新宿と上野が「カオスの街」となった理由

なぜ、外国人街と風俗店街は隣り合ってるのか? これまで新宿と上野を舞台になんと3回に分けてその理由を考察してきたが、ついに最終回である。なぜ、新宿と上野だけが「カオスの街」となったのか。そのカギを握るのは、民俗学で言うところの「境界」なのではないだろうか。


これまでのあらすじ

きっかけは、西川口のチャイナタウンに行った時だった。チャイナタウンと風俗店街が隣り合っている風景を見ているうちに、外国人街と風俗店という組み合わせは多いのではないか、と考えるようになった。

東京では、新宿と上野がそうだろう。

新宿は日本最大の歓楽街・歌舞伎町があり、歌舞伎町から道路を挟んで反対側は、やっぱり東京最大のコリアンタウン、新大久保だ。

上野はアメ横内にアジアの料理を出す屋台が多い。アメ横の周辺には「キムチ横丁」をはじめとした韓国料理屋が多い一方で、風俗店街も多い。

そのすぐ北にはラブホテルが密集する鶯谷がある。さらにその北にはやはり在日コリアンが多く住む三河島がある。

外国人街と、風俗店街は確かに密接な距離にあるのだ。

その歴史をたどると、戦後の闇市の時代に行き着く。

闇市の時代では、テキヤをはじめとするアウトロー集団や、第三国人と呼ばれる在日アジア人たちが力を持っていた。

本来、アウトローはやはり町で大きな力を持つことも、外国人が日本で土地を取得して町を形成することも、難しい。だが、闇市の時代はあらゆる秩序が崩壊し、それが可能だったのだ。

こうして、闇市の時代に新宿や上野では外国人街や風俗店街へと移り変わる土壌が出来上がる。それまでの常識や秩序が崩壊し、権力の外にいたアウトローや外国人が、闇市の時代に力を手に入れたのだ。

だが、ここで疑問が一つ残る。

闇市の時代に外国人やアウトローが力を持つ。

これは何も、新宿と上野に限った話ではない。

東京のいたるところに闇市が立ち、どこの闇市でも大体状況は同じだったはずである。

だが、今、東京でも風俗店街や外国人街が密集しているのは、新宿と上野くらいである。

ほかの町では、闇市の時代に一時的に彼らが力を持とうとも、警察機能や地権者が力を取り戻すにつれ、その影響力は失われていったはずである。

だが、新宿と上野はそうはならなかった。形を変えて、外国人街や風俗店街は生き残っていったのだ。

なぜ、新宿と上野だけなのだろうか。ほかの街とは何が違ったのだろうか。

そのカギを握るのが、「境界」という言葉である。

境界がカオスをはぐくんだ

境界。すなわち、どこかとどこかの境目。

身近な境界では、敷地と公道の境目とか、自分の土地とよその土地の境目とか、県境とか、国境とか、とにかく、どこかとどこかの境目である。

民俗学の世界では、この境界はなかなか興味深い場所だ。

いまでこそ、県境はただの「行政区分の変わり目」程度の存在でしかない。

しかし、かつては「村境」というと、「この世とあの世の境」のような扱いだった。

村の外には山や森、人の住まぬ荒れ野原などが広がり、そこには妖怪や幽霊がいると信じられていた。

村の外は人の住まない世界、異界だったのである。

村人たちは、そういった村の外から魔物のようなよくないものがやってくると信じていた。

だから、村境に庚申塚のような魔よけの石仏を置いて、魔物の侵入を防いでいたのだ。

また、神社やお寺は、村と山の境目に作られることが多い。

村は人が住むところ、山は獣や物の怪の住む異界。その境目に、人が神や霊と接する場所である寺や神社を作るのだ。

それは、何も小さな村だけの話ではない。大きな都市も同じである。

たとえば、古都・鎌倉を見てみると、鶴岡八幡宮をはじめとして、多くの寺社仏閣が山沿いに建てられている。

境界から向こう側は、村の常識や秩序が通用しない、カオスな異界なのである。

さて、日本において「外国人街」は異質な存在である。また、都市部においても「風俗店街」は秩序から外れた異質な存在だ。

しかし、こういった街は、客商売をしている店が多く、都市から離れすぎると人が来なくなり、街が成り立たない。

都市の真ん中にあるには異質すぎる。だが、都市の外側では街そのものが成り立たない。

だから、都市の中と外の境界にできる。

境界には、都市の秩序や常識から外れたものをはぐくむ力が、「カオスをはぐくむ力」があるといってもいい。

実際、村境には寺や神社、魔よけなど、村の中の理から外れた、人の世ならざるものと交流できる場所として機能してきた。

怪談話や怪奇現象が起きるのも、決まってこの境界部分である。

では、「東京の境界」とはどこだろうか。

東京の境界はどこだ?

