たまきのはじめてのアルバイト。そして「鳥のラクガキ」探しにも新たな展開が……。「あしなれ」第41話、スタート!
六月も半ばになった。
たまきは、青いジャージを着て、行信寺の塀の前に立っていた。足元には青いペンキの缶と、バケツ。バケツの中には、塗装に必要な用具がいくつか入っている。塀には脚立も立てかけられている。
本格的な梅雨が来る前に、このラクガキだらけの壁を青いペンキで塗りつぶす。それがたまきのバイト初めての大仕事だ。
それと同時に、壁に描く仏像のデザインも進めておかなくてはいけない。
理想のスケジュールとしては、今週中に壁を青いペンキでで塗りつぶし、梅雨が来たらデザインの方を進めていき、梅雨明けには青一色となった壁に仏像を描いていく作業に入れるようにしたい。
デザインの第一案は、この日の午前中に住職に渡していた。たまきは仏教の知識が全くないので、お寺にあった仏像の写真がいっぱい載っている本を借りて、それを見ながらスケッチを描いた。
ラフなスケッチだったけど、自分で思っていたよりもうまく描けた。スケッチを後ろから覗き込んでいた亜美も
「なんだ、ちゃんと描けてんじゃん」
と、若干つまらなそうにぼやいた。もっとおどろおどろしくなるものと期待していたらしい。
そのスケッチを先ほど住職に見せたわけだ。住職は「なるほどなるほど、さすが上手ねぇ」とは言ってくれたが、
「でもたまきちゃん、これってペンキで描けるのかしら?」
と首をかしげた。
確かに、たまきのスケッチは鉛筆で描いたもので、曲線のうねり具合、影のつけ方、模様の細かさ、全てが鉛筆ならではのものだった。
そして今、たまきはペンキ用具一式をもって、本番のキャンバスとなる壁に向かっている。
こうやって見てみると、部屋でスケッチしていたときとはかなり条件が違う。絵を描く壁の材質は紙ではなくブロック。鉛筆ではなくハケや筆を使い、どろりとしたペンキで描く。さらに、部屋でスケッチしていた時は水平なスケッチブックに描いていたのに対して、垂直な壁に重力に逆らって絵を描かなければならない。
下絵のスケッチで上手に描けてもダメなのだ。「硬い壁にペンキで描く」ということを意識しながら、スケッチを描かなければならない。スケッチはそれ自体が作品なのではなく、壁にペンキで描くための設計図なのだ。
そうなると、「そもそも、ペンキで仏像なんて描けるのだろうか?」とたまきは首をかしげてしまう。もっとも、住職も別にどうしても仏像を描いてほしいわけではなく、お寺だからとりあえず仏像でも描いておいたら、ぐらいのものなので、何か他にいいデザインが思い浮かべば、別に無理に仏像にこだわることもなさそうだ。
具体的なデザインはまだ決まっていないけど、「背景は青一色」というオーダーがすでに住職から出ていた。それも何か仏教的な意味があるのかと聞いてみたところ、
「あら、青って爽快感があるじゃない?」
という返事だった。
さてと、とたまきは道路の上に新聞紙を敷き、その上に自分の身長の倍近くの高さがある脚立を立てて上った。3メートル近くの高さがある塀の上の部分に目線が来るように座る。右手には青いペンキの缶が握られ、脚立の下の段を使って重さを支えている。
缶の中にはすでに、ローラーが青いペンキの湖に沈められていた。このローラーを使って壁を一気に青一色で塗りつぶす。脚立を上り下りしたり、脚立や新聞紙を動かしたりするのが面倒だけど、まあ今日一日で作業は終わるだろう。
作業に入る前に、たまきは塀をじっと見降ろした。
例の鳥のラクガキはこの塀には見つからなかった。だが、そもそもこの塀はラクガキが多すぎる。たまきが見落としているだけかもしれないし、ほかのラクガキに上書きされて隠れているのかもしれない。ペンキを塗る前に、視点を変えて上から、もう一度ラクガキを探してみることにした。
