畑を借りました

畑を借りたんですよ。

2畳ほどの小さな区画を、月6500円で借りてます。

うちの近所にはいくつかこういう貸農園がありまして、いろいろ比較してたんですけど、地元だとここが一番安いです。

どうして安いのかと言うとその理由はカンタンで、

どの駅からも遠いんですよ。

3つある「最寄駅」、どの駅から歩いても30分以上かかるんですよ。バスを待っても30分に一本。

ただ、ウチからは自転車で10分ちょっとで行けちゃう。

これはいい場所を見つけたぞ。

もう少し探す範囲を広げればもっと安いところもあるけど、そこだと交通費やらお昼ごはんやらが通うたびにかかって、結局お金がかかっちゃう。

今度借りた畑なら、自転車でも歩きでも行けるから交通費はかからないし、うちでで昼ご飯を済ませてからでも十分作業できる。おまけに指導員の人までいるので、基本は自分の自由にやりつつも、不安なところは相談できる。この前は肥料の撒き方を教わりました。

そもそも、地元に貸農園がいくつかあって、比較して選べるって時点で恵まれてるなぁ、と思います。

都心だとたぶんこうはいかない。貸農園どころか、畑そのものがないんだから。

ウチの地元は首都圏のベッドタウンとしてかなりの人口を抱えてるけど、少し郊外へ行けば農地がたくさんあるんです。

とくに、畑に行く途中で大きな道路を二つ横切るんですけど、二つ目を横切ると景色は一気に畑だらけになって、心も自然と農作業ムードに切り替わるんですね。

おまけに、家から畑まで行く道中にコンビニもスーパーもあって、郵便局まであるので、なにかと便利。

あろうことか農園の目の前はホームセンターなんです。もはや、便利オブ便利。欲しいものは全部ここで買えちゃう。

まあ、いまのところは、農園の備品で間に合ってるんですが。

そんなこんなで、いまはスナップエンドウくんとイチゴちゃんを育ててます。

畑に行くのは週に一度。2畳ですから。

葉っぱの状態をチェックして、余分なつるが伸びてきたらちょん切って、雑草が生えてきたらひっこ抜いて、土が乾いてきたら水を撒いて。害虫に悩まされて。アリが這い回り、蜘蛛が顔をのぞかせる。空を見上げれば白い雲があり。

農園からもらったテキストとにらめっこしながらやってます。

どうも僕は、「次の作業工程がある」というのが楽しくてたまらないみたいです。これはZINE作りも一緒です。

子供のころから畑仕事をやってみたいなぁ、って気持ちはどこかにあって、今日まで潰えることがなかった、そういうことです。

正直な話、欲しいのは野菜や果物よりも、それを育てる技術の方なんです。「農地さえあれば、何とか生きていけるよ」と言えるくらいの。お稽古事を始めた、と考えれば、月6500円は安いものです。

「数年後に畑を処分したい。タダでいいから引き取ってくれ」という都合のいい方がいらっしゃいましたら、是非ともご連絡を。

小説 あしたてんきになぁれ 第38話「地図ときどき異界、ところにより二丁目」

前回登場した謎のコワモテおじさんこと「ママ」。はたしてその正体とは? 「あしなれ」第38話、スタート!


第37話「イス、ところにより貯水タンク」

「あしたてんきになぁれ」によく出てくる人たち


画像はイメージです

「よっ、ただいま」

「おかえりー」

「……おかえりです」

亜美が外出から帰ってきて、志保とたまきが返事をする。「城」のいつもの光景だ。

「今日はどこ行ってきたの?」

と、志保が本を読みながら訪ねる。

「ん? まあ、隣町の床屋だよ」

と、亜美はたまきの方に目をやった。

いつもなら、かなりの高確率でたまきはタオルケットをかぶって寝っ転がっているのだけど、今日はほとんど顔を上げることなく、何かかきものをしてる。テーブルの上にはスケッチブックよりも少し大きめの紙。その上にたまきは鉛筆で、絵というよりはなにか図面を描いている。

