ねたのだが、舞は

「ああ、だいじょーぶだいじょーぶ」

とあっけらかんとして答えた。

「年齢、性別、学歴、前科、一切問わずだ。お仕事ができる体力があればそれでよしだ。宗派も問わねぇってさ」

「しゅうは?」

「キリスト教徒だろうが、イスラム教徒だろうが、無宗教だろうが、一切不問だ。おまえ教会が主宰する施設に通ってるけど、それでもぜんぜんオッケーだとよ。むしろ、ふだん仏教と関わりのない人ほど来てほしいってさ」

舞はインドの香辛料を手に取りながら言った。

「仏教? え? 宗教施設なんですか?」

「え?」

舞が手に取った香辛料をいったん置いた。パッケージには、ゾウみたいな姿をしたカミサマが描かれている。

「あれ? 言ってなかったっけ?」

「ゲイバーのママだとしか……」

「そうだよ。ゲイバーのママが、店をやめて出家して、寺の住職やってるんだよ。で、お手伝いが欲しいからって」

「お寺? でも、二丁目で働いてるって……」

「そうだよ。二丁目にある寺だよ」

舞は、いったん置いた香辛料を、やっぱりカゴの中に入れた。

「あれ? 最初に言ってなかったっけ?」

 

写真はイメージです

駅から大通り沿いに東に向かって十分ほど歩くと、「二丁目」と呼ばれる区画に入る。この一角は、いわゆるゲイバーやオカマバーと呼ばれる店が集まることで知られている。どうしてこの一角にそういうお店が集まるのかについては、志保は何にも知らない。ただ、そういう場所があるということだけは知識として持っている。

舞に連れられて志保が二丁目にやって来たのは、翌日の午後だった。ゲイの人向けの雑誌が置いてあるお店を見かけたときは、なるほど、ここがウワサに名高い二丁目か、とちょっと感心した。

ただ、テレビのバラエティで見るオネェタレントみたいな人たちが街を闊歩している、というわけでもない。怪しげな看板が多いわけでもない。志保の印象としてはいたって「ふつう」の街だ。夜になったら少しは風景が違うのだろうか。

ただ、昼間に訪れるとなんだかこの街はまだ眠っている、そんな印象を受けた。やっぱりいわゆる「夜の街」って奴なのだろう。

それよりも、志保の印象に残ったのは、寺の多さだった。

ビル街の中にいくつかお寺が立っている。東京の都心では、すっかり近代的なビルにお寺の看板がついていて、え、ここが寺?と思うことも多いのだけれど、二丁目には昔ながらのお寺が、狭い区画の中に数軒残っている。墓地も健在だ。

二丁目の中心にある公園に差し掛かった時、志保は少し足を止めて、あたりを見渡してみた。志保の周りを、ビルに囲まれて三軒ほどのお寺が取り囲んでいる。周りをお寺に囲まれるなんて、京都とかに行かないとないことだと思っていたけれど、こんな都心の真ん中で見れるとは。

「おーい、なにしてる。こっちだ」

その中の一つの寺の、裏口らしき門の前に舞が立って、手招きしていた。門の脇には控えめに「行真寺(ぎょうしんじ)」と書かれている。

 

行真寺の裏口から志保は境内に入った。この裏口というのは墓地の脇にあるもので、昼間だけ解放している。基本的には墓参りに来る人用の出入り口なのだけど、中には大通りへの抜け道としてこの裏口から入って墓地を通り抜けていく不届き者もいる。

並ぶ墓石は見たところ、どれもある程度は風化していて、この墓地とお寺の年月の古さを感じさせる。中には、刻まれた文字が完全に風化してしまって読み取れないものもあった。

「昨日も話したけど、おまえの事情であたしが知ってることは、ぜんぶママにきのう電話で話したから」

「あ、はい、わかってます」

昨日の別れ際に、志保は舞から、事情を「ママ」にすべて話すことの許可を求められた。舞いわく、ウソや隠し事が通用する相手ではないので、最初から志保の事情を伝えておいた方がいい、というのだ。

「大丈夫だ。ママはおまえの事情を知ったって、悪いようには扱わないから。むしろ、味方になってくれると思うぞ」

「は……はい」

志保は話題を変えようと、あたりを見回した。墓地の出口が近いのか、墓参りに使う手桶が並んだ台がすぐ横に見える。

「この辺りって、ビルも多いのに、お寺もいっぱいありますよね。なんでなんですか?」

「寺?」

今度は、舞があたりをきょろきょろと見まわした。

「そういや、この辺、やけに寺が多いな。気にしたことなかった。なんでなんだろうな」

その時、前方から下駄の音がした。

「ここはあの世とこの世の境目なのよ」

見ると、そこに袈裟姿の住職が立っていた。舞の言う「ママ」に違いない。

スキンヘッドの頭はいかにも僧侶っぽいのだけれど、なんだかごつごつしていて岩肌みたいだし、顔も眼光鋭く、見る者を威圧する。

「コワモテおじさんだ」と、志保は心の中でつぶやいた。

「ママ」こと住職は、かつかつと下駄を鳴らしながら二人の方へ近づいてくる。そして、舞の方を見ると、

「ヤダー! 舞ちゃん、久しぶりじゃなーい!」

と、さっきよりも1オクターブ高い声で話し出した。

「……先週も会ったじゃねぇかよ」

「そうだったかしら」

「そっちは忘れてても、ママが片手で椅子をぶっ壊した衝撃映像、あたしは一生忘れないからな」

「ああ、そんなことあったわね。そうそう、あれで十万も払ったのよねぇ」

住職はなんだか遠い過去を懐かしむような眼をしている。

「それに、おとといも昨日も、電話で話してるじゃねぇか」

「そうだったわね。それで、その子が話してたバイトの子?」

「そうそう。名前は志保。名字は、ええっと、神林だったっけ?」

「神崎です。神崎志保です」

「志保ちゃんね。アタシ、ここの住職をしてる知念厳造よ、よろしくね」

「すごい名前……」と志保は心の中でつぶやいた。

「まあ、お店やってた時の『キャサリン』って名前で呼ばれることも多いけどね。そっちで呼んでくれてもいいわよ」

「それもまたすごい名前……」と、志保は危うく声に出しそうになった。

「あ、あの、それで、バイトの面接とかは……」

「ああ、いらないいらない」

知念住職がにこやかに答えた。

「舞ちゃんの紹介、っていう時点で、それなりに信用ある子だろうから、面接はパスよ」

「その全員が逃げ出してるけどな」

と舞が笑った。

「あ、あの、舞先生と住職さんは、はどういうお知り合いで……?」

その問いかけに、知念住職がクスリと笑った。

「舞ちゃん、『先生』って呼ばれてるの?」

「別に、おかしくないだろ?」

「ふーん」

と、知念住職は再び、遠い過去を懐かしむような眼をした。

「関係性はカンタンよ。アタシがお店やってた時に、舞ちゃんがお客として通ってた時からよ」

「え?」

志保が舞を見る。

「職場の先輩に連れられてたまに行ってた、だ。通った覚えはない」

と舞は発言を一部否定した。

「あら、何年か前に、仕事も結婚生活もやめちゃったときは、一人で通ってたじゃない」

「そ、それで、仕事内容なんですけど……!」

なんだかそれ以上聞いちゃいけない気がして、志保は話題を変えた。

「週に何回か、お掃除とかしてもらうわ。境内の落ち葉を掃除するだけでも大変なのよ。それと、月に何回か、お葬式とかお通夜とか法事とかあるから。そのお手伝い。弔問客の対応だったり、お香典の管理だったり、葬儀場の設営だったり。頼むのは簡単なお手伝いばかりだから、慣れれば大丈夫よ」

「全員が慣れる前に逃げ出したけどな」

そういって舞が笑う。

「お給料は日給で三千円。お葬式の時は手当とかつけるつもりだけど、あんまり出せなくて、ごめんなさいね。その代わり、短時間だし、日にちも志保ちゃんの都合優先でいいから。ほかにもバイトしてるって聞いてるわよ」

「あ、はい、大丈夫です」

「他に質問は?」

「え、えっと……その……」

志保は一瞬ためらったが、続けた。

「さっきの『あの世とこの世の境目』というのはいったい……」

もしかしたら、ここは現実世界と異世界の境界線で、このお寺があることで異世界からの侵略を防いでいるんじゃ……、という考えがほんの一瞬だけ志保の頭をよぎったけど、そんなわけないかとすぐに打ち消した。

「この街はね、江戸の西側の玄関口なのよ」

知念住職は周りを見渡した。境内の木々のむこう側に、少し遠くのビルの色鮮やかな看板が見える。

「江戸の街=今の東京都、というわけじゃないのよ。江戸の町はもっと小さいわ。今の23区よりも小さかったの。だいたい山手線沿線と同じくらいかしら」

「え、そうだったんですか?」

江戸と東京は一緒だとなんとなく思っていた志保にとって、江戸の町の範囲なんて、考えたこともなかった。

「『江戸っ子』なんて江戸城が目で見える範囲で生まれ育ってないと名乗れないのよ。この街よりも西側は、江戸じゃないの。ふつうの農村よ。今では住宅街だったり商店街だったりデパートが建ってたりする場所が、ただの農村だったなんて、想像つかないでしょ?」

「はい……。のどかな場所だったんですね」

志保が生まれ育った町も、位置的にそういう場所だったのだろう。

「昼間はのどかでいいけれど、夜は怖いわよ。街灯とか全くないんだから。家はまばらにしかないし、荒れ地や沼地、雑木林なんかもあるの。そういう場所におばけが出るかもしれない、と昔の人が考えても、全然不思議じゃないわよ」

「確かに……」

「江戸という都市の外側は、自然は豊かだけど、夜になったら怖い場所。だから、江戸の玄関口であるこの場所は、あの世とこの世の境目ってわけ。そういう場所には、お寺や神社が多いのよ。ご先祖さまや神様を祀るには一番いい場所だったんでしょうね。ここに来れば、亡くなった人に会えるかも、って。新しいものばっかりの街だけど、意外とね、昔の人の想いの残滓がどこかに残っているものなのよ」

志保は周りを見渡した。大都会の中で、ここだけ時間が止まっているようにも思える。

 

画像はイメージです

気づけば五月も半ばである。

いつもの都立公園も先月は桜が咲き誇っていたが、すっかり花も散り、地に落ちたハナビラすら姿を隠した。木々の葉っぱは日々その青さを色濃くし、一方で足元に目を向ければ、色とりどりの花々が、桜の次の主役は私たちだと言わんばかりに咲き乱れる。

たまきが「庵」の前を訪れると、仙人が椅子に腰かけてカップ酒を飲んでいるのが見えた。

「あの……」

たまきが声をかけると、仙人もすぐに気づいた。

「おや、お嬢ちゃん」

仙人はたまきを見た後、その背中にあるリュックに目をやる。

「また絵を見せに来たのかい?」

「まあ、そうなんですけど……、今日はちょっと違って……」

たまきは申し訳なさそうに、仙人の横に置かれた椅子に腰かけた。

「あの、この絵なんですけど……」

そういってたまきはスケッチブックの一番最後のページに描いた絵を見せた。

仙人は一瞥して、すぐに口を開いた。

「これは、お嬢ちゃんの絵ではないな」

そこに描かれていたのは鳥の絵だった。たまきが模写したあの鳥のラクガキだ。

「これは、ほかの人が描いた絵を、私が描き写したやつで……、その、仙人さんはこの絵をどこかで見たことはないですか?」

「どこかというのは?」

「……この公園だったり、町の中だったり……壁とか電信柱とか、その……」

「なるほど、ラクガキというわけか」

「……まあ」

たまきの返事を聞くと、仙人は静かにかぶりを振った。

「見たことはないな。すくなくとも、記憶にはない。ラクガキならあちこちで見るが、こういう絵があったかどうかはちょっと思い出せんな」

「そうですか……」

「ところで、そっちの紙は何だい?」

仙人は、たまきのリュックから飛び出した、丸まった紙の筒を指さした。

「これは……」

たまきは紙を広げた。それは「城」の中で描いていた、ラクガキを見つけた場所の地図だった。

「ほう、これは面白い」

と仙人がのぞき込む。

「この辺りはよく通るが、こんなラクガキがあったかどうかは覚えてないな。わしが気付かんかったものをお嬢ちゃんがこんなに見つけたということは、この絵とお嬢ちゃんの間には、何か通じるものがあるのかもしれんな。きっとこの絵は、お嬢ちゃんのことを選んだんだよ」

そう言って仙人は笑い、カップ酒に口をつけた。

 

画像はイメージです

とぼとぼと歩いて、たまきは歓楽街に帰ってきた。いつもの薄群青のパーカーを羽織っているけど、だいぶ暖かくなってきたから、そろそろいらなくなるかもしれない。

いつぞやのゲームセンターの脇の道を歩いている時だった。不意に小さななにかが飛び出し、たまきの前を横切った。

ネコだった。白地に黒のぶち猫が、道路の脇で立ち止まり、たまきの方を見ていた。

野良猫だろうか。歓楽街で野良猫を見るのは珍しいことだ。

「こ、こんにちは……」

と、たまきは話しかけてみた。

ネコはじっとたまきを見ていたが、

「みゃお」

と鳴くと、建物と建物のわずかな隙間の間に入ってしまった。

たまきはネコの後を追って、隙間をのぞき込んだ。

人一人がギリギリ通れそうな隙間があり、壁にはラクガキがびっしりと描かれている。

そこは、例のラクガキをたまきが初めて見た場所だった。猫はちょうど、鳥の落書きの真下にたたずんで、たまきの方を向いていた。そうしてたまきの姿を確認すると再び

「みゃお」

と鳴いて、隙間のさらに奥に、ねこねこと歩き出した。

「ついてきな、お嬢さん」

そんな風に言われた気がした。

たまきは、猫の後をついて隙間の奥へと歩き始めた。なんだか、どこかの童話みたいだ。

 

東京の街はまるでお城みたいだ、と言ったのは誰だっただろうか。

でも、たまきにとって東京の街のイメージは、それはシンデレラ城のようにきらびやかなお城ではなく、ジャングルの奥地に取り残された廃墟の城だった。百万の人が住む廃墟、それがたまきにとっての東京だ。

そして、今歩いているような建物の隙間は、まさに人が暮らす廃墟そのものだった。光はわずかだけ。目に映るもののほとんどが灰色だ。空き缶、ポリ袋、何かの配管、室外機。どこかの工事の音。ほんの数十歩引き返せばいつもの場所に戻れるのに、この世の果てに迷い込んだ気分だ。

「みゃお」

ネコの鳴き声が聞こえて、たまきは立ち止まった。

だけど、猫の姿は見れない。

その代わり、たまきの目に映ったのは、あの鳥のラクガキだった。

たまきは思わず息をのみ、ラクガキに軽く触れた。

少しひび割れている。今まで見つけたラクガキの中で一番古いのではないか、なんだかそんな気がする。

もしかしたら、誰かがここにラクガキを描いてから、たまきが見つける今この時まで、誰の目にも触れることがなかったのではないか。それこそ、ジャングルの奥地でひっそりと眠り続ける古城のように。

『きっとこの絵は、お嬢ちゃんのことを選んだんだよ』

先ほどの仙人の言葉がふと、たまきの耳の奥をくすぐった。

 

つづく


次回 第39話「お葬式、ところによりバスケ」

お寺でバイトを始めた志保、そして、あいかわらずラクガキ探しをするたまき。あのキャラの過去にも少し触れるかも? 続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第37話「イス、ところにより貯水タンク」

亜美とたまきが、謎のコワモテおじさんに遭遇? 「あしなれ」第37話、スタート!


第36話「ナワバリ、ところによりラクガキ」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


東京は、外から見るとまるでお城のようだ。だからなのか、歓楽街のビルの5階にあるそのスナックの名前を『城(キャッスル)』という。もっとも、店としてはだいぶ前につぶれていて、今は三人の家出少女が勝手に住みついている。

そのひとり、たまきは屋上に上って、街を眺めていた。『城』のある太田ビルは歓楽街の中でもかなり高い建物のため、屋上に上ると街の様子がよく見える。

とくに、何か用事があるわけでもない。ただぼんやりとたまきは街を眺める。西の空には黒い雲が黙々と広がって、夕日を覆い隠している。あの雲がこっちに来たら、この辺にも雨が降るかもしれない。

「よっ」

声がした方を振り返ると、階段の前に亜美が立っていた。

「……どうかしたんですか?」

「こっちのセリフだよ。屋上で何やってるんだよ。まさか、また飛び降りようってんじゃないだろうな」

「……別に、そういうつもりじゃないです」

そもそも、「また飛び降り」と亜美は言うけれど、たまきがここから飛び降りたことなんて、一度もない。飛び降りようと、思い詰めていたことが何回かあるだけだ。

亜美は、手摺によりかかるたまきの横に来ると、手摺に背中を預けた。

「じゃあさ、おまえ、ここで何やってんのさ」

「別に……特に用事は……」

「屋上なんか来て、何か楽しいわけ?」

「楽しくはないですけど……高いところで風に吹かれてるのは、キライじゃないです」

「おまえ、ゲーセンよりも屋上にいたいって、それはもうビョーキだぞ」

何の病気だというのか。仮に病気だったとして、別に治さなくてもいいような気がする。

かつてのたまきだったら、こんなときは「どっかいってくれないかな」なんて考えたものだけど、今はもう、そんな風には考えない。

ひとりで屋上で風に吹かれてるのは「嫌いじゃない」けど、そこに友達が加わると、少しだけ、気分がいい。

「なに笑ってんだよ」

亜美はそういうと、煙草に火をつけた。

亜美の携帯電話が鳴った。ロック系の着信メロディーが鳴り響く。

「はいはいもしもしー」

亜美は背もたれから離れた。

「なに? 周りうるさくてよく聞こえないんだけど。 そこ、どこ? 近い?」

亜美は電話とは反対側の耳を押さえた。電話のむこうはガヤガヤと騒々しく、声がはっきりと聞き取れない。

「わかったわかった。とりま、これから行くから、ちょい待ってろ」

亜美はそういうと電話を切った。

「たまき、ちょい出かけるから……」

亜美が屋上を見渡すと、たまきの姿はなかった。

まさか、と亜美は手摺から身を乗り出して、下の道路に目をやった。

道路には、特に異変はなかった。その中で、少し足早に遠ざかる姿があった。

たまきだった。とりあえず、生きていて、元気に走っている。

屋上から飛び降りて、そのまま着地して走ってる。というわけではあるまい。たぶん、亜美が電話してる間に階段を下りたのだろう。

亜美に黙ってどこかに出かけるような子じゃなかったのだけど、まあ、屋上でぼおっとしていたひきこもりのたまきが、どこかに出かけていったのはいいことだ。走ってるのはもっといいことだ。ランニングにでも目覚めたのだろうか。

亜美は、携帯電話をとじてポケットに突っ込むと、屋上を下りる階段へと向かった。

 

写真はイメージです

亜美が呼び出されたビルは、区画の角にある。大通りと裏路地が交わるところにあって、バーやキャバクラなどが入っている、焦げ茶色のタイルのビルだ。客向けの入り口が大通り沿いに、従業員向けの鉄扉が裏路地の目立たないところにあった。

亜美は裏路地の鉄扉の前にいた。少し前に到着して、人を待っている。

「亜美」

声がした方を振り向くと、大通りの方から舞が曲がってきたところだった。

「さっきの電話じゃよくわかんなかったんだけど、どういう状況なんだって?」

「さあ、ウチもよくわかんねぇんだよ。なんか、電話のむこうがうるさいし、シンジもテンパってるし」

シンジというのは、亜美に電話してきた男だ。

「とりあえず、ケガ人が出てるみたいなこと言ってたから、ウチから先生に電話したってわけ」

舞は深くため息をついた。

「シンジの方から直接あたしに連絡すれば話早いだろうに……。つまり、そういう冷静で合理的な判断ができないくらい混乱してる状況、ってことだな」

「いや、どうだろう。シンジ、バカだし、本気で先生に直接電話すればいいって思い浮かばなかったのかもよ」

「……どっちみち、頭が痛い案件だな」

舞は頭をかきながら、鉄扉を開けてビルの中に入る。亜美がそのあとにつづく。

目的地は3階にある、ヒロキが経営しているバーである。つまりは、亜美の言う「ナワバリ」の中心地だ。

薄暗い蛍光灯の階段を二人は上り、しゃれた英語の名前が書かれたバーの前に二人は立った。

亜美が電話を受けた時は、ガヤガヤと周囲の音がうるさくて、シンジの声が聴きとれないぐらいだったけど、店の前はそれとは打って変わって静かである。もっとも、店内は防音の造りになっているはずなので中がどうなっているかはわからない。壁にもドアも窓ガラスがないので、視覚的にも、店内の様子は全くわからない。

舞はドアノブに手をかけ、ドアを開けた。

まず最初に飛び込んできたのは、殺気立った男たちの叫び声だった。次に、金髪の男が倒れこむ光景と、テーブルか何かが倒れる音。そして、何かがドアの方へ、つまり、舞の方にめがけて飛んできた。

舞はとっさにドアを閉めた。飛んできたなにかは、舞が慌てて閉めたドアにぶつかり、ガシャンと派手な音をたてて割れた。

舞は、ドアが開かないように背中で押さえつけた。突然何かが飛んできたことと、自分の手が信じられない反射でドアを閉めたことに、二重に驚いているようだ。

「ビビった~。あっはっはっはっは」

そう口を開いたのは亜美の方だった。

「いま飛んできたのって、ワイングラス?」

「……さあ。ガラス製だとは思うけど、音からして、もっと重いやつだろ。ビールジョッキとかじゃないのか?」

「それ、当たってたらヤバいヤツじゃん。先生、いまメッチャいいタイミングでドア閉めなかった?」

「自分でも驚いてる」

「あっはっはっはっは。マジウケる!」

「笑ってる場合じゃないぞ。あたしがドアを閉めるタイミングがあと少し遅かったら、割れたガラスの破片がお前の目に入って、失明してたかもしれないぞ」

「あっはっはっはっは。ナニソレ、ウケる」

亜美は腹筋を押さえて笑っている。

舞は、背中のドアに体重を預けた。

「とにかくだ、これは医者を呼ぶタイミングじゃねぇ。もっと前の段階だ」

「でも、けが人出てるって言ってたよ。治してやんないの?」

「いま飛び込んで行ったら、あたしがケガするだろ、バカ!」

舞の背中越しに、ドアがどしんと揺れた。おそらく、向こう側で誰かがドアに思いきりたたきつけられたのだろう。

「医者は、事件とか事故とかが終わってから呼ぶもんなんだよ。大乱闘の真っ最中に医者を呼ぶんじゃないよ」

「じゃあ、どうすればいいのさ」

「お前には常識がないのか」

舞は亜美の顔を見たが、なさそうだな、と判断して話を進めることにした。

「こういう時は警察を呼ぶんだよ。小学生でも知ってるぞ」

「えー、ケーサツ~?」

亜美は露骨に嫌そうな顔をした。

「なんだその顔は。別に、おまえが警察呼ぶ必要はないだろ。あたしが通報しとくから、おまえは警察来る前にとっととどっか行けばいいだろ」

「だって、ここ、ウチらのナワバリだよ? ナワバリの中にケーサツ入れるとか、ないわ~。 ナワバリで起きたモメゴトは、ナワバリの中でウマくやるってのが、ジョーシキじゃね?」

「勝手に常識を作るな!」

「それにさ、『小学生でも知ってる』っていうけどさ、小学生はこういう時、ケーサツじゃなくて先生を呼んでくるんじゃないの?」

「じゃあ、その先生を呼んで来い! どこの学校の先生を呼んでくるつもりだお前は!」

「だから、先生呼んできたんじゃん」

亜美は舞を指さした。

「だから、医者の先生を呼ぶタイミングじゃねぇっつってん……」

そこで舞は、ふと言葉を切った。ドアから離れると、何かを考えるように顎に手を当てる。

「先生か、先生……ふむ……」

舞はカバンから携帯電話を取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。

「もしもし? あ、ママ? 久しぶり」

「ママ?」

亜美が不思議そうに舞の電話を見る。

「あー、しばらく海外にいたんだよ。いや、ただの友達との旅行だ。またそのうち顔出すから。それよりさママ、今って大丈夫? 今どこいる?」

そういうと、舞はその場の状況を伝えた。

「じゃあ、そこなら十分もかかんないか。とりあえず、あたし、ビルの前で待ってるから……、あ、場所わかるの? うん、じゃあ分かった」

舞は携帯電話を切った。

「え、誰か来んの? 『ママ』ってことは、もしかして、先生の母ちゃん?」

亜美が面白そうに尋ねてくる。

「いや、そういうんじゃねぇんだ。『ママ』ってのはまあ、あだ名みたいなもんだな」

「先生なの、その人?」

「まあ、それに近い感じかな」

舞はドアの方に目をやると、時計の方を見た。店の外には特に怒号も衝撃音も聞こえてこないが、それがかえって不気味だった。

 

写真はイメージです

歓楽街の中で、たまきはきょろきょろとあたりを見渡していた。

屋上から見えたとあるビルに行きたくて、勢いよく飛び出してしまったものの、その目的地がどこにあるのかはわからない。とりあえず、近くまでは来ているはずだ。だけど、屋上から見た時はビルの上の部分しか見えなかったのに、いま、地上から見ると下の部分しか見えないので、どれが目当てのビルかわからなくなってしまったのだ。たしか、こげ茶色のレンガのようなビルだったと思うのだけれど。

ふだん走らないくせに、珍しく走ったものだから、たまきは息が切れてしまった。息を整えながら、目指すビルを探してうろうろしている。

そんなこんなで、飛び出してきてから二十分ほどたっただろうか。そろそろ帰らないと、亜美が心配しているかもしれない。暗くなる前に一度戻って、屋上からもう一度どこのビルだったかじっくりと探した方がいいかもしれない。

裏路地でそんなことを考えていた時、向こうから誰かやってくるのが見えた。何気なくそちらに目をやるたまき。

身の丈2メートル、とまではいかないけれど、かなりの大男が、たまきの方に向かって歩いてくる。

黒いスーツなのだけれど、サラリーマンには見えない。スーツの内側には柄物のシャツ。首には金のネックレス。手にも金のリング。それも、一つや二つではない。たまきからは右手しか見えなかったけど、きっと、左手にもいっぱいアクセサリーをつけてるんだろう。

でも、何よりも目を引いたのが、ひと睨みで相手を気絶させそうないかつい顔と、スキンヘッドだった。うっすらと髪の毛の残る坊主頭ではない。まったくのつるっぱげだ。頭皮がむき出しに、いや、そのごつごつとしたカタチは、頭蓋骨の形状がそのまま剥き出しになっているかのようでもあった。

コワモテおじさんだ……。

たまきは、その男の威圧感に圧倒され、目が釘付けになりながらも、声を出さぬようにして、その男が通り過ぎるのを待った。

ふと、たまきの鼻を、ヘンな匂いがくすぐった。仙人の棲む「庵」に出入りしていて、変な臭いに慣れているたまきだったけど、それとはまた違う「ヘンな匂い」。なにか、強烈な薬品とか、そんな感じの印象を受けた。

コワモテおじさんは、裏路地と大通りが交わるところにあるビルの、鉄の扉を豪快に開けて、中に入っていった。そのビルは、こげ茶色のレンガのような作りだった。

あれ、もしかして、このビルかも。

たまきはビルに近づいてみた。壁の色が、確かに似ている。ビルの高さは四階建て。屋上から見た時の高さにも近いような気もする。

試しに入ってみようと思ったたまきだったけど、コワモテおじさんの入った後についていくのはなんか怖かったし、ドアに「従業員専用口」と書いてあったので、別の入り口を探すことにした。

 

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舞が電話をしてから、十分が過ぎた。その間、亜美が店の中を覗こうとして、舞が止める、というやり取りが三回繰り返された。