東京の境界? そんなの、東京と他県の県境に決まってるだろう。荒川とか、江戸川とか、多摩川とかを指すのだ。

と思ったあなた、それは「東京都の境界」である。

そうではなく、「都市としての東京の境界」、すなわち、『東京における、都市部と郊外との境界』はどこなのだろうか。

「ここだ!」という明確な答えはないのかもしれない。「ここからこっちが都市部で、ここからこっちが郊外です」という明確なラインはないからだ。

だが、それを探す手がかりがある。

それが「江戸の境界」である。

江戸の町というのは、今の東京都と比べると、かなり小規模だった。東京23区よりも小さい。

その境界は、東は錦糸町のあたり、西は新宿、南は品川、北は千住と言われていた。

南千住には「泪橋」という橋がある。あしたのジョーが丹下段平と出会った場所として有名だが、この泪橋とは処刑場跡地でもある。罪人はこの橋を渡って処刑場へと向かう。そして、この橋が家族との最後の別れの場所でもあり、家族は涙を流して見送ったため、どこの町でも処刑場へと続く橋は「泪橋」というのだ。

死のケガレと密接にかかわる処刑場は都市の真ん中には作れない。かといって、都市から離れすぎたら不便だ。そのため、都市の境界に作られた。

さらに、南千住は江戸最大の遊郭、吉原とも近い。境界がカオスをはぐくむというのなら、江戸の北の境界に、江戸最大のカオス、吉原があるのも納得だ。

一方、品川は江戸の南の玄関口だ。つい最近、品川と田町の間の新駅の名前が「高輪ゲートウェイ」だと発表され、「くそだせぇ!」と話題になったが、この「ゲートウェイ」は江戸の入り口だったことが由来だという。

江戸時代、品川は宿場町だった。日本橋から出発する東海道、最初の宿場町である。

江戸を出ていくものからすればまさしく江戸の出口だったし、江戸に向かうものからすればまさしく江戸の入り口である。

さて、この品川の宿場は飯盛り女がいたことで有名である。

飯盛り女とは、超簡単に言えば、娼婦だ。

品川もまた、境界であるが故のカオスを持っていたのだ。

ちなみに、終戦直後、日本にやってきた米兵を性的な意味で接待するためのRAAという施設が作られたが、その第一号ができたのも品川、大森海岸だった。

西の境界線、新宿も同様である。甲州街道の宿場町であり、やはり新宿にも飯盛り女がいた。今でも墓が残っている。

新宿も境界であるがゆえ、寺が多い。

新宿は世界一の乗降者数を誇る駅である。それは、新宿駅の改札をくぐる人が多いだけでなく、新宿で乗り換える人が多いことも意味する。郊外から都市部へと通勤通学する人たちが新宿駅で乗り換える。都市部から郊外へと出ていく人が新宿駅で乗り換える。今も新宿は東京の境界にある街なのだ。

では、上野はどうなのだろうか。江戸の境界が千住だというのなら、上野は境界ではないことになる。

だが、上野には寛永寺がある。寛永寺は江戸城の鬼門に作られ、江戸を霊的な力で守る役目を背負っている。そのすぐ北には谷中墓地があり、広大な墓場が広がっている。

上野もまた、この世ならざるものと接触できる「境界」だったのだ。

江戸の都市全体としての境界は千住だったが、都市の中でもさらに中心部と下町に分かれる。その境目こそが上野だったのではないか。

江戸が終わり東京になると、上野は境界としてさらなる役目を背負う。上野は、東北方面へと向かう列車の始発駅であり、「北の玄関口」と呼ばれていた。

終戦直後には郊外へ食糧を調達しに行った人が、上野で検閲に引っかかって没収された。この時代もやはり、上野は境界の街だったのである。


境界には、カオスをはぐくむ力がある。

かつては、幽霊や妖怪、神様のような人ならざる者、この世ならざる者との接点が境界だった。

今では「境界の向こうにはお化けが住んでいる」などと信じる人は少ないだろう。

だが、境界には風俗街のようなアウトローな街ができたり、コリアタウンのような外国との接点が生まれたりする。

それは、都市の一部でありながら、都市の常識や秩序に縛られない、境界の持つ「カオスをはぐくむ力」があるが故である。

境界には、カオスをはぐくむ何かがある。

新宿の歓楽街も上野のアメ横も、はぐくんだのは戦後の闇市だった

新宿と上野も、アジアンタウンと風俗店街が隣接している。なぜ、アジアンタウンと風俗店街は隣り合うのか。そして、なぜ、新宿と上野なのか。その理由を戦後の闇市という観点から紐解いていきたいと思う。新宿と上野は、いや、東京という町は、戦後の闇市から生まれた街なのだ。


