小説「あしたてんきになぁれ」 第21話「もやもやのちごめんね」

クリスマスの一件以降、なぜかたまきの心はもやもやしたまま、晴れない。一方、ミチもまたモヤモヤを抱えていた。そして、お正月がやってくる。「あしなれ」第21話、スタート。


第20話「冷凍チャーハン、ところによりカップラーメン」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


写真はイメージです

たまきはまどろむ。

眠りにおける最大の快楽がこのまどろみだ。夢と現のちょうど境目で、まるでヤジロベーのようにゆらゆらとバランスを取るこのまどろみがなんとも心地よい。

たまきはブランケットにくるまり、器用にソファの上に寝転がってまどろむ。

いつもは三人そろってソファで寝てる、と舞に話すと、お前らよくそんな狭いところで寝れるな、と言われた。

だが、たまきは広い場所よりも狭い場所の方が好きだ。

ずっと、狭い場所で生きてきた。

教室よりも狭い自分の部屋に引きこもっていたし、今も大都会の東京にいながら、この「城(キャッスル)」という名のつぶれた小さなキャバクラに引きこもっている。

もしかしたらたまきの心も、狭い狭い籠の中に入っているのかもしれない。

ひとりぼっちはいやだ、ひとりぼっちはさみしい、と言いながら、その心の内に他者が踏み込むことは決して許さない。籠の中から外を恨めしげに見ているが、籠の中に誰かが入ってくるのはけっして認めない。

さながら路地裏の野良猫のようである。甘えたそうにこっちを見ているのに、いざ近づくと、触らにゃいでくれといわんばかりに、一目散に逃げだしてしまう。

そんなたまきのまどろみを邪魔したのは、

「おめでとー!」

という亜美と志保の叫びだった。

夢と現の間でゆらゆら揺れていたたまきのヤジロベーが、バランスを崩して現の方に真っ逆さまに落っこちる。

何か天変地異でも起きたかのようにたまきは飛び起きた。眼鏡をはずしたままだから、視界がぼやける。

とりあえず冷静になる。なにが起きたのかは知らないが、亜美と志保は「おめでとー!」と言ったのだ。とりあえず、マイナスなことが起きているわけではない。火事や地震のように、今すぐここから逃げなくてはいけないわけではないだろう。

「お、たまき、起きたか」

「たまきちゃん、おめでとー!」

どうやら、何かおめでたいことが自分の身に起きたらしい。

だが、全く心当たりがない。宝くじでもあたったのだろうか。いや、買った覚えなんかない。

「あの、何かおめでたいことがあったんですか?」

たまきは裸眼のまま目をぱちくりして尋ねた。亜美と志保の顔もぼやけて、髪の毛の色で何となくこっちが亜美でこっちが志保だろう、とわかる程度だ。もし、声がそっくりな別人と入れ替わっていてもわかるまい。

「バーカ、正月だよ!」

亜美の新年一発目の「バーカ」が聞こえた。

1月1日の、午前零時になったばかりである。

「たまきちゃん、あけましておめでとう」

たまきの目の前で志保がにっこりとほほ笑む。いや、たまきには見えていないのだが、声の調子から微笑んでいる気がする。

「……おやすみです」

たまきはそうとだけ言うと、再びごろりと横になって目を閉じた。

なんだ、おめでたいことなんて、なにも起きてないや。

 

再びまどろみの塀の上に戻ろうとしたたまきだったが、たまきのヤジロベーは現の側に大きく傾いたまま、ピクリとも動きそうにない。

聞こえてくるのは亜美と志保の笑い声。どうやら、テレビを見ているらしい。テレビの向こうからタレントの笑い声も聞こえる。

だが、たまきがまどろめない理由は、どうやら回りがうるさいから、ではないらしい。

うるさいのはたまきの心の中なのだ。

周波数があってないラジオのように、ザザザ、ザザザとノイズが入り、時折、混線でもしたかのように、いつかの自分の言葉が聞こえてくる。

『その時になって初めて、地獄を見ればいいんじゃないですか』

『海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?』

『あなたのことも、あなたみたいな人が作る歌も、私は、大っ嫌いです!』

そういったセリフはどこかエフェクトがかかっているみたいで、まるで自分の声ではないみたいだ。耳をすませばピーガガピーピーというノイズが聞こえてきそうだ。

いや、自分の声じゃないように聞こえるのは気のせいで、それらの言葉は紛れもなくたまきの言葉なのだ。自分の口ではっきりといった言葉なのだ。

クリスマスイブの夜以降、たまきはずっとこんな感じだった。以前は目を閉じればどこでもすぐに眠れたのに、心がざわついてなかなかすぐに寝付けない。

もっとも、いつもに比べてすぐに寝付けないだけで、別に全然眠れないわけではない。

よしんば不眠症だったとしても、たまきは別に困らない。毎日毎日「城」でごろごろして、たまに思い出したように公園に出かけて絵を描くぐらいの毎日なのだから。いっそ不眠症にでもなったほうがまだ健康的かもしれない。

たまきの心をざわつかせているのは、「なかなか寝れないこと」そのものではなく、「なぜなかなか寝れないのか」、その理由がわからないことだった。

正確にいえば、寝れない原因ははっきりしている。クリスマスイブの夜に起きた騒動のことが心から離れない。それがたまきの安眠を妨げているのだ。

問題は、なぜそれが心から離れないのか、その理由がわからないのだ。

ミチの不倫がばれて、相手の男性に殴られた。それはそれで大事件だったのだが、ミチは助かったし、問題自体はもう解決したはずだし、正直な話、ミチが不倫しようが殴られようが、たまきには直接関係のない話だ。

なのに、どうして、あの日のことが心から離れない。

あの日の自分の言葉が、心から離れない。

耳を澄ませば、またあの日の言葉が聞こえてくる。

『その目だ。たまきちゃんのその目が怖かったんだ……』

聞こえてきたのはミチの言葉だった。

いったいなんだというのだろう。

たまきは正しいことを言ったはずだ。

悪いのはミチと海乃って人、あの二人なのだ。間違っていることをしたから、たまきは自分の思ったことを、自分が正しいと思ったことをぶつけた。

なのにどうして、たまきがいつまでももやもやしなければいけないのだろう。

 

寝付けない、寝付けない、そう思いながら気が付くと朝だった。

時計を見ると午前十時。

寝付けない寝付けないと言いつつ、どうやらしっかり眠っていたようだ。

眼鏡をかけて、ぼんやりと部屋を見渡すと、テレビがついていて、「全国の元旦の朝」みたいな映像が流れている。

「たまき、起きたか。あと十五分ぐらいしたら出かけるぞ」

ばっちりメイクをした亜美がそう言った。

「どこか出かけるんですか?」

「先生のとこ。お年玉もらって、おせち食うんだ」

「そのあとは初詣に行くよ」

と志保。

なんだかめんどくさいな、と思いつつもたまきは起き上がった。

たまきは髪の毛を整える程度の支度を済ませる。

「そういえば亜美ちゃん、朝さ、いなかったよね」

「ん? 屋上にいたんだよ」

亜美が答える。

「何してたの?」

「そりゃお前、正月の朝っつったら、初日の出見るために決まってんだろう。やばかったぜ。区役所とビルの隙間からちょうど朝日が昇ってくるんだ。光がこう、パーっとなって、ぴかーっとなって、うわっやべーってなって」

「よくわからないけど、あたしも見たかったなぁ。起こしてくれればよかったのに」

志保が不満げに口を尖らせた。

「じゃあさ、明日の朝見ようぜ」

「え?」

たまきと志保が同じタイミングで亜美を見た。

「明日見るって……何を?」

「何って、明日の初日の出だよ」

「明日って……、一月二日だよ?」

「知ってるよ」

「亜美ちゃん、初日の出の意味、わかってる?」

「その日初めて出てくる太陽の事だろ?」

「それ……ただの日の出です」

たまきがぼそりとつぶやく。

「亜美ちゃん、初日の出って、その年初めての日の出のことだよ?」

亜美は不思議そうな顔して話を聞いていたが、やがて顔をしかめて

「なにそれ?」

と言った。

「正月の朝だけ特別ってわけ?」

「そうだよ。だから亜美ちゃん、わざわざ早起きして見たんでしょ?」

「いや、うちは、テレビつけたら初日の出がどうとか言ってたから見に行っただけだけど、じゃあ、なに、今日の初日の出は初日の出だけど、明日の初日の出は初日の出じゃねぇのか?」

