八つ墓村フィールドワーク ~横溝正史も知らなかった民俗誌~

八つ墓村。言わずと知れた、横溝正史の探偵小説の題名であり、その舞台である。その八つ墓村という村を民俗学的に見ていくことで、民俗学の面白さを描く一方で小説「八つ墓村」の世界観がさらに深まるのではないかという試みだ。横溝正史すら知らなかったであろう八つ墓村の真実を、民俗学によって紐解いていこう。


注意!ここから先は、小説「八つ墓村」の結末を知っていることを前提として書いていきます。ネタバレしたくない人はここで引き返してください。

八つ墓村民俗誌

八つ墓村の生業

もちろん「八つ墓村」は横溝正史のフィクションである。

その一方、「八つ墓村」という小説は、寺田辰弥という青年の原稿を横溝正史が入手して世に発表した、という設定になっている。その設定にならい、ここから先は横溝正史を作者ではなく、八つ墓村という村の報告者として扱っていく。また、寺田辰弥も主人公ではなく報告者として扱う。

八つ墓村は岡山県にあり、鳥取県との県境にある山村だ。横溝は1945年から3年間岡山県倉敷市に疎開していたので、もしかしたら八つ墓村の近辺も訪れているかもしれない。

農耕地は少なく、気候の影響で作物が育ちにくいらしい。その一方、古くからナラやカシ、クヌギといった木材を使った炭焼きを生業としてきた。横溝は

この地方の楢炭と言えば、関西地方でも有名である。

と報告している。関西では広範囲に流通しているらしい。

近年では牛を育てている。「千屋牛」と呼ばれる岡山県特有の牛を飼っていることから、八つ墓村は岡山県北西部にあるということが推察できる。横溝の報告に

近所の新見で牛市が立つ

とあることから、新見市の経済圏に属していると推察される。

横溝の報告には「博労」という言葉が多く出てくる。これは「馬喰」とも書き、「バクロウ」と読む。

宮本常一の「土佐源氏」には高知のバクロウが登場する。村から村へと移動し、質の悪い牛を口先三寸で高く売り飛ばすため、あまりいい印象は持たれていなかったらしい。

炭にしろ、牛にしろ、よその村や町と交流を持って初めて生業として成り立つ。八つ墓村は山村であるが、決して孤立した閉鎖的な村ではなかったと言える。寺田の報告では、

麻呂尾寺というのは隣村になるが村境にあって、地形から言うと、むしろ八つ墓村に縁が深く、檀家もこちらの方が多かった。

と書かれているので、近隣との交流も多かったのではないだろうか。

八つ墓村の伝承

横溝は、八つ墓村という村名の由来としてある伝承を記述している。

永禄9年(1566年)、雲州富田譲の尼子義久の家臣である若武者と、七人の近習が山を越えて落ち武者として八つ墓村に逃れてきた。

村人は八人の落ち武者を歓待し、彼らは村人になじんで半年ほど炭焼きをしながら暮らしてい。しかし、彼らの持ち込んだ3千両の財宝に目がくらみ、名主の多治見庄佐衛門を中心とした一団が落ち武者たちを襲撃し、落ち武者たちを殺してしまった。ところが、その後財宝は見つからなかった。

その後、村で不審死が相次ぎ、とうとう多治見庄佐衛門が発狂して、村人を次々と切り殺して自害した。

その時の死者の数は庄左衛門を含めて八人いたことから、これは落ち武者のたたりに違いない、落ち武者が八人のいけにえを求めているのだとおそれられ、村人は落ち武者の墓を作って丁重に供養し、八つ墓明神なる社を作って祀った。

それ以来、この村を「八つ墓村」という。

「八つ墓村」という名前の疑問

奇妙な伝承である。

寺田の報告から、落ち武者の甲冑と、大量の小判が実際に確認されている。八つ墓村に落ち武者が財宝とともに逃れてきたのは事実なのだろう。

ただ、この伝承が本当なら、この事件、つまり1567年頃までこの村には名前がなかったか、別の名前があたたけどわざわざ「八つ墓村」という忌まわしい名前に変えた、ということになる。

