「わたしはふたりにこっちがわにきてほしかった!」
「東京大収穫祭」で号泣したたまきに優しく微笑む舞。翌朝、たまきはとある場所でミチと海乃に出会う。一方、喫茶店を訪れた志保にも思わぬ再会が……!
「あしなれ」第14話、スタート!
「かんぱ~い!」
グラスの触れ合う音が部屋に小さく響いた。
テーブルの上にはお菓子とアイス、フルーツが並んでいる。アイスとフルーツはクレープの売れ残りだ。
クレープは完売とはいかなかった。しかし、8割がたを売り上げ、今テーブルの上にのこっているのはわずかなアイスとフルーツだ。
場所は教会のすぐ近くにあるマンションの一室。志保が通う施設は、マンションの二部屋を借りて男女別のシェアハウスにしている。
「おつかれ」
トクラがグラスを志保の前に差し出し、志保はサイダーの入ったグラスでトクラとこつんとやる。口をつけると炭酸の泡が血管中にしみ込んでいくのがわかる。
お菓子をつまみながらワイワイとやりながら携帯電話に目を向けると、着信があったことに気付いた。
電話は主治医の京野舞からだった。
志保は席を立つと廊下に向かった。十月の初めのマンションの廊下は、室内とはいえ足元が少し寒い。フローリングならばなおさらだ。
リダイヤルを押すと電話を耳に当てる。すぐに舞が出た。
「お、打ち上げ中か? 悪いな。メールしようかと思ったんだけどさ、お前の番号だけでメアド知らなくてさ」
「どうしたんですか?」
志保は少し不安げに尋ねた。
「お前、今夜帰ってこないんだろ?」
「はい。出店の打ち上げです」
「今夜、たまき、うちで預かるから」
「あ、そうなんですか。よかった。亜美ちゃんも帰ってこないみたいだし、たまきちゃん、一人になっちゃうけど大丈夫かなって心配してたんです」
「ふうん」
舞の返事はどこか冷たく感じられた。
「で、あのキャバクラ、名前なんだっけ、『シロ』? あそこのカギ、いま、たまきが持ってるって」
「あ、はい、知ってます」
「つーわけだから、明日お前が帰ってきて、鍵開いてなかったら、あたしんとこに電話してくれ」
「はい」
志保の返事の後、舞はしばらく沈黙していたが、
「ま、打ち上げ、楽しみなよ」
と言って電話を切った。
チン!という音がして、舞はトースターの扉を開けた。鳥かごの檻のような台の上に置かれた二つの食パンには程よく焼き目が付き、チーズが掛布団のようにとろけている。
舞はそれを「あちち」と言いながらそれぞれお皿に載せると、黄色いスープの素が入った二つのマグカップにそれぞれお湯を注ぎ始めた。
「こっちでよかったのか? あたしがお前んとこ泊まりに行ってもよかったんだぞ」
舞はたまきにマグカップを渡しながらそう言ったが、たまきは静かに首を横に振った。
「……先生、お仕事とかありますよね。……そこまで迷惑かけられないです」
「……スープの素、下の方にたまってるからかき混ぜて飲めよ」
そういうと舞はピザトーストにかみついた。チーズがむにーと伸びる。
たまきは小さく「いただきます」というと、ピザトーストにかぷりと口をつけた。スープも飲もうとするが、ふうふうと息を吹きかけ続けるだけで、なかなか飲もうとしない。
本人は気づいてはいないが、舞から見ると泣きはらした目は真っ赤っかだった。
「少しは落ち着いたか?」
舞が優しく問いかけると、たまきはスープに息を吹きかけるのをやめ、こっくりとうなづいた。
「……ご迷惑かけました。ごめんなさい」
「……何で謝んだよ」
舞はビールの缶のプルタブに手をかけながら尋ねた。
「……結局、私のわがままなんです」
たまきはまだ熱いマグカップを手に、しょんぼりしたようにつぶやく。
「ふむ……伸びるな」
舞の口かっらびろ~んとチーズが伸びる。たまきも同じようにピザトーストを口にした。下味にガーリックペーストがまぶしてあって、香ばしい。たまきのチーズもびろんと伸びたが、舞のようにはうまくいかず、すぐ、ちぎれてしまった。
「……私のは、あんまり伸びないみたいです」
「いや、お前は伸びるぞ。あたしなんかよりずっと伸びる。強くなる」
舞は笑いながらそう言った。たまきは意味が分からず、舞の目を見つめる。