「だからそれ、ただの日の出です」

たまきがまたぼそっと言う。

「なんだよそれ。なんで正月の初日の出だけ特別なんだよ。明日見たっていいじゃねぇか。どうせおんなじところからおんなじ時間に昇ってくるんだから。今日の初日の出と明日の初日の出、クオリティが違うのかよ。んなわけねぇだろ?」

「まあ、クオリティは一緒だと思うけど……」

志保があきれたように言った。

 

お正月なんて何一つ特別なことなんてない。

たまきはそう思っているのだが、それでも年が変わり、1月1日というまっさらな日の空気は、冷たくもどこかすがすがしさを感じずにはいられなかった。

三人は連なって太田ビルの階段を下りていく。

2階まで降りると、ラーメン屋がのれんを出していた。

「この店、正月でもやってるんだ」

「みたいだね。年中無休って書いてあるよ」

「は~、正月早々ご苦労様です」

亜美が感心したように言うと、軽く敬礼をして見せた。

階段を下りた三人は舞の家に向けて歩き出す。

歓楽街に正月休みなんてないらしく、お正月だからと言って特別何かがいつもと違うわけではない。

「ミチってさ、今日もバイトしてんのかな?」

と亜美が切り出した。

「さあ。そもそも、ミチ君ってもうケガ治ってるの?」

「おい、たまき、なんか聞いてねぇか?」

「……なにも知りません。なんで私なんですか……」

「だって、お前が一番、ミチと仲いいだろ」

「……仲良くなんか、ないです」

たまきはわざと亜美から目線を外した。再びラジオのノイズみたいな音が聞こえた気がした。

「でも、たまきちゃん、よく公園でミチ君と一緒になるんでしょ? あの日もたまきちゃんだけ残ってたし、何か聞いてないの?」

「……あれ以来、会ってません」

たまきは、もうその話題に触れてほしくないかのように、歩調を落とした。

「でも、ミチ、もしも骨折とかしてたら、そんなすぐには治んねぇだろ」

「でも、先生は『最悪、亀裂入ってるかも』って言ってたから、逆に骨折してる可能性は低いんじゃない?」

ミチについて会話する亜美と志保の後ろを、たまきはとぼとぼとついていく。彼女の眼鏡に映る景色は、どことなくモノクロに感じた。

 

写真はイメージです

「せんせー、明けましておめでとー!」

「……お前ら、何しに来た」

舞は機嫌が悪そうに、マンションの廊下に並んだ三人をにらんだ。

「とりあえず、お前ら、中に入れ」

舞に促され、三人は部屋の中へと入る。

「先生、振袖とか着ないの?」

「一人で部屋の中で振袖着てたら、イタいだろ」

舞はそういうと、志保のほうを向いた。

「志保、お前、最近どうだ。クスリを断ってもう半年近くなるだろ」

「はい」

「クスリを使いたいって思うことはあるか? 怒らねぇから、正直に言えよ」

舞は灰皿の上に置いてあった煙草をくわえた。

「……あります。でも、一度も使っては……」

「了解。いいんだよ、それで」

舞はそういうと、今度はたまきのほうを向く。

「お前は、三日前のリスカの傷、どうなった」

「……別に何も」

正確にはまだちょっと痛いのだが、傷が開いたわけでもないので、たまきはだまっていた。

舞は何か考えるようなしぐさを見せた後、亜美のほうを向いた。

「亜美、お前、まさか、父親が誰ともわかんないガキを孕んだとか……」

「ないよ」

亜美があっけらかんとして答える。

舞は腕組みして数秒間考えた。

「じゃあ、お前ら、何しに来たんだ!?」

「何って……正月の挨拶ですよ」

「ずいぶん平和な用事だな……」

「何? 先生のとこって、ビョーキとかケガとかニンシンとかしてないと、来ちゃいけないの?」

「お前らが突然やってくるときは、だいたいなんかのトラブルと一緒だろうがよ! トイレで倒れてるとか、道路で殴られてるとか!」

たまきは舞の部屋を見渡した。いつもと何も変わらない。ここにいたら今日がお正月であることも忘れてしまいそうだ。

「せんせー、お年玉ちょーだい」

舞は浅くため息をついた。亜美がお年玉をせびることは想定済みだったらしい。

舞はおもむろにキッチンに向かうと、調理器具の中からお玉を手に取った。そしてリビングのソファの前に立つと、ソファの上にポトリとお玉を落とす。

「なに? いまの」

「おとし玉だよ」

三人はしばらく、ポカンと舞を見ていた。

「……くだらねぇ!」

「うるせぇ!」

亜美の言葉にかぶせるように、舞が吼えるかのように言葉をぶつけた。

「いいかお前ら、あたしはいつもお前らのことをタダ同然で面倒見てやってんだぞ! この前のミチの一件だって、本来の治療代と比べたら激安でやってやったんだからな! むしろ、お前らからもっとお金貰ってもいいくらいだ。なんであたしがお前らにお年玉払わにゃならんのだ!」

ミチの名前が出て、たまきは少し前のめりになるように口を開いた。

「あの、ミチ君、あれからどうなりました?」

「お、なに、心配?」

舞が妙ににやにやする。

「いや、そういうわけじゃ……」

下を向いたたまきを見て、舞はわざとらしく声を上げた。

「へぇ、心配してんだ。この前あんなにおおげん……」

「ま、舞先生…!」

たまきが慌てたように舞を見る。

「わかってるよ。言わないって」

舞はまだにやにやしている。

「おおげん?」

「なんだ、オオゲンって?」

志保と亜美が不思議そうに舞を見る。

「ん? ああ、ミチなら大元気だよ。オオゲンキ。結局、骨もおれてなかったし、頭打ったわけでもないし。年末に一回うちに呼んで様子見たけど、歩くのにちょっと足引きずってる感じだったけど、まあ、若いし、直に治るだろ」

「そうですか……」

たまきはどこか納得していないかのようだった。

「ところで、先生さ、おせち作ってないの?」

亜美がソファに腰掛けながら訪ねた。

「ないよ。一人でおせちなんか作るかよ」

「買ったりしてないの?」

「だからないって。一人でおせち食うかよ」

「なんだ。志保、おせちないってさ」

亜美がつまらなそうに言った。

「あれ? 亜美ちゃん、先生の家におせちあるから食べに行こうって……」

「いや、先生だったらおせちぐらい用意してるかもなぁ、って思ってたんだけどなぁ」

「え、ずいぶん自信ありげに言ってたけど、あれ、ただの予想だったの?」

「ダメじゃん、先生。正月なのにお年玉もおせちも用意してないなんて」

「勝手にあたしを当てにすんな」

舞が亜美を、ぎろりとにらみつけた。

 

結局、4人のお昼ご飯は舞の家にストックされていたカップラーメンという、お正月とは程遠いものとなった。

お昼を食べ終えて、亜美と志保は近くの神社に初もうでに向かった。

たまきも誘われたのだが、人ごみに行きたくなかったので、断った。

だいたい神様なんて信じていない。「早く死にたい」というたまきの願いは、一向にかなわないのだから。

テレビを見るとどこかで事故が起きたの、病気で人が死んだの、殺されたのと悲しいニュースが流れている。

こういうニュースが悲しいのは、死にたくない人が死んでしまうからだ。

どうせなら死にたくてしょうがない自分みたいな人が犠牲になればよかったのに。そうしたら悲しくなんかないのに。

死にたくない人が死んで、死にたい人が新年を迎える。もしも神様がいるなら、きっと悪趣味で残酷な奴に違いない。

 

たまきはソファの上でひざを丸めていた。舞の家にいてもやることがないし、このまま「城」に帰ろうかとも思ったが、帰ったところでやることはない。

何より、一人になったらまた心がもやもやして、あのノイズが聞こえてきそうだ。

眠ろうと思って目をつむった時、トイレに入った時、亜美も志保もいなくてひとりっきりになった時、心がもやもやして、ざわざわして、ノイズとともにイブの夜のことを思い出す。思い出してまたもやもやする。

ノイズが聞こえてくるタイミングはほかにもある。階段を下りてミチの働くラーメン屋の前を通りかかったとき、会話の中でミチの名前が出たとき、心がざわざわとし、あの夜のことが、ミチとのやり取りが頭をよぎる。