亜美の我慢の限界がいい加減切れそうになった時、階段の方から大きな足音が響いてきた。こっちに近づいてくる。亜美と舞は、自然とそちらに視線を向けた。

最初に見えたのが、スキンヘッドの男が階段を上ってくるところだった。次第に男の全貌が見えてくると、亜美は思わず「げ」と声を漏らした。

身の丈2メートルとまではいかないけれど、亜美の背後にあるドアをくぐれるかギリギリの大男だ。黒のスーツに柄物のシャツ。デザインは、何かの花だろうか。首や指に金のアクセサリーをジャラジャラとつけている。

コワモテおじさん来ちゃった……。

男は仁王像のような仏頂面のまま亜美と舞の方に近づいてくる。近づくにつれ、男が「ヘンな匂い」を放っていることに、亜美は気づいた。

乱闘に加勢しようとする、新手だろうか。

空手とケンカの心得が多少ある亜美だったけど、どう見ても勝てる相手じゃない。どうしようかと考えあぐねていると、男は舞の方を見て、仏頂面をくしゃっと崩した。そして、

「やだー! 舞ちゃん、久しぶりじゃなーい。海外旅行に行ってたなんて、聞いてなかったわよぉ?」

と、亜美が思ってたよりも2オクターブぐらい高い声で話し始めた。

「なんでママにいちいち、旅行先言わなきゃいけないんだよ」

と、舞。

「え? ママ? これが? おっさんじゃん?」

と、戸惑う亜美。

「どこよ、海外ってどこよぉ?」

と、迫るおじさん。

「ヨーロッパだよ。ドイツとか、フランスとか」

「えー、アタシも行きたかったぁ。行ってくれれば、休み合わせられたのにぃ!」

「ヤダよ。ママみたいなバケモノが来たら、アタシの友達が逃げ出すだろ?」

「ちょっと、バケモノはひどくない? まあ、舞ちゃんだから許すけどぉ」

と言いながら、おじさんは舞の肩をバシッとたたいた。

「いたたっ! 力が強いんだよっ!」

「ごめーん。でも、アタシを置いてきぼりにしたことと、バケモノ呼ばわりしたこと、これでおあいこじゃなーい?」

と、おじさんは白い歯を見せて笑った。そして、

「で、どういう状況なんだって?」

と、急に声のトーンを落とした。この感じだと、まだ「ちょっと声の高いおじさん」と言ったところだ。

「あたしにもよくわかんねぇんだ。コイツに呼び出されて、ここに来て、ドア開けたらいきなりビールジョッキ投げつけられたから、あわててドア閉めて、それっきりだ。それが十分前」

「あらぁ、それじゃ今、中でケンカ祭りってわけ?」

「もう全員死んでたりしてな」

舞が医者にあるまじきジョークを飛ばす。

「この店、防音がしっかりしてるから、外からじゃなんもわかんねぇんだ。で、こいつがケーサツはやだっていうから、ママなら何とかしてくれるんじゃないかって思って」

舞が亜美を指さしながら話す。

「ふーん。で、この子は?」

「ママ」が亜美を見て尋ねた。

「こいつは亜美。この辺に棲みついてて、あたしが面倒見てる、野良猫だ」

「ふふ、カワイイ子じゃなぁい」

そういうと、「ママ」は亜美をじっくりと見た。春になってますます露出の高くなり、肩なんて完全に出ている亜美の姿を、上から下まで丁寧に見る。だが、その視線にいやらしさは全く感じない。なんだか検査されてるみたいだ。

温かみはあるけれど、どこか冷徹さを兼ね備えたその視線から、亜美は逃れたい衝動に駆られたが、逃げても無駄と体が悟っているのか、思うように足が動かない。

この時になって亜美は初めて、「ママ」が放つ「ヘンな匂い」の正体が香水であることに気づいた。亜美の嗅ぎ慣れないタイプの香水だ。

「ママ」はやがて、亜美の右肩に彫られた、青い蝶の入れ墨に目を止めた。

「あなた……それ……」

「あ?」

「誰か身近な人、亡くしてるのかしら?」

「……は!?」

そのとき、「ママ」が上ってきたのとは違う階段から、ガンガラガタンと何かが倒れる音がした。音に反応してそっちを向いたのは舞だけだったが、特に人の姿は見えない。おそらく、階段にいる誰かが掃除用具でも倒したのだろう。いくつもの店が入っているビルだ。亜美たち以外に人がいても何ら不思議はない。

割と大きな音がしたにもかかわらず、亜美と「ママ」は微動だにしなかった。「ママ」は亜美の入れ墨をじっと見据え、一方の亜美はまるで心臓を撃ち抜かれたかのような顔をしている。

先に口を開いたのは、「ママ」の方だった。

「あら、ごめんなさい。アタシ、いきなり失礼だったかしら。でも、蝶々ってアタシの業界じゃ死者の魂とか、そういう意味で使われるのよ」

「し、知らねぇよ!」

亜美が少しかすれた声で言った。もしかしたら、さっきからの数秒間、呼吸そのものが止まっていたのかもしれない。

「別にこれ、そういう意味じゃねぇし。っていうか、ウチが選んだデザインじゃねぇし! その……、彫り師がウチのイメージにぴったりだっつって……、だから、全然そういうんじゃねぇし……!」

「あら、そうなの。とにかく、失礼なこと聞いちゃったわね。謝るわ。ごめんなさいね」

そういって、「ママ」は右手を差し出した。亜美は「ママ」から目線をそらして、その手を取って握手した。

「ママ、ママ、本題に戻っていいか?」

舞が少し呆れたように声をかける。

「そうだったわね。えっと、このお店の中の騒動を、とにかく静めてくればいいのね?」

そういうと「ママ」は、ドアノブに手をかけた。舞と亜美は、ドアの隙間から何か飛んできてもいいように、ドアから離れた。

亜美は、「ママ」との握手の感覚がまだ残る右手を、ズボンのすそでこすった。

空手をかじっている亜美は、握手した時に「ママ」がかなり鍛えていることが分かった。

だが、ドアのむこうには、ざっと数えても十人以上はいたはずだ。おまけに彼らはみな殺気立っているから、凶器を使うことすらためらわないかもしれない。いくら「ママ」が強そうだからって、そんな連中相手に何とかなるものだろうか。

「ママ」はドアノブをひねり、ほんの数センチだけ、ドアを開けた。

とたんに廊下に飛び込んでくる、男たちの怒号、何かが倒れる音、何かが割れる音。

どうやら、亜美に電話が来てからの十数分近く、こいつらはずっと暴れ続けていたらしい。なんとも元気な連中である。

ママは少しだけ開いたドアに足をかけた。

そしてそのまま、足を使ってドアを勢いよく開いた。蝶番を中心にドア板が回転し、壁に思いきりたたきつけ、派手な音を出した。

その音で、店の中の動きも音も、一瞬止まった。視線が一気にドアの方に集められる。すると彼らが目にするのはスキンヘッドの大男。状況が呑み込めずにぽかんとしているものもいれば、明らかな敵意を投げつける者もいる。

「なんだァ、てめぇ?」

金髪ロン毛が、「ママ」をにらみつけた。

「ダメよぉ、お痛しちゃ。みんな仲良く、ね。和を以て貴しとなす、聞いたことないかしら?」

しばしの沈黙、そして、一気に笑い声が店の中に溢れた。

「おい、おまえら、見ろよ。オカマがやって来たぞ!」

亜美は廊下の壁に背中をつけ、ドアのむこうをうかがった。

ドアにむこうにいるのは、十人どころではなかった。その三倍はいる。ただし、そのうちの三分の一は、すでにノビて床に転がっているのだけれど。

亜美から3メートル離れたところに、ひょろ長の男がテーブルの下に隠れてガタガタ震えていた。亜美に電話したシンジである。

「シンジ。おい、シンジ」

亜美が小声で手招きすると、シンジも亜美に気づき、

「あ、亜美さーん」

とすがるように亜美のもとに転がり出てきた。殴られたのか目の上にはこぶがあり、服はしわくちゃになってボロボロである。

「おい、何があったんだよ」

「タケシのチームが飲んでたんすよ。そしたら、そこにケイゴが仲間連れてやってきて、はじめは互いに無視してたんすけど、そのうち大げんかになって……」

「待て待て待て待て」

と割って入ったのは舞である。

「話が見えねぇ。タケシもケイゴもあたし知らないんだけど、なんでこの二人が同じ店にいるだけで大げんかになるんだ?」

「もともと仲悪いんだよ、あいつら」

「ナワバリ内の派閥争いってやつです」

「……くだらねえ」

舞は、深いため息をついた。

「ヒロキはどうした。あいつ、ここのオーナーだろ?」

「いま、ヨコハマに行ってて……」

その時、ガラス瓶が割れる音がした。さっきの金髪ロン毛が、テーブルにビール瓶をたたきつけて割ったらしい。

「ケガしたくなかったら、とっとと帰れや、おっさん」

ビール瓶を割ったのは、どうやら威嚇のつもりらしい。が、「ママ」は動じない。

大乱闘はひとまず止まっている。が、それは彼らの敵意が突如現れた謎の大男に向けられているからだ。

「帰れっつってんだろ!」

金髪ロン毛は別のビール瓶を手に取ると、その手を大きく後ろに振りかぶった。

これはさすがにマズいんじゃないか、と亜美が思うまでもなく、金髪ロン毛はビール瓶をテニスラケットのように勢いよく振り、「ママ」の左側頭部を直撃した。ガンッ! と、皮膚よりも骨にあたったんじゃないかという鈍い音とともに、ビール瓶は真ん中から砕け、水しぶきのように飛び散った。

亜美からは、ビンが当たった「ママ」の左側頭部がよく見えた。

少なくとも三か所、赤い筋が鈍く光っている。しばらくすると、そこから血液がこぼれ始めた。

亜美は、「ママ」が左手で両目を覆っているのに気付いた。最初、泣いてるのかと思ったけれど、その本当の意味が分かった時、亜美は鳥肌が立った。

「ママ」は両目にガラスの破片が入らないようにガードしていたのだ。たしかに、目に破片が入れば一大事である。

だけど、それは同時に、「瓶で殴られることそのものについては、特に気にしていない」ということでもあった。ふつうの人間ならばそもそも瓶をよけるか、瓶をガードしようとするか、何もできずに黙って殴られるか、だ。ふつうは、恐怖と動揺で何もできずにただ殴られるだけだろう。

なのに「ママ」は「目をガードする」という選択をした。あの状況でそれを選べるということは、やろうと思えばよけることだって止めることだってできたのに、あえてそれを放棄して、攻撃を受け止めて、急所だけ守ったということなのではないか。

実際、「ママ」が腕を降ろして両目があらわになった時、亜美から見えた横顔は、とても涼しげだった。痛がるようなそぶりは全くない。痛みを感じていない、というよりは、痛いんだけど気にしていない、そんな風に見える。

こういう表情、どこかで見たことあるぞ、と亜美は思った。

男たちがざわつき始めた。ビール瓶で殴られたのにこともなげに立っているというのは完全に想定外。動揺が広がっているのだ。

金髪ロン毛はおびえたような眼をしている。こいつらは、たいていのことは暴力や恫喝で主張を押し通してきたような連中だ。暴力で解決できないとなれば、それはもはや打つ手がないということだ。

「ママ」は金髪ロン毛に近づくと、右手で彼の頭を掴んだ。

「……おいっ! なにするんだ! やめろ! さ、さわんな!」

金髪ロン毛は「ママ」の腕を振りほどこうとするが、頭を振っても、「ママ」の腕をつかんでも、どうあがいても外れない。金髪ロン毛は「ママ」に蹴りを入れるが、ビール瓶で殴られて平気な人間が、いまさら蹴られたところで顔色一つ変わらない。

「ママ」は空いている左手で、近くにあった木製の椅子を掴んだ。見た目、かなり重そうなイスだが、「ママ」はそれを、背もたれの上部を片手でつかんで、やすやすと持ち上げた。その様子を見た男たちにも緊張が走る。

次の瞬間、「ママ」は椅子を床に思いきりたたきつけた。

椅子は四本の足がそれぞれ、てんでバラバラな方向へと飛んでいった。背もたれの部分はバッキリと折れ曲がり、木屑があたりに舞い散る。文字通りの木っ端みじんである。振り下ろした左腕の時計が、店のライトを反射して、何か勝ち誇ったかのように輝いている。

この「ママ」の行動に震え上がったのが、間近でそれを見させられた金髪ロン毛である。

もしも、「ママ」が振り下ろしたのが左腕ではなく右腕だったら、自分の頭が椅子と同じ運命をたどるかもしれないからだ。

「はぁ……はぁあ……」

金髪ロン毛は気の抜けた声を上げた。シルバーのズボンのまたの部分に何やら黒いしみができて、そこから雫がぽたぽたとこぼれ始めた。「ママ」が手を離すと、へなへなとその場に座り込んだ。

一番殺気立っていた男が情けなく床にへたり込んだことで、ほかの男たちも戦意をなくしたかのように亜美には見えた。

「みんな仲良く、ね」

「ママ」はにっこりとほほ笑んだ。

男たちの中の誰かが、ドアに向かって駆けだした。一人が動き出すと、ほかの者たちも一斉にドアをめがけて駆けだす。

「わあああああ!」

男たちは、沈没船から逃げ出す鼠のように、一斉にドアから飛び出していった。そのまま、階段を一気に駆け下りていく。

亜美の耳に、下の階から何か派手な音が聞こえた。誰か慌てて転んだのかもしれない。

最後に金髪ロン毛が、まるで足の使い方をすっかり忘れてしまったかのような動きで、店から這い出し、逃げていった。

「やれやれ、やっとあたしの仕事だよ」

舞は店の中に足を踏み入れると、ノックダウンして逃げることもままならない数人の手当てを始めた。

「あら、お店の責任者の子には残って欲しかったんだけど……」

「ママ」が亜美たちの方を見る。

「あ、あ、オレ、せ、責任者の代理っす」

シンジが恐る恐る手を挙げた。もともと乱闘にすっかりおびえ切っていたシンジだったけど、今はまた違う意味でおびえているようだ。

「ママ」はシンジに近づく。そのまなざしはやっぱり涼しげで、凶暴さなどみじんも感じられない。

「お店の椅子、壊しちゃって悪かったわね。弁償するわ。たぶん、これで足りると思うから。オーナーさんに渡しておいてくれる?」

「ママ」は、分厚い革の財布から、一万円札を十枚ほど取り出すと、シンジに渡した。

亜美は、木っ端みじんになった椅子の残骸に目をやった。

結局、「ママ」はだれ一人殴ることなく、乱闘を終わらせた。自分を殴らせ、イスを壊すことで、「ママ」自身は誰も殴ることなく、その強さを見せつけて事態を収束させたのだ。

「ヤダ、財布の中、空になっちゃったわぁ。オカネ、おろしてこないと」

「ママ」は亜美たちの方を向いて、親指と人差し指で丸を作った。

その姿を見て、亜美は「ママ」が何に似てるのかを思い出した。

子供のころ、祖父に連れられてよく行った地元のお寺の本堂に祀られていた、そこそこ大きな仏像。

「ママ」の涼しげな表情と、なんとも言えない威圧感は、その仏像によく似ていた。

 

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たまきは、傍らで倒れているアルミ製のちりとりをそっと起こした。

こげ茶色のビルに入ったたまきは、屋上へと向かって階段を上り始めた。いかがわしいバーとか、いやらしいキャバクラとかの看板が並ぶビルだったから、入るのに少し勇気がいった。

3階を越えて4階へと続く階段を上っていた時だった。不意に3階あたりから

「は!?」

という大声がきこえた。それが、亜美の声にかなりそっくりで、驚いた拍子にたまきは踊り場にあった掃除用具を倒してしまった。ガンガラガタンと派手な音が階段と廊下に響く。たまきは慌てて倒してしまった掃除用具を起こしたのだった。

亜美の声がきこえた気がしてびっくりしたけど、亜美はさっきまで太田ビルの屋上にいたのだ。こんなところにいるわけない。

たまきは屋上の階までやって来た。塔屋の内側で、外に出るにはドアを開けねばならない。

たまきはドアノブを回した。鍵がかかっている。

だけどたまきは、ドアノブに、カギを回すつまみがついていることに気づいた。どうやら、中から開けられるタイプのようだ。

たまきは鍵を開けて、塔屋の外に出た。

屋上の一角に、大きな貯水タンクがある以外は、特に何もない。周りには同じ高さのビルが多く、あまり視界を遮るものはないけど、中にはもっと大きなビルもあるので、なんだか箱庭の中に入った気分だ。まあ、太田ビルの屋上とそんなに変わらない

たまきはまず、少し遠くに見えるはずの太田ビルを探した。

太田ビルはすぐに見つかった。区画にして二ブロックほど向こうだろうか。五階建てのビルがそんなにないうえ、屋上に洗濯物が干してあるからだ。今日の洗濯物はたまき自ら干したのだ。見ればすぐわかる。

たまきは、太田ビルがよく見えるように屋上のすみに移動した。屋上のヘリは、たまきのおへそぐらいの高さの囲いがある。そして、囲いギリギリのところに貯水槽があった。白い貯水槽だけど少し古いものらしく、汚れでだいぶ黒ずんでいる。太田ビルが見える、屋上の西側の一辺は、3分の2ほどがその貯水槽と接している。たまきは、のこり3分の1の部分に立つと、囲いに背中を預け、左側にある貯水槽を見た。

そこに、白い鳥の絵があった。ペンキで描かれた、ラクガキだ。

それはここ数日、たまきが歓楽街周辺のあちこちで見かけたものと同じ絵だった。太田ビルの屋上から、これが見えたのが、たまきがビルを飛び出した理由だった。

メガネっ子のたまきの視力はメガネをかけていてもそんなにはよくない。これまではそんな絵が二ブロック先のビルの屋上にあることなんて、気づきもしなかった。実際、太田ビルから見えた絵は小さすぎて、たまきもここに来るまで、はっきりと同じ絵だと認識できたわけではない。別の場所でこの絵を見ていて、気になって頭に残っていたからこそ、気づけたのだ。

それにしても、とたまきは首をかしげた。またしても、問題はこの絵が描かれた場所である。

この絵は、貯水槽の西の側面の上部に書かれている。しかし、西の側面というのは、屋上の囲いとわずか数センチの余白を残して接している。たまきはいま、囲いに背中を預け、若干のけぞるようにして、ようやくこの絵が見れているのだ。

どうやってこの絵を描いたのか。

たまきは、左手を伸ばしてみた。小柄なたまきでは、どんなに腕を伸ばしても、絵にはまだ1メートル近く足らない気がする。もっと背の高い人でも、さすがに届かないだろう。

たまきは、囲いを見た。

どう考えても、これに乗るしかない。

たまきぐらいの小柄な人でも、この囲いの上に立てば、ギリギリ手が届くだろう。

ただし、うっかり足を滑らせれば、そのまま十数メートル下の地上まで真っ逆さまである。絵は貯水槽のかなり上のところにあって、一般的な身長の人でも、描こうとすれば目線よりかなり上の部分での作業になる。そうなれば、ずっと見上げっぱなしになり、自然と上体はのけぞる。

囲いは、幅がたまきの靴の縦の長さと同じぐらいだろうか。これでは、ちょっと足を滑らせたら大変なことになる。

実際に囲いの上に立ったらどれくらいの高さなのか、たまきでも絵まで手が届くのか、足元は安定しているのか、実際に囲いの上に立ってみたらわかるのだろうけど、さすがのたまきもそれをする勇気はなかった。いかに死にたがりとはいえ、「自分から飛び降りる」のと、「うっかり足を滑らせて落っこちる」は、似ているようでぜんぜん違うのだ。

これまで見つけた鳥の絵はいずれも、よりによってどうしてこんな場所で描いたんだろう、というものばっかりだった。決して不可能ではないけれど、わざわざこんなところで描かなくても、と思うような場所ばっかりなのだ。

たまきが囲いの上に立つのを諦めて、なにげなく向かいのビルに目をやった時、たまきは息をのんだ。

向かいのグレーのビルの屋上にも、同じ鳥の絵があったのだ。向かいのビルは高さが一階分低い。そこの屋上の塔屋の外壁に、同じ絵があった。

たまきは、再び走り出した。たまきにしてはすごいスピードでビルの屋上を駆け下り、一気に外に出る。そして向かい、つまり道路を挟んで西側にあるビルに飛び込んだ。

そのまま屋上まで一気に駆け上る。息を切らしながら登り切り、塔屋のドアノブに手をかけ、回した。

だが、ドアは開かなかった。鍵がかかっている。そして、今度は中から開けられるような仕組みは、見つからなかった。もっとも、こうやって簡単に屋上へは入れないビルの方が、ふつうなのかもしれない。

でも、だとしたら、いよいよもってどうやって鳥の絵を描いたのかわからなくなる。鍵がかかってたら、入れないじゃないか。

一瞬、隣のビルから入って飛び移る、という危険な方法が思いついた。だけど、そこまでしてラクガキをする理由が思い浮かばない。そもそも、隣のビルには入れたのなら、隣のビルでラクガキすればいいじゃないか。わざわざ別のビルに飛び移る理由がない。

もしかしたら、一連のラクガキは全部、魔法使いが描いているんじゃなかろうか。それならば、全て無茶なところに描かれているというのも納得できるのだけど。

 

たまきが階段を下りてビルから出てきた時だった。向かいのビル、つまり、先程までたまきがいた焦げ茶色のビルの、従業員専用と書かれた鉄扉が開いた。

そこから、まるで亜美の「友達」にいそうないかつい格好の男たちが、次々と飛び出してきた。驚いてたまきはその場に固まってしまったが、どうも様子がおかしい。誰もかれも血の気を失っていて、まるで何かから逃げるようにビルから飛び出し、てんでばらばらの方角に走り去っていった。中には、殴られたかのような跡がある人もいる。

ぽかん、とたまきがその様子を見ていると、

「あれ? たまきちゃん?」

と聞きなれた声がきこえた。

振り返ると、志保が手を振りながらこちらに向かって歩いてきた。

「どうしたの、こんなところで?」

「べ……別に……、散歩です。志保さんは、バイト帰りですか?」

「うん、そう。お夕飯の材料、買ってきたよ」

志保が手に持っていたレジ袋を持ち上げて見せた。

二人はそのまま、「城」に向かって歩き出した。

「めずらしいね、このへんうろついてるのって」

「べ、別に……」

たまきはこれ以上ツッコまれたくないので、視線を落とした。別にやましいことをしていた覚えはないのだけれど。

「そういえばさ」

と志保が切り出した。

「この前さ、このへんにさ、なんか警察の人、いっぱいいたのを見たよ」

「えっ?」

たまきは志保の顔を見た。それから、後ろを振り返る。

例の焦げ茶色のビルがたまきの目に入った。たまきの頭の中に、屋上でラクガキをしていた誰かが、足を滑らせて落っこちるシーンがよぎった。

「だ、だれか落っこちたんですか?」

「え?」

志保が怪訝な顔でたまきを見た。

「警察の人がいただけで、何があったかまではわからなかったけど……、誰か落っこちたの?」

「い、いや……別に……」

たまきは視線を落としたけど、再びまた、焦げ茶色のビルの方を振り返っていた。

つづく


次回 第38話「地図ときどき異界、ところにより二丁目」(仮)

はたして、コワモテおじさんこと「ママ」の正体とは? 続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第36話「ナワバリ、ところによりラクガキ」

街中で落書きを見つけた三人。「ウチらのナワバリで勝手なことしやがって。と憤る亜美に対し、たまきはその落書きに妙に魅かれて……。あしなれ第36話、スタート!