これまで、このブログでは新宿と上野を歩きながら、以下のことを見てきた。

・風俗店街と外国人街が隣接、混在している。

・どちらの町も、江戸において中と外の境界、異界との入り口にあった。

風俗店街と外国人街の奇妙な関係 新宿編

風俗店街と外国人街の奇妙な関係 上野編

なぜ、外国人街と風俗店街が隣り合うのか。それを紐解くには、新宿と上野の歴史を見ていかなければならない。

その始まり、「戦後の闇市」の時代を。

戦後の闇市の姿

「東京の歴史を探る」という話をしたら、江戸時代から始まるのがふつうな気もする。

だが、残念ながら現代の東京に江戸の町並みはほとんど残っていない。江戸時代を彷彿とさせる建物が残っていたら、東京ももっと違った街になったろうに。

江戸時代はおろか、明治・大正の町並みすら残っていない。なぜだろうか。

いろんな要因があるだろうが、その一つが「第二次世界大戦」である。

東京大空襲をはじめとする空襲で、ほとんどの建物が焼けてしまったのだ。

新宿だ上野だといったターミナル駅の周辺も、終戦直後は建物なんてほとんどなかった。

もっとも、こういったターミナル駅の周辺は、火事になるのを防ぐために住民を疎開させて、先に建物をぶっ壊して更地にしておくという「交通疎開空地」と呼ばれる場所も多かった。

まあとにかく、終戦直後の東京は今の東京からは想像もつかない焼野原、「ほぼ更地」だったのだ。

さて、戦争が終わり、一抹の開放感はあったものの、何よりも大事なのは自分や家族の命、今日のご飯と明日のパンツである。なんとしても食糧を手に入れなければいけない。

そういった事情から、東京の駅という駅の周りには闇市が立った。露店やバラック小屋で、食料品や日用品を売っていたのだ。

しかし、なぜ「闇市」というのだろう。

「闇市」の夜「闇」とは、「非合法」という意味だ。

露天商にしてもバラック小屋にしても、不法占拠だった。法的にそこで商売する権利は何もない人たちが、勝手に居座って商売をしていた。

さらに、政府による食料統制もあったため、勝手に食料を売ってはいけないことになっていた。

闇市を取り仕切っていたのも、テキヤというアウトローな集団だった。

闇市は違法行為なんだけれど、それを取り締まっていたら、食糧が手に入らない。東京高校の教授だった亀尾英四郎や、東京地裁の判事だった山口良忠は、闇市での食料購入を拒み、餓死した。山口は日記の中で「食料統制は悪法だ」と断言しつつも、それでも法の順守を貫いた。

逆に言うと、法律を守っていたら食べ物が手に入らずに死んでしまう時代だったのだ。

警察も取り締まりを行っていたが、終戦直後の混乱期ではやはり警察機能の弱体化は否めない。

さらに言えば、警察は黙認どころか、裏で闇市を推奨していた。新宿西口の安田マーケットは、テキヤの「安田組」が取り仕切っていたが、安田組にマーケットを仕切るように依頼したのは、なんと警察署長だった。闇市は違法だが、このままでは第三国人に新宿を乗っ取られかねないと危惧した警察署長が、そうなる前にと安田組の親分に西口のマーケットを仕切るように依頼したのだ。もちろん、西口のマーケットも不法占拠だ。

それにしても、どうしてこうもホイホイ不法占拠ができるのだろうか。

いまの新宿でどこか空地があったとして、そこで勝手に商売を始めれば、必ず地権者がやってきてけんかになるだろう。

つまりは、地権者にばれなければ、不法占拠は継続できるのだ。

終戦直後、地権者はどこへ行ってしまったのかというと、たいていが疎開していた。

終戦直後の東京は誰もかれもが今日を生きるのに精いっぱい。更地になってしまった土地なんてどうでもよかった。そんなことよりも必要なのは今日のご飯、明日のパンツである。実際、新橋でマーケットを仕切っていた中国人が、新橋の土地の地権者に土地を譲ってもらえないかと頼みに地方へ出向いたところ、実にあっさりと譲ってもらえたという。土地を守るよりも、土地を売って食費に変えた方がいい、そういう時代だったのだ。服を売って、家財道具を売って、そうしてあるもの全部売って食費に替えることを「タケノコ」と呼んだ。

だいたい、東京の闇市で売られている食糧は地方から運ばれてきたものである。食事のことを考えると、わざわざ東京へ戻るくらいなら疎開先の地方にとどまったほうが、食糧が手に入りやすい。

そういった事情があるから、東京の地権者たちは戦争が終わってもすぐには帰ってこなかった。そこをこれ幸いとテキヤだの第三国人だの浮浪者だのが占領し、闇市を開いていた。

だが、それは戦後、警察機能が弱体し、地権者が帰ってこれなかった間、それまでの秩序が崩壊したつかの間にしか成立しない。闇市は昭和22年にはほとんど姿を消してしまう。このころになると警察は力を取り戻し、地権者たちも地方から帰ってくる。地権者が帰ってきて闇市を見れば、当然「出てけー!」という話になる。

そこで出ていく者もいれば、土地を買うなり借りるなり、ちょっと場所を移すなりしてそのまま残る者もいた。今の東京の繁華街の多くは、こうした闇市が残り、発展したものだ。