なぜあの日のことが頭を離れないのか、心がもやもやしてざわざわするのか。いくら考えても答えが出ない。

いくら考えても答えが出ないのに、それでも考えずにはいられない。もやもやするのが気のせいだなんて思えない。

さっきだってそうだ。ミチの名前が出るたびにもやもやしてるのに、自分からミチの話題を切り出した。ミチの話をすればまたもやもやするってわかっているのに。

そして、ミチのけがは心配ないという答えは、たまきが望むものではなかった。

別にミチのけがが治らなければいいとか、そういう意味ではない。たまきが知りたかったのは、ケガの具合じゃないのだ。それも心配だけれど、知りたかったのはもっと別のことなんだ。それは……。

「ミチ君、大丈夫でした……?」

「ん?」

舞は少し離れた所に立って、コーラを飲んでいたが、たまきの問いかけに怪訝な顔をした。

「さっき言っただろ? 大元気だったって……」

「けがのことじゃないです」

たまきは舞を見ることなく言った。

「そうじゃなくて、その、落ち込んだりしてなかったかなとか……」

舞はコーラを一口飲んでから答えた。

「そういう意味では元気なかったかもな。確かに、声のトーンとか、目線とか……、まあ、あんなことあったんだし、そんなすぐに立ち直れはしないだろうし」

「たぶんそれ、私のせいです……」

まるで冬の冷たい吐息のように、たまきはぽつりとつぶやいた。

「おまえのせい? なんで?」

「私があの時、ミチ君を傷つけるようなこと言ったから……」

たまきの中のノイズが、より一層大きくなった。

『海乃って人が結婚してるって、ミチ君、知ってましたよね!?』

『あなたのことも、あなたみたいな人が作る歌も、私は、大っ嫌いです!』

『その目だ。たまきちゃんのその目が怖かったんだ……』

あの日の言葉が、ノイズがかかった状態で聞こえてくる。

「それでミチが落ち込んでるって思ってるの? いやぁ、考えすぎだろ」

舞はコーラの感をテーブルの上に置くと、笑いながらそう言った。

「でも……」

「前にも言ったろ。お前は何でも自分のせいにしがちだって。ミチがケガしたのも、お前にいろいろ言われたのも、全部ミチの自業自得なんだから。大丈夫。お前は間違ったことは言っちゃいないよ」

「私も、間違ったことを言ったなんて思ってません……」

「だったらそれでいいだろ。まだ納得できないことがあるのか?」

「はい……」

舞はコーラ片手に、たまきの隣に座った。たまきは膝の上に置いた両手を固く結び、その一点を見つめていた。

「心が……もやもやするんです……。ざわざわするんです……。なんであんなこと言っちゃったんだろうって。なんであんな言い方しかできなかったんだろうって。私は間違ってない、間違ったことは言ってない、何度もそう思っても、それでももやもやするんです……」

話ながらたまきは、ノイズの奥にある自分の本音が少し聞こえたような気がした。

「なんでかね、それは」

舞はやさしくほほえみながらそうつぶやいた。

「きっと私は……自分のことが赦せないんだと思います」

たまきは今にも消え入りそうな声で、それでいて力強くそう答えた。

「ああいう言い方しかできなかったことが?」

「はい……」

「でも、あたしから見ても、お前の言ってたことは間違っちゃいないぜ。悪いのは不倫して、嘘ついてたミチだ。そのことをきつく言われて落ち込んだからって、お前が自分を責める必要はないんじゃないか?」

「でも……、もやもやするんです。なんでなんで私はあの時……、って。それが心から離れないんです。自分が……赦せないんです……」

「それは、なんで?」

舞はうつむくたまきの目を覗き込むようにして言った。

「そうまでして自分のことが赦せないのはなんで?」

「それが……わからないんです……」

たまきはじっと一点を見つめたまま答えた。

舞はごくごくとコーラを喉の奥に一気に流し込むと、缶をテーブルの上に置いた。

「確かに、お前の言ってたことは正しかったけど、優しくはなかったかもなぁ」

「え?」

たまきはこの時になって初めて、舞のほうを向いた。

「お前が言ってることはそういう事だろ? 自分は正しいことを言った。でも、優しくなかった。優しくなかった自分が赦せないって」

「そうなんですか?」

「いや、お前のことだよ」

舞は笑った。

自分の言ったことは正しい。

でも、優しくなかった。

舞の言葉を心の中でたまきは何度もつぶやく。

いつしか、たまきの中に聞こえていたノイズは消えていた。もやもやもざわざわも消えていた。

「あの日、私は、やさしくなかった……。ミチ君に対してやさしくできなかった自分が赦せなかった……」

たまきはもう一度舞のほうを向いた。

「そういうことなんですか?」

「だからあたしに聞いても正解なんか知らないって。お前のことなんだから」

そういって舞はまた笑う。

「私は……やさしくない自分が赦せなかったんだ……」

「おまえはヘンなやつだな」

舞は白い歯を見せてにっと笑う。

「ヘン……ですか?」

「だってさ、自分がやさしくなかったから自分を赦せないって、そんなこと考えるのは、やさしいやつだけだよ。おまえは人一倍やさしいんだよ。なのに、自分がやさしくなかったから赦せない、なんて言ってやがる。矛盾してるだろ」

「私は……やさしくなんかないです……だってあの時……ミチ君にきつい言い方を……、海乃って人にも……」

「だから、そんな風に考えること自体、やさしいやつだけなんだよ」

舞はさっきから、ゲラゲラと笑っている。

「あたしがお前ぐらいの時なんか、そんな風には考えなかったぜ。あたしは正しいこと言った、あたしは間違ってない、って。その言い方がやさしくなかったとか、もっと別の言い方があったんじゃないかとか、そんなこと考えなかったよ。いや……、大人になってからもそうだったかもな……」

どこか遠い目をする舞の横で、たまきは突然立ち上がった。

「私、ミチ君に謝らないと」

「おお、どうした、急に」

舞は立ち上がったたまきを見上げた。

「別にお前が謝る必要なんかないんじゃないか? 確かにお前の言い方はやさしくはなかったかもだけど、何度も言うけどさ、悪いのはミチなんだぜ。ミチが悪いことして、その結果なに言われようが、自業自得だと思うけどねぇ」

「でも、私はミチ君にやさしくできなかったんです。やっぱり、そのことをちゃんと謝らないと」

たまきの言葉に舞は、いつになく意志の強さを感じた。

「私、帰ります。舞先生、ありがとうございました」

「おお、まあ、頑張って謝って来いよ」

たまきは舞にぺこりとお辞儀をすると、舞の部屋を出て行った。

たまきが出ていき、部屋の扉がバタンと閉じた。その扉を見ながら、舞はひとり呟いた。

「ほんとうにヘンなやつだ」

 

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元日の昼過ぎ、ミチはいつもの公園の、いつもの階段にいた。

けがをして、それも足をくじいていたので、この公園に来るのは久しぶりだった。

ギターケースを下すと、階段に腰掛ける。夏場には鉄板のように熱い階段のコンクリートも、今では氷のように冷たい。

腰を下ろしたまま、ミチはただぼおっと前だけを見ていた。

ふいに後ろから声をかけられた。

「あけましておめでとう」

振り返ると、そこには仙人が立っていた。

「……あけおめっす」

ミチは軽く頭を下げる。仙人は笑いながら、

「今の若いもんはそんな風に略すのか。まあ、正月なんて何がおめでたいのかわからんもんな」

と言った。

「今日は歌わんのか?」

ミチは答えなかった。

仙人はミチの横の空いたスペースに目をやった。

「となり、いいかな?」

ミチは無言でうなづく。

「かわいいお嬢ちゃんじゃなくて申し訳ないがな」

「別に……」

仙人はミチの隣に腰掛けた。

仙人は手にカップ酒を持っていて、それを開けるとちびちびと飲みだす。

仙人は、ミチの額に貼られたばんそうこうについては、何も聞かなかった。

仙人がカップ酒を半分ほど飲んだ時だった。

「あの……」

ミチが仙人に話しかけた。

「ちょっと、話を聞いてほしいんす……けど……」

ミチは横目で仙人の表情をうかがう。

「歌ではなくて話を聞いてほしいか。噺家にでもなったのか?」

そういって仙人は、優しく笑った。

 