横幅が十メートル近くある墓地の塀の、一番左の端にたまきはいる。とりあえず、今いる場所から見える範囲には、それらしきラクガキは見つからなかった。
それじゃあ、とたまきはペンキの缶からローラーを取り出すと、ペンキが下に垂れないように余分なペンキを落してから、ブロックの壁にあてがった。
ローラーがコロコロとまわり、ラクガキだらけの薄汚れた塀が、空のようなブルーに染まっていく。
が、ほんの三十センチほど動かしただけで、たまきの手は止まった。
たまきの想像と違い、ところどころペンキが塗れていない部分が目立つのだ。古いブロック塀はところどころ欠けていたり削れていたりでくぼみがあって、ローラーではそのくぼみにペンキが全然届かなかったのである。
たまきは、ジャージの上着のポケットを探った。そこにはハケと筆が入っている。ハケは今回の作業のために住職が買ったもので、筆の方は書道用のものが古くなって使わなくなったとのことで住職がたまきに渡したのだ。
たまきはハケの方を手に取ると、ペンキをちょんちょんとつけた後、ブロック塀のくぼみにあてがった。
だが、ここでもまたたまきの想定外のことが起こる。
ハケを使っても、くぼみの中にペンキが届かないのだ。ハケの横幅に対してくぼみの方が小さい。それでもハケは一本一本の毛のようなものの集まりなのだから器用にくぼみの中に入っていけると思ったのだが、どうやらそういうものでもないらしい。
仕方なしに、たまきはポッケの中の筆を手に取った。ハケに残ったペンキを筆につけて、くぼみの中でちょこちょこと動かす。これでようやく、ひとつのくぼみが青に埋まった。
だが、くぼみは何も一つだけではない。全然くぼみのないブロックもあれば、無数のくぼみがあるブロックもある。この無数のくぼみ一つ一つを、筆で青に塗りつぶさなければいけない。この手間を考えると、どうやら今日一日で終わる作業ではないかもしれない。
ラクガキ探しをするときによく見る「ラクガキするな!」と書かれている看板がたまきの頭の中をかすめた。なぜラクガキをしてはいけないのか、たまきはようやく理解した。ラクガキを上から青一色で塗りつぶすだけで、こんなに大変でめんどくさいんだ。
結局その日は、壁全体の四分の一ほどしか作業は進まなかった。
くぼみの中を塗る作業に手間取ったうえ、常に重たいペンキの缶を右手に持ったまま、脚立を上ったり、脚立を動かしたり。ペンキを塗るときも、支えはあるとはいえずっと缶の取っ手を握りっぱなし。これがたまきの体力をみるみる奪い、どんどんペースが落ちていった。時間の見積もりが甘く、午後から作業を始めてしまったため、時間がそもそも足りなかったともいえる。
そのうえ、根気よく鳥のラクガキを探しては見たものの、結局見つけることはできなかった。
「まあ、明日から梅雨入りってわけじゃないから、今週いっぱいかけて少しずつ進めていきましょ。作業が増えた分のお給料は、ちゃんと考えとくわ」
と住職は笑いながら言った。今日は火曜日で、天気予報だと梅雨入りは来週のどこか、と言っている。確かに、今週中に終わらせれば問題はなさそうだ。しかし、壁全体を塗るのにあと3日はかかるだろう。3日間をこの重労働に費やすのかと思うと、たまきは憂鬱になってきた。
今日の作業を終えて、たまきはとぼとぼと歩いて『城』へと戻った。
学校にも行けずバイトもしてないたまきが、これならたまきに向いていると太鼓判を押されて始めたバイトだったけど、今のところ、ちっとも自分に向いているとは思えない。
「ただいまです……」
たまきは左手で『城』のドアを押し開けた。今日はもう、右手には何も作業をさせたくない。かといって、左手もローラーを動かしたり筆を動かしたりと使い続けていたので、右手とは別種の疲労がたまっていて、極力動かしたくない。つまりたまきは、今日はもう何もしたくないのだ。
「お、おかえりー」
『城』の中には亜美が一人でいて、相変わらずゲームをしている。