一般的に地名とはイメージの良いものに変わっていく。世田谷の「九品仏」という町は、なんとも古臭い町名を捨て、「自由が丘」というきれいな名前になった。

わざわざ「八つ墓村」なんて言う名前に変えるだろうか。しかも、この村にとっては忌まわしい歴史のシンボルである。

人から「デブ」と呼ばれたからと言って、いっそ名前を「デブ」に改名してしまうようなものだ。そんな人はデーブ大久保ぐらいだろう。

デブくらいならまだ笑って「俺、デブだもん」で済ませられるが、村の忌まわしき歴史を示す「八つ墓」をわざわざ村名にするだろうか。

寺田の報告によると、八つ墓村は丘を登り墓地を越え、川沿いに200~300m歩いた先にある。村のシンボルとするには、少々村から外れていないだろうか。

「八つ墓村」という村名の不自然さはこれだけではない。

横溝は「一種異様な名前」と評しているが、「墓」という字はあまり地名では使わない。

もちろん、「墓」という字を使う地名はいくつかある。

「墓」地名:その1

「墓」地名:その2

これが「墓」地名のすべてとは限らないが、これを見る限り、東北から東海地方、京都にかけて多い。一方、瀬戸内海の方ではあまり見られない。

そして、「墓」を意味する言葉は「墓」だけではない。「塚」という字もまた墓を意味している。

なぜ、「八つ塚村」ではいけなかったのだろうか。寺田も実際に見た落ち武者の墓を「八つの塚」と表現している。

結論から言うと、本当にこの村が16世紀から「八つ墓村」と名乗るようになったというのは疑わしい。落ち武者伝説の生まれる以前から「八つ墓村」と名乗っていたのではないだろうか。

「八つ墓村」ではなく「ヤツハカ」

村名を考えるとき、漢字に囚われてはいけない。

まず、「ヤツハカ」という地名が先にあり、「八つ墓」という漢字を後から当てはめたと考えるべきだ。

この「ヤツハカ」という地名ができたのはいつか。

伝承によれば、落ち武者は村人に歓待されたというから、落ち武者が来る前にはすでに人が住みついていて、炭焼きをしていたと考えられる。

そもそも、農作業がままならない村にわざわざ16世紀になってよそから移住して村ができたとは考えづらい。もっと前からこの地に住んでいたと考えるべきだ。

つまり、もっと前からこの地には人が住んでいた。当然、村の名前ももっと前からあったはずだ。

もともと別の名前があったのにわざわざ「八つ墓」という忌まわしき名前に変えたとは考えづらい。

すなわち、もともとこの地は「ヤツハカ」と名乗り、そう呼ばれていた。落ち武者の八つの墓ができる前から。

じゃあ「ヤツハカ」とはいったい何を指しているのだろう。

「ヤ」は「谷」かもしれないし、「屋」かもしれないし、「矢」かもしれない。もちろん、「八」かもしれない。「ツ」は「ヤ」と「ハカ」をつなぐ音であろう。

問題は「ハカ」である。

もちろん、本当に墓を意味する言葉なのかもしれない。落ち武者の墓よりももっと古い墓があったのかもしれない。

一方で、「ハカ」は「ハク」、すなわち「吐く」が転じたものとも考えられる。

「吐く」という言葉が使われる地名は意外と多い。川の合流地に当たり、水害で濁流があふれ出た場所などにつけられることがある。

こういう地名を「災害地名」という。過去にこういう災害があったから気をつけろと、地名を通して警鐘を鳴らしているわけだ。

そして、八つ墓村には、鍾乳洞がある。

鍾乳洞の中には「鬼火の淵」という水場がある。そもそも鍾乳洞とは地下水が流れて生み出されるものなのだから、水場があるのは当然と言える。

そして、鍾乳洞の水場というのは大雨の際に氾濫して、地上へと流れ出る。近年では、岩手を代表する鍾乳洞・龍泉洞が水害で決壊し、洞窟の入り口から濁流があふれ出た。

さて、八つ墓村の鍾乳洞は村内の「バンカチ」と呼ばれる場所まで続き、そこに出口がある。

水害の時はそこからドクドクと水があふれ出たのではないだろうか。それこそ、水を「吐きだす」ように。それが、ヤツハカの「ハカ」の意味するところなのではないだろうか。

やがてそれが村はずれにある八つの塚と奇妙に符合し、「八つ墓村」という字があてられたのではなかろうか。

八つ墓村落ち武者伝説は事実なのか?