「何かあった時『自分のせいだ』って思える奴は、伸びるぞ。成長できる」
舞はそういうと缶をテーブルの上に置いた。
「ま、お前は自分のせいにしすぎだけどな。そこまで自分を責めると、かえってストレスだ。六割は自分のせい。四割は人のせい。それっくらいがちょうどいいんだ」
たまきはまっすぐ舞の目を見ていた。
「でも、やっぱり私はわがままです……」
「なんでそう思うかね?」
「自分が一人ぼっちだからって、亜美さんや志保さんにこっち側に来てほしいだなんて……」
「誰だってそんなもんさ」
そういうと、舞はスープに口をつけた。
「人間は誰しも、さみしさを抱えてるもんさ。それはな、絶対にぬぐえないんだ。ぬぐおうとか紛らわそうとかするんじゃない。『自分は孤独だ』って受け入れて生きていくしかないんだ」
舞は再びビールの缶に口をつけた。
「……孤独を、受け入れる」
「そうだ。人は誰でもいつか死ぬ。それと同じくらい、人は誰でもいつか孤独を感じる。お前みたいに『私は一人ぼっちだ』って泣いている奴ほど、いざ本当に一人になった時に強いのかもしれんぞ。亜美とか志保とかミチとか、みんなでワイワイやってごまかしてる奴よりもずっとな」
「……みんな、さみしいのをごまかしているだけなんですか? 亜美さんも志保さんも、ミチ君も?」
舞の言っていることが今一つ信じられない。誰とでも友達になれる亜美や志保、カノジョが作れるミチが、たまきみたいに『一人ぼっちはさみしい』なんて言って泣いている姿が想像できない
「お前はさ、あたしが結婚してたから自分とは違うんだ、みたいなこと言ってたけどさ、あたしだってさみしさを感じる時ぐらいあるぜ。いまは男いなくてフリーだしさ。仕事も取材とかもあるけど、一人でここで文章書いているときは、ああ、さみしいなって感じるよ。医者つづけてたら、体力的にはしんどいけど、同僚とか上司とか先輩とか患者とかいたんだろうになって考えると余計に」
舞はそういうと、少し身を乗り出した。
「それではここで問題です。あたしが三十何年の生涯の中で、一番さみしかったのはいつでしょうか?」
舞はにっと白い歯を見せた。
「……そんなの、わかんないです。だって、私は舞先生のその、三十何年のうちの何か月かしか知らないし……」
「まあまあ、あたしについて、知ってる情報の中にもう答えはあるはずだから」
たまきは少し下を向いて考えた。
「……離婚したとき?」
たまきは我ながら失礼な回答だと思った。だが、そもそもクイズにしてきたのはむこうだ。
「おしい。それは第二位だな。離婚届出して、じゃあね元気でねって元旦那と別れて、一人になった駅のホーム。たしかにさみしかった。でも、それは第二位だな」
たまきは舞の言っていることに共感できなかった。別れ以前に出会いを経験していない。
「じゃあ、わかりません」
「正解は、結婚パーティの夜でした」
「え?」
たまきのメガネの奥の瞳が大きく見開かれた。
「あたし、結婚式はやってないんだよ。その代り、結婚パーティってのはやったの。本当に親しい友達だけ集めて、ちょっとしたパーティ会場、と言ってもそこまでデカいところじゃないけどさ、そこを貸し切ってパーティを開いたんだよ。パーティって言っても二十五人ぐらいの規模だけど。みんなに祝福されて、人生で一番幸せだったね」
全然さみしくなんかないじゃないか。たまきは少しむくれた。
「でさ、パーティが終わり、家に帰るじゃんか。でさ、旦那は同業者だったんだけどさ、その日は当直だったんよ。他の日にしたかったんだけどさ、二人の共通の知り合いっていうと医療業界のやつばっかでみんな忙しくてその日しかなくてさ。だから、あたしがシャンパンとか飲んでるよこで旦那はジンジャエールで我慢して、夜勤に行ったのよ」
いつになったらさみしくなるんだろう、とたまきはむくれたままじっと話を聞く。
「で、旦那が出かけて一人ぼっちの部屋の中でふと『さみしいなぁ』ってさ、思っちまったわけよ。信じられるか? 結婚パーティの日だぞ? 先まで旦那がいて、友達がいて、祝福されて、それで一人になった途端に『さみしい』て感じちまったらさ、それってもう、何やっても埋められないさみしさ、ってことじゃねえか」
