刺激とエンタメの自家発電

ちょっと前に「情報と娯楽が多すぎる」って書いたんです。

で、少し前に「現代人の人生は、人生ゲームみたいだ」って書いたんです。

この二つはですね、僕の中では実はリンクしてる話なんですよ。

現代人の人生は、なんだか人生ゲームみたい。決まったようなコースの上を歩いているから、先のことも何となく見通せちゃう。止まったマス目を攻略して、マス目をどんどん進んで行って、お金を稼いで、いろいろ手に入れて……、最終的には「人生」そのものを攻略していく。「幸せ」ってやつももしかしたら、ゲームを攻略した報酬みたいなものかもしれません。

社会人に求められるスキルってやつは僕にはゲームを攻略するスキルに見えるし、ビジネス書や自己啓発本はなんだか攻略本みたい。栄養ドリンクとかもなんだかゲームに役立つアイテムみたいです。

そう、人生はまるでゲームみたい。

だけど、人生と人生ゲームには一つ、決定的な違いがあるんです。

人生って、ゲームっぽいわりに、つまんないんですよ。

だから、街中にも、ネットにも、情報と娯楽があふれてるんです。

だって、人生がつまんないんだもん。

テレビを見てもネットを見ても、誰それがホームランを打ったとか、誰それが熱愛発覚だとか、誰それが不適切で炎上したとか、言ってしまえばどうでもいい情報ばっかり。情報化社会なのに、もっとましな情報ないの?

役には立たないんだけど、刺激的。そんな情報ばっかりです。

そして、みんな刺激に飢えるかのように、情報に貪りつく。

娯楽も多すぎです。宮崎駿が40年も前にすでに「アニメが多すぎる」なんて言っていたのに、今やそのころのアニメの数の比じゃないですよ。

おまけにサブスクに加入すれば、ドラマもアニメも見放題。

ゲームも数多く作られ、ゲーム実況動画をはじめ、星の数ほどの動画がネットを埋め尽くす。

本屋さんにあるマンガだって読み切れないのに、ネットにもさらにマンガがいっぱい。

いくらなんでも、情報と娯楽が多すぎる。どうしてこんなに多いのか。

人生がつまんないからです。

「人生ゲーム」を攻略すればお金とか資産とかモノとかは手に入るんだけど、ゲームにおいて最も重要な「刺激」と「エンタメ」が決定的に欠けてるからなんです。

マジでクソゲーです。クソゲー・オブザ・ライフです。

自分の人生ゲームの中で刺激が得られないから、他人の記録とか、他人の熱愛とか、他人の炎上とかに刺激を求めて群がるんです。

自分の人生ゲームの中で「エンタメ」を感じられないから、他人が作ったゲームとか、他人が作ったアニメとか、他人が作った動画とかにエンタメを求めて群がるんです。

挙句の果てには、政治とか、事件とか、戦争すらも、エンタメとして消費されていく。

刺激とエンタメのクスリ漬け阿片窟です。

でも、「人生を楽しむ」って、そうじゃねぇだろ。いつだって、主語は「自分」であるべきだろうがよ。

そう思うようになったのは、つい最近です。

なので、とりあえず、「与えられる刺激」と「与えられるエンタメ」をなるべく生活から排除してみることにしたんです。

とりあえず、アニメは次のクールから「新作は5本以内」に絞ろうと思います。

スマホを触る時間、特にSNSを見る時間も、意識的にセーブするようにしました。

ニュースも、テレビであれネットであれ、見る時間を絞ってます。

この前、親からネットフリックスで面白いドラマやってると勧められましたけど、中指たてて断りました。

とはいえ、別に僕は禁欲して悟りを開きたいわけじゃないんです。むしろ、逆です。

「与えられた刺激」や「与えられたエンタメ」じゃあ、満足できないんです。

刺激もエンタメも、自家発電したいんです。

カップ麺や外食で済ませるより、自分で料理した方が、手間はかかるし味もそこそこだけど、楽しい。

アマゾンでネットショッピングするより、自分で買いに行った方が、楽しい。

AIに質問するより、自分で調べたり考えたりした方が、時間はかかるけれど、楽しい。

不便すぎるのも困るけど、便利さは時に日常から「刺激」と「エンタメ」を奪っていきます。

主語が「僕が」「私が」になれば、ちょっとめんどいけれど、きっと楽しい。刺激とエンタメの自家発電です。

5年前、「ZINE」という媒体の存在を知った時に、「ああ、これは一生遊べるやつだ」と直感しました。まだ飽きずに続けてるってことは、きっと、うまく自家発電ができているのでしょう。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。