八つ墓村フィールドワーク ~横溝正史も知らなかった民俗誌~

八つ墓村。言わずと知れた、横溝正史の探偵小説の題名であり、その舞台である。その八つ墓村という村を民俗学的に見ていくことで、民俗学の面白さを描く一方で小説「八つ墓村」の世界観がさらに深まるのではないかという試みだ。横溝正史すら知らなかったであろう八つ墓村の真実を、民俗学によって紐解いていこう。


注意!ここから先は、小説「八つ墓村」の結末を知っていることを前提として書いていきます。ネタバレしたくない人はここで引き返してください。

八つ墓村民俗誌

八つ墓村の生業

もちろん「八つ墓村」は横溝正史のフィクションである。

その一方、「八つ墓村」という小説は、寺田辰弥という青年の原稿を横溝正史が入手して世に発表した、という設定になっている。その設定にならい、ここから先は横溝正史を作者ではなく、八つ墓村という村の報告者として扱っていく。また、寺田辰弥も主人公ではなく報告者として扱う。

八つ墓村は岡山県にあり、鳥取県との県境にある山村だ。横溝は1945年から3年間岡山県倉敷市に疎開していたので、もしかしたら八つ墓村の近辺も訪れているかもしれない。

農耕地は少なく、気候の影響で作物が育ちにくいらしい。その一方、古くからナラやカシ、クヌギといった木材を使った炭焼きを生業としてきた。横溝は

この地方の楢炭と言えば、関西地方でも有名である。

と報告している。関西では広範囲に流通しているらしい。

近年では牛を育てている。「千屋牛」と呼ばれる岡山県特有の牛を飼っていることから、八つ墓村は岡山県北西部にあるということが推察できる。横溝の報告に

近所の新見で牛市が立つ

とあることから、新見市の経済圏に属していると推察される。

横溝の報告には「博労」という言葉が多く出てくる。これは「馬喰」とも書き、「バクロウ」と読む。

宮本常一の「土佐源氏」には高知のバクロウが登場する。村から村へと移動し、質の悪い牛を口先三寸で高く売り飛ばすため、あまりいい印象は持たれていなかったらしい。

炭にしろ、牛にしろ、よその村や町と交流を持って初めて生業として成り立つ。八つ墓村は山村であるが、決して孤立した閉鎖的な村ではなかったと言える。寺田の報告では、

麻呂尾寺というのは隣村になるが村境にあって、地形から言うと、むしろ八つ墓村に縁が深く、檀家もこちらの方が多かった。

と書かれているので、近隣との交流も多かったのではないだろうか。

八つ墓村の伝承

横溝は、八つ墓村という村名の由来としてある伝承を記述している。

永禄9年(1566年)、雲州富田譲の尼子義久の家臣である若武者と、七人の近習が山を越えて落ち武者として八つ墓村に逃れてきた。

村人は八人の落ち武者を歓待し、彼らは村人になじんで半年ほど炭焼きをしながら暮らしてい。しかし、彼らの持ち込んだ3千両の財宝に目がくらみ、名主の多治見庄佐衛門を中心とした一団が落ち武者たちを襲撃し、落ち武者たちを殺してしまった。ところが、その後財宝は見つからなかった。

その後、村で不審死が相次ぎ、とうとう多治見庄佐衛門が発狂して、村人を次々と切り殺して自害した。

その時の死者の数は庄左衛門を含めて八人いたことから、これは落ち武者のたたりに違いない、落ち武者が八人のいけにえを求めているのだとおそれられ、村人は落ち武者の墓を作って丁重に供養し、八つ墓明神なる社を作って祀った。

それ以来、この村を「八つ墓村」という。

「八つ墓村」という名前の疑問

奇妙な伝承である。

寺田の報告から、落ち武者の甲冑と、大量の小判が実際に確認されている。八つ墓村に落ち武者が財宝とともに逃れてきたのは事実なのだろう。

ただ、この伝承が本当なら、この事件、つまり1567年頃までこの村には名前がなかったか、別の名前があたたけどわざわざ「八つ墓村」という忌まわしい名前に変えた、ということになる。

一般的に地名とはイメージの良いものに変わっていく。世田谷の「九品仏」という町は、なんとも古臭い町名を捨て、「自由が丘」というきれいな名前になった。

わざわざ「八つ墓村」なんて言う名前に変えるだろうか。しかも、この村にとっては忌まわしい歴史のシンボルである。

人から「デブ」と呼ばれたからと言って、いっそ名前を「デブ」に改名してしまうようなものだ。そんな人はデーブ大久保ぐらいだろう。

デブくらいならまだ笑って「俺、デブだもん」で済ませられるが、村の忌まわしき歴史を示す「八つ墓」をわざわざ村名にするだろうか。

寺田の報告によると、八つ墓村は丘を登り墓地を越え、川沿いに200~300m歩いた先にある。村のシンボルとするには、少々村から外れていないだろうか。

「八つ墓村」という村名の不自然さはこれだけではない。

横溝は「一種異様な名前」と評しているが、「墓」という字はあまり地名では使わない。

もちろん、「墓」という字を使う地名はいくつかある。

「墓」地名:その1

「墓」地名:その2

これが「墓」地名のすべてとは限らないが、これを見る限り、東北から東海地方、京都にかけて多い。一方、瀬戸内海の方ではあまり見られない。

そして、「墓」を意味する言葉は「墓」だけではない。「塚」という字もまた墓を意味している。

なぜ、「八つ塚村」ではいけなかったのだろうか。寺田も実際に見た落ち武者の墓を「八つの塚」と表現している。

結論から言うと、本当にこの村が16世紀から「八つ墓村」と名乗るようになったというのは疑わしい。落ち武者伝説の生まれる以前から「八つ墓村」と名乗っていたのではないだろうか。