闇市とアメ横

上野のアメ横もそんな街の一つだ。

アメ横には終戦当時、関西からやってきた朝鮮人が多く集まっていた。また、「パンパン」と呼ばれる売春婦も多くいて、彼女たちは桜のマークに「Ueno」と書かれたバッヂを作り、連帯を深めていた。

朝鮮人たちを中心とする第三国人は、仲御徒町の線路沿いで石鹸を売っていて、その一帯は石鹸町と呼ばれていた。

この第三国人は日本人とのいざこざが多かった。上野一帯の第三国人は7割が学生だったという。

やがて、復員軍人や中国からの引揚者からなる近藤マーケットが第三国人をアメ横から追い出す。この近藤マーケットが、今のアメ横へと発展していった。

追い出された第三国人はどこに行ったのかというと、アメ横から大通りを挟んだ反対側にキムチ横丁という街を作った。

ここで重要なのは、終戦後の上野には外国人、特に朝鮮人が多かったこと、そして、彼らはアメ横から追い出されても、上野にとどまり続けたことである。

すなわち、上野は闇市の時代から、朝鮮人をはじめとするアジア人の集まる街になったのである。

闇市と新宿、歌舞伎町の始まり

「光は新宿から」。新宿の尾津マーケットを取り仕切ったテキヤの親分、尾津喜之助が掲げたスローガンだ。

新宿駅前では尾津組や安田組と言ったテキヤ集団が闇市を取り仕切っていた。

だが、戦後1~2年もすると、地権者たちが帰ってきて、闇市の時代は終わりを告げる。

さらに、小田急電鉄が新宿の開発に乗り出す。新宿は小田急の始発駅。始発駅のブランド価値を高めることによって、新宿発の小田急のブランド価値も高まる。こうした開発の波に小さな店は飲み込まれていった。

新宿西口線路沿いの思い出横丁は、レトロな雰囲気を残す場所として、連日多くの人が狭い路地に集まる。ここは、闇市の店が戦後、地権者から正式に土地を購入して残ったという、新宿でも非常にレアなケースだ。

さて、新宿、いや、東京最大の歓楽街と言えば歌舞伎町である。歌舞伎町もそうして闇市が発展したものだ。

……と言いたいところだが、実は違う。

もともと、今の歌舞伎町の一帯は武家屋敷の跡地、「大村の森」と言われる森だった。今の大久保病院の前には、池があり、花道通りは川だったという。なるほど、確かに花道通りは、まるで川のように蛇行しているし、歌舞伎町内には水の神様である弁天様が祭られている。

大久保病院自体がそもそも、コレラや伝染病を専門とする、隔離病院だった。歌舞伎町は、そういう病院を作るような、町はずれの場所だったのだ。

終戦後、この「大村の森」は駅から遠すぎて、闇市は立たなかった。一方、町会長だった鈴木喜兵衛は劇場や映画館を中心とした、浅草のような演劇の街をこの地に作ることを構想する。その中心となるのが、歌舞伎座の誘致だった。ゆえにこの地は歌舞伎町と名付けられ、開発が行われた。

だが、この計画は思うようにはいかなかった。歌舞伎座の誘致に失敗したのもあるが、やはり駅から遠すぎたというのが一番の難点だった。

一方、新宿駅前では地権者たちや警察の力がよみがえり、闇市の時代が終わった。そこであぶれた商売人たちが、新宿の北に新しい街ができたと聞きつけ、歌舞伎町で商売を始めるようになった。

やがて、1950年になると朝鮮戦争がはじまり、日本は戦争特需といって朝鮮半島で戦うアメリカ軍に物資やサービスを提供することで、景気が向上する。歌舞伎町もその影響でにぎわいを見せ始めた。

1951年には歌舞伎町内に東京スケートリンクが開業し、これがヒットする。

1952年には歌舞伎町のすぐわきに西武新宿駅が開業。さらに都電の停留所も二つ作られ、最大のネックだった「交通量のなさ」が解消された。

そして1956年には歌舞伎町の中心となる新宿コマ劇場(現在の東方の映画館)がオープン。

こうして、歌舞伎町は発展していくが、昭和30年代はまだ、今のような歌舞伎町とは違い、風俗店だやくざの事務所だといったものはなく、むしろとんかつ屋だ、お茶屋さんだ、パーマやさんだ、工務店だ、パン屋だ不動産だと、どこの町の商店街にもあるような店が並ぶ、庶民的な街だった。「ロボットレストラン」がある桜通など、職人街だったという。今でも歌舞伎町にはこういった店がまだ残っている。