八つ墓村には確かに落ち武者がいた。それは寺田の報告から明らかである。

しかし、「多治見家がその落ち武者を殺した」という伝承は果たして事実なのだろうか。

もし、本当に落ち武者殺しがあったのだとしたら、落ち武者の霊を鎮める祭りがあってしかるべきではなかろうか。だが、寺田も横溝もそういった祭については一切言及していない。

八つ墓村の落ち武者伝説は、全国各地にある「六部殺し」の伝承によく似てる。

「こんな晩」とも呼ばれているこの伝承は、次の通りだ。

ある家の旅の六部がやってくる。家のものは六部を泊めるが、六部の持っていたお金に目がくらみ、六部を殺してしまう。

そのお金で家は裕福になった。子供も生まれたが、子供はどういうわけかいくつになっても口がきけない。

さて、ある晩に子供がむずがるので小便化と父親が子供を連れて外に出た。すると、初めて子供が口をきくのだ。

「おれが殺されたのも、ちょうどこんな晩だったな」

そう言って振り返る子供の顔は、殺された六部そっくりだった……。

これは全国各地にある伝承だ。八つ墓村の伝承と比べると、六部と落ち武者の違いこそあれ、「大金を持っていたために殺されてしまう」「のちに怪奇現象を引き起こす」という点で共通している。

八つ墓村の落ち武者伝説は、この六部殺しが変形したものではないだろうか。

なぜ、六部殺しなどという奇妙な伝承が生まれたのかというと、ねたみが根底にあるという説がある。

村の中で急に裕福になった家が出てくる。すると「あの家は何か悪いことをしてもうけたに違いない」というウワサが出てくる。やがてそれが「旅の六部を殺して……」なんて話になっていくわけだ。

寺田の報告によると、落ち武者殺しの首謀者とされる多治見家は今でも莫大な資産を保有しているらしい。落ち武者伝説はそんな多治見家への妬みから生まれたのかもしれない。普通は「六部殺し」になるところを、たまたま八つ墓村には落ち武者が逃げ延びていたから「落ち武者殺し」になったのだ。

さて、本当に落ち武者殺しはあったのか。ここで一つ、寺田が気になる報告をしている。

多治見家は代々、落ち武者の甲冑をお社に入れてご神体として祀っていたというのだ。

たたりをなす落ち武者の遺品を事件の首謀者がいつまでも取っておくだろうか。八つ墓明神に収めて供養してもらうのが普通だと思う。それをわざわざ屋敷の中で祀っていたというのならば、それは多治見家にとってたたりをなすものではなく、福をもたらすものだったのではないだろうか。

僕の推論はこうだ。八つ墓村に確かに落ち武者は来た。ただ、人数が八人だったかどうかはわからない。もっと少なかったかもしれない。

そして、落ち武者は殺されたのではない。多治見の娘と結婚し、多治見家と同化したのではないだろうか。

そして、多治見家は落ち武者のもたらした財産を使って裕福なった(寺田によると、落ち武者の財産はいくらか持ち出された可能性があるらしい)。

つまり、多治見家にとっては落ち武者は富をもたらした「マレビト」であると同時に、先祖でもある。だから、その甲冑を屋敷の中で祀っていたのではないか。

落ち武者の財産は鍾乳洞の奥に隠されていて、そこへ行くには「鬼火の淵」を渡らなければいけないのだが、八つ墓村には鬼火の淵から先には行ってはいけないという伝承が根強く残っている。

この「鬼火の淵の先に行ってはいけない」という伝承は、財宝を守るために多治見家が流したものではないだろうか。

じゃあ、寺田が確認した八つ墓明神の八つの塚はいったい誰のものなのだろうか。

寺田は墓碑銘に関しては一切言及していない。そのため、八つの塚が一体誰のものなのかはわからない。

本当に落ち武者のものかもしれないし、違う誰かかもしれない。落ち武者のものとして、殺されたのか自然死したのかはわからない。僕は自然死した後、村に富をもたらした者たちということで特別なところに祀られ、社が建てられたと考えている。

八つ墓村の歴史

すなわち、八つ墓村の歴史とは次のようなものだ。

「ヤツハカ」と呼ばれる村に永禄9年に落ち武者たちが逃れてきた。彼らは村に同化し、とくに落ち武者たちのリーダーは多治見家の娘と結婚した。

多治見家は落ち武者の財宝を使って裕福になった。そして、落ち武者に感謝の意味を込めて立派な社を作って祀ったのだ。

やがて時がたち、急速に裕福になった多治見家にも「六部殺し」のような噂が立ち始める。ただし、実際に落ち武者が村に来ていたことから、多治見家の場合は「六部殺し」ではなく「落ち武者殺し」となって、一連の伝承が生まれたのだ。

八つ墓村フィールドワークを終えて

さて、最後に言わなければならないことがある。

「八つ墓村」は横溝正史によるフィクションであり、「八つ墓村」などという村は存在しない!