「八つ墓村」ではなく「ヤツハカ」

村名を考えるとき、漢字に囚われてはいけない。

まず、「ヤツハカ」という地名が先にあり、「八つ墓」という漢字を後から当てはめたと考えるべきだ。

この「ヤツハカ」という地名ができたのはいつか。

伝承によれば、落ち武者は村人に歓待されたというから、落ち武者が来る前にはすでに人が住みついていて、炭焼きをしていたと考えられる。

そもそも、農作業がままならない村にわざわざ16世紀になってよそから移住して村ができたとは考えづらい。もっと前からこの地に住んでいたと考えるべきだ。

つまり、もっと前からこの地には人が住んでいた。当然、村の名前ももっと前からあったはずだ。

もともと別の名前があったのにわざわざ「八つ墓」という忌まわしき名前に変えたとは考えづらい。

すなわち、もともとこの地は「ヤツハカ」と名乗り、そう呼ばれていた。落ち武者の八つの墓ができる前から。

じゃあ「ヤツハカ」とはいったい何を指しているのだろう。

「ヤ」は「谷」かもしれないし、「屋」かもしれないし、「矢」かもしれない。もちろん、「八」かもしれない。「ツ」は「ヤ」と「ハカ」をつなぐ音であろう。

問題は「ハカ」である。

もちろん、本当に墓を意味する言葉なのかもしれない。落ち武者の墓よりももっと古い墓があったのかもしれない。

一方で、「ハカ」は「ハク」、すなわち「吐く」が転じたものとも考えられる。

「吐く」という言葉が使われる地名は意外と多い。川の合流地に当たり、水害で濁流があふれ出た場所などにつけられることがある。

こういう地名を「災害地名」という。過去にこういう災害があったから気をつけろと、地名を通して警鐘を鳴らしているわけだ。

そして、八つ墓村には、鍾乳洞がある。

鍾乳洞の中には「鬼火の淵」という水場がある。そもそも鍾乳洞とは地下水が流れて生み出されるものなのだから、水場があるのは当然と言える。

そして、鍾乳洞の水場というのは大雨の際に氾濫して、地上へと流れ出る。近年では、岩手を代表する鍾乳洞・龍泉洞が水害で決壊し、洞窟の入り口から濁流があふれ出た。

さて、八つ墓村の鍾乳洞は村内の「バンカチ」と呼ばれる場所まで続き、そこに出口がある。

水害の時はそこからドクドクと水があふれ出たのではないだろうか。それこそ、水を「吐きだす」ように。それが、ヤツハカの「ハカ」の意味するところなのではないだろうか。

やがてそれが村はずれにある八つの塚と奇妙に符合し、「八つ墓村」という字があてられたのではなかろうか。

八つ墓村落ち武者伝説は事実なのか?

八つ墓村には確かに落ち武者がいた。それは寺田の報告から明らかである。

しかし、「多治見家がその落ち武者を殺した」という伝承は果たして事実なのだろうか。

もし、本当に落ち武者殺しがあったのだとしたら、落ち武者の霊を鎮める祭りがあってしかるべきではなかろうか。だが、寺田も横溝もそういった祭については一切言及していない。

八つ墓村の落ち武者伝説は、全国各地にある「六部殺し」の伝承によく似てる。

「こんな晩」とも呼ばれているこの伝承は、次の通りだ。

ある家の旅の六部がやってくる。家のものは六部を泊めるが、六部の持っていたお金に目がくらみ、六部を殺してしまう。

そのお金で家は裕福になった。子供も生まれたが、子供はどういうわけかいくつになっても口がきけない。

さて、ある晩に子供がむずがるので小便化と父親が子供を連れて外に出た。すると、初めて子供が口をきくのだ。

「おれが殺されたのも、ちょうどこんな晩だったな」

そう言って振り返る子供の顔は、殺された六部そっくりだった……。

これは全国各地にある伝承だ。八つ墓村の伝承と比べると、六部と落ち武者の違いこそあれ、「大金を持っていたために殺されてしまう」「のちに怪奇現象を引き起こす」という点で共通している。

八つ墓村の落ち武者伝説は、この六部殺しが変形したものではないだろうか。

なぜ、六部殺しなどという奇妙な伝承が生まれたのかというと、ねたみが根底にあるという説がある。

村の中で急に裕福になった家が出てくる。すると「あの家は何か悪いことをしてもうけたに違いない」というウワサが出てくる。やがてそれが「旅の六部を殺して……」なんて話になっていくわけだ。

寺田の報告によると、落ち武者殺しの首謀者とされる多治見家は今でも莫大な資産を保有しているらしい。落ち武者伝説はそんな多治見家への妬みから生まれたのかもしれない。普通は「六部殺し」になるところを、たまたま八つ墓村には落ち武者が逃げ延びていたから「落ち武者殺し」になったのだ。

さて、本当に落ち武者殺しはあったのか。ここで一つ、寺田が気になる報告をしている。

多治見家は代々、落ち武者の甲冑をお社に入れてご神体として祀っていたというのだ。

たたりをなす落ち武者の遺品を事件の首謀者がいつまでも取っておくだろうか。八つ墓明神に収めて供養してもらうのが普通だと思う。それをわざわざ屋敷の中で祀っていたというのならば、それは多治見家にとってたたりをなすものではなく、福をもたらすものだったのではないだろうか。