このころは喫茶店ブームで、歌舞伎町にも多くの喫茶店があった。

この喫茶店の経営者には台湾人をはじめとする第三国人が多かった。彼らはもともと、西口の安田マーケットで店を構えていた人たちだ。

歌舞伎町の中では特に台湾人の果たした役割が大きく、花道通りには今でも「台湾同郷協同組合」のビルが建つ。

さて、昭和40年代になると、歌舞伎町の北側にホテルが建つようになったこの一帯は今でもラブホ街となっている。

どうしてホテルなのかというと、商品や技術がなくても、建物さえあれば商売できるから、らしい。

このころになると暴力団が歌舞伎町に増え、犯罪も増加する。ソープランドやストリップ劇場と言った、いわゆるいかがわしいお店も増えてきた。

1980年ごろになるとノーパン喫茶だののぞき劇場だのといった、もはやいかがわしさしかないお店が増える。こうして今の歌舞伎町になっていった。

歌舞伎町は鈴木喜平の想像を超える規模に発展したと思うが、たぶん、方向性は彼の想像とは全然違うと思う。

関東最大のコリアンタウン・新大久保

その歌舞伎町のすぐ来たのは新大久保のコリアンタウンがある。平日でも韓流大好き女子が集まり、遊園地のような賑わいを見せている。チーズダッカルビをはじめとした最新の韓国グルメがウリだ。

さて、どうして新大久保がコリアタウンになったのかについては、諸説ある。

そう、諸説あるのだ。東京のど真ん中、しかもここ数十年のことなのに、どうして諸説あってしまうのかわからないが、とりあえず諸説ある。

諸説その①

新大久保駅のすぐ北には1950年から2017年までロッテの工場があった。今では住宅展示場になっている。

ロッテの創業者は韓国人でロッテの工場にも多くの韓国人が集まっていた。彼らは工場の近くに住み、それがコリアンタウンのもととなった。

諸説その②

歌舞伎町には多くの韓国人が住んでいた。闇市からの流れを考えれば、歌舞伎町に多くの第三国人がいたことは不思議ではない。彼らが90年代になって新大久保に店を出すようになった。

さて、どっちの説が本当だろうか。

たぶん、どっちも本当なのだと思う。新大久保にロッテの工場があったのは事実だし、ロッテの創業者は韓国人だ。韓国人が始めた工場に韓国人が集まるのも自然なことだろう。

そして、彼らが工場の周りに住むのも自然なことだ。これが1950年代の話。

この時点で多くの韓国人が新大久保に住んでいたはずだが、今のようなコリアンタウンの姿とは程遠かったはずだ。

何せ彼らは工場の労働者であり、韓国料理屋をやっていたわけではないのだ。

そこに90年代になって、歌舞伎町内にいた韓国人たちが合流した。90年代の歌舞伎町と言えばすでに一大歓楽街となっていた。そこにいた韓国人たちは接客のプロだった可能性が高い。

彼らは新大久保に移り住み、そこに住む韓国人を呼び込むために、韓国料理の店を始めた。こうしてコリアンタウン・新大久保が完成したのだろう。

第三国人とは何か

さて、ここまで、わざと解説しなかったのだが、さかんに「第三国人」という言葉を使ってきた。

今日では耳慣れない言葉だが、これは終戦直後の在日朝鮮人・在日中国人・在日台湾人のことを指す。

彼らの大部分は強制連行で連れてこられた者たちだ。日本兵として出征した者もいる。

だが、必ずしも全員が無理やり連れてこられたのではなく、中には自分の意志で日本の学校に留学している学生もいた。アメ横の第三国人の7割は学生だったという。

さて、戦争が終わって日本人たちは、戦争は終わったけれど食べモノがない、と途方に暮れたわけだが、同じように途方にくれたのは第三国人も同じだ。

植民地支配が終わり、「祖国に帰る」という選択肢も出てきたが、そんなに話は簡単ではない。

何せ、羽田からソウルや北京に直行便が出ているような時代ではないのだ。国に帰るには船に乗らなければならない。船に乗るには汽車に乗って港に行かなかければいけない。そこまでの交通費や船代も、決してタダではない。

そうまでして祖国に帰っても、そこで楽に暮らせるという保証は何もない。終戦直後の韓国や中国も混乱していたのだ。そもそも、植民地が裕福だったら、日本はこんなに困っていない。日本が疲弊すれば、植民地も疲弊する。

加えて、第三国民は当時、日本で特権的な立ち位置にいた。GHQは第三国人を解放国民として扱った。これは、日本の法の外に置く、すなわち、「まあ、ある程度の無茶は目をつぶりますよ」ということだ。

無理して祖国に帰っても、まともに生活できる保障はない。ならばこのまま東京にとどまって、せっかく得た特権をフルに使おうじゃないか。

こうして、第三国人は一気に勢力を強めた。GHQの横流し品も優先的に手に入れられたので、商売でも日本人より有利な立場になった。特に数が多かったのが朝鮮人で、闇市の時代、日本には90万人もの朝鮮人がいたという(それでも、140万人は帰国している)。