第35話「ねこのちネコ、ところにより猫」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


画像はイメージです

「はっ! はっ! おらぁ!」

奇声を発しながら、亜美が太鼓をたたいている。

本物の太鼓ではない。ゲームセンターにある、ゲームの和太鼓だ。

「どどどどーん!」

口でそう叫びながら、亜美は太鼓を連打した。

一曲終わり、亜美はバチを置いてふうとため息をつく。

「亜美ちゃんさ、叫ばないと太鼓叩けないの?」

横で見ていた志保が尋ねた。

「掛け声と一緒に叩くと、パワーが3倍になるんだぞ」

太鼓を叩くのに、3倍ものパワーが必要なのだろうか。そもそも、亜美が叩いていたのは厳密には太鼓ではなく、ゲームのコントローラーである。常人の3倍ものパワーでたたいたら、壊れてしまうのではないだろうか。

「祭りで太鼓叩いてるやつも、全員言ってるんだからな」

「嘘だよ、聞いたことないよ」

「そりゃ、太鼓の音がでかいから、聞こえないだけだよ」

ほかに客はいない。亜美は百円を投入し、再びプレイし始めた。

「よっ! はっ! たっ! たぁ! とんとととん!」

でたらめな掛け声だけど、叩く姿はなかなか様になっていた。

「ほら、たまきもやってみろ」

亜美は次のプレイのための百円を片手に持ちながら、もう片方の手にバチを持つと、たまきに差し出した。

「私は別に……」

「亜美ちゃん、そうやって強要するのはよくないって」

「べつに強要してねぇだろ! な、ボウリングやバッティングセンターみたいなスポーツってわけじゃねぇ。ほんとにただのゲームなんだから、軽い気持ちでやればいいんだよ」

じゃあ、やっぱり3倍のパワーなんて必要ないんじゃないだろうか。

たまきは亜美からバチを受け取ると、太鼓の前に立った。ゲームが始まり、音楽が流れる。

「よっはったったぁとんとととん」

小さな声で亜美の掛け声を忠実に模倣しながら、たまきは太鼓をたたいた。まあ、いちばん簡単なモードなので、ふつうにやればふつうにクリアできる。いかに「ふつうに」が苦手なたまきでも、これくらいの「ふつうに」はこなせる。

「どうだ、たまき。やってみた感想は」

「えっと、棒をもって、太鼓をたたいて、曲が終わって……」

たまきは亜美の方に振り替えると、困ったように言った。

「それで、どうすれば……」

どうすればと聞かれても、困る。

「おまえ、ゲーセンでゲームやっても楽しくないって、それはもうビョーキだぞ」

とうとう病気呼ばわりされてしまった。まあ、ゲームの楽しさがわからないたまきの方がおかしいのだ、ということくらいは、たまきも理解している。

「あ、じゃあ、つぎ、あたしやる!」

志保が手を挙げた。たまきからバチを受け取ると、百円を入れて太鼓の前で構える。

志保は無言で太鼓をたたき続ける。

「お前、掛け声言えよ」

「絶対ヤダ」

画面を凝視しながら、志保はバチを動かした。曲が終わると、かなりの高得点がマークされた。

「どう? すごいでしょ?」

「すごいけどさ……」

亜美は少し言いにくそうに言葉を続けた。

「なんか楽しそうに見えねぇっつーか、ゲームしてるっていうより、そういう作業をこなしてるように見えるっつーか……」

「そ、そんなこと……」

「だいたい、おまえの場合、太鼓の音が小さいんだよ」

「べつに、大きな音を出すゲームじゃないでしょ。本物の太鼓じゃないんだし」

「だから、リズムよく太鼓を叩いてるっつーよりは、黙々と太鼓にバチを当ててる作業してるように見えるんだよ」

「そんなの……き、気のせいだよ……」

それ以上、志保は反論しなかった。

 

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ゲームセンターで少し汗を流した後、銭湯に入ってさっぱりして、帰りにコンビニに寄ってから帰る。3人のいつものルーティンだ。

4月に入り、だいぶ暖かくなったので、日が沈んでからもお風呂に行くようになったし、銭湯帰りにぶらぶら寄り道しても湯冷めしない。

三人は、コンビニで買い物を済ませたものの、すぐには帰らずに、買ったお菓子をつまみながら街をぶらぶらしていた。

少しばかり、冬の時よりも町はにぎわっているように見える。歓楽街にはグループで入れる居酒屋が多い。大学の新歓コンパや、会社の歓迎会が多いのだろう。中には、明らかに羽目を外してしまった姿も見られる。

たまきはいつも、亜美と志保の少し後ろを歩くのだけれど、ちょっと不安になって、その距離を少し詰めた。

ふと、亜美が足を止めたので、思わずぶつかりそうになり、たまきは足を止めた。

「どうしたの?」

志保は亜美の目線の先を追った。

通りの脇にある、ビルとビルの間の隙間。人が一人ギリギリ通れるような間隔しかなく、配管が無数に走り、地面にはポリ袋だの煙草の吸殻だのが散乱している。

そんな隙間の壁の一部に、スプレーのラクガキがあった。緑のスプレーで何やらアルファベットのようなものが書かれている。英単語なのだろうが、文字を崩してあるのか、なんて書いてあるかはわからない。

それがちょうど亜美の顔の高さの場所にあって、その下にもいくつか小さいラクガキがあった。配管にもステッカーが貼ってある。

亜美はしばらくそのラクガキを眺めていたが、

「ちっ」

と舌打ちして、顔をしかめた。

「へー、意外」

様子を見ていた志保が笑う。

「あ?」

「亜美ちゃんもそういう町の美化意識があるんだぁ、って」

「ビカイシキ?」

亜美は、志保の言ってる意味が理解できていない。

「ラクガキ見て顔をしかめるんだから、街をきれいにしたいっていう意識があるんだなぁ、って思って」

「は? ウチがそんな学級委員みたいなこと考えるわけねぇだろ?」

そういえばつい先週、道端に亜美が煙草をポイ捨てして、志保が咎めたばかりだった。

「ここは、ウチらのナワバリなんだよ」

「……どゆこと?」

今度は志保が、亜美の言ってることを理解しかねている。

亜美は、向かいのビルの上階を指さした。

「あそこにヒロキが経営してるバーがあんだろ」

「え? ヒロキさんってバーの経営者だったの?」

志保の驚きを華麗にスルーして、亜美は続ける。

「で、その2号店がこっち。その下がシンジの働いてるホストクラブだ」

志保は「シンジ」とやらの顔が思い浮かばなかった。

「で、あれがケイタの店だろ? そんで、リョウジの働くクラブがあれ」

顔は思い浮かばないけれど、どうやら亜美のクリスマスパーティや花見に集まるような連中のことだろう。亜美はその後も、夜空の星座案内かのように、周りのビルの店を示しては、誰それの店だと解説している。

「『城』の下の階にあるビデオ屋あんだろ? あそこのオーナーもウチらのグループの一人」

「え、あのおじさん?」

「あれは店長。そうじゃなくて、オーナー。ヒロキが、たまにビデオや手伝ったりしてんのも、オーナーがダチだからだぜ」

ほかにも、志保と出会ったクラブとか、ミチがライブをしたライブハウスとか、さっきまでいたゲーセンとか、ぜんぶ亜美のいう「グループ」のメンバーが何らかの形でかかわっているらしい。どうやら、たまきと志保は知らないうちに亜美の「ナワバリ」の中で生活していたようだ。

「つまり、この辺り一帯は、ウチらのナワバリなんだよ」

亜美は証明終了という顔をしているが、たまきはそもそも何の説明をされたのかすらよくわからない。困ったように志保の方を見た。

志保は、頭の中に碁盤を思い浮かべていた。囲碁のルールは確か、自分の石で周りを固めてしまえば、そこが自分の陣地になるはずだ。同じ理屈で、自分たちの仲間の店で囲まれた領域が、亜美の言う「ナワバリ」なのだろう。

とすると、亜美がラクガキひとつで怒っているのも何となく理解できた。自分の陣地にどんと相手の石を置かれた、そういうことなんじゃないか。

「つまり、亜美ちゃんたちのナワバリに、知らない誰かが勝手にラクガキしたから、怒ってるってこと?」

「さっすが! よくわかってんじゃねぇか!」

こんなことでホメられてもうれしくない。

「最近、これとおんなじラクガキが、歓楽街のあちこちで見つかってんだよ。ウチらのナワバリの、中でも外でも。誰かが、ここは自分のナワバリだって言ってやがんだよ。クソ腹立つ」

なるほど。どうやら、碁石の代わりにお店とラクガキで囲碁をしているようなものらしい。囲碁というより、犬のマーキングに近いのかもしれない。

だけど、そもそも亜美の言う「ナワバリ」も、別に土地を買い占めているわけでも、法律で決まっているわけでもない。自分たちの行動範囲を「ナワバリ」と言い張っているだけだ。要は、町を丸ごと不法占拠しているようなものである。

そんな志保の考えを見透かしたのか、亜美は不満そうに口を尖らせた。

「なんだよ、そのキョーミなさそうな顔は」

「興味ないもん。あたしに関係ないし」

「なに言ってんだ? おまえらも、ウチらのグループのメンバーに入ってんだからな」

「え?」

「ええ!」

志保もたまきも、そんな不良グループと契約書や杯を交わした記憶なんて、ない。

「あたりまえだろ。ウチと一緒につるんでるんだから」

たまきが「そういうものなんですか?」と言いたげに志保を見上げ、志保は「そんなルールない」と言いたげに首を横に振る。

「そんなグループに入ったおぼえ、ないんだけど? 勝手に入れないでよ」

「は? おまえら、どうして今までウチらの不法占拠がばれなかったか、わかんないのか?」

「え?」

志保は亜美の説明を思い返してみた。『城』の下の階のビデオ屋のオーナーは、亜美の「グループ」のメンバーだという。

つまり、その真上にある『城』も、すっぽりと「ナワバリ」に入ってしまっている、ということだ。

亜美はそれ以上説明しなかったが、不法占拠が今日までバレていない理由は、きっとそういうことなんだろう。

そもそも、野良猫同然の暮らしをしていた亜美が、太田ビルの『城』と言うキャバクラの廃墟に転がりこめたのも、もともとそこがナワバリの中だからではないか。

つまり、志保もたまきも全く無自覚のうちに、亜美の「グループ」と「ナワバリ」に守られていた、ということではないか。なんだか、非核三原則を持ちながらもアメリカの核の傘下で守られてる日本みたいだ。

亜美は、もう説明は終わったという感じで志保に背を向け、再びラクガキをにらみつけていた。

「たまき」

「は、はい」

「おまえさ、この辺で絵を描く道具が買える店、知ってる?」

「ま、まあ」

「ソコ行ったらさ、こういうスプレーも売ってっかな?」

亜美はスプレーで書かれたラクガキを指さして言った。

「さ、さあ。見たことないですけど、あるかもしれないです」

「そんなの買ってどうするの、亜美ちゃん」

「いや、このラクガキの上から、スプレーで別のマークでも書いて、ここはうちらのナワバリだって示そうかなって」

「ええ?」

どうやら亜美は、ラクガキの上に新たにラクガキを塗り重ねるつもりらしい。

「なんでもいいんだけどさ、そうだな、うちのイニシャルの『A』を赤ででっかく書く、ってのどうだ。ナワバリのほかの場所も、ラクガキされる前になんか書いとくか」

「なに言ってるの亜美ちゃん!」

志保はラクガキをのぞき込む亜美に近寄った。

「落書きは犯罪なんだよ?」

だが亜美は、ハハハと笑うだけだった。

「お前、不法占拠とかいろいろやっといて、いまさらラクガキぐらいでなにいってんだ?」

「いや、そうなんだけど……、だからって何やってもいいってことにはならないでしょ! むしろ、そういう目立つようなこと、やめてよ!」

「だってお前、ウチらのナワバリに知らないヤツがなんか描いてんだぜ? 悔しくないのか?」

「ない!」

志保はきっぱりそう言うと、たまきの方を見た。たまき本人にその自覚はないけれど、こういう時に落としどころを作れるのがたまきである。

たまきも自覚はないなりに、このタイミングで志保がこっちを見るということは、何か言ってほしいんだな、と察する。

とはいえ、何を言ったらいいかなんて、わかるわけがない。そもそも、何を言ったらいいかがわからないからこそ、黙っていたのだ。そんな急に、今この場をうまく収める言葉なんて、思い浮かぶわけがない。

ただ、さっきの亜美と志保の会話の中で、一つだけ気になっていたことがあった。他に何も思い浮かばないので、それを口にしてみることにした。

「えっと、ラクガキって、やっちゃダメなんですか?」

しばしの沈黙。そして、

「え? そこから? 落書きはダメって知らなかったの?」

たまきは無言で頷く。

「そうか、このラクガキ、おまえが描いて回ってるって可能性あったな。おまえ、絵が好きだもんな」

「え? まさかたまきちゃん、外で落書きしてないよね?」

たまきはプルプルと首を横に振る。

「でも、ラクガキしてるのがたまきだったらよかったのにな。お前もグループのメンバーだから、おまえがウチらのナワバリでラクガキしてるってなら別にいいもんな」

「メンバーじゃないし、メンバーでもダメなものはダメだから!」

そこでまた、しばらく沈黙があった後、亜美はふーっ吐息をついた。

「ま、上から書くにしても、このラクガキよりセンスあるもん描かないと意味ないしな。ウチが描いても、センスねぇなって笑われるだけか。……帰っか」

亜美は太田ビルの方に向かって歩き出した。とりあえず、明日にでもスプレーを買ってラクガキするようなことはなくなったらしい。

ただ、一度立ち止まり、たまきの方を見て、

「おまえ、センスあるやつ描けるんだったら、描いていいんだぞ?」

「だからダメだって!」

亜美は再び歩き出し、志保が後に続く。

だが、しばらくして、志保はたまきがついてこないことに気づいた。

振り返ると、たまきはまださっきの場所で、ラクガキを見つめていた。

「たまきちゃん?」

志保の呼びかけにも反応しない。「たまきちゃん、行くよ?」

「は、はい!」

ようやくたまきは呼びかけに気づき、二人の後を追った。

 

写真はイメージです

「まったく、我が弟ながら情けないよ」

ミチのお姉ちゃんが呆れたようにつぶやいた。

「で、そのままたまきちゃんを帰しちゃったわけ?」

ミチのお姉ちゃんが十日ぶりに海外旅行から帰ってきたのが昨日の昼。「そのあと」というヘンな名前のスナックは、今日の夜から営業再開である。

今は営業前の肩慣らしにと、店で弟に昼飯を作ろうと準備していたところだった。そこで「なんか変わったことはなかった?」という質問に明らかに言いよどんだ弟に、たまきとのことの顛末を洗いざらい白状させたところである。

「そういうのをね、『据え膳食わぬは武士の恥』っていうの」

ミチには意味がさっぱり分からないが、姉が言わんとしていることはなんとなくわかった。

「女の子がわざわざ泊りに来たのよ? 向こうだってそういう展開を期待してたってことでしょ?」

お姉ちゃんは、ミチの携帯電話に保存されている、猫と戯れるたまきの写真を見ながら言った。

「いや、俺も最初はそうかもって思ったりもしたんだけどさ、とにかくさ、その、たまきちゃんはなんつうか、ちがうんだよ」

「なにがちがうのさ」

「その、姉ちゃんとは違うんだよ」

「ちょっと! 実の姉を尻軽女みたいに言うとは、許さないよ!」

ミチはしまったと、心の中で軽く舌打ちをした。

だが、とにかく姉の想像しているようなパリピな女子にたまきは当てはまらないのだ。ズレているどころか、重なるところが見つからない。

おまけに、ミチはたまきからはっきりと宣言されているのだ。「期待にはこたえられない」と。それこそ、たまきが姉の言うようなことを何一つ期待していなかったということではないか。

なんとかそのことを姉に理解してもらわないと、このままふぬけ呼ばわりされたのでは、昼飯がマズくなる。

「そのさ、姉ちゃんはまだたまきちゃんと何回かしか会ってないんでしょ? だから、まだあの子のことをよくわかってないんだよ」

「ほーう、まるで自分はたまきちゃんのよくわかってる、みたいな言い方ですな」

お姉ちゃんはちょっと茶化すように言ったが、ミチはそこで黙り込んでしまった。

はたして、自分はたまきのことを理解しているのだろうか。

正直、泊まりに来た夜、なぜ怒られたのか、どこに地雷があったのか、今でもよくわかっていない。

オダイバでのあれこれも、いまだにわからないことだらけだ。

ただでさえ女心はわかりづらいというのに、たまきの思考と感性は一般的な女心とは外れたところにあって、輪をかけて理解できないのだ。

ふいに、店のドアが開き、ドアの上につけられたベルが鳴った。

「すいません、今日はランチやってなくて……」

と言いかけたお姉ちゃんだったが、入ってきた人物の顔を見て、

「あら、ウワサをすれば。いらっしゃい」

と笑顔を見せた。その言葉で、ミチも誰が来たのかがわかり、ドアの方に振り返った。

「あの……ミチ君、いま……すよね」

ミチと目が合ったたまきは、軽く会釈をした。

「なに、今日はどうしたの? もしかして、またデートのお誘い?」

お姉ちゃんの言葉にたまきは一瞬、背中をビクッと震わせた。

「ち、ちがいます別に……」

と言い淀みながらたまきはミチの方を見た。

いかにミチがたまきのことをわかっていない、といっても、さすがに今のたまきが睨むようにミチを見て、何を言おうとしているかぐらいは察しが付く。おおかた「この前のこと、勝手にしゃべったんですか?」って感じだろう。ミチも、「だってしょうがないじゃん」と言いたげに、たまきから視線を逸らす。

「あ、あの……この前の写真を見せてもらおうと思って……」

「この前のって、猫をなでたりしてるやつ?」

お姉ちゃんが聞き返す。

「えっと……そっちじゃなくて……」

たまきが見たいのは、アキハバラの駅で見た夕日の写真だ。

「ああ、あれね。せっかくだから、プリントアウトしてあげるよ。姉ちゃん、ケータイの写真って、プリントできる?」

「パソコンに転送すればできるんじゃない? あたしのパソコンに添付してメールを送ればいいんじゃないの? あとで印刷しとくから」

「あ、ありがとうございます」

たまきはぺこりと頭を下げた。

そして、そのまま動かない。

しばらくしてたまきが顔を上げると、お姉ちゃんに尋ねた。

「……お姉さんは、私が猫と遊んでる時の写真を、見たんですか?」

「うん、見た見た。かわいく撮れてたよ」

「……何枚ですか?」

あの時、十枚くらい写真を撮られた気がするが、たまきはミチに、「猫を抱っこしている写真」一枚を残して、あとは消すように頼んだはずなのだ。

それなのに、お姉ちゃんは「猫をなでたりしてるやつ」の写真を見たというのだ。これはおかしい。おかしくないですか?

「うーん、十枚くらい?」

お姉ちゃんの答えを聞くやいなや、たまきの目線はミチの方にぶつけられた。それが何を意味するか、ミチにもはっきりとわかる。間違いなく、睨んでいるし、怒っている。

「見せてください」

「え、えっと……」

「携帯電話のその写真、見せてください」

ミチが携帯電話を操作し、件の写真の画像を出す。たまきは、ひったくるようにそれを奪い取ると、慣れない手つきで操作しながら、ほかの画像も確認した。

「……私、消してくださいって言いましたよね。ちっとも消してないじゃないですか」

「……いや、だって、もったいないなぁ、って思って。せっかく撮ったのに」

「消してください、って言いましたよね」

「いや、でも、俺のケータイのデータをどうしようが、俺の勝手じゃん?」

「写ってるのは、私です」

まっすぐにミチをにらみつけるたまきと、目線を合わせようとしないミチ。お姉ちゃんはその様子を、何やら楽しそうににやにやと見つめながら、

「いいじゃない。かわいく撮れてるんだから」

と口をはさんだ。

「……そういう問題じゃないです。……そもそも、私はかわいくはないです」

「そんなことないって~」

とお姉ちゃんは、たまきの手にある携帯電話の画像をのぞき込む。

「ほら、このしっぽをピンと立ててる姿、なかなか様になってるよ」

「それは私じゃなくて、ねこです」

「ああ、ごめん。似てるから間違えちゃった」

そんなわけない。ツッコミどころがありすぎるが、絶対にまちがえるわけない。

「……ほら、姉ちゃんのパソコンに写真送るから、ケータイ返して」

ミチが携帯電話を取り戻す。

「余計な写真も消しておいてください」

「わかったわかった、消しておくから!」

ミチが送信を終え、お姉ちゃんは印刷のために、いったん自分の部屋へと戻った。

お店の中にはミチとたまきの二人だけ。しかし、たまきはまだ怒っているのか、ミチと目を合わせようとせず、店の中を見渡している。

ふと、たまきは店の中にバスケットボールにまつわるものがいくつか置いてあることに気づいた。アメリカ人(たぶん)のバスケの選手の写真がテーブルの上の写立てにあり、壁の高いところにはバスケのユニフォームが飾られている。バスケットのゴールをかたどった小さな置物もみつけた。

お姉さんはバスケが好きなのだろうか。しかし、お店の雰囲気とは何だか合っていない気もする。こういうのはスナックよりも、ハンバーガー屋さんとかステーキ屋さんとかの方が似合いそうだ。

そんな風にきょろきょろと店の中を見渡していたら、ミチと目が合ってしまった。たまきは慌てて視線を外す。

「たまきちゃんさ」

ミチは不満げに口を開いた。

「どうして、今日は笑わないの?」

「べ、別に……」

「なんかさ、この前よりもよそよそしくない?」

「き……気のせいです」

「俺ら、一夜を共にした仲じゃん」

「たまたま同じ部屋にいただけです……」

そのまま、たまきはうつむきがちに言った。

「笑顔が見たいんだったら……」

そこに、ミチのお姉ちゃんが戻ってきた。手には写真が握られている。

「プリント終わったよ~」

たまきはイスから立ち上がると、たまきとは思えないほどしなやかな動きでお姉ちゃんの方に駆け寄った。そのまま写真を奪い取るかのように手にすると、

「私、帰ります。ありがとうございました」

と早口に告げ、たまきとしては信じられないスピードで店を出ていった。一連の動きはまるで、一流のバスケプレイヤーが相手選手からボールをかっさらい、そのままコートを駆け抜けて、鮮やかにダンクシュートを決めたかのようだった。

「ミチヒロ、あんたまたなんか怒らせたんじゃないの?」

「……わっかんねぇなぁ」

ミチは、ドアの上にあるベルが揺れるのをただ見ていた。

 

写真はイメージです

たまきは、スナックのドアを閉めると立ち止まり、ふうっと大きなため息をついた。

一息つくと、ゆっくりと歩き出す。

高架沿いの坂道をたまきは、とぼとぼと上っていった。

長い坂道の中ほどあたりで、ふと、たまきは足を止めた。

高架下の一角。フェンスで区切られ、中に入ることはできない。フェンスのむこうには2メートルほど先にコンクリートの壁があり、それ以外には何もない。

フェンスには「不法投棄禁止」という看板が貼り付けられていた。コンクリートの壁はそこだけ「コ」の字型にくぼんでいて、きっと、ポイ捨てにちょうどいい場所で、ほっといたらゴミがたまってしまうから、フェンスをつけてポイ捨てできないようにしたのだろう。

そのフェンスのむこう側の壁に、鳥の絵がラクガキされていた。

おそらく、ペンキで書いたのだろう。だけど、絵のサイズは普通の写真くらいでしかない。ハケではなく絵筆にペンキをつけて描いたのではないか。

白い鳥が、羽ばたくポーズを描いたものだ。くっきりとした黒い輪郭線と、どこか灰色が混じったような白。翼は特に細かく描きこまれている。

たまきがこのラクガキに気づいて足を止めたのは、これと同じものを前にも見ていたからだ。

つい昨日、銭湯帰りに亜美が見つけたスプレーのラクガキ。あのラクガキの周りには他にも、小さなマークが描かれていたり、ステッカーが貼られていたりしたのだけど、その中にこれと同じ鳥の絵があった。

ぼんやりとその絵を見ているうちに、たまきはあることに気づいた。

この絵、どうやって描いたんだろう?

鳥の絵は、フェンスのむこう側にあるのだ。

フェンスにドアのようなものはない。となると、フェンスのむこう側に行くには、フェンスをよじ登り、乗り越えなければならないはずだ。

たまきは視線を上へと投げた。フェンスはたまきの背よりもはるかに高く、3メートル以上の長さだ。ちょうど同じくらいの高さでコンクリ壁のへっこみも終わり、コンクリ壁が道路のそばまで大きくせり出す。せり出したコンクリ壁はフェンスとぴったりっついているわけではなく、隙間が空いている。やっぱりフェンスを乗り越えればむこう側に行けそうだ。

でも、それは「不可能ではない」というくらいの話でしかない。実際にむこう側に行くのは、かなり難しそうだ。

まず、3メートル以上あるフェンスをよじ登らなければいけない。まあ、たまきには無理だけど、世の中にはそういうのが得意な人もいるだろう。

問題は、フェンスを乗り越えるとき、フェンスとせり出したコンクリ壁の、わずかな隙間を通り抜けなければならないことだ。

たまきはその隙間に目をやる。これまた、通り抜けることは不可能ではない。だけど、やっぱり狭い。小柄なたまきですら、どこかをすりむかないと抜けられないのではないか。

そうやって苦労して通り抜けたら、今度は3メートル以上の高さを安全に降りていかなければならない。

しかも、手ぶらでフェンスを登ればいいのではない。ペンキをはじめとした絵を描く道具も持っていかなければならないのだ。

そんな苦労を重ねて、フェンスのむこうにたどり着き、ラクガキをしたら今度は全く同じ苦労をして、フェンスを上って道路に戻らなければいけない。

その間、もしもお巡りさんなどに見つかったら、とてもめんどくさいことになる。

……何のためにそこまでしてラクガキするのか?

ラクガキするだけなら、何もそんな手間と危険を冒す必要はない。この近くなら、高架の下を抜ける、人目につかない通路なんていくらでもある。そこでいいじゃないか。だいたい、フェンスのむこう側にラクガキしても、気づく人はかなり少ないのではないか。

そんな風に考えると、昨日みつけたラクガキも、ラクガキするには適していない場所だったのではないかと思えてくる。

ビルとビルの間の隙間は、かなり狭い。一人くらいなら入ることはできるけど、そこで細かい作業をするのは、無理ではないけど、かなり面倒である。人通りも多い場所だ。通りかかれば誰かが気付くだろうし、やっぱりおまわりさんに見つかったらひどく怒られるだろう。

たまきの目には、スプレーの落書きの方は、少し歪んでいるように見えた。おそらく、描いた人はビルの隙間に入ったわけではない。隙間の外から、スプレーを吹き付けて描いたのだ。壁面に対して斜めに吹き付けたので、少し歪んでしまったのだろう。

あの壁にはステッカーもたくさん貼られていたけど、それなら人目を忍んで隙間に入って、貼り付けたらすぐに出ればいい。

だけど、鳥のラクガキは筆で書かれているように見える。となると、スプレーやステッカーと違い、何分かのあいだ狭い隙間に入って、肘を満足に動かせないような状況で器用に描かなければならない。

……何のためにそんなことを?

たまきは、フェンスのむこうの鳥の絵をふしぎに見つめていた。それはさながら鳥かごの中の鳥のようでもあり、一方で、実は鳥かごに囚われているのはたまきの方なのではないかという、奇妙な錯覚を起こさせる、そんな絵だった。

つづく


次回 第37話「イス、ところにより貯水タンク」

次回、新キャラ登場?続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説 あしたてんきになぁれ 第35話「ねこのちネコ、ところにより猫」

ミチと共にオダイバへと来たたまき。たまきとの間に隔たりを感じるミチは、たまきに「タメ口で話さない?」と提案してみたところ……。あしなれ第35話、始まるぜ。

第34話「モノレール、のちブレスレット」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


画像はイメージです

「で、このあと、どうするの?」

「え、じゃあ、テレビ局見に行かない?」

「……さっき見た」

「そうなんだけど、せっかくお台場に来たんだから、もっと間近で見てみない? 芸能人とかいるかもよ」

「……別に、芸能人とか興味ない」

と、たまきが言った。いつもと口調が違うけど、これはたまきである。

そうしてたまきは、

「まあ、ミチ君がそうしたいなら」

と言うと、ミチの横を並んで歩きだした。

商業施設、もとい、モールの中の大通りを、出口に向けて歩いていく。

しばらく、二人は無言だった。

話を切り出したのは、意外にもたまきの方だった。

「こういうお店のタイルって、見てるとおもしろいよね」

「え? タイル? ……床の?」

「……うん、床の」

「床の……タイル……」

たまきに言われて、ミチは初めて、床のタイルに目を向けた。

「タイルだけの美術館とかあったら、行ってもいいと思う」

「美術館?」

「……ミチ君は、美術館にはいかないの? その……デートとか」

「行かないよ。たまきちゃんは行くの?」

「……デートに行ったことがないんだけど」

「そうじゃなくて、美術館に」

「……一応、美術部だったから、部活で何回か行った」

そこで会話は途切れてしまった。

なんだか気まずくなり、ミチは何か会話のとっかかりはないかと、あたりを見渡す。

ミチのすぐ横には日常雑貨のお店があった。目立つところに、マグカップがいくつか並べられていた。コラボ商品らしく、絵本やアニメのキャラクターが描かれている。

「こういうのとかさ、かわいいとか思わないの?」

ミチはたまきの肩をたたいて呼び止めた。

たまきは足を止めた。そして、何か吸い込まれるかのように、マグカップに視線を投げた。

やっぱりたまきだって、女の子なのだ。床のタイルばっかり見てないで、こういうものにも心惹かれるのだ。

……だけど、たまきの口から出てきた言葉は、ミチの想像していたものとは違っていた。

「……マグカップは……キライ」

「……え?」

ミチは、たまきの言っている意味が分からなかった。マグカップが嫌いだなんて、そんな人間いるのか。特に害なんてないじゃないか。

「家に……マグカップがあったの……。お父さんとお母さんと、お姉ちゃんと私の、四人分。同じお店で買ったもので、それぞれ動物の絵が描いてあったの」

「……ああ、家族でおそろい、ってやつ?」

「……それがリビングにある戸棚の、いちばん見えるところに飾ってあって……」

たまきは、そこでうつむいた。

「……いやだった」

そういうと、たまきはその場を離れてしまった。

 

二人は、モールの外へと出た。テレビ局は大通りを挟んで反対側にあり、道路の上はモノレールが走っている。

再び、話しかけたのはたまきの方だった。

「モノレールって、かわいいよね」

「は? モノレールが?」

「うん。なんだか、枝の上をもにょもにょ動いてるイモムシみたいで、かわいいと思う」

「い、いもむし……」

「私、今日初めてモノレールに乗ったんだけど、なんか自分が幽霊になったみたいで、……ちょっと、面白かった」

「あ……うん……」

「人って死んだらあんな感じかな」

「……そうなんじゃないかな」

そういいながらも、ミチは頭の中でたまきの話を整理してみる。「あんな感じ」の「あんな」とはどんなだ。幽霊のことだろうか。モノレールのことだろうか。いもむしのことだろうか。もしかしたら、さっきのタイルのことを言っているのか。

そもそも、さっきのモールの中でかわいい洋服やアクセサリーを見ても一言も「かわいい」とは言わなかったのに、ここにきて「モノレールがイモムシみたいでかわいい」とはどういうことだ。