僕の推論はこうだ。八つ墓村に確かに落ち武者は来た。ただ、人数が八人だったかどうかはわからない。もっと少なかったかもしれない。

そして、落ち武者は殺されたのではない。多治見の娘と結婚し、多治見家と同化したのではないだろうか。

そして、多治見家は落ち武者のもたらした財産を使って裕福なった(寺田によると、落ち武者の財産はいくらか持ち出された可能性があるらしい)。

つまり、多治見家にとっては落ち武者は富をもたらした「マレビト」であると同時に、先祖でもある。だから、その甲冑を屋敷の中で祀っていたのではないか。

落ち武者の財産は鍾乳洞の奥に隠されていて、そこへ行くには「鬼火の淵」を渡らなければいけないのだが、八つ墓村には鬼火の淵から先には行ってはいけないという伝承が根強く残っている。

この「鬼火の淵の先に行ってはいけない」という伝承は、財宝を守るために多治見家が流したものではないだろうか。

じゃあ、寺田が確認した八つ墓明神の八つの塚はいったい誰のものなのだろうか。

寺田は墓碑銘に関しては一切言及していない。そのため、八つの塚が一体誰のものなのかはわからない。

本当に落ち武者のものかもしれないし、違う誰かかもしれない。落ち武者のものとして、殺されたのか自然死したのかはわからない。僕は自然死した後、村に富をもたらした者たちということで特別なところに祀られ、社が建てられたと考えている。

八つ墓村の歴史

すなわち、八つ墓村の歴史とは次のようなものだ。

「ヤツハカ」と呼ばれる村に永禄9年に落ち武者たちが逃れてきた。彼らは村に同化し、とくに落ち武者たちのリーダーは多治見家の娘と結婚した。

多治見家は落ち武者の財宝を使って裕福になった。そして、落ち武者に感謝の意味を込めて立派な社を作って祀ったのだ。

やがて時がたち、急速に裕福になった多治見家にも「六部殺し」のような噂が立ち始める。ただし、実際に落ち武者が村に来ていたことから、多治見家の場合は「六部殺し」ではなく「落ち武者殺し」となって、一連の伝承が生まれたのだ。

八つ墓村フィールドワークを終えて

さて、最後に言わなければならないことがある。

「八つ墓村」は横溝正史によるフィクションであり、「八つ墓村」などという村は存在しない!

ただ、民俗学という観点で「八つ墓村」を捕えていくと、世界観が深まるよ、という話だ。

横溝正史は3年間岡山県にいたから、実際に自分で見聞きした岡山の山村のようすが八つ墓村に活かされているのかもしれない。バクロウにまつわる民俗や終戦後の山村の様子なども克明に描かれていて、八つ墓村を終戦直後の民俗誌としてとらえてみてもなかなか面白い。

小説 あしたてんきになぁれ 第14話「朝もや、ところにより嘘」

「わたしはふたりにこっちがわにきてほしかった!」

「東京大収穫祭」で号泣したたまきに優しく微笑む舞。翌朝、たまきはとある場所でミチと海乃に出会う。一方、喫茶店を訪れた志保にも思わぬ再会が……!

「あしなれ」第14話、スタート!


小説 あしたてんきになぁれ 第13話「降水確率25%」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


「かんぱ~い!」

グラスの触れ合う音が部屋に小さく響いた。

テーブルの上にはお菓子とアイス、フルーツが並んでいる。アイスとフルーツはクレープの売れ残りだ。

クレープは完売とはいかなかった。しかし、8割がたを売り上げ、今テーブルの上にのこっているのはわずかなアイスとフルーツだ。

場所は教会のすぐ近くにあるマンションの一室。志保が通う施設は、マンションの二部屋を借りて男女別のシェアハウスにしている。

「おつかれ」

トクラがグラスを志保の前に差し出し、志保はサイダーの入ったグラスでトクラとこつんとやる。口をつけると炭酸の泡が血管中にしみ込んでいくのがわかる。

お菓子をつまみながらワイワイとやりながら携帯電話に目を向けると、着信があったことに気付いた。

電話は主治医の京野舞からだった。

志保は席を立つと廊下に向かった。十月の初めのマンションの廊下は、室内とはいえ足元が少し寒い。フローリングならばなおさらだ。

リダイヤルを押すと電話を耳に当てる。すぐに舞が出た。

「お、打ち上げ中か? 悪いな。メールしようかと思ったんだけどさ、お前の番号だけでメアド知らなくてさ」

「どうしたんですか?」

志保は少し不安げに尋ねた。

「お前、今夜帰ってこないんだろ?」

「はい。出店の打ち上げです」

「今夜、たまき、うちで預かるから」

「あ、そうなんですか。よかった。亜美ちゃんも帰ってこないみたいだし、たまきちゃん、一人になっちゃうけど大丈夫かなって心配してたんです」

「ふうん」

舞の返事はどこか冷たく感じられた。

「で、あのキャバクラ、名前なんだっけ、『シロ』? あそこのカギ、いま、たまきが持ってるって」

「あ、はい、知ってます」

「つーわけだから、明日お前が帰ってきて、鍵開いてなかったら、あたしんとこに電話してくれ」

「はい」

志保の返事の後、舞はしばらく沈黙していたが、

「ま、打ち上げ、楽しみなよ」

と言って電話を切った。

 