「バイト、どうだった?」
「……疲れました」
「まあ、そうやって働いて、みんな大人になってくんだよ」
と、ろくに働きもしない亜美が言った。そして亜美は立ち上がり、ゲーム機に二つ目のコントローラーをいそいそとつける作業をしながら、
「よし、この前のリベンジしようぜ」
と言った。
「……リベンジ?」
「この前のゲームの続きだよ。ほら」
と、亜美はたまきにコントローラーを差し出す。
リベンジしようと言われても、リベンジしたいのは負けた亜美だけで、たまきにリベンジするつもりは全くないのだが。
今日はもう手を動かしたくないんだけどな、と思いながら、たまきは仕方なくコントローラーを手に取った。
翌日、たまきは頑張って早起きして、朝の九時に目覚めた。
頑張って起きたはいいものの、頭がぼうっとして、エンジンのから回った車のように、うんともすんとも言わずにただ座っている。そんな状態が一時間ほど続いた。
十時になって、行信寺にバイトに行く志保にくっついて『城』を出た。まだ頭の半分は眠ったまんま、ゾンビのようにふらふらと志保の後をついていく。
寺までの十数分の移動距離で、まるで氷を溶かすかのように、たまきは少しずつ目が覚めていった。寺につき、倉庫から脚立とペンキをがたがたと出して、昨日の続きの場所にセットする頃には、脳みそは八分咲きと言ったところか。
たまきはペンキの缶をもって脚立の上部に座り、大あくびをして、ローラーを壁にあてがった。頑張って早起きをしたから、昨日より二時間ほど作業時間は増えてるはずだ。
お昼休憩を挟み、午後からもまた壁に向かい合う。
途中で一度、志保が様子を見に来た。壁面を一目見るなり、
「すごい。ちゃんときれいに塗れてるじゃん」
と手を叩いて喜ぶ。たまきが壁にローラーをあてがって転がすと「すごいすごい」、ペンキの届かなかったくぼみを筆で埋めていくと「すごいすごい」、挙句の果てには、脚立を移動させてよじ登っただけで「すごーい」。
志保にそんなつもりはないのだろうけど、ここまで一挙手一投足を誉められると、一周まわってバカにされてるような気がしてくる。
まあ、これまで何もせず、ただ寝転がるかお絵描きするかだった奴が、ろくに面接もなかったとはいえ、一応バイトをしてるとなればそれだけで「すごーい」なのかもしれない、とたまきは思い直した。
二時間だけ労働時間が増えたのに、なんだか昨日の倍疲れている気がする。たまきはゆっくりゆっくりと、太田ビルの階段を上っていった。手の疲れに加え、脚立の上り下りのせいで足にまで疲れが出ている。
二階のラーメン屋の前まで来た。ここまで、階段を上り始めてから二分かかった。
ふう、っとため息をついてラーメン屋の方を見ると、廊下の奥、従業員が休憩するベンチに、調理服を着たミチが腰かけてタバコを吸っていた。たまきの姿を見るなり
「お、お疲れ」
と声をかける。
たまきは無言でペコリとお辞儀だけして、ミチに背を向けて階段を上るとした。するとミチが
「あれ? 今日、なんかいつもと違くない?」
と言うと、ベンチから立ち上がり、たまきの方へと寄ってきた。
ミチが言う「いつもと違くない?」と言うのは、たまきの態度のことではないだろう。むしろ、ここでミチに会った時のたまきの対応としては、かなりいつも通りだ。ミチが「違くない?」と言うのは、たまきの服装のことだろう。いつも上から下まで黒一色か、ミチからもらった薄群青のパーカーを着るかぐらいのたまきが、住職が用意してくれた上下グレーのジャージを着ているうえ、ところどころ青いペンキが付着している。おまけに、顔にもちょっとペンキがついている。服装に無頓着なたまきの見た目がいつもと違うのは、それだけでとんでもない変化なのだ。
「どしたの、その格好?」
「……まあ……その……」