信号が変わり、二人は道路を渡って、テレビ局の前にある広場へとっやって来た。

ミチの横をぴったり歩くたまきだったが、テレビ局を仰ぎ見ながら、ぴたりと立ち止まった。

「ん? どしたの?」

「……テレビ局、見た」

そういうと、たまきはミチの方を向いた。

「……それで、どうすれば……?」

「……どうすればっていうのは……?」

「ミチ君がテレビ局見ようって言って、ここにきて、テレビ局を見て、それで、どうすれば……」

「え、えっと、なにか感想とか……」

そう言われて、たまきは黙ってしまった。

しばらくして、たまきの方から質問してきた。

「……なんて感想言えばいいの?」

「え、えっと、例えば、『わ~、本物だ~!』とか……」

「……ニセモノのテレビ局があるの?」

「いや、ないけど……」

「ニセモノがないのに、本物だって感動するの、おかしいよね? おかしくない?」

ミチは何も答えなかった。

「それで……この後どうすれば……」

そう言われて、またミチは黙り込む。

正直、モールに行った後のことなんて、全く考えていなかったのだ。

モールに行った後は、「次、どこ行く~」「ここ行ってみようよ~」という流れに、「ごく自然に」なると思っていたので、「この後どうすれば」と一方的に指示を待たれると、それこそ部活の先輩が後輩に指示しているみたいで、面白くない。

「えっと、じゃあ、海行ってみようよ」

とっさの思い付きだった。モールにも、テレビ局にも、たまきは食いつかない。これ以上「施設」を巡っても、何の反応もないような気がする。

たまきは無言で頷いた。

だが、一分ほどたった時だった。

海に行くにはもう一度道路を渡らなければいけない。モノレールの駅が道路をまたぐようにして作られているので、そこを通路として使うことにした。その階段でたまきは立ち止まった。

「……どうしたの?」

「……海を見たら、私は何て言えばいいの?」

 

モノレールは海を渡り、倉庫街の上を泳ぎ、マンションの合間をすり抜けていく。

たまきとミチは、オダイバから帰るモノレールに乗っていた。

時刻はランチタイムを少し過ぎたあたり。オダイバから帰る方向のモノレールは、比較的すいている。

結局、二人は海には行かずに、そのまま帰りのモノレールに乗った。

帰る、と決まってからの二人は、必要最低限の会話しかなかった。

たまきがしゃべらないのはいつものこととして、ミチが黙ってしまったのは、考え事をしているからだ。

たまきとさっぱり会話がかみ合わない。モールに行ってもお店ではなくタイルを見てる。マグカップはなぜか嫌い。モノレールをかわいいという。テレビ局を見ても何の感想もない。本当にミチと同じ場所を巡っていたのだろうか。

ミチは隣に座るたまきの方を見た。たまきはじっと正面を見据えたまま、ミチの方など見ようともしない。

ミチはたまきに対して、どこか隔たりを感じていた。隔たっているうえに、間に壁を築かれてしまっている、そんな感じだ。

もちろん、ミチはたまきに対して、距離をとっているつもりも、壁を作っているつもりも、ない。むしろ、積極的に近づこうとしているのだ。だから、喜ぶだろうと思ってオダイバのモールに連れてきたのだ。良かれと思って、アクセサリーを買ってあげたのだ。

だけど、その様もはたから見ると、部活の先輩後輩程度のものにしか見えなかったらしい。思えば、この時からすでに隔たりを感じていた。

だからミチはたまきに、「敬語をやめてみないか」と言ったわけだ。それに対してたまきは、心底嫌そうな顔をしたけれど、一応は応じてくれた。

なぜだろう。ため口になった時の方が、隔たりの上に壁まで築かれていると感じてしまうのは。

もしかして、たまきが言っていた「敬語の方がラクだ」という言葉は、あれは本当だったんじゃないか。

ミチとしては、敬語は堅苦しくて疲れるだろう、友達なんだし、ため口の方が気が楽だろう、と思って言ってみたわけだが、今日わかったことは、たまきはミチの感覚とは大幅にずれている、ということだ。ミチが考える一般論はたまきには通用しない。

ミチは、施設で飼っていたクロを思い出した。クロは頭をなでてやると、しっぽをばたばたとふっていた。それはネコにとっては嫌がっているサインなのだそうだ。

今にして思えば、クロは騒がしい人間のガキンチョなんかに、近寄って欲しくなかったのかもしれない。

じゃあ、クロはミチたちのことが嫌いだったのかと言うと、そうも言いきれない。餌を食べ終わった後も、クロは施設の中をうろうろしてたし、ミチたちが遊んでいるところにやってきて、近づきはしないけど、少し離れたところからその様子をぼおっと眺めていたことならよくあった。誤ってクロのそばにサッカーボールが飛んで行っても、逃げずにミチたちの遊びを眺めていた。

やっぱりあの距離が、クロにとっては理想の距離だったのかもしれない。それ以上近づいたり、ましてや触ってきたりすると、嫌がる。

ただ、嫌がるわりには、頭をなでられたクロが逃げ出したり、引っかいたりするようなことは一度もなかった。じっとしたまま、だまって、しっぽをばたばた振っていただけだ。ミチが抱っこをした時だって、なんだかぶぜんとした表情だった気がするけど、やっぱりじっとしていた。

もしかしたらクロは、子供たちが思う「理想のネコ」を演じていたのかもしれない。

エサをもらっている身だし、寝床を借りることもある。ガキンチョどものこともそこまでキライじゃない。ここはおとなしく「人間になついている、かわいい野良猫」のフリでもして、なでられておいてやるか。そうすれば、ガキどもも満足だろう。

「たまきちゃん」

ミチは、隣に座るたまきに声をかける。

「……何?」

「……しゃべり方なんだけどさ、たまきちゃんがラクな方でいいと思うんだ。だから、その、無理して俺に合わせなくても……」

そこでたまきは一度、深いため息をつくと、ミチの目を見た。

「……だから、私はこういうしゃべり方のほうが楽なんですって、最初に言いましたよね」

なんだか、久しぶりにたまきと目が合った気がする。オダイバにいる間、たまきがミチの方を見ることはあっても、目線は合わなかったんじゃないか。

「ミチ君って、自分がしゃべりたいことだけしゃべって、私が言ってることは、全然聞いてないですよね」

「そ、そうかもしれません……」

なぜか、ミチまで敬語になってしまった。

「私、あんまりしゃべらない方ですよ」

「……知ってます」

「なのに、たまにしゃべった内容も聞いてなかったってなると、……怒りますよ」

「ごめんなさい」

「ミチ君のそういうところ、私、キライです」

“素”に戻ったたまきは、いつもより饒舌だ。

「その……さ……、たまきちゃんさ、俺が、海乃さんの代わりにたまきちゃんをオダイバに連れてきたんじゃないかって言ったじゃん?」

「……はい」

「それって……やっぱり……いや?」

そこでたまきは再び、深いため息をつく。

「……いやじゃない人って、いるんですか?」

「……おっしゃる通りです」

「……わかってますよ」

「……え?」

「ミチ君が、別にわざとそういうことしてたわけじゃないってことくらい、わかってますよ。もしかしたら、私に言われるまで、自分でもはっきりとは気づいてなかったんじゃないですか?」

ミチは答えられなかった。

「……まあ、いいですけど」

ミチは、たまきが一瞬微笑んだようにも見えたが、気のせいだったかもしれない。

「でも、私、ゆうべ言いましたよね。『期待にはこたえられない』って」

たまきは、わざとミチから視線を外した。

「ミチ君って、本当に私の話、聞いてないんですね」

 

がたん、ごとん。がたん、ごとん。

モノレールから電車へと乗り換えて、東京駅でさらに乗り換えて、二人はシンジュクへと帰ろうとしていた。

「……たまきちゃんさ」

「……はい」

「六時までまだだいぶ時間あるけど、もうこのまま帰る?」

たまきは、何も答えなかった。

電車がどこかの駅に停まり、ドアが開いた。

突然、ミチは立ち上がった。

「たまきちゃん、降りよう!」

「え……?」

ミチは、たまきの手を引っ張った。つられてたまきも立ち上がる。

そのまま二人は、電車を降りてしまった。たまきの後ろでドアの閉まる音がした。

「待ってください……! 何か用事でもあるんですか?」

「……別に」

「この街って、何があるんですか?」

「知らねー」

そのままミチは、たまきの手を引っ張ってぐいぐい進む。

改札を出たところで、たまきはミチの手を振り払った。

やっぱり、ちょっと強引すぎたかな。また文句を言われてしまう。

ミチがそう思った時、たまきが口を開いた。

「……まあ、ミチ君がそうしたいなら」

 

画像はイメージです

改札の外には、商店街があった。とはいえ、周囲に住宅はほとんどなく、灰色のビルがあたりを囲んでいる。

ふりむくと、二人が出てきた駅があった。線路は高架の上を走り、駅舎には焼けたような色をしたレンガが、外壁にあしらわれていた。

周りを歩くのは、スーツ姿のサラリーマンが多い。すくなくとも、オダイバよりは安心できる、とたまきは感じた。

「……それで、この後どうすれば……」

「そうだなぁ。シンジュクは西の方だからあっちか……。」

ミチは商店街の奥の方を指さした。

「とりあえず、あっちのほう行ってみようか」

「え……、ここからシンジュクまで歩くんですか……?」

たまきは不安そうにミチを見た。

「いや、それはさすがに無理だけどさ、ま、とりあえず、いけるとこまで行ってみようよ」

「……とりあえず」

とりあえず、たまきとミチは歩きだした。ミチはサッサカと歩き、そのななめ後ろをたまきは黙ってとぼとぼとついていった。

午前中に比べればだいぶ口数は減ったが、時折ミチはたまきに話しかけ、その都度、たまきは「まあ」とか「さあ」みたいな返事を返した。

大通りを渡ると、あたりはオフィス街になっていた。何十年も前からあるような、コンクリートでできた古いビルが並ぶ。地面も灰色のアスファルト。なんだかモノクロ写真の中に迷い込んだみたいで、空だけがやけに青い。

ミチが立ち止まった。たまきも立ち止まる。

「悪い、トイレ行ってきていい? さっきのコンビニにあると思うからさ」

一、二分前に渡った大通りにコンビニがあったのを、たまきも記憶していた。

たまきは無言で頷き、ミチは来たミチを駆け足で戻っていった。

ふうっとたまきはため息をついた。

周りにあるのは、何かの会社が入ったビルばかり。あとは、駐車場。駐車場に止まっている車まで、グレーとブラックばっかりだった。特に暇をつぶせそうなものは見当たらない。

駐車場の脇にある、赤い自動販売機が目に入った。グレーばっかりの世界では、それなりに鮮やかに見える。

自販機でも見ながら、ぼおっと待ってようとたまきが近づくと、駐車場の車と車の間で何かが動いた。

のぞき込んでみると、何かが飛び出して、車のボンネットの上に飛び乗った。

「わっ」

飛び出してきたのは、三毛猫だった。

「ねこ……」

続けてさらに二匹、車の隙間から飛び出して、ボンネットへと飛び乗った。白猫と黒猫だ。白猫は三毛猫の隣に座り、二匹の間に隠れるようにして、黒猫がたまきを見ている。

三匹は、たまきのことをじっと見ていた。

とりあえず歩いていたら、トリにあわずに、ネコにあった。

たまきは、ねこに近づいてみた。ねこたちは逃げるそぶりを見せない。

三毛猫がにゃあと鳴いた。

たまきは、左手を伸ばしてみる。

三毛猫の毛先に手が触れた。

三毛猫はボンネットの上に寝そべった。

たまきの左手が、おそるおそる動き、三毛猫の背中をなでる。ねこの肌の感触が手に伝わる。なんだかゴムの風船みたいで、力を入れたら壊れてしまうんじゃないかと思うと、急に怖くなった。

「……あなたたち、野良猫ですか?」

三毛猫がもう一度、にゃあと鳴いた。

ふふっ、とたまきは笑った。

「私はあなたたちに似てるそうです」

たまきはねこに話しかけた。

「でも、そんなわけないと思うんですよ。私の方が大きいですし、私は二本足で歩きますし、しっぽだってありません。全然似てませんよ、ねぇ。ほら、毛の色だって違う」

たまきは、奥にいる黒猫の方を見た。

「……あなたは、私と毛の色がいっしょですね。……あと、そうやって前に出てこないのも、なんだか似てる気がします。そうですね、この三匹の中だったら、あなたが一番似てるかもしれませんね」

たまきの左手が三毛猫を優しくなでる。

「ここでみんなで一緒に暮らしてるんですか? 仲良しなんですね」

今度は、白猫がにゃあと鳴いた。たまきの少し後ろの方を見ている。

「どうしたんですか? ……自販機のジュース飲みたいんですか? まさかそんなわけ」

振り向くと、ミチがレジ袋をぶら下げて立っていた。にやにやと笑っている。

たまきは、気まずそうにミチを見た。左手は三毛猫の背中に当てたまま、固まっている。

「なんか誰かとしゃべってるなぁ、と思ったら、ネコに話しかけてたの? っていうかたまきちゃん、なんでネコにまで敬語なのよ」

「べ、別に……」

「なんかさ、人間と話す時より、ネコに話しかけてる時の方が、饒舌じゃない?」

「そ、そんなわけ……」

ボンネットから白猫が飛び降りて、たまきの足元に寄ってきた。

「よし、そのまま、そのまま」

そういうとミチは、携帯電話のカメラを起動した。

「……何やってるんですか」

「せっかくだから、撮ってあげるよ」

「……やめてください」

たまきは、ミチから目線をそらした。

「一枚くらいいいじゃん」

「……ヘンなことに使わないでくださいよ」

「ヘンなことってどんな?」

たまきは口をとがらせて、ほおを赤らめた。わかってるくせに、たまきが恥ずかしがるだろうと思ってわざと聞いてくるのだ。柿の実をぶつけて楽しんでいるのだ。

「大丈夫だって。姉ちゃんに見せるだけだから」

「……そうやってまた、私がねこに似てるとか言って、二人でからかうんですね」

そういいながらも、ヘンなことに使われるよりかはましだとたまきは考えていた。ミチやミチのお姉ちゃんが、たまきのことを本気でバカにしてるわけではないこともわかっている。

ゆうべの布団のこともある。あまり気は進まないが、ちょっとぐらい被写体になってもいいか。

「それで、私はどうすれば……」

「ん? さっきみたいに、ネコと戯れてればいいよ」

たまきはしゃがむと、白猫の頭をなで始めた。白猫は気持ちよさそうににゃおと鳴く。

「よーし、そのままネコを抱っこしてみようか」

「一枚だけ」と言いながら、すでに3枚は撮影されている。たまきは憮然としながら、白猫を抱え上げた。人に慣れたねこなのか、身動きをしない。一方で、黒猫は相変わらず、ボンネットの上からたまきを見ているだけだ。

「ほら、たまきちゃんこっち向いて」

たまきは首だけカメラの方に向けた。

「ほら、笑って」

たまきの表情は変わらない。

「機嫌悪そうに見えるよ。ほら、笑って」

たまきは笑いはしなかったが、表情筋が緩んだのか、さっきよりは柔和な顔つきになった。

ミチは、携帯電話を下ろした。

「笑ってよ~。さっきネコに話しかけてた時は、笑ってたじゃん」

「……気のせいです」

「ねえ、俺も抱っこしたい」

「……落とさないでくださいよ」

「大丈夫だよ。オレ、施設でネコ飼ってたことあるし」

たまきは白猫をミチに渡した。

そして目線を、黒猫の方に向けた。

この黒猫は、触られたり抱えられたりするのは好きではなさそうだ、たまきはなぜかそんな風に思った。三毛猫が黒猫を守るかのように、たまきと黒猫の間に陣取っていた。

たまきは振り返って、白猫を抱いているミチを見た。

「……なんか、ミチ君のネコの持ち方、雑ですね」

「……いや、そんなことないっしょ」

「……携帯電話をいじってる時と、触り方がいっしょです」

「そんなわけないっしょ」

「本質的には、一緒です」

ミチは、納得いかないといった感じで、白猫を降ろした。白猫は仲間のもとへと走って行った。

「それとミチ君、一枚だけって言ってたのに、何枚か撮ってましたよね」

「ん? ああ、そういえば気づいたら」

「一枚だけにしてください」

「えー、いいじゃん。だから、姉ちゃんに見せるだけだって」

「見せてください。私が残す写真を決めますから」

ミチは渋々、画像フォルダをたまきに見せた。

「……これ以外全部消してください」

「これ? ああ、いちばん最後のやつね。わかったよ」

「……最後のやつが、一番かわいく撮れてたんで」

「自分が?」

「……ねこの方です」

たまきは頬をちょっぴり赤くして、そっぽを向いた。

「あ、そうだ。コンビニでおかしかったんよ」

「なにかおもしろいことでもあったんですか」

「いや、これこれ」

ミチはレジ袋の中から、ポッキーの箱を出した。どうやら「おかしかった」は「可笑しかった」ではなく、「おかし買った」だったみたいだ。

ミチは箱から一本ポッキーを出すと、腰をかがめて、たまきの目線の前に差し出した。

「ほら、おたべ」

「……もらいます」

たまきはポッキーを口にくわえた。

 

オフィス街からいつの間にか、お店がちらほらと増えてきた。

ミチが前を歩き、その少し後ろをたまきがついていく。

「だからさ、雑っていうのが納得できないんよ。オレ、こう見えてもネコ好きだよ。丁寧に扱ってるつもりよ」

「でも、私には雑に見えました」

「だから、もっと具体的に言ってよ。『雑』なんて漢字一文字じゃわかんないって」

「そんなの、言葉で説明できるものじゃないです」

「そっちの方が雑じゃね? たまきちゃんさ、『雑』って言葉に逃げてない?」

ミチはたまきの前を歩いているので、たまきの表情は見えない。見えないんだけど、カチンと音が聞こえたような気がした。

「……私が逃げる必要、なくないですか? 私は私が感じたままに言ってるだけで逃げる必要とかないですよね。なのに私が逃げてるって、おかしいですよね。おかしくないですか?」

「まあ、そうなんだけど」

「そもそも、ミチ君、ねこ飼ってたことあるんですよね。私よりねこについていろいろ経験してるんですよね。だったら逆に、説明しなくたってわかりますよね、いろいろ経験してるんだから」

「またその話か……」

「はい、またその話です。だってミチ君、ゆうべ、私が恋愛のことわからないのは、経験してないからだ、経験すれば言葉で説明しなくてもわかるって言ってたじゃないですか。だったら、ねこの扱い方を私より経験しているミチ君が、具体的に言われないとわからないのって、おかしいですよね。おかしくないですか?」

ああ、また怒られるのね、とミチは振り返って、たまきを見た。そして、あれっと思って足を止めた。

「……今、笑ってたでしょ」

「……気のせいです」

たまきはミチから視線をそらした。

ほどなくして、周りに大きなビルが増えてきた。二人は裏路地を出て、大通りを歩き始めた。

そのあたりから、ミチがしきりに首を傾げ始めた。

「どうしたんですか」

後ろを歩くたまきが声をかける。

「いや、思ってた場所と、ちがうところに来てる気が……」

ミチは正面に見える、商業ビルの群れを見ながら言った。

「あれ、アキバじゃね?」

「……アキハバラじゃダメなんですか」

「いや、全然方角ちがうよ。だってアキバだと……」

二人は川にかかる橋を渡ろうとしていた。ミチは道路わきにある地図を見ていたが、やがて

「え、なんで!」

と声を上げた。

「どうしたんですか」

「やっぱりここ、アキバだよ!」

「……アキハバラじゃダメなんですか?」

「だって俺ら、西に向かって歩いてるつもりだったのに、いつの間にか北に向かって歩いてたってことになるんだぜ」

西と北。たまきは指であっちを指したりこっちを指したりしながら、その位置を頭に思い浮かべた。北が上で、西が左。

……ぜんぜん違うじゃないか。

「え?」

たまきも地図をのぞき込んだ。

「私たち、西に向かって歩いてるつもりが、北に向かって歩いてたってことですか? 最初から?」

「いや、そんなわけねぇって。駅を出た時は、確かに西に向かって歩いてたんだから」

「じゃあ、どこかで間違えた?」

「どこで間違えるんだよ。ずっとほぼまっすぐに歩いてきたんだぜ」

二人は、駅から歩いてきた道のりを思い出した。どこか間違えるポイントがあったとすれば……。

ミチがトイレに行って、たまきが猫と遊んでた、あの駐車場しか思い浮かばない。

二人は地図を見ていたが、やがて、お互いの顔を見合わせた。

そして、どちらからというでもなく、笑い始めた。

はじめは、くすくすと。やがてミチが耐えきれなくなったかのようにゲラゲラと笑い出すと、つられてたまきからも笑い声が漏れてきた。

「じゃ、じゃあ、俺ら、あの後ぜんぜん違う方角に歩き出してたってこと?」

「そ、そうなりますね」

「たまきちゃん、気づいてよ」

「ミチ君こそ」

「二人とも気づかなかったって、あ、ありえる?」

通りがかった人が、この二人はなにがそんなに面白いのだろうと、不思議そうに眺めていく。だけど、気づいていないのか、気にしてないのか、二人は笑うことをやめない。

「い、いま、笑ってるでしょ?」

ミチが肩で息をしながら言った。

「だって、二人ともぜんぜん違う方角に歩き出してるのに、二人とも気づかなかったって、おかしいですよね。おかしくないですか」

たまきはだんだん、道端でバカみたいに笑っているのが恥ずかしくなってきたのか、顔が赤くなってきた。

「いや、ウケるし」

そういうとミチは大きく呼吸し、息を整えた。

「まあ、電車乗っちまえばすぐ帰れるから、別に西に行こうが南に行こうが、どっちでもいいんだけどさ」

「ですよね。どっちでもいいですよね」

「じゃ、アキバにでも寄って帰ろうか。アキバからだったら、たぶん乗り換えなしで帰れるんじゃないかな」

そういうとミチは歩き始めた。そのあとをたまきがついていく。

ミチの後ろを歩きながら、たまきは思い出したのか、一回、くすっと笑った。

 

画像はイメージです

アキバの人混みは、オダイバのおしゃれさんとはまた違った感じだった。ごく普通の人たちの中にたまに、それこそマンガやゲームから抜け出してきたような恰好の人たちがいる。

それでも、たまきにとってはまだ居心地がよかった。「おしゃれ」にくらべたらまだ「奇抜」の方が幾分かましである。

「メイドカフェいかがですか~」

やけにフリフリの格好をした女性がたまきに近づいて、声をかけた。おそらく、何かのお店の勧誘なのだろうけど、それにしても「冥土カフェ」とはどういう場所か、ちょっとだけ気になった。きっと、えらく陰気なカフェなのだろう。

大通りに出ると、よりいっそうアキハバラという街の特異性が見えてきた。

右も左もアニメやマンガ、ゲームの広告ばかり。オダイバにはあんなにあった洋服屋なんてほとんどなく、マンガのお店、ゲームのお店、家電のお店、何かよくわかんないお店と、いろんなお店が並んでいる。

もちろん、おしゃれ警察も、おしゃれ軍隊もいない。いや、おしゃれな人はいるのだ。だけど、「女子とはこうあるべきよ!」みたいな、圧力をそこに感じない、その意味では、たまきは幾分ラクだった。

ふと、目に入ったアニメの広告に目が留まる。主人公なのかヒロインなのか、美少女がでかでかと描かれていた。露出が大胆だが、奇抜なデザインの服を着ている。

「そのアニメ、好きなの?」

ミチが声をかけた。

「いや、別に……。ただ、私もこんな絵が描けたらな、って思って……」

亜美の似顔絵のように、実在する人物に似せて描いたことはある。だけど、アニメのキャラクターみたいに、実在しない人物を想像だけでデザインして描くということは、今までやったことがなかった。いつも描いているのも風景画ばっかりで、おまけに、実物にちっとも似やしない。存在しないものを描くなんて、よくよく考えると、すごいことじゃないか。

たまきはミチの方に視線を向けた。次にミチの視線の先にあるアニメ少女の方を見て、もう一回ミチの方を見た。

「……いやらしいところ、見てますよね」

「み、みてないし」

ミチは広告から目線をそらした。

 

二人は、アキハバラの街をしばらくうろついた。どこかのお店に入ることはなかったけれど、変わったお店が多くて、看板を見ているだけでも、まあまあおもしろい。

「お、このビル、3階にミリタリーショップあるって」

「みり……」

「バンドやってる先輩にミリオタがいてさぁ。サバゲーとかするんだって。」

「さば……え……なんですか?」

「こっちにはボドゲカフェあるってさ」

「ぼど毛……」

「知らない? ボドゲ。ボードゲームのことだよ。人生ゲームとか……」

「ああ……」

たまきは、わかったようなわからないような顔をした。

相変わらず、ミチが一方的にしゃべり、たまきがそれにハイとかマアみたいな返事をする。

そんな風にしながら町をまわっていろいろ見ていたが、ミチがふと、足を止めた。

「たまきちゃんさ……」

「なんですか?」

「……疲れてる?」

「……まあ」

図星だった。電車を降りてから、普段のたまきでは決して歩かないようなキョリを歩いているのだ。

「どっかお店入ろうか」

ミチは、周りを見渡した。二人はいま大通り沿いにいて、見渡せばいろんな看板が見える。飲食店も見えるが、多すぎてむしろ選べないぐらいだ。

その中の一角を、ミチは指さした。

「たまきちゃん、カラオケ行こうぜ」

「……え?」

ミチがさしていたのは、カラオケ屋だった。

「私、歌うのはちょっと……」

たまきの不安を察したのか、ミチが言葉をつづける。

「俺、勝手に歌ってるから、たまきちゃん、座ってゆっくりしてるといいよ」

たまきは、答えない。

「……こういうことできるの、たまきちゃんとだけだし」

「……と言いますと」

「いつもさ、俺の歌、隣で聞いてくれてるじゃん」

「……まあ」

「一人でカラオケ行ってもいいんだけどさ、やっぱ、聞いてくれる人がいる方が、楽しいし……」

たまきはしばらく黙っていたが、無言で頷いた。

 

宇宙船を彷彿とさせる近未来的なデザインのカラオケボックスの一室で、たまきは、ミチが歌うのをずっと聞いていた。人の歌を歌っている時のミチは、迷いがないのか、いつもよりものびのびとうたっているような気がする。

ロックバンドの歌から、ダンスナンバー、しっとりとしたバラード、ちょっとジャズっぽい曲、さらにはラップの曲と、ミチは色んな歌を知っていた。もともと男性にしては高いキーで歌うミチは、女性の曲も器用にこなしていた。

その横で、たまきはメロンソーダを飲みながら、歌うことなく座っていた。ミチがずっとマイクを握っている状態だけど、たまきは歌うつもりがなかったので、問題ない。

また「なんか感想とかないの」と聞かれたらどうしようと思ったけど、特にミチは何も聞いてこなかった。

一時間ほどたった時、たまきはメロンソーダのおかわりをもらうために、部屋を出た。

おかわりをもらって部屋に戻るとき、制服を着た女子高生数人とすれ違った。

これがウワサに聞く「高校の放課後でカラオケに行く」というやつか。

もし、たまきが普通に高校に通っていたら、そんな青春を送っていただろうか。学校に行けば友達ができる、なんて思えるのは、たまきにしてみればそれだけで幸運なことなのだ。

たまきは学校に通っていても友達はできなかった。

そして、学校に行けなくなった。

だけど、いまこうして、男の子とカラオケに来ている。

そう考えると、自分でも少しおかしかった。

たまきは、みんなが知っているようなキラキラした青春をしていないのかもしれない。

でも、みんなが知らない冒険をしている。

部屋のドアを開けると、ミチは歌わずに座っていた。

「歌わないんですか」

たまきが元居た席へ腰かけると、正面のテーブルの上に、マイクが置いてあった。

いくらたまきでも、それが何を意味するのかぐらいわかる。

「……歌わないって言いましたよね」

「あと三十分しかないんだし、一曲ぐらい歌ってよ」

そういうとミチは、少し身を乗り出した。

「亜美さんから聞いたぜ。けっこうかわいい歌い方するって」

またよけいなことを……。

カラオケに入力する機械をミチが手に取り、何やら操作した。たまきがマイクをもってどうしようかと迷っていると、いきなり音楽が流れ始めた。女性アイドルグループの歌だった。