「ん? おまえ、なに描いてんだ? スゴロクでも作ってるのか?」

「……まあ」

亜美はたまきの描く図面をのぞき込んだ。改めてみてみると、何かの地図のようだ。ところどころ、地名も書かれている。

「これ、この辺の地図か?」

「……まあ」

たまきは地図を描きながら言った。「城」のある歓楽街とその周辺、半径一キロほどの範囲の地図だ。もちろん、正確な地図ではない。小学生が町探検の授業で作るような、簡素なものである。距離感も適当なのだろう。

亜美はたまきの描く地図をしばらく眺めていたが、やがて、地図の中にところどころバツ印が書かれていることに気づいた。

「へぇ~、おまえもだいぶ、この辺のことわかってきたじゃねぇか」

「どうゆうこと?」

「このバツ印はな、ウチらのグループのナワバリの店を指してんだよ、ちがうか?」

「違うと思うけど」

と答えるのは、描いている当人ではなく、志保だ。

「たまきちゃんがそんな地図作るわけないじゃん。それにさ、歓楽街からだいぶ離れた線路上にもバツ印があるけど、そこもナワバリなの? 違うでしょ?」

「じゃあ、何なんだよ」

志保は読みかけの本を置いて立ち上がった。

「バツ印は全部で七個あるから、この七つのポイントをすべてまわると、何か願いが叶うとか」

「マズいじゃねぇか。コイツの願いなんて、死なせてくださいの一択だろ。却下だ却下」

「じゃあ、印を線で結ぶと図形が現れて、呪文を唱えると封印された恐怖の大王が現れるとか……」

「おまえ、頭いいんだからさ、もっとジョーシキで考えろよ」

常識のない奴に常識を諭されたのが気に食わないのか、志保は黙ってしまった。だが、そこでたまきが突然立ち上がり、

「それ、いいアイデアです」

というと、鉛筆でバツ印同士をつなぐ線を描き始めた。

「ほら、あたしの言った通りじゃん!」

「いや、どっからツッコめばいいんだ、これ……?」

もちろん、たまきはナワバリの地図を作っているわけでも、禁断の魔法陣を描いているわけでもない。地図に描きこまれたバツ印は、ここ数週間でたまきが発見した、「鳥のラクガキ」である。

歓楽街のビルの隙間に一つ。

歓楽街から離れた高架下に一つ。

ビルの屋上に二つ。

そして、歓楽街のそばを通る大通りに一つ。

さらに、大ガード下の天井に一つ。

最後に、線路をまたぐ大きな橋の橋げたに一つ。

ほかにもまだまだまだ未発見のラクガキがあるのかもしれない。

ラクガキの場所に何か意味があるのではないか、と思ったたまきは、地図を書いてそこにバツ印を打ってみたわけだ。さらに印と印をつなげてみたりしたのだけれど、今のところ、特に法則らしきものは見つからない。

共通してることがあるとすれば、どれもこれも、「よりにもよってなんでこんな場所に」と思うような場所にばかりあるということだ。

ラクガキするには狭すぎるビルの隙間だったり。

3メートルあるフェンスの向こう側だったり。

ビルの屋上の、立ち入るのが難しい場所だったり。

そこからさらに十日ほどかけて、たまきにしては珍しく、たまきにしては本当に珍しく、毎日外に出てラクガキを探し回った。そして、たまきは3つのラクガキを見つけた。

ひとつは、駅前と歓楽街の間を通る、十車線くらいある大通りだった。地下道に入る階段の壁に描かれてあったのだ。

問題は、その壁がその十車線ぐらいある車道に面していた、ということだ。

車がバンバン通る中で、ラクガキをするのはかなり難しいんじゃないだろうか。

その次に見つけたのは、大ガード下の天井だった。

歓楽街を出てすぐのところに、線路の下をくぐる大きな通路がある。そこの天井を見上げたところに、鳥の絵が描かれていた。

これまた、どうやって描いたのかわからない。もちろん、脚立でも持ち込めば可能だけど、人通りの多いこの通路でそんなことしたら目立ってしまう。

この二つのラクガキは、「不可能ではないけど、描こうとしたら目立つよね」という問題がある。ラクガキは誰にもバレずにこっそり描くものだ。

一番不可解なのが、線路をまたぐ大きな橋の、橋げたに描かれていたものだ。つまり、鉄道会社の完全な敷地内である。高架下のフェンスのむこう側とはわけが違う。そこに誰か入り込んでいるとバレれば、怒られるでは済まない。電車が止まってしまう。電車を止めてしまうと、みんなに迷惑がかかるだけでなく、とんでもない損害賠償を請求される。とくに、ラクガキのあった駅は日本の鉄道の大動脈だ。そこに立ち入って電車を止めたとなると、請求される金額はきっと、目玉が飛び出て帰ってこないくらいのレベルだろう。