ミチにあまり詮索されたくない気持ちと、照れくささと、ちょっとだけ自慢したい気持ちがないまぜになったまま、たまきは
「……バイトで」
と答えた。
「……バイトって、あのバイト?」
ほかにどのバイトがあるのだろうか。まさか、メガバイトだのギガバイトだのの話をしてるとでも思ってるのだろうか。
次の瞬間、ミチの口からは
「ウソぉ!!?」
という失礼極まりない言葉が飛び出した。
「え、たまきちゃん、絶対バイトなんかしないと思ってたのに」
ふつうにバイトをしてるだけで、どうしてそんな裏切られたかのようなことを言われなければいけないのか。
「え、何のバイトしてるの?」
「まあ……、その……」
たまきはミチから目線を外した。
「絵を描くバイトを……」
実際のところは、まだ絵を描く段階に至っていない。ひたすらブロック塀を塗装しているだけだ。じゃあ、塗装のバイトだと胸を張って言えるかと言うと、別にそんなにうまく塗装しているわけでもない。
「あ、それでペンキまみれなんだ」
と、ミチはたまきの全身をじろじろ見た。たまきはさらにミチから目線をそらす。
ふいに、ミチの右手がたまきの視界に入ってきた。そして、
「髪にもペンキついちゃってんじゃん」
と、たまきの髪の毛を手に取った。
たまきはとっさに体を激しくよじってミチの手を振りほどいた。
「か、勝手に触らないでください!」
ミチの方を見ることなくそういうと、
「……言いつけますよ」
と付け足した。
そう言ってから、一体誰に言いつけるんだ、とたまきは自分の言葉を反芻した。一方でミチは
「あ、ごめん」
と、バツの悪そうに後ずさった。おそらく、たまきとミチの共通の知り合いの中での「言いつけられたら困る人」の誰かの顔が浮かんだのだろう。どうやら、この文言は割と効果があるようだ。今後も使っていこう、とたまきはひそかに思った。
ペンキ塗りの作業も三日目に入った。一生終わらないように思えたけれど、昨日までの作業で半分が終わった。この調子で行けば、明日までにはすべての作業が終わるだろう、と思いながら、たまきは今日の仕事の準備を始める。ペンキ塗りはただの下準備であって、本当の仕事はまだ始まってすらいない、ということにたまきが気付くのはもう少し先の話、この日の夕方になってからだ。
お昼過ぎ、たまきは相変わらずペンキのローラーを転がしていた。そこに、
「お、ここか」
と、聞きなれた声がきこえてきた。
声がした方を向くと、亜美が立っていた。右手に火のついたタバコ、左手にはビールの缶を持っている。
亜美はたまきの顔を見るなり、
「マジか! ホントにバイトしてんじゃん! マジウケる!」
といって大爆笑した。
志保には赤ちゃんのように褒められ、ミチには仰天され、亜美には大爆笑される。もしかしたらこの人たちもミチのお姉ちゃんみたいに、たまきをペットのネコか何かだと思っているのだろうか。なるほど、ネコが一丁前にバイトを始めたら、ただそれだけで褒められるし驚かれるし笑われるだろう。いつか何かで見返してやる、とたまきは心に誓った。
たまきは返事をすることなく、黙々と作業を進めた。
「ここ? オカマのボウズがいる寺って?」
「……まあ」
少し間を開けてからたまきは、
「住職さん、今日はお寺にいるけど、会ってきますか?」
と尋ねた。
「いや、パスするわ。そのオカマでガタイのいいボウズってのがいまいちピンとこないんだよなぁ。ホントにいるのか、そんなやつ?」
亜美の言うことは一言一言が甚だ失礼である。こんな人は住職さんには会わせられないな、と思いながら、たまきは黙々と作業を進めた。
「そうそう、おまえに言いたいことがあったんだよ」
「そうですか」
「なんだったっけなぁ~?」
というと、亜美は缶の中のビールを一気にグイッと飲み干した。
「そういや、さっきここ来る前に下のラーメン屋でミチにあったから、あいつにもこの寺のこと教えておいたぞ」
「え?」
