「舟を編む」を見る

久々に連ドラを見てます。

NHK BSで日曜日に放送しているドラマ「舟を編む」

小説を原作とした、出版社の辞書編集部を舞台とする物語です。

前から興味はあったんだけど、小説も映画もなかなか手を出すのはおっくうで。

で、今度連ドラでやるというので、とりあえず初回だけでも見てみようかなと。見続けるかどうかはそれから考えるということで見始めたんですけど、一話目がしっかり面白くて、見続けてます。

辞書作りに没頭する馬締さんの役を、RAD WIMPSの野田洋次郎が演じてるっていうのがいいです。

稀代の作詞家である野田さんが、言葉を探求する辞書編集者を演じるというのは、説得力があります。

RADの時の野田さんはどこかクールな印象があったので、その野田さんがさえないけどキマジメで、言葉と真摯に向き合う辞書編集者を演じてるというのはなかなか面白い。RADの曲を聴いてても、「この歌を歌ってる人が、『舟を編む』の馬締さんを演じてるんだっけ?」と、どうしても頭の中でつながらない。

キャスト的には、かっこいい刑事役のイメージが強い柴田恭兵さんが、紳士的な国語学者を演じているというのも、なかなか面白いです。

キャストだけでなく、ストーリーももちろん面白い。「SHIROBAKO」もそうだけど、僕はこういうモノづくりをテーマにしたお話が好きみたいです。

特に面白いのが、辞書のソフト面である「言葉」だけじゃなくて、ハード面である「紙」へのこだわりも描かれているところ。他社よりも軽い辞書にしたいと考える馬締さん。だけどそのオーダーを受けて製紙会社の人が持ってきたサンプルをチェックした馬締さんは首を横に振る。

「ぬめり感がなくなっています」

以前のサンプルにはあった「ページをめくるときに手に吸い付いてめくりやすくなる感覚」が新しいサンプルにはないのだそうで。おまけに、紙を軽くするということはつまり薄くするということで、そのぶん強度が弱くなることでもあるのです。

本当に、モノづくりを始めると、ソフトだけでなく、ハードの部分にもこだわり始めます。沼です。

ここで言う「沼」とは辞書的に言えば「俗用」というやつで、「一度はまると奥が深くて抜け出せなくなる状態」というやつですね。

でも、僕はこの言葉はあんまり好きじゃなくて。

だって、沼にはまったらもう死ぬしかないじゃないですか。ヤダよ、そんなの。

「沼にハマる」よりも「森に迷い込む」の方が僕はしっくりきます。森なら生きていけるし、沼よりも視界は開けてるし。

イヤぁ、言葉って面白い。

そして、言葉を詰め込んだ辞書作りを描く「舟を編む」も面白い。

ただ、ひとつ心配事があって。

今回のドラマ、原作にかなり変更を入れているらしいんですよ。

ドラマと原作の関係が何かと言われている昨今、原作にだいぶ手を加えているみたいだけど、大丈夫なのかな。

と思ったけど、番組のホームページで原作者・三浦しをんさんのコメントがあって、「脚本を笑いながら読ませていただきました」と書いてあったので、大丈夫なのかな。

まあ、『舟を編む』は2011年の作品で、これまで映画化されたりアニメ化されたりしている小説ですから、それをいま改めてドラマ化するとなると、「原作とは少し違う形で」というのがベストなのかもしれません。

8年前のドカ雪

この前は久々のドカ雪でした。畑仕事をはじめて、はじめて、はじめての冬です。あれ? はじめて一個多いかな?

人や車が往来する道路には雪は残らなくても、畑にはしっかり雪が残ってました。

屋外の流し場にも雪が積もって泡風呂みたいになってました。

雪の中で野菜の様子をチェックしようと「トンネル」と呼ばれる装備を外そうとするけど、雪解けの泥でぐちゃぐちゃ。ただ野菜の様子を見たかっただけなのに泥遊びをする羽目に。