ミチは仙人にすべてを話した。不倫したこと。ばれたこと。殴られたこと。相手にも、そして友達にも嘘をついたこと。そして、たまきに軽蔑されたこと。

仙人にも軽蔑されるかと思ったが、仙人は時折あいづちを入れるだけで、不倫したことに対して、特に何も言わなかった。

一通り話し終えて、仙人は

「そりゃ、大変だったな」

とだけ言った。

「仙人さんは……その……今の話を聞いて、俺のことどう思います……?」

「別にどうも思わんさ。わしに迷惑をかけたわけではないからな。おまえさん、まだ未成年だろ? だったら、いっぱい道を踏み外して、めいっぱい怒られればいい。おまえさんは今回、自分の行いで傷つく人がいることを知ったんだ。おまえさんぐらいの年だったら、そこから学んで、二度と同じ過ちをしなければそれでよい」

仙人はカップ酒の入った小瓶を地面に置いた。

「経験するだけじゃ何も偉くない。人の価値を決めるのは経験から何を学んだか、だ」

「そうっすか……」

「ところで、どうしてこんな話をわしにしたのかな?」

「……」

「わしはてっきり、お前さんに嫌われていると思っとったんだが」

ミチは答えず、下を見つめた。

「ただ話を聞いて、懺悔したいというのなら、わしなんかよりも寺や教会に行ったほうがよいぞ。悪い宗教家というのは口がうまいが、善い宗教家は話を聞くのがうまい」

「そのっすね……、俺、どう謝ったらいいのかわからなくて……」

仙人は再びカップ酒を口にした。

「さっきの話を聞く限り、お前さんの先輩が、お前さんとその女の人はもう二度と会わないということで話をまとめたんだろ? だったら、下手に謝罪しないほうがいい。かえって話がこじれる。勝手なことをすれば、先輩とやらの顔をつぶすことにもなる」

「その……でも……」

「何か割り切れないことがあるのか?」

「俺、たまきちゃんにどう謝ればいいのかわからなくて……」

「ほう」

仙人は興味深そうにミチを見た。

「俺のせいで巻き込まれて、ケガしちゃったし、あんなに怒ってたし、ちゃんと謝んなきゃなって……。でも、こういう言い方するとあれなんすけど、あの子普通の女の子と違うっていうか……、普通の女の子ならなんかアクセサリーとかあげれば喜ぶかなって思うんすけど、たまきちゃんがアクセサリーとかつけてるの見たことないし、あの子、画集とかそういうの貰って喜ぶ子だから、何あげればいいかなって……」

「ボウズ」

「はい……」

ミチは緊張した面持ちで仙人を見た。

「わしから言えることは二つだ。まず、モノをあげれば謝ったことになると思っとるんなら、それは間違いだぞ」

「そ、それはそうなんすけど……」

ミチは仙人から視線を外し、泳がせた。

「でも、やっぱり、手ぶらっつーのも……」

「それにだ、確かにお嬢ちゃんが、お前さんに巻き込まれてケガしたことに怒っとるんだったら、まあまだお詫びの品を持ってくでもいいが、話を聞く限り、お嬢ちゃんはそこに怒ったわけではないと思うぞ」

「……というと」

「そもそも、お嬢ちゃんがケガをしたのは、お前さんを助けようとしたからだろ。おまえさんはお嬢ちゃんに助けを求めたのか?」

「……いいえ」

「つまり、お嬢ちゃんは自分の判断でおまえさんを助けようとしたんだ。ケガしたくなかったら、そんな事せんだろ」

「でも、現に、たまきちゃんは俺のせいでケガしちゃったわけで……」

「まあ、お前さんの気が済まんというのなら、謝って来ればいいさ。モノがなきゃどうしても不安だというのなら、お菓子の一つでも買っていくといい。だが、わしにはもっと他に謝らなければならんことがあるような気がするがの」

ミチは何も答えなかった。

「お前さんもそのことをうすうすわかっとるんじゃないのか。だが、それが何なのか、はっきりとは分からない。何をあげたらいいかとかそういうんじゃなく、あの子の前に立った時に何を言えばいいのか、本当は何を謝らなければいけないのか、それがはっきりと自分でもわかっとらんのではないか? だから、とっとと謝りに行けばいいものを、一週間も何もせんでおる。」

「俺は、なにを謝らなければいけないんすか……」

ミチは、仙人をすがるように見た。

「それを自分で気づくところまでが勉強……と言いたいところだが、まあ、『謝らなければいけないことがある』と自分で思っただけでも上出来だろう」

仙人は、再びカップ酒に口をつけた。

「言っておくが、『わしはこう思う』って話であって、これが正解ってわけじゃないぞ。一応、わしの考えは述べるが、それをどう思うかはお前さんが判断することだ」

ミチはいつになく真剣なまなざしで仙人を見据えた。

「お前さんにとって、あのお嬢ちゃんはどういう存在だ?」

「え……友達っすけど?」

「それだけか?」

「それだけって、別にヘンな関係じゃないっすよ?」

ミチは少し顔を赤くしながら言った。

「じゃあ、ほかの友達にはなくて、あの子にだけはあるつながりがあるだろう?」

「え……?」

ミチは数学の問題でも解くかのように難しい顔をしたが、悩みつつも口を開いた。

「歌?」

「お前さんにとって、あの子はどういう存在だ?」

「……ファンっすか?」

「そうだ。それもたった一人の、な」

仙人は、やれやれとでも言いたげにミチを見ている。

「そのたった一人のファンを、お前さんは失望させたんだ。おまえさんの歌は全部嘘だったんだ、とな。おまえさんの話を聞く限り、お嬢ちゃんはそこにがっかりして、そこに怒っていると思うがな。お嬢ちゃんが好きだったおまえさんの歌を、ほかでもないおまえさん自身が嘘にしてしまったことに」

ミチは何も答えられなかった。

「もちろん、ファンの期待に全部答えることなんてできん。中には、勝手な期待もあるだろう。だが、自分の歌を嘘にしちゃいかん。歌を殺しちゃいかん。おまえさんの歌はお前さんのものだが、聴いてくれる人のものでもあるからだ。おまえさんの歌が嘘になれば、お嬢ちゃんがお前さんの歌を聴いて抱いた想いや、思い出も嘘になってしまう」

仙人の言葉は白い息となって、霞のように空気に溶けていく。

「そこまで責任が持てんというのなら、人前で歌なんぞ歌わぬことだ」

ミチは何も答えない。ただ、傍らに置いたギターケースを見ていた。

やがて、おもむろにミチは立ち上がる。

「俺、そろそろバイトの時間なんで、行きます。……ありがとうございました」

「元旦からバイトか。大変だな」

「いえ……じゃ……」

ミチは軽く会釈をすると、公園の出口へとむかって歩き始めた。

結局開けることのなかったギターケースを担いで、大通りを渡る。

歩きながらミチは仙人の言葉に思いを巡らす。

それは、最初に言われた「正月なんて何がおめでたいかわからない」という言葉。

公園と駅の間にある官庁街は、ほとんど人通りがない。人気のない官庁街を、ミチは速足で歩いていく。

仙人のおっさんのゆうとおりだ。正月なんてちっともめでたくない。

だって俺の中では、去年はまだ、終わっていない。

 

写真はイメージです

ミチに謝ろうと勢いよく舞の家を飛び出したはいいものの、たまきは結局「城」に帰ってきた。

思えば、ミチの家も、連絡先も知らない。

いつもの公園に行けばもしかしたらいるかも、などと考えたが、「城」の鍵は今、たまきが預かっている。亜美と志保がいつ帰ってくるかわからないのに、遠出をするわけにはいかない。

結局、太田ビルに帰ってきたたまき。途中でミチの働くラーメン屋を覗き込んだが、覗いた程度でミチがいるかどうかはわからなかったし、謝罪をするためにわざわざお店に入るのは、お店にとって迷惑だろう。

結局、謝らなくちゃという思いを抱えてまたもやもやしたまま、たまきは『城』へと帰ってきた。

もやもやしたまま「城」でしばらく過ごしていたら、いつの間にか時間は午後4時になっていた。亜美と志保はまだ帰ってきていない。

ふと、おなかの虫がぐうとなった。

誰もいないのに、なぜだか恥ずかしいと思ってしまう。

おやつでも買おうと、たまきは立ち上がる。

下のコンビニ行くため、階段を下りていく。

3階から2階へと降りる階段の、踊り場を過ぎたあたりで、たまきは2階のラーメン屋の前に誰かいるのに気づいた。

階段のすぐそばにラーメン屋の入り口があり、2階の奥にはもう一つ、勝手口がある。勝手口のわきにはパイプ椅子が二つ置かれ、灰皿代わりの水の入ったバケツが置いてある。従業員の喫煙スペースとして使われている場所だ。