ただ、民俗学という観点で「八つ墓村」を捕えていくと、世界観が深まるよ、という話だ。

横溝正史は3年間岡山県にいたから、実際に自分で見聞きした岡山の山村のようすが八つ墓村に活かされているのかもしれない。バクロウにまつわる民俗や終戦後の山村の様子なども克明に描かれていて、八つ墓村を終戦直後の民俗誌としてとらえてみてもなかなか面白い。

河童・天狗・狐…… 「遠野物語」から見えてくるもの

このたび遠野に行くことになり、それに先立ち、柳田國男の「遠野物語」を読んでみた。これまで柳田は難しいからと敬遠していたが、いざ読んでみるとなかなかに面白い。河童で有名な遠野だが、「遠野物語」には河童のほかにもさまざまな民話が書かれていて、その背景にまで思いを巡らせるとさらに面白い。

「遠野物語」とクトゥルフ神話

遠野物語は1910年に出版された。日本民俗学の父・柳田國男が遠野の民俗学者・佐々木喜善から聞いた遠野の民話をまとめたものである。いわゆる昔話というのは意外と少なく、明治になってからの話や、3~4年前の話と前置きされているものも多い。昔話というよりは、学校の怪談のような噂話に近い。

中には、山のカミサマを馬鹿にした男が、四肢をもがれて死んでいた、なんておぞましい話もある。まるで、白昼のバクダッドで見えない怪物に八つ裂きにされて死んだ、アブドゥル・アルハザードだ。

このアルハザードとは、アメリカのホラー小説群「クトゥルフ神話」に出てくる架空の魔術師であるが、このクトゥルフ神話が誕生した時代が1920年代ごろなので、奇遇にも遠野物語と海を隔ててほぼ同時期に生まれたということになる。

ホラー小説家のラヴクラフトが新しい形の恐怖として、神が人間を無慈悲に踏みにじるクトゥルフ神話を創作したころ、日本では古くからある恐怖として同じタイプの話が伝わっていることが明らかになった。ラヴクラフトが想像した「新しい恐怖」とは、西洋では新しいものであったのかもしれないが、東洋では古くから身近なものだったのかもしれない。

柳田國男と、遠野物語と、山人

柳田國男は「山人」の研究に熱心だった。古くから村には住まず、山などで生活する漂泊の民を「サンカ」と呼んでいたが、それとは別に、柳田國男はいわゆる「日本人」とは別の民族が山の中で暮らしていると考えていたようだ。

今日では柳田の数ある功績の中でもこの山人についての研究だけは、「さすがに山人は迷信だろう」というのが一般的な見解だ。しかし、「遠野物語」では里のものとは顔つきが違う山男と遭遇した、はたまた、天狗と遭遇した、なんて話をよく見る。中には山の中で2m近い大男にあった、なんて話もある。

こういう話をいくつも見ると、「山人がいる!」とまではさすがに思わないが、柳田が「山の中には『日本人』とは違う山人がいるんだ」と胸をときめかせたのも不思議ではないな、と思う。

遠野物語の神隠し

遠野物語委は神隠しの話もいくつか収録されている。面白いのが、どれもふとした日常の中でふと若い娘が消えてしまうという話だ。そのまま見つからない話もあれば、山の中で山男の妻となっているのを見つけた、という話もある。

山男の妻の話がホントかどうかはわからないが、急に人が姿を消す、というのはよくある話だったのかもしれない。

昔の遠野は今よりさらに自然が豊かな場所だった。それだけ、足を滑らせて転落したり、獣に襲われたりと、危険も多かったということではないだろうか。

遠野物語と動物

遠野物語には動物にまつわる話も多く収録されている。狐に化かされたという話だったり、狼に襲われたという話だったり。熊の話なんかも多い。

天狗や神隠しに比べるとインパクトは小さいが、遠野の人々がどういう動物と共に暮らしていたかがよくわかる、貴重な史料だ。

遠野物語と河童

遠野と言ったら河童で有名だ。カッパ淵は遠野観光では欠かせない観光スポットだ。

「遠野物語」には河童が馬を川に引き込もうとしたという、水難事故を彷彿とさせる話が収録されている。このほかにも、河童は出てこないものの、水難事故や水害の類を彷彿とさせる話は多い。

遠野の町を地図で見てみると、猿ヶ石川が細かく分岐しているのがわかる。水害の多い土地だったのかもしれない。


民話のように、古から文字に頼らずに伝えられてきたものの背景にはその土地の歴史が隠されている。それを読み解くのが民俗学の役割である。現地に足を運べば、さらに多くのことがわかる。民俗学とは、五感をつかって歴史を紐解く学問なのだ。

古市憲寿ピースボート乗船記「希望難民ご一行様」に感じた違和感

社会学者の古市憲寿氏の「希望難民ご一行様~ピースボートと『承認の共同体』幻想~」を読んでみた。新進気鋭の社会学者である古市氏が実際にピースボートに乗って何を見たのかが気になったからだ。僕もピースボートに乗っていたので、過去乗船者あるあるになると思いきや、意外にも感じたのは違和感だった。


「希望難民」とは?