世俗に疎いたまきが何で電車事情にだけ詳しいのかというと、もちろん、「線路に飛び込んだらどうなるのか」いろいろと調べてみたことがあるからである。駅のホームに立って電車が来るたびに、「いま、飛び込んだらどうなるんだろう」とぼんやりと考えてみるのだけれど、調べた範囲では、どうやらスマートな死に方ではないようなので、なるべく線路には飛び込まないようにしよう、とたまきは思っている。あと、たまきを跳ね飛ばすことになる運転手さんにも、なんか申し訳ない。

わからないことだらけの「鳥のラクガキ」だけど、わかっていることもある。

それは、すべて同じ人が描いたんじゃないか、ということだ。もっとも、絵のタッチからたまきが何となくそう思っているだけなのだが。根拠は、と聞かれても、お絵かき好きのカン、としか言いようがない。

もうひとつ、たまきはこのラクガキは女性が描いたような気がしているのだけど、それもやっぱり、なんとなくそう思ってるだけである。

 

画像はイメージです

喫茶「シャンゼリゼ」の扉が開いた。

「いらっしゃいませー」

と笑顔で応対した志保はすぐに、

「あれ、先生?」

と驚きの声を上げた。扉を開けた客は、舞だったのだ。舞は「よっ」と片手を上げた。カジュアルな格好で、リュックサックを背負っている。

「どうしたんですか?」

「いやなに、仕事で近くに来たついでに、そういやおまえのバイト先はこの辺だったと思い出して、立ち寄ってみたのさ」

「あ、席、案内しますね」

志保は舞を席へと案内する。

舞は席に座る前に、椅子をしげしげと眺めていた。

「あの……椅子がどうかしましたか?」

「あ、いや、イスを片手でぶっ壊した知り合いのことをちょっと思い出してな」

「え?」

「いや、そんなことより、おまえさ、バイト終わるの、何時だ?」

「えっと、あと1時間ほどですけど」

志保は時計を見ながら言った。もう夕方である。

「そのあと、なんか予定ある?」

舞はメニュー表に目を落としながら訪ねた。

「買い物して帰りますけど……」

「じゃあさ、1時間、この店で待ってるからさ、バイト終わったら一緒に買い物行かないか? ちょっと話したいことあるんだよ」

「話?」

「……悪い話じゃないよ。ちょっと頼み事っていうかさ、ま、おまえまだ仕事中だろ。その話はあとで。あ、とりあえず、紅茶よろしく」

志保は怪訝な顔をしながら、キッチンに注文を伝えに行った。悪い話じゃないというけど、用件が見えてこないのはやっぱり不安だ。

「あのお客さん、知り合い?」

と尋ねてきたのは、田代である。

「うん、お世話になってるお医者さんなんだ。なんか、あたしに用事があるみたいで、バイト終わったら一緒に帰らないかって」

「え?」

田代が不安そうな顔をした。志保の事情を知ってるだけに、知り合いの医者が用があってわざわざ訪ねてきたとなると、表情も曇る。それを察した志保は付け加えた。

「お医者さんって言ってもね、体のこととかだけじゃなくて、生活のこととか、メンタルのこととか、いろいろお世話になってるの。あたしだけじゃなくて亜美ちゃんもたまきちゃんも。ここのバイト受けるときも協力してもらったし、ほかにも、まあ、いろいろと。まあ、先生も悪い用事じゃないっていうし」

と言いながら志保は、こんなにお世話になってるんだから、そろそろ舞に何かお返しでもしないとまずいような気がしてきた。

「悪い話じゃなきゃいいんだけどさ……」

と田代。

その様子を、舞は水を飲みながら横目で見ていた。

「ふーん、あれかぁ……」

舞は田代のもじゃもじゃ頭を見つめ、志保の顔に目をやった。

 