そこで一人、調理服を着た少年が、たばこを吸っていた。少年がタバコを吸うのはルール違反だが、吸っているのだからそう書くしかない。

少年の姿を見つけると、

「あっ……」

と、小さく声を漏らし、たまきは階段の上で足を止めた。そのまま次の一歩が踏み出せずに、階段の上に立ち尽くした。

さっきまで、謝ろう謝ろうと思っていたのに、急に本人に会うと、言葉が出てこない。

その少年、ミチもたまきに気づき、やっぱり

「あ……」

と、小さくつぶやくと、気まずそうにたまきを見ていた。

やがて、ミチは煙草をバケツの中に放り込み、やはり気まずそうに、それでも一歩一歩、たまきの方へと近づいて行った。

手を伸ばせば触れるくらいのところでミチは止まると、右上を見たり左上を見たり、視線を忙しく泳がせながら、言葉を探した。

「あ、あのさ……」

ようやく見つかったミチの言葉の出だしだったが、それにかぶせるように、たまきはいつもよりちょっと大きな声で、いつもよりちょっと早口で、

「あの、この前は、ごめんなさい!」

というと、思いっきり頭を下げた。

「……へ?」

ミチの方は出鼻をくじかれ、なおかつ面食らったようにたまきをぽかんと見つめる。

たまきが顔をあげた。いつになくまっすぐにミチを見据えている。

二人の視線が正面衝突した。

気恥ずかしさもあってか、たまきはすぐに次の言葉が言えなかった。

一方、ミチは虚を突かれたようにたまきを見ていた。やがて、絞り出すように言葉を述べる。

「……なんで……たまきちゃんが、謝るの?」

たまきは珍しく、ミチの目を見たまま、目をそらさなかった。

「あの日、ミチ君はケガしてて、傷ついてて、優しくしなきゃいけなかったのに、私、ちゃんと優しくできなくて……」

「でも、あれは、俺が悪いわけで……」

一方のミチは恥ずかしそうに視線を逸らす。

「だとしても、私はあの日、もっとミチ君に優しくしなきゃいけなかったんです。言いたいことがあっても、何もあの日に言うことはなかったんです。ごめんなさい」

たまきはもう一度頭を下げた。

顔をあげるとすぐ目の前にミチの顔があった。今度はミチがたまきをじっと見ると、

「……ずるくね?」

と言った。

「……え?」

「だって、謝らなきゃいけないのは俺の方なのに、そんな風にたまきちゃんから最初に謝られたら、俺、もう、謝れないじゃん。それってずるくね?」

「ずるいってどういうことですか? ミチ君も謝りたいことがあるなら、今、謝ればいいじゃないですか?」

「でも、たまきちゃんから先に謝られたら、もう謝れねぇじゃん。なんか、後出しじゃんけんみたいでさ」

「別にどっちが先だからってそんなの関係ないじゃないですか」

たまきとしても納得いかない。

「だってさ、優しくできなかったからごめんなさいって、そんな理由で先に謝られたらさ、なんか謝りづらいっていうか……」

「私が先に謝ったのがいけないんですか? 私は自分が悪いことしたって思ったから、謝ったんです。なんでそれに文句言われなきゃいけないんですか? おかしいですよね? おかしくないですか?」

たまきもムキになって言い返す。ミチは何か言いたそうにたまきを見ていたが、

「おかしいっていえばまあ、可笑しいよな……」

と言って、笑い始めた。

「……何がそんなにおかしいんですか!?」

「いや、俺、たまきちゃんに謝るつもりだったのに、なんでまたけんかしてんだろ、って思ってさ」

「……べつにけんかしてるつもりはありません」

たまきは斜め下へと目をそらした。そして、ぽつりと言った。

「……謝りたいことがあるなら、謝ればいいじゃないですか」

「そうやって促されると、余計にダサいっていうか……」

「謝るのはいつだってダサいんです。さっきは、私がダサかったんですから」

そういうと、たまきは再びミチの目を見た。

「謝るのにかっこつけたいなんて、それこそずるくないですか?」

ミチは本当に恥ずかしそうにたまきを見ていた。そして、恥ずかしそうに口を開いた。

「なんかその、いろいろと、ごめんなさい……!」

「『なんかいろいろと』じゃわかりません」

「いや、今のことも謝んなきゃなぁ、って思うし、巻き込んじゃったこともそうだし、その……たまきちゃんがせっかく好きだって言ってくれた俺の歌……、自分で台無しにしちゃって……ごめん……」

ミチはぎこちなく、それでも潔く、頭を下げた。だからたまきが

「……ほんとですよ」

とつぶやいた時、彼女がどんな表情をしていたかミチは見ていない。

「……俺決めた。これまで作った歌は、全部捨てる」

「え?」

たまきは戸惑ったような声を上げ、申し訳なさそうにミチを見た。

「……別にそこまでする必要は……」

「いや、もうさ、あの日以来、歌えないんだよ」

ミチはたまきから視線を外す。

「さっきもギターもって公園に行ったんだけど、歌うどころか、ギターを持つ気にもなれなくてさ……、結局、俺は自分の作った歌の主人公になれなかった。自分で自分の歌を嘘にしちまったんだ。だから、もう、歌えないんだ」

たまきはミチをじっと見ていた。

「だから、全部捨てる。今の俺には歌えないし、だったら、一からやり直すことに決めたんだ。ヒット曲の切り貼りじゃねぇ、俺の身の丈に合った、俺自身の言葉で書いた歌を、一から作り直すって」

「そうですか……」

たまきはどこか寂しそうに、それでいて、どこかほっとしたようにつぶやいた。

「でも……、全部捨てなくてもいいんじゃないですか……。あの……犬の歌とか、私、まだその……」

少し恥ずかしそうにたまきが言った。

「……また歌えるようになったらね」

そういってミチは笑った。たまきも微笑んだ。

「なんだか今日は、ミチ君がいつもと違って見えます」

「違って見えるって?」

「いつもはなんか、もっと遠い感じだったけど、今日は目線が同じに見えるような気が……」

「それ、たまきちゃんがちょっと高いところにいるからだよ」

たまきは足元に目をやった。たまきはミチよりも階段1段分、高い所に立っていた。

たまきはそこからぴょんと飛び降りた。トン、と着地して見上げると、ミチの目が少し高いところにあり、いつもの身長差に戻った。たまきはミチの目を見上げると、

「いつも通り」

と言ってほほ笑んだ。

「そういえば……その……」

たまきはラーメン屋ののれんを見ると、言いづらそうにミチを見た。

「お店で働いてて、あの海乃って人と会わないんですか……」

「……あの人ね、……バイト辞めてた。俺が休んでる間に」

「そうですか……」

「ま、旦那いるんだったら、別に無理してバイトしなくても生活できるだろうしな」

ミチがわざと明るく言っているようにたまきには感じられた。

「じゃあ、私はこれで……」

そういってたまきはミチに背を向け、階段を上り始めた。

「……たまきちゃん!」

たまきの背中に、ミチの言葉が投げかけられる。

「新しい歌ができたらさ、また聞いてくれないかな?」

「……はい」

たまきは振り返ることなく答えた。

そのままたまきは階段を上り続けた。

4階から5階へと向かう階段の踊り場で、再びおなかが、ぐう、と鳴った。

恥ずかしそうにたまきはおなかに手をやる。

そうだった。私はおなかがすいて、下のコンビニにおやつを買いに行く途中だった、とたまきは自分の用事を思い出した。

しかし、いま戻っても、たぶん、まだミチがあそこでタバコを吸っているような気がする。

いま戻ったら絶対、「あれ、どうしたの?」と声を掛けられるに決まってる。

そう思ったらさらに恥ずかしくなって、たまきはおなかに手を当てたまんま、階段を上り続けた。

つづく


次回 第22話「明け方の青春」

近くの神社に初詣に行った亜美と志保。志保はそこで思いがけない人物に出会う。そして、「二日目の初日の出」を見るつもりがふとした手違いで日出より早く起きてしまった3人は、明け方の歓楽街を散歩することに。

続きはこちら


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」

間違えて映画「タイタニック2012」を見ちゃった

『タイタニック』。言わずと知れた歴史に残る映画である。一方、『タイタニック2012』という映画がある。「タイタニック2」と呼ばれることもあるが、あのタイタニックとは全くの別物。続編でも何でもない。今回はその「タイタニック2012」を見てしまった感想である。


どうして「タイタニック2012」を見ようと思ったのか。

『タイタニック2012』を知ったのは、ビデオ屋で「タイタニック」のビデオを探していた時。

なかなか見つからずに、なにを間違えたか「アクション映画」の棚を探す僕。

するとそこに「タイタニック2012」が置いてあったのだ。

「えー! タイタニックってアクション映画のくくりだったの―!?」と驚きつつ、よくよくタイトルを見ると「タイタニック2012」。

2012? タイタニックは1997年の映画のはず。

どうやら、名前のよく似た、というか、あの映画に便乗してるとしか思えない全くの別物のようだ。

パッケージは沈む船と抱き合う男女という、どこかで見たようなデザイン。

明らかにパチモン感、B級感が漂うのだが、せっかくだ。見てみよう。

『タイタニック2012』のあらすじ

注意!映画のネタバレがありますが、結末を知っても特に問題ない映画だと思います。

映画はまず、一面の銀世界から始まる。雪と氷に閉ざされた世界……。

あれ、借りる映画を間違えたかな?