写真はイメージです

チン!という音がして、舞はトースターの扉を開けた。鳥かごの檻のような台の上に置かれた二つの食パンには程よく焼き目が付き、チーズが掛布団のようにとろけている。

舞はそれを「あちち」と言いながらそれぞれお皿に載せると、黄色いスープの素が入った二つのマグカップにそれぞれお湯を注ぎ始めた。

「こっちでよかったのか? あたしがお前んとこ泊まりに行ってもよかったんだぞ」

舞はたまきにマグカップを渡しながらそう言ったが、たまきは静かに首を横に振った。

「……先生、お仕事とかありますよね。……そこまで迷惑かけられないです」

「……スープの素、下の方にたまってるからかき混ぜて飲めよ」

そういうと舞はピザトーストにかみついた。チーズがむにーと伸びる。

たまきは小さく「いただきます」というと、ピザトーストにかぷりと口をつけた。スープも飲もうとするが、ふうふうと息を吹きかけ続けるだけで、なかなか飲もうとしない。

本人は気づいてはいないが、舞から見ると泣きはらした目は真っ赤っかだった。

「少しは落ち着いたか?」

舞が優しく問いかけると、たまきはスープに息を吹きかけるのをやめ、こっくりとうなづいた。

「……ご迷惑かけました。ごめんなさい」

「……何で謝んだよ」

舞はビールの缶のプルタブに手をかけながら尋ねた。

「……結局、私のわがままなんです」

たまきはまだ熱いマグカップを手に、しょんぼりしたようにつぶやく。

「ふむ……伸びるな」

舞の口かっらびろ~んとチーズが伸びる。たまきも同じようにピザトーストを口にした。下味にガーリックペーストがまぶしてあって、香ばしい。たまきのチーズもびろんと伸びたが、舞のようにはうまくいかず、すぐ、ちぎれてしまった。

「……私のは、あんまり伸びないみたいです」

「いや、お前は伸びるぞ。あたしなんかよりずっと伸びる。強くなる」

舞は笑いながらそう言った。たまきは意味が分からず、舞の目を見つめる。

「何かあった時『自分のせいだ』って思える奴は、伸びるぞ。成長できる」

舞はそういうと缶をテーブルの上に置いた。

「ま、お前は自分のせいにしすぎだけどな。そこまで自分を責めると、かえってストレスだ。六割は自分のせい。四割は人のせい。それっくらいがちょうどいいんだ」

たまきはまっすぐ舞の目を見ていた。

「でも、やっぱり私はわがままです……」

「なんでそう思うかね?」

「自分が一人ぼっちだからって、亜美さんや志保さんにこっち側に来てほしいだなんて……」

「誰だってそんなもんさ」

そういうと、舞はスープに口をつけた。

「人間は誰しも、さみしさを抱えてるもんさ。それはな、絶対にぬぐえないんだ。ぬぐおうとか紛らわそうとかするんじゃない。『自分は孤独だ』って受け入れて生きていくしかないんだ」

舞は再びビールの缶に口をつけた。

「……孤独を、受け入れる」

「そうだ。人は誰でもいつか死ぬ。それと同じくらい、人は誰でもいつか孤独を感じる。お前みたいに『私は一人ぼっちだ』って泣いている奴ほど、いざ本当に一人になった時に強いのかもしれんぞ。亜美とか志保とかミチとか、みんなでワイワイやってごまかしてる奴よりもずっとな」

「……みんな、さみしいのをごまかしているだけなんですか? 亜美さんも志保さんも、ミチ君も?」

舞の言っていることが今一つ信じられない。誰とでも友達になれる亜美や志保、カノジョが作れるミチが、たまきみたいに『一人ぼっちはさみしい』なんて言って泣いている姿が想像できない

「お前はさ、あたしが結婚してたから自分とは違うんだ、みたいなこと言ってたけどさ、あたしだってさみしさを感じる時ぐらいあるぜ。いまは男いなくてフリーだしさ。仕事も取材とかもあるけど、一人でここで文章書いているときは、ああ、さみしいなって感じるよ。医者つづけてたら、体力的にはしんどいけど、同僚とか上司とか先輩とか患者とかいたんだろうになって考えると余計に」

舞はそういうと、少し身を乗り出した。

「それではここで問題です。あたしが三十何年の生涯の中で、一番さみしかったのはいつでしょうか?」

舞はにっと白い歯を見せた。

「……そんなの、わかんないです。だって、私は舞先生のその、三十何年のうちの何か月かしか知らないし……」

「まあまあ、あたしについて、知ってる情報の中にもう答えはあるはずだから」

たまきは少し下を向いて考えた。

「……離婚したとき?」

たまきは我ながら失礼な回答だと思った。だが、そもそもクイズにしてきたのはむこうだ。

「おしい。それは第二位だな。離婚届出して、じゃあね元気でねって元旦那と別れて、一人になった駅のホーム。たしかにさみしかった。でも、それは第二位だな」

たまきは舞の言っていることに共感できなかった。別れ以前に出会いを経験していない。

「じゃあ、わかりません」

「正解は、結婚パーティの夜でした」

「え?」

たまきのメガネの奥の瞳が大きく見開かれた。

「あたし、結婚式はやってないんだよ。その代り、結婚パーティってのはやったの。本当に親しい友達だけ集めて、ちょっとしたパーティ会場、と言ってもそこまでデカいところじゃないけどさ、そこを貸し切ってパーティを開いたんだよ。パーティって言っても二十五人ぐらいの規模だけど。みんなに祝福されて、人生で一番幸せだったね」

全然さみしくなんかないじゃないか。たまきは少しむくれた。

「でさ、パーティが終わり、家に帰るじゃんか。でさ、旦那は同業者だったんだけどさ、その日は当直だったんよ。他の日にしたかったんだけどさ、二人の共通の知り合いっていうと医療業界のやつばっかでみんな忙しくてその日しかなくてさ。だから、あたしがシャンパンとか飲んでるよこで旦那はジンジャエールで我慢して、夜勤に行ったのよ」