ニュースを見てると参考までにと、8年前の大雪の映像を流してました。

ああ、懐かしいなぁ。

2015年2月14日。あの日のことはいまだに忘れない。血のバレンタインならぬ、ドカ雪のバレンタイン。

その日、大好きなHOME MADE 家族のライブが、さいたま新都心のライブハウスであったんです。

ところが、異例の大雪。電車は動くのか、ライブは開催されるのか、そもそもHOME MADE 家族は会場に来れるのか。不安は尽きません。

ただ幸いなことに、さいたま新都心はぎりぎり徒歩圏内だったので、交通機関が止まっても会場に行ける。大雪の中をひいひい言いながらライブハウスまで歩きました。

無事ライブも始まり、HOME MADE 家族はステージに立つなり、「今日は本当によく来たな!」。ふつうのライブの10倍くらい歓迎されました。

会場はいつものライブより若干すきまがあって、ああ大雪で諦めて来れなかった人もいっぱいいたんだろうなぁ、と。

そして始まるライブ。「アイコトバ」「少年ハート」などの定番の名曲から、新曲まで、ライブパフォーマンスがすぐ目の前で繰り広げられます。その曲で飛び跳ねたり踊ったりするぼくたちオーディエンス。

武道館で一万人を前に歌ったり、テレビで電波に乗せて歌ったり、ラジオで何度も流れたりして、大勢の人が聞いてる曲たちを、今日このライブハウスに大雪のなか必死でたどり着いた数百人のためだけに今歌ってくれてる、これはライブの究極の醍醐味だなぁ。たぶんアーティスト側の視点でも、「大雪の中で必死で来てくれた限られた人たちのためだけに歌う」ということはなかなかないんじゃないかな。

それから半月ほどして、毎週見ていた深夜の番組「さまぁず×さまぁず」を見ていた時です。

「さまさま」はさまぁずの二人がお客さんの前でトークをする、というだけのシンプルな番組。でも、毎週録画するほど好きでした。

さまぁずの二人がお客さんの前に出てきて、あいさつをしてからトークが始まるのですが、その回は出てくるなりお客さんに向かって、「今日は本当によく来てくれた!」といつもの10倍の大歓迎。

ああ、あの日だ。あの日の収録だ。

きっと、さまぁずの二人も、お客さんも、ひいひい言いながらテレ朝のスタジオに行ったんだろうなぁ。

君たちはどう疲れをとるか

最近、「いかに疲れをリカバリーするか」に力を入れています。

一流のアスリートは「どれだけ練習するか」よりも、「いかに体をケアして、いつも通りの実力を発揮するか」に力を注ぐって言います。

僕も一流の市民なので、「いかに疲れをとって、次の日も元気に動けるか」を考えねばなりません。

たとえば、マッサージチェア。近所のイオンに100円200円でできるマッサージチェアがあって、たまに使うのですが、凝りがほぐれてホニャホニャになります。

よし! マッサージチェを買おう!

と思ったけど、いくつか問題が。

まず、シンプルに値段が高い! 旅館に泊まって温泉に浸かった方がマシじゃ! ってくらいの値段がします。

おまけにデカくて場所をとる。

マッサージチェアを買ってしまったら、今ある椅子は邪魔なので捨てなきゃいけません。壊れてもいないのにマッサージができないただの椅子だから捨てられるとは、なんて不憫な子。

あと、マッサージチェアではいつも全身コースでやってるんだけど、

よくよく考えると、別に全身やってもらう必要はなくて、腰だけだったり、背中だけだったり、肩だけだったりでいいような……。

でも、せっかくだしもったいないからと全身コースで10分15分ほどやってみるんだけど、終わってからやっぱり思う、「腰だけでよかったな……。肩とか腕とか、いらんかったな……。そのぶん腰を重点的にやってもらえばよかったな……」

全身やってもらう必要がないんだったら、あんなにバカでかい必要もないわけで。もっとコンパクトなものにして、その時その時で必要な個所を重点的にマッサージすればいいのでは……。