「ちょっと……」

「だってこの曲、知ってるんでしょ」

昨日の夜、ミチが部屋で流した音楽で、確かに、とりあえず知ってる曲だった。

「でも、歌詞、知らないし……」

「いや、カラオケだから歌詞でるって」

たまきはじっとマイクを見つめていた。

「ほら、イントロ終わるよ」

ミチにそう促され、たまきはすうっと息を吸うと、マイクの電源をオンにした。

 

アキハバラの改札を抜け、シンジュクへと帰る電車のホームに二人はやって来た。人込みを避け、ホームの一番端っこで電車を待つ。あと数分でやってくるらしい。

「アキバってあんまきたことなかったけど、意外と楽しめたなぁ」

相変わらずミチは一方的に話しかけていた。

ふと、たまきの方を見ると、たまきは首を左に向け、ホームの先のさらにむこう側を見ていた。

西日が、ちょうどビルの中に吸い込まれて沈もうとしていた。

背負っていたリュックを体の前に持ってきていて、リュックの袋口に手をかけていた。

「夕日、めっちゃキレイじゃん」

「……はい」

「……もしかして、絵に描きたいとか思ってる?」

たまきは答えなかった。

「……俺のわがままに付き合ってもらったんだし、いいよ。描いたら?」

「……でも、時間かかりますし、もう電車来ちゃいますし、……いいです」

そういってたまきは、リュックを背負いなおした。

ふと、音がしたのでミチの方を見ると、ミチが携帯電話のカメラを構えて、西日の写真を撮っていた。

「じゃ、あとでこの写真見て描けばいいじゃん」

ミチはたまきに携帯電話の画像を見せた。眼前の光景が、小さなモニターの中に刻み込まれていた。

たまきは、何かを言いたそうに、ミチの方を見た。

「……どしたん?」

「……べつに」

ちょうど、電車がやって来た。

 

帰宅ラッシュの時間、それもシンジュク行きとあって混むのを覚悟していたが、幸運にも二人並んで座ることができた。

さすがに疲れたのか、電車に乗ってからはミチは黙っていた。

ふと、右肩に暖かな重みを感じた。

隣に座るたまきが、疲れて眠ってしまい、その頭がミチの肩に触れていた。

「なんだよ……」

いつもは、近寄りもしないくせに。

 

画像はイメージです

シンジュクの改札を抜けると、時刻はもう六時を回っていた。駅前の広場を、大勢の人が行きかう。

ミチはここで、私鉄に乗り換える。

「じゃあ、私、帰ります」

少し眠ってちょっとだけ元気になったのか、たまきの声に少し張りが戻ったようだった。

「じゃ、またね」

そういってミチは片手を上げた。

「その、いろいろとお世話になりました」

「ごめんね。いろいろ連れまわしちゃって」

「いえ……私……その……」

たまきはミチから視線をそらした。

「……楽しかったですよ」

「そ、そう。ならいいけど……」

「その……」

たまきは、少しためらいがちに、ミチの目を見た。

「……ありがと」

そういうとたまきは、回れ右をして、少し小走りに、雑踏の中へと消えていった。

ミチはその様子を見送り、ひとり呟いた。

「……ずるくね?」

 

「……絶対おかしい!」

志保は時計を見るなり、そういった。

「六時に帰ってくる、って話なのに、たまきちゃん、まだ帰ってこないなんて、絶対おかしいよ」

「いや、まだ六時十分じゃねぇか」

ソファの上に寝そべった亜美が、飽きれたように言った。

もう二人とも『城』に帰ってきている。ビルのオーナーが大阪に帰ったことも、ビデオ屋の店長に確認済みだ。

「だって、今までたまきちゃんが待ち合わせに遅れたことなんて、なかったよ?」

「いや、それ、あいつ最初から待ち合わせ場所にいて、一歩も動いてないってだけじゃね?」

亜美は夕飯代わりのフライドポテトをつまみながら答える。

「そもそもさ、たまきは時計もケータイも持ってないんだぜ。そのたまきが時間ぴったりに帰ってくる方がむしろおかしいだろ」

「やっぱり、ミチ君と何かあったんじゃ……」

「ひょっとしたら、もう一泊するとかあるかもしれねぇな」

その時、入り口のドアが開いた。

「ただいまです……」

「お、おかえりー」

たまきが靴を脱ごうとすると、志保が駆け寄ってきた。

「大丈夫だった、たまきちゃん? ひどいことされなかった?」

「おい、正直に言えよ。どこまでヤッた?」

たまきは、疲れたようにため息をついた。

「志保さんが心配するようなことも、亜美さんが期待するようなことも、別になかったですよ」

「そう……ならいいけど」

「なんだ、つまんねぇな」

「ただ……」

そういうと、たまきはソファの上に寝転がった。

「私の人生にも、こういうことって起こるんですね」

「え?」

亜美と志保はたまきの顔を覗き見たが、たまきはすでに、まるで電池が切れたかのように眠りに落ちていた。

「え、なに? どういう意味?」

「おい! ×××ぐらいはやったんだよな?」

二人の声を子守唄代わりに、たまきは夢の中へと落ちていった。

つづく


次回 第36話「ナワバリ、ところによりラクガキ」

街中で落書きを見つけた三人。「ウチらのナワバリで勝手なことしやがって。と憤る亜美に対し、たまきはその落書きに妙に魅かれて……。

つづきはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

 

小説 あしたてんきになぁれ 第34話「モノレールのちブレスレット」

ケンカしたり仲直りしたりのお泊りの翌日、ミチはたまきを外に連れ出すことに。二人でお出かけ、と言ってもミチとたまきの場合は……。あしなれ第34話、お待たせしました!


第33話「柿の実、のち月」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


目覚めると、朝だった。

ミチは昨日の買い物で、朝ごはん用に菓子パンを二つ買っておいた。二人でそれをモチャモチャと食べる。

ミチもたまきも、何もしゃべらない。

朝、目が覚めた時、たまきはふとんを独り占めして寝ていた。ゆうべ、たしかにたまきは、ミチにもふとんがかかるようにとふとんを横にしたのに。

そして、ミチはとっくに起きていて、テレビを見ていた。

つまり、ミチはたまきより早く起きて、またふとんの位置を変えたということである。

ということは、たまきが夜中にふとんの位置を変えたことにミチは気づいたはずだ、ということであり、さらに突っ込んでいえば、「ミチが自分のふとんをたまきに使わせて、自分は腹を出して寝ていたことに、たまきが気づいた」ということに気づいたはずなのだ。

そのことに関して、ミチは何も言わないし、たまきも何も言わない。

男子というのは、女子に柿の実をぶつけて痛がるのを喜ぶような野蛮なサルであり、その中でもミチというサルは、優しくパスを出したつもりで思い切り柿の実をぶつけてくるような奴である。力のさじ加減がわからないようなヤツなのだ。

だからこそ、稀に、そして、急に、やさしく柿の実をパスされると、どうしたらいいのかわからず、困る。

ただでさえおしゃべりが苦手なうえに、こんな時に相手にかける言葉なんてたまきは持ち合わせていないのだ。

むしろ、ミチが何も言わないのは、不自然じゃないか。いつも、大した用もないのに話しかけてくるくせに。「俺がふとんかけてあげたこと気づいた?」って自分から自慢したっておかしくないくらいだ。

なのに、どうして、今朝に限って黙っているんだろう。

たまきはミチの方に目をやった。ミチは二つ目のコロッケパンの袋を開けていた。

「その……」

たまきは、パンの袋をくしゃりと潰しながら言葉をつづけた。

「……なんかないんですか?」

「……なんかって?」

ミチは怪訝な顔をした。

「あ、パン二個じゃ足りなかった?」

「……いえ……別に……」

これ以上考えるとおなかが痛くなるので、たまきは考えるのをやめた。きっとふとんが勝手に動いたんだ。そうにちがいない。「ミチがこっそりふとんをかけてくれた」と考えるより、まだこっちの方が現実的だ。

「それでさ、たまきちゃんはこの後、どうするの?」

「えっと、夕方の六時に『城』に集合、って約束になってます」

「六時まで、どうしてるの?」

今は朝の八時だ。

「えっと……いつもの公園に行って、絵を描いたり、ぼうっとしてたりしようかなと……」

「十時間も?」

「はい」

たまきは、特に深く考えずに返事をしたが、しばらくしてミチの顔を見て、

「……ヘンですか?」

と聞き返した。

「さすがに十時間はおかしいって。そんなに長く公園にいたら、補導されちゃうんじゃないの?」

「……たしかに」

たまきとしてみれば、公園で十時間ぼうっとしてるくらい、たいしたことないのだけれど、フツウの人が見れば、子供が公園で十時間もぼうっとしてたら、やっぱり警察を呼びたくもなるのだろう。社会的にはたまきは、家出中の不良少女なのだ。不良と言っても家出してぼうっとしてるだけなのだけど。

太田ビルの屋上でぼうっとするのはどうだろうか。だけど、万が一、オーナーが屋上にやってきたら面倒だ。たまきみたいな子が屋上でぼうっとしてたら、それこそ、思い詰めて飛び降りようとしているようにしか見えないだろう。

誰にも迷惑をかけずに、ただぼうっとしていたいだけなのに、それすらできないなんて、なんて理不尽な世の中なんだろう。

それにしても困った。困った、困った。これから十時間、どこでぼうっとしたらいいんだろう。

そんなことを考えながら、食べかけのパンをじっと見ていたたまきだったが、そこにミチが口を開いた。

「特に予定ないならさ、今日一日、付き合ってよ。ちょうど行きたい場所があって」

「ほへ?」

不意の申し出に、たまきはパンを落としそうになった。

「予定、ないんでしょ?」

「ないですけど……なんで……わ……」

そう言って、たまきは口を閉じた。しばし、沈黙が流れる。

「……ムリです」

「無理って何が? 俺と一緒に行くのが?」

「あ、そういうんじゃなくて……」

たまきはそういうと再び黙り込んだ。それから、ごくりとつばを飲み込んだ。

「……行きたい場所って、どこですか?」

「オダイバのモール」

だからそれはどこだ、と聞こうとしたけど、やめた。

「……一人で行けばいいじゃないですか」

「いや、一人じゃいけない場所なんだよ」

そんな場所などあるのだろうか。二人で石の上に手を置いて呪文を唱えないと開かないとか、そんな場所なのだろうか。

さっぱり気が進まないが、どうせ他に行く場所もないし、何より、一晩お世話になったんだから、ここは多少気が進まなくても、ミチのいうことを聞くべきなのではないか。

「……じゃあ……行きます」

「よし、行こう」

そういうことになった。

 

写真はイメージです

お昼近くになってから、二人はミチの家を出た。

電車に乗って、東京の東の方に向かうにつれて、たまきは不安になってきた。東京の東側にはいい思い出がない。「オダイバノモール」という所もきっと、おしゃれ警察どころかおしゃれ軍隊が跋扈するような、恐ろしい場所に違いない。

電車の中では、ミチがずっと話しかけてきて、たまきはただただ曖昧な返事をするだけだった。ゆうべもずっと一緒にいたのに、よくもまだ話すネタがあるもんだ、と妙に感心した。

やがて、モノレールの始発駅にやって来た。ここで乗り換えのようだ。

たまきは、モノレールに乗るのは始めてだ。正直、電車との違いがよくわからない。電車はレールが二本で、モノレールは一本だ、なんて話を聞いたことがあるけど、だからなんだというのだろう。

乗り換えで移動している時も、ホームでモノレールを待っている時も、ミチはずっと話しかけてきた。この男が、今朝に限って何も言わずにパンを食べていたことが、本当に不思議でならない。

モノレールがやって来た。モノレールの中は電車に比べると、どことなく未来っぽい。二人は、窓側の席に並んで腰を下ろした。

ドアが閉まり、モノレールは静かに動き出す。ガタンゴトンいわないのも、未来って感じだ。

たまきは、ミチが座っている方とは反対側、モノレールの進行方向に首をねじって、窓の外を見ていた。ミチにはたまきの後頭部が見えているはずなのだけど、かまわずに彼はしゃべり続けている。もしかして、たまきの背後霊にでも話してるんじゃないか、とちょっと不安になった。

モノレールはホームを抜けて、東京の街中へと滑り出す。

窓から見える景色は、たまきが今まで見たことのないものだった。

地面よりも高いところを、モノレールは走っていく。周囲には、さらに高いビルばかり。まるで森の木々の間を飛ぶ鳥のように、モノレールは高層ビルの立ち並ぶ東京を滑走していく。

そう、モノレールから見える景色は、まるで空を飛んでいるかのようだった。「モノレール」なんだから、レールの上を走っているはずなんだけど、窓から見える景色は、「空を飛ぶ不思議な乗り物」のそれだった。ガタンゴトンという音すら聞こえないので、本当にレールの上を走っているのか、疑いたくなる。

飛行機から見える景色というのもこんな感じだろうか。いや、飛行機はこんな低空を、それもビルとビルの間を縫うように飛ぶことなんてできない。

音のない乗り物に乗って、ビルとビルの間を縫うように飛ぶ不思議な乗り物。まるで自分が、鳥か幽霊にでもなったかのようで、たまきにはとても新鮮だった。

やがて、ビルやマンションが立ち並ぶエリアから、物流倉庫が目立つエリアへと入っていった。と同時に、倉庫の後ろには海が広がっているのがわかる。たまきにとって、海を目にするのは久しぶりだった。

さらに進むと、大きな橋が現れる。橋は海の上を渡り、対岸の島へと続いている。島にはこれまた未来っぽい建物。たしか、どこかのテレビ局だったはずだ。

この時、たまきは初めて、ミチが言っていた「オダイバノモール」が「オダイバのなにか」であることに気づいた。

 

写真はイメージです

 

もちろん、たまきがオダイバに来るのは初めてだ。

駅の外に出て振り返ると、高いところにあるレールの上を、モノレールが走っている。なんだか、枝の上をもにょもにょ動くイモムシみたいだった。

オダイバのことなんて、ほとんど知らない。海の上にあるということと、テレビ局があるということぐらいだ。

「オダイバはね、昔、大砲が置かれた場所なんだって。だから『オダイバ』っていうらしいよ」

と、ミチが携帯電話の画面を見ながら言った。なんのことはない。こいつも調べながら話しているだけだ。そうまでしても、おしゃべりのネタが欲しいのだろうか。

オダイバは島のはずなんだけど、ぜんぜん島にいるという感じがしない。道路の上は何かの宣伝カーがワンワンとけたたましく通り過ぎ、おしゃれな人たちが歩道の上を行きかう。周りを見渡すと、どこか直線的で、近未来っぽい無機質なビルが見えた。きっと、ここが「おしゃれ軍隊」の基地に違いない。

ほかには、どこかのお店のロゴマークを多く連ねる巨大な建物がある。ロゴマークも、シンジュクの居酒屋のような主張の強いものではなく、スタイリッシュなものばかり。ビル、というよりは、横に長い。こっちはきっとおしゃれ要塞に違いない。

そうだ、オダイバには大砲がある、とミチが言っていたではないか。きっとたまきみたいな子は、このおしゃれ要塞から大砲を撃たれて死んでしまうのだ。いかに死にたがりのたまきと言えど、「おしゃれ軍隊に殺される」は、「絶対にイヤな死に方ランキング」のトップを狙えるだろう。

ところが、こともあろうにミチはそのおしゃれ要塞に向かって歩き出したのだ。

しばらく歩いてから、たまきがついてこないことに気づいたミチは、立ち止まった。

「どうしたの、たまきちゃん。こっちだよ?」

「その……行きたかった場所というのは……」

「ここだよ。オダイバのモール」

きらびやかなモールに、若者たちが次々と吸い込まれていくのを尻目に、まるでそこに張り付いた貝のように、たまきは動こうとしない。それが、ミチには奇妙に映る。

「どうしたの? 行こうよ」

「……一人で行けばよかったじゃないですか。なんで、二人じゃないといけないんですか……?」

「え、だって、一人で入るのは、なんかイタいじゃん?」

ああ、やっぱり。

場違いな人間が入ってきたら、即座におしゃれ軍隊に囲まれて銃弾の雨を浴びせられ、ハチノスにされてしまうのだろう。さぞかし痛いに違いない。

それならば、たまきみたいな子は、やっぱり入ってはいけない場所じゃないか。たまきみたいな子は一人で入ろうが二人で入ろうが、たとえ団体ツアーでやって来たって、銃殺されるに決まってる。

「ほら、せっかく来たんだから、行くよ」

そういうと、ミチは先に進んでしまった。

おしゃれ要塞の中に入っていくのは嫌だけど、おしゃれ要塞を目の前にして、一人でポツンと待っているのは、心細すぎる。そうだ、シブヤのスクランブル交差点で一人、亜美と志保を待っていた時も、心細かった。あそこだって、おしゃれ戦場ヶ原だったじゃないか。

たまきは意を決して、深くため息をつくと、ミチの後についていった。

 

写真はイメージです

服屋。チョコ屋。服屋。服屋。靴屋。

かばん屋。メガネ屋。服屋。なんかよくわかんない店。

おしゃれ要塞の中は、シブヤで入ったおしゃれ摩天楼によく似ていた。

たまきにとってはなじみ深いメガネ屋ですら、SF映画に出てきそうなつくりだ。たまきみたいに地味メガネの子が入ったら、ビームの出る剣で斬られてしまうに違いない。

だいたいどうしてこんなに服屋さんばっかりなんだろう。シブヤも、シンジュクも、ギンザも、どこへ行っても服、服、服である。服なんてめったやたらには破れたりしないんだから、服屋さんなんて何個もなくたっていいじゃないか。

かばん屋さんもやたらに目立つ。驚いたことに、かばん屋さんの正面に、別のかばん屋さんがあるのだ。ケンカとかにならないのだろうか。

たまきはミチの後ろをとぼとぼとついていく。すれ違う他の若者たちとのおしゃれ勝負にすっかり負けている気がするので、たまきは下を向きながら歩いた。

ミチの靴が見える。たまきの前を歩いている。

ミチの靴を視界の端にとらえながら、たまきは床のタイルを見ていた。

普段はこういうお店に入らないし、入ったとしても床のタイルなんて気にしたことなかったけど、注意して見てみると、意外と模様が色とりどりで面白い。幾何学的な規則にのっとって図形が描かれていたり、不規則に線が走っていたりで、思ったより飽きない。

それでいて、商業施設の床のタイルってやつは、主張しすぎない。それはそうだろう。お店の主役はなんていっても商品なのだ。床のタイルの方が目立ってはいけない。あくまでも、背景でなくてはいけない。

ところが、改めて床のタイルを見てみると、意外と美しいのである。デザインした人間のこだわりと、それでいて目立ち過ぎてはいけないのだという美学を感じる。床のタイル専門の美術館があったっていいくらいだ。

区画ごとに変化していくタイルを目で追っていると、不意に、たまきは何かにぶつかった。

顔を上げてみると、すぐそばにミチがいて、たまきの方を向いている。どうやら、立ち止まったミチに気づかずに、ぶつかってしまったみたいだ。

「ご、ごめんなさい」

「たまきちゃんさ、どうしてとなり歩かないの?」

「……?」

そんなこと言ったって、たまきは行き先もわからず、ミチについてきただけなのだから、ミチの後ろを歩くに決まっているじゃないか。

「となり歩かないと、恋人感が出ないだろ?」

相変わらずこの男は、言ってることがわからない。

「私……、ミチ君の恋人じゃないです」

「いや、そうだけどさ……、ほら、せっかく来たんだし……」

そういうと、ミチはまわりをきょろきょろと見渡す。

「ほら、この店、カップル率高いしさ……。せっかく二人で来たんだしさ、カップルっぽく見えた方が、恥ずかしくなくない?」

「……私は、ミチ君とカップルに見られることの方が、恥ずかしいんですけど」

「いや、でもそれじゃ、なんのためにたまきちゃん連れてきたのか……」

たまきは、半歩、ミチに近づいた。

「なんのために私を連れてきたんですか?」

「え、いや、それは、……たまきちゃんに楽しんでもらおうと……」

「……じゃあ、私のことは、ほっといてください」

そういうと、たまきは、半歩、ミチから離れた。

 

ミチが行きたかったという靴屋に二人は立ち寄った。

あれこれ靴を選ぶミチを、たまきはちょっと離れたところから見ている。

限定のスニーカーがどうのこうのと言っていたが、だいたいどうして、靴なんて欲しいのだろう。靴なら今、履いてるじゃないか。今ある靴の何が不満だというのだろう。

「このモデル、欲しかったんだよねぇ。でも、色で迷っちゃってさ」

買ったばかりの靴の入った紙袋をぶら下げながら、ミチが言う。

靴を履いているのに新しく靴を買うのも不可解だけど、靴を買うためにわざわざオダイバに来るのも意味が分からない。靴屋だったらシンジュクに大きなお店があることぐらい、たまきも知っている。どうして、わざわざオダイバなんだろうか。

「たまきちゃんはさ、なんかほしいものないの?」

前を歩くミチが、たまきの方を振り向きながら言った。

「……特には」

「せっかく来たんだから、なんか買ってあげるよ」

欲しいものなんてない、と言ったのに、どうして「買え」というのだろうか。

そういえば、さっき、大きな本屋さんを見かけた。たまきには興味のない服屋さんばっかりの場所だからか、いつもよりも本屋さんに立ち寄りたいような気がしてくる。

「あの、じゃあ、さっき見かけた本屋さんに……」

「本屋さん? そんなの、どこにでもあるじゃん。そうだ、なんかアクセサリーとか買ってあげるよ」

どうしてこの男は、たまきが欲しいものを勝手に決めるのか。

 

ミチとたまきが訪れたテナントは、アクセサリーをはじめとする小物を売る雑貨店だった。アクセサリーと言っても、宝石をあしらったような高額なものではない。髪飾りとか、ブレスレットとか、数百円か、高くても数千円で買えるような安価なものがそろっている。

「なんかほしいものないの?」

とミチは言うが、とくにはない。

たまきはとりあえず、店の中をうろうろしては見たものの、別にこれと言ってほしいものはなかった。

耳につけるタイプのアクセサリーをぼんやりと眺めていた時だった。

「なにかお探しでしょうか~」

とつぜん背後から声をかけられ、たまきはビクッとなって振り返った。

女性の店員さんがニコニコしながら立っている。おしゃれ戦闘力は明らかに高い。

「イヤーアクセサリーをお探しですか~」

え、えっと、それ、私に話しかけてます?

見れば、店員さんはまっすぐたまきの方を見ている。たまきに話しかけているのだ。

「こちら、今月入荷の新作でして、お客様の髪型でしたらこの辺りのカラーがオススメでして……」

「あ、あの、じ、自分で探すんで、だだだ、だいじょうぶです」

たまきは、殺虫剤でもかけられたかのようにその場を離れた。

黙って買い物させてくれればいいのに、どうして話しかけてくるんだろう。

同じ売り場の、別の場所で、さてどうしたもんかと佇むたまき。

すると背後から

「お客様、なにかお探しでしょうか~」

「ふぁっ!」

まるでお化け屋敷にいるかのような声を出して、たまきは振り返った。

見ると、そこにはさっきとは違う女性店員が、やっぱりニコニコ微笑みながら立っていた。

「こちら、今月入荷の新作になってまして~」

そ、それはさっき、聞きました。

「どういったものをお探しですか~」

「ま、ま、まみむめ……」

もうだめだ。ころされる。

たまきが何かに絶望しかけた時、横からミチが現れた。

「あ、あの今っすね、この子ににあうアクセサリー探してるんっすよ」

そういってミチはたまきの肩に手を置いた。

たまきは身をよじってミチから離れる。

「だから、私は別にいらないって言ってるじゃないですか。ミチ君が勝手に買わせようとしてるだけです」

「でも、アクセサリーつけたら、女子力上がるよ」

「……別にいいです」

「えー、女子力あげて、もっとかわいくなった方がいいと思わない?」

ミチは店員の方を見ると、

「ブレスレットなんてどうっすかね。頭じゃなくて腕とかにつけるようなやつだったら、恥ずかしがりの子でもつけやすいと思うんすよ」

「それでしたら~、こちらの商品などは、色あえいが控えめですので、シャイな方にも良いかと……」

「わ、私、別に恥ずかしいわけじゃありません。ほんとにいらないんです……」

「いいじゃんいいじゃん、買ってあげるって言ってるんだから。じゃあ、これひとつください」

そういうとミチは、緑色の千円そこらのブレスレットをレジに持って行った。

「だから、いらないって言ってるのに……」

というたまきを横目に、レジでミチは財布を開く。

「プレゼントですか~」

店員さんがバーコード片手に尋ねてきた。

「まあ、そういうことになるんすかね。ハハハ」

「後輩さんにプレゼントなんて、素敵な先輩さんですね~」

「センパイ……」

ミチはなぜか、ちょっとがっかりした表情を見せた。

 

二人は、商業施設の中にあるカフェでお昼ご飯を食べることにした。

ご飯をあらまし食べ終え、たまきは残ったアイスカフェラテを飲んでいる。

たまきは買ってもらったブレスレットを手にしていたが、身につけずに、リュックの中にしまった。

「つけないの、それ? せっかくなんだから、つけなよ」

「……いらないって何度も言いましたよね」

そういうとたまきは、アイスカフェラテのストローに口をつけた。

コップの中にはブクブクと茶色い泡が立っては消える。

ミチはそんなたまきを、何か不満げに見ていた。

「……たまきちゃんさ」

「なんですか」

「敬語、やめてみない?」

ミチは、左手で頬杖しながら話し始めた。

「俺らさ、出会ってもうそこそこ経つわけじゃん。昨日から、ずっと一緒にいるわけだし。それに年だって一個しか違わないんだしさ、もうそんな気を使わなくていいっつーか、もっとラクにしていいと思うんだ。亜美さんや志保ちゃんにも敬語なんでしょ? 一緒に暮らしててさ、疲れるでしょ。だからさ、敬語やめてさ、タメで話してみない?」

そういってミチはたまきの反応を見た。いいこと言うもんだと感心しているか、驚いているか、はたまた、照れくさそうにしているのか。

だから、ミチの「タメ口提案」に、たまきが心底嫌そうな顔をしているとは、全くの予想外だった。

たまきは、すごくイヤそうにミチの方を見た後、何も言わずにストローに口をつけた。

「……えっと、タメ口でいいんじゃない、って話んなんだけど……」

「……どうしてそんなこと言うんですか?」

え、えっと、オレ、なんかマズいこと言いました?

「私はこういうしゃべり方がいちばん楽だから、そうしてるんです。なのに敬語をやめてため口で話せとか、なんでそんなひどいことを言うんですか?」

「ひ、ひどくはないでしょ? 俺は別に、たまきちゃんもタメ口で話した方がラクかなって思って……」

「だから、私は今の話し方のほうが、楽なんです。なのに、私が気を使ってるとか、疲れてるとか、なんで勝手に決めつけるんですか? おかしいですよね? おかしくないですか?」

え、オレ、怒られてるの、これ?