いつになったらさみしくなるんだろう、とたまきはむくれたままじっと話を聞く。

「で、旦那が出かけて一人ぼっちの部屋の中でふと『さみしいなぁ』ってさ、思っちまったわけよ。信じられるか? 結婚パーティの日だぞ? 先まで旦那がいて、友達がいて、祝福されて、それで一人になった途端に『さみしい』て感じちまったらさ、それってもう、何やっても埋められないさみしさ、ってことじゃねえか」

たまきは、以前にあった強盗のおじさんを思い出していた。誰しも「絶対に埋められないさみしさ」というやつを抱えていたとしたら、あの時のおじさんの「さみしいなぁ」もそういうことなのかもしれない。

「それでさあ、そのタイミングでまさかの、モトカレから電話かかってきたんよ」

「……前に付き合ってた人からですか?」

「そう。『結婚したって聞いて、おめでとう』って。どうしても言いたかったんだと。『ごめんね。もうかけてこないから』って」

それを聞いてたまきは困ったように笑った。

「……それは、迷惑ですね」

「……あたしは、あやうく『今から会える?』っていうところだった。結局言わなかったんだけどさ」

「え?」

驚いてたまきの背筋がピンとなった。

「だって、さみしかったんだもんよ」

「さみしかったからって、それはさすがに……」

いくらそういうのに疎いたまきでも、昔付き合っていた男女が再会して、ただ会って終わり、とはならないことぐらい想像がつく。舞がさみしかったというなら、なおさらだろう。

「だからさ、テレビで芸能人とかがよく不倫してこき下ろされてるじゃん。あたし、気持ちがわからんでもないわけよ」

舞はビールの缶をコトリとテーブルの上に置いた。

「だいたい『家族がいるのに……』っていう批判をされるわけだ。でもさぁ、家族がいるのにさみしさを覚えちゃったらさ、それはもう家族じゃ埋められんわけよ。だとしたらさ、家族以外の人で埋めるしかないじゃんか」

たまきは、舞の言っていることが何となく理解できた。理解はできたが、納得できない。

「でも、それを認めちゃったら……」

「だからさ、『さみしさを埋める』っていうのがさ、そもそもの間違いなわけよ」

たまきは、舞の顔がさっきより近くに来ているのに気付いた。こんな風に舞と一対一で話すのは初めてかもしれない。

「このさみしさからは絶対に逃げらんない。そんでもって、絶対に埋められない。もう、我慢するしかないんよ。さみしいまんま生きていくしかないんよ」

だからさ、と舞は続けた。

「お前みたいに、一人ぼっちで寂しいってちゃんとわかってる奴は、ほんとうに独りぼっちになった時に、そのさみしさに耐えられると思うんだ。恋だ友達だっつって紛らわしてるような奴は、いざ孤独を感じても、耐えられないから紛らわそうとする。その結果、不倫みたいなトラブルを起こしちまうんだよ。それに引き換えお前ときたら、友達になじめないって言って泣いてやがる」

「私は……、べつに自分から耐えてるんじゃないんです。……紛らわせてないだけです」

「結果、耐えてるんだよお前は。ちゃんとさみしさを正面から受け止め続けてるんだ」

舞はそういうとにっこりと笑った。

 

写真はイメージです

日はまた昇り夜が明け、、いらなかった明日がまたやってくる。たまきは、少し早めに舞の家を出た。たまきが「城(キャッスル)」の鍵を持っているのだ。二人が帰る前に戻らないと。

舞が志保に電話してくれたおかげで、もし志保が帰っても鍵が開いていなかったら舞のところに連絡が来ることになっている。そうすれば、「城」までたまきの足でも歩いて5分ちょっとだ。電話が来ればすぐに駆け付けられる。

だが、亜美からの連絡はなかった。舞がメールを送ったらしいが返事はなし。そもそもメールを見ているかどうかも疑わしい。

たまきから見て亜美はまるで自由気ままな三毛猫だ。ふらりとどこかに行って、ふらりと帰ってくる。

どこかへ行くときの決まり文句はたいてい、「シゴト」と「隣町の美容院」だ。亜美が「隣町の美容院に行ってくる」と言って、本当は何をしてるのかは考えてもわからないし、「シゴト」と言って出かけて、そこで何をしてるのかは考えたくもない。

そして亜美は突然帰ってくる。朝に帰ってくることもあるし、真夜中に帰ってくることもあるし、次の日の夕方に帰ってくることもある。

つまりは、亜美が一体いつ帰ってくるのかはたまきにも予想がつかないのだ。帰ってきたはいいが鍵の開いていない「城」の前でいらだつ亜美を想像すると……、

なんだか、めんどくさい。

たまきは「城」のある太田ビルに向かってとぼとぼと歩いていた。

舞の住むマンションと太田ビルの間にはホテル街が広がる。たまきはどことなくうつむきがちにそこを通り過ぎていく。たまきのすぐわきをトラックが轟音を立てて通り過ぎていく。うすい朝もやの向こうにはまぶしいばかりの朝日が見える。朝日を見るのは久しぶりだ。

ホテル街の一角に「CASTLE」というホテルがある。名前の読み方は「城」といっしょだが、こっちの方がよっぽどお城っぽい外観だ。

その入り口から誰かが出てきた。案の定、男女のカップルである。道路と自動ドアの間には小さな噴水があり、カップルはたまきから見て噴水の向こう側を歩いている。たまきはなるべくそっちを見ないように歩いたが、ちょうどカップルが道路に出たところでバッティングしてしまった。