混沌の時代、ヤミイチ

いまここで第三国人の話を詳しくしているのは、こういうことを言いたいからだ。

アジア系の外国人が日本で土地を持ち、店を構え、街を形成できる唯一タイミング、それが、あらゆる秩序が崩壊した闇市の時代である。

闇市の時代でなければ、こんなことはあり得ない。どの町にも古くからの住民がいる。そこに割って入って、あれだけの規模のコリアンタウンを造るのは不可能だ。

終戦直後、警察の力が衰え、違法である闇市が公然と開かれていた。すりやかっぱらい、強盗が横行し、町角にはパンパンと呼ばれる街娼が立っていた。そこでは、それまで虐げられていた第三国人が力を持っていた。

法律、国籍、常識、道徳、そういったあらゆる秩序が崩壊した、「生きるためなら何でもあり」のカオスな時代。

こういった時代だからこそ、本来ならよそ者であるはずの外国人たちが異国の地である東京で力を持つことができ、その後の「外国人街の形成」につながっていったのではないだろうか。

それはいわゆるアウトローたちも同様である。本来ならば警察に取り締まられるべき立場のはずが、この時代に力を持った。闇市のマーケットはテキヤの親分たちが取り仕切った。何せ、警察署長がテキヤの親分に「不法占拠で違法な品を売るマーケットをやらないか」と持ち掛けるような時代である。法律も警察も何もあったもんじゃない、しっちゃかめっちゃかだ。

こういったアウトローたちは、上野に根付き、歌舞伎町に流れ込み、やがて町が発展していくにつれて人が集まると、やくざの事務所や風俗店の経営などに乗り出していったのではないだろうか。

もともと、この記事は「なぜ、西川口に中華料理屋が増えているのか」から始まった。

西川口駅周辺に中華料理店が増えたのはなぜだ‼?

西川口に中華料理屋が増えたのも、「そこにカオスがあったから」という叙事的なセリフで説明がつく。

もともと、西葛西は風俗街として有名だった。だが、一斉摘発で多くの店が廃業に追い込まれた。その跡地に中華街ができた。

人口が多い街なら、駅周辺もにぎわうのが自然というものだ。人口が多いにもかかわらず、駅前に空き店舗、ゴーストタウンが生まれるというカオスな状況。このカオスがあったからこそ、西川口はチャイナタウンになったのだ。

……とまあ、まるでまとめみたいに話をシメにかかっているが、実はまだ、大きな謎が残っている。

それは、「なぜ、上野と新宿だけなのか」という謎だ。

何せ、闇市はそこら中にあったのだ。新橋にも、秋葉原にも、錦糸町にも、池袋にも渋谷にも、中野にも、高円寺にも、何ならとんで埼玉にも。

そして、第三国人がいたのも、アウトローだのパンパンだのがいたのも、どこも同じである。新橋のマーケットは中国人が仕切っていたし、有楽町はパンパンガ多くいた。

だが、アジアンタウンや風俗街で有名なのは、新宿を中心とする一帯と、上野を中心とする一帯ぐらいである。

数ある闇市の中で、この二つが最もカオスを色濃く残したまま現在に至っている。

なぜ、新宿と上野なのか。秋葉原や錦糸町じゃダメだったのか。

これには、「境界」が絡んでくるのだが、その答えはまた次回。

参考文献

猪野健治編『東京闇市興亡史』

戦後の闇市に関する資料として現存し広く流通した者の中には、もうこれ以上の資料は存在しないのではないかという代物。今回、なんと神保町で昭和53年に出版された初版本を発見するというミラクルに恵まれた。

七尾和晃『闇市の帝王』

新橋のマーケットを取り仕切ったある中国人を取材したもの。新橋に限らず東京全域の闇市の様子が描かれている。

石榑督和『戦後東京都闇市』

新宿・池袋・渋谷の闇市の攻防が描かれている。論文なので内容は堅め。

稲葉佳子・青池憲司「台湾人の歌舞伎町-新宿、もう一つの戦後史』

歌舞伎町の歴史と、街を支えてきた台湾人たちを取材した本。

風俗店街と外国人街の奇妙な関係 新宿編

今まで、このブログでは西川口と上野を歩き、「風俗店街と外国人街はなぜか近い場所にある」という事を検証してきた。そのことについてもう一つ見ておきたい場所が東京にある。そう、日本最大の風俗街・新宿歌舞伎町と、コリアンタウン・新大久保の一帯だ。新宿から新大久保にかけて歩いて、食べてきた。

日本最大の風俗街・歌舞伎町

新宿・歌舞伎町。言わずと知れた日本最大の歓楽街・風俗街だ。

日本はおろかアジア最大の歓楽街だとか、日本で最も暴力団の事務所が集まっている場所だとか、黒い噂は後を絶たない。

しかし、どれだけ探しても暴力団の看板はない。そりゃそうか。表立って「○○組事務所」なんて書いてあるわけがない。

でも、表に出ないだけで、その手の事務所はあるのだろう。以前、総武線に乗っていたとき、明らかにガラの悪い男が電話で怒鳴っているのを見たことがある。その男が

「てめぇ、あとで歌舞伎町の事務所に来い!」

と怒鳴ったのを聞いて、

「うわっ、本物だ! 本場の人だ!」

と肝を冷やしたことがある。

一方、歌舞伎町の北側はホテル街となっている。

しかし、「歌舞伎町」というのだけれど、歌舞伎に関する施設はない。落語の見れる末広亭の方が近い。

元々は名前の通り歌舞伎が見れる施設を造る予定だったのだが、結局実現しなかった。「大泉学園」みたいなものだ。

歌舞伎は見れないけど、映画とゴジラなら見れる。

東京を代表するコリアンタウン・新大久保

歌舞伎町のホテル街を抜けた北側、大通りを渡ったところから新大久保駅までの一帯は、日本有数のコリアンタウンとして知られている。

韓国料理屋や、韓流スターのグッズのお店などが並ぶ。お店からはK-POPが流れる。

 