たまきは、以前にあった強盗のおじさんを思い出していた。誰しも「絶対に埋められないさみしさ」というやつを抱えていたとしたら、あの時のおじさんの「さみしいなぁ」もそういうことなのかもしれない。
「それでさあ、そのタイミングでまさかの、モトカレから電話かかってきたんよ」
「……前に付き合ってた人からですか?」
「そう。『結婚したって聞いて、おめでとう』って。どうしても言いたかったんだと。『ごめんね。もうかけてこないから』って」
それを聞いてたまきは困ったように笑った。
「……それは、迷惑ですね」
「……あたしは、あやうく『今から会える?』っていうところだった。結局言わなかったんだけどさ」
「え?」
驚いてたまきの背筋がピンとなった。
「だって、さみしかったんだもんよ」
「さみしかったからって、それはさすがに……」
いくらそういうのに疎いたまきでも、昔付き合っていた男女が再会して、ただ会って終わり、とはならないことぐらい想像がつく。舞がさみしかったというなら、なおさらだろう。
「だからさ、テレビで芸能人とかがよく不倫してこき下ろされてるじゃん。あたし、気持ちがわからんでもないわけよ」
舞はビールの缶をコトリとテーブルの上に置いた。
「だいたい『家族がいるのに……』っていう批判をされるわけだ。でもさぁ、家族がいるのにさみしさを覚えちゃったらさ、それはもう家族じゃ埋められんわけよ。だとしたらさ、家族以外の人で埋めるしかないじゃんか」
たまきは、舞の言っていることが何となく理解できた。理解はできたが、納得できない。
「でも、それを認めちゃったら……」
「だからさ、『さみしさを埋める』っていうのがさ、そもそもの間違いなわけよ」
たまきは、舞の顔がさっきより近くに来ているのに気付いた。こんな風に舞と一対一で話すのは初めてかもしれない。
「このさみしさからは絶対に逃げらんない。そんでもって、絶対に埋められない。もう、我慢するしかないんよ。さみしいまんま生きていくしかないんよ」
だからさ、と舞は続けた。
「お前みたいに、一人ぼっちで寂しいってちゃんとわかってる奴は、ほんとうに独りぼっちになった時に、そのさみしさに耐えられると思うんだ。恋だ友達だっつって紛らわしてるような奴は、いざ孤独を感じても、耐えられないから紛らわそうとする。その結果、不倫みたいなトラブルを起こしちまうんだよ。それに引き換えお前ときたら、友達になじめないって言って泣いてやがる」
「私は……、べつに自分から耐えてるんじゃないんです。……紛らわせてないだけです」
「結果、耐えてるんだよお前は。ちゃんとさみしさを正面から受け止め続けてるんだ」
舞はそういうとにっこりと笑った。
日はまた昇り夜が明け、、いらなかった明日がまたやってくる。たまきは、少し早めに舞の家を出た。たまきが「城(キャッスル)」の鍵を持っているのだ。二人が帰る前に戻らないと。
舞が志保に電話してくれたおかげで、もし志保が帰っても鍵が開いていなかったら舞のところに連絡が来ることになっている。そうすれば、「城」までたまきの足でも歩いて5分ちょっとだ。電話が来ればすぐに駆け付けられる。
だが、亜美からの連絡はなかった。舞がメールを送ったらしいが返事はなし。そもそもメールを見ているかどうかも疑わしい。
たまきから見て亜美はまるで自由気ままな三毛猫だ。ふらりとどこかに行って、ふらりと帰ってくる。
どこかへ行くときの決まり文句はたいてい、「シゴト」と「隣町の美容院」だ。亜美が「隣町の美容院に行ってくる」と言って、本当は何をしてるのかは考えてもわからないし、「シゴト」と言って出かけて、そこで何をしてるのかは考えたくもない。
そして亜美は突然帰ってくる。朝に帰ってくることもあるし、真夜中に帰ってくることもあるし、次の日の夕方に帰ってくることもある。
つまりは、亜美が一体いつ帰ってくるのかはたまきにも予想がつかないのだ。帰ってきたはいいが鍵の開いていない「城」の前でいらだつ亜美を想像すると……、
なんだか、めんどくさい。
たまきは「城」のある太田ビルに向かってとぼとぼと歩いていた。