たまきはカップルをちらりと見上げると、すぐに目線を足元に落として、二人が通り過ぎるのを待とうとした。しかしカップルに、特に男の方に見覚えがる気がして、たまきはもう一度カップルの方を見た。

相手も同じことを考えていたらしく、たまきの方を見つめている。

たまきは半ばあきれたように言った。

「……おはようです」

「おはよう……、ってか、たまきちゃん、こんなところで何してるの?」

カップルのうち男の方、ミチが少し驚いたように言った。左隣にはミチと同じくらいの身長の、茶髪の女性がいる。たまきにもなんとなく見覚えのある顔だ。たぶん、海乃って人だろう。ミチの左手と海乃の右手がしっかりと恋人つなぎされていた。

「あれ? もしかして、たまきちゃんも朝帰り?」

こんな人たちと同じフォルダーに入れられてしまったことをたまきは不快に思いながら

「舞先生のところにいました」

とだけ答えた。

「ミチ君こそ、こういうところ泊まっていいんですか?」

「まあまあ、細かいことは気にしないの」

ミチはそう言って笑う。すると、海乃がミチの左手を軽く引っ張った。

「みっくん、お友達?」

厳密にはたまきと海乃は初対面ではないのだが、一度だけ店に訪れた地味な客の顔など、海乃は覚えておるまい。

「そうそう、友達」

「知り合いです……!」

いつもより強めにたまきは否定した。

「へぇ、どういうお友達? 同級生?」

海乃は何か興味を引かれたらしい。

「いや、最近知り合ったんだけどさ。引きこもりのたまきちゃん」

「引きこもり?」

海乃が不思議そうに聞き返した。

たまきはむっとした。「引きこもり」だなんて紹介、あんまりじゃないか。

しかしたまきは学生じゃないし、社会人でもなければ、フリーターですらない。不本意ながら、「引きこもり」以外に自分を表す肩書が見つからない。

「へぇ~、かわいい~」

海乃はたまきを見ながらそう言うと、笑顔をこぼした。

引きこもりのなにをもって「かわいい」なのかわからない。たまきは、昔、家族で水族館に行ったときに姉がクラゲの水槽の前で「かわいい~」と言っていたのを思い出した。いまの海乃の「かわいい」に似ている気がする。きっと、海乃は「ヒキコモリ」をナマコかウミウシの仲間かなんかだと思っているのだろう。

「あれ、でも、この子ヒキコモリなの?」

海乃はたまきを指さすと、不思議そうにミチの方を見た。

「だって、外にいるよ?」

海乃は笑いながらそう言った。それを聞いてミチも

「ほんとだ。確かに、たまきちゃんって引きこもりだと言っている割には、けっこう外にるよね」

と言って笑う。

ミチが「たまきはわりと外にいる」と思っているのは、外でしか会わないからだ。たまきはそのほとんどを「城」の中で具合悪そうにゴロゴロして過ごす。たまに体調がいい時に頑張って都立公園まで行き、そこでミチと出くわすのだ。ミチはその「たまに体調がいい時に頑張っている」たまきしか知らないのだ。

「この子、いくつ?」

海乃は横にいるミチに尋ねた。

「一個下だから、今十五才だよね?」

ミチの言葉に、たまきは無言でうなづいた。

「みっくんの一個下ってことは、高校生?」

海乃はまた隣のミチに尋ねた。なぜ、本人を目の前にしてとなりに尋ねるのだろうか。

「でも、不登校だから、高校は行ってないよ」

「へぇ~」

海乃は奇異なものを見るかのようにほほ笑んだ。きっと、「フトウコウ」もフジツボの仲間ぐらいに思っているのだろう。

ふいに海乃は手を伸ばすと、たまきの黒い髪を撫でた。

「ダメだぞ、ちゃんと学校に行かなきゃ」

たまきは驚いたように、自分の頭をなでる海乃の手首を凝視し、次につながれた二人の手をじっと見ていた。

「海乃さん、俺だって学校行ってないよ?」

ミチが口をとがらせた。

「みっくんはちゃんと働いてるじゃん」

海乃はそう言って笑った。

「じゃあね、たまきちゃん」

海乃はそういうと、ミチと手をつないだまま歩き出した。さっきからずっとつなぎっぱなしである。

海乃は振り返ると、たまきに向かって手を振っていた。たまきは、その手をじっと見ていた。二人の姿が見えなくなるまで、海乃を見つめていた。

 

写真はイメージです

駅と歓楽街の間のにぎやかな通りを志保は歩いていた。

鍵を持っているたまきが舞の家に泊まっているということは、「城」に帰っても中に入れないかもしれない。舞に電話することも考えたが、まだ二人とも寝ているかもしれない。どこかで時間を潰そうと志保は歓楽街へと続くルートを外れて、ふらふらと散策していた。

駅前の繁華街は、「城」がある歓楽街ほど物騒でないとはいえ、やっぱり飲み屋が多く、朝から落ち着ける志保好みのカフェなんていうのはさっぱり見つからない。月曜日の朝はスーツを着た出勤途中のサラリーマンが通りを埋め尽くし、その中をカフェを探して歩くのはなんだか申し訳ないような気分にもなってくる。

駅からだいぶはなれたところを歩いていると、喫茶店を一件見つけた。カフェではなく喫茶店。スタバのような「カフェ」ではなく、昔ながらのレトロな喫茶店だ。昭和のころはきっと、こういうのが最先端のおしゃれだったのだろう。