画像はイメージです

志保たちや舞が暮らす歓楽街は、南北を大きな道路に挟まれている。その北側の大通りに近い場所に、韓国をはじめとしたアジアの食料品を売るスーパーマーケットがある。スーパーと言っても、コンビニより少し大きいくらいなのだけど。

舞はバイトの終わった志保を連れて、その店に来ていた。それぞれの夕食の買い物である。

「このお店、よく来るんですか?」

志保が周りをきょろきょろしながら聞いた。志保にとってこの店は来るのが初めてだ。それどころか、今さっきまでこんな店があることすら知らなかった。

「ああ、近いからな」

確かに、舞の家からは歩いて5分もかかるまい。

「まあ、あたしもそんなしょっちゅうは来ないけどな。でも、何にも献立が思い浮かばないときとかは、ここに来て、なんじゃこりゃ! ってものを買ってみるんだよ」

そう言いながら舞は唐辛子のような木の実が描かれた袋を手に取り、

「なんじゃこりゃ?」

と言いながら、カゴに入れた。

「それ、どんな味がするんですか?」

「さあ、知らない」

「……知らないのに買うんですか?」

「海外のレストランとか行ったら、全く聞いたことのない料理をわざと注文するのが、好きなんだよ。いったいどんな料理が出てくるんだろう、ってな。肉料理だろうと思って頼んでみたらパスタだった、とか、そういうことが起こるしな。あと、日本じゃぜんぜん知られてない家庭料理が出てきたりとか」

「それで口に合わなかったらどうするんですか?」

志保のカゴにはまだ、一つも商品が入っていない。

「それはそれで、海外のいい思い出だ」

そういうと舞は、香辛料らしき瓶を無造作にカゴに放り込んだ。

「先生って、海外によく行くんですか?」

「そうだな、仕事で行くこともあるけど、プライベートでも年に一回は行ってるな。友達と行くことが多いけど、アジアとかだと一人でフラッと行くこともあるな。ああ、そうだ、新婚旅行もドイツだった。そんで、離婚した時の傷心旅行が韓国だ」

「いいなぁ。あたしも海外行ってみたいなぁ」

「海外行ったことないのか。意外だな。留学とかホームステイとかしてそうな感じだけど」

「興味はありますけど……」

志保はそこで黙ってしまった。

思い返せば、海外どころか、家族旅行の思い出すらほとんどないのだ。

「あの……先生……それで話って……?」

「ん?」

舞はしばらく、何を聞かれたのかわからないような顔をしていたが、

「そうだった。お前に用があるんだった。すっかり忘れてたよ」

と笑いながら言った。

「忘れるような話題なんですか?」

「まあ、あたしに直接関係のある話じゃないからなぁ」

舞はポリポリと頭をかいた。

「知り合いに頼まれてさ、誰かバイトしてくれる奴いないかって頼まれたんだよ」

「バイト、ですか?」

「そうそう。なんでも、簡単な事務と、簡単な接客と、ちょっとした力仕事。まあ、雑に言えばお手伝いってやつだな」

「あたしに、力仕事……ですか?」

志保は怪訝な顔をしながら、自分の腕を見た。少し骨が浮き出ている細い腕は、一般的な十代の少女よりも明らかに華奢に見える。

「いや、最初はな、男子を何人か紹介してやったんだよ。でもな……」

そこで舞は一度言葉を切った。

「バイトを探してる知り合いってのが、ゲイバーのママやってたやつなんだよ」

「え、ゲ、ゲイバー?」

「おまえさ、『二丁目』って聞いて、何のことだかわかるか?」

「は、はい。聞いたことくらいは……」

歓楽街の中で『二丁目』と呼ばれる区画は、なぜかゲイバーが多い、という話は聞いたことがある。お店にも、『二丁目』にも行ったことはないけれど。志保たちが住むところとは少し離れているのだ。

「ママ、ああ、その知り合いのことな、ママはずっと二丁目で働いてて、まあ、今もそうなんだけどさ、力仕事があるっていうから男子を何人か紹介したんだけど、みんな三日でやめてくんだよ。ママにビビって。別にママが何かしたってわけじゃねぇ。ハナッからゲイとかに偏見持ってるんだ。別にゲイだからって男ならだれでも見境ない、なんてことないのにな」