「でもさ、俺ら、ほらさ、一夜を共にした仲じゃん」

「ヘンな言い方しないでください。たまたま一緒にいただけです」

そういうとたまきは、ふうっとため息をついた。

「むしろ、私の心に土足で入ってこようとするミチ君こそ、ため口やめて敬語で話すべきです」

……解せぬ。

たまきはストローに口をつける。ブクブクと泡が湧いては消える。なんだか、この場の空気に出したくはない感情を、アイスカフェラテの中に閉じ込めているかのようだ。

「……ミチ君は」

たまきは、ミチの目を見ずに切りだした。

「ほんとは海乃って人と、ここに来たかったんじゃないですか?」

カフェのテラス席への入り口を誰かが開けた。少し冷たい海風が一瞬、店内に入ってきた。

「……あの人の代わりに私をここに連れてきたんですよね」

ミチは何も言わず、目をそらした。

「……なんとなくですけど」

そういうと、たまきはアイスカフェラテを飲み干した。

「……わかりました。いいですよ」

「……えっと、いいっていうのは?」

「今日一日、あの人の代わりをしてもいい、ってことです」

「え?」

きょとんとするミチにたまきは

「そろそろ行きません?」

とミチを促して立ち上がった。

ミチが会計を済ませてカフェを出ると、たまきがその横に立った。

「えっと、横に並んで歩けばいいんですか?」

「え、あ、うん」

「『それだけ』ですからね。それと……」

たまきはリュックの中から、先程しまったブレスレットを取り出すと腕につけた。

「……敬語をやめればいいん……だよね?」

 

つづく


次回 第35話「ねこのちネコ、ところにより猫」

第35話目にして、「タメ口たまき」、爆誕!つづきはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

「あしなれ」第34話のアップが大いに遅れてる言い訳

お待たせしております。

お待たせしすぎているかもしれません。

えー、小説「あしたてんきになぁれ」の第33話をアップしたのが去年の9月。

第34話の公開予定としていたのが12月。

……今、3月です。

つまり、「あしなれ」が中途半端なところで止まったまま、半年たってしまった、と言うわけです。まったく、ふざけてんじゃないよ。

原因は二つありまして。

まず一つは、純粋に書くのに手間取った、ということです。

なにせ、第34話の初稿の段階で2万字を越えてまして。

さすがに長すぎる、ということで、原稿を半分に折りまして、「第34話」の予定だったものを、第34話と第35話に分けて掲載することにした、ってくらい長くなってしまったのです。

ハリポタが4巻目あたりから上下巻に分かれてるようなものです。

そして、もう一つの理由が新型コロナです。

第34話はこれまで「あしなれ」では出てきてない町が舞台なんです。移動距離だけだったら、今までで一番遠いです。

ところが、年明けからのオミクロン株の流行で、その町に僕が行くチャンスがなかなかなかったんですね。

ロケハンもしたいし、写真も撮りたいのに。

まあ、過去に何度か行ったことのある街だったんで、記憶とネットを頼りに原稿を書き上げたんですが、

やっぱり、ロケハンしたいし、写真も撮りたい。で、アップするのをちょっと待ってたんです。

で、感染が少しだけ落ち着いてきて、「いくらオミクロンと言えど、何も電車に乗っちゃいかんということはないんじゃないか。別にお台場でパーティするわけじゃないんやで。一人で写真撮ってくるだけやで」ということで、先日、その街に行ってきたんですね。

正直、「もうロケハンとかしないでアップしちゃっていんじゃね?」と頭をよぎったことがあったのですが、

行ってみて気づきました。「ロケハン、大事」。

「ああ、ここからはこんな風に見えるんだ」

「あれ、こことここ、意外と近いぞ」

「ああ、実際にはこんな風に見えるんだ」

「あれ、ここ、思ったより活気ない……」

「ああ、このシーン、必要だな」

というわけで、無事にロケハンと写真撮影を終えたので、3月15日に「あしたてんきになぁれ」第34話「モノレール、のちブレスレット」を公開します! そうです! 舞台はモノレールが走ってるあの街です!

小説「あしたてんきになぁれ」 第33話「柿の実、のち月」

「城」を1日だけ追い出されることになったたまき。泊まるところを探して街をさまよいあるいった挙句、たどり着いたのはミチの家だった。だけど、ミチの家にはお姉さんがおらず、たまきはミチと二人っきりで夜を過ごすことに。その行く末はラブロマンス化、それとも……。あしなれ第33話、スタート!


「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち

第32話「風吹けば、住所録」


ここは志保が通う施設のシェアハウス。女性専用で、定員は6人。現在は4人の女性がここで暮らしている。

『城』が使えない間、志保は一晩ここに泊めてもらうことになっている。施設には「自宅で家族と暮らしている」という設定にしているので、「今夜だけ家族がいない」と言えば、あっさりと宿泊許可が下りた。

その日の夕飯は、ちょっとしたパーティになった。志保ともう一人、普段ここにはいない人間が泊まりに来たからだ。

「カンザキさん、洗い物、手伝おっか?」

志保がキッチンで洗い物をしていると、もう一人の珍客、トクラが声をかけてきた。

「いえ、もうあとちょっとなんで」

普段は実家に住んでいるはずのトクラがここにいるのも、志保と全く同じ「今夜一晩、家族が家にいない」が理由だった。

トクラがそういった時、志保はどこか「ウソくさい」と思ってしまった。だが、よくよく考えれば、ウソくさいのは志保の方ではないか。人は自分が言われたくないことを、他人に投げかけてしまうという。

ふと、志保の携帯電話が鳴った。確認すると、相手は「公衆電話」と表示されている。

普段なら公衆電話からだなんていぶかしむ志保だが、たまきからの電話だとすぐにわかった。たまきは携帯電話を持っていないし、泊まる場所が見つかったら電話するという約束だったのだ。

洗い物はまだ途中だったが、志保は水道を止め、濡れた手をササっと拭くと、流し場を離れて電話を出た。

「もしもし?」

相手はすぐにしゃべらない。聞こえてくるのはそばを通る車の音と、やけに強い風の音。そして、かぼそい息遣い。それだけで志保は誰だかすぐわかった。

「たまきちゃん?」

「あ、あの……」

声と、しゃべり出しからして、間違いなくたまき本人だ。

「志保さん……こんばんは……」

一緒に暮らしていて、さっきも会ったはずなのに、律儀なあいさつから入るところが、いかにもたまきである。

志保は何も言わず、たまきがしゃべり出すのを待った。要件はわかっている。泊まる場所が見つかったか、どうしても見つからないかの、どっちかだ。すくなくとも、緊急事態ではない。以前、本当に緊急事態に電話をくれた時は、もっと慌てていた。

「泊まる場所が……決まりました……」

「そう、よかった。どこ?」

「……ミチ君の家です」

「……え?」

これは、緊急事態だ。

「ミチ君の家って……ミチ君って、ご家族と一緒なんだっけ?」

「お姉さんがいるんですけど……きょうはいなくて……」

「え、じゃあ、ミチ君とたまきちゃんの二人きり……?」

「はい……」

たまきは、志保の不安を察したらしい。

「あ、でも、たぶん大丈夫なの……」

「ダメだよたまきちゃん!」

志保はあたりを気にせずに大声を出した。大声を出してから、口の横に手を当てて、声を潜める。

「いい、たまきちゃん? ミチ君は男の子で、たまきちゃんは女の子なんだよ?」

「……知ってます」

「ダメダメ! 危ないって!」

「でも……」

受話器の向こうから再び、風の音が聞こえた。

「風も強いですし……」

言っている意味がよくわからない。風が強いからなんだというのだ。

「たまきちゃん、やっぱり、こっち来なよ。遠慮なんてしなくていいから!」

シェアハウスは実はもう定員オーバーなのだが、今の志保の頭からはもうそのことがすっぽ抜けている。いや、覚えていたとしても、トクラを追い出せばいい話だ。

「いえ……大丈夫……だと思います」

たまきは自信なさげに言った。

「それじゃ……」

「ちょっと待って、たま……」

電話が切れた。

志保は折り返し電話をかけようとしたが、相手が公衆電話ではどうにもならない。

今からミチの家に行って、たまきを引っ張り出そうとも思ったが、残念ながら志保はミチの家を知らない。

「どうしたの、カンザキさん? なんかトラブ……」

トクラの問いかけも耳に入っていないのか、志保はどこかへと電話をかけ始めた。

「……残り、やっとくか」

トクラは流しの方を見て、そうつぶやいた。

 

志保が電話をかけた相手は、亜美だった。

亜美が電話に出る。受話器の向こうはなにやら騒がしく、どうやら、どこかの店にいるらしい。

「はいはーい。どした? シェアハウス、ガス爆発で吹っ飛んだとか?」

「冗談言ってる場合じゃないよ、亜美ちゃん! たいへんだよ! たまきちゃんが、……たまきちゃんが!」

 

たまきは公衆電話の受話器を下ろした。

スナック「そのあと」の隣の隣にあるタバコ屋に、公衆電話が置かれていた。たまきはそれを使って志保に電話したのだ。

たまきが泊まることになって、ミチは

「片づけるから! 5分! 5分だけ外にいて!」

とたまきを部屋の外に出した。たまきも志保に電話をする約束だったので、公衆電話を探して志保に連絡を取ったわけだ。

案の定、志保は驚いていた。そりゃそうだろう。たまき本人だって、こうなってしまったことに内心驚いているのだから。

やっぱり、志保のいるシェアハウスに泊めてもらった方が、志保も安心するだろうし、なにより一番安全なんじゃないか。受話器を置いた直後のたまきはそんなことも考えたが、直後に、行く手を阻む壁のように強烈な風が吹いた。

たまきは軽く身震いすると、スナック『そのあと』の脇にある階段を上って、ミチの部屋へと向かった。

スナックの2階はアパートになっている。屋内に廊下があって、木製のドアが三つ並んでいる。階段から見て一番手前がミチのお姉ちゃんの部屋。真ん中のポスターが貼っていあるのがミチの部屋だ。一番奥の部屋は、空き部屋になっているらしい。

たまきが廊下でぼんやりと待っていると、ドアを開けてミチが顔を出した。

「片づけ、終わったよ。どうぞ~」

「……お邪魔します」

部屋に入って、靴を脱いで、部屋の中を見て、それから、たまきは立ち尽くした。

万年床の布団は丸めて壁際に追いやられている。床の上に散らばっていた衣服も、丸めて壁際へ。テーブルの上に目をやると、卓上カレンダーは、水着のお姉さんの部分が伏せておかれていた。食べ終わった容器はゴミ袋に入っているが、問題はそのゴミ袋がそのままテーブルの上に乗っている点だ。

この男は、これを「片づけ」と呼ぶのか。そもそも、これは5分もかかる作業なのだろうか。

たまきはテーブルの脇に、ちょこんと正座した。ミチも少し離れたところに腰を下ろす。

そのまま、会話もなく3分が過ぎた。

「……夕飯、どうしよっか?」

ミチがたまきの方を見ることなく言う。

「そうだ!」

そう言ってミチが、たまきの方を見た。

「せっかくだから、夕飯、たまきちゃんが作ってよ」

「え? 私が……ですか……」

たまきもミチの方を見る。

「私、料理できませんけど……」

「え? そうなの? 女の子なのに?」

ミチの言い方に、たまきはなんだかカチンときた。

「……女の子は料理できないといけないんですか?」

「え? いや、いけないってわけじゃないけど、でも、女の子だったら……」

「でも、料理が好きとか嫌いとか、できるとかできないとか、そんなの、人それぞれじゃないですか。男の人は料理得意な人も苦手な人もそれぞれいますよね。だったら、女の人にも得意な人と苦手な人がいるのは、当たり前ですよね。なのに、女の子だから料理できて当たり前みたいに言うの、おかしいですよね? おかしくないですか?」

「お、おっしゃる通りで……」

ミチはバツの悪そうに、たまきから視線を外した。

 

志保からことの顛末を聞いた亜美は、大笑いした。

「マジかよ。やるなぁ、あいつ」

「笑い事じゃないよ亜美ちゃん! ミチ君は男の子で、たまきちゃんは女の子なんだよ?」

「いや、知ってるって、それくらい」

「もしなにかあったら……」

「そんなの、のこのことオトコの部屋に泊まりに行った、あいつが悪いんじゃん。いや、あいつもしかして、すっとぼけた顔してそういうの狙っていったのかもしれないぞ」

こいつに電話したのが間違いだった、と志保はため息をつく。

「だいたいさ、おまえはたまきに対して、カホゴなんだよ」

「そんなつもりは……」

ない、と言い切れないところに、志保は歯がゆさを感じる。

「あのたまきが、一人で泊まるところ見つけてきたんだぞ。それも、オトコの部屋を。その努力と勇気を誉めてやれよ」

「でも……、たまきちゃんは女の子で……」

「だからそれ、知ってるって」

そういって亜美は笑った。

 

結局、ミチが夕飯を作ることになり、ミチは近くのスーパーへと買い物に向かった。

「女の子が泊まりに来た」というイベントに心舞い上がっていたミチだったが、さっきの発言でたまきの機嫌を損ねてしまったらしく、今は心がささくれ立っている。

ふと、ミチはむかし施設にいた頃に飼っていた黒猫の「クロ」のことを思い出していた。ミチの姉いわく、たまきはその雰囲気がどことなくクロに似ているらしく、たまきに出会ってから、姉はクロの思い出話をよくするようになった。

クロは十年ほど前、ミチがまだ小学生だったころに、ミチと姉が暮らす施設に迷い込んできた。子供が集まる場所に動物が紛れ込むと、一躍大スターになる。子供たちはその黒猫をかわいがり、誰がつけたか「クロ」などと言うひねりのない名前で呼ぶようになり、えさにお菓子をあげるようになった。施設としても動物との触れ合いは情操教育によいということで、いくつかのマナーを守るという条件の下、えさやりをを許可した。

クロは正確には飼い猫ではない。どこからともなく施設の中に入ってきて、子供たちと遊び、えさを食べ、またどこかへと消えていく。施設の中で寝ていたこともあったが、あくまでも野良猫である。だけど、ミチをはじめ子供たちにとっては「飼っている」という認識だった。

二年ほど、クロは施設の「飼い猫」だったが、いつの間にかいなくなってしまった。施設に現れる頻度が減り、とうとう姿を見せなくなったのだ。ミチの姉は、ネコは死ぬ前に姿を消すんだ、と言っていた。

クロは猫のクセに「にゃあ」と鳴かないネコだった。もちろん、「コケコッコー」と奇抜な鳴き声をしていたわけではない。にゃあどころかうんともすんとも言わない、ただただ黙っている猫だった。

どうも、ミチはこのクロに嫌われていたらしい。ミチが呼んでもクロはそっぽを向いて動かなかったし、頭をなでるとイヤそうに尻尾をばたばたとふった。

ミチには嫌われる理由が思い当たらないのだが、姉によるとミチは猫の扱いが雑なのだという。

「あんたのクロの持ち方は、ゴジラの人形持つ時と、持ち方がいっしょなのよ」

そんなことない、とミチは反論したけど、中学生だったミチの姉は「本質的にいっしょなのだよ」と、当時のミチにはまだ難しいことを言ったのだった。いや、今でもその意味はまだよくわかっていない。

一度だけ、クロがミチのそばに寄ってきたことがある。

ミチが風邪をひいて、一人で部屋に残って寝ている時だった。

半開きになった部屋のドアから、クロが入ってきたのだ。

そのままミチの寝ているベッドにねこねこと歩みより、ベッドに飛び乗ってミチのすぐわきに来ると、丸まって居眠りを始めた。

ふだん、クロの方からミチに近寄ることなんてなかったので、珍しいこともあるもんだとミチは思った。

ミチは手を伸ばし、クロの背中を、そっと撫でた。

その時、クロは珍しく、クロにしては本当に珍しく、みゃあと鳴いた。

そのまま、2時間ほど、クロはベッドの上にいた。しばらくしてミチは眠りこけ、目覚めた時にはもうクロはいなかった。

次にクロを見た時、ミチが呼び掛けても、相変わらずクロはそっぽを向くだけだった。

 

たまきは一人、ミチの部屋にぽつんと佇んでいた。窓が風でガタガタと揺れる音だけが聞こえる。

たまきは一人ため息をついたが、それも窓のガタガタにかき消された。

ミチの言う「女の子だから料理できるはず」は納得いかないけど、だからと言って、泊めてもらうのに料理を何も手伝わない、というのはまずいかもしれない。買い物だって、ミチと一緒に行って、荷物ぐらい持つべきだったんじゃないか。

そんなことを考えていたら、いつの間にか結構な時間がたっていた。さすがにたまきも少しヒマになり、ミチの本棚に目をやる。

そんなに大きくない本棚の半分以上がCDだったが、マンガもいくつか入っていた。いわゆる少年漫画というやつだ。

たまきは少年漫画を読んだことがなかった。マンガの内容には興味がないけど、絵のタッチには興味がある。女の子向けの漫画と男の子向けの漫画では、やっぱり絵のタッチが違う。男の子向けの漫画ではどういう描き方をするのか、それが気になって、たまきは本棚から無造作に一冊取り出した。

マンガを取り出した時、たまきは、棚の奥にもう一冊本があるのに気付いた。正確には本ではなく、何かのケースだった。

何よりもたまきの目を引いたのは、そこに全裸の女性の写真がプリントされていたことだった。

まさか……これが……ウワサに聞く……。

たまきは無意識のうちに、ほとんど無意識のうちに、そのケースに手を伸ばして、取り出してしまった。

一糸まとわぬ女性の姿が大きく映し出されたパッケージがあらわとなる。

裏面をひっくり返すと、たまきにとっては筆舌しがたいハレンチな写真が、一面に所狭しと並べられている。パッケージを持つたまきの左手は、硬直した。

何か音がしたので、本棚の方を見ると、たまきがパッケージを抜き取ったスペースに、別のケースが倒れかけて、顔を出していた。

まさか、とたまきは、マンガを数冊ごっそり取り出した。

案の定、マンガのあったスペースの奥には、ハレンチなパッケージがいくつか隠されていた。そして、同時に悟る。ミチが部屋を片付けるのになぜあれほどの時間がかかっていたのか、を。

見なきゃよかった、という後悔しながらも、たまきは数個のパッケージに一気に取り出した。たぶん、臭い靴下のにおいをあえてかぎたくなった時と同じ心境だろう。

どれもこれも、女性が大きく映し出されていた。学校の制服らしきものを着ている人もいれば、水着の女性、中には何も身にまとっていない女性も多い。たまきはもう、裏面をひっくり返したりはしなかった。

パッケージに書かれた言葉のいくつかは、たまきの乏しいエロ語彙力でも十分にハレンチだとわかるものばかりだった。中には、犯罪行為なんじゃないかと思えるようなことも書いてある。

そして、あることにたまきは気づいてしまった。

女性たちの多くは、比較的地味だ、ということに。

おとなしそうな女子高生だったり、控えめな服装をしていたり。

たまきの頭の中に、いつか聞いた言葉がよみがえり、まるでいま耳元でささやかれているかのように聞こえてくる。それはいつぞやのミチの、地味な女の子は彼にとって恋愛対象ではなくエッチの対象だという言葉だった。壊すだの穢すだの、ひどいことも言っていた気がする。

そして、ミチに言わせればたまきは地味な女の子だという。いや、ミチでなくてもたまきの周りの人はみんなそう思っているはずだ。

それにかぶさるように聞こえてきたのは、ついさっきの志保の言葉だった。

『ミチ君は男の子で、たまきちゃんは女の子なんだよ?』

それに対してたまきは「知ってます」と答えたのだが、どうやら事実を知っていることと、その根本を理解していることは別の話だったらしい。

パッケージを手に取り硬直してしまったたまき。そこに、ドアの外から足音が聞こえてきた。誰か来た、というか、ミチが帰ってきたのだ。

慌ててもとの場所にしまおうと、パッケージをいくつかまとめて持ったたまきだったが、硬直した手はうまく動いてくれず、パッケージが床に散らばってしまった。

そのタイミングで、ドアが開き、ミチが顔を出す。

「ただいま。カレーにしようかと……」

と言いかけてミチが見たのは、なんとも気まずそうに硬直するたまき、と、その周りに散らばる、イケナイビデオの数々。

「うわああああ!」

ミチは買い物袋を放り投げ、靴も脱がずに部屋に上がり込むと、散らばったイケナイビデオをものすごいスピードで回収し、一気に本棚へと突っ込んだ。続いて、床に置かれたマンガを無造作に本棚に突っ込む。

「あ、あの……ごめんなさい……。マンガを読みたかっただけだったんですけど……」

顔を赤らめ、申し訳なさそうにするたまき。何か悪いことをしたわけではないはずなのだが、なぜか謝ってしまった。

「い、いや、こっちこそ、ゴメン……」

ミチも思わずたまきから視線を逸らす。ミチの部屋にどんなビデオがあろうがミチの勝手のはずなのだが、なぜか謝ってしまった。

「あ、あの……私……その……」

と言うと、たまきは声のボリュームをキュッと絞って、付け足した。

「ミチ君の、その……そういう期待にはたぶん、その、こたえられないと思うので……」

「わ、わかった。もう期待しないから……」

その言葉に、やや間を開けてから、たまきが反応した。

「……もう?」

たまきがミチを見る目には左目に疑念の色、右目に軽蔑の色が浮かんでいた。

二人の間を沈黙が流れる、と書きたいところだが、風が窓を激しくたたく音だけが部屋に響いている。

 

ミチが買ってきたのは、レトルトのカレーとパックのごはんだった。ミチは鍋でお湯を沸かして、カレーのパックを放り込む。たまきはごはんパックのふたをちょっと開けて、古い電子レンジに突っ込み、言われたとおりにボタンを押す。これで、少しは手伝ったことになるのだろうか。

ご飯を食べ終えると、もう夜の九時を過ぎていた。ミチはテレビをつけた。テレビではなにかのバラエティをやっている。

「あ、この芸人、オレ好きだなぁ。ネタが面白いんよ」

「……そうですか」

「たまきちゃんって、ふだんどんなテレビ見るのさ」

「……あんまり」

「じゃあさ、ふだん家で何してるの?」

「……まあ」

ミチは、チャンネルを変えた。そして、ちらりとたまきの様子を見る。

ミチの隣に間隔をあけて座ったまんま、たまきほとんど動かない。いつにもまして無表情でのたまきはなんだかお地蔵様みたいで、一周回って悟りの境地に達しているようにも見えた。

だが、たまき本人は決して悟りの境地などではない。むしろ逆だ。まさに、「借りてきたネコ」と言ったところか。

血中の酸素濃度が明らかに不足し、口をぎゅっと結んで鼻から何度も空気を吸い込む。

ミチが何か言ってくるので、返事をしようと口を開けると、肺と心臓が空気を吸え吸えと命令してくる。それを押し殺して返事をしようとすると、結局「まあ」みたいな返事になってしまう。

今までだって何度もミチと一緒に話しているのに、今この時に限って、何を話していいのかさっぱりわからないのだ。

きっと、さっきヘンなビデオを見てしまったからだ。あんなの見てしまったから、ヘンに意識してしまうのだ。今までは「性別が違う」ということをあまり意識しないようにしていたのに、さっきのビデオのせいで意識に蓋をするのが難しくなってしまったのだ、たぶん。

『ミチ君は男の子で、たまきちゃんは女の子なんだよ?』

志保のあまりにわかりきった言葉が、何度も耳元で繰り返される。

たまきはこの街に来るまで、父親と先生以外の男性とは、ほとんどまともに会話したことがなかった。男子というのは、何が楽しいのかボール遊びに夢中になったり、何がうれしいのか足が速くなる靴を欲しがったりして、たまきみたいに教室の隅でじっとしてる子をバカにする、サルみたいな連中なのだ。高い木によじ登って、木の下にいるたまきに柿の実をぶつけて、痛そうにするたまきを見てけらけら笑ってる。さらに彼らは女子のことをいやらしい目で見て、隙あらばそれこそカニのように貪り食おうとしている。

そんな連中とどう会話すればいいというのだろう。カニみたいに身を固くして、食べられないようにするしかないじゃないか。

だからたまきは、男性の前では妙に緊張してしまうのだ。

たまきには、志保がカレシの話を楽しそうにしたり、亜美が何人もの男と関係を持つのが、やっぱり理解できない。相手はたまきたちとは体の造りも思考回路も違う、まったく別種の生き物なのだ。モンスターなのだ。エイリアンなのだ。サルなのだ。そんなのと一緒にいて、何が楽しいのだろう。緊張と困惑で息苦しいだけじゃないか。あまつさえ、結婚する人なんていうのはもう、頭がおかしいんじゃないだろうか。男子と一緒に暮らしたりなんかしたら、緊張で息が上がって、死んでしまう。

ところが生き物というのは不思議なもので、急激に環境が変わると、本人も知らないうちに、何とかそれに適応しようとする。たまきの場合は、家出して、亜美と一緒に暮らし始めたことがきっかけだった。亜美は「城」に平気で男子を連れてくる。それも、一人や二人ではない。おまけにたまきを、クラブだイベントだと、男子がいっぱいいるところに連れまわす。挙句の果てには、初めて会ったミチといきなり二人きりの状態にする。

こんな環境でいちいち男子の前で緊張していたら、高血圧で死んでしまう。いかに死にたがりのたまきでも、その死に方はさすがに嫌だったらしく、無意識のうちに、相手を「男子だ」と意識することをやめていた。「無意識のうちに、意識しない」とは変な日本語だけど。

具体的には、物理的にも、精神的にも、ある程度距離をとった。たとえばそう、柿の実がとんでこないくらいに。

そうしていつのまにか、ミチがサルであることを忘れてしまっていたのかもしれない。だから今夜、うっかりここにきてしまったのだ。距離をとって接することに慣れてしまい、いつの間にか危機意識が薄れてしまったのだ。

ミチの部屋にあったいやらしいビデオは、ミチもサル山のサルであることをたまきに思い出させ、それと同時に危機意識と恐怖心と緊張を呼び起こすには十分だったのだ。

そんなたまきにとって、ミチの部屋にいて、ミチと会話するというのはなんだか、ルールを知らないのに将棋をやらされているみたいな気分だ。どうやったら勝てるのかも、どうやったら負けてしまうのかも何も知らないのに、駒を手に取って、相手の反応を見ながら一手一手指さなければいけない。指し手を間違えたら、柿の実をぶつけられるかもしれない。

「あ、俺、この映画好きだなぁ」

ミチの言葉でたまきはテレビの画面を注視する。

しばらく見続けて、たまきにもかろうじて映像の内容を認識できた。たまきが生まれたくらいの頃の映画で、たしか船が沈む映画だ。世俗に疎いたまきでも、タイトルを見ればわかるぐらい有名な映画だ。

とはいえ、番組は映画そのものを流しているわけではなく、「名作映画特集」みたいな感じで、「船が沈む映画」の簡単なあらすじを紹介している。

「えっと……どういう映画なんですか?」

たまきの方から話しかけたのはたぶん、この日初めてかもしれない。

「どういう映画って……船が沈む映画だよ」

そんなの見ればわかる、という言葉を、たまきはぐっと飲みこんだ。そもそも、見ればわかるようなことを聞いたのはたまきの方だ。

「それでさ、船の中で、男と女が……出会うんよ」

「……はあ」

「で、恋に落ちるんよ」

「……はあ」

「でも、船沈んじゃうんよ」

そこでミチはたまきの方を見た。

「悲しいだろ?」

今の説明では、全米どころか、ネコ一匹泣かないだろう。

「今のを聞いても、別に悲しくは……」

「ええ~、この映画で世界中の人が泣いたんだよ? 『全米が泣いた』ってやつよ? それで悲しくないって、たまきちゃん、意外と薄情だねぇ」

この男は「自分の説明が悪かった」とは思わないのだろうか。

「深く愛し合う男女が、船が沈んじゃったせいで引き裂かれちゃうんだよ? 悲しくない?」

さっきよりはましな説明になったけど、やっぱりネコ一匹泣きそうにない。

「その……女の人と男の人は……、船に乗ってから出会うんですよね」

たまきは、テレビで流れる映画のあらすじを必死に目で追いかけながら、尋ねた。

「そうそう」

「でも、その船、すぐ沈んじゃうんですよね」

「そうそうそう」

「なのに、深く愛し合ってたんですか?」

たまきはそういってから、ずいぶんこっぱずかしいことを言ってしまったと、ちょっと後悔した。

ミチの返事はない。その沈黙に耐えられなくて、たまきは言葉をつづけた。

「だってだって、出会ってすぐ恋に落ちて、深く愛し合うって、相手のことなんにも知らないじゃないですか。そんなのおかしいですよね? おかしくないですか?」

たまきなんて、亜美と志保を「友達」と思えるまでに3か月ぐらいかかったというのに、数日で恋に落ちて深く愛し合うだなんて、にわかには信じられない。

たまきはミチの方をちらりと見た。

ミチはあきれたように笑っていた。

「わかってないなぁ、たまきちゃん」

柿の実がとんできた。シブ柿だ。

「恋愛ってさ、そういうもんじゃないんだよ」

ミチから放り投げられたシブ柿は、たまきの頭をとらえ、脳を揺らした。

「……そういうものじゃないとは?」

「だからさあ、そういうもんじゃないんだよ」

「ですから、そういうもんとはどういう……」

「どう、って言われても困るけど」

けっきょくこの男も説明できないんじゃないか。

「こういうのはさ、言葉で説明できるもんじゃないんよ。なんつーかさ、いろいろ経験して初めてわかるっつーか……」

でた、経験マウンティング。

ふたたび、柿の実がとんできた。たまきの頭上から落ちてきた柿の実は、たまきにぶつかるとぐしゃりと音をたててつぶれる。いや、ぐしゃりと音をたてたのは、たまきのなかの何かかもしれない。

「わかんないですよ……私にはどうせ……」

「たまきちゃん、もっと恋愛に関心持ちなよ」

三つ目の柿の実。この柿の実は、昼間にもぶつけられた気がする。

「そういうところがさ……」

「……バカにしてるんですか?」

四つ目の柿の実を、たまきは鋏を振り上げ、ぐしゃっと握りつぶした。

「え?」

ミチはようやく、自分がたて続けに地雷を踏み続けていたことに気づいたらしい。

「……バカにしてますよね?」

たまきは真正面にあるテレビの方を向いて、ミチを見ることはなかった。

「いや……、バカにするとか……そういうつもりは……」

「つもりはなくても、事実として、私のことバカにしてますよね?」

「いや、だから、バカにするつもりは……」

「私はバカにされたと思いました」

いつの間にかテレビはCMに切り替わっていた。

「えっと……、バカにされたっていうのは、具体的にはどういう……」

たまきは、しばらく間をおいてから答えた。

「具体的にと言われても、私がバカにされたと思ったから、バカにされたんです」

「だから、それってどういう……」

「そんなの、言葉で説明できるものじゃないです」

たまきは、間髪入れずに返した。

「ミチ君、私なんかよりいろいろ経験してるんですよね。私が何で怒ってるのか、いろいろ経験してるミチ君だったら、言わなくたってわかりますよね?」

たまきは口をとがらせ、正面のテレビをにらみつけている。そんなたまきの左側に、冷静なたまきが現れて、肩に手を置く。それ以上はいけない、と。

これから一晩、この男の部屋に厄介になるのだ。ミチの物言いには腹が立つけど、これ以上踏み込んだら気まずいまま一晩過ごすことになってしまう。言いたいことがあるなら、あした言えばいいじゃないか。ここはひとつ、振り上げたこぶしを下ろして、穏便に済ませるべきだ。政治的判断というやつだ。

一方で、たまきの右側には革命家のたまきが現れ、旗を振る。攻撃の手を緩めてはいけない、と。

敵はたまきの思わぬ反撃にたじろぎ、戸惑っている。いまこそ、男子なるものにバカにされ、相手にされず、虐げられてきた積年の恨みをぶつけるときだ。そもそも、反撃されて戸惑うということは、どうせ反撃なんてされないと思っていたということだ。そういう態度が、バカにしてるというのだ。たまきの、いや、すべての女子の自由と尊厳のため、この男の首を討ち取って、今こそ勝鬨を上げるとき! えいえいおー!