入口には午前七時から営業中と書いてあった。時間は既に七時半。中にはサラリーマンらしき男性や、オフィスレディが座ってコーヒーを飲んだり、軽食のようなものを食べたりしている。

志保は店の中に入った。ドアは手動で、少しずつ、まるで店の空間の機嫌をうかがうかのようにドアをして、志保は足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ~」

若い男性の店員が志保を席へと案内する。

志保は席に着くと、ミルクティを注文した。カフェオレにしようかと思ったけど、これから帰ったら少し寝たいのでやめておいた。

周りはやはり出勤前のサラリーマンやOLばかりで、志保には少々居心地が悪い。

ふと、志保が視線を感じてそっちの方を見ると、先ほどのウェイターの男性が志保の方を見ていた。

どこかで見た顔だ。どこかで会っただろうか。わりと最近、会ったような……。

あ!という志保の声が店内に響いた。周りの客たちの視線が志保に集まる。志保は声を出してしまったことが恥ずかしいといいたげに顔を赤らめると、ウェイターの方に歩み寄って、声をかけた。

「あの……、この前、助けて下さった方ですよね。ほら、繁華街の前の大通りの信号で……」

志保の言葉を聞いたウェイターは

「やっぱり!」

と声を上げた。背が高く、黒い髪は軽くパーマをかけている。顔だちはこれといった特徴があるわけではないが、ウェイターの制服と相まって、さわやかそうな印象を受ける。

制服の胸ポケットには、「田代」と書かれた名札がついていた。

「やっぱり、この前の子だよね?」

「あ、あの時はありがとうございました」

志保はまだ恥ずかしさが残る中、ぺこりと頭を下げた。

二週間ほど前、幻覚や幻聴のようなものに襲われ、赤信号なのに道路に飛び出してしまった志保。すんでのところで腕を引っ張って助けてくれたのが彼だった。名前も連絡先も知らなかったのだが、また会えるとは。

「いや、元気そうでよかったよ」

田代はほっとしたようにはにかんだ。

「あの時は本当にご迷惑を……」

「いいよ、そんなに気を遣わなくて。具合悪かったんでしょ?」

「は、はい……、まあ」

あの時は確かに具合が悪かった。嘘ではない。

「この辺、よく来るの?」

「……この町にはよく来るけど、このあたりに来るのは初めてです」

これは少し嘘が入っている。「よく来る」のではなく、住んでいるのだ。ただ、家賃を払っていないのだが。

「へぇ~。学生さん? 高校生?」

「……はい」

これは嘘ではない。もう4カ月ほど学校に行っていないが、退学届けを出した覚えはない。

「今日、学校休み?」

「……はい。ぶ、文化祭の振り替え休日で……」

これは嘘である。昨日まで文化祭みたいなことをしていたのは事実だが。

志保は席に戻ると、カバンから読みかけの文庫本を取り出した。女性エッセイストの単行本の続きを読み始める。

数分たって、田代がミルクティーを運んできた。

「お待たせしました。ミルクティになります」

その言葉づかいが志保には少しおかしかった。「ミルクティになります」って、もうミルクティになっているじゃないか。

田代は、志保の読んでいた本に目を落とした。

「その人の本、面白いよね」

「え、こういうの読むんですか?」

意外である。男性がこの著者のエッセイを読んでいるイメージがない。

「まあ、女性向けなんだろうなとは思うけど、その人、視点というか、切り口が面白いから、読んでて楽しいよ」

「ですよね! 私も、そういうところが大好きなんです」

これは本当である。

「それじゃ、ごゆっくり」

田代は軽やかな足取りで離れていった。

カップの中に志保は視線を落とす。「城」を一歩外へ出ると、嘘をつかないと誰かとしゃべれない。クスリのこと、高校のこと、今住んでる場所のこと。同じ施設に通う依存症患者たちに出さえ、「城」のことは嘘をついている。いつからこんな人間になってしまったのだろう。

もっとも、志保の性格が嘘つきになってしまたのではない。隠さなければいけないことが多すぎるのだ。

志保はカップを持ち上げると、ミルクティに口をつける。

レモンは入っていないはずなのに、なんだかレモンみたいな味がした。

信じてもらえないだろうが、本当である。

 

写真はイメージです

太田ビルの4階にはビデオ屋が入っている。もはやビデオテープは置いておらず、全部DVDのディスクなのだが、みんな「ビデオ屋」と呼んでいる。

とはいえ、普通のテレビや映画のビデオは少ないし、子供向けのアニメなんて全くおいていない。そのほとんどがアダルトビデオで、おまけによくビデオ屋のアダルトビデオコーナーの入り口にあるのれんらしきものが見当たらず、たまきのような子供でも簡単に目に入るところにアダルトビデオが置いてある。法律にしっかり基づいたビデオ屋なのかと首をかしげたくなる。

そんなビデオ屋だから、入口には裸一歩手前の女性のポスターがたくさん貼ってある。ここを通るたびに、たまきはそのポスターを見ずにはいられない。

別にいやらしいことを考えているわけではない。ポスターの中の彼女たちの笑顔が気になって仕方ないのだ。

心からの笑顔なのか、自分の美貌に自信があるのか、それとも、巷のうわさ通り無理やりやらされているのか、そもそもそんなことを考えているのはたまきのエゴなのか。

もしかしたら、この人たちもさみしいのかな。そんなことを考えて、たまきは階段を上る。

階段を上るにつれて、水平線から昇る太陽のように金色の髪の毛が見えてくる。

想定していた中でも、割とめんどくさい状況のようだ。

階段を一段上ると、亜美の顔が見えてきた。なんだか小刻みに揺れている。

ドアの方をにらむ目はつりあがり、口はとがっている。たまきには亜美がとても苛立っているように見えた。

想定していた中でも、トップクラスにめんどくさい状況が発生しているらしい。たまきは重い足取りでゆっくりと階段を上った。

亜美が小刻みに揺れていた理由は、脚だった。脚がかくかくと上下に揺れている。苛立ちからくる貧乏ゆすり、と呼ぶにはだいぶ激しい。「メガ貧乏ゆすり」とでも呼べばいいのだろうか。ブーツがコンクリートの床に触れるたびに、タタタンタタタンとリズムよく音が響く。