「希望難民」とは古市氏の造語だ。経済的に豊かになった現代社会で、あらゆるものは手に入るのに、閉塞感は打ち破れず若者は「もっと輝けるはずだ」という希望を追い求める。そんな人たちを「希望難民」と呼んでいる。高橋優の「素晴らしき日常」のような世界観だ。

古市氏は本書を通じて、現代社会は「何かを諦めるのは悪いこと」という風潮が漂っていると指摘し、若者に諦めさせることが重要だと説いている。

若者に対して「諦めろ」というのではなく、社会に対して「若者が諦めるのを認めろ」という主張だ。

そんな諦めさせてくれない社会で、若者に諦めさせる装置としての一つがピースボートである、そう言った趣旨だ。

クルーズとピースボートへの違和感

古市氏が乗船したのは第62回クルーズ。2008年5月出航で、僕の乗った88回クルーズより7年も前の話だ。

このクルーズが、おそらくピースボート三十数年の歴史の中でも最悪の部類に入るものだった。よりによってこんな極端なクルーズに乗ったのかよ、といった感じだ。船のエンジンは壊れ、船体に穴が開いてアメリカで足止めを食らい、ピースボートにキレる老人とかばう若者が対立し、抗議運動まで起こった。船が日本にも着いたのは予定よりも10日遅れだった。

もっとも、違和感以前にまず、船が違う。88回クルーズで使われたのは「オーシャンドリーム号」。2012年からピースボートがチャーターしている。

古市氏が乗ったのは「クリッパー・パシフィック号」だ。

オーシャンドリームに関して何かトラブルがあったという話は聞いたことがない。ピースボートの船に関するトラブルは大体これより前の船たちだ。整備不良だったり、途中で乗り換えを余儀なくされたり、ご飯がまずかったりしたらしい。しっちゃかめっちゃかである。

さて、ピースボート史上まれにみるトラブル続きだった62回クルーズだが、ピースボート側の対応もちょっとお粗末である。抗議のための文章の印刷を断るなど、乗客の抗議活動を制限しようとしていて、お世辞にも褒められる行動ではない。旅行会社のジャパングレイスも度重なるトラブルに対する説明で「当社に責任はない」という、考えられる限り最悪の対応をしている。

一方で、88回でもしこのようなトラブルが起こったらピースボートは同じような対応をとるだろうか、と考えると、そこに僕は違和感を覚える。

完璧な対応、いわゆる「神対応」とまでは行かなくても、62回クルーズに比べればましなのではないか、という風に感じる。あくまでも日頃のピースボートスタッフやジャパングレイスの接し方から感覚的に推論したに過ぎないが、さすがに「うちに責任はない」は言わないだろう、と思う。7年前のこのトラブルを教訓にしているはずだし、していないのであればそれはとんでもないことだ。ここ数年、目立ったトラブルがないということは、多少なり学んで改善している、ということなのであろう。

乗客への違和感

だが、それ以上に違和感を感じたのが62回クルーズの乗客、特に若者に対してだった。

62回クルーズでは「9条ダンス」というよくわからないダンスの練習をしていた。9条護憲の理念をダンスで表現したらしいのだが、何度説明されてもこればっかりはわからない。僕がダンスに興味がないからなのか、ダンスで9条を表現しようという行為そのものが無謀なのかはわからない。

とはいえ、僕自身も実は船内の平和デーかなんかのイベントで9条をラップにして発表している。もっとも、護憲だのと言ったたいそうな理念があったわけではなく、イベント紹介の船内新聞に記事に「ラップ」の3文字があったのを発見して、「私を呼んだかぁ!」という勢いで参加しただけである。ちなみにこのラップは船を降りた後、護憲の立場だけの歌詞では不完全と考え、改憲派の立場に沿った歌詞を追加した。

さて、62回クルーズの若者たちはピースボートの不手際やトラブルに抗議の声を上げる老人に対し、不快感をあらわにしたり、すごい人に至っては涙を流したりしていた。

完全に理解できない。「キモチワルイ」というのが正直な感想である。何も泣くことはあるまい。この本を読んだ人が「ピースボートに乗る若者は頭の中がお花畑」だと思っても、当然の帰結だと思う。