たまきは危うくペンキの缶を落としそうになった。
「な、何でミチ君に教えるんですか?」
「あいつが、たまきちゃんのバイト先ってどこっすか~?って聞いてきたから、ケータイで地図見せながら教えといたぞ。なんだよ? 見られて恥ずかしいようなバイトじゃねぇだろ?」
「ま、まあ、そうかもしれませんけど……」
たまきにとって、人に見られて恥ずかしくないものの方が少ない。
「い、言いたかったことっていうのは、そ、それですか?」
「いや、それじゃなくて今のはついでで、ほかになんかあったんだよなぁ」
と亜美は煙草を空になったビール缶の中にねじ込む。
「そうそう、思い出した。さっき先生から電話あったんだよ」
「舞先生から……ですか?」
「そうそう。たまきが寺でバイト始めたって聞いたけど、ちゃんとやってんのか? って。そうそう、それでウチが様子を見に来たってわけよ。先生言ってたぞ。しばらくたまきの顔見てないけど、元気なのか、って」
たまきの作業の手がふと止まった。言われてみればここしばらく、舞に会っていない。
「そういやおまえさ、ここんとこリスカしてないんじゃね? だから先生とも会ってないんじゃねぇの?」
「え?」
いよいよたまきの手は完全に止まり、上半身を亜美の方に向けた。
「私、最近リスカしてなかったんですか? いつから?」
「いや、おまえの手首の話だよ。ウチに聞くなよ。まあ、確かにここしばらくないよなぁ」
たまきは作業の手を止めて、右手首の包帯をじっと眺めた。
確かに、言われてみればここ最近はリストカットをしていない。いったい、いつからだろう。
記憶を掘り返してみるけれど、最後にリストカットしたのがいつだったのかあまりはっきりしない。
でも、なんとなく確信の持てることがあった。
たぶん、鳥のラクガキを探し始めてからは、リストカットをしていない、そんな気がするのだ。
それと同時に、急に不安になってきた。ここしばらくは鳥のラクガキを見つけられていない、ということに。
ふと気づくと、たまきの左手からペンキのローラーがなくなっていた。
どこかに落としたかとあたりを見渡してみると、すぐ目の前で亜美がローラーをブロック塀にあてがっていた。いつの間にかたまきの手から奪い取ったらしい。
「な、何してるんですか?」
「見りゃわかんだろ。手伝ってやってんだよ」
そういうと亜美はガーガーとローラーを転がす。
だけど、その塗り跡が地面に対して垂直ではない。微妙に傾いている。そのため、たまきの塗ってきた箇所から次第に離れ、塗り残しが広がっていく。
たまきはその都度ローラーを止めてもう一回塗り直すなり筆で塗り残しをつぶすなりしていたのだけど、亜美は塀の上から下までノンストップで一気にローラーを転がす。そして、あらゆる塗り残しを一切無視して隣の場所からまた上から下までローラーを転がす。
「なんだよ、こんなの、カンタンに終わるじゃん」
仕方がないので、塗り残しの部分はたまきがあとから筆で塗りつぶしていった。どうせ手伝ってくれるのなら、めんどくさい方をやって欲しかった。
亜美は三分ほど作業をした。いや、たまきから見ればただ適当にローラーを転がしていただけで、断じて「作業」と呼べるようなものではない。
亜美は急にぴたりと立ち止まると、
「なんか、飽きた」
というとたまきにローラーを返した。
そして、片手に握っていた空き缶を、全く無造作に放り捨てた。
「じゃあなー。あ、手伝った分のバイト代はいらねーからなー」
たまきは、路面にからころと転がる空き缶を見た。飲み口から中にねじ込んだ吸い殻が顔を出した。
次に、余白だらけのペンキの塗り跡を見ながら、しばらく立ちすくんだ。
やがて脚立によじ登ると、亜美の作った塗り残しをつぶす作業を始めた。
世の中には自分よりもバイトに向いていない人がいる。それがわかっただけでもよかった、ということにしておこう。