というわけで、マッサージ器具があるお店をいろいろとまわってみました。

で、この前2000円ぐらいで買ったのがのが、このイボイボ付き鉄アレイみたいなやつ。樹脂なので鉄よりずっと軽いけど。

これを椅子と背中・肩の間に挟んだり、足で挟んだり、布団においてこれの上に直接寝たり、

これだけで硬くなった筋肉がほぐれて、ホニャホニャになります。

あと、こいつを枕元に置いておけば、朝起きれないときにこれを背中と敷布団の間に挟めば、「痛い! 痛い! 起きる! 起きます!」ってこともできます。

痛いということは、それだけ筋肉が凝り固まってるということ。どうやら寝てるだけでもそれなりに筋肉が固まってしまうようです。だから朝がだるいのか。

80㎏まで耐えられるので、僕が全力で踏んづけなければ大丈夫。

いま、さらに5000円の「超電動ブルブルボール」、と僕が勝手に呼んでるやつを買おうかどうかを考えています。イボイボと電力、二つの力を使いこなせれば、さらなるホニャホニャの境地に達することができるんじゃないか、と。

あと、イボイボは加減を間違えるとかえって体を痛めるし。

理想は、疲れを残さず、翌日も元気に動き回ること。

今のところ、イボイボのおかげで翌日に疲れが残らなくなりましたとさ。

これは発明だ!

引き続きですね、大人数の飲み会には参加したくない、っていう話です。

思えば、そもそも居酒屋の机自体が、20人、30人という大所帯の飲み会に向いてないんじゃないですかね。

どこのお店に行っても、お客さんが大所帯となると、机をくっつけて、テトリスの長~い棒みたいな形にしてます。

これだと、何十人で来ようが結局、隣と正面とはす向かいの5人ぐらいしか会話できません。遠く離れた席で会話が盛り上がってても、聞こえやしない。だったら最初から四、五人で来るのとそんなに変わらないじゃないか。

そういえばあのダ・ヴィンチの「最後の晩餐」に描かれているのも、長~い机でした(しかもなぜか、全員が同じ方を向いている)。これだと端っこの人は、イエス・キリストの話が聞けていなかったかもしれません。

イエス「この中に裏切り者がいる……」

弟子「え、なになに? よく聞こえない」

絵をよく見てみると、一番左端の弟子はイエスの方に向けて身を乗り出しています。やっぱりよく聞こえてないじゃないか。

右端の3人は話に夢中でイエスの方を見ていません。やっぱり聞こえてないじゃないか。

なにが「最後の晩餐」。これじゃまるで「よくある飲み会」です。最後の晩餐なんだから、もっと配慮した机を用意してあげてよ……。

そういや、イエスはもともと大工じゃないか。だったら、その場で机をのこぎりで半分に切るとかさ、色々と工夫が……。

なんの話だっけ?

やっぱり、細長い机っていうのがよくない。

特に、僕は左利きなので、僕の左側に右利きの人が来ると、高い確率で食事の時に肘がぶつかっちゃう。

つまり、細長~いテーブルの場合、僕が座れる席は列の一番左端の二か所しかないんです。

だからいつも、しゃべれる相手は、正面、横、はす向かいの4人だけ。

どーりで大人数の飲み会が楽しくないわけだ。

そう考えると、中華料理屋の丸テーブル、あれこそ、大勢で食事する時にうってつけの机なんじゃないのか?

細長いテーブルだと、テーブルをどう並べようが「一番遠い人」はめちゃくちゃ遠くなります。

でも、丸テーブルなら「一番遠い人」はなんと真正面に来る!

これは、発明だ!

しかも、中華の丸テーブルなら真ん中が料理を乗せてぐるぐる回るから、後輩が料理を取り分けるみたいな気づかいもいらない!

これは、発明だ!

そうなんですよ。「円」という図形は、数学的には「中心から同じ距離の場所を線で引いたら浮かび上がる図形」なので、丸テーブルの真ん中に料理を置けば、全員から等しく同じ距離になるのです。

これは発明だ!

そのうえ、丸テーブルに左端なんてない!

これは発明だ!

よし、特許をとろう!

飲み会がしたい2

飲み会がした~い。

と、ちょうど1年ぐらい前にも書いた気がします。

……気がする、どころじゃないです。記録をさかのぼってみれば、1年前にちゃっかり書いてます。「飲み会がしたい」と。

そしてこうも書いてます。仕事の愚痴とか、家庭の話とか、趣味の話とか、

そういう話はしたくないんだ、と。

話たくないし、聞きたくない。そもそもそんなに興味がない。

そもそも、数千円の会費払って、日程調整して、わざわざ電車に乗って出かけて、わざわざ顔を突き合わせて、する話が仕事の愚痴とか、アニメの話とか……。

そんなの電話でいいじゃん!

