児童虐待の問題が連日ワイドショーをにぎわせている。学校や教育委員会、児童相談所の対応も問題になっている。だが、児童相談所ばかり責める前に、ふと考えてみたい。虐待に対して、自分は何ができるんだろう、と。何もできることはないかもしれないが、「通報すること」が何かのきっかけになるのではないかと思い、自分の通報体験談を書くことにした。
児童相談所に通報した結果
「素人が虐待問題と向き合うにはどうすればいいんだろう」と考えた結果、「通報することなのではないか」という結論に行き着いた。
むしろ、通報することぐらいしかできないのではないか。
そして、実は僕は児童相談所に通報した経験がある。
児童相談所に通報するとはどういうことなのか。
通報した結果どうなるのか。
通報にデメリットはないのか。
そのことを経験者として書くことが、物書きとしての僕なりの「虐待への向き合い方」なのではないか、と思い、今回筆を執った次第だ。
というわけで、僕の体験談を話そう。
ある昼下がり、家でのんびりしていると、どこからか男の子の泣き声が聞こえてきた。
「ああ、子供が泣いているなぁ」と思ったものの、子供は泣くものだし、と気にも留めなかった。
驚いたのはその子供が泣きながら親に助けや赦しを求めたときである。
ええ、これは尋常じゃないぞ⁉ と驚きつつ、窓を開けて声の出所を探す。だが、我が家は集合住宅。「かなり近い」ということしかわからず、具体的に何階の何号室かなんてさっぱりわからない。隣のアパートかもしれない。
そのうちに泣き声はやんでしまった。「今のってもしかして虐待じゃ……通報したほうがいいのでは?」と思いつつも、「もし違ってたら、相手の家に迷惑をかけることになるし、児童相談所だってそんな暇じゃないだろうし……」と通報するのをためらって、結局何もしなかった。
「いや、その時に通報しろよ! 何ためらってんだよ!」と言われれば、言い訳のしようもない。
そして、二、三日したある日の朝。
まったく同じことがもう一度起きた。
男の子の泣き声に始まり、数日前と全く同じセリフを泣き叫ぶ。
いくら何でも二回目はさすがにアウトだ! と思った僕は、意を決して児童相談所に通報することにした。
……が、相変わらず、どこの家から聞こえてくるのかがわからない。家の外に出て場所を確かめてやろう、と思ったが、靴を履いているうちに泣き声がやんでしまった。
これではどこの家から声が聞こえてきたのかはわからない。このまま通報しても「うちの近所から泣き声が聞こえたんです。いえ、どの家かはわからないんですけど、とりあえずうちの近所です」というクソあいまいな情報しか伝えられない。
そんなクソあいまいな情報だけ通報しても、児童相談所も迷惑なんじゃなかろうか。「その程度で通報すんじゃねぇ! こっちは忙しいんだ!」と怒られるのではないだろうか。
だが、そうやって「通報しない言い訳」を重ねる自分がみっともなくなってきた。何より、男の子の尋常じゃない、泣きながら助けを求める声が頭から離れない。
もしこれを放置して、数日後に「うちの近所の○○君が虐待の末に死亡!」なんてニュースが流れた日には、悔やんでも悔やみきれない。メシものどを通るまい。
あれだけはっきり聞こえたのだから、僕以外にも近所の人が通報しているかもしれない。情報一つ一つはあいまいでも、いくつかの通報をつなぎ合わせれば、家を特定できるかもしれない。
もし、通報して児童相談所から「その程度の情報じゃどうしようもありませんね。その程度でいちいち通報しないでください」と言われても、僕が怒られれば済む話だ。
意を決して、今度こそ意を決して、児童相談所に通報した。
なんのことはない。自分が後悔したくないから通報しただけである。
電話口には若い女性の相談員さんが出た。僕は自分が見聞きしたことと、実際には何が起きているかもどこから声が聞こえたかもわからないことを伝えた。
だが、情報があいまいだからと怒られることもなく、むしろかなりいろいろ細かく聞かれた。何歳ぐらいの子供だったとか、どのあたりから聞こえたのか。
「いや、姿を見たわけじゃないんで、何歳ぐらいかと言われても、僕の想像でしかないんですけど……」と断りを入れても、「それでもかまいませんので」とのことだったので、「声を聴いた感じからすると……」と情報を伝えた。
そうして一通り自分の知っていることを話し、「もしかしたらまた連絡するかもしれません」と言われ、「ええ、かまいませんよ」と言って電話を切った。
3時間ほどして、再び電話がかかってきた。「もう少し詳しい話を聞かせてほしい」とのことだった。「ですよねー。あの程度の情報じゃどうしようもありませんよねー」と思いつつも、「これ以上知ってることないですよ」と思いつつも、何かの力になれれば、と児童相談所からの質問に答えた。
その時の印象を言えば、非常に丁寧な対応をしてもらえたため、好感を抱いている。
その後、児童相談所から連絡が来ることはなかったし、我が家の近所で虐待事件があったという話も聞いていない。あの子の泣き叫ぶ声も聞いていない。虐待ではなかったのかもしれないし、あの情報では家を特定できなかったのかもしれない。
じゃあ、通報に意味はなかったのかというと、そんなことはない。
通報をしたおかげで、僕の心のもやもやはなくなった。とりあえず、現状できることはやったわけなのだから。
「お前の心のもやもやなんかどうでもいいんだよ!」としかられそうだが、さっきも書いたとおり、最初から「自分が後悔しないため」にやったのであって、結果自分が後悔しなかったのであれば、それで目的は果たせている。
おまけに、「児童相談所に通報する」という経験が手に入った。そして、「超あいまいな情報でも、怒られることはない」ということもわかった。
だから、ほったらかしにして心がもやもやするくらいなら、通報して楽になればいいと思うし、逆に言うと、どれだけ気張っても通報することしかできない。
その時、できることがあるのなら、できることのすべてをやるべきだ。自分が後悔しないために。
児童相談所に通報するのは迷惑なことなのか
さあ、みんな、後悔しないために、怖がらずに児童相談所にどんどん通報しよう!