四日目。前日までに壁の八割を塗り終わった。作業に慣れたこともあってスピードも少し早くなった。この調子なら今日の昼過ぎにはすべての作業が終わる。
はずだった。
午前中、たまきがお寺の裏口につくと、すでに住職が立っていた。
「たまきちゃん、がっかりしないでね」
たまきが住職と一緒に「仕事場」に行ってみると、青いペンキで塗りつぶしてきたスペースの3分の1ほどに、黒いスプレーで新しいラクガキが描かれていた。何かの文字を崩したような形だけど、何なのかは判別できない。
「夜中にやられちゃったみたいねぇ。塗り直しの追加のバイト代はちゃんと考えておくから」
「……はい」
この日の作業は、ラクガキされた箇所の塗り直しから始まった。
壁の大部分を塗りつぶされたわけでなく、スプレーでにょろにょろと黒い線を描かれただけなので、そこまで厄介な作業ではない。しかし、青いペンキをバケツごとぶちまけて消せるのならばどんなにラクか。
ふと、たまきはいつか見た張り紙を思い出した。
『落書き厳禁! 迷惑してます!』
思い返してみると、たまきはこれまで「鳥のラクガキ」探しに、いかに無責任にはしゃいできたことか。じぶんちの壁にラクガキされて嬉しい人などいないのだ。それが、誰のどんなラクガキであっても。たとえ天才画家といわれる人だったとしても、ラクガキはあくまでラクガキなのだ。
よくよく考えてみればたまきは、人の建物に勝手に住んで、壁に勝手に描かれた落書きを探して回ってる。ちっともほめられたことじゃない。
だからこそ、少しでも褒められる人間になりたくて、たまきは今日もローラーをあてがうのだった。
一時間ほどで塗り直しを終え、いよいよ最後の作業に入った。余計な時間を使ってしまった分、たまきは作業のスピードアップを図ることにした。
これまでは、ローラーをあてがう前にまず、その一帯をよく確認して、例の鳥のラクガキがないか、ほかのラクガキに潰されていないかをチェックしていた。その時間を削ることにした。
もう、いちいち確認などしないで、さっさと作業を進める。もしも鳥のラクガキがあったとしても、お構いなしに塗りつぶす。それがたまきの仕事なのだ。
お昼休憩を終えてさらに作業を進める。
たまきはふと、人が近づいてくる気配を感じて、そっちの方を向いた。
道路の奥から、ミチが近づいてくるのが見えた。そういえば、亜美がここでたまきがバイトをしてると余計なことを教えたのだった。
絶対、笑いに来たに決まってる。
ミチは両手をズボンのポケットに突っ込んで、ガムをくちゃくちゃとかみながら近づいてきた。たまきはギリギリまで知らない人のふりをしようと決めた。
案の定、ミチはたまきに近づくなり、
「うわ、マジでバイトしてんじゃん!」
と大きな声を上げた。亜美のように爆笑しなかったのは少し意外だったけど。
笑わないのはいいことだったけど、こともあろうにミチは、携帯電話を取り出して、カメラをたまきに向けた。
「え……な、何してるんですか?」
「いや、姉ちゃんに見せるだけだからさ」
「や、やめてください」
たまきは右手を精一杯持ち上げて、ペンキの缶でなるべく顔を隠した。
「ちょっとぐらいいいじゃん。ホントに姉ちゃんに見せるだけだって。見せたらすぐ消すから」
そう言って、前にも「消す」と言ってた写真を消さなかった前科がある。信用できない。
「やめてください。言いつけますよ」
たまきは、ペンキの缶越しに、ミチをにらんだ。
「わ、わかったよ。ごめんって」
ミチは携帯電話をしまった。どうやら、魔法の呪文「言いつけますよ」はまだコイツに対して効果があるらしい。
たまきは、顔を隠していた右手を降ろした。でも、相変わらずミチをにらんだままだ。
「用が済んだら帰ってください。その……仕事の邪魔です」
ここでは魔法の呪文は使わない。魔法というものは乱発したら効果が薄れるのだ、きっと。ここぞという時に取っておかないと。