古市氏はこの現象に対して、「自分たちと異質なものへの耐性が弱い」と評している。

これはなかなか興味深い分析だが、それを「若者全体」に言える傾向だと論じることに違和感を感じる。

もっとも、古市氏も若者がみんなこうだと入っていない。若者の4類型のうちの一つ、仲間意識の強い「セカイ型」と「文化祭型」の若者の特徴だと書いている。

古市氏はピースボートに乗る若者を4つの類型に分類していた。

セカイ型……船内での仲間意識が強く、ピースボートの理念への関心も強い。「意識高い系」と言い換えてもいいかもしれない。

文化祭型……ピースボートの理念に関心はないが、船内での仲間意識が強く、文化祭のノリでワイワイやっている若者。「パーリーピーポー」と言い換えてもよいかもしれない。

自分探し型……ピースボートの理念に関心を持つ一方、船内での仲間意識はそれほど強くない。こちらもいわゆる「意識高い系」なのだろうが、セカイ型が「みんなで世界を変えていこうぜ!」なのに対し、自分探し型は自問自答を繰り返す傾向がある。

観光型……ピースボートに理念に関心はないし、船内の雰囲気にも距離を置いている層。乗船目的も単純に観光旅行である。もちろん、友達がいないわけではなく、セカイ型や文化祭型が「みんなでワイワイ」なのに対し、観光型はいつもの数人で固まりがち。

この4類型は「船内での仲間意識が強いか」「ピースボートの理念への関心が高いか」で決められる。

「どちらでもない」という回答を禁止すれば、誰でもこの4類型のどれかに当てはまるはずだ。

だが、この4類型に違和感を感じる。

88回クルーズで考えると、全体的に文化祭型が多いのかな、と思う。

だが、この4つに分類できない層もいる。

例えば、僕は「グローバルスクール」という有料プログラムに所属していた。不登校や引きこもりの経験者が多く、船内では特定の人付き合いしかせず、ピースボートの理念への関心も薄い。

さっきの4類型だと観光型に当てはまるわけだが、「ただの観光旅行」をしていたわけではない。それぞれにいろいろな事情を抱えている。

また、船内では「ヤミメン」を自称する集団がいた。「ヤミ」が「病み」なのか「闇」なのかは聞いたことがないのでわからないが、傍から見るに文化祭型に対して「やってらんねぇ」的な態度をとっていた。

ただ、「ピースボートの理念への関心」という点では「人によって違う」という形になり、4類型のいずれにも当てはまらない。

もう一つ、僕が違和感を感じたことがあった。

88回クルーズは文化祭型が主流派だったと思うし、もちろんセカイ型もいた。

だが、彼らが同じトラブルに遭遇した時、果たして抗議活動する人間に不快感を表すか、果たして「争わないで」と涙を流すか、という疑問である。

88回クルーズは全体的に、62回クルーズよりはシニカルだったと思う。62回のようにピースボートへの帰属意識は強くなく、仲間意識は感じるしスタッフとの距離も近い一方、ピースボートという団体に対しては距離をとって接していたと思う。

要は、7年で若者の性質も変わってきたのではないか。それがピースボートという枠の中だけなのか、若者全体の話なのかは分からない。

ちなみに、僕自身はどうなのだろうか。

人付き合いについてだが、僕は大の人見知りである。それでも船内では広く人づきあいができていたが、基本は固定の人付き合いだったと思う。

次に、ピースボートの理念に対する関心だが、ないわけではない。

もちろん、関心はあるし、ニュースは毎日見る。だが、「政治?興味ないっすね」という若者よりは関心があるが、いわゆる「意識高い系」ほどではない。船内では社会問題や世界情勢に関する様々なイベントに顔を出したが、「この問題に特に興味がある」「この問題のために活動したい」と思える内容は見つからなかった。

世界平和や憲法9条に対する関心は薄いが、日本の「閉塞感」に対する関心は強い。そういう意味では、「ピースボートの理念にやや関心がある」という得るであろう。

おそらく、僕は「やや自分探し型」なのだと思う。

古市氏の視点への違和感

本書を通して感じていたことは、「古市氏がどの立場にいるのかわからない」という点だった。

理論上、ピースボートの若者は全員4類型に分けられる。それは、古市氏ももちろん例外ではないはずだ。

だが、古市氏の書き方はどの類型とも距離を問ているように感じられた。きわめて客観的である。

そんなことを考えながら読んでいたら、あとがきで古市氏自ら、「『クルーズを楽しめなかった陰気な東大生が腹いせに書いたように思われるんじゃない』と言われた」と明かしていた。このあとがきで明かされたフィールドノートの最後のページ、横浜帰港の前日に書かれたページは非常に共感できる、人間的な文章だった。