「……それで、あたしなんですか?」

「だって、男子を紹介しても、三日以内で逃げてくんだもんよ。これがホントの三日坊主ってやつだな!」

そういって舞は笑ったが、志保がぜんぜん笑ってないのを見て、笑うのをやめた。

「で、男子がだめなら女子で、というわけだ。ママに聞いたら、ちょっとした力仕事ってのは、部屋の掃除や片付けの手伝いらしいから、まあ女子でもイケるだろ。ということでおまえら三人を思い浮かべたんだけどさ、亜美に『簡単な事務』が務まるとは思えないし、たまきが『簡単な接客』をしてるのは想像がつかねぇ。それでもう、おまえしか残ってないのよ」

「あ、あの……」

「お、なんか質問か?」

「あたし未成年なんですけど、そのお店ってあたしが働いても大丈夫なんですか……?」

志保は不安げに尋ねたのだが、舞は

「ああ、だいじょーぶだいじょーぶ」

とあっけらかんとして答えた。

「年齢、性別、学歴、前科、一切問わずだ。お仕事ができる体力があればそれでよしだ。宗派も問わねぇってさ」

「しゅうは?」

「キリスト教徒だろうが、イスラム教徒だろうが、無宗教だろうが、一切不問だ。おまえ教会が主宰する施設に通ってるけど、それでもぜんぜんオッケーだとよ。むしろ、ふだん仏教と関わりのない人ほど来てほしいってさ」

舞はインドの香辛料を手に取りながら言った。

「仏教? え? 宗教施設なんですか?」

「え?」

舞が手に取った香辛料をいったん置いた。パッケージには、ゾウみたいな姿をしたカミサマが描かれている。

「あれ? 言ってなかったっけ?」

「ゲイバーのママだとしか……」

「そうだよ。ゲイバーのママが、店をやめて出家して、寺の住職やってるんだよ。で、お手伝いが欲しいからって」

「お寺? でも、二丁目で働いてるって……」

「そうだよ。二丁目にある寺だよ」

舞は、いったん置いた香辛料を、やっぱりカゴの中に入れた。

「あれ? 最初に言ってなかったっけ?」

 

写真はイメージです

駅から大通り沿いに東に向かって十分ほど歩くと、「二丁目」と呼ばれる区画に入る。この一角は、いわゆるゲイバーやオカマバーと呼ばれる店が集まることで知られている。どうしてこの一角にそういうお店が集まるのかについては、志保は何にも知らない。ただ、そういう場所があるということだけは知識として持っている。

舞に連れられて志保が二丁目にやって来たのは、翌日の午後だった。ゲイの人向けの雑誌が置いてあるお店を見かけたときは、なるほど、ここがウワサに名高い二丁目か、とちょっと感心した。

ただ、テレビのバラエティで見るオネェタレントみたいな人たちが街を闊歩している、というわけでもない。怪しげな看板が多いわけでもない。志保の印象としてはいたって「ふつう」の街だ。夜になったら少しは風景が違うのだろうか。

ただ、昼間に訪れるとなんだかこの街はまだ眠っている、そんな印象を受けた。やっぱりいわゆる「夜の街」って奴なのだろう。

それよりも、志保の印象に残ったのは、寺の多さだった。

ビル街の中にいくつかお寺が立っている。東京の都心では、すっかり近代的なビルにお寺の看板がついていて、え、ここが寺?と思うことも多いのだけれど、二丁目には昔ながらのお寺が、狭い区画の中に数軒残っている。墓地も健在だ。

二丁目の中心にある公園に差し掛かった時、志保は少し足を止めて、あたりを見渡してみた。志保の周りを、ビルに囲まれて三軒ほどのお寺が取り囲んでいる。周りをお寺に囲まれるなんて、京都とかに行かないとないことだと思っていたけれど、こんな都心の真ん中で見れるとは。

「おーい、なにしてる。こっちだ」

その中の一つの寺の、裏口らしき門の前に舞が立って、手招きしていた。門の脇には控えめに「行真寺(ぎょうしんじ)」と書かれている。

 