と思ったのもつかの間、今度は海岸警備隊のシーン、そして、港のシーンへと移行する。どうやらちゃんと「タイタニック2012」のようだ。

2012年。それはタイタニックが沈没してちょうど100年の年だ。

その年にお金持ちの男性ヘイデン(どういう事業でお金持ちなのかは不明)は「タイタニック2」を建造し、タイタニックが出航した4月10日に同じように大西洋横断を企画する。

……つけんなよそんな名前。するなよそんな企画。

船乗りというのはずいぶん迷信にこだわると聞く。そんな沈んだ船の名前なんて……。

と思ったけど、よくよく考えたら我が国は宇宙に飛び立ちイスカンダルに空気清浄機を取りに行く宇宙戦艦に、撃沈した船の名前を付けるような国だった。

しかし、わざわざタイタニックと100年後の同じ日に合わせて航海を企画するなんて不謹慎だ!

……と思ったけど、実はタイタニック沈没直後に姉妹船であるオリンピック号に乗って、タイタニック沈没を検証する航海が行われている。

タイタニックと構造の似ているオリンピック号に乗って、「ここで沈んだのか」「ここで○○さんはこんな行動を……」などと検証して楽しんだ。不謹慎もへったくれもありゃしない。

しかしこのタイタニック2、見た感じめちゃくちゃでかい。さすが、あのタイタニックを再現しただけはある。

見た目はタイタニックによく似ているが、設備は最新鋭だ。

なんと、今回は全員分の救命ボートを乗せているという。あのタイタニック号は半分しか積んでいなかったというのに。

まあ、当たり前なんだけどね。タイタニック号の事故を契機に、救命ボートは全員分を乗せるということが義務付けられた。

それまでは救命ボートは「沈む船と、救助に来た船の間を、往復するもの」と考えられていた。だから、別に全員分の救命ボートがなくても、往復すればいい、そう考えられていたのだ。タイタニック号の時も「8時間は沈まないだろう」などという楽観的な意見もあったが、実際は2時間40分でタイタニックは沈み、それまでに救助船は間に合わなかった。

だが、オーナーのヘイデンは言う。

「デッキに積んである救命ボートはただの飾りさ。本物は船底にある」

え、船底?

救命ボートって、船底に積むものなの?

自分が船に乗っていた時のことを思い出してみても、避難訓練の終わりはいつも甲板にある救命ボートの前。船底に連れて行ってもらったことも、船底にボートがあるという話や船底に避難しろという話を聞いたことも、ない。

タイタニック号は船底から徐々に浸水していったはずなのに、そこに救命ボートを置いて大丈夫なのか?

さて、船にはヘイデンのかつての恋人で看護師のエイミーも乗っていた。このエイミーが主人公だ。

タイタニック号の出航からちょうど100年後に出航したタイタニックⅡだが、100年前とは造船技術が全然違う。レーダーで氷山も見つけられる。そもそも今回は氷山のあるような地域にはいかない。

だから大丈夫だ、と船の速度をグングン上げる船長。

100年前の事故の原因の一つじゃないかと言われてるのが、「船長が調子乗って船の速度を上げ、よけきれなくなった」なのだが……。

一方そのころ、カナダのグリーンランドではエイミーの父でヘリで海上の安全を守っているメイン大佐が、グリーンランドの大規模な氷山崩落による津波の発生の情報をつかんでいた。

とはいえ、船は実は津波に強い。東日本大震災の時も、漁船があえて沖に出ることで津波をぷかぷか浮かんでやり過ごした、などという話がある。津波の威力が増すのは浅瀬、つまり沿岸部。入江の奥に行くとさらに威力が集約されて危ないが、沖で遭う津波はそんなに怖くない。

だが、問題は津波が押し流すであろう氷山の方だという。すごいスピードで氷の塊が海の上を転がってくるわけだ。

この情報はタイタニック2にも伝えられ、船は津波を避けようとする。まず乗客たちに船底に避難するように指示が出て、次に船内放送で乗客に救命胴衣を着るようにアナウンスが流れ、パニックに陥る乗客たち。悲鳴をあげながら走り回り、転ぶ人が続出する。

いや、パニクりすぎだ! 「救命胴衣を着ろ」と言っただけで、まだ船体を放棄するとか、沈没するとか、そんな話してない。

そもそも、この時点で船にはまだ何も起きていない。これから津波が来て、運が悪かったら氷山と激突するかもしれないから、一応救命胴衣を着ておいてください、というだけの話だ。

なのに蜘蛛の子を散らしたかのように逃げ惑う人たち。

う~む、避難訓練をうけていれば「やばい事態なのかもしれないけれど、パニックを起こすほどのことではない」とわかりそうなものだが……。

さてはこいつら、避難訓練を受けてないな?

そんなはずはない。タイタニックの事故以降、24時間以上船に乗る場合は、「まず最初に避難訓練を受ける」というのは義務となったはずなのだから。やってないなんてまさかそんなことは……。

そして、ついに津波が到達し、津波に押し流された氷山がタイタニック2と激突。船底に穴が開き、浸水を始めてしまう。

沈没までのタイムリミットは3時間。だが、もしタービンが吹き飛べば、30分しか持たないという。

そしてここでとんでもない知らせが。

「船底に積んでいた救命ボートが、浸水の影響で全部壊されました!」

全部!? 全部だめになったの!?

ほらぁ。だから言ったじゃん。船底になんて積んでおくから……。

でもまだ、甲板の方の救命ボートがあるはず……。

ヘイデン「あんなのは飾りだ」

えー!? 飾り!? 役立たず!?

さて、このままでは船が沈む、となって船底に避難を始める乗客たち。

なぜ船底? どうやら、まだ使える救命ボートが船底にあるらしい。そしてやっぱり甲板にあるボートは飾りらしい。

パニックになり押し合いへし合いする乗客たち。「女性と子供を優先しろ」という、100年前と全く同じアナウンス。

このパニックっぷりを見る限り、やっぱりこいつら、避難訓練受けてないな。

ああ、なんということだろう。ヘイデンも船長も「100年前の悲しい歴史を乗り越える」と息巻いていたのに、100年前の悲劇の教訓をないがしろにしていたのだ。これじゃ初代タイタニック号も浮かばれない。いや、沈んだんだけどさ。

一方、主人公のエイミーはヘイデンとともに仲間を助けに行ったりしているうちに逃げ遅れる。

救命ボートで脱出できた乗客たち(船底がぱかっと開いて、そこから救命ボートで脱出できるのだ!)は、100年前の乗客たちがそうしたように、沈みゆくタイタニック2を見る。船はもう半分ほど水につかっている。

結構早いな。こりゃ、3時間もかからずに沈むかも。

と思った矢先、タービンが爆発! 恐れていた事態が起きたわけだ。その様子を察したヘイデンも、あと30分しか持たないとエイミーに告げる。

脱出しようとするエイミーとヘイデンだったがさまざまなアトラクション、じゃなかった、障害が待ち受けていて、なんだかSASUKEを見ている気分だ。だが、二人して身動きできない状況の陥り、そこでメイン大佐からの通信が届く。

それはより大きな津波が迫っており、この規模では救命ボートも役に立たない。むしろ、タイタニック2に残っていた方がまだ安全だ、というもの。

なんてこった! もう救命ボートは出ちまったぜ。

そうとは知らない救命ボートの乗客たちは、沈みゆくタイタニック号を見つめる。船はすでに半分ほどが水につかり……。

待って! さっきから結構な時間がたっているのに、全然船が沈んでない!

