ちょっとエンタメが多すぎるんじゃないでしょうか。
いまや、ドラマはテレビだけでなく、サブスクでもたくさんやってます。
アニメも1日に何本も放送されます。昔では考えられなかったことです。
本屋さんに行けば到底読み切れない量の漫画があるうえ、ネットで漫画が読めるサイトもあります。
音楽だって、いまやサブスクで聞き放題。you tubeには次から次へといろんな動画がアップされています。
……ちょっと多すぎるんじゃないでしょうか。
何がおかしいって、これだけエンタメがあるのに、「ああ、満足した」という声をちっとも聞かないんです。「あのドラマをサブスクで一気見してさぁ」というから、そうか満足しただろうと思いきや、「それが終わったから今度はあのアニメを一気見するんだ」と満足することなく次へ行く。
そして、思うのです。こんなにエンタメが、刺激がたくさんある時代なのにもかかわらず、現代人は実は退屈してるんじゃないだろうか。退屈してるから次から次へと刺激を求める。でも、その退屈ってやつはもっと人生の根源的なもので、つかの間のエンタメなんかじゃ満たせないんだけど、ほかに満たし方がわからないから、エンタメを貪る。
そうしてエンタメを貪っては、感想をSNSに投稿する。現代はSNSの時代です。世界中の人と繋がることができる。
だけど、ドラマやアニメの感想や考察をいちいちSNSに上げることに何の意味があるのか。一本まとめての感想ならまだしも、1シーンごとに実況を投稿する人もいる。そんなの突き詰めれば、ただの自己主張じゃないですか。「ドラマを見た」「アニメを見た」という話じゃなくて、「僕を見て!」「私を見て!」、突き詰めればそんなことしか書いていない。だから嫌いなんだよ、考察系ドラマ。「こんな複雑なドラマを作れる俺たちすごい!」という自己主張に始まり、「こんな複雑な謎を考察できる私をほめて!」という自己主張で終わる。
そして、やっぱり思うのです。こんなに世界中の人と繋がれる時代なのにもかかわらず、現代人は孤独なんじゃないだろうか。孤独だからSNSで自己主張を繰り返す。その孤独ってやつはもっと人生の根源的なもので、ネットのつながりなんかじゃ満たせないんだけど、ほかに満たし方がわからないから、ツイートを垂れ流す。
現代人は退屈に飢え、孤独に渇いている。
そう、こんなにも豊かな時代なのに、現代人は飢えて、渇いている。「何をしても人生が満たされない」という、根源的な飢えと渇き。
「君たちはどう生きるか」なんてどっかの映画の題名みたいな「根源的な問い」に足して答えが見つからず、なーんとなく「人生とは、社会とは、こんなもんさ」と日々を生きて、とりあえず生活している。
要は、その人の人生から「自分」という主語が欠落してしまってる。そんな風に見えてしまうのです。
自分の人生なのに「俺が」「私が」という主語が欠落してるから飢えと渇きが治まらない。そしてその不満足を「誰か」が満たしてくれないかと期待する。
だから、誰かの言葉に熱狂し、誰かの刺激で退屈を紛らわし、誰かからのいいねで孤独を紛らわす。
だけど、人生の主語に「俺が」「私が」を取り戻さない限り、決して満たされることはない。
あの有名な歌の「何のために生まれて、何をして生きるのか、答えられないなんてそーんなのはーいーやだ!」、あの問いかけに「僕は」「私は」という主語で答えられない。
だから「そーんなのはーいーやだ!」って飢えと渇きがずっと続いてるわけですね。
僕が民俗学のZINEを作るのも、きっと僕の人生の主語を「僕が」にしたい、ただそれだけなのかもしれません。