ハングル文字のドン・キホーテもある。ドンキは歌舞伎町にもあるのだけれど。

 

韓国語カラオケもある。以前、西川口で中国語カラオケの店を見かけたけれど、韓国語カラオケならKARAとか歌えそうな気がする。日本語の歌詞でなら、だが。

 

今、新大久保一帯ではやっているグルメがこれ。

チーズとジャガイモを油で4分揚げたやつだ。注文を受けてから揚げるので、4分は意外と長い。韓国人らしきお兄ちゃんたちが揚げてくれる。

さて、新大久保駅から、今度は大久保駅の方に向かって歩いていく。

 

このあたりにまで来ると、韓国以外にもいろんな国のお店が出てくる。

 

霊界都市・新宿

さて、日本最大の風俗街・歌舞伎町と、日本有数のコリアンタウン・新大久保が隣接している、というのは東京に住んでいる人からすれば、わざわざあらためていう事ではないだろう。

しかし、この一帯にはもう一つの顔がある。

それが「霊界都市」「東京の端」という側面だ。

世界一の乗降者数を誇り、都庁がある「大都会」新宿が、「東京の端」と言われてもピンとこないだろう。

だが、江戸時代には「内藤新宿」は、東京と外の世界の境界の町だった。ここから甲州街道を通って西へと旅立っていく。

上野編でも言及したので繰り返さないが、こういった境界線上には寺社仏閣が多く建てられる。

そして、新宿は寺社仏閣が多い。

たとえば、新宿2丁目は今はゲイバーの町として知られているが、この町には正受院、成覚寺、太宗寺と3つものお寺がある。新宿2丁目の公園に立って、ぐるっと360度一周すれば、3つのお寺全てが視界に入る。

四谷に行くとさらに寺が密集している。これらの寺は江戸時代の初期に、麹町から移設されてきたものらしい。

江戸時代、新宿一帯は江戸の端、異界の入り口だったのである。

実際、江戸時代にはこのあたりの怪談話が多かった。

有名な四谷怪談。これは創作だが、「四谷だったら幽霊が出てもおかしくないよね」と思われているからこそ、あの話は受け入れられたのではないか。これがもし「日本橋怪談」だったら、「うそつけ、あんなところに幽霊なんかでないよ」と突っぱねられていたかもしれない。

まとめ

前回の上野、今回の新宿、その共通点をまとめてみよう。

・風俗店街と外国人街が隣接、混在している。

・どちらの町も、江戸において中と外の境界、異界との入り口にあった。

なぜ、風俗店街と外国人街は密接しているのか。

その謎ときについては次回に譲ろうと思う。

僕は、「第二次世界大戦」がかかわっているのではないかとにらんでいる。

風俗店街と外国人街の奇妙な関係 上野編

以前、西川口を訪れた時にあることに気付いた。外国人街があるところには、なぜか風俗街がある。偏見かもしれない。だが、確かにこの二つは、少なくとも東京近郊においては、同じような場所にあるように思える。なぜだろう。その謎を解き明かすために上野一帯へと足を延ばしてみた。


北の玄関口、上野

上野はかつては「北の玄関口」と呼ばれていた。

 

「上野発の夜行列車降りた時から」で始まる石川さゆりの歌を知っているだろうか。僕は子どものころ、この歌は上野の歌だと思っていたが、タイトルもサビも「津軽海峡冬景色」。上野ではなく津軽の歌である。

その出だしでどうして「上野発の~」とうたっているのかというと、「上野発=東北行きの列車」というイメージが強いからだ。

上野の町には石川啄木の歌碑も残っている。

「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」

上野は啄木の時代から「北の玄関口」だった。上野の停車場の周辺には、東北からやってきた人、東北へ帰っていく人であふれていた。岩手県出身の啄木は、東京で暮らしながらも故郷の方言が聞こえやしないかと上野駅にやってきたわけだ。

ちょっと前までは、宇都宮線も高崎線も上野発だった。上野は、北の玄関口なのである。

それは、東京にとって「境界」部分にあたることを意味しているのではないか。

東京都心でありながら、東京と東北の境界部分にあたる街、それが上野である。

こういった村や町の境界部分は、異界との接触部分とされ、昔から妖怪などが多く出ると言われていた。

いや、別に東北と異界だと言っているわけでも(いつの時代の話だ)、外国人街や風俗店街を妖怪扱いしているわけではない(どこの差別主義者だ)。ただ、境界部分は中心部とは明らかに違う雰囲気をたたえる、という事を言いたいのだ。