「いや、まだ用事終わってねーし」
これ以上どんな邪魔をするというのか。
「たまきちゃんさ、なんかヘンな鳥のラクガキ、さがしてたじゃん?」
たまきは返事をしなかった。「鳥のラクガキ」なら探してるけど、「ヘンな鳥のラクガキ」を探してる覚えはない。
だいたい、ミチはこの前、鳥のラクガキに興味なさそうだったではないか。
「でさ、知り合いのレコ屋の店長がさ、むかしストリートアートをやってたって話思い出してさ、鳥のラクガキのこと話してみたらさ、描いた人のこと知ってるって言ってさ」
「……え?」
たまきは、うっかりペンキの缶を落としそうになった。
「……あのラクガキ描いた人のこと、知ってるんですか?」
「そうそう。俺もまだ詳しくは聞けてないんだけど」
「知ってるって……、名前とか……」
「えっとね……、セナっつってたな」
「せな……」
たまきはその名前を反芻した。
「女の人……ですか……?」
「そんな名前だったと思うけど。うん、女の人の名前だったなぁ」
やっぱり。なんとなく、そんな気がしていたのだ。
たまきの仕事の手は、完全に止まっていた。仕事どころではない。聞きたいことがいっぱいあるのだ。
「その人って、今、どこにいるんですか?」
「ごめん、俺もそこまでは聞いてないんだ」
「そうですか……何歳ぐらいの人なんですか?」
「それも詳しくは……。ただ、レコ屋の店長は四十才ぐらいなんだけど、それよりも若いんじゃないかな?で、その店長さ、セナって人がラクガキ描くところとかも見ててさ、それこそ、俺らが公園で見つけたラクガキあったじゃん。あれ、どうやって描いたかっていうと……」
「ま、待ってください!」
たまきにしては少し強めの声で、ミチの話を遮った。
「そ……その話は……いいです」
「……え?」
「だから……その……どうやって描いたかって話は……別に……」
「え、だって、気にならない? っていうか、そういうの知りたくて探してたんじゃないの?」
たまきは首を横に振った。
聞きたいことはいっぱいあった。でも、その話だけは聞きたくない。
どのラクガキも、たしかに描くのが難しそうな場所にある。
でも、絶対に不可能というわけではない。
どうやって描いたのか、正直、ある程度の予想はできている。
でも、だからこそ、「どうやって描いたのか」だけは知りたくなかった。あれは魔法か何かで描いたんだ、たまきはそういうことにしておきたかった。
ミチとしては、話を遮られてしまって、釈然としない感じだ。
「ま、まあ、とにかくさ、その店長さんにたまきちゃんのこと話したんよ。その、鳥のラクガキを探して回ってる子がいるって。そしたら、直接セナって人の話をしてもいいっていうんだけどさ」
「……その店長さんが、私に……ですか?」
「そう」
「その……もしかしたら……セナって人にも会えますか?」
「あ、そこまでは聞いてない」
「そうですか……。あの……その……」
「なに?」
「……どうしてミチ君がそこまでしてくれるんですか?」
「……どうして?」
どうしてと聞かれても、困る。
「……とにかくさ、たまきちゃんが話聞きたいって言うなら紹介するけど、どうする?」
「えっと……その……」
たまきはうつむきがちに言った。
「……お願いします」
「オッケー。じゃ、あとで話しとおしとくわ」
「それと……その……」
そのあとにたまきは何かを付け足したが、ミチにはよく聞き取れなかった。
たまきは、ローラーをしっかりと握ると、壁に向き合った。
ラクガキは見つからなかったけど、その代わり、思ってもなかった話が降ってわいてきた。
でもまずは、このバイトをしっかりと終わらせよう。たまきは、壁にローラーをあてがった。
つづく
次回 第42話「ジャングルのちライオン、ところにより鳥」(仮)
ミチに連れられてレコード屋の店長に会いに行くたまき。「鳥のラクガキ探し」もいよいよ佳境か? つづきはこちら!