八つ墓村フィールドワーク ~横溝正史も知らなかった民俗誌~

八つ墓村。言わずと知れた、横溝正史の探偵小説の題名であり、その舞台である。その八つ墓村という村を民俗学的に見ていくことで、民俗学の面白さを描く一方で小説「八つ墓村」の世界観がさらに深まるのではないかという試みだ。横溝正史すら知らなかったであろう八つ墓村の真実を、民俗学によって紐解いていこう。


注意!ここから先は、小説「八つ墓村」の結末を知っていることを前提として書いていきます。ネタバレしたくない人はここで引き返してください。

八つ墓村民俗誌

八つ墓村の生業

もちろん「八つ墓村」は横溝正史のフィクションである。

その一方、「八つ墓村」という小説は、寺田辰弥という青年の原稿を横溝正史が入手して世に発表した、という設定になっている。その設定にならい、ここから先は横溝正史を作者ではなく、八つ墓村という村の報告者として扱っていく。また、寺田辰弥も主人公ではなく報告者として扱う。

八つ墓村は岡山県にあり、鳥取県との県境にある山村だ。横溝は1945年から3年間岡山県倉敷市に疎開していたので、もしかしたら八つ墓村の近辺も訪れているかもしれない。

農耕地は少なく、気候の影響で作物が育ちにくいらしい。その一方、古くからナラやカシ、クヌギといった木材を使った炭焼きを生業としてきた。横溝は

この地方の楢炭と言えば、関西地方でも有名である。

と報告している。関西では広範囲に流通しているらしい。

近年では牛を育てている。「千屋牛」と呼ばれる岡山県特有の牛を飼っていることから、八つ墓村は岡山県北西部にあるということが推察できる。横溝の報告に

近所の新見で牛市が立つ

とあることから、新見市の経済圏に属していると推察される。

横溝の報告には「博労」という言葉が多く出てくる。これは「馬喰」とも書き、「バクロウ」と読む。

宮本常一の「土佐源氏」には高知のバクロウが登場する。村から村へと移動し、質の悪い牛を口先三寸で高く売り飛ばすため、あまりいい印象は持たれていなかったらしい。

炭にしろ、牛にしろ、よその村や町と交流を持って初めて生業として成り立つ。八つ墓村は山村であるが、決して孤立した閉鎖的な村ではなかったと言える。寺田の報告では、

麻呂尾寺というのは隣村になるが村境にあって、地形から言うと、むしろ八つ墓村に縁が深く、檀家もこちらの方が多かった。

と書かれているので、近隣との交流も多かったのではないだろうか。

八つ墓村の伝承

横溝は、八つ墓村という村名の由来としてある伝承を記述している。

永禄9年(1566年)、雲州富田譲の尼子義久の家臣である若武者と、七人の近習が山を越えて落ち武者として八つ墓村に逃れてきた。

村人は八人の落ち武者を歓待し、彼らは村人になじんで半年ほど炭焼きをしながら暮らしてい。しかし、彼らの持ち込んだ3千両の財宝に目がくらみ、名主の多治見庄佐衛門を中心とした一団が落ち武者たちを襲撃し、落ち武者たちを殺してしまった。ところが、その後財宝は見つからなかった。

その後、村で不審死が相次ぎ、とうとう多治見庄佐衛門が発狂して、村人を次々と切り殺して自害した。

その時の死者の数は庄左衛門を含めて八人いたことから、これは落ち武者のたたりに違いない、落ち武者が八人のいけにえを求めているのだとおそれられ、村人は落ち武者の墓を作って丁重に供養し、八つ墓明神なる社を作って祀った。

それ以来、この村を「八つ墓村」という。

「八つ墓村」という名前の疑問

奇妙な伝承である。

寺田の報告から、落ち武者の甲冑と、大量の小判が実際に確認されている。八つ墓村に落ち武者が財宝とともに逃れてきたのは事実なのだろう。

ただ、この伝承が本当なら、この事件、つまり1567年頃までこの村には名前がなかったか、別の名前があたたけどわざわざ「八つ墓村」という忌まわしい名前に変えた、ということになる。

一般的に地名とはイメージの良いものに変わっていく。世田谷の「九品仏」という町は、なんとも古臭い町名を捨て、「自由が丘」というきれいな名前になった。

わざわざ「八つ墓村」なんて言う名前に変えるだろうか。しかも、この村にとっては忌まわしい歴史のシンボルである。

人から「デブ」と呼ばれたからと言って、いっそ名前を「デブ」に改名してしまうようなものだ。そんな人はデーブ大久保ぐらいだろう。

デブくらいならまだ笑って「俺、デブだもん」で済ませられるが、村の忌まわしき歴史を示す「八つ墓」をわざわざ村名にするだろうか。

寺田の報告によると、八つ墓村は丘を登り墓地を越え、川沿いに200~300m歩いた先にある。村のシンボルとするには、少々村から外れていないだろうか。

「八つ墓村」という村名の不自然さはこれだけではない。

横溝は「一種異様な名前」と評しているが、「墓」という字はあまり地名では使わない。

もちろん、「墓」という字を使う地名はいくつかある。

「墓」地名:その1

「墓」地名:その2

これが「墓」地名のすべてとは限らないが、これを見る限り、東北から東海地方、京都にかけて多い。一方、瀬戸内海の方ではあまり見られない。

そして、「墓」を意味する言葉は「墓」だけではない。「塚」という字もまた墓を意味している。

なぜ、「八つ塚村」ではいけなかったのだろうか。寺田も実際に見た落ち武者の墓を「八つの塚」と表現している。

結論から言うと、本当にこの村が16世紀から「八つ墓村」と名乗るようになったというのは疑わしい。落ち武者伝説の生まれる以前から「八つ墓村」と名乗っていたのではないだろうか。

「八つ墓村」ではなく「ヤツハカ」

村名を考えるとき、漢字に囚われてはいけない。

まず、「ヤツハカ」という地名が先にあり、「八つ墓」という漢字を後から当てはめたと考えるべきだ。

この「ヤツハカ」という地名ができたのはいつか。

伝承によれば、落ち武者は村人に歓待されたというから、落ち武者が来る前にはすでに人が住みついていて、炭焼きをしていたと考えられる。

そもそも、農作業がままならない村にわざわざ16世紀になってよそから移住して村ができたとは考えづらい。もっと前からこの地に住んでいたと考えるべきだ。

つまり、もっと前からこの地には人が住んでいた。当然、村の名前ももっと前からあったはずだ。

もともと別の名前があったのにわざわざ「八つ墓」という忌まわしき名前に変えたとは考えづらい。

すなわち、もともとこの地は「ヤツハカ」と名乗り、そう呼ばれていた。落ち武者の八つの墓ができる前から。

じゃあ「ヤツハカ」とはいったい何を指しているのだろう。

「ヤ」は「谷」かもしれないし、「屋」かもしれないし、「矢」かもしれない。もちろん、「八」かもしれない。「ツ」は「ヤ」と「ハカ」をつなぐ音であろう。

問題は「ハカ」である。

もちろん、本当に墓を意味する言葉なのかもしれない。落ち武者の墓よりももっと古い墓があったのかもしれない。

一方で、「ハカ」は「ハク」、すなわち「吐く」が転じたものとも考えられる。

「吐く」という言葉が使われる地名は意外と多い。川の合流地に当たり、水害で濁流があふれ出た場所などにつけられることがある。

こういう地名を「災害地名」という。過去にこういう災害があったから気をつけろと、地名を通して警鐘を鳴らしているわけだ。

そして、八つ墓村には、鍾乳洞がある。

鍾乳洞の中には「鬼火の淵」という水場がある。そもそも鍾乳洞とは地下水が流れて生み出されるものなのだから、水場があるのは当然と言える。

そして、鍾乳洞の水場というのは大雨の際に氾濫して、地上へと流れ出る。近年では、岩手を代表する鍾乳洞・龍泉洞が水害で決壊し、洞窟の入り口から濁流があふれ出た。

さて、八つ墓村の鍾乳洞は村内の「バンカチ」と呼ばれる場所まで続き、そこに出口がある。

水害の時はそこからドクドクと水があふれ出たのではないだろうか。それこそ、水を「吐きだす」ように。それが、ヤツハカの「ハカ」の意味するところなのではないだろうか。

やがてそれが村はずれにある八つの塚と奇妙に符合し、「八つ墓村」という字があてられたのではなかろうか。

八つ墓村落ち武者伝説は事実なのか?

八つ墓村には確かに落ち武者がいた。それは寺田の報告から明らかである。

しかし、「多治見家がその落ち武者を殺した」という伝承は果たして事実なのだろうか。

もし、本当に落ち武者殺しがあったのだとしたら、落ち武者の霊を鎮める祭りがあってしかるべきではなかろうか。だが、寺田も横溝もそういった祭については一切言及していない。

八つ墓村の落ち武者伝説は、全国各地にある「六部殺し」の伝承によく似てる。

「こんな晩」とも呼ばれているこの伝承は、次の通りだ。

ある家の旅の六部がやってくる。家のものは六部を泊めるが、六部の持っていたお金に目がくらみ、六部を殺してしまう。

そのお金で家は裕福になった。子供も生まれたが、子供はどういうわけかいくつになっても口がきけない。

さて、ある晩に子供がむずがるので小便化と父親が子供を連れて外に出た。すると、初めて子供が口をきくのだ。

「おれが殺されたのも、ちょうどこんな晩だったな」

そう言って振り返る子供の顔は、殺された六部そっくりだった……。

これは全国各地にある伝承だ。八つ墓村の伝承と比べると、六部と落ち武者の違いこそあれ、「大金を持っていたために殺されてしまう」「のちに怪奇現象を引き起こす」という点で共通している。

八つ墓村の落ち武者伝説は、この六部殺しが変形したものではないだろうか。

なぜ、六部殺しなどという奇妙な伝承が生まれたのかというと、ねたみが根底にあるという説がある。

村の中で急に裕福になった家が出てくる。すると「あの家は何か悪いことをしてもうけたに違いない」というウワサが出てくる。やがてそれが「旅の六部を殺して……」なんて話になっていくわけだ。

寺田の報告によると、落ち武者殺しの首謀者とされる多治見家は今でも莫大な資産を保有しているらしい。落ち武者伝説はそんな多治見家への妬みから生まれたのかもしれない。普通は「六部殺し」になるところを、たまたま八つ墓村には落ち武者が逃げ延びていたから「落ち武者殺し」になったのだ。

さて、本当に落ち武者殺しはあったのか。ここで一つ、寺田が気になる報告をしている。

多治見家は代々、落ち武者の甲冑をお社に入れてご神体として祀っていたというのだ。

たたりをなす落ち武者の遺品を事件の首謀者がいつまでも取っておくだろうか。八つ墓明神に収めて供養してもらうのが普通だと思う。それをわざわざ屋敷の中で祀っていたというのならば、それは多治見家にとってたたりをなすものではなく、福をもたらすものだったのではないだろうか。

僕の推論はこうだ。八つ墓村に確かに落ち武者は来た。ただ、人数が八人だったかどうかはわからない。もっと少なかったかもしれない。

そして、落ち武者は殺されたのではない。多治見の娘と結婚し、多治見家と同化したのではないだろうか。

そして、多治見家は落ち武者のもたらした財産を使って裕福なった(寺田によると、落ち武者の財産はいくらか持ち出された可能性があるらしい)。

つまり、多治見家にとっては落ち武者は富をもたらした「マレビト」であると同時に、先祖でもある。だから、その甲冑を屋敷の中で祀っていたのではないか。

落ち武者の財産は鍾乳洞の奥に隠されていて、そこへ行くには「鬼火の淵」を渡らなければいけないのだが、八つ墓村には鬼火の淵から先には行ってはいけないという伝承が根強く残っている。

この「鬼火の淵の先に行ってはいけない」という伝承は、財宝を守るために多治見家が流したものではないだろうか。

じゃあ、寺田が確認した八つ墓明神の八つの塚はいったい誰のものなのだろうか。

寺田は墓碑銘に関しては一切言及していない。そのため、八つの塚が一体誰のものなのかはわからない。

本当に落ち武者のものかもしれないし、違う誰かかもしれない。落ち武者のものとして、殺されたのか自然死したのかはわからない。僕は自然死した後、村に富をもたらした者たちということで特別なところに祀られ、社が建てられたと考えている。

八つ墓村の歴史

すなわち、八つ墓村の歴史とは次のようなものだ。

「ヤツハカ」と呼ばれる村に永禄9年に落ち武者たちが逃れてきた。彼らは村に同化し、とくに落ち武者たちのリーダーは多治見家の娘と結婚した。

多治見家は落ち武者の財宝を使って裕福になった。そして、落ち武者に感謝の意味を込めて立派な社を作って祀ったのだ。

やがて時がたち、急速に裕福になった多治見家にも「六部殺し」のような噂が立ち始める。ただし、実際に落ち武者が村に来ていたことから、多治見家の場合は「六部殺し」ではなく「落ち武者殺し」となって、一連の伝承が生まれたのだ。

八つ墓村フィールドワークを終えて

さて、最後に言わなければならないことがある。

「八つ墓村」は横溝正史によるフィクションであり、「八つ墓村」などという村は存在しない!

ただ、民俗学という観点で「八つ墓村」を捕えていくと、世界観が深まるよ、という話だ。

横溝正史は3年間岡山県にいたから、実際に自分で見聞きした岡山の山村のようすが八つ墓村に活かされているのかもしれない。バクロウにまつわる民俗や終戦後の山村の様子なども克明に描かれていて、八つ墓村を終戦直後の民俗誌としてとらえてみてもなかなか面白い。

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。