あれ、案外この船、大丈夫かも。う~む、みんなが大慌てでボートに乗り込んだ意味とは……。

そして、津波が直撃し船は転覆。そしてどんどん水が入ってくる。

ヘイデンは一つしかない潜水スーツと酸素ボンベをエイミーに渡す。自分は死ぬと覚悟して。

二人のいた部屋は完全に水没。エイミーはなんとかヘイデンを連れて脱出し、メイン大佐のヘリへと乗せるが、すでにヘイデンは帰らぬ人となっていた……。

おしまい。

……ここで終わり!? もうちょっとさあ、感傷に浸る時間とか、余韻に浸る時間とかないの!? それとも、船が沈没する映画で「浸る時間」とかNGなのか?

だが、ヘイデンは助かっても、「生きててよかったねぇ」といえる結末になったかどうかはちょっと疑問だ。

初代タイタニック号の社長、イズメイはタイタニックに乗船していたが、生還した。しかし、一番の責任者がおめおめと生きて帰ってきたということを快く歓迎する人は少なかった。

イズメイ自身も後ろめたさがあったらしく、早々にタイタニックを運航していたホワイト・ライン社の社長を辞め、隠居してしまう。イズメイの婦人いわく、イズメイの人生はあの事故で終わってしまった、とのこと。

タイタニック2も事故自体はしょうがなかったとはいえ、ヘイデンも生きて帰ったとしてもオーナーとして同じような運命をたどっていたと思う。

だって、避難訓練やってないんだもん。

「タイタニック2012」の感想

「ダメな映画を盛り上げるために簡単に命が捨てられていく」

Mr.Childrenの「HERO」という曲の歌詞だが、まさにこの映画のためにあるような言葉だ。

あまり筆舌尽くして「こんなのは駄作だ!」と吠え立てるのも悪趣味でどうかと思うが、1点だけ。

アクション映画の棚にあったのだが、アクションが薄い。

もっとも、この映画は決して予算が高くはない。制作費は50万$。日本円にして約6500万円ほど。映画には詳しくないが、一説には日本映画の製作費の平均は5000万円ほどといわれている。

ハリウッドの超大作は300億円。本家のタイタニックはこれよりも高い。泡吹いて倒れたくなる金額だ。

ハリウッドの超大作と比べて予算がないのだからアクションが薄いのはしょうがないとして、もう少し緩急があったほうがいいのかな、と思った。「息つく暇もない」というが、息つく暇はあったほうがいい。

たとえば、「天空の城ラピュタ」だと、手に汗握るアクションシーンと、ほっこり一息つくシーンが交互に繰り返されていて、それによりアクションシーンにメリハリが生まれている。

ちなみに

なんと、実際に「タイタニック2号」を建造して、同じルートを航海するという計画があるらしい。世の中には物好きがいるものである。とりあえず、避難訓練はしっかりと。

映画「タイタニック」の史実と違うところとは?

映画「タイタニック」は史実に忠実だという。監督のジェームズ・キャメロンも「ジャックとローズの部分以外は史実に忠実です」と胸を張っていた。でも、それって本当なのだろうか。これまでこのブログでは映画「タイタニック」をもとにタイタニック号沈没事故を検証してきたが、今度は「史実」という観点から事故を検証しようと思う。


タイタニック号が沈むまでの流れ

まず、タイタニック号が氷山に衝突してから沈むまでの大まかな流れを見ていこう。

1912年4月14日

23時40分 タイタニック号、氷山と衝突

1912年4月15日

0時15分 SOSをほかの船に向けて発信する(SOSという信号が使われたのは世界初)

0時45分 最初の救助ボートをおろす

2時5分 最後のボートをおろす

2時20分 完全に沈没

4時00分 カルパチア号が現場に到着、救助が始まる

これがタイタニック号沈没までの大まかな流れだ。タイタニック号が氷山に衝突してから完全に沈没するまでの時間は2時間40分。映画でも「2時間40分」だと言われていた。

衝突から沈没までのおおまかな流れは映画とそんなにたがわない。タイタニック号は16区画のうち4区画まで水が浸水しても耐えられるように作られているのだが、船長らが把握した時点で浸水は5区画にまで及んでいて、あと1時間ぐらいしか持たないということは早い段階で分かっていた。

船長は船体放棄を決断し、避難が始まるが、救助ボートに乗るのは女性と子供が優先としたために夫婦や家族が離れ離れになることとなり、混乱を生む(ただし、「女性と子供が先」というのは当時の船では当たり前のことだったらしい)。

ところが、そもそも乗客2200人に対して救命ボートは1100人分しかなく、そのうえ、救命ボートが満員になるのをまたずして海に出していたので、1500人もの人がタイタニック号に取り残され、そのまま船と運命を共にすることとなった。

これは映画「タイタニック」の後半で描かれてていたことであり、ここは実に史実通りである。

映画タイタニックはここまで史実通りだった

映画「タイタニック」ではタイタニック号は事前に氷山があることをわかっていたにも関わらずスピードを上げていた、とされているが、これも史実通りだ。

また、先ほど書いたとおり、「女性と子供優先」というのも史実通りなのだが、映画では右舷と左舷でこの扱いに差が出て、「何が何でも男性は乗せない!」という船員もいれば、「余裕ができたら男性も乗せる」という船員もいた。そのため、船内でも「あっちはもう男も乗せてるみたいだぞ!」といった情報が錯綜する。

実は、これも史実通りなのである。

また、映画の中で船員が「てめぇら、指示に従え!」と発砲し、乗客を射殺するという衝撃的なシーンも登場する。このシーンについてはモデルとなった船員の遺族や、乗客からも抗議の声が上がっている。一方で、「そういうことがあった」と記述された乗客の書簡も見つかっている。

そのほか、タイタニック号を運航していたホワイト・ライン社の社長、ブルース・イズメイが最後の最後になってこっそり救助ボートに乗り込むシーンや、タイタニック号の建造者であるトーマス・アンドリュースが、逃げれたにもかかわらず船と運命を共にしたのも史実である。イズメイは社長なのに生き残ってしまったことに負い目を感じ、タイタニック号から帰った後は会社を辞め、隠遁生活を送る。

また、氷山衝突直前のシーンで見張りの船員が「俺は氷山のにおいがわかる」などと冗談を言うシーンがある。

これはさすがに創作だろうと思ったら、実は見張りの船員が「氷山のにおいがしてきた」という発言をしており、実はそれをもととしたセリフだったのだ。

こうやって見ていくと、映画「タイタニック」は意外と細かいところまで史実通りの部分が多い。やはり「タイタニックの映画は史実に忠実」という評判は本当だったらしい。「ほんとに史実通りなの?」と変な言いがかりをつけてしまって申し訳なかった。今度、ジェームズ・キャメロンにお詫びのメロンを送らないと。

映画「タイタニック」の史実と違う部分

とはいえ、映画「タイタニック」はドキュメンタリー映画ではない。ちょっとぐらい史実と違うところもいくつかある。

たとえば、映画の冒頭で、船が沈む前に自重で真っ二つに折れたことがCGで説明されているが、実際は三つに折れている。

タイタニックは三つに折れたが完全に切り離されたわけではなく、すでに海中に没した船主に引きずられて船尾も沈んでいく。

映画の中では取り残された人たちが船と一緒に沈んでいくシーンが描かれるが、実はこの時、何人かの人たちはすでに覚悟を決めて自ら海に飛び込み、泳いで沖に浮かぶ救助ボートに乗り込んだ。

映画の中ではまるで絶叫マシーンのようなスピードで船が海中へと消えていくが、生存者の一人は「エレベーターに乗っているようだった」と語っている(当時のエレベーターが絶叫マシーンのようだというなら話は別だけど)

もう一つ史実と異なるところがあるとすれば、三等客室の乗客のシーンだろう。

映画の中でも三等客室の乗客が船の外へ出ようとするが柵で閉じ込められてしまい、椅子をぶん投げて柵を壊して外に出るというシーンがあった(史実)。逆に言うと、実は三等客室についての描写はこれくらいしかない。実際にはこのシーン以外にもドラマがあった。三等客は男女別の部屋だった。夫婦であっても、だ。そのため、避難しなければならないとなって、まずは家族のもとへ向かわなければならない。だが、男子部屋と女子部屋が結構離れていて……、などというドラマがあった。