舞の住むマンションと太田ビルの間にはホテル街が広がる。たまきはどことなくうつむきがちにそこを通り過ぎていく。たまきのすぐわきをトラックが轟音を立てて通り過ぎていく。うすい朝もやの向こうにはまぶしいばかりの朝日が見える。朝日を見るのは久しぶりだ。
ホテル街の一角に「CASTLE」というホテルがある。名前の読み方は「城」といっしょだが、こっちの方がよっぽどお城っぽい外観だ。
その入り口から誰かが出てきた。案の定、男女のカップルである。道路と自動ドアの間には小さな噴水があり、カップルはたまきから見て噴水の向こう側を歩いている。たまきはなるべくそっちを見ないように歩いたが、ちょうどカップルが道路に出たところでバッティングしてしまった。
たまきはカップルをちらりと見上げると、すぐに目線を足元に落として、二人が通り過ぎるのを待とうとした。しかしカップルに、特に男の方に見覚えがる気がして、たまきはもう一度カップルの方を見た。
相手も同じことを考えていたらしく、たまきの方を見つめている。
たまきは半ばあきれたように言った。
「……おはようです」
「おはよう……、ってか、たまきちゃん、こんなところで何してるの?」
カップルのうち男の方、ミチが少し驚いたように言った。左隣にはミチと同じくらいの身長の、茶髪の女性がいる。たまきにもなんとなく見覚えのある顔だ。たぶん、海乃って人だろう。ミチの左手と海乃の右手がしっかりと恋人つなぎされていた。
「あれ? もしかして、たまきちゃんも朝帰り?」
こんな人たちと同じフォルダーに入れられてしまったことをたまきは不快に思いながら
「舞先生のところにいました」
とだけ答えた。
「ミチ君こそ、こういうところ泊まっていいんですか?」
「まあまあ、細かいことは気にしないの」
ミチはそう言って笑う。すると、海乃がミチの左手を軽く引っ張った。
「みっくん、お友達?」
厳密にはたまきと海乃は初対面ではないのだが、一度だけ店に訪れた地味な客の顔など、海乃は覚えておるまい。
「そうそう、友達」
「知り合いです……!」
いつもより強めにたまきは否定した。
「へぇ、どういうお友達? 同級生?」
海乃は何か興味を引かれたらしい。
「いや、最近知り合ったんだけどさ。引きこもりのたまきちゃん」
「引きこもり?」
海乃が不思議そうに聞き返した。
たまきはむっとした。「引きこもり」だなんて紹介、あんまりじゃないか。
しかしたまきは学生じゃないし、社会人でもなければ、フリーターですらない。不本意ながら、「引きこもり」以外に自分を表す肩書が見つからない。
「へぇ~、かわいい~」
海乃はたまきを見ながらそう言うと、笑顔をこぼした。
引きこもりのなにをもって「かわいい」なのかわからない。たまきは、昔、家族で水族館に行ったときに姉がクラゲの水槽の前で「かわいい~」と言っていたのを思い出した。いまの海乃の「かわいい」に似ている気がする。きっと、海乃は「ヒキコモリ」をナマコかウミウシの仲間かなんかだと思っているのだろう。
「あれ、でも、この子ヒキコモリなの?」
海乃はたまきを指さすと、不思議そうにミチの方を見た。
「だって、外にいるよ?」
海乃は笑いながらそう言った。それを聞いてミチも
「ほんとだ。確かに、たまきちゃんって引きこもりだと言っている割には、けっこう外にるよね」
と言って笑う。
ミチが「たまきはわりと外にいる」と思っているのは、外でしか会わないからだ。たまきはそのほとんどを「城」の中で具合悪そうにゴロゴロして過ごす。たまに体調がいい時に頑張って都立公園まで行き、そこでミチと出くわすのだ。ミチはその「たまに体調がいい時に頑張っている」たまきしか知らないのだ。
「この子、いくつ?」
海乃は横にいるミチに尋ねた。
「一個下だから、今十五才だよね?」
ミチの言葉に、たまきは無言でうなづいた。
「みっくんの一個下ってことは、高校生?」
海乃はまた隣のミチに尋ねた。なぜ、本人を目の前にしてとなりに尋ねるのだろうか。
「でも、不登校だから、高校は行ってないよ」
「へぇ~」
海乃は奇異なものを見るかのようにほほ笑んだ。きっと、「フトウコウ」もフジツボの仲間ぐらいに思っているのだろう。
ふいに海乃は手を伸ばすと、たまきの黒い髪を撫でた。