亜美は、たまきが階段の残り2段のところまで来て初めてたまきに気付いた。「気配の薄さ」ならばたまきはどこのクラスに行ってもトップを取れる自信がある。

亜美は勢い良くたまきの方に振り向くと、がなった。

「お前、どこ行ってたんだよ! 今、八時だぞ、八時! こんな時間までどこほっつき歩いてたんだよ!」

「亜美さんはいつ帰ってきたんですか?」

「あ? 15分前だよ」

亜美の方こそこんな時間までどこをほっつき歩いていたのだろうか。

「メール、見なかったんですか?」

たまきは亜美と視線を合わせることなく尋ねた。

「は? お前、ケータイ持ってないんだから、お前からメールが来るわけないだろ?」

「私じゃないです。舞先生からです」

「先生?」

亜美は自分の携帯電話を開いてピコピコといじった。

「あれ、なんか来てる」

亜美は今初めて、昨日の夜十時ぐらいに舞が送ったメールを見ているらしい。

「なるほど。お前、そういうことは早く言えよ」

「……早く伝えたつもりなんですけど……」

たまきはもうここでこの件は終わらせたかった。「亜美は何をしていてメールに気付かなかったのか」は知りたくなかったからだ。ミチの朝帰りを見てしまったから余計に。

それまでぶすっとしていた亜美だったが、急に顔をほころばせると、

「ま、お前が生きててよかったよ」

と言ってたまきの頭をポンポンと軽くたたいた。さっき、海乃に触られた時よりも、なんだかとってもやさしい触り方だった。

「……心配してたんですか?」

「ま、うちもこの歓楽街にいたからさ、お前がここで自殺してたらパトカーとか救急車のサイレンが聞こえたはずだから、生きてるんだろうなぁ、とは思ったけど」

亜美はバカのくせに、そういったことには頭が回る。

「ウチはむしろ、お前もとうとうナンパされて朝帰りデビューしたのかと思ってたよ」

またこんな人たちと同じフォルダーに入れられてしまったことにたまきはがっかりした。

そこに、パタパタと足音を鳴らして、志保が戻ってきた。

「ハァ、ハァ、やっぱり、5階ってキツイ……」

志保はいつも骨のように細い手足を震わせ、息切れしながら昇ってくる。

「あ、たまきちゃん、帰ってる」

「お、志保、おかえり。お前、たまきが今までどこにいたか知ってるか?」

亜美はまた悪巧みしたかのような笑みで志保に問いかけたが、

「え? 先生のところでしょ?」

とあっさりと返した。

「なんだよ! 知らなかったの、ウチだけじゃん!」

「亜美ちゃん、エッチなことに夢中で、ケータイ見なかったんでしょ」

「いや、メール来たときはカラオケしてた。今度、三人でカラオケこうぜ!」

「カラオケ~?」

志保は左手を右肩に置いた。

「あたしはいいや。歌はあまり得意じゃないの」

「……私も、歌うのはあまり……」

「え~、そんなこと言わないでさ、っていうか、たまき、カギ! あと、ウチの財布!」

「……あ、はい」

たまきはカバンから亜美の財布を取り出すと、亜美に返した。

亜美は財布を開けて、鍵をさぐる。ちりんちりんという鈴の音が財布の中から聞こえる。

「……二人も、さみしいんですか?」

たまきの突然の問いかけに、亜美の手が止まった。

「たまきちゃん、どうしたの急に」

志保がやさしく微笑みながら聞き返す。

「……何でもないです。忘れてください」

たまきはばつの悪そうにうつむくとそういった。

亜美は、取り出した鍵をたまきに渡すと、

「ウチ、屋上でたばこ吸ってくるから、先、中入ってて」

というと、そのまま屋上へと続く階段へと向かった。

 

たまきと志保は鍵を開けて中に入る。たまきはふらふらとソファへと向かうと、ころりと横になった。

落ち着く。家族と暮らしていた実家よりも、落ち着く。

「城」がこんなに落ち着く場所になったのはきっと、亜美も志保もたまきには深く干渉しようとしないからだろう。特に亜美は普段ずかずかしているくせに、ほんとうに放っておいてほしい時には放っておいてくれる。

でも、昨日は放っておいてほしくなかったな。一緒にばっくれて欲しかった。

そんなことを考えながら、たまきは眠りにつく。

志保がたまきのことを放っておいてくれるのは、彼女のコミュニケーションスキルの高さによるものだ。たまきのような子はあまり接近しすぎず、少し距離を置いておいた方が相手も楽だということを知っているのだ。

亜美は、そんな風に頭を働かしてたまきのことを放っておいてくれるわけではない。

たまきに放っておいてほしい時があるように、亜美にも放っておいてほしい時があるから、なんとなく相手の放っておいてほしい時がわかってしまう。それだけの話である。

 

つづく


次回 第15話「場違い、ところによりハチ公」

シブヤへと買い物に来た3人。だが、たまきはどうしても自分が場違いな存在だと感じてしまう。そんなほのぼのとした(?)休日。

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クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」