映画で描かれなかった、カルパチア号とカルフォルニア号の物語

映画ではほとんど登場しないのだが、タイタニック号の沈没事故にはあと2隻の船が登場する。それがカルパチア号とカルフォルニア号だ。

同じ事故に関わったにもかかわらず、この2隻はその後の評価が大きく分かれている。

カルパチア号はタイタニック号の救命ボートに乗っていた人たちを救助した船だ。映画の中でもちょこっと登場する。氷山衝突から約1時間後にタイタニック号のSOSを聞いたカルパチア号はすぐさま事故現場へと急行する。全速力で進みながら船長は船員たちに、タイタニック号の乗客たちを救助・介抱するための準備を進めさせる。

氷山が無数に浮かぶ海を全速力で突き進むカルパチア号。それでも、到着までには3時間30分を要した。午前4時に現場に到着したカルパチア号は救命ボートに乗る人たちを救助し、ニューヨークへと向かう。この時の迅速な対応で、カルパチア号のロストロン船長はヒーローとなった。

これと真逆の評価を受けたのが、カリフォルニア号だ。カリフォルニア号は事故当時、氷山に囲まれて停泊していた。そして、タイタニック号のすぐ近くにいた。どのくらい近いかというと、タイタニック号の明かりが目で見えるくらいに。

それどころか、タイタニックからのろしだロケットだが飛ばされているのも見ている。見ているのだが「なんかやってるねぇ」くらいにしか思わなかった。カリフォルニア号が事故現場に到着したのは、カルパチア号による救助が終わった後で、来たはいいものの特にやることがなかった。

事故後、カルパチア号は今でいう「大炎上」をした。「のろしだのロケット弾だの見てたんだろ!? どう考えても救難信号だろ!『なんかやってるねぇ』じゃねぇよ!」という批判の嵐にさらされたわけだ。

カルパチア号とすれば「氷山に囲まれてた」という言い訳はあるにはあったが、やはり問題なのは「見える位置にいたのに、助けようともしなかった」という点だろう。証言を見ていくと「助けたいけど氷山に囲まれて動けない!」と葛藤したようにも思えない。色々見ていたにもかかわらず、「助けに行こう」とすら思わなかった。事が目の前で起こっているにもかかわらず、「なんかやってるけどあれなんだろうね」ぐらいにしか思わなかったことが問題なのだと思う。

その後、事故の原因を調査する査問員会にカリフォルニア号の船長たちが召喚された。船長はメディアに向かって、「ちょっと状況説明をするだけで、10分もあれば終わる」と豪語していた。しかし、査問委員会でカリフォルニア号側の主張(例えばそもそものろしもロケット弾も見てないよ、といったこと)は全部棄却された。査問委員会は「カリフォルニア号はタイタニック号の近くにいて、いろいろ見ていたにもかかわらず、人としてするべきことを何もしていない」と断じた。

なぜ、タイタニック号の事故は1500人もの死者を出したのか

タイタニック号にはそもそも2200の乗客に対して1100人の救命ボートしかなかった。つまり、最初から半分しか助からなかったのである。

映画の中ではその理由として「救命ボートが多すぎると見栄えが悪いから」という、ふざけんなおい!という理由が述べられていた。

それも正しいのだが、もう一つ理由があった。

タイタニック号の事故が起きた当時、どこの船も救命ボートは満足に載せていなかった。

だが、当時はそれで十分と考えていた。

船は事故を起こして穴が開いたからって、いきなり沈んでしまうわけではない。タイタニックの場合は2時間40分かかったが、もっと長い時間保っていることもある。それまでにほかの船が救助に来てくれる。救助ボートは沈みかけの船と、救助に来てくれた船の間を往復する渡し船として考えられていた。一つの船が何往復もするという考え方だった。だから、何も全員分乗せる必要はない、という考え方だったのだ。

また、査問委員会は犠牲者が拡大した理由として、乗組員たちが救命ボートの扱いに慣れていなかった点を挙げている。

1100人助かるはずの救命ボートに合わせて700人しか乗っていなかったのだ。船員たちは、ボートが定員になる前にボートを海におろしている。

だが、これはどうやら、全部船員が不慣れなせい、というわけでもなさそうだ。

脱出は女性と子供が先、ということで、夫婦の場合妻が夫を遺して先に脱出する、というパターンが多かった。夫と離れ離れになるのを妻が嫌がり、夫がそれを説得してボートに乗せる、というシーンがデッキの随所で見られた。当然、こんなことをやっていては時間がかかる。船員としては「いいからとっとと乗れよ! 一刻を争うんだぞ!」といらだって、定員になる前に船をおろしたくもなるかもしれない。

だが、「一刻を争う」という認識は、最初の方はあまりなかった。

何せタイタニックは「不沈船」と呼ばれていたのだ。事故を起こしたと聞いても、大丈夫だろうと思った乗客も多かったし、沈むにしても8時間は大丈夫、なんて説もでていた。「あんな粗末なボートに乗るくらいなら、穴の開いたタイタニック号の方がまだ安全だろう」、そう考えてなかなかボートに乗らない人さえいた。

そして、それはどうやら船員側も一緒だったらしい。船長たちは「残り1時間から1時間半」ということを把握していたが、それがすべての船員に知らされていたわけではなかった。「船があとどれくらい持つか」という予想は、船員それぞれで様々だった。

ここからは僕の推論なのだが、

①当時の救助ボートは、沈む船と助けに来た船の間を往復するのが前提だった。

②タイタニック号の残り時間の予想は人によりさまざまで、8時間は持つ、という人までいた。船員の間でも「残り1時間しかない」ということを知っている人は限られていた。

この二つから、

「船員たちは『タイタニック号はまだ数時間持つ』と考え、救助に来た船との間を往復させることを前提としてボートを出していたのではないか」という説は考えられないだろうか。

避難しろという指示が出ている以上、救助ボートを出さなければいけない。だが、タイタニック号が簡単に沈むわけがない。数時間は持つだろう。それまでに救助の船が来てくれるだろうから、タイタニック号と救助船の間をボートで往復させればいい。なぁに、あせることはない。だって、タイタニックは「不沈船」なのだから。

もちろん、全員がそうだったわけではないだろう。船員たちの事態の把握具合はまちまちだったのだから。事態を正しく把握していた船員もいたはずだ。

「史実」とは何か

以上、「史実」に基づいてタイタニック号の事故を見てきた。

ところで、「史実」って何だろう。

実は、タイタニック号の生存者の証言というのは、必ずしもすべてが整合性のとれるものではない。

たとえばスミス船長の最期にしても、「船長室にいて、船とともに沈んでいった」という人もいれば、「船が沈む直前に海に飛び込んだ」という人、さらには「海に沈んだ乗客を救助ボートに乗せた後、『皆さんお元気で』と言い残して自身は海に消えていった」なんていう証言もあり、どれが本当かわからない。

ノンフィクション作家の保坂正康氏は、こういったた証言者のうち、正しいことを言っているのはわずか1割に過ぎないという。証言者のうちの1割は悪意のあるうそつきであり、鵜呑みにしてはいけない。そして残り8割の証言者は、正しい証言をしているつもりなのだが、勘違い、記憶違い、思い違いが混ざっていて、結果的に不正確な証言になってしまうのだそうだ。

結局のところ、何が史実かだなんてそんな簡単にはわからないのだ。

最後に、細野晴臣氏の言葉を引用して終わりたいと思う。

細野晴臣。はっぴぃえんどやYMOで知られるミュージシャンだ。どうしてその人がタイタニック号に言及するのか。細野晴臣の祖父こそ、タイタニック号に乗ってい生還した唯一の日本人だからだ。

タイタニック号を扱った映画や小説、(中略)どれも、事実を扱っているにしてもそこに扱われなかった事実の方が大事だと思うんです。どれもある事実だとは思いますが、そこで起きたこととは違うんです。事実が編集されているわけですから。どの視点から事件を見ているか、ということなので。僕にとっては祖父が伝えたことが事実なんです。


参考文献

ウォルター・ロード『タイタニック号の最期』(訳:佐藤亮一)

高島健『タイタニックがわかる本』