左側から諭され、右側から煽られ、結果としてたまきは、まっすぐ前を向いたまま、右隣にいるミチのことは見ない。

「えっとさ……、だからその……、バカにするつもりは全然なくてさ……」

「……それは聞きました。でも私は、バカにされたと思ったんです」

「だからそれは……たまきちゃんの考えすぎだよ」

ぐしゃりと音がした。今度は間違いなく、たまきの中の何かがつぶれた音だ。

この男はこともあろうか、バカにされてるというのはたまきの妄想、勘違い、思い込みだとぬかしやがったのだ。

革命家のたまきが、深紅の旗を鮮やかに振り下ろした。

「……私の受け取り方がおかしいってことですか? 私が悪いって言いたいんですか?」

たまきは今度は、ミチの顔を見ながら言った。

「いや、そういう風に言ったつもりは……」

「つもりはなくても、事実として、私の方がおかしいって言ってますよね?」

「いや、そうじゃなくてさ……」

ミチは言葉に窮した。さっきから地雷を踏み続けている。取り繕うつもりの言葉すら、地雷だったらしく、どうすればいいのかわからない。なんだかルールを知らないままチェスをやらされてる気分だ。

「なんつーか、その、ふつうはさ、あのくらいなら別にバカにされてるとは思わな……」

「どうせ! ……どうせ! 私はふつうじゃないです……!」

どうやら、また地雷を踏んでしまったらしい。それも、たぶんさっきまでとは爆弾の種類が違う。

さっきまで借りてきたネコ状態だったたまきは、いまや尻尾を立て、毛を逆立て、ミチを睨みつけているようにミチには見えた。もちろんたまきはネコではないので、実際には睨みつけているだけだけど。

「どうして……、どうしてミチ君は、私を怒らせることばかり言うんですか!? 逆に……! 逆に、どうして私を怒らせるのがそんなに上手いんですか!?」

「う、上手い、そうかなぁ……」

「誉めてません!」

たまきは体ごとミチに向き直った。

「ミチ君は、全っ然上手くなんかないです!」

「え? さっき上手いって……?」

「私の怒らせ方が上手いってことは、私の扱い方は上手くないってことなんですよ!」

たまきがしっぽをばたばた揺らしている、ような気がした。

「ミチ君は、私よりもいろいろ経験してるんですよね! だったらどうして、私の扱い方がこんなに乱暴なんですか!」

なんだか、昔も誰かに、そんなことを言われたような気がする。

「乱暴に扱ってるつもりは……」

「……乱暴です!」

たまきはテレビの方に目をやった。今度は怪獣映画を紹介している。

「ミチ君の私の扱い方は……その……怪獣のおもちゃで遊ぶ時と、一緒なんですよ……!」

「いや、その例え、わかんねぇから……!」

ミチは少し苛立ったように、頭をぼりぼりと掻いた。

そこから数秒、二人は押し黙った。テレビではのんきにタレントが談笑している。テロップで、何秒後かに衝撃映像が出ますよ、というカウントダウンをしていた。

「……海乃って人にも、そういう乱暴な扱い方したんですか?」

「……え?」

ミチがたまきの方を向いたが、たまきは目を合わせない。

「待てよ、なんであの人の名前がここで出てくるんだよ?」

「知りませんよ……! どうしてあの人の名前が出てくるんですか?」

「たまきちゃんが言ったんだろ?」

「そうですけど……だって……」

たまきもだんだん、自分が何を言いたかったのかわからなくなってきた。ただでさえおしゃべりが苦手なのに、勢いに任せてまくしたてるから、こんなことになるのよと、冷静なたまきがなだめるように言うが、時すでに遅し。

……どうして、あんな人の名前を出してしまったんだろう。

だって、

だって、

「だって……私には乱暴なくせに、あの人にはそうじゃなかったら、なんだか……」

ミチに聞こえるか聞こえないくらいかの声でたまきがつぶやきながら、逃げ場を探すように視線をテレビの方へとむけた。

ちょうどその時、画面いっぱいにゾンビが映し出された。どうやらゾンビ映画の特集コーナーらしく、血まみれで頭の中身が飛び出したゾンビが、これまた血で真っ赤な口をバックリと開けて迫ってくる。直後に、映画の主人公らしき女性が絶叫を上げながら、ゾンビに向かって銃を撃ちまくる。

急にゾンビと目が合ってしまったたまきは、びっくりして

「きゃっ!」

と小さく叫ぶと、隣にいるミチの袖に手を伸ばし、ぎゅっとつかんだ。

突然の出来事にミチも驚く。ゾンビに驚いたのではない。さっきまで威嚇するネコ状態だったたまきが、急に袖をつかんできたからだ。

「あ……ああ、この映画? たまきちゃん、ホラーとか苦手なの? 意外と子供っぽ……」

そう言いかけてから、ミチはまた自分が余計なことを言ってるんじゃないかと思い、たまきの方を見た。

たまきは頬を少し赤らめると、ミチの袖をつかんだ右手を力いっぱい引き離した。

「……ホラーは別に苦手じゃないです。ただ、今のは……ちょっとびっくりしただけですから……」

なんだか急に、自分が負けたような気がして、たまきは下を向いた。

 

お風呂は、ミチが先に入り、たまきがその次に入った。

かわいい女の子が泊まりに来て、板子一枚隔てた浴室でお風呂に入っているという状況は、普段のミチなら舞い上がり、よからぬことの一つや二つはちょっと期待するのだが、そんなスケベイベントはもはや望むべくもないようだ。

『どうして、私の扱い方がこんなに乱暴なんですか!』

ミチは部屋で一人たまきの言葉を思い返すが、そんなに乱暴かなぁとミチは首をひねる。これでも、ミチとしては優しく接していたつもりだ。

『海乃って人にも、そういう乱暴な扱い方したんですか?』

また、たまきの声が思い起こされる。

海乃に対してはどうだったろうか。海乃とはケンカしたことがないが、だからと言って海乃の扱い方がもっと丁寧だったかと言うと、そうでもない気がする。というか、丁寧とか乱暴とか、そんなことは全然考えなかった。それは海乃だけでなく、これまでのカノジョに対してもそうだし、女友達にもそうだ。姉にだってそうだ。

たまきに対してもそれは同じで、優しくしようとしてるだけであって、丁寧とか乱暴とかは意識していないのだけれど、たまきに言わせるとミチは乱暴なのだという。

もう、ミチは、たまきにどう接すればいいのかわからなくなってしまった。これまでにミチが触れてきた女性とは、たまきは明らかに別種の生き物なのだ。エイリアンなのだ。ポケットモンスターなのだ。

ふと、ミチは気になった。たまきはいったい、どんなことでときめくのだろうか。ときめきポイントまで、ほかの女の子とはちがうんだろうか。

そういう恋愛がらみの話をたまきとしたことがない。いや、軽く振ってみても「まあ」というあいまいな返事しか返ってこなかった気がする。

もしかしたら、たまきから実はそういう話をしていたにもかかわらず、ミチの方から「たまきちゃんにはまだわかんないよ」と握りつぶしていたような気もする。

ミチにはたまきの地雷がどこにあるのかわからない。わからないうえに、ミチはそれを知らず知らずに踏んでしまうクセがあるらしい。

一方で、たまきには踏まれたくない地雷があるように、思わず心がときめいてしまうようなツボだってあるはずだ。そこを探し出して、そのツボを押してあげれば、この気まずい空気も変えられるんじゃないだろうか。

とはいえ、また正面から「たまきちゃんってさぁ……」と話しかけても、うっかり地雷を踏んでしまいそうな気がする。こういう時は、アレの力に頼るしかない。

ミチはおもむろに立ち上がると、本棚の中のCDをいくつか抜き取った。

本棚の上には、CDプレーヤーがおいてある。ミチは選んだCDのうちの一つを、そこに入れた。

選んだのはミチのお気に入りのロックバンドのアルバムだった。激しいギターサウンドのイントロが流れ、やがて力強い男性ボーカルが聞こえてきた。

2曲目のBメロに差し掛かったあたりで、浴室からたまきが出てきた。

黒髪はドライヤーで乾かしたとはいえ、湯上り特有の湿っぽい光沢があり、乾きかけのせいか、少しまとまりを欠いている。顔はほんのり赤みを帯びていて、いつもよりもさらに幼く感じた。

だけどそれと同じくらいミチの目を引いたのは、たまきの服装であった。

ミチは最初、ドット柄のパジャマだと思った。クリーム色の生地に、ドット柄が描かれているのだ、と。

だが、たまきがミチの近くに寄ってくると、それが間違いであることに気づいた。

ドットに見えたそれは、ネコやイヌの顔の絵だったのだ。

このパジャマは、たまきがリュックに詰めて持ってきたものだ。たまきの着た服の中では、今までミチが見たものの中で、最も明るい印象を受ける。だが、これは小学生が着るパジャマだろう、とミチは思った、がさすがに口にしなかった。たまきの幼さをより引き立てる一方で、どうにも不釣り合いである。

たまきはミチと目があると、恥ずかしそうに一言ぽつりと、

「お風呂どうも……」

とだけ言うと、無言でミチの隣にちょこんと正座した。

たまきがミチの前を横切って、隣に座るまでのほんの一瞬の動作に、ミチは不釣り合いの本当の理由を知った。

小柄な躰に幼すぎるパジャマを纏ったたまきだったけれど、その一連の動作のシルエットは、まぎれもなく女性独特のそれだった。

たまきはしばらく、CDプレイヤーの方を見ていたが、やがて視線を自分の膝へと移したまま、黙っている。

「えっと……なんかないの……?」

もう地雷を踏まないように、ミチは恐る恐る尋ねた。

「……なんかとは……?」

たまきもどこか石橋をたたくように答える。

「音楽かけてみたんだけど……」

「……聞こえてます」

「その……何か感想とか……」

たまきは困ったようにミチを見て、何も答えなかった。

たぶん、ロックはたまきの好みではないのだろう。

次にかけたのは、女性アイドルのCDだった。

A面の曲を流した時、たまきに反応があった。

「あ、この曲……」

「あ、知ってる?」

「まえ、志保さんがカラオケで歌ってました」

それっきり、たまきは再び困ったように黙ってしまった。どうやらただ単に知ってるだけで、これといった感想はないらしい。

思い切って、ミチはたまきに聞いてみることにした。

「たまきちゃんってさ、どういう曲が好きなの?」

たまきがときめくポイントを知りたいのだけれど、直接そう聞いたら、また何か地雷を踏みかねない。

ならば、音楽の力を借りよう。音楽の歌詞やサウンドでたまきが何かしらの反応を見せれば、そこにたまきのときめくポイントがあるはずだ。

ところが、その「たまきの好きな音楽」がわからない。

ならばいっそ本人に聞いてみようと思ったわけだ。好きな音楽の話なら、地雷を踏むこともあるまい。

実際、たまきは嫌そうな顔はしなかった。

ただ一言、

「まあ……」

とだけ言って、黙ってしまった。

「まあ」とだけ言われても困る。とりあえずミチは「マア」という名前のミュージシャンなど知らない。「フー」という名前のバンドならかろうじて知っているのだが。

相変わらず、ルールを知らないままチェスをやっている気分だ。

いや、ルールならわかっているのだ。

ただただ、相手の出方がわからないのだ。

けれど、そんなの、当り前なのかもしれない。

もちろん、相手の出方や戦略が読める方が、勝率はぐっと上がるのだろう。

でも、たぶん、チェスとか将棋とかの醍醐味は、相手の心が読めないときにあるのではないか。

相手の出方がわからない。セオリー通りのことが進まない。そんな時に、計算と経験と、直感を天秤にかけて、運の流れに身を任せ、ほのかに背徳を隠し味に混ぜて指す一手。それに相手がどう反応するのか。待ってましたとばかりにチェックメイトを仕掛けてくるのか、しまったと狼狽えるのか、じっと考え込むのか。

一手を指してから、相手が反応を見せるまでのほんの一瞬、そこが一番楽しいのではないか。

もちろん、ミチはそんなことを頭で理解しているわけではない。ただ、今この瞬間がちょっと楽しい、そう思って、棚の中のCDケースに手を伸ばした。

ちなみに、ミチはボードゲームなんて、オセロしかやったことがない。チェスも将棋も、ルールすらわからない。

 

プレイヤーの中でCDが、まるで指揮者が舞う蝶のごとく指揮棒を振るかのように、軽快にぐるぐるとまわりだす。やがて、ディスクに書き込まれたデータが音楽となって、部屋の中に鳴り響いた。

波のようにゆらゆらと揺れるベースラインの上を、忙しなく跳ね踊る魚のようにドラムが音を響かせる。ドラムの音は中低音で、スネアが叩かれるたびにほど良く空気を跳ね上げる。

官能的でありながらどこか煽動的なリズムに絡みつくように、ピアノとエレキギターがメロディを奏でた。ピアノはまるで少女がくすくすと笑うかのように美しく、ギターはさながら男が何か情念をたたきつけているかのように激しく。

そこに艶っぽくも力強い女性の歌声がかぶさった。

ジャンルで言えばジャズロック、とでもいうべきなのだろうか。

それは、ミチがラジオで聞いて気に入ったバンドのCDだった。ロックの激しさの向こうに、ジャズの持つ大人の深い苦みがあるようで、激しいビートに身をまかせながらも、どこかその苦さの深みに引き込まれていくような感覚を覚え、ミチの好きなバンドとなったのだ。

ミチはたまきの方をちらりと見た。相変わらずの無表情で、その顔から曲の良し悪しを読み取ることなんてできない。

不意に、たまきが足を崩し、正座から体育座りに切り替えた。小さな膝を両手で抱えるとたまきは、ミチの方をちらりと見た。

たまきと、ミチの目が合った。

たまきは目線を自分の膝へと戻し、ミチもたまきから目を離した。

特にどちらもしゃべることなく、二曲目が終わった。

 

三曲目の一番のサビが終わる頃に、たまきはおもむろに立ち上がった。

再びミチの前を横切って、部屋の窓へと向かうと、たまきは窓を開ける。

ミチの部屋は、スナック「それから」の看板がある通りから見ると、入口の方が奥にある。部屋に入って、奥の窓を開ければ表通りが見える。

いつの間にか風はやんでいて、表通りにいくつかあるスナックの看板が、ほのかにきらめいていた。

たまきは夜空を見上げた。つるぎのようにしなやかな三日月が浮かんでいる。たまきは窓から少し身を乗り出して、月を見ている。

その一連の動作を、ミチは背後から見つめていた。

「……どうしたの?」

と、ミチが声をかける。

「その……月が見たくて……」

たまきが振り向くことなく答えた。

「となり……いいかな?」

「……まあ」

ミチは、たまきの左隣へと腰かけた。いつもと違って、たまきは間隔を開けることはしなかった。もっとも、いつもの調子で間隔を開けてしまったら、窓枠から外れて月が見えなくなってしまうのだけど。

三曲目のアウトロのピアノが静かに流れ始めたところで、たまきは口を開いた。

「その……さっきはご……」

そこから、たまきが次の言葉を言おうとする前に、ミチは勢い良く頭を下げ、素早く声を発した。

「さっきはごめん!」

そうしてゆっくり頭を上げると、あっけにとられるたまきを見て、ニコッと笑った。

「よし、今度は俺の方が先に謝ったぞ」

それを聞いて、たまきはあきれたようにため息をつく。

「どっちが先とか、関係なくないですか?」

「でも、男があとから謝った方が、カッコ悪くない?」

「だから、謝るのにかっこいいも悪いもないし、……その、男だとか女だとかも、関係ないじゃないですか」

そういうと、たまきは急に恥ずかしそうに下を向いた。

「……私の方こそ、ごめんなさい」

男とか女とか、そんなことにこだわっていたのは、たまきの方なのだ。ミチに対して腹を立てていたようで、途中からミチのことなんか見ていなかったような気がする。

いつの間にか、四曲目の歌い出しに入っていた。

「でもさ……」

そういうと、ミチは探るようにして言葉をつづけた。

「謝っといてなんだけどさ……俺さ、自分のなにがマズかったのか、イマイチわかってないんだよね」

「なんですか、それ」

たまきは再び、あきれたようにミチを見た。いや、完全にあきれていた。

「じゃあ、なんでさっき謝ったんですか?」

「なんか怒らせるようなこと言っちゃったかなぁ、って」

「じゃあ、なんで私が怒ったと思うんですか?」

「それはわかりません」

再び、たまきのため息。こんなにため息ばかりしてたら、しぼんでしまうのではないだろうか。

「じゃあ、また同じこと繰り返すかもしれないじゃないですか」

「そのときはごめんね」

軽い、たまきはそう思った。

そう、軽いのだ。乱暴だとか雑だとかいろいろ思ったけれど、基本的にはこの男の言動は、軽いのだ。たまきへの接し方も、軽いのだ。考えが浅くて、行き当たりばったりで、そのくせ見栄っ張り。深い考えもなくうっかり人を傷つけるうえに、なにが悪いかもわからずに、カッコつけて謝ろうとする。そんなんだから、クリスマスの時みたいなトラブルを起こすのだ。

なんでこんな人が、いま私の隣にいるんだろう。

なんでこんな人が、いつも私の隣にいるんだろう。

けれども、じゃあミチがたまきに対してもっと慎重で優しかったら、と考えると、そっちの方がなんか違うようにたまきには思えた。

たとえば、志保のカレシの田代のような人。志保が抱える問題についてせっせと勉強したり、志保のことを支えるなんて平気で言ったりできる人。カノジョだけじゃなくて、たまきや亜美のようなカノジョの友達にまで気配りができる人。男であれ女であれ、そんな人が隣にいたら、たまきは腹を立てる前に逃げ出してしまうかもしれない。

優しければ踏み込んでいいわけではないのだ。

五曲目が始まった。歌詞の中に「月」というワードが出てきた。

「月、きれいだね」

とミチが言った。

「……月は、きれいなんかじゃないです」

たまきは、下を向いたままそういった。

「月は穴ぼこだらけだし、自分で光ったりしません。裏側なんてもっと穴ぼこだらけだし……」

「でも、月、きれいじゃん」

「月がきれいに見えるのは……」

たまきはそこで一度言葉を切ってから、続きを言った。

「地球がちょうどいい距離から見てるからなんです……」

そんなことを話しながら、ミチはふと、ネコのクロを思い出した。クロはミチが呼んでも近寄ることなんてなかったけど、その代わり、逃げもしなかった。ミチが近寄ると、ちょっとイヤそうにも見えたけど、逃げずにじっとしていた。

もしかしたら、ミチとの間のあの距離が、クロにとっては心地よかったのかもしれない。

 

急に、何かの糸が切れたかのように、たまきが倒れた。

「え?」

ミチは驚いてたまきの顔を見る。

たまきは、すやすやと寝息を立てて、眠りについていた。倒れた衝撃で、メガネがずれている。

「なんだよ……びっくりした……」

ミチは、幼子のように眠っているたまきを見た。

「メガネは……はずしてあげた方がいいのかな……」

そうつぶやきながら、ミチは割れ物に触れるかのように、たまきのメガネに手を伸ばした。

 

たまきが目を覚ました時、最初に感じたのは、布団の温かみだった。

布団で寝るなんてここ一年でほとんどなかったので、たまきは寝ぼけながらも戸惑った。

自分の状況を確かめようと、左手を伸ばす。いつもならそこにメガネが置いてあるはずなのだけれど、ない。

いよいよもって自分がどんな状況にいるのかわからず、不安になったたまきは今度は右手を伸ばした。右手が、メガネに触れる。

メガネをかける。薄暗い部屋だったが、徐々に物の輪郭が見えてきた。

たまきはパジャマを着て布団で寝ていたらしい。一瞬、実家に戻ってしまったのかと思ったけれど、このパジャマは『城』で暮らすようになってから買ったものだ。

そうだ、ミチ君の家に泊まりに来たんだった。

ミチはどこにいるんだろう、とたまきは狭い部屋の中を見渡した。

たまきから少し離れた場所で、ミチは寝ていた。ただし、布団のようなものは一切ない。この部屋には布団が一人分しかないので、二人のうちのどちらかが布団で寝れば、どちらかは布団がない。

ミチは寝巻としてジャージを着ていたが、チャックを締めていないので、はだけておなかがあらわとなっている。

「風邪ひきますよ……」

たまきは、窓のそばに置いてある、加湿器代わりのバケツを見やり、もう一度、ミチを見た。

「……のどが大事なんじゃなかったんですか?」

さっきは、あんなに扱いが軽かったくせに。

いつもは、穢すだの壊すだのいやらしいこと言うくせに。

私が知らないところで、やさしくしてるなんて。

「……ずるいよ」

たまきは、自分のパジャマを確かめた。とりあえず、寝てる間に変なことはされていないらしい。

たまきは、掛け布団を横にした。半分は自分に、半分はミチにかかるようにすると、布団の中でなるべくミチと距離をとるようにして、横になった。

すぐには寝付けない。

穢されも壊されもしていないのだけれど、たまきの心の奥底の何かが乱されているような気がした。

……なんでこの人は、私なんかにかまってくれるんだろう。

つづく


次回 第34話「モノレールのちブレスレット」

ケンカしたり仲直りしたりのお泊りの翌日、ミチはたまきを外に連れ出すことに。

つづきはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

小説「あしたてんきになぁれ」 第32話「風吹けば、住所録」

「城」に、特にたまきの身に大事件が勃発! たまき16歳の「ひとりでできるもん」、開幕!