「ダメだぞ、ちゃんと学校に行かなきゃ」
たまきは驚いたように、自分の頭をなでる海乃の手首を凝視し、次につながれた二人の手をじっと見ていた。
「海乃さん、俺だって学校行ってないよ?」
ミチが口をとがらせた。
「みっくんはちゃんと働いてるじゃん」
海乃はそう言って笑った。
「じゃあね、たまきちゃん」
海乃はそういうと、ミチと手をつないだまま歩き出した。さっきからずっとつなぎっぱなしである。
海乃は振り返ると、たまきに向かって手を振っていた。たまきは、その手をじっと見ていた。二人の姿が見えなくなるまで、海乃を見つめていた。
駅と歓楽街の間のにぎやかな通りを志保は歩いていた。
鍵を持っているたまきが舞の家に泊まっているということは、「城」に帰っても中に入れないかもしれない。舞に電話することも考えたが、まだ二人とも寝ているかもしれない。どこかで時間を潰そうと志保は歓楽街へと続くルートを外れて、ふらふらと散策していた。
駅前の繁華街は、「城」がある歓楽街ほど物騒でないとはいえ、やっぱり飲み屋が多く、朝から落ち着ける志保好みのカフェなんていうのはさっぱり見つからない。月曜日の朝はスーツを着た出勤途中のサラリーマンが通りを埋め尽くし、その中をカフェを探して歩くのはなんだか申し訳ないような気分にもなってくる。
駅からだいぶはなれたところを歩いていると、喫茶店を一件見つけた。カフェではなく喫茶店。スタバのような「カフェ」ではなく、昔ながらのレトロな喫茶店だ。昭和のころはきっと、こういうのが最先端のおしゃれだったのだろう。
入口には午前七時から営業中と書いてあった。時間は既に七時半。中にはサラリーマンらしき男性や、オフィスレディが座ってコーヒーを飲んだり、軽食のようなものを食べたりしている。
志保は店の中に入った。ドアは手動で、少しずつ、まるで店の空間の機嫌をうかがうかのようにドアをして、志保は足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ~」
若い男性の店員が志保を席へと案内する。
志保は席に着くと、ミルクティを注文した。カフェオレにしようかと思ったけど、これから帰ったら少し寝たいのでやめておいた。
周りはやはり出勤前のサラリーマンやOLばかりで、志保には少々居心地が悪い。
ふと、志保が視線を感じてそっちの方を見ると、先ほどのウェイターの男性が志保の方を見ていた。
どこかで見た顔だ。どこかで会っただろうか。わりと最近、会ったような……。
あ!という志保の声が店内に響いた。周りの客たちの視線が志保に集まる。志保は声を出してしまったことが恥ずかしいといいたげに顔を赤らめると、ウェイターの方に歩み寄って、声をかけた。
「あの……、この前、助けて下さった方ですよね。ほら、繁華街の前の大通りの信号で……」
志保の言葉を聞いたウェイターは
「やっぱり!」
と声を上げた。背が高く、黒い髪は軽くパーマをかけている。顔だちはこれといった特徴があるわけではないが、ウェイターの制服と相まって、さわやかそうな印象を受ける。
制服の胸ポケットには、「田代」と書かれた名札がついていた。
「やっぱり、この前の子だよね?」
「あ、あの時はありがとうございました」
志保はまだ恥ずかしさが残る中、ぺこりと頭を下げた。
二週間ほど前、幻覚や幻聴のようなものに襲われ、赤信号なのに道路に飛び出してしまった志保。すんでのところで腕を引っ張って助けてくれたのが彼だった。名前も連絡先も知らなかったのだが、また会えるとは。
「いや、元気そうでよかったよ」
田代はほっとしたようにはにかんだ。
「あの時は本当にご迷惑を……」
「いいよ、そんなに気を遣わなくて。具合悪かったんでしょ?」
「は、はい……、まあ」
あの時は確かに具合が悪かった。嘘ではない。
「この辺、よく来るの?」
「……この町にはよく来るけど、このあたりに来るのは初めてです」
これは少し嘘が入っている。「よく来る」のではなく、住んでいるのだ。ただ、家賃を払っていないのだが。
「へぇ~。学生さん? 高校生?」
「……はい」
これは嘘ではない。もう4カ月ほど学校に行っていないが、退学届けを出した覚えはない。