「だけど本書はエッセイではなくて、これでも一応『研究』のつもりだから、どうしても『彼ら』を俯瞰的に『分析』する必要があった」(277ページより抜粋)

ただ、ここにもまた違和感を感じる。

それは僕が民俗学を学んできた人間で、民俗学の研究には「文学的な表現」のスキルが不可欠だと感じているのもあるだろう。

また、人間である以上、主観というフィルターを通して物事を見ることは避けられない。客観的な分析をするためには、自分がどのフィルターから見ていたかをはっきりさせるべきだったと思う。

古市氏への見解への違和感

古市氏は船を降りた後の若者たちの動向も調査していた。

古市氏の調査では、自分探し型は帰国後も社会問題への関心は強まって、自分なりに行動しているという。なるほど、自分の掌をじっと見て、その通りだと思う(笑)。

観光型は旅行が終わり、日常に帰って行く。

一方、セカイ型と文化祭型は、ルームシェアをしたりと、船で築いた共同体のまま生活を始める人が多い。

しかし、セカイ型の特徴であった意識の高さは薄れ、政治活動だの社会活動だのへの関心が薄くなった人が多かったらしい。

古市氏はこのことについて、ピースボートは若者に諦めさせる「冷却装置」であったと論じている。

ここにも僕は違和感を感じる。僕は以前「ピースボートに洗脳・マインドコントロールは可能か?元乗客が検証!」において、「ピースボートで社会問題に安心を持っても、ピースボートを降りた後はピースボートは一切干渉してこないので、船を降りた後は関心を保てない」と論じた。この見解の相違が違和感を感じさせる。

違和感の原因

違和感だらけである。同じ地球一周の旅をしていたのに、どうしてこんなに違和感を感じるのか。

しかし、当然と言えば当然である。

人によって、見える景色が違うのだ。

おんなじ船に乗って、おんなじツアーに参加して、同じ時間を長く共に過ごした友人が、船を降りてから僕とは全く違う進路を進む姿などを見ると、どんなに距離が近くても、人によって見えている景色は違うんだな、と思う。たぶん、家族でも恋人でも同じことが言えると思う。「同じ景色を君とずっと見ていきたい」なんてありえない。隣で並んで夕焼けを見ていたって、見え方が違うのだ。

船を降りた後、同じ船に乗っていた仲間と一緒に飲んだ時も、同じ船に乗っていたはずなのに、ずいぶんと見えていた景色が違うんだな、と考えさせられることがあった。

同じ船に乗っていても、人によって見えた景色、感じたことが違うのだ。同じピースボートという枠組みであっても、違う船、違うクルーズに乗っていれば、見える景色は全く違うはずだ。

これが違和感の正体なのだと思う。違っていて当然なのだ。

時代が映り、船が変われば、ピースボートも変わる。若者の性格も変わる。それに対するとらえ方も変わる。当たり前のことだ。

民俗学という文学 ~六車由実『驚きの介護民俗学』~

2012年に発表された六車由実さんの『驚きの介護民俗学』。民俗学者から介護士に転職した著者が、介護の現場で老人たちから民俗を聞き取ることをまとめた本だ。発表当時から民俗学界隈で話題となったこの本を読んでみると、これからの民俗学について考えさせられる驚きがあった。