行真寺の裏口から志保は境内に入った。この裏口というのは墓地の脇にあるもので、昼間だけ解放している。基本的には墓参りに来る人用の出入り口なのだけど、中には大通りへの抜け道としてこの裏口から入って墓地を通り抜けていく不届き者もいる。

並ぶ墓石は見たところ、どれもある程度は風化していて、この墓地とお寺の年月の古さを感じさせる。中には、刻まれた文字が完全に風化してしまって読み取れないものもあった。

「昨日も話したけど、おまえの事情であたしが知ってることは、ぜんぶママにきのう電話で話したから」

「あ、はい、わかってます」

昨日の別れ際に、志保は舞から、事情を「ママ」にすべて話すことの許可を求められた。舞いわく、ウソや隠し事が通用する相手ではないので、最初から志保の事情を伝えておいた方がいい、というのだ。

「大丈夫だ。ママはおまえの事情を知ったって、悪いようには扱わないから。むしろ、味方になってくれると思うぞ」

「は……はい」

志保は話題を変えようと、あたりを見回した。墓地の出口が近いのか、墓参りに使う手桶が並んだ台がすぐ横に見える。

「この辺りって、ビルも多いのに、お寺もいっぱいありますよね。なんでなんですか?」

「寺?」

今度は、舞があたりをきょろきょろと見まわした。

「そういや、この辺、やけに寺が多いな。気にしたことなかった。なんでなんだろうな」

その時、前方から下駄の音がした。

「ここはあの世とこの世の境目なのよ」

見ると、そこに袈裟姿の住職が立っていた。舞の言う「ママ」に違いない。

スキンヘッドの頭はいかにも僧侶っぽいのだけれど、なんだかごつごつしていて岩肌みたいだし、顔も眼光鋭く、見る者を威圧する。

「コワモテおじさんだ」と、志保は心の中でつぶやいた。

「ママ」こと住職は、かつかつと下駄を鳴らしながら二人の方へ近づいてくる。そして、舞の方を見ると、

「ヤダー! 舞ちゃん、久しぶりじゃなーい!」

と、さっきよりも1オクターブ高い声で話し出した。

「……先週も会ったじゃねぇかよ」

「そうだったかしら」

「そっちは忘れてても、ママが片手で椅子をぶっ壊した衝撃映像、あたしは一生忘れないからな」

「ああ、そんなことあったわね。そうそう、あれで十万も払ったのよねぇ」

住職はなんだか遠い過去を懐かしむような眼をしている。

「それに、おとといも昨日も、電話で話してるじゃねぇか」

「そうだったわね。それで、その子が話してたバイトの子?」

「そうそう。名前は志保。名字は、ええっと、神林だったっけ?」

「神崎です。神崎志保です」

「志保ちゃんね。アタシ、ここの住職をしてる知念厳造よ、よろしくね」

「すごい名前……」と志保は心の中でつぶやいた。

「まあ、お店やってた時の『キャサリン』って名前で呼ばれることも多いけどね。そっちで呼んでくれてもいいわよ」

「それもまたすごい名前……」と、志保は危うく声に出しそうになった。

「あ、あの、それで、バイトの面接とかは……」

「ああ、いらないいらない」

知念住職がにこやかに答えた。

「舞ちゃんの紹介、っていう時点で、それなりに信用ある子だろうから、面接はパスよ」

「その全員が逃げ出してるけどな」

と舞が笑った。

「あ、あの、舞先生と住職さんは、はどういうお知り合いで……?」

その問いかけに、知念住職がクスリと笑った。

「舞ちゃん、『先生』って呼ばれてるの?」

「別に、おかしくないだろ?」

「ふーん」

と、知念住職は再び、遠い過去を懐かしむような眼をした。

「関係性はカンタンよ。アタシがお店やってた時に、舞ちゃんがお客として通ってた時からよ」

「え?」

志保が舞を見る。

「職場の先輩に連れられてたまに行ってた、だ。通った覚えはない」

と舞は発言を一部否定した。

「あら、何年か前に、仕事も結婚生活もやめちゃったときは、一人で通ってたじゃない」

「そ、それで、仕事内容なんですけど……!」

なんだかそれ以上聞いちゃいけない気がして、志保は話題を変えた。

「週に何回か、お掃除とかしてもらうわ。境内の落ち葉を掃除するだけでも大変なのよ。それと、月に何回か、お葬式とかお通夜とか法事とかあるから。そのお手伝い。弔問客の対応だったり、お香典の管理だったり、葬儀場の設営だったり。頼むのは簡単なお手伝いばかりだから、慣れれば大丈夫よ」