「今日、学校休み?」
「……はい。ぶ、文化祭の振り替え休日で……」
これは嘘である。昨日まで文化祭みたいなことをしていたのは事実だが。
志保は席に戻ると、カバンから読みかけの文庫本を取り出した。女性エッセイストの単行本の続きを読み始める。
数分たって、田代がミルクティーを運んできた。
「お待たせしました。ミルクティになります」
その言葉づかいが志保には少しおかしかった。「ミルクティになります」って、もうミルクティになっているじゃないか。
田代は、志保の読んでいた本に目を落とした。
「その人の本、面白いよね」
「え、こういうの読むんですか?」
意外である。男性がこの著者のエッセイを読んでいるイメージがない。
「まあ、女性向けなんだろうなとは思うけど、その人、視点というか、切り口が面白いから、読んでて楽しいよ」
「ですよね! 私も、そういうところが大好きなんです」
これは本当である。
「それじゃ、ごゆっくり」
田代は軽やかな足取りで離れていった。
カップの中に志保は視線を落とす。「城」を一歩外へ出ると、嘘をつかないと誰かとしゃべれない。クスリのこと、高校のこと、今住んでる場所のこと。同じ施設に通う依存症患者たちに出さえ、「城」のことは嘘をついている。いつからこんな人間になってしまったのだろう。
もっとも、志保の性格が嘘つきになってしまたのではない。隠さなければいけないことが多すぎるのだ。
志保はカップを持ち上げると、ミルクティに口をつける。
レモンは入っていないはずなのに、なんだかレモンみたいな味がした。
信じてもらえないだろうが、本当である。
太田ビルの4階にはビデオ屋が入っている。もはやビデオテープは置いておらず、全部DVDのディスクなのだが、みんな「ビデオ屋」と呼んでいる。
とはいえ、普通のテレビや映画のビデオは少ないし、子供向けのアニメなんて全くおいていない。そのほとんどがアダルトビデオで、おまけによくビデオ屋のアダルトビデオコーナーの入り口にあるのれんらしきものが見当たらず、たまきのような子供でも簡単に目に入るところにアダルトビデオが置いてある。法律にしっかり基づいたビデオ屋なのかと首をかしげたくなる。
そんなビデオ屋だから、入口には裸一歩手前の女性のポスターがたくさん貼ってある。ここを通るたびに、たまきはそのポスターを見ずにはいられない。
別にいやらしいことを考えているわけではない。ポスターの中の彼女たちの笑顔が気になって仕方ないのだ。
心からの笑顔なのか、自分の美貌に自信があるのか、それとも、巷のうわさ通り無理やりやらされているのか、そもそもそんなことを考えているのはたまきのエゴなのか。
もしかしたら、この人たちもさみしいのかな。そんなことを考えて、たまきは階段を上る。
階段を上るにつれて、水平線から昇る太陽のように金色の髪の毛が見えてくる。
想定していた中でも、割とめんどくさい状況のようだ。
階段を一段上ると、亜美の顔が見えてきた。なんだか小刻みに揺れている。
ドアの方をにらむ目はつりあがり、口はとがっている。たまきには亜美がとても苛立っているように見えた。
想定していた中でも、トップクラスにめんどくさい状況が発生しているらしい。たまきは重い足取りでゆっくりと階段を上った。
亜美が小刻みに揺れていた理由は、脚だった。脚がかくかくと上下に揺れている。苛立ちからくる貧乏ゆすり、と呼ぶにはだいぶ激しい。「メガ貧乏ゆすり」とでも呼べばいいのだろうか。ブーツがコンクリートの床に触れるたびに、タタタンタタタンとリズムよく音が響く。
亜美は、たまきが階段の残り2段のところまで来て初めてたまきに気付いた。「気配の薄さ」ならばたまきはどこのクラスに行ってもトップを取れる自信がある。
亜美は勢い良くたまきの方に振り向くと、がなった。
「お前、どこ行ってたんだよ! 今、八時だぞ、八時! こんな時間までどこほっつき歩いてたんだよ!」
「亜美さんはいつ帰ってきたんですか?」
「あ? 15分前だよ」
亜美の方こそこんな時間までどこをほっつき歩いていたのだろうか。
「メール、見なかったんですか?」
たまきは亜美と視線を合わせることなく尋ねた。
「は? お前、ケータイ持ってないんだから、お前からメールが来るわけないだろ?」
「私じゃないです。舞先生からです」
「先生?」
亜美は自分の携帯電話を開いてピコピコといじった。
「あれ、なんか来てる」
亜美は今初めて、昨日の夜十時ぐらいに舞が送ったメールを見ているらしい。
「なるほど。お前、そういうことは早く言えよ」
「……早く伝えたつもりなんですけど……」
たまきはもうここでこの件は終わらせたかった。「亜美は何をしていてメールに気付かなかったのか」は知りたくなかったからだ。ミチの朝帰りを見てしまったから余計に。
それまでぶすっとしていた亜美だったが、急に顔をほころばせると、
「ま、お前が生きててよかったよ」
と言ってたまきの頭をポンポンと軽くたたいた。さっき、海乃に触られた時よりも、なんだかとってもやさしい触り方だった。
「……心配してたんですか?」
「ま、うちもこの歓楽街にいたからさ、お前がここで自殺してたらパトカーとか救急車のサイレンが聞こえたはずだから、生きてるんだろうなぁ、とは思ったけど」
亜美はバカのくせに、そういったことには頭が回る。
「ウチはむしろ、お前もとうとうナンパされて朝帰りデビューしたのかと思ってたよ」
またこんな人たちと同じフォルダーに入れられてしまったことにたまきはがっかりした。
そこに、パタパタと足音を鳴らして、志保が戻ってきた。
「ハァ、ハァ、やっぱり、5階ってキツイ……」
志保はいつも骨のように細い手足を震わせ、息切れしながら昇ってくる。
「あ、たまきちゃん、帰ってる」
「お、志保、おかえり。お前、たまきが今までどこにいたか知ってるか?」
亜美はまた悪巧みしたかのような笑みで志保に問いかけたが、
「え? 先生のところでしょ?」
とあっさりと返した。
「なんだよ! 知らなかったの、ウチだけじゃん!」
「亜美ちゃん、エッチなことに夢中で、ケータイ見なかったんでしょ」
「いや、メール来たときはカラオケしてた。今度、三人でカラオケこうぜ!」
「カラオケ~?」
志保は左手を右肩に置いた。
「あたしはいいや。歌はあまり得意じゃないの」
「……私も、歌うのはあまり……」
「え~、そんなこと言わないでさ、っていうか、たまき、カギ! あと、ウチの財布!」
「……あ、はい」
たまきはカバンから亜美の財布を取り出すと、亜美に返した。
亜美は財布を開けて、鍵をさぐる。ちりんちりんという鈴の音が財布の中から聞こえる。
「……二人も、さみしいんですか?」
たまきの突然の問いかけに、亜美の手が止まった。
「たまきちゃん、どうしたの急に」
志保がやさしく微笑みながら聞き返す。
「……何でもないです。忘れてください」
たまきはばつの悪そうにうつむくとそういった。
亜美は、取り出した鍵をたまきに渡すと、
「ウチ、屋上でたばこ吸ってくるから、先、中入ってて」
というと、そのまま屋上へと続く階段へと向かった。
たまきと志保は鍵を開けて中に入る。たまきはふらふらとソファへと向かうと、ころりと横になった。
落ち着く。家族と暮らしていた実家よりも、落ち着く。
「城」がこんなに落ち着く場所になったのはきっと、亜美も志保もたまきには深く干渉しようとしないからだろう。特に亜美は普段ずかずかしているくせに、ほんとうに放っておいてほしい時には放っておいてくれる。
でも、昨日は放っておいてほしくなかったな。一緒にばっくれて欲しかった。
そんなことを考えながら、たまきは眠りにつく。
志保がたまきのことを放っておいてくれるのは、彼女のコミュニケーションスキルの高さによるものだ。たまきのような子はあまり接近しすぎず、少し距離を置いておいた方が相手も楽だということを知っているのだ。
亜美は、そんな風に頭を働かしてたまきのことを放っておいてくれるわけではない。
たまきに放っておいてほしい時があるように、亜美にも放っておいてほしい時があるから、なんとなく相手の放っておいてほしい時がわかってしまう。それだけの話である。
つづく
次回 第15話「場違い、ところによりハチ公」
シブヤへと買い物に来た3人。だが、たまきはどうしても自分が場違いな存在だと感じてしまう。そんなほのぼのとした(?)休日。