久々に、本棚から池田晶子の「14才からの哲学」を引っ張り出して読んでいました。前に読んだ本でも、すっかり内容を忘れているもんです。
哲学という難解な学問を、エッセイのようなわかりやすい形式や言葉で一般の人たちに伝えた池田晶子は僕にとってあこがれの一人。学問をわかりやすく、おもしろく、奥深く。これこそ僕の目指すことだからです。だから、「14才からの哲学」は僕の愛読書の一つです。
愛読書っていう割には、内容をすっかり忘れてるんだけど。
さて、久々に「14才からの哲学」を読んでいて、ふと思ったことが。
池田晶子の言ってることって、岡本太郎の言ってることと、同じなんじゃないのか?
池田晶子は哲学と思考。岡本太郎は芸術と爆発。理論に基づいて思考する池田晶子と、読者にド直球を投げてくる岡本太郎。一見すると全然違う。
でもそれって、アプローチや立場の違いであって、見ているものは実は同じなんじゃないか。
岡本太郎の著書、例えば「自分の中に毒を持て」とかを読むと、よく「君も人間として生きてみないか!」ということが書いてあります。そりゃ人間として生きてるよ、ネコやウサギにはなれないよ、って思うけど、そうじゃない。
岡本太郎いわく、芸術なんて大したことない。なぜなら芸術とは人間として純粋に生きることそのものであり、人間であるならだれでもできる、だそうです。
岡本太郎が言ってるは、時代がどうとか、流行がどうとか、人の評価がどうとか、そういったことにとらわれず、ただ人間として純粋な生き方を貫け、ということなんです。人間としての生き方を貫くことが、あの有名な『芸術は爆発だ!』なんですよ。
一方で、池田晶子を読んでいるとよく「君は本当のことを知りたくないか」という言葉がよく出てきます。
なんか陰謀論のネット動画みたいなフレーズだけど、この「本当のこと」というのは哲学で言う真理みたいなこと。
あらゆるものを疑って、否定して、そうやって何もかも疑って否定しても、疑って否定している自分の存在だけは疑いようがない、われ思う、ゆえにわれあり、みたいな、思考と理論の先に行きついた真理。
たとえば社会とか、例えば国家とか、例えば現実とか、たとえば運命とか、全ては人の心、観念が生み出すもの。その人があると思いこめばあるけれど、ないと思えばない。ただ「ある」と思っている自分がいるだけ。そんな思い込みに惑わされず、思考と理論の先にある絶対に正しいこと、真理を知りたくはないか。それが哲学なんだ、と。
なんか似てるなぁ、と思うんですよ。「人間としての生き方を貫く」と「哲学の真理を知る」は同じものなんじゃないかと。
おなじものに思えるんだけど、そこに至る道筋が、この二人、全然ちがう。池田晶子は「考えること」を何よりも重視して、考えて、考えて、思考と理論を積み重ねた先に真理があるって考えました。
一方の岡本太郎は、「世界のすべてを見抜きたい」って言葉を残してるように、「見抜くこと」に重点を置くんです。
岡本太郎のすごいところは、この人、メチャクチャ頭いいんですよ。すごいもの知りだし、「考えること」もめっちゃ得意なはずなんです。
そういう頭のいい人ほど、何か未知のものを見た時に余計な分析をしたり、余計なうんちくを語ったりしがちなんだけど、岡本太郎はそういうことをしない。知識も理屈も挟まずに、ただ純粋に「見る」。見抜く。
哲学の観点から真理を考える池田晶子と、芸術の観点から根源を見抜く岡本太郎。この違いは面白いなぁ。
この二人、生前の接点はなさそうなんですよねぇ。対談とかあったらよかったのに。生きた時代が半世紀ちがうしなぁ。残念だなぁ。