「全員が慣れる前に逃げ出したけどな」

そういって舞が笑う。

「お給料は日給で三千円。お葬式の時は手当とかつけるつもりだけど、あんまり出せなくて、ごめんなさいね。その代わり、短時間だし、日にちも志保ちゃんの都合優先でいいから。ほかにもバイトしてるって聞いてるわよ」

「あ、はい、大丈夫です」

「他に質問は?」

「え、えっと……その……」

志保は一瞬ためらったが、続けた。

「さっきの『あの世とこの世の境目』というのはいったい……」

もしかしたら、ここは現実世界と異世界の境界線で、このお寺があることで異世界からの侵略を防いでいるんじゃ……、という考えがほんの一瞬だけ志保の頭をよぎったけど、そんなわけないかとすぐに打ち消した。

「この街はね、江戸の西側の玄関口なのよ」

知念住職は周りを見渡した。境内の木々のむこう側に、少し遠くのビルの色鮮やかな看板が見える。

「江戸の街=今の東京都、というわけじゃないのよ。江戸の町はもっと小さいわ。今の23区よりも小さかったの。だいたい山手線沿線と同じくらいかしら」

「え、そうだったんですか?」

江戸と東京は一緒だとなんとなく思っていた志保にとって、江戸の町の範囲なんて、考えたこともなかった。

「『江戸っ子』なんて江戸城が目で見える範囲で生まれ育ってないと名乗れないのよ。この街よりも西側は、江戸じゃないの。ふつうの農村よ。今では住宅街だったり商店街だったりデパートが建ってたりする場所が、ただの農村だったなんて、想像つかないでしょ?」

「はい……。のどかな場所だったんですね」

志保が生まれ育った町も、位置的にそういう場所だったのだろう。

「昼間はのどかでいいけれど、夜は怖いわよ。街灯とか全くないんだから。家はまばらにしかないし、荒れ地や沼地、雑木林なんかもあるの。そういう場所におばけが出るかもしれない、と昔の人が考えても、全然不思議じゃないわよ」

「確かに……」

「江戸という都市の外側は、自然は豊かだけど、夜になったら怖い場所。だから、江戸の玄関口であるこの場所は、あの世とこの世の境目ってわけ。そういう場所には、お寺や神社が多いのよ。ご先祖さまや神様を祀るには一番いい場所だったんでしょうね。ここに来れば、亡くなった人に会えるかも、って。新しいものばっかりの街だけど、意外とね、昔の人の想いの残滓がどこかに残っているものなのよ」

志保は周りを見渡した。大都会の中で、ここだけ時間が止まっているようにも思える。

 

画像はイメージです

気づけば五月も半ばである。

いつもの都立公園も先月は桜が咲き誇っていたが、すっかり花も散り、地に落ちたハナビラすら姿を隠した。木々の葉っぱは日々その青さを色濃くし、一方で足元に目を向ければ、色とりどりの花々が、桜の次の主役は私たちだと言わんばかりに咲き乱れる。