『驚きの介護民俗学』の内容

著者の六車さんは民俗学者。大学で学生たちに民俗学を教える立場だった。

それがどういうわけか、大学を辞めて介護施設で介護士として働くようになる。

そこで出会った老人たちは、ふとした瞬間にそれまでの人生やバックボーンをにじませていた。

例えば、認知症の老人にありがちな「同じ話を繰り返す」。

介護する側からすれば迷惑な話だが、よくよく聞いてみると、人によって繰り返す話が違う。

そこで丹念に聞いてみると、「繰り返す話」の中には、その人が何に重きを置いて生きてきたかが現れていた。

そこで、著者は施設の許可を取って老人たちの話を聞き書きすることにした。それが「介護民俗学」の始まりだ。

通常、民俗学のフィールドワークというと、農村や漁村に入ってそこで生活する人たちにテーマに沿って話を聞く。

だが、介護民俗学では大きく二つの点が異なる。

まず、フィールドが違う。

介護民俗学の舞台は農村でも漁村でもなく、介護施設。文章から察するに、おそらく静岡の地方都市にあるようだ。

だが、そこに通う老人たちは、かつての村で生まれ育った人たちだ。彼らにはかつての村の暮らしの記憶が残っている。

むしろ、「農村から都市に出てきた人たち」というこれまで見逃されがちだった人たちの記憶を持っているのだ。

そしてもう一つが「聞き書きにテーマがない」

通常はフィールドに入る民俗学者には知りたいテーマがある。農具についてだったり、祭りについてだったり、昔話についてだったり。そういうのに詳しい人を探して、話を聞くわけだ。

ところが、介護民俗学では著者は聞きたいテーマを持っていない。相手が話したいことを話してもらうわけだ。

だが、それゆえに著者の想定していなかった話が聞けて、「驚き」をもたらす。この「驚き」が著者にも話す老人側にもいい効果をもたらすのだ。

実は、僕も大学で「自分の聞きたいことではなく、相手の話したいことを話させる」という風に教わった。

僕が教わった先生たちの世代の教訓なのだそうだ。

フィールドに入って話を聞くと、戦争の話をしたがる人が多かった。

しかし、こっちは民俗学の話を聞きに来たのだからと、先生たちの世代は戦争の話をさえぎって、「自分たちが聞きたいテーマ」を話させた。

だが、今になって思うと、当時の話者たちが話したがっていた「戦争の話」をちゃんと聞いてまとめれば、かなり重要な史料になったのではないか。

そんな後悔から、「相手の話したいことを話させなさい」と教えてくれたわけだ。

民俗学とは生きることと見つけたり

さて、「介護民俗学」の本の評判は前から聞いていたが、なかなか読もうとしなかった。

理由は二つ。

まず、「介護」という言葉がよくない。

「介護の本」と聞いて面白そうと思う人がどれだけいるだろうか。介護に携わっていない人じゃないと、まず面白そうとは思わない。

そしてもう一つ、決定的に面白くない単語が入っていた。

その単語とは「民俗学」

大学で民俗学を専攻していた僕すら、「民俗学の本は面白くない!」と認識しているのだ。

何と言うか、無味乾燥なのだ。

そう思ってほとんど期待することなく「驚きの介護民俗学」を読んでみた。

すると、驚いたことに面白かったのだ。

「テーマのない聞き書き」を行っている著者は、細かい「民俗」にとらわれることなく、話者の人生を聞き取り、生き生きと描いている。

これは、僕にとっても発見だった。

祭りだの農具だの信仰だの、個々の民俗自称にフォーカスして書いてしまうとちっとも面白くない。「無味乾燥な学術書」で終わってしまうのだ。

だが、この本では個々の民俗事象にとらわれることなく、相手の人生を描いている。

言い換えれば、個人の人生自体が一つの「民俗」である。

民俗学とは「生きること」、「その人がどうやって生きてきたか」を描くことだともいえるわけだ。

民俗学は文学だ!

個々の老人たちの「生きること」を、著者も実に生き生きと描いている。

この「驚きの介護民俗学」が民俗学の雑誌ではなく、介護・看護に関する雑誌で連載された、というのもこの本を堅苦しいものにしなかった理由の一つだろう。

もしかしたら、民俗学は「学問」という堅苦しいスタイルよりも「文学」というスタイルの方が似合うのかもしれない。

それぞれの「生きること」を文学として描く。

例えば、宮本常一の代表作「忘れられた日本人」は、そこに登場する人たちがどのようにして生きてきたかを文学的に描いている。「土佐源氏」に至っては文学的に高く評価されている。

柳田國男もかつては文学を志していた。

民俗学にとって、「文学のスキル」は重要なことなのかもしれない。

そう思わせるこんな話がある。

大学のころ、口承文芸、すなわち、昔話に関する講義をとっていた。

これが評判だった。

どういう評判かというと、「つまらない」という評判なのだ。

ある先輩が、そのつまらない講義に対してこんな解説をしてくれた。

「あの先生は口承文芸を研究している割には、話し方が下手なんだ」

民俗学の知識を文学的に語るスキルが、その先生にはなかったわけだ。

民俗学とは人の「生きること」を描くことである。それが無味乾燥な学術用語で描けるわけがない。

民俗学はもっと文学的に、「生きること」に向き合い、「生きること」を描くべきなんじゃないだろうか。

そんな驚きの発見を、この本はもたらしてくれた。