「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち

第31話 「桜、ところにより全力疾走」


桜前線はあっという間に都心を駆け抜けていき、花が散り、若葉が芽吹く。気づけば四月ももう終わりだ。

世の中は入学式だの新学期だのであわただしい季節だが、たまきたちの生活にはこれと言って変化はない。

たまきは相変わらずうじうじとひきこもっている。たまに絵を描きに外に出かけるくらいだ。

亜美は相変わらずふらふらしている。ふらっとどこかに行っては、ふらっと帰ってくる。まあ、大方どこぞのオトコのところに遊びに行っているのだろう。

志保は相変わらず、施設だバイトだデートだと、せかせかと忙しそうだ。

たまきの生活に、これと言って大事件は起こらない。強盗のおじさんに出会ったり、暴力沙汰に巻き込まれたりもしたけど、結局そこまでの大事にはなっていない。ましてや、ラブロマンスのような嬉しいハプニングも起きやしない。

人は生まれてきただけで奇跡なのだというが、たまきみたいな子はきっと生まれてきただけで運の大半を使ってしまい、残ったなけなしの運も、亜美と志保に出会ったことで使い果たしてしまったに違いない。

春になってちょっとだけ変わったことと言えば、ミチが久々に歌を作り始めたことだ。

昨年末の事件以降も、「楽曲」はちょいちょい作っていたのだけれど、それに歌詞をつけることはなく、ずっとラララと口ずさむだけだった。

桜の花が散りだしたころから、ミチはそれに歌詞をつけ始めた。家でノートに書いてきた歌詞を、公園でギター片手にメロディに乗っけて歌ってみる。実際に歌ってみると、単語とメロディの相性が悪いことがあって、その都度歌うのをやめて歌詞を書き直す。ちょっと歌ってはやめて、何か書いて、また歌っては途中でやめて、を繰り返しているので、はたから見るとこの人は公園で何がしたいんだろう、と思われていたかもしれない。

たまにたまきが横にやってきて、腰を掛ける。ミチは作りかけの歌を少し口ずさんでから、ちらりとたまきの反応を見るのだが、十六歳にしてポーカーフェイスを極めた彼女の表情から、歌のよしあしを読み取るのはかなり至難の業だ。たまきと一緒に暮らしている亜美と志保なら、たまきの表情を読み取れるのだろうか。

思えば、彼女が笑っているところを、ミチはあまり見たことがない。

思いっきり怒られたことならある。思いっきり泣かれたこともある。笑った顔もちょっとは見たことある。だけど、たまきと出会って一年弱、思い出のフィルムを紐解いてみると、その8割が無表情のたまきなのであった。

その日も、たまきはミチの横で黙って絵を描いているだけだった。やってきたときに「こんにちは」と言ったっきり、一言もしゃべっていない。

ふいに、ミチは演奏を止め、たまきの方を向いた。

「……なんかないの?」

たまきもミチの方を見る。

「……なんかって、なんですか?」

「曲の感想だよ。今の良かったよとか、もっとこうした方がいいとか」

曲の感想、と言われても、そもそも曲になってないのだからどうしようもない。歌っては止めてのくり返しだ。同じ単語のメロディをちょっとだけ変えて何度も歌う。歌詞になってない。単語、良くて一文である。そんなのに、どう感想を言えというのだ。

たまきは何も言わず、スケッチブックに視線を戻した。それを見たミチは再び声を上げる。

「なんかないの、感想」

「なにもないです」

「たまきちゃん、もっと他人に関心を持った方がいいよ」

……たまきの鉛筆を握る左手が、ぴたと止まった。

「……思ったこと言っていいんですか?」

「お、なんかあるの? どうぞどうぞ。エンリョなく」

ミチはニコニコしていたが、たまきは表情を変えることなく言った。

「私、ミチ君から絵の感想言ってもらったこと、ほとんどありません」

「あれ?」

ミチの表情が少しこわばる。期待していた感想と違う、というか、そもそも球種が違う球がとんできた。

「隣で絵を描いてるのに、ミチ君に絵の感想を言ってもらったこと、ほとんどないです。私からミチ君に感想を求めたこともないです。なのに、ミチ君は当たり前みたいに歌の感想を求めてきて、感想がないと周りに関心を持てとか言うの、おかしいですよね。おかしくないですか」

ミチは答えに詰まった。暖かな南風が吹いてきたが、ミチにはなぜか寒く感じた。

「いや、俺、絵のことなんてわかんないし……」

「私だって、歌のことなんてわかりません」

いよいよもって、ミチは答えに窮する。

「ミチ君のそういう、自分のことしか見てないところ、私、嫌いです」

そういうとたまきは立ち上がり、

「私、帰ります」

と言って、階段を上っていってしまった。空は雲が分厚く重なり、今にも雨が降り出しそうだ。

 

画像はイメージです

公園から駅へと続く地下道の中ほどで、たまきはため息をついた。

どうして思ったことを言うと、人とぶつかってしまうんだろう。

ひと月ほど前に亜美に思ったことを言った時も、さっきミチに思ったことを言った時も、もう少し言い方とかあっただろうに。

「やっぱり、私なんて嫌いだ……いなくなればいいのに……」

たまきはそうつぶやいた。自分に対して思ったことを言ってみたわけだ。つまるところ、たまきは自分に対しても他人に対しても、とことんネガティブなんだろう。

とぼとぼと歩いて「太田ビル」へと帰る。階段を上って、「城」の中へと入る。

「ただいまです……」

入り口のドアを開ける。すると、亜美の声が降りかぶさってきた。

「たまき、こんな時にどこほっつき歩いてたんだ!」

たまきの背筋がびくっとなる。と同時に、理不尽を感じる。普段はもっと外に出ろというくせに、たまに出かけたらどうして怒られなければいけないのか。

だが、亜美の顔を見てみると、語気が強いわりに顔がにやけている。本気で怒っているわけではなく、冗談で言っているようだ。たまきもこれくらい表情が豊かだったら、人とぶつからずに済むのだろうか。

無言のまま立っているたまきを見て、亜美は

「あれ? スベった?」

と始末の悪そうな顔をする。今度は志保が、困ったように言った。

「ほら、亜美ちゃんが大声出すから、たまきちゃん、固まってるじゃん」

たまきは「城」の中を見渡した。

なんだかいつもと少し違う、と思ったが、どうもいつもに比べて片付いているような気がする。ソファにおいてあったぬいぐるみとか、テーブルの上のテレビとか、床のビデオデッキとかが、ない。

「あの、テレビとかは……」

「ああ、衣裳部屋の段ボールに放り込んどいた」

そういえば、衣裳部屋にいつも、からの段ボールがおいてあったような気がする。何に使うのかわからないが。

「こういう時のための段ボールだからな」

「こういう時というのは?」

「とりあえずたまき、そこ座れ」

言われるままにたまきは、椅子に座った。

「さっき、下のビデオ屋の店長がここに来たんだ」

「城」の下の階には、ビデオ屋が入っている。そこの店長は亜美たちが「城」に住み着いていることを黙認している大人の一人だ。

「延滞してるビデオでもあったんですか?」

「あ~もしそうなら背筋が凍る話だけど、そういうんじゃないんだ。たまき、前にこのビルのオーナーが関西に住んでるって話しただろ?」

「しましたっけ?」

「したんだよ。で、たま~に東京にやってきて、ビルの様子を見に来るんだ」

たまきは黙って聞いている。

「それでさっきビデオ屋の店長のところに電話が来てな、何と今夜、東京に来るっていうんだよ。今夜か明日に、このビルの様子を見に来るって」

「じゃあ、私たちもあいさつ……」

「できるかバカ!」

そういえば、たまきたちはこの「城」を、不法占拠してるんだった。

「それでな、ないとは思うけど、もしかしたら、万が一、ここの様子を覗くかもしれないんだ」

「え……まずいんじゃないですか?」

「そう、まずいんだよ」

亜美は少し身を乗り出す。

「だから、今日と明日、ウチらはここにいない、ここには誰もいない、ってことにするんだ」

「それでテレビとか片付いてるんですね」

そこでたまきは不安げに、亜美と志保を見た。

「それで……私たちはどうすれば……」

「だから、ここにはいない、んだよ」

「それって……」

「外泊だよ、ガイハク」

「え……」

たまきの表情がこわばった。

「……今からですか?」

「そういう事だ。早ければ今日の夜にはここに来るかもしれないからな」

「じゃあ、三人でどこかのホテルに……」

「それはちょっと難しいかな」

そう言ったのは志保だった。

「あたしたち三人がどこかのホテルに泊まるのは……怪しまれるよ。春休み中とかならまだしも、若者が泊まるようなシーズンでもないし」

「だけど……、頑張って大学生くらいのフリすれば、それなら別にヘンじゃ……」

「お前がいちばん大人に見えないんだよ!」

とがなる亜美。たしかに、亜美はもうすぐ二十歳だし、志保も頑張れば大学生ぐらいで通用しそうだけど、たまきは十六歳よりも下に見られることが多い。三人だけで泊まりに行った場合、「なんか幼すぎない?」と一番怪しまれそうなのが、たまきなのである。

「それに、ホテルの受付で身分証明書とか求められたら困るでしょ? ……知らないけど」

実は三人とも、「ホテルの正しい泊まり方」というのを、よく知らない。

「じゃあ、どこに泊まるんですか?」

「ウチはとりあえず、テキトーに泊めてくれるオトコ探すわ。志保は結局、どうすんだ?」

「施設のシェアハウスがあるから、さっき電話したら今晩泊めてくれるって」

「なんだよ。ヤサオのところに行くんじゃないのかよ」

「ユウタさんにも都合があるから、そんな今日いきなり電話しても無理だよ。亜美ちゃんの都合のいいメンズと一緒にしないでよ」

「で、たまきはどうする?」

たまきは、表情も体もすっかり硬直している。

「……どういう選択肢があるんですか?」

「そうだな。ウチと一緒に、オトコのとこ泊まるか?」

「絶対に嫌です」

たまきは亜美の提案を固辞した。

「じゃあ、あたしと一緒に来る? 部外者でも一人くらいなら大丈夫だと思うよ」

志保の申し出にたまきは思案した。

亜美と一緒に行くことに比べればだいぶましだが、それでも、「施設のシェアハウス」というからには、たまきにとって初対面の人がいっぱいいるはずだ。

たまきにとって、一番苦手なのが「初対面の人」である。亜美と暮らし始めた時だって、たまきが衣裳部屋にこもったり、亜美の方が出かけてていなかったりで、実はそれほど接触が多くなかったからこそうまくやれた、というのもある。それは相手が亜美一人だったからだ。

「シェアハウスって、何人くらい住んでるんですか……」

「確か、4人だったかな。あ、みんな女性だよ。男性用のハウスは別にあるから」

「4人……」

完全にたまきのキャパオーバーである。たまきにとって、初対面の人と一緒に暮らせる上限は、0.5人である。たぶん亜美は、しょっちゅう出かけたりしてたからたまきにとっては0.5人扱いできたのだろう。

そう考えると、4人はあまりにも多すぎる。

「あ、あの、舞先生のところに泊まるって言うのは……」

たまきにはそこしか泊まるところが思い浮かばない。

「それがさ、先生、今、仕事の取材で海外にいるんだってよ。しばらくは帰ってこないって」

「海外……」

頼りたいときに限って、頼れる人の都合がつかない。つくづく自分は運に見放されてるんだなと、たまきは恨めしく思った。そういえば、お正月のおみくじも凶だった気がするが、細かいところは忘れてしまった。

「たまきちゃん、ほかにどこか泊まれるところある? 友達のところとか……」

友達なんて他にいるわけじゃないじゃないか。

一瞬だけ、ミチの顔が浮かんだ。だが、ミチは友達ではなくて知り合いだし、さっきのことがあるからちょっと気まずいし、そもそも、男子の家に上がり込んで泊まるだなんて考えられない。

「やっぱり、あたしと一緒にシェアハウスに来る?」

たまきはゆっくりと首を横に振った。現状ではそれが一番まともな案なのかもしれないが、やっぱり無理なものは無理なのだ。

「あ、あの……私……」

たまきは立ち上がると、恥ずかしそうに少し下を向いてしゃべった。

「自分で……泊まるところ……探してみます……。その……あてならあるので……」

 

画像はイメージです

たまきは都立公園に向かって駅のそばをととぼとぼと歩いていた。春にしては少し冷たい風が吹いてきた。

「探してみる」「あてならある」といったものの、本当はあてなんてほとんどない。

つまるところ、たまきは意地を張ってしまったのだ。

一晩だけ我慢すれば、知らない人だらけのシェアハウスに泊まることもきっと、できなくはないのだろう。

だけどたまきは、このまま志保の厚意に素直にあやかることはできなかった。

たまきは亜美と志保よりもちょっと年下で、だから志保はいつもたまきの世話を焼いてくれるし、亜美はたまきを引っ張ってくれる。二人にとってたまきは、友達であると同時に、共に暮らす家族であり、妹に近い存在なのかもしれない。

一方で、やっぱり二人はたまきにとっては友達だし、友達ならば対等な関係のはずだ。いや、よしんば血のつながった姉妹だったとしても、十六歳にもなって何から何までお姉ちゃんに世話を焼いてもらうというのはどうなのか。情けないじゃないか。もう十六歳なのに。

亜美と志保に頼らず、自分の寝床は自分で探す。これはたまきにとっての「ひとりでできるもん」「はじめてのおつかい」なのだ。そう考えると、たまきは自分がちょっぴり大人になったような気がした。思い浮かんだ番組名は妙に子供っぽいけど。

駅のそばで線路をくぐり、繁華街の人込みの中を歩き、地下道を通って、都庁の脇を通って、公園に入る。同じ日に一度公園に行って帰って、また公園まで戻ってきた。トータルで一時間近く歩いていることになる。たぶん、もう5キロぐらい歩いているのだろう。疲れて足が痛くなってきた。おまけに、風が強い。

公園内を歩き、仙人たちが暮らす「庵」を目指す。先程、ミチと一緒にいた階段のそばも通ったが、ミチはすでにいなかった。

「庵」とは、仙人たちホームレスが暮らす、いわばベニヤ板の塊だ。たまきの頭の中にある住所録に掲載されている、数少ない「住居」の一つだ。

たまきは少し離れたところから、「庵」を見ていた。複数のベニヤ板が張り合わされ、ところどころでブルーシートをかけて補強されている。

入り口の向こうにはたき火が見える。金属製の缶の中に、枝やはっぱを詰め込んで、火をつけているのだ。オレンジの炎が暗闇をほのかに照らしている。ちなみに、公園内に勝手に家を作ることも、たき火をたくことも、違法である。

ベニヤづくりとはいえ、一晩泊まるには申し分ない。雨も風もしのげるし、たき火をたいているので、室温も実は悪くない。

ただ問題は、ここで暮らすホームレスはみな男性ということだ。しかも、仙人以外のホームレスとはほとんど話したことがない。「知らない女性4人」でも無理なのに、「知らない男性がいっぱい」はもっと無理だ。

そんなことを考えていると、たまきの足が、彼女の無意識のうちに、「庵」から遠ざかり始めた。

すると、「庵」から誰か出てきた。たまきは慌てて引き返した。風がまた、少し強くなってきた。

 

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二十分ほどかけてたまきは、来た道を引き返して繁華街に戻った。足の裏がだいぶ痛くなってきた。こんなことなら、初めに「こっち」に行けばよかった。

「こっち」というのは、舞の家のことである。もちろん、さっき舞は海外に行ったと聞かされてはいたのだが、もしかしたら万が一、家にいるかもしれない、ということもあるかもしれない。

舞が家にいるかいないかは、たまきがピンポンを鳴らして確かめてみるまで分からない。たまきがピンポンを鳴らすまでは、「家にいる舞」と「家にいない舞」が重なり合った状態で存在し、たまきがピンポンを鳴らすことによって、はじめてどちらかに確定するのだ。自分で考えておいて、だんだんたまきにも何が何だか分からなくなってきた。

舞の住むマンションの前に立つ。舞の家には何度か泊ったことがある。ここに泊めてもらえるなら一番ラクだ。

インターフォンで舞の部屋の番号を押し、ピンポンを鳴らす。呼び出し中のランプがついたが、無言のまま、しばらくして消えた。

念のため、もう一度ピンポンしてみたが、やっぱり何の反応もなかった。

舞はいない、そんなことは最初からわかっていたのに、けっきょく自分は何をしたかったのだろうか。

たまきは頭の中の住所録をめくってみたが、うすい住所録にはもう何も書かれていなかった。

風がより一層強く感じた。

 

歓楽街の入り口にあたる、大通りの信号の前で、たまきは一人佇んでいた。

歓楽街前の横断歩道をたくさんの人が行きかう。ここにいる人たちはみな、帰る場所や泊まる場所がちゃんとあるのだろう。

たまきだけ、どこにも行くところがない。周りを見渡せばこんなにも建物があるのに、たまきがいていい場所はどこにもないのだ。なんだか、前にもこんなことを考えたような気がする。

今からでも志保に電話して、シェアハウスというところに泊めてもらおうかとも思ったけれど、さっき断ったのに、いまさらやっぱり泊めてくれなんて迷惑ではないのか。そんなことを考えると、どうしても公衆電話へと足が向かわない。

やっぱり前にもこんなことがあった気がする。つい二、三か月前だ。あの時は確かお金がなくて、「城」に戻れなくて、舞もどこかに行ってていなくて、そのあとどうしたんだっけ……。

そこでたまきは、住所録の最後のページに「スナック『そのあと』」という名前があるのを見つけた。

いや、本当は、最後のページにもう一つ住所が書いてあることに、とっくに気づいていた。気づいていたんだけど、「でも、男の子の家だし」と見なかったことにしていたのだ。

だけど、よくよく思い返してみると、ミチはたしかあのスナックの二階のアパートに住んでいて、同じアパートにはミチのお姉ちゃんも住んでいるという。

ミチのお姉ちゃんの部屋に泊めてもらえばいいのではないか。ミチのお姉ちゃんなら、たまきも知らない人ではない。シェアハウスとやらで知らない人に囲まれて、助けを求めるように志保の顔をちらちら見ながら一晩過ごすよりは、はるかにましだ。ミチのお姉ちゃんがたまきのことをネコ扱いしてくることだけが引っかかるけど、この際いっそネコをかぶってネコのふりして、今夜だけネコってことで泊めてもらうことはできないだろうか。

それがだめなら、閉店後のスナックに泊めてもらう、という手もある。スナックみたいな店で寝泊まりすることに関して、全国の十六歳の中で、たまきより右に出る者はいないだろう。

信号が青になった。たまきは大通りを渡り、駅のはるか南、スナック「そのあと」へと向かって歩き出した。

 

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一度公園に行き、「城」に戻り、再び公園に行き、そこからまた歓楽街に戻り、今またそこからミチの家まで、1キロ以上ある道を歩いている。踏切を渡ったところで、たまきの足がそろそろ限界を迎えてきた。

おまけに、風がやけに強くなってきた。春先なのに、だいぶ肌寒い。

自販機でなけなしのお金でジュースを買って、休憩する。坂道沿いに高架が伸びていて、ミチの家はその高架のそばにある。

実は駅から私鉄に乗れば、この高架沿の上を電車で2分も走ればミチの家のすぐそばにある駅まで行けたのだけれど、たまきはそんなこと知らないし思いつきもしなかった。よしんば、思いついて電車に乗ろうとしても、ミチの家が何駅のそばにあって、どの電車に乗ればいいのかたまきにはわからない。結局、歩いていくしかないのだ。

ジュースを飲み終えると、たまきは再び歩き出した。気が滅入ることに、風は向かい風だ。

 

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「……メシ、なんにしよ」

ミチは部屋の天井を見つめながら、そうつぶやいた。お気に入りのジャケットとジーンズはハンガーにかけられ、ジャージ姿で寝転がりながらマンガを読んでいる。

料理をするのもアリだ。ミチはラーメン屋の厨房で働いているので、料理はそこそこできる。ただ、バイトで料理ばっかりしているので、プライベートで料理するのは逆にめんどくさい。

カップ麺にでもするか。その前に一服するか、とマンガを置いてたばこのケースに手を伸ばした時、

ピン……ポン……

と少し遠慮がちに呼び鈴が部屋に響いた。

「……え、誰?」

立ち上がるまでの間、頭の中の名刺ホルダーを調べて、誰か訪ねてくるような人がいたかどうか探すも、思い当たる節がない。ネットショッピングみたいな宅配の予定も、ない。仕送りしてくれる親もいない。

そもそも、ミチがここに住んでいることを知っている人は、限られている。いつもつるんでいるような人たちには、ここのことは教えていない。何人か女の子を、姉がやっている店に連れて行ったことはある。その時、店の二階に住んでいると話していれば、ここを訪ねることもできるだろう。だが、そういった女の子たちとも皆、すでに縁が切れている。

たった一人だけ、ミチがここに住んでいることを知っていて、なおかつ今も付き合いがある、というか、さっき会ったばっかりの女の子がいるが、その子の顔が浮かんでも、ミチは即座に「ないない」と打ち消した。

その子がときどき、下の店のランチタイムに、焼きそばを食べに来ていることは知っている。だけど、その子が姉の店を訪ねることはあっても、その上にあるミチの部屋を訪ねてくることなど、絶対にない。その子は大の人見知りで、特に異性慣れしてないのか、男性に対する警戒心は強い。

おまけにミチはその子から「キライです」と言われ続けているのだ。わざわざ部屋を訪ねてくることなんて、ありえない。

ピン……ポン……

再び呼び鈴が、申し訳なさそうに鳴った。ミチは前髪だけささっと直すと、ドアを開けた。

ドアの外に、これまた申し訳なさそうにたまきが立っているのを見たミチは、

「ええっ!」

と声を上げた。

一方のたまきは

「あ、あの……」

と自信なさげに言うと、軽く深呼吸してから、しゃべり始めた。

「すいません、その、きゃ、キャッスル、あ、いつもみんなで住んでるお店です、その、すいません、その、いろいろあって今日と明日、お店にいられなくなっちゃって、だから、その、すいません、あの、今夜だけでいいんで、あの、すいません、その、泊めてもらうことってできませんか……すいません」

たぶん、ここに来る途中の道で何度も練習したんじゃないか、そう思えるほど、たまきにしては早口だった一方で、練習したとは到底思えないたどたどしさだった。

一気に言い終えてからたまきは、ミチの目を見ることなく、こう付け足した。

「……ごめんなさい。いきなり来て、迷惑ですよね……。帰ります……」

そのままたまきは、ミチの反応を確かめることなく、ドアの前から立ち去ろうとする。

「いや、迷惑じゃない! 迷惑じゃないよ!」

ミチはたまきの腕を引っ張った。たまきが立ち止まる。

「っていうか、え、ちょっと待って、どういうこと? どういう展開、これ?」

突然の出来事に困惑するミチ。たまきは再び口を開く。

「その、きゃ、キャッスル、あ、いつもみんなで住んでるお店です、その、すいません、その、いろいろあって……」

「いや、それ、さっき聞いたから。つーか、その『いろいろあって』の部分聞きたいんだけど。ま……とりあえず……中入ったら?」

ミチは部屋の中を指さして、たまきを促した。

「え……あの……その……」

たまきは不安そうに部屋の中を見て、次に廊下の右左を見て、最後にミチの顔を見た。ミチもたまきの不安を察したらしい。

「いや、大丈夫だから! 変なこととか嫌なこととか、しないから!」

 

たまきは、生まれて初めて男の子の部屋に入った。

最初の印象は、「なんかにおう」。くさい、とはまた少し違う「なんかにおう」。

たぶん、ミチの部屋の生活臭に慣れてないだけだろう。よその家の麦茶が口に合わないように。

たまきは物珍しげに、部屋の中をきょろきょろと見渡した。全体的には散らかっている印象だ。床は畳張りで、平積みになったマンガが置かれ、脱ぎっぱなしのシャツが放置されている。少し年季の入った布団が敷かれていて、きっと万年床というやつなのだろう。プラスチック製のテーブルの上には、お昼にでも食べたのか、コンビニ弁当の容器が空のまま置かれていた。水着のお姉さんが移った卓上カレンダーもある。広さはたまきの実家の子供部屋に、お風呂やトイレがついた、と言ったところか。

部屋の中で印象的なのは、壁に立てかけられた二本のギターだろう。いつもミチが公園に持ってくる木製のギターと、前にミチがライブで使っていたエレキギター。

ギターの横には本棚があった。ざっと見た感じ、マンガ雑誌となんかの雑誌、マンガ本が入っているが、本棚の半分以上を占めているの本ではなくCDケースである。

そこからキッチンをまわりこんで反対側の壁には、ロックバンドのポスター2枚が貼ってあった。もちろん、何のバンドかはたまきにはわからない。ただ、そこに写っている人がいかにもロックミュージシャンといった感じだし、マイクやギターを持ったり、ドラムセットに座っていたりするので、きっとバンドマンなのだろう。そもそも、たまきが3つ並んだ部屋から、表札もないのにここがミチの部屋だとわかったのも、ドアに似たようなポスターが貼ってあったからだ。

ふと、窓の脇に置いてあるバケツに目が留まった。バケツには、なぜかなみなみと水が溜まっていた。

「……雨漏りでもしたんですか?」

たまきはバケツを見ながら訪ねた。ミチも、たまきの言わんとすることはわかったらしい。

「ああ、これはね、加湿器の代わり」

「加湿器?」

加湿器ならたまきの家にもあった。もちろん、こんなのではなかった。

「乾燥はのどによくないっていうじゃん。ほら、俺、一応、ミュージシャンだし。やっぱ、のどが大事なわけよ」

「……加湿って、これであってるんですか?」

たまきの知っている加湿器は、たしか、霧のようなものを吹いていたはずだ。そもそも、水を置いとくだけでいいんだったら、加湿器なんてメカはいらないではないか。

「……さあ、わかんね」

ミチは少し恥ずかしそうに言った。

 

たまきは、ミチを訪ねることになった経緯を説明した。正確には「ミチのお姉ちゃんを訪ねることになった経緯」だ。下のお店に行ったらまだ「準備中」で、中に誰もいないみたいだったので、仕方なくたまきはビルの二階に上がったら、そこに明らかに「ここにミチが住んでます」といった感じのポスターが貼られたドアがあったので、ピンポンを押してみただけである。ミチではなく、ミチのお姉ちゃんに用があるのだ。

「それで……ミチ君のお姉さんは……どちらに……」

一通り説明を終えた後、たまきはおずおずと尋ねた。

「ああ、姉ちゃんね、今、いないんだ」

「……え?」

「カレシと海外旅行行っちゃって」

え、ここも?

春休みとゴールデンウィークに挟まれた今の時期は、海外旅行シーズンなどではない。なのにどうして、頼りたいときに限って、舞もミチのお姉ちゃんも海外に行ってしまっているのか。

やっぱり自分は不運な星の下に生まれてきたんだ、とたまきは自分を呪った。でも、いくら自分を呪っても死ぬどころかおなかも痛くならないので、たぶん呪いなんてものはないんだろう。

「あ、あの……」

たまきは少し慌てた風に尋ねた。このままでは、今日寝る場所が本当になくなってしまう。

「その、お姉さんの部屋を、一晩貸してもらうことってできませんか? それがだめなら下のお店でも……」

「だから、姉ちゃん、いないんだってば」

「でも、鍵とか……」

「姉ちゃんが俺に、そんな大事なもの預けていくわけないじゃん」

「あ、なるほど……」

「いや、そこ納得しないでよ」

ミチはポリポリと頭をかいた。

たまきは窓ガラスの向こうを見た。太陽はとっくに沈み、ガラスの向こうには暗闇が広がっている。下の方がほのかに明るいが、この辺りはスナックが集まっているので、そこの明かりが漏れているのだろう。

風は依然として強いままで、窓ガラスが大げさにガタガタと揺れている。

志保のところに行く、という案が頭をよぎったが、こんなに時間が遅くなってしまっては、いよいよもって迷惑だろう。そもそも、こんな遅い時間になってしまったのは、たまきが意地を張ったからだ。

たまきは自分の足を軽くさすった。ミチの部屋で腰を下ろして、少し休んだからまた歩けるかと思ったが、むしろ休憩を挟んだことにより、足が限界を超えていることがごまかせなくなってきた。

それでも、たまきは立ち上がった。そのとたんに、少しめまいがしてふらつく。

「ちょっ、大丈夫?」

ミチが軽くたまきの肩を支えた。たまきは急に恥ずかしくなって

「だ、大丈夫です……!」

とミチの手を振り払った。

「私……その……帰ります……」

「帰るって、どこへ?」

「……その辺の公園で寝ます……」

「いやいや、危ないって!」

「でも……」

「だったらさ、ウチに泊まればいいじゃん」

一瞬、時間が止まったような気がした。相変わらず、風は激しく窓をたたいているが、たまきの耳はその音を認識できなかった。

「え?」

たまきは、きょとんとした顔で聞き返す。

「いや、だからさ、ウチに泊まれば……」

ミチは急に、たまきから視線をそらした。

「え?」

たまきはもう一度聞き返した。

「いや、その、エンリョとかしなくていいから。ほら、たまきちゃんって、人に迷惑なんじゃないかとか、すごい気にする子じゃん。だけど、俺のことは全っ全気にしなくていいから」

「いや、エンリョというか、それもあるんですけど……その……」

たまきは、申し訳なさそうに下を向いた。

「危ないんじゃないかと……」

「まあ、普通はそう思うよね……」

ミチはまた、ポリポリと頭をかく。

たまきは頭の中で、「公園で寝る」と「ミチの部屋に泊まる」の危険度を比べた。どちらもそんなに変わらないような気がしてきた。

ただ、公園で寝ていたら、悪い人に襲われるだけでなく、もしかしたらおまわりさんに見つかってしまうかもしれない。そうなったらたまきの場合、「警察署でちょっと怒られる」では済みそうにない。

ミチの部屋に泊まれば、少なくともおまわりさんに見つかることはない。あとは、ミチを信用できるかどうか、だ。

ミチはと言うと、妙に視線を泳がせていた。

「ま……無理だよね……。そうだな、どこかたまきちゃんぐらいの年の子でも泊まれるホテルとか……」

「あ、あの……!」

ミチの言葉に覆いかぶさるように、たまきが言った。

「よろしく……お願いします……!」

たまきはぺこりと頭を下げた。彼女のつやのいい黒髪を見ながら、ミチは言葉を漏らした。

「……え?」

つづく


次回 第33話「柿の実、のち月」

……このままラブロマンスに行くとでも思ったかい?

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クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」