たまきが「庵」の前を訪れると、仙人が椅子に腰かけてカップ酒を飲んでいるのが見えた。

「あの……」

たまきが声をかけると、仙人もすぐに気づいた。

「おや、お嬢ちゃん」

仙人はたまきを見た後、その背中にあるリュックに目をやる。

「また絵を見せに来たのかい?」

「まあ、そうなんですけど……、今日はちょっと違って……」

たまきは申し訳なさそうに、仙人の横に置かれた椅子に腰かけた。

「あの、この絵なんですけど……」

そういってたまきはスケッチブックの一番最後のページに描いた絵を見せた。

仙人は一瞥して、すぐに口を開いた。

「これは、お嬢ちゃんの絵ではないな」

そこに描かれていたのは鳥の絵だった。たまきが模写したあの鳥のラクガキだ。

「これは、ほかの人が描いた絵を、私が描き写したやつで……、その、仙人さんはこの絵をどこかで見たことはないですか?」

「どこかというのは?」

「……この公園だったり、町の中だったり……壁とか電信柱とか、その……」

「なるほど、ラクガキというわけか」

「……まあ」

たまきの返事を聞くと、仙人は静かにかぶりを振った。

「見たことはないな。すくなくとも、記憶にはない。ラクガキならあちこちで見るが、こういう絵があったかどうかはちょっと思い出せんな」

「そうですか……」

「ところで、そっちの紙は何だい?」

仙人は、たまきのリュックから飛び出した、丸まった紙の筒を指さした。

「これは……」

たまきは紙を広げた。それは「城」の中で描いていた、ラクガキを見つけた場所の地図だった。

「ほう、これは面白い」

と仙人がのぞき込む。

「この辺りはよく通るが、こんなラクガキがあったかどうかは覚えてないな。わしが気付かんかったものをお嬢ちゃんがこんなに見つけたということは、この絵とお嬢ちゃんの間には、何か通じるものがあるのかもしれんな。きっとこの絵は、お嬢ちゃんのことを選んだんだよ」

そう言って仙人は笑い、カップ酒に口をつけた。

 

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とぼとぼと歩いて、たまきは歓楽街に帰ってきた。いつもの薄群青のパーカーを羽織っているけど、だいぶ暖かくなってきたから、そろそろいらなくなるかもしれない。

いつぞやのゲームセンターの脇の道を歩いている時だった。不意に小さななにかが飛び出し、たまきの前を横切った。

ネコだった。白地に黒のぶち猫が、道路の脇で立ち止まり、たまきの方を見ていた。

野良猫だろうか。歓楽街で野良猫を見るのは珍しいことだ。

「こ、こんにちは……」

と、たまきは話しかけてみた。

ネコはじっとたまきを見ていたが、

「みゃお」

と鳴くと、建物と建物のわずかな隙間の間に入ってしまった。

たまきはネコの後を追って、隙間をのぞき込んだ。

人一人がギリギリ通れそうな隙間があり、壁にはラクガキがびっしりと描かれている。

そこは、例のラクガキをたまきが初めて見た場所だった。猫はちょうど、鳥の落書きの真下にたたずんで、たまきの方を向いていた。そうしてたまきの姿を確認すると再び

「みゃお」

と鳴いて、隙間のさらに奥に、ねこねこと歩き出した。

「ついてきな、お嬢さん」

そんな風に言われた気がした。

たまきは、猫の後をついて隙間の奥へと歩き始めた。なんだか、どこかの童話みたいだ。

 

東京の街はまるでお城みたいだ、と言ったのは誰だっただろうか。

でも、たまきにとって東京の街のイメージは、それはシンデレラ城のようにきらびやかなお城ではなく、ジャングルの奥地に取り残された廃墟の城だった。百万の人が住む廃墟、それがたまきにとっての東京だ。

そして、今歩いているような建物の隙間は、まさに人が暮らす廃墟そのものだった。光はわずかだけ。目に映るもののほとんどが灰色だ。空き缶、ポリ袋、何かの配管、室外機。どこかの工事の音。ほんの数十歩引き返せばいつもの場所に戻れるのに、この世の果てに迷い込んだ気分だ。

「みゃお」

ネコの鳴き声が聞こえて、たまきは立ち止まった。

だけど、猫の姿は見れない。

その代わり、たまきの目に映ったのは、あの鳥のラクガキだった。

たまきは思わず息をのみ、ラクガキに軽く触れた。

少しひび割れている。今まで見つけたラクガキの中で一番古いのではないか、なんだかそんな気がする。

もしかしたら、誰かがここにラクガキを描いてから、たまきが見つける今この時まで、誰の目にも触れることがなかったのではないか。それこそ、ジャングルの奥地でひっそりと眠り続ける古城のように。

『きっとこの絵は、お嬢ちゃんのことを選んだんだよ』

先ほどの仙人の言葉がふと、たまきの耳の奥をくすぐった。

 

つづく


次回 第39話「お葬式、ところによりバスケ」

お寺でバイトを始めた志保、そして、あいかわらずラクガキ探しをするたまき。あのキャラの過去にも少し触れるかも? 続きはこちら!


クソ青春冒険小説「あしたてんきになぁれ」