境界の町、上野

実際問題、上野から日暮里あたりまでは、江戸の中でも境界にあたる街である。

上野で有名なお寺が寛永寺だ。もっとも、最寄り駅は隣の鶯谷なんだけど。

このお寺は陰陽道マニアにはちょっとたまらないお寺だ。

このお寺は江戸城から見て北西の方角、鬼門の方角に建てられ、霊的な守護を担っているのだ。

こういう例的な守護を担うとお寺や神社いうのは、だいたい境界に建てられる。お寺なのに「キョウカイ」とはこれいかに、とツッコんではいけない。

地方の村に行くと、お寺や神社が街のど真ん中にあるというのは、よっぽど大きな町の目玉となるようなところぐらいで、山の裾にひっそりとたたずんでいるのが大半だ。

どうして山の裾なのかというと、里は人が住む世界、山はモノノケやカミサマが住む世界、そして山のすそ野はその境目にあたるからだ。そういった場所には、不思議とお寺や神社がある。神様やご先祖様と接する場所である宗教施設を置く場所として、境目が一番ふさわしかったのであろう。

思えば、鎌倉も市街地にお寺はほとんどなく、たいがいが山のすそ野である。京都だって清水寺なんかは山の入り口にある。

長々と書いたが、要は、江戸城を例的に守る役目で建てられた寛永寺がある上野一帯というのは、江戸の境界部分にあたるのではないか、という話だ。

厳密には、江戸の北限は南千住あたりだと言われている。

しかし、この上野一帯も一つの境目だったと思う。いろいろと見逃せないことが多いのだ。

たとえば、地形。上野駅の北側、線路の西側は断崖となっており、東側とはかなりの標高差がある。

この写真は線路の西側から南東を向いて撮った写真である。目線の高さから標高差があることがわかってもらえると思う。

そして、上野駅と鶯谷駅の間には、小さなお寺が多い。お寺の隣に別の寺。一種の寺町だ。

この一帯は寛永寺の山内寺院というらしい。

さらに、寛永寺の北側には、東京都心を代表する墓地、谷中霊園がある。

谷中霊園ができたのは明治初期だ。江戸自体から明治にかけて、この一帯は寺や霊園を置く場所として知られていたのだ。

上野とは、江戸の中心部から見て、江戸の内と外の境目の一つだったと思われる。今でも、東京都心と下町の境目にあたる街だろう。

むしろ、境目にあったからこそ、北の玄関口として上野が選ばれたのではないだろうか。

アジアンタウン上野

そんな境目には中心部にはない何かがある、ような気がする。

その一つが、アジアンタウンとしての上野だ。

上野名物アメ横の、とくに御徒町寄りのところは今、中国系や韓国系、トルコ系の料理屋台が並び、東京のど真ん中でありながら異国情緒の溢れるところとなっている。

また、このすぐ近くには、外国人向けの食材を売る店もある。面積としてはけっして広くはないが、密度の濃いアジアンタウンが形成されているのだ。

また、中央通りをはさんだ反対側に行くと、やけに焼き肉屋が多い。ハングルの看板もちらほら見受けられ、このあたり一帯は小規模なコリアンタウンなのではないかと思わせる。

エロの町、上野

一方、上野の中町通りには、キャバクラやストリップ劇場など、エロいお店が密集している。

今日日キャバクラなんぞはどこの町にもあるものだが、ストリップ劇場はなかなか珍しい。

さらに、この少し北、不忍池沿いには、ピンク映画専門の映画館がある。これなんか今日ではさらに珍しい。

その近くには下町風俗資料館が……、ってこれは風俗違いか。

だが、これだけに終わらない。

上野駅の北、鶯谷駅。

鶯谷周辺は寛永寺や谷中墓地があるのはさっき見てきたが、この一帯は東京有数のラブホテル密集地帯としても知られている。

そして、ここから小竹通りを1km北上すると、三河島駅だ。この一帯はコリアンタウンとして知られている。

御徒町駅から三河島駅までの南北約3kmの直線状に、上野駅を中心としてアジアンタウンと歓楽街、ラブホ街、コリアンタウンが連なっている。

これは、偶然なのだろうか。

まとめ

結論はまだ書かない。

というのも、もう一つ見ておきたい町があるからだ。結論を書くのは、その町を見てからだ。

とりあえず、今回は以下のことにもう一度言及して終わりにしよう。

・上野は、北の玄関口であり、寺や霊園が多い「境界」に当たる。

・アメ横がアジアンタウンと化している。

・上野を中心とした、御徒町から三河島までの南北に延びる約3kmのラインに、アジアンタウン、歓楽街、ラブホ街、コリアンタウンが連なっている。