近況報告? 知らん。他人の近況なんぞちっとも興味がない。逆に、自分の近況を語るのも、僕自身が一番興味がない。

なんなら今、友達とオンラインで通話して、アニメのとか特撮とかの話をしながらこの文章を書いています。やっぱり音声だけで十分じゃないか。その方がリーズナブルだし。

せっかく顔を突き合わせるんだったら、僕はもっと熱い話がしたい。いま何に挑戦してるのか、いま何に熱くなっているのか、そんな話がしたい。飲み会が終わって、帰りの電車で一人になってもまだ熱さが残る、「よーし、あいつには負けないぞ!」と火がついて、帰ったらすぐに作業に入る、そんな飲み会がしたいのです。

飲み会といえば、最近は大人数での飲み会はもう断るようになってきました。多くても10人くらいまで。居酒屋でテーブル二つぐらいまで。それ以上の大人数での飲み会はもう、最初から断るようにしています。

大人数の飲み会って思い返してみても、あんまり楽しいと思ったことないな、と思って。

もっとああすりゃよかった、こうすりゃよかった、あっちのテーブルの方がよかったな、この話題には入っていけないな……。

帰りの電車で反省点しか出てこないんだもの。いったい何しに行ったんだか。

そんで出てくる話題はというと、仕事の愚痴だったり、家庭の愚痴だったり、アニメの話だったり、近況報告だったり……。

ほんと、何しに行ったんだか。

だったらもういっそのこと、最初からいかなくてもいいんじゃないか。「ひょっとしたら楽しくなるかも」ぐらいのレベルだったらもう、最初からいかなくていいんじゃないか。

だいたい、大人数になると往々にして、あまり話したことない人だったり、下手したら初対面の先輩後輩がいたりするものです。

そういう人たちとお酒の席で打ち解けるほどの話術も、盛り上がる鉄板ネタも、こちとら別に持っていないわけですよ。

だからこの先は、自分が楽しめる飲み会かそうでないか、しっかり見極めてから参加しようと思うのです。

あ、でもお花見とかはいちおう声だけはかけてほしい(めんどくせぇな)

冬がはじまるよ♪

今年は「冬がはじまるよ♪」がラジオで流れる前に、冬がはじまっちゃってる気がしますね。

まったくもって、無作法な冬ですよ。入場曲を流さずにいきなり入場してくるなんて。

そういえば、今年の夏、あいつも無作法でしたねぇ。

ラジオで「若者のすべて」が流れてるのに、ずっと居座ってるんだもの。

9月ぐらいにあっちの番組でもこっちの番組でも「若者のすべて」が流れて、一日に二度も聞くなんてこともあったのに、

まだ居座ってやがる。

まあ、「真夏のピークが去った 天気予報士がテレビで言ってた♪」だから、ピークが去っただけで夏が終わったとは言ってないんですけど。

でも、あの曲はどこのラジオDJも「夏ももう終わりだなぁ」と思った時に流す曲です。そして、リスナーも「夏ももう終わりだなぁ」と思いながらしみじみと聞くんです。

だから夏よ、とっとと家に帰れ! 下校のチャイムはもう鳴ってるだろ!

「街灯の明かりがまたひとつついて帰りを急ぐよ♪」って歌ってるんだから、夏も急いで帰りなさい!

無作法といえば、秋も無作法です。今年は秋をあまり感じなかった。まったく、秋の定番のあの曲がラジオで流れてるというのに……。

……秋の定番のあの曲?

そんなのあったっけ?

童謡とかだとちらほらありそうだけど、ラジオじゃ流れないしなぁ。

そう考えると、秋って無作法の前に不憫なやつなんです。

秋が始まるときにはその期待感よりも「夏の終わり~♪」と名残惜しそうに歌われ、

秋が終わるときは惜しまれるどころか「冬がはじまるよ♪」と楽しそうに歌われる。

バンプには「冬が寒くて本当によかった♪」なんて言われる始末。秋は中途半端な気温で悪かったな。

毎年こんな感じなので、とうとう秋がへそを曲げて今年は来なかったのかもしれません。

ふだんはろくに期待もしてないくせに、いざ秋が短いと「今年の秋、短くない?」「このまま夏と冬だけなのかな。やだなぁ」と、人間ってやつは勝手です。

秋だって楽しいじゃないか。オクトーバーフェスとか、ハロウィンとか、秋のイベントですよ。

そもそも、こういうイベントは元々は収穫祭でしょ? 実りの秋。楽しい秋。世のミュージシャンはもっと秋の歌を歌うべきですよ。

たとえば、「飲める飲める飲めるぞー、酒が飲めるぞー♪」と毎月何かしらのイベントで酒を飲む唄「日本全国酒飲み音頭」で11月はどう盛り上げられているかというと……。

「11月はなんでもないけど、酒が飲めるぞ~♪」

……もうやめようか、この話。

引き算、掛け算、割り算

久々に、四角大輔さんの話をラジオで聞いていたんです。

芸術家の日比野克彦さんとの対談だったんですけど、大輔さんの方がゲストという立場で自己紹介みたいなところから話していく感じ。「ミニマリズムとは何ぞや」いたいな感じで。

そういった話を聞きながらふと思ったのが、「僕の生き方って、『足し算』ではないかもなぁ」ということでした。

人生のステップアップに合わせて、欲しいものを手に入れて、必要なものを買って、という生き方ではないなぁ、性に合わないなぁ、と。

むしろ、どんどん荷物が少なくなってる感じがします。そういう意味では、僕もミニマリストに近いのかもしれません。いろんなものを「いらねぇや」と捨ててます。

たとえば、飲み会に行ったとき、腕時計の話になったんです。

どんな腕時計をしてるのか、いくらしたのか、奮発したよー、そんな話。

でも、僕はその話題に全く入れなかったんです。

なぜなら、そもそも僕、腕時計してないんです。いらねぇや、って。

時計が目に入るところにあると、時間を常に意識してせかせかしちゃうので、思い切っていらねぇや、って腕時計するのやめたんです。

最近は、スマホカバー使うの、やめました。重くて邪魔だし、いらねぇや、って。

スマホ落としたらどうするんだって? 落とさなきゃいいんじゃないかな。

そうやって振り返ってみると、僕は自分の生き方において、足し算よりも引き算の方を大事にしてるんじゃないかな。欲しいものを足していくよりも、いらないものを引いていく。

とはいえ、僕も仙人じゃないので、何もかも捨てて山奥で裸一貫で霞を食って生きていきたいわけではありません。

ゼロになるまで引き算してるわけじゃなくて、好きなことややりたいことはちゃんと残しておいて、引き算で生まれた時間で好きなことをする。

つまり、今度はかけ算をしているわけなんです。好きなこと、やりたいことに使う時間を、何倍にも増やしていく。

たとえば、SNSを見る時間とか、ゲームする時間とか、誰かの悪口を言う時間とか、そういうのはどんどん引き算していって、空いた時間をモノづくりに当てる。やりたいことに対して、もともとの何倍もの時間を当てられる。

だからと言って、好きなことばかりしているわけにもいかない。働かなきゃいけないし、畑も耕さないといけない。「出来上がったZINEを印刷・製本する」という、おもしろくもなんともない作業もしなければならない。

だから、1日のうちで何にどのくらい時間を使うかを、きちんと割り振る。これはわり算です。

こんなふうに考えていくと、なるほど、僕の生き方は、引き算・掛け算・割り算で成り立っているんだなぁ。あれもこれもと足し算していくんじゃなくて、いらないものを引き算して、やりたいことを掛け算して、時間を割り算していく。

そして最後に、ホントに必要なものを、最後に足し算すればいいのかな、と。

この前は6000円のちっちゃい台車を買いました。イベントの時の運搬に必要だったんで。軽くて使いやすいんですよ。腕時計の話はできないけど、ちっちゃい台車の話なら大歓迎ですよ。

時間の流れが早い?

一般的に、年を重ねるごとに1年の感覚がどんどん短く感じるようになる、って言いますよね。もう6月、もう8月、もう10月、すぐクリスマスが来て、大みそか、お正月。そんなバカな。だってついこの間もお正月だったじゃん! このまえ初詣行ったばかりなのに、って。

僕も御多分に漏れずそのように感じていまして、そのうち人生なんてあっという間なんて焦りを感じていたんです。

……ですが。

この前、吉祥寺に行った時のこと。

町を歩きながら、そういえば去年の今ごろ、初めて吉祥寺を訪れたんだよなぁ、と思い出します。その時は吉祥寺に新しくできたZINEのお店の見学に行っていて、あれからそこが主催するイベントにも何回か出展させてもらって……。

え、これ、ぜんぶ1年以内の話?

体感では1年半ぐらいかと思ってたのに。

ほかのことを思い出してみても、「あれからまだ1年たってないの?」なんて驚くこともちらほら。

まあつまり、「1年前って何やってたっけ?」と振り返ってみると、1年ってちゃんと長いんだなぁ、ということに気づいたんです。

すなわち、短く感じていたのは「1年の長さ」じゃなくて、「ルーティンの感覚」の方だったんですよ。

毎年同じように年末が来て、大みそかになって、お正月になって、というルーティン、これが短く感じるようになっていたんです。

「もう8月!? いやだ~! 早い~!」というのもおんなじで、1月、つまり「お正月」というルーティーンを基準に考えちゃうから、時間の流れが速いように感じちゃう。

ということは、基準となる1月にルーティーンのようにお正月を過ごすのをやめて、毎年何か違うことをすれば1年を短く感じることがなくなる、のかもしれません。

時間の流れと言うと、1日の長さも早く感じる日もあれば長く感じる日もあります。

この前、日中は働いて、夕方になって飲み会に行って、二次会にも参加して、酔った友人の介抱をして、ようやく帰路につこうという時にふと思ったのです。「ふう、ようやく一日が終わる。長い一日だった」と。

あれもこれもと詰め込んだ一日を送ったら、いつもよりも長く感じた。

ということは、予定をいっぱい詰め込んだ方が、1日が長く感じるんじゃないか。

つまり、生き急いでいるように生きる方が、実は一日が長く感じる!

なんてこった! あれもこれもと予定を分刻みに詰め込んで、生き急いでいるように見えるような人が、実は人生をゆったりと楽しんでいたなんて!

バズらない、突き刺され

先日、とあるイベントに出店した時のお話。

その日は10時間っていう長丁場だったんですよ。

会場は吉祥寺のパルコの地下一階。お客さんも文学フリマの時とは少し違う客層。あまり民俗学に興味なさそう。

つまり、アウェーなんです。

とはいえ、このイベントに参加するのは3回目なのでアウェーなのは百も承知だし、アウェーだけどそれなりに売れることもわかってるんです。

それでもやっぱり苦戦しました。さっぱり売れない、売れても1,2冊、そんな時間が後半は続きました。

今日はダメだなぁ、まあいい、アウェーでも学ぶことはあるさ、と半ばあきらめていた最後の1時間。そう、10時間の最後の1時間。いきなりこんなお客さんが現れたんです。

「ここに置いてあるのぜんぶ買うといくらになりますか?」

全部!?

その時は「民俗学は好きですか?」シリーズのうち、vol.5を除いた8種類がブースに並んでたんです。

「3200円です……」と答える僕。

「じゃあ、ぜんぶお願いします」

とお客さん。

ホントに全部っすか!? 今言ったとおり、3000円しますよ!?

MJじゃん! マイケル・ジャクソンの買い方じゃん!

3000円もあったら、ここからだったら特急で長野まで行けるよ?

3000円もあったら、ちょっとした飲み会に出席できるよ?

3000円もあったら、上手くやりくりすれば映画2本ぐらい見れるよ?

その貴重な3000円を私のために使うというのか?

こうして、最後の最後にして在庫は一気にはけたんです。

そして、思うんですよ。

僕が目指すべきものはこういうことなんじゃないか、と。

「より多くの人に」とか「ひとりでも多くの人に」みたいな作り方・売り方じゃなくて、「ひとりの人に深く突き刺さるものを作って、売る」なんじゃないかって。

「民俗学エンタメZINE」なんて銘打ってる時点で、興味ある人しか買ってくれないわけですよ。いきなり間口を狭めているわけですよ。マニアックなわけですよ。だったら、「より多くの人に」じゃなくて「たった一人に突き刺さる」を目指すべきでしょう。

今の世の中、やれ「フォロワー数何万人」とか、「チャンネル登録者数何万人」とか、人数の多さばかり取りざたされて、この「たった一人突き刺さるものが作れたか」は評価されにくいんじゃないでしょうか。

たしかに、「1万人の人が見たくなる動画」を作るのは大変です。

でも、「誰か1人が1万回見たくなる動画」を作るのはもっと大変。

さらに言えば、家族や友達など好みをよく知ってる特定の人に向けたものではなく、「見ず知らずの誰か1人が1万回見たくなる動画」なんて、もっと大変!

だけど数字の上ではどっちも同じ「1万回再生」です。

さらに言えば、「なんとなく見た人が1万人いたよ再生」とか、「熱心に見た人が100人いたよ再生」とか、見た人がどれだけの熱の入れようかを測る術はないわけで。

何でもかんでも数字で表せる時代だからこそ、数字では表せない価値ってものにもっと注目してモノづくりをしていきたいと思う今日この頃です。

「バズらない、深く突き刺され」をこれからのテーマにやっていこうかしら。

ちなみに、そのイベントは「吉祥寺ZINEフェスティバル」というのですが、明日もあってまた出店します。

畑は遠くなりにけり

畑を借りて二月ほどです。農園からもらったテキストとにらめっこしながら、野菜を育ててます。わからないことは農園のアドバイザーに聞いたり、ネットで調べたり……。

大人がテキストを見ないと野菜ひとつ育てられないって、それってどうなんですかね……?

だってしょうがないじゃないか。野菜作りなんて習ったことないんだから。

そう、「野菜作りなんて習ったことがない」んですよ。

小学生の時、ナスやプチトマトを育てたことはあるんですけど、2年生の時にやったっきりなので、もちろんほとんど覚えてません。

そもそも、義務教育で「技術」も「家庭科」も「音楽」も習うのに、「農業」という教科がないなんて、おかしくないですか?

もちろん、音楽を学ぶことも大事です。NO MUSIC NO LIFE。音楽なくして人生なし。

でもそれ言ったら、NO FARM NO LIFEじゃないですか。農業なくして生命なし。

学校の部活でも、演芸部とか農業部とか、あるところにはあるんだろうけど、少なくとも僕が通った学校にはなかったですよ。

ウチの中学はやたらとデカい校庭のほかに、体育館があって、球技コートがあって、武道場まであったんですよ。一個ぐらい潰して畑にしてもかまわないと思うんですけどねぇ。「プロサッカー選手がいない国」よりも、「プロ農家がいない国」の方がヤバいんだから。

それでいて、「日本の食料自給率が低い」ってぼやいてるんですよ。

だってしょうがないじゃないか。学校で農業を教わってないんだから。縁遠い職業が選択肢に入るわけないじゃないか。畑は遠くなりにけり。

畑だけじゃなくて、海もなんだかどんどん都会から遠ざかってる気がします。

浦安の方に行くと、埋め立てられて海岸線が何キロも遠くなってる上に、海岸沿いは工場だディズニーランドだで全然海にたどり着けない。「浦安物語」を読むと、あの時代はもっと海が身近に感じるんだけどなぁ。

民俗学を少しかじって思うのは、都市生活ってめっちゃ「不自然」なことをやってるんじゃないか、ということです。都市のマンションで暮らしたり、独り暮らししたり、電車に乗って通勤通学したり。歴史的にはたかだか数十年ぐらいしかやってない生活スタイルのはずなのに、なんかそれが常識みたいな感じになっちゃってる。

でも、「近所に畑がない」「ふつうに生活してると、土にも植物にも触らない」「仕事場に歩いていけない」、これってよくよく考えると、不自然なことなんですよ。

不自然だからよくない、東京は野原に帰れ! とは言わないけど、不自然なことはやっぱり不自然で、それを常識みたいな顔して生きてるのも、やっぱり不自然なことなんじゃないでしょうかね。