……とは簡単にはいかないのがこの世の中の常のようだ。
調べてみると、「泣き声を聞いた」だけで通報することを「泣き声通報」と呼ぶらしい。わざわざ名前が付くあたり、こういった通報は多いのだろう。
一方で、こんな記事も見つかった。
これらの記事は「虐待なんてしていないのに、虐待を疑われて通報された結果、家庭がめちゃくちゃになった」という内容で、「不用意な通報はしないように」「大事でないなら通報しないように」という結論を暗にほのめかしているように思える。
こういう記事を読むと、「泣き声を聞いた程度で通報しちゃいけないんじゃないか」なんて気にもなってしまう。
だが、これらに記事にはいくつか問題点もある。
二つの記事はいずれも「虐待なんかしていないのに通報された」とされている。
……本当にそうなのだろうか。
もしこの記事に出てくる親が本当に虐待をしていた場合、二つのパターンが考えられる。
パターン1 「虐待していない」と嘘をつく
仮に本当は虐待をしていたとして、「まあ、ぶっちゃけ、本当に虐待してたんですけどね」と正直に答える親がどれだけいるだろうか。
野田市の事件では、父親が虐待の事実を認めなかったという。上の2つの記事の、本当は虐待していたのに正直に言っていない可能性がある。
だが、記事を読む限り、僕は次のパターンのほうが可能性は高そうな気がする。
パターン2 「虐待をしている」という認識がない
暴力をふるってはいたけど、あくまでもしつけの範囲内。そう考えていたら、「虐待をしている」という認識は生まれない。
また、「虐待とは子供に暴力をふるうことのみを指す」と思い込んでいる場合もある。
虐待とは必ずしも子供に暴力をふるうだけではない。子供を精神的に傷つけることも虐待だし、子供を放置・無視することも虐待だ。
だが、「虐待=暴力のみ」と思っていれば、このような「目に見えづらい虐待」をしていても、「虐待をしている」という認識が生まれない可能性がある。
「虐待していないのに、虐待を疑われた」というセリフの信ぴょう性は、意外と薄い。
よしんば、本当に全く虐待をしていないのに虐待を疑われたとして、その後の児童相談所の対応によって不利益が生じたとして、
それは、通報した者の責任なのだろうか。
たとえば、夜中に悲鳴を聞いて警察に通報したとしよう。ところが、警察の捜査がずさんで、冤罪事件を生み出してしまった。
これは、通報した者の責任なのだろうか。ずさんな捜査をした警察の責任であって、通報者に責任はないのではないだろうか(ただし、通報者が虚偽の通報をしていなければ、という前提だが)
そもそも聞いた悲鳴が実はテレビのドラマだったとしたら? 勘違いした通報者にも責任はありそうだが、「悲鳴を聞いた」と正直に通報しただけで、それが通報者の勘違いだと見抜けなかった警察がやはり責任を持つべきだろう。
嘘の通報でもしない限り、通報者が責任を持つ理由などない。
通報した後に起きる問題は、すべて対応に当たった児童相談所の問題のはずだ。児童相談所が、理不尽な対応をしないように改善していくべきであって、「通報するかしないか」で悩む必要など全くない。
ところが、上記の記事の中に出てくる「自称・虐待を疑われたかわいそうな」夫婦はあろうことか「誰が通報したのか」と犯人探しを始める。いじめを先生にチクられて、チクったいじめられっ子をシメるいじめっ子と発想が一緒である。
誰が通報したのか、と言えばこう答えるほかあるまい。
お宅のお子さんだよ、と。
「泣き声通報」の本当の通報者は、泣いている子供本人である。
暴力を振るわれたか、性的虐待を受けたか、精神的苦痛を受けたか、育児放棄をされたか、とにかくその子供にとって「耐えられないこと」があったから、あらん限りの声で泣き叫んだ。助けを求めた。赦しを乞うた。
そして、親はそれを受け止めなかった。
その代わり、近所の人が子供からの「通報」を耳にして、児童相談所に届けた。それだけの話である。
泣き声通報の真の通報者は、ほかでもない、子供本人なのだ。
子供の泣き声を聞いた側も「これは尋常ではない」、そう思ったから、通報したのだ。
そう思わなければ、通報なんてしない。
なぜなら、虐待の相手は近所の人間である。万が一通報したのが自分だとばれたら、どんなご近所トラブルになるかわかりやしない。できれば、厄介ごとにはかかわりたくない。そう思うのが普通ではないだろうか。
それでも、通報せざるを得なかった。それはその人の「これは尋常ではない」というレベルに引っかかるほどの泣き声だったから。
尋常じゃないくらいボリュームがデカかったのかもしれない。尋常じゃないくらい長時間だったのかもしれない。「痛い」や「助けて」「やめて」「赦して」といった、虐待を連想させる言葉を言っていたのかもしれない。
そもそも、この2つの記事の事例はいずれも、複数の通報があって動いている。たった一人のうっかりさんが勘違いで通報したのではない。複数の人間が「これは尋常じゃない」と思って通報したのだ。それを本人たちだけが「虐待じゃない」と言い張っているだけである。何をもって信用しろというのだ。
こういった「当人の言い分」だけを信用して、「安易な通報はしない方がいい」などという記事を書くことは、虐待の片棒を担ぐどころか、担いだ棒を罪のない子供に向けて打ち下ろすような行為である。
安易に「通報しない方がいい」なんて言わない方がいい。
通報することを悩む必要なんて全くない。そもそも、虐待の通告は国民の義務だ。
みっともない言い訳を積み重ねて後悔をするのはほかでもない、あなただ。
尋常じゃない泣き声を聞いた。虐待かもしれないし、勘違いかもしれない。
だが、唯一できることは通報することだけだ。逆に言えば、通報することしか僕たちはできない。
そして、通報しなければ何も始まらない。
どんなに優秀な児童相談所だって、通報がなければ虐待を発見することができないのだ。通報がなければ何もできないのだ。
虐待だと確信が持てないのなら、通報時に正直にそういえばいい。
あいまいな情報しかないのなら、通報時に正直にそういえばいい。
知っていること、知らないこと、聞いたこと、見たこと、想像でしかないこと、すべてを正直に話せば、何も恥じることなんてない。
逆に、通報時に嘘をついたり、想像でしかない部分をさも見てきたように言うと、トラブルとなった時、通報した者の責任になってしまう。正直に、とにかく正直に話すことが大切だ。
いくつか、児童相談所への通報に対して面白い記事のリンクを張る。特に、「反貧困」で知られる活動家の湯浅誠さんの体験記が面白い。僕と同じような事例で、同じように「こんな程度で通報していいのか?」と葛藤している。
近所の家から子どもの激しい泣き声が。これって虐待…? 通報していいの?
すべての子どもを救うだけの枠組みは既にあるのだ。あとはそこに勤めるもの、そして、僕ら一人一人がどれだけ一つの命に向き合えるかである。どれだけシステムがしっかりしていても、どれだけ児童相談所の人たちが頑張っていても、僕ら一人一人が一つ一つの命と向き合うことをおろそかにしていたら、だれ一人救えやしない。
最後に、僕の好きな漫画のセリフを引用して、締めくくりとしよう。
子供に泣いて助けてって言われたら!!! もう背中向けられないじゃない!!!!(ONE PIECE 第658話より)
2020/3/22追記
千葉県野田市で起きた虐待事件の第一審の判決が出た。懲役16年の実刑判決。虐待事件の判決としては極めて重い。
判決文では被告である父親を厳しく断罪しつつも、彼もまた子育ての中で孤立していたのではないかと指摘していた。
この記事に対するコメントの中でもまれに、子育てをしている親の孤立が垣間見れることがある。
周囲のだれにも悩みを語れない。どうしたらいいのかわからない。誰に相談したらいいのかわからない。
そういった方は是非、自分から児童相談所に相談してほしい。
本来、児童相談所とは魔女狩りのように虐待を通報する場所ではない。ましてや、虐待を取り締まる場所でもない。
地域の子育てを支援し、子育ての悩みに対する相談に応じる場所、それが本来の児童相談所の役割である。
また、児童相談所以外でも、各自治体で様々な子育て支援を行っている。児童相談所以外にも子育ての相談に応じてくれる施設もある。
ぜひ、そういった施設や支援を活用してほしい。
もしかしたら、ヘンにプライドが邪魔して、そういった場所に自分から相談しに行くのはなかなか難しいかもしれない。
だが、本来の子育てとは親だけでなく、親せきや地域で行うものだ。親だけに、ともすれば片親だけに重責がのしかかることの多い現代社会の方が、長い歴史の中では異常なのだ。
誰にも相談せずに、誰にも頼らずに、親だけで子育てするというのは、俗な言葉であるが「無理ゲー」なのだ。
助けてほしい時に堂々と助けを求めることができるということ、それは弱さではない。本当に大切なもののためにプライドを捨てられるのは、その人の強さである。
どうか、誰かに通報されるような事態に発展してしまう前に、自分から勇気をもって相談してみてほしい。