サンカ備忘録

ここ最近、日本のいわゆる「常民」の外にいた人たちに関心があり、特に「サンカ」にまつわる本をいろいろと読んだ。しかし、ネット上にはまだまだ、虚実織り交ぜのサンカ像が書かれている。そこで、今回は自分の備忘録も兼ねて、サンカに関して「確実に言えること」を残しておこうと思う。

サンカとは何ぞや

サンカとは何か。それを今から書こうというわけだが、まずざっくりと書くとこうなる。

日本人は一つのところに住んでいる人が大多数だ。お金がなくてホームレスになる人もいれば、お金がありすぎて別荘を持つ人もいるが、基本は一つの家に住んでいる。「定住」というやつだ。

一方で、一つのところに定住せず、あちこち移動する「漂泊の民」と呼ばれる人がいる。有名なのがモンゴルの遊牧民だろう。ヨーロッパだとジプシー、アラブだとベドウィンと、漂泊の民は世界中にいる。

そして、日本にもいた。それが「サンカ」である。

「山窩」という字を当てられることもあるが、埼玉県中部のような一体どこに山があるのだろうと思われるところにも彼らはいた。

サンカの語源は諸説あるが、僕は「さかのもの」が変化して「さかんもん」、さらには「さんかもん」へと転じていったという説が一番有力かな、と思う。平地に住む者に対して「坂に住むもの」という意味だと考えれば、すごく自然だと思う。

ちなみにサンカは「ミナオシ」や「テンバ」、「ポン」とも呼ばれるらしい。

サンカと三角寛

サンカに関しての研究は小説家の三角寛の研究が一番詳しいとされてきた。割と最近までは。

しかし、彼の研究は複数の研究者から「ほぼすべてが捏造」だと批判されている。ためしに、ウィキペディアの「サンカ」のページの三角にまつわる項目を見てみると、

サンカに関する一般的な知識は、三角寛の創作によるところが大きい。

そのほとんどが三角による完全な創作と言うべきものだったことが、現在では確定している。

さらにウィキペディアの「三角寛」のページを見ても

三角による山窩(サンカ)に関する研究は、現在でも多くの研究者が資料とするところだが、実は彼の創作である部分がほとんどであり、小説家としての評価は別として、学問的価値は低い。これはその後、多くの研究者により虚偽であることが証明された。よって、三角によるサンカ資料は、三角自身による創作小説と見るのが適当である。

とまあ、「ほぼすべてが捏造」と書かれている。三角の親族ですらそれを認めるほどだ。

厄介なのが、サンカについて調べれば、必ず三角の捏造にぶち当たらざるを得ない、ということだ。

ネット上を調べても、三角の著作が捏造だということを知らないのか、それとも三角は捏造をしていないと信じているのか、三角の提唱するサンカ観を疑いなく乗っけているページがある。ネイ○ーとか。せめて「彼の研究には批判の声も多い」ぐらい書いておいてほしいものだ。

これまでのサンカのイメージ

というわけで、まずは三角の捏造が明らかになる以前のサンカのイメージについて簡単に記しておこうと思う。もしあなたが抱いているサンカのイメージがこれと合致していたら、ちょっと調べ直した方がいい。

・全国規模の組織を持ち、日本中のサンカを傘下に収める大親分が存在する。

・独自の掟を持ち、逆らったものには処刑をも辞さない

・独自の隠語があり、さらに「サンカ文字」という独自の文字を持つ

・犯罪者集団である。

これらは、現在では「三角による創作の可能性が限りなく高すぎて泣きたいレベル」と言われている。要は、捏造されたイメージだとして扱われている。

最後の「犯罪集団」というのは三角の創作ではなく、戦前の警察機構がサンカに抱いていたイメージだと言われている。

確かに、定住者の世界で犯罪を犯して追われたものがサンカに受け入れられるということはあったと思われる。

ただ、「サンカが犯罪性の高い集団」と断定することはできないだろう。僕は、サンカと定住者の数少ない接点の一つが泥棒や博打などの犯罪行為だったために、そういったイメージがついただけではないかと思う。

以下、三角の研究(捏造?)によらず、他の研究者の研究をもとに、ほぼ確実に事実だと言えるサンカの実態について書いていく。

サンカとは何者か

サンカには大きく2パターンがある。

親の代からサンカだったものと、定住の世界からサンカへと移ったもの。

そう、親がサンカではなく、一般的な定住家庭に育った者でも、サンカに参加できたのだ。

彼らはいわゆる被差別民である。サンカの研究がなかなか難しいのは、彼ら自身がサンカであること、サンカの子孫であることを隠すためである。フィールドワークを行うには、話者との信頼関係が不可欠である。

サンカの家

サンカの家は「セブリ」と呼ばれる布製のテントのようなものだったり、「ワラホウデン」と呼ばれる掘立小屋だったりする。

どうも集団で住んでいたらしい。大阪の天王寺にはサンカと思われる集団がいたと言われているし、そのほかにもサンカのテント集落は存在していた。

サンカの行動範囲

漂泊の民、というと全国を転々としていたようにイメージするかもしれない。

しかし、さすがにそこまで行動範囲は広くないようだ。

おそらく、今の行政区分で言う市町村をいくつか周回する程度だったのではないかと思われる。

というのも、彼らにはそれぞれ仕事のお得意様がいて、そのお得意様のいるところを回って生計を立てていたらしいからである。見知らぬ土地に行くことはあまりなかったのではないだろうか。

行動範囲が全国規模でない以上、全国規模の組織があったとか、全国規模の親分がいたという三角の主張はちょっと考えづらい。

サンカの生業

では、サンカはどのような仕事をしていたのだろうか。

サンカが「ミナオシ」とも呼ばれているように、その多くは蓑や竹細工、箒などを作っていた。「ミナオシ」とは「蓑直し」の意味で、新しく蓑や竹細工を作って売るほかにも、古くなった道具を修理して生計を立てていた。

この技術というのは一朝一夕にできるものではない。定住者が蓑が壊れたからと自分で修理するのは難しい。また、定住者もサンカになれるとは書いたが、ミナオシの技術は元からサンカであるものとあとからサンカになるものではかなり差があったらしい。

こういった工芸のほかには、川で漁をするサンカもいる。また、芸を覚えて見せる者もいる。

さらに、サンカを「乞食」と呼ぶ地域があったことを考えると、いわゆる乞食のようなこともしていたのだろう。

サンカのまとめ

現在、サンカについて断定できることは次の通りだ。

・村には定住せず、移動生活を行っていた。

・いわゆる技術職であるものが多い。川での漁や、芸で生計を立てる者もいる。

・被差別民であった。

現段階で僕に断定できるのはこのくらいである。僕自身もまだまだ勉強中であり、この記事は僕の備忘録の意味合いもある。もし、「これは違うよ」というのがあったら修正したいので遠慮なくいってほしい。

僕の専門は集落や野仏である。そのため、サンカについて本格的に研究するつもりは今のところないが、日本の集落の成り立ちを研究するためにはサンカの存在は考慮しなければいけないだろう。これからもサンカに関する勉強は続けていきたいと思うし、可能ならばサンカの研究に参加していきたいと思う。

参考文献

礫川全次『サンカと説教強盗 闇と漂泊の民俗史』 批評社、1992年

筒井功『サンカの真実 三角寛の虚構』文春新書、2006年

筒井功『日本のアジールを探して -漂泊民の場所-』河出書房新社、2016年

投稿者: ノック

民俗学ZINE作家。 「バズらないモノづくり」をテーマとする「ノンバズル企画」を主宰。民俗学専門ZINE「民俗学は好きですか?」を企画・執筆・製本・販売しています。「民俗学とは『生きること』を探求する学問」をテーマに、民俗学の魅力をわかりやすく、面白く、奥深